原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

自分が浮気した事実など死んだ後まで隠しておこう

2015年08月31日 | 恋愛・男女関係
 この世の中どうも、自分が浮気をした(している)事実を周囲に口外して自慢したい人間がうようよしている様子だ。

 原左都子の浮気(不倫)に関する私論としては、当エッセイ集 2009.6.3 バックナンバー「隠れてコソコソやる美学」等々にて既述の通りである。
 手短に語ると、浮気(不倫)をするなとは言わないが、どうしてもしたい場合は、自分を取り巻く近親者を決して不幸に陥れてはならないのが鉄則であり、隠れてコソコソやれ。 それを貫くには相当の覚悟と能力が必要、との趣旨だ。


 上記 「隠れてコソコソやる美学」 の結論部分のみを、以下に少しだけ紹介しよう。
 ここで私事を小さい声で話すが、過去の長き独身時代に既婚男性とのお付き合い経験が何度かある。 要するに“不倫”だが、“不倫”とは女性側に「愛人能力」のバックグラウンドが欠かせないであろう。 「愛人」である女性が、精神力、お金、頭脳、これらを完備していてこそ上下関係なく対等に妻子ある男性と渡り合え、たとえ一時であれ(自分自身が“実り”あったと後で振り返ってみて思える)充実した期間を共有できるように感じる。  この能力なくしては、“愛人”との名の下に単に女として“お安く”利用され、“ポイ捨て”されるだけなのではなかろうか。(そういう行動を取る既婚男性側も、もちろん“お安い”のだけどね。)  ただ「愛人能力」があったところで“不倫”とは真面目に取り組むほどに、とにもかくにも“辛く”尚且つ忍耐力を要する事象である。 心中には常に相手の妻子に対する“嫉妬心”が渦巻き、必ずやいつか訪れる“終焉”に日々怯えつつの付き合いである。
 私論は、たとえ“不倫”と言えども、一人格者として周囲に対する礼儀は貫こう、と心得るべきとの事だ。 二人の密室関係である“不倫”に周囲の人々を決して巻き込むべきではないし、ましてや相手の家族等の部外者を不幸にしてはならない、私の場合はそれを肝に銘じての付き合いだった。 それ故に愛人であることを表舞台で決して公開してはならない。 相手への熱い思いを内心に閉じ込め、張り裂けそうな“辛さ”を一人で耐え抜き、普段は何もないふりをしていつも通りの生活を貫き通す。  これが私の“不倫”における「美学」でもあった。  
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。 参考のため、このエッセイには当時の我がエッセイ集男性ファンより少なからずのバッシングが届いた。 要するに、あなたにガッカリしたし軽蔑する、そんな軽はずみな女性だとは思っていなかった、今後あなたのエッセイ集は読まない。  それに対する私の感想を言えば、そのお気持ちは分かる。 ただ反論もある。 我が美学に基づき、その辛い経験を通し人間味が増し大きく成長出来た自分が今ここに存在していると思えるからこそ、年月が流れた後にエッセイとして綴り公開したのだ。)


 さて大幅に話題を変えよう。

 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞8月29日付“悩みのるつぼ”である。
 75歳女性による 「夫が死ぬ前に過去の浮気を告白」 と題する相談を、以下に要約して紹介しよう。
 私の夫は亡くなる2ヶ月前に「20年間浮気をしていた」と言った。 私と結婚して12年程経った頃から続いていたそうだ。 仕事関係の同僚であり、その女性とは仕事に行く途中や車の中でも密会を重ねていたと言い、私は驚くばかりだ。 問い詰めたところ、主人は「あまり好きじゃなかった」と答える。 女性側からよく誘われて何となく続いたと言う。 女性との関係をやめたのは主人が病気になったからと言いつつも、本来妻である私を連れて行く場所へも彼女を連れて行ったと聞き、これが一番こたえる。 結婚後54年、主人が病床についてからも長年支えて来ている。 主人は趣味を堪能しつつ好きに生きた人だ。 その一方で、我が夫婦は娘を大学に行かせることも叶っていない。 気持ちの持って行き場に困っている。 

 ここで一旦、私論に入ろう。

 この相談者のご亭主とは死ぬ間際の2ヶ月前の時点で、もしかしたら“単に”痴呆症状に苛まれていただけではあるまいか?
 そんな病床にあって、本能的に一番信頼している相談者である奥方が自分の死に際を看取ろうと介護に励んでいる姿に感動して、何かを語りたくなったと推測出来ないであろうか?

 と言うのもつい最近の春頃、短期間ではあったが、私も我が亭主が入院して手術を受けるとの事態に直面している。 その際亭主が入院している病棟に日々通い、ベッドに寝かされている亭主に「調子はどう?」と気遣う私に対し、普段決して見せる事が無い優しい表情で私の訪問を喜んでくれたものだ。 現在の都心の大病院は「完全看護」が鉄則であり、私としては単に亭主の病棟を短時間訪問しただけなのに、その亭主の喜び様に私側も改めてフィードバックをもらったものだ。

 もしも我が推測が正しいとしても、確かに死ぬ間際に、相談者のご亭主は何も自分の過去の浮気履歴など奥方に語る必要はなかっただろうに…。
 これぞ、私が相談者のご亭主が“痴呆症状”に陥っていたと判断する所以だ。
 ただ、ご亭主がパートナーである相談者に語った内容と、我が亭主が婚姻後初めて手術入院した際、日々まめに病院通いして亭主を支える妻の私に優しく接してくれた事実が、我が脳裏に錯綜するのだ…。


 今回の“悩みのるつぼ”回答者であられる 三輪明宏氏の回答内容結論部分を以下に紹介しよう。

 相談者はご主人の事を悩むよりも、そのケースとは一般的な普通の恋愛や浮気と一緒にしてはならない。 今回の相談ケースの場合、相手との関係に悩む事や、会いたいと恋い焦がれる思いが一切ないように見受ける。 そんな事で相談者が真面目に悩んだり、苦しんだりする必要なない。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 あのねえ。 いくら老いぼれたと言っても、自分が死ぬ間際に54年間もの長きに渡り一番お世話になった配偶者相手に、「浮気をした事がある」などと決して失言しないような脳内訓練を今からしておくべきだよ。
 どうせ、女関係に疎い男どもがこの種の失言をしでかすのだろうねえ。

 そして、同じく男関係に疎い女性がこれを真に受けて、配偶者亡き後にも苦しむのだろう。

 世の高齢者男性どもよ。 ここは生前にて頭がしっかりしているうちに、自分自身の男女関係の歴史を自分なりに総括しておいては如何なのか?  
 朝日新聞“悩みのるつぼ”相談内容のごとく、自分が一番お世話になった妻に対し、決して死に際に「自分には浮気相手がいた」などとの到底許し難き失言を吐かないよう、今から心して準備しておくがよい。  

ネット上の 「振り込め詐欺“海外版”」 に要注意!

2015年08月29日 | 時事論評
 人を騙す事はあっても(いえいえ単なる冗談で、至って品行方正な原左都子です。) 騙される側になるなど一生縁がないと思っていた私が、つい最近表題の被害に遭いそうになった。 (未だにその真相は不明のままなのだが…)


 この話題は後回しにして、私自身が現在までに遭遇したネット被害に関して思い出してみよう。
 と言うより、私自身はネット被害に遭ったことは一度も無いと言えよう。 ただ、過去に於いてネット上でお付き合いがあった人物がその被害に遭い、それの“助っ人”を依頼された経験があるのだ。

 既に7年程前の話だが、当時私は「原左都子エッセイ集」を開設した初期の頃であり、某ネット上のブログコミュニティに会員登録をしていた。
 これが何と“大盛況”と表現すればよいのか、コミュニティ上に我がブログを公開するなり、「読者登録」が日々ごまんと押し寄せるではないか!  これに驚くと同時に、ネットの“面白さ”とはこれにあるんだ!と味を占めた時期だった。
 ただ、それを“面白い”とはしゃいでいられる期間とはそう長く続くものではない。 「読者登録」が増大するに比例して「迷惑アクセス」も増大するのはネットの悲しき宿命だ。


 そんな頃、事件が発生した。 当時既に我がエッセイ集への「読者登録」が500人程に達していた時の事だ。
 中でも「原左都子エッセイ集」を毎日のように熱心にご訪問下さるファンの方々が数十名いらっしゃったのだが、その中で日々まめに個人的にメッセージを頂戴するA氏から、ある日、以下の依頼があった。

 「不覚にも、同ブログコミュニティ内の登録者より“フィッシング詐欺”に遭ってしまったようだ。 自分自身でコミュニティ本部に対し、何故悪質なブロガー登録を認めているのかに関して苦情を述べたが、掛け合ってもらえない。 ここは一番信頼出来る原さんに“助っ人”になってもらえないだろうか?」
 “フィッシング詐欺”の意味すら知らない私だったが、とにかく、いつも好意的なメッセージを頂くA氏が振り込め詐欺に遭い困惑されていると聞けば、“助っ人”としての役割を果たさずに済む訳がない。
 とりあえず私からもコミュニティ本部へ、「読者登録を頂いているA氏が、コミュニティ内の悪質会員からフィッシング詐欺の被害を受けたと聞いたが、本部でも善処願えないだろうか?」云々の依頼をした。

 そして、A氏が被害に遭ったと言う悪質ブロガーとやらのページを覗いて、私は愕然とした。 
 な、な、なんと、ブロガー本人と思しき女性の裸体写真満載のブログだったのだ!  何故A氏は、この種の危険性が高いブログに読者登録をしたのか? しかも、その女性にA氏はコミュニティ場面を離れ個人的にアクセスし何らかの自らの個人情報を女性に公開したからこそ、フィッシング詐欺に遭った事など私とて重々推測可能だ。
 参考のため、A氏は私よりも年齢が上だったと記憶している。 いい年した人間が自分が種を撒いた事により被害に遭遇した事実を泣きつかれても、もはや私の知ったことではない、と判断した私は、A氏と縁を切る覚悟でその旨を本人に告げた。
 その後、A氏とは徐々に疎遠となり、おそらくA氏はブログコミュニティを脱会したものと記憶している。 


 ネット初心者の頃に上記のような経験をしている私は、ネット上にて受ける被害とは自分こそがおびき寄せているものとの理解が強靭だ。  
 それ故に、その後私はいかなるネット上のサイト(と言っても、現在私がかかわっているのは当該gooとFacebookのみだが)であれ、こちらからの一切の「友達申請」を避けて通っている。 ただ、あちらから「友達申請」(あるいは「読者登録」等)が舞い込んでくることは否めない。
 その際の対応策としても、厳重なハードルを私なりに設けている。


 それではいよいよ、冒頭にて紹介した私自身が“振り込め詐欺”に遭いそうになったのかもしれない、との出来事に関して以下に紹介しよう。
 それは、(当該gooではない) 某SNS 上での話だ。

 7月上旬頃、欧州英語圏在住の某男性(以下B氏とする)から、私宛に「友達申請」が届いた。
 私の場合、とにかくネット上の友達付合いに関して慎重の上にも慎重を重ねているため、決してすぐさまそれに応じることはない。 「何故に友達申請を頂けたのか? 如何なるルートで我がページを見つけたのか? 私に友達申請することの目的は何か?」等々を必ずや本人宛に確認した上で友達申請に応じている。
 これらの我が質問に対し、B氏は(当然ながら英語にて)ご自身の自己紹介も一緒に十分な返答をくれた。 自身の旧友のページ上でたまたま私のサイトを発見したこと、私が掲載している写真が気に入ったこと等々。
 それに加え自身の生年月日、現在の家族構成、自身が歩んで来た背景、職業、そして、B氏は2年前に愛妻を癌で亡くし現在シングルだが、英語が通じる女性と英語にてコミュニケーションをしたいとの意向も語ってくれていた。

 その後B氏とのやり取りは、某SNS上のメッセージ欄 及び Eメールにて続いた。
 7月上旬頃より数日前に至るまで、B氏より私宛に届いた長文メールの数々はファイル1冊分にも及ぶ。 (パソコン画面上で把握不能な英単語等に対応するため、B氏よりのメールを逐一紙面に印刷して私は電子辞書を引きつつ返答をした故だ。)
 1カ月半に渡りこれだけのメールのやり取りをした両者間で、当然ながら“仲良し意識”や“信頼感”が育まれていたと、私もB氏も意識していたと信じたい。

 B氏の職業とは石油分野に於ける高度の専門職であるが故に、何処かの国にて石油プラントパイプラインを建設する等大規模プロジェクトに参加する目的で世界各国を訪問することが頻繁のようだ。 
 今回も某アジアの国のパイプライン建設に伴い、現地に出向いた直後に事件が起きた。

 8月下旬のつい最近、治安が悪い某アジア国に到着したB氏が私宛にメールを寄こして曰く、「銀行のトラブルによりキャッシュカードたまったく使用出来なくなった。 早急にお金(日本円にして6万円程の少額だが)を我が銀行口座まで送金して欲しい。」
 いやはや、愕然とさせられた。
 私にも海外経験はあるが、確かに治安が悪い国に於いてこのような事態が起こりうる事は私も理解可能だ。 それにしても旅慣れた人間であれば、いくばくかの自国通貨を現金として持参しているであろうし、あるいはクレジットカードで事が済ませられる場合もある。 
 それを私はB氏に伝えつつ、「もしかしたら、貴方が私と出会いたかった理由とは最初から“振り込め詐欺”目的だったのですか? そうだとすれば残念ですが私は今後あなたと付き合う訳にはいきません。」とのメール返答をした。
 即座にB氏よりメールにて返答があった。 「本気で私が困惑している時にあなたの回答に失望した。借りたお金は銀行トラブルが解消次第返すと書いたはずだ。 もうあなたを頼ることはない。 1か月半に及びメールにて楽しい時間を共有できたことには感謝したい。ありがとう。」
 そして即刻B氏は、某SNS上の私への「友達申請」を削除したようだ。 それに一応安堵している私であるが…。

 実際問題、当該事件が「詐欺」だったのか否かの判断が私には出来ずにいる。
 日本国内で多発する“振り込め詐欺”の現状を慮った場合、今回の私の判断は誤っていないと結論付けているものの…。
 ただ、B氏に対して背信行為をしたのかとの心の痛みも無きにしも非ずだ。 それ程に1か月半に及び日々B氏と交わしたメールやり取りの重みは私にも忘れ難きものがあり、後ろ髪をひかれる思いなのだ…。

 ここは、“Summer English reading and writing lectures" をB氏より無料にて賜ったものと心得るべきなのか。   

親が投資する教育費は子の頑張り力に比例して変動する

2015年08月27日 | お金
 (8月最終週より既に2学期新学期を迎えている小中高校も多いようだが)、長い夏休みが明け9月1日に学校の新学期が始まる時候と並行して、我がエッセイ集でもここのところ学校関連のエッセイが続いている。

 本日のエッセイもその例外ではない。 今回は「おカネ」の観点より我が子の教育を展望しようとする趣旨である。


 私事だが、現在大学4年生の娘の最後の学費を7月に収めたばかりだ。
 
 それに先立ち娘と大学院進学に関して話し合ったところ、きっぱりと「進学の意思はない」との回答が返って来ていた。 もしも娘が大学院進学の意思表明をした場合、当然ながらその学費負担を親の責任に於いて成し遂げる覚悟は出来ていた。
 ただし、それには当然ながら条件を付けた。 (参考だが我が家の場合、亭主が博士課程、私が修士課程と両親共々大学院修了者である)  以下にその条件を列挙しよう。
 ○ 進学に際し明瞭な目標を持つこと。
 ○ 学位論文作成に全力を注ぐこと。
 ○ 大学院にて学問に取り組んだ事実を、一生自分で誇りに思える程の達成感を培うべく学業に専念すること。
 これらを成就する自信がないのならば大学院へ進学する学費を親として負担するには懸念がある、と娘に伝えておいた結果が、上記の娘よりの回答である。
 「大学院進学意思無し」との娘からの回答により、心底本音で「これで我が子の学費負担がすべて終了した」と、どれだけの開放感を得た事であろう。


 話題を変えよう。
 原左都子の持論の一つに、「子どもの学費は親の責任に於いて負担するべき!」との燦然たるポリシーがある。 (「原左都子エッセイ集」2012.4 バックナンバーにて同表題のエッセイを公開しておりますので、よろしければご参照下さい。)

 教育費とは、親から子に捧げる必要不可欠かつ最大にして最高の「投資」である事には間違いないであろう。 一家庭内の家計の中で一番高額となるのも、おそらく「子供の教育費」であろうと私自身の親としての経験から推測する。
 
 我が身に照らすと、私は親からその「教育費」を“ケチる”との冷遇を受けて育ったとも言える。 まあ、時代背景的要因や地方過疎地に生まれ育った事情も、それに拍車をかけたと考察するべきであろうが…。 
 それにしても、今思い出すだけでも我が親が私に施した教育面における“金銭面での冷遇”とは許し難きものがあるのだ。
 学力優秀、何をやらせても秀でている私に対し、我が親どもはその「教育費」は最低限しか出さないとの手段により、我が可能性を潰し続けた。 (こちらとしては、常にその実績を親に伝える事により親を喜ばせ続けてやったにもかかわらず… ) 
 それにとことん嫌気がさして、私は親を捨て上京し就職するに至っている。 (参考だが、二度目の大学及び大学院へは上京後に自分の力一本で入学し卒業・修了した。)

 
 ここで、朝日新聞8月22日付“悩みのるつぼ”18歳浪人生による「お金のことは甘えさせて」なる相談内容を、以下に要約して引用しよう。
 18歳の浪人生だが、親との関係で悩んでいる。 今春、挑んで失敗した大学が諦めきれず浪人を決意。 悩みの種はとにかく親に負担がかかるということだ。 予備校に講習等を申し込むと大金がかかる。 その後の大学の授業料も決して安くはない。 親に学費を頼んで「結構するなあ」と言われながら受けるのは辛いものがある。 とはいえ、我が家は経済的に大きな問題を抱えている訳でなく、親も今後の事を承知の上で浪人させてくれたはずだ。 無責任な発想だが「親ならカネくらい渋らずに子供に出せよ」が本音だ。  自分の意思をくんで浪人させてくれた親には感謝する。 が、理想としては、親とは多少無理してでも真剣に勉強している私に対し「お金のことは任せて」と言ってくれ、私側は常に感謝と気遣いを胸に努力を続ける- との状況だ。 これを期待する私が甘いのか…。


 私論に入ろう。

 いやはや、頭は良さそうな男子と心得るが、何ともまあ親の経済力に“だけ”依存した軟弱な人生を18年間送り、今後もそれを引きずろうとの魂胆に陥ってしまったものだ。 これ程に親に対する批判力がある子供にして、一体全体如何なる中学・高校時代を過ごしたのだろう。 自分で自分の人生を楽しむとの経験を少しは多感な時期にして来なかったのだろうか? 
 貴方が如何なるレベルの大学を目指して浪人生活に入ったのかは私には図り知れないが、少なくとも貴方の親が「浪人生活」を自宅にて認めてくれただけでも本気で感謝するべきだよ。
 言っとくが、真に学力に余裕がある人間とは、アルバイトをしながらにも目指す大学への入学など幾らでも可能だよ。  何故、貴方はそれを試みないで親の経済力のみに期待し続けているのかなあ。

 貴方は、実際問題考えが甘過ぎる!
 ここは少し浪人生活の合間にアルバイトでもしようと志そうよ。 それを大学進学後も続行すると尚良いだろう。
  
 貴方はおそらく我が娘のように生まれ持っての「事情」を抱えていないと推測する。
 我が娘が先天的に“軽度”の障害を持ってこの世に誕生して以降、我がサリバン指導に従い本人がどれ程の困難を乗り越えて現在大学4年生にまで成長していると思うのか。  それは傍で二人三脚にてその成長を見て来たサリバンの立場としても、想像を絶する本人自身の努力の繰り返しである故に、現在通常の大学にて卒業可能にまで辿り着けたものと把握している。
 だからこそ、私は我が娘に惜しげもなく学費を投資し続けたのだ!

 その壮絶な我が子の歩みを振り返ると、“悩みのるつぼ”相談者の場合、今後は親の教育費等々の金銭支援を打ち切ってでも自力でこの世を飛び立った方が、よほど貴方の未来が保障されていることを伝えたい。

"The Sleeping Beauty" in late summer 2015

2015年08月24日 | 芸術
 (写真は、都内目黒区柿の木坂地区に位置する めぐろパーシモンホール。)


 東急東横線都立大学駅を降車して柿の木坂通り沿いに7分程歩くと、その地区の丘に都立大学跡地がある。 現在は“めぐろ区民キャンパス”として区民の憩いの場の機能を果たしている場所だ。
 その一角の正面に光るガラス張りが特徴の建物が、めぐろパーシモンホールである。 都内のホールとしては珍しく豊かな光と緑を抱く中規模ホールである。

 我が自宅からは、東京メトロ副都心線から東横線直通にて1時間足らずの所要時間で到着可能な場所に当該ホールは位置している。 
 我が子が幼少の頃よりクラシックバレエを習っていた事と並行して、バレエ観賞が趣味の一つである娘と私は都内様々なホールを訪れているが、このホールを訪れるは今回が初めての事だった。

 近年は、熊川哲也氏や吉田都氏、はたまた国内最長の歴史を誇る大規模バレエ団体「松山バレエ団」にて今尚現役プリンシパルとしてご活躍中の巨匠 森下洋子氏等々を筆頭に、クラシックバレエは我が国でも更なる発展を遂げ続けている。
 加えて現在は、若い世代のクラシックバレエ界に於ける活躍の程が凄まじいばかりだ。 毎年毎年、著名な国際バレエコンクールに入賞し将来を嘱望される10代のバレエダンサーが数多く育っている。
 そのような国内クラシックバレエを取り巻く環境の成長・発展と共に、それを観賞する側のファンにとっても、幾多と開催されるバレエ公演の中からいつ、何を選択して予約するのかに関して“より取り見取り”の恵まれた時代と移り変わっている感がある。


 さて学校の夏休みも終わりに近づく晩夏の昨日、私は娘を誘って上記 めぐろパーシモンホールへ「眠れる森の美女」(英語題名“The Sleeping Beauty")を観賞しに出かけた。
 夏休み中の子供達を観客のターゲットとした今回の東京バレエ団主催「眠りの森の美女」は、さすがに観客のほとんどがプチバレリーナと思しき小さな子どもを伴った家族連れである。
 我が子に話を移すと、娘は中2にしてそれまで9年間励んで来た(親側としては少なからずの資金投資をして来た)クラシックバレエレッスンを辞めるに至っている。 おそらく今回会場に来ているプチバレリーナ達も、我が娘と同じような足取りを辿るのだろう。

 などと他人事のように感慨深く思いつつも、それでも国内に於けるバレエ人口が激増している事実を実感だ。
 何故ならば(失礼ながら)、こんなマイナー地区に於けるマイナーなバレエ公演でも会場が満杯の盛況ぶりだ。 しかも、プチバレリーナ達の観賞マナーが良いこと! 一昔ならば、必ずや公演途中で泣き叫ぶ子供達が多発したものだ。 
 それは主催者側の努力によることも歴然である。 今回の公演の場合、出演バレエダンサーの一人が「ストーリーテラー」の役割を果たし、最初から最後まで適時に舞台に登場して、物語のあらすじを子供にも分かり易いように語ったのだ。 (おそらくこのような演出を嫌う“真正バレエファン”は、もちろんの事この種の公演を避けるのであろう。 参考のため私はOKだ。 何故ならば私も今回の観客達同様に娘幼少の頃より娘と一緒にクラシックバレエ公演に親しんでいる故だ。)


 ここで大幅に話題を変えよう。
 
 私は昨日午前中に、午後から訪れる「眠れる森の美女」バレエ公演を最大限楽しむに当たり、そのストーリーをネット情報により再確認しておこうと志した。 
 そうしたところ、ウィキペディアにて興味深い情報を発見した。 その情報によれば、「The Sleeping Beauty」には大まかに三通りのあらすじが存在するとの事だ。  以下にその3つを要約して紹介しよう。

 その1。 日本語圏では一番ポピュラーな「グリム版」に基づいたストーリー。
 あるところに子どもを欲しがっている国王夫妻がいた。ようやく女の子を授かり、祝宴に一人を除き国中の12人の魔法使いが呼ばれた(13は不吉な数字であったためと見られる、またメインディッシュのため賓客に供する金の皿が12枚しかなかったためとも)。魔法使いは一人ずつ、魔法を用いた贈り物をする。宴の途中に、一人だけ呼ばれなかった13人目の魔法使いが現れ、11人目の魔法使いが贈り物をした直後に“王女は錘が刺さって死ぬ”という呪いをかける。まだ魔法をかけていなかった12人目の魔法使いが、これを修正し「王女は錘が刺さり百年間眠りにつく」という呪いに変える。呪いを取り消さなかったのは修正以外不可能だったためである。 (中略)  100年後。 近くの国の王子が噂を聞きつけ城を訪れる。 王女は目を覚まし2人はその日のうちに結婚、幸せな生活を送った。

 その2。 ペロー版。
 王女誕生の予告はない。 ここでは魔女は仙女と表され、8人登場する。魔法をかける順番はグリムの徳・美・富…とは違い、美・徳そして富はない。 眠りにおちた王女を悲しみ王と王妃は王女に別れを告げず城を去ってしまう。 他の者たちは妖精の魔法により眠らされてしまう。グリムとの大きな違いは王女は王子のキスで目覚めるのではなく、100年の眠りから覚めるときがやってきていたため、自分で目を覚ます。 また、グリム版では省かれたと思われる、2人の結婚の後の話が残っている。「王女は2人の子供をもうける。しかし、王子の母である王妃は人食いであり、王女と子供を食べようとする。そこを王子が助け、王妃は気が狂い自殺してしまう。」といった内容である。

 その3。  バジレ版。
 王女に対する祝福はない。ペロー版同様、誕生の予告もない。 眠りにおちた王女を悲しみ、父親は別れを告げてこの悲しみを忘れるために城を去る。 その後鷹狩りで偶然辿り着いた王が、眠る王女を見つけ、あまりの美しさに我慢出来なくなり愛の果実を摘む。そして王国へ帰り王女のことを忘れてしまう。 王女は寝ている間に双子を出産し、麻糸がとれて目を覚ます。 思い出した王は王女に会いに行き出産を喜ぶ。 とりあえず王国に帰った王であったが、王女のことが気にかかり、王妃はそれに気づく。 嫉妬した王妃は王の名前を装い、双子を呼び寄せ殺しスープにして王に食べさせようとするが、子供に同情した料理人が子山羊とすりかえる。 次に王妃は王女を呼び寄せて火焙りで殺そうとしたが、王が助けにはいり、子供をスープにして飲ませたという話をきいて王は怒り狂い、王妃を火の中に投げ込む。


 あな、恐ろし、恐ろし…。

 ただ現世とは、その3。「バジレ版」を地で行っているような事件が普通に多発している事態と捉えられるのではあるまいか?
 正常な精神構造の人間が一人もいなくなりそうな現世の「名誉欲」「金欲」「性欲」にほだされた人間模様を、よくぞまあバジレ氏は「The Sleeping Beauty」とのグリム童話を借りて構成し直したものだ。
 それにしても原左都子思うに、一番の諸悪の根源は主人公の「Sleeping Beauty」である事は間違いない。 貴女ねえ、静かに100年も寝ている場合じゃないよ。 無理に目を覚ましてでも自分主体に生き直さねば!


 いやいや、それにしても昨日のめぐろパーシモンホールにての「眠れる森の美女」バレエ公演は初版の「グリム童話」に基づいていて、子供達に大いなる夢を与えられたものと高評価している。

魔の自殺多発特異日9月1日、是が非でも我が子の命を守ろう

2015年08月22日 | 時事論評
 長い夏休みが明けて2学期初日の9月1日に、年端もいかない子供達が「死にたい」とまで追いつめられるその心理が、私には痛い程理解可能だ。

 おそらく「学校嫌い」を経験した人間であるならば、大なり小なりその思いに共感可能な事と期待したい。

 とは言え、私の場合はこの通り今に至って尚しぶとくこの世を生き抜き続けている。 実際には「自殺」とまでの切羽詰まった状態にまでは精神が追い込まれずに済んだ故であろう。
 ただ、夏休み中の8月下旬頃より我が脳裏に襲い掛かる(また学校へ行かなければならない…)なる強迫観念と憂鬱感は、幼稚園年中の頃から高校卒業までの十数年間に及びずっと続いた。
 不思議な事に大学生の頃には学問意欲に燃えていたためか、学生個々の自由度が高かった故か、あるいは学業以外での楽しみ(恋愛、酒等々)に満たされていたせいか、そのような感情は抱かなかった記憶がある。

 ところがこの強迫観念が、またもや30代後半期に高校教員になった時点で我が脳裏に再燃した。 
 学校教員とは、生徒同様の休暇道程を辿る。 (いや、現在では夏季休暇中の教員出勤日が増えていると耳にするが)、我が教員時代には部活指導等を担当していない限り、結構長期間の夏季休暇を取得可能だった。 そうすると、高校生だった頃までのあの恐怖の「9月1日」到来に対する強迫観念と憂鬱感が我が脳裏に鮮明に蘇るのだ…。 (教員の立場とて、学校になど行きたくない! なる切羽詰まった感情が恐るべくもぶり返して来るのだ。)
 おそらくこれは、我が若年層の時代に十数年間に渡って毎年経験させられた「9月1日」“恐怖トラウマ”が我が脳裏に燦然と存在していて、それが蘇って来たものと分析している。

 そんな私は、大学新卒後ずっと教員をしている某人物に質問したことがある。「教員の夏休みとは長いですが、その休暇を堪能した後に9月1日に学校に行く事が嫌になったりしないですか?」  応えて教員氏曰く、「大学までの延長線上で教員をしている自分としては、何も今まで通りの生活です。 9月1日に学校に行くことが特段特殊な事と考えた事もありません。」……
 なるほど。 そういう恵まれた人間もこの世にいるんだ。 それにしても、この種の教員の指導下にある生徒達の「9月1日の苦悩」の程は、教員側には到底理解不能な課題なのだろうなあ。


 8月12日付朝日新聞一面にて、興味深い記事を発見した。
 「子供自殺9月1日最多」との一面記事内容、及び当日朝日新聞3ページに記載された記事を、以下に要約引用しよう。
 国の調査によれば、18歳以下の自殺人数を日付別に分析したところ、9月1日が突出して多く、夏休みなど長期休暇が明けた時期に集中していることが分かった。 増加傾向が見られる8月下旬頃から9月上旬を前に、文科相は今年4月に児童・生徒への見守りを強化するなど重点的な対応を求める通知を全国自治体教委に提出した。
 夏休みや春休みが終わりに近づくと自殺者が増える傾向につき、内閣府は「環境が大きく変わり、プレッシャーや精神的動揺が生じやすいと考えられる」と指摘。 児童・生徒の見守りを強化したり相談に応じる事が効果的と提言した。 
 いじめ問題に取り組む某NPO法人は、「いじめに苦しむ子供は学校が始まる日を指折り数えて追いつめられている」 にもかかわらず、いじめが解消したと期待して親が子供を登校させても、学校側は結局何も変わっておらず、それに落胆した子供が自殺に追い込まれたと見ている。  そんなNPO法人は「子供は親に悩みを話しにくいため、学校の責任が大きい」と言う。  子供が悩み苦しんでいる事は承知していたが、まさか自殺するとは思ってもみなかった、とまで当該NPO法人の理事は語っている。  当該理事曰く、「学校は命を削ってまで行くところではない。 本当に辛い時はちょっと休む事も考えて」とアドバイスする。
 (以上、後半部分は原左都子の批判も交えて朝日新聞記事を要約引用したもの。)


 ここで再び私論に入ろう。

 言いにくい事をここではっきり言うが、上記に紹介した朝日新聞記事の後半部分の某NPO法人理事氏とやらは、15歳の娘さんを「自殺に追い込むべくして」追い込んだ張本人と私は分析する。

 えっ、何? 
 貴女の娘さんが学校内でのいじめ問題が解消したと“期待”して登校させた、だと? その親としての判断は何に基づいてるいたのだろうか。 
 しかも、学校側は結局何も変わっておらず、そのせいで自分の娘さんが自殺した??  
 更には、「子供は親に悩みを話しにくいため、学校の責任が大きい」??? 
 驚く事にはこの母親は、自分の親としての責任の程を顧みる事なくすべての責任を学校側に転化して、娘さん自殺後に自らNPO法人を立ち上げ、娘自殺の責任はすべて学校側にあると総括したものと、私は判断する。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 いやいや、上記朝日新聞記事内にあるNPO法人理事氏である娘を自殺で失った母親としての思いも分からなくはない。
 通常の親達とは、それ程までに学校教育に「多く」の期待を寄せているのであろう。
 ところが、多少の社会経験や学術経験を積んでいる人間であれば、現在の学校教育現場が置かれている“お粗末”かつ“無力”な現状も把握可能かと私などずっと以前より理解しているのだが…。

 それにしても上記某NPO法人理事氏は、娘さん自殺防止に向けて家庭内でもう少し対応策が取れたはずだ。
 現状の安倍政権の行政能力の程を日々観察すれば、現在の学校教育現場が昔から現在に至るまでさほどの進化を遂げていない事など、庶民の立場にして想像して余りあろう。 そんな現状下に於いて、娘さんの自殺を学校現場に責任転嫁する以前の課題として、家庭内での自助努力によりいくらでも娘さんを自殺から救い出せたはずだ。

 「子供は親に悩みを話しにくい」???  それなど、お宅の個人的事情に過ぎないよ。 
 我が家など、国政は元より、地方自治体の教育行政にも大いなる疑惑の念を抱き続けつつ我が子を育てて来ている。 ここは親こそが一生我が子の教育責任を総括せんとの観点及び覚悟の下に、子供の教育に関わろうではないか。
 その観点に立てば、「学校とは可愛い我が子の命を削らせてまで行かせるところではない」のは元より自明の理であり、その代替として親こそが一生命をかけて我が子の教育の主体となるべき事など当然の事と気付くはずだ。

 とにもかくにも、世の親達よ!
 子供をこの世に産んだ親の責任に於いて、我が子を絶対自殺させてはなるまい。 迫りつつある9月1日自殺多発特異日に向け、親の判断に於いて「学校へ行かせない」選択肢を含めて、是が非でも我が子の命を守るべく行動しよう!