原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

明日( 9月1日 ) 学校へ行きたくない子に贈るメッセージ

2017年08月31日 | 教育・学校
 8月31日って、ホントに嫌な日だよね。 1年365日の中で、一番憂鬱な日だね。

 このおばさんもおんなじだよ。
 幼稚園から大学・大学院まで人よりも随分と長~~い期間学校へ通った人間なのだけど、特に幼稚園から高校まで、8月31日ほど嫌な日はなかったよ。


 おばさんの場合、特にいじめられていた訳ではないんだ。 そういう意味では、いじめられているから学校へ行くのが嫌な子達とはその理由が若干違っていて、申し訳ないんだけど…

 おばさんの場合は、とにかく「集団生活」がとことん嫌だった。
 学校の都合で勝手にクラス分けされ、生徒にとっては決して自発的に選んだ仲間達ではないよね。 その集団の中で、「皆で仲良くせよ!」とセンコーから強制される。 所詮無理がある。
 もちろん好きな子もいて仲良くしたよ。 ただその他大勢は、こちらが好んで一緒に過ごしたいと言った訳じゃない。 はっきり言って、どーでもいい連中ばかり。 中には乱暴ものがいたりして、大声で叫んだり暴力を振るったりで、静かに過ごしたい私としてはその騒々しさにイライラさせられる。
 センコーのほとんどは、ヒステリックな金切り声を挙げたり生徒を大声で罵倒する。 あるいは、「いい子」をえこひいきして、静かで大人しい子にはこれラッキーと無視を決め込み、ただの一度も話しかけても来ない。

 第二次反抗期に入った小学校高学年から、自らに主体性が育ってきた私の「学校嫌い」は更に度を増した。 ただ、その内面から湧き出る反発心に助けられ、私は“ものを言える”子に育った。
 友達に対する好き嫌いが激しくなり、また、公然とセンコー批判を出来るまでに成長した。 そのように反発心を表に出す私をバッシングする生徒も発生し、我が学校での態度が大きく変容し始めた。
 
 私の場合決していじめられはしなかったが、私の存在を嫌う仲間が増え始め、特に中学生の頃は学校での居心地が悪くなった時期もあった。 ただ常に主体性を失わなかった私は、学業にもその他の活動にも積極的に励み、良き成果を上げて中学を卒業し、その後高校、大学・大学院へと進学した。

 2度目の大学及び大学院修了後、30代後半期に高校教員を経験したのだが、その時にも8月31日はとてつもなく憂鬱だった。
 いい大人にして、これはどうしたことかと自己分析したのだが、どうも子供時代のトラウマがいつまでも残っているものと結論付ける。  長い夏休み中に学校という「集団の場」から一時離れ、100%自分の自由意思で主体的に羽ばたける1ヶ月半の期間を経験すると、「学校」という場がまるで監獄のように思えてしまうのだ。  誰かに獲って食われる訳ではない事は頭では分かっているのに、それ程の嫌悪感を抱かされるほど「集団嫌い」の私だ。

 
 ましてや「いじめられている子」にとっては、学校へ行くという行為は地獄に落とされるよりも厳しい現実であろうことが想像出来て余りある。
 夏休み中だけは「いじめっ子」から縁を切れて解放されていた事だろう。 ところが、9月1日は無情にもやって来る。
 もう逃げ場がない。

 私が貴方の親ならば、「学校へ行かなくていいよ」と言ってあげるだろう。
 実際、私の娘が小学生の時、いじめ等々で担任との間にトラブルが発生した際、親の私が積極的に学校を休ませるとの抗議行動を取った。 その後学校長との話し合いを通過し、解決に持ち込んだとの事件もあった。

 私が貴方の親ならば、絶対にあなたを助けてあげる! 
 何をかなぐり捨ててでも、一番大事な我が子であるあなたを守り抜く!

 きっと、あなたの親御さんも気持ちは私と同じだと思うよ。
 それでも、口ではあなたに「学校へ行け!」と言ってしまうのかな?  私のように、学校長との話し合いを通し解決に持ち込むなる行動をとる親は少数派なのかなあ。


 後半日過ぎたら、明日は無情にも9月1日だ。

 どうしようか? 明日は休もうか、それとも思い切って行ってみようか??

 いじめ等の特別な事情が無い場合、思い切って行ってみたら、心配したほどに学校などなんてことはなくて“へのかっぱ”だったりするかもしれない。
 この私の場合、その類だったかもしれなくて、ごめんなさい。


 「いじめ」等深刻な課題を抱えている子の場合、そうは言ってられないよね。
 それは十分に分かっているつもり。
 どうしてあげたらいいのだろう。 おばさんも苦しく辛い。

 ただ、これだけは覚えておいて。
 何の力にもなれないけど、本気であなた達の逃げ場のない心情を思い、心配している大人もいるという事を。

自分が産んだ障害児の後見を別の子に委ねるなど言語道断!

2017年08月28日 | 人間関係
 表題と同趣旨のエッセイを本エッセイ集バックナンバーにて既に公開しているのだが、公開エッセイ本数が1700本に近づいている中、自分でいくら探しても見つけられないため、再びこれをテーマに私論を述べさせて頂こう。


 8月26日付朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談は、22歳女性による「家族と生きていく自信がない」だった。
 早速、以下に要約して紹介しよう。

 22歳の女性だが、私の家族は、父、母、知的障害をもつ二つ年上の兄、私の4人家族だ。
 兄と母は依存し合っており、兄を置いて死にたくないという母の思いは伝わっている。
 私は、もしも母が兄より先に死んだら兄にどう説明するか、「施設にだけは入れないで欲しい」と母に懇願されているので、私は兄と2人きりで過ごさねばならないのか… などと不安に襲われ、いつも「私以外の家族は今すぐ死んで欲しい」と思ってしまう。
 中学から寮生活をしており、家族と離れて暮らすことでほどよい距離を保てていたので、介護や兄のことで家族と近くなるのが怖い。 兄と生きていく自信がない。
 かと言って家族が嫌いな訳ではなく、人一倍思い入れがあるため、約束を破ったり面倒を人任せにしたりは出来ない。 そんな将来への不安と嫌悪感を抱くたびに、「私が死ぬか、家族を殺す」という安直で非現実的な考えにしか辿り着けず、危機感すら覚える。 新しいものの見方や考え方があれば教えて欲しい。
 (以上、朝日新聞 “悩みのるつぼ” 相談内容を要約引用したもの。)


 一旦、私見及び私事に入ろう。

 この相談女性の現在の立場や心中を察して余りあるどころか、その母親の愚かさや弱さを感じ取り、いたたまれない思いすら抱く。

 ここで私事を語るなら、既に再三再四述べている通り、我が子は出生時のトラブルより若干(あくまでも若干の範疇だが)不具合を抱えてこの世に誕生している。
 私の場合、元より子ども一人を希望していたが、娘を産んで以降は更にその思いを強くして、この子こそがかけがえのない唯一無二の我が子として、全身全霊で手塩に掛けてサリバン業を全うして来ている。
 要するに、この子を産んだ責任は一生を賭けて私一人で貫徹する! なる強靭な意思に燃えていた。(現在尚燃えている!)

 この相談者の家庭の場合、相談者女性が障害者である兄よりも2年後から生まれている。 
 どのような背景でそうなのか、私にはまったく計り知れない。 ただ一点安堵するのは、相談女性がずっと寮暮らしをしているとの点だ。 もしかしたら親の計らいで、兄に手がかかる家庭内事情を鑑み、下の娘はその悪影響を受けない環境下に置いてやりたいとの配慮だったのかもしれない。

 それにしても、相談内容に記載されている母の言葉 「(自分ら親が死んだ後も、兄を)施設にだけは入れないで欲しい。」なる娘に対する懇願は、親としての責任放棄であるし、許し難き発言だ!
 法的側面から考察しても、それを娘さんが遵守せねばならない条文など何処にも無いのではなかろうか?
 道義上から考察しても、こんな言葉を親の立場から未だ若き娘に吐き捨てるなど、常識を逸脱して余りあろうと私は考える。
 未だ社会経験の無い22歳の若さでこんな言葉を実の親から投げかけられたならば、「自分が死ぬか、家族を殺すかどちらか」なる究極の心理状態に陥るのも必然的だったことだろう。

 以上の理由で、原左都子としては全面的に相談者である娘さんの味方に回り、今後の対策を考えたく思うのだ。


 さて、今回の“悩みのるつぼ”回答者は、評論家の岡田斗司夫氏だった。

 一読すると、岡田氏も原左都子の意見と大きくは異ならない内容であると判断した。
 岡田氏の回答内に、相談者が悩むべき選択肢として具体的アドバイスの記述があったため、その部分を以下に紹介しよう。
 「家族も何もかも捨てて逃げる」 「母を言いくるめて、兄を施設に入れるよう納得させる」 「大ウソつきになって母の死後、兄を施設に入れる」
 ただ、相談者の母の場合、自分自身は有利な条件下で悩んでいるとも岡田氏は述べている。 母の場合、「父というスポンサー」「専業主婦というポジション」これがあるからこそ兄のケアが出来ている、とも述べておられる。 
 それに比し、相談者は実力不足で、未だこの問題を解決できる能力が無い。 自分の能力以上の約束をしてはダメ。 そして岡田氏の結論としては、相談者はこの問題から逃げるか、引き受けるためのチカラを身につけるか考てて下さい。 と締めくくっている。
 (以上、岡田斗司夫氏の回答の一部を紹介したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 一旦家庭内に障害者を抱えると、おそらく一般の方々が想像している以上にそれはそれは壮絶な日々だ。
 相談者の母親がその日常に思い余った挙句、未だ社会経験すらない下の娘さんに対し「自分が死んだ後も障害者の兄を決して施設へ入れないで!  要するに、「私の死後は兄を妹の貴方にお願いしたい!」と一言伝えることにより、早くも娘に依存したかったのだろう。

 ただ、それはやはり親としては大いなる失言である事実には間違いない。
 おそらく未だ学生の身分の可愛いはずの娘さんに今現在その言葉を発しては、娘さんを傷つけ不安に陥れるばかりだ。 それを考える余裕もない程に、母親にとって兄である障害者の日々の世話は重労働かつ重荷であることは想像が付くが…。
 
 この相談内で、父親に関する記述が一切無いことが気にかかる。
 私の想像では、おそらくこの一家の父親は現役世代の職業人であることだろう。 そうだとしても、障害者の父であることには間違いないはずなのに。
 で一体、二人の子供達に対して父として日々如何なる対応をしているのだろうか?? 

 とにもかくにも、相談女性が今直ぐに結論を欲しているとして、対応可能な選択肢とは。
 上記に岡田氏が書かれているがごとく、「家族も何もかも捨てて逃げる」 「母を言いくるめて、兄を施設に入れるよう納得させる」 「大ウソつきになって母の死後、兄を施設に入れる」 これ以外の回答はないのだろう。

 はてさて。  我が家の娘に話を移すが。
 ある程度美人かつとてもいい子である事には間違いなく、社会人2年目にして日々真面目に誠実に通勤し、おそらく経済面では(親が残してやれそうな資産も合算して)親の死後も一人で生きられるバックグラウンドは確保出来そうな段階に入っているのかもしれないが……。

 それでも未だサリバンのこの私にも、この子より先に死ねない大きな課題が残されている。 
 単独では能動的な人間関係が築けない程の“寡黙性”を未だ引きずっている娘だ。 母の私があちこち同行し、あれやこれやと我が知人らに会わせたりしても…  娘自身の主体的な人間関係が築きにくいなるテーマが解消されない現実には違いない…。

 やはり私の使命とは出来る限り長生きして、今後もずっと娘と二人三脚で、人との付き合いの鍛錬を積ませ続ける事かなあ。

今夏も観賞しました! バレエ「コッペリア」

2017年08月27日 | 芸術
 (写真は、我が娘が2002年にクラシックバレエ「全幕もの」としては初めて出演した「コッペリア」第三幕 「仕事の踊り」の最後の決めポーズ。 少女達の後列右から2人目が娘。 参考のため、写真最後列右に写っているのはクラシックバレエ界の大御所であられるコッペリウス爺さん役の マシモ・アクリ氏。)


 クラシックバレエ「コッペリア」を本エッセイ集にて語るのは、一体何本目だろう。

 自分でも数えきれない程だが、我が娘が8歳時に上記写真「コッペリア全幕」に“端役中の端役”で出演させてもらえた後より、一家を挙げて「コッペリア」ファンとなった。

 娘の舞台出演が決定した後すぐに、バレエ音楽の父と称されるドリーブ作「コッペリア」CD(パリ国立劇場管弦楽団演奏版)を購入し、自宅にて一家で毎日のように観賞した。
 娘の出番場面(とは言っても、上記「仕事の踊り」と最後のコーダ「ギャロップ」のみだったが、それのみ出演させるがために大枚を叩いた記憶があるなあ。 いえいえほんの冗談でして、それ程大した金額ではありません…)。
 毎晩、リビングにてCD音楽に合わせて娘に踊りの練習をさせ、それに目を細めて見入った親馬鹿我々親どもだったものだ。

 その後、毎年のように首都圏のあちこちで上演される「コッペリア」情報を得ては、事前に席を予約し観賞に出かけて既に十数年の年月が流れている。


 昨日観賞した「コッペリア」は、東京シティ・バレエ団 による比較的小規模な舞台だった。
 
 おそらく現在バレエを習っている子ども達向けに演出・作成した、誰にも分かり易い「コッペリア」だったと表現できるだろう。

 ところが、この種の「子ども向け」クラシックバレエ公演を侮ってはならないのは当然だ。 
 
 特に昨日の「コッペリア」の場合、オーケストラの生演奏による舞台だったのが特徴的ではあるまいか。
 と言うのも比較的小規模なバレエ公演の場合、音源を録音楽曲に頼るのが通常だ。
 今回は、演奏を担当するオーケストラとして「洗足学園ニューフィルハーモニック管弦楽団」を招いていたのだ。
 申し訳ない話だが、実はこの私は当該管弦楽団の存在を一切存じていなかった。 「学園」の文字が気になった私は勝手な解釈で、学生達もこのオーケストラの要員なのだろうか??? なる不安材料すら抱いていた。
 結論としては、素晴らしい「コッペリア」演奏だった。 今回のオーケストラ規模は決して大きくはなかったが、全幕に渡り研ぎ澄まされた音色を拝聴することが叶った。

 参考のため、以下に「洗足学園ニューフィルハーモニック管弦楽団」情報を、ネットより追加しておこう。
 2008年9月に結成。 洗足学園音楽大学芸術監督の秋山和慶教授のもとで、プロのオーケストラをめざす優秀な若手プレーヤーが学内外から集まって研鑽を積み、演奏活動を行っている。 団員からはプロオーケストラのオーディション合格者や、各種コンクールの上位入賞者が多数出ている。 自主公演のほか、学内外のさまざまな演奏ニーズに応える活動を繰り広げており、演奏では音色や響きの良い表現力で高い評価を得ている。


 バレエ舞台そのものに、話題を移そう。
 
 劇場入口にて配布されたパンフレットを一覧すると、どうやら今回のバレエ公演出演者はすべて日本人を中心とした東洋人で構成されているようだ。

 近年驚くのは、男性ダンサーの層の厚さだ。
 娘が小さい頃に訪れたバレエ公演では、男性ダンサーと言えば海外から招いた著名ダンサー中心だった記憶がある。 端役はやむを得ず、身長が高い女性ダンサーが男性に扮して舞台をこなしていたものだ。  
 ところが近年バレエ公演を訪れると、女性と同数程の男性ダンサーが出演している現状だ。

 例えば、昨日の「コッペリウス爺さん」役ダンサー氏はパンフレットによれば日本人男性のようだったのだが。 お顔のホリが深ければ長身足長であられ、一見国外から招いた著名ダンサー氏かと見間違う程だった。


 見どころ盛沢山の「東京シティ・バレエ団」のコッペリアだった事には間違いない。 
 
 最後の場面「コーダ」の音楽が流れたら私は泣くだろうと予想していたら、隣に座っている娘に先に泣かれたのに更なる感動をもらった。 
 娘にとっては、母の私よりも数倍思い出深い「コッペリア」だったらしき事実に感無量だ!

  ブラボー!!  

「科学」と「疑似科学」の狭間で

2017年08月25日 | 学問・研究
 元「科学者の端くれ」を自称する原左都子だが。

 最後に仕事にて「科学」(特に「自然科学」分野)に接した時代より既に十数年の年月が経過し、今となっては不本意ながら一切の「科学」の香りすらない環境下に身を置いている始末だ。 
 (参考だが「社会科学」分野に関しては、その後50代期に「税理士試験」にチャレンジしたり、フランチャイズ学習教室開業に着手したりと試行錯誤する中で、ある程度かかわり続けている。)

 そんな私だが、わずか3年前の2014年には、1年以上をかけて「STAP細胞」研究に於ける改ざん・捏造の実態を追及調査しエッセイを公開し続けた。
 以下に、その一部を今一度表題のみ列挙してみよう。

   2月3日     「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」
  3月12日    「STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した」
  4月3日     「STAP騒動、私なら未熟者扱いされるより捏造を認めたい」
  4月10日    「4/9小保方会見、むしろ科学者として墓穴を掘った」
  5月10日    「5/8理研調査委『STAP論文取下げ』記者会見を論評する」
  5月21日    「小保方論文“切り貼り”は何故『改ざん』と確定されたか?」
  6月4日     「STAP論文すべて撤回で、今後の小保方氏の行く末は?」
  6月14日    「理研の新法人化は当分棚上げにするべき」
  7月2日     「小保方氏って、未だ理研から給与貰ってるの?」
  7月29日    「小保方氏はもはや不正疑惑から逃れられない」
  8月5日     「笹井副センター長自殺はSTAP不正を証明したも同然」
  10月25日   「STAP事件は“必然”だったか“偶然”だったか!?」

 あれから未だ3年しか経過していないにもかかわらず、現在の私の脳内記憶から「科学(特に自然科学)」がすっかり抜け落ちてしまっているのが残念だ。 今現在、このSTAP細胞シリーズ類似のものをエッセイに書いて公開せよ!と指示されようが、それを受けて立てる自信の欠片も無い。


 そんな私に、“少しは「科学」を思い起こせよ!” と忠告するかのような記事を朝日新聞2017.8.16 付「文化・文芸」ページで発見した。

 早速、「科学とは 揺らぐ見極め」と題する記事を、以下に要約して紹介しよう。

 科学の前提とは、第三者が再現でき事象をすべて説明できる事である。 そんな前提が揺らぐ事例が増えている。 何をもって科学か否かを見極めればいいのか。
 昨年、英科学誌ネイチャーが、その科学の再現性を巡るアンケート結果を掲載した。 研究者1576名の回答を分析すると、70%以上が他の科学者の実験結果を再現しようとして失敗した経験を持ち、自分の実験結果の再現に失敗した人も半数以上に上った。
 生命科学分野では、実際追試ですぐに再現出来ない事例も多いという。 
 ある事例では「研究室が引っ越して実験を再開すると、従前のデータが出なくなる事があると言われる。 また、対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い」と指摘する。  (中略。)
 科学とそれ以外の違いについては、科学哲学の世界で長年「線引き問題」として思索が続いてきた。
 京大某准教授は、再現性も還元主義(複雑な事象も個々の要素に分解して細部を理解していけば、全てを体系的に理解出来る、との考え方)も絶対視するものではないと言う。 その上で、当准教授は科学を「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉える。 研究対象によって「信頼できる」の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に「信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ」と述べる。
 ただ、一般人に見極めは難しい。 疑似科学は時に科学的言説を装い、都合のいい実権結果や経験談だけを紹介することも多い。  (中略。)
 なぜ、人は「疑似科学」に引きつけられるのか。 某認知心理学教授は「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」と述べる。 当認知心理学教授は「科学の方法論や人はだまされやすいという心理学などを正しく疑う態度や知識を養うことが重要。」とも述べている。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)


 一旦、原左都子の私論だが。

 要するにこの朝日新聞記事の論点主旨とは、最後の部分の「疑似科学に騙されるな!」の部分にあったのでがなかろうか?
 この記事内では、先だって6月に乳がん闘病の末に34歳で亡くなった小林麻央氏にも触れていた。 何でも麻央さんは、自身のブログで気功や温浴療法などの代替医療を受けている事に関しても記述されていたとのことだ。(申し訳ないが、原左都子は小林麻央氏を含め著名人のオフィシャルブログとやらをただの一度とて訪問した経験がないため、コメントしかねるのだが……) この麻央氏の記述も「疑似科学」的だと指摘されている、との朝日新聞の記述だ。
 もしも各種サプリメントやトクホ食品等々、現在世に溢れる程に乱売されている商品群等のセールスポイントである「疑似科学」に騙されそうな国民が多発している現状なのであれば…。 
 まさに某認知心理学教授がおっしゃる通り、「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」傾向があるのだろう。


 それよりも、元「科学者の端くれ」を自称する原左都子として一番に議論対象としたいのは。

 まさに前半部分の、(「疑似科学」ではなく、真正の)「科学」に於いて、再現・説明不能な事例が増加する現象を辿っているとの事実だ。
 上記朝日新聞記事内の「科学哲学」ご専門の某准教授がおっしゃる通り、科学とは「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉えられるべきである事は歴然だ。
 「研究対象によって『信頼できる』の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に『信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ』」と述べられている部分に、私は賛同申し上げる。
 
 要するに、小保方氏らによる「STAP細胞改ざん・捏造事件」など、まさに「信頼できる手法があるのに用いず、安易に発表に踏み切った」典型例であり、この事件が科学として否定された決定的な要因だったと振り返る。

 更には、朝日新聞記事の前半部分に、「研究室が引っ越して実験を再開すると従前のデータが出なくなる事がある。また対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い。」 なる再生細胞研研究所教授よりの談話が掲載されている事実も気にかかる。

 過去に医学研究に携わった原左都子からの指摘だが、それならば幾度も幾度もその実験を繰り返すことを実行し、数多くのデータを蓄積して後にそれを発表してはどうなのか!?? なる疑問符が湧き出る。 
 私自身、若き頃にはそうして来た。 そうせねば気が済まない性格だった。 実験過程に於いて、科学者の端くれとして苦労の上に苦労を重ねてきた歴史があるのだ。 培養皿を揺する過程に問題があったと思うのならもっともっと揺する実験を繰り返せばよい話だし、培養液の注ぎ方等々操作の細かい部分を数知れぬ程に再現した後に、公開実験結果としてものを言って欲しい気がする。
 一体何度それを実施した上でこの研究機関は再現性や還元性の結論を出したのか?!? と問いたくもなる!


 おっとっと。
 自分自身は既に「科学者の“端くれ”」すら卒業している分際で、言い過ぎた部分があった事はお詫びしよう。
 ただ、今回偶然見た朝日新聞記事が我が脳裏に「科学者の端くれ」だった過去の事実を思い起こさせてくれ、この記事を公開するに至れた事には感謝しよう。

派手で目立つ外見とは “恥ずかしい” 事か??

2017年08月23日 | 自己実現
 現在は、比較的大人しく問題行動もなく高齢者介護施設にて平穏に暮らしている郷里の実母だが…

 施設入居前までは私が郷里の実家に帰省すると、必ずや開口一番私に遠慮なく投げかける言葉があった。

 「また、そんな派手な格好で帰って来て! 恥ずかしからスカート丈をもっと長くして年相応の服装をしなさい!」 
 いきなり怒り心頭の私だが、いつもの決まり文句故に無視して聞き流す。

 そんな口の悪い実母だが、実は娘のその派手な姿が母にとってまんざらではない事にも私は気付いている。 親の欲目には間違いなかろうが、自分の娘が何歳になってもスラリとした足をしてミニスカートがよく似合っている(??)事を決して悪くは思っておらず、実は肯定的に捉えている事も私は知っている。
 それが証拠にこの悪口は帰省直後にただ一度発するのみで、その後はむしろ「いつまでもそんな格好が出来ていいねえ」と表現が軟化していくのだ。
 
 私が一番ムカつくのは、母の発言内の「恥ずかしい」なるフレーズだ。
 一体何に対して「恥ずかしい」と母は考えるのか? 
 それはおそらく世間体であろう。 だが、郷里に帰省したとて特段母にとっての重要人物と面会するでもない。 会うのはせいぜい親戚やご近所の皆さん程度だ。 その人達にとって、私が派手な格好をしている事実がどれ程までに「恥ずかしい」と母は言いたかったのか。  むしろ私の格好を肯定的に捉えて下さる方々が多数で、「やっぱり東京に住んでいる人は違うなあ」なる賞賛(?)の評価を少なからず頂いたものだ。
 私の派手な格好のために実母がその後自分自身の評価を下げたとも、ただの一度も聞いた試しがない。


 冒頭から私事が長引いたが、ここでテーマを大きく変えよう。

 我が娘が私立高校生だった時に、学校から とある「外見」に関する“指導”を受けた事がある。
 その真相とは、そもそも娘が持って生まれた若干の事情に基づく病変が原因だった。  若干の事情を抱えてこの世に生まれざるを得なかった娘は、幼少の頃より医学的にも説明が困難な“奇病”を幾つも発症する運命にあった。
 その一つが、娘が小学校6年生時より眉部分に発症した「抜毛性脱毛症」だった。(正確には「抜」の字が異なるが。)
 早々に専門皮膚科を受診したのだが、その原因も不明ならば、何時完治するかの予想もつきにくい奇病との専門医師の説明だった。(要するに本人が無意識のうちに抜いているとの事のようだが、本人に一切の自覚症状が無ければ、それを周囲が責め立てる事は大いなるマイナスとなるため、そのまま放置するしか方策が採れない奇病だ。) ただ医師の指導に我々親子は大いに安堵した。 医師先生曰く「眉に眉墨を塗ればOKですよ! 女性の皆さんは普通に眉墨を塗っています。 何も問題はありません。 もし学校から眉墨を使用する事を指摘されるようなことがあるのならば、私の方から『証明書』を発行します。」 とのご指導で、小学校、中学校には皮膚科医師が発行して下さった「抜毛性脱毛症証明書」を提出して事が済んだ。

 我が娘の場合高校は内部進学のため、中学時代に提出した「医師による証明書類」の効力が持続するものと考えていたところ、我が考えが甘かったようだ。
 高校の生活指導教員より、「眉墨を塗るのは禁止行為!」なる厳しい指摘を受けたと娘が私に訴える。
 この事件は、母(サリバン)の私にとっては幾重にも悔しく愕然とさせられる大打撃だった。 
 誰も好んでこんな病気になど罹患していない! それでもやむを得ずその病状を隠すがために未だ少女段階の娘に眉墨を使用させている親の苦悩も分からずに、何故、学校側はこれ程までに否定的かつ攻撃的な仕打ちを我々母娘にして来るのだ!??   そもそも貴方達が学校の教員足り得るのならば、娘の日頃の姿をとくと見てごらん。 この子が、お洒落をして目立ちたいがために眉墨を塗る女生徒である訳も無いはずなのに‥‥ 
 とのサリバンの激しい怒りの程は心中に抑え、私は再び娘が「抜毛性脱毛症」との奇病に罹患しているがために眉墨を使用せねばならない現状を高校へ冷静に訴え出た。 その後、高校側からは一切娘が眉墨を使用している件に関しての指摘は無かった。
 (参考だが、娘の抜毛性脱毛症は社会人2年目に突入している未だ完治しておらず、眉墨を塗る日々だ。 もしかしたら、元々アトピー体質の娘にとって眉墨を塗る行為自体がその完治を阻止しているのかとも考えるサリバンだが…)


 現在の学校現場では、「地毛証明書」なる代物を提出させている悲惨な現状と聞く。

 これに関する某都立高校に於ける実態を、朝日新聞2017.8.21 朝刊記事より引用しよう。
 都立高校全日制に通う約6割の生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけていないかを見極めるため、一部の生徒から「地毛証明書」を提出させている。 裏付けのために幼少期の写真を求める高校もあり、専門家からは疑問視する声も出ている。 保護者が生徒の髪の特徴を記入して押印する形が多い。 
 (以下略するが、朝日新聞記事より引用したもの。)

 これなどむしろ学校現場の指導のし易さこそが優先された挙句の果ての、人権無視にまで目的意識が履き違えられた結果の産物でしかないであろう。

 朝日新聞記事によれば、各界の有識者達も様々なご意見を述べているようだ。
 「学校側としては筋が通っていても、全体としての多様性を抑制している。」 「髪を染めた人が不良、不真面目との認識モデルを疑うべき」 等々…。


 最後に、原左都子の結論でまとめよう。

 我が娘が高校側から「眉墨を塗っている!」との生活指導教員に指摘された事実とは、上記の学校現場事態と比較して、おそらく例外中の例外だった事であろう。
 
 ただその後も未だに抜毛性脱毛症が収まる気配がない娘は、毎朝丹念に眉毛を人工的に書き上げ、職場へ通う日々だ。 それを傍から見つつ、職場では眉墨を書いたからとて「指導」の対象とならぬ事態に心底安心しているサリバンの私だ。

 「地毛証明書」提出ねえ。
 そんな失礼な事態をたとえ相手が未成年の高校生とは言えども、何とも思わず実施しているのは世界広しと言えども、この島国 Japan のみではなかろうか??

 それが発展する(後退すると)、この国では「還暦を過ぎたおばさんがミニスカを履くためには証明書提出が必要だ!」と言い出しかねない恐怖感すら私は抱かされる。

 (え~~!?  その姿を見せられる方こそが恐怖だから「ミニスカ証明書」提出に同感だって!!?!)