原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

恋人を愛し、愛される経験

2010年07月30日 | 恋愛・男女関係
 先だっての7月27日、東京地裁において、交際相手の女性看護師に無断で子宮収縮剤などを投与して流産させ“不同意堕胎罪”に問われた36歳医師に対する初公判があり、被告である医師は罪状認否において起訴内容を認めた。

 7月28日付朝日新聞によると、検察側は冒頭陳述で、女性の出産により現在の妻との結婚が破談になることを加害者医師が恐れたことが事件の動機だったことを指摘した。
 看護師女性に結婚をあきらめさせるために「自宅が破産状態」等の嘘をついたが拒否されたため、子宮収縮剤などを使用して堕胎させようとしたとの検察側の陳述を医師である被告が認めたものである。
 片や、証拠採用された被害者である看護師女性の調書によると「被告が自分や胎児に悪いものを飲ませるとは思わなかった。点滴も体調を気遣ってくれていると思った。心から愛した相手に裏切られ、人を信じられない」とのことであるようだ… 

 被告医師の勤務先病院は、31日付で被告医師を懲戒解雇することを決めた、との報道である。


 何ヶ月か前に初めてこの事件に関する報道を見聞した時から、元医学関係者である原左都子の脳裏には、医療従事者同士の男女関係において何故にこの種の事件が発生してしまうのか、看護師である被害者女性は最低限胎児を守るべく行動を取れたはずであるのに、との不可解感が真っ先に過ぎったものである。

 そのように感じていたところ、ネット上でも被害者である看護師女性に関して様々な憶測が交錯しているようである。
 この被害者女性は30代のある程度ベテラン域に達している看護師らしいのだ。 そうだとすると、被告医師が妊娠中の自分に投与しようとしている薬剤に関して、医療の専門分野の如何にかかわらずある程度の予備知識を有していたはずである。 そもそも妊娠中の女性とはたとえ素人であれ、産婦人科医の指導により胎児を守るため薬剤投与に過敏状態で風邪薬とて飲まないものである。 そうであるはずなのに、「被告が自分や胎児に悪いものを飲ませるとは思わなかった」の調書にはやはりどう考察しても不自然さが否めない。


 そうであるとしても、ここでは一応、被害看護師女性の調書内容を“真実”であると仮定して話を進めることとしよう。
 原左都子が一番気になるのは調書内容の「心から愛した相手に裏切られ、人を信じられなくなった」のくだりである。
 この女性は“人を心から愛する”という意味合いを、どうも取り違えているように感じるのだ。 真に恋愛相手である恋人を愛したのなら、人間とは相手と“同一化”したい感情を抱くものである。 そのために“文化人”であるならば、その“同一化”を欲してもっと相手を知って受け入れるべく行動に自然と出るものではなかろうか? 相手が何を思い、何を信条として、如何なる未来を描いて生きているのか、そういった内面の心理やバックグラウンドに触れたくて躍起になるのではなかろうか??
 そのように努力した場合、決して相手を探ろうとせずとて相手の生き様が自ずと見えてくるものである。 この被告医師には既に結婚を約束した女性が存在して、悲しいかな看護師である女性自身が被告男性にとって“厄介な存在”であることぐらい、看護師女性には見え透いていた事実だったとも推測できよう。

 看護師女性が妊娠したのは被告医師の結婚直前のことだったようである。 これはもしかしたらネット上で情報が交錯しているごとく、看護師女性の妊娠を鬱陶しく思いつつ自分の医師としての未来のために選んだ女性との結婚を優先しようとする被告医師に対する報復意識等、看護師女性側に何らかの憎しみの魂胆があったのやもしれない。
 そうだとすると、証拠として採用されたこの看護師女性の調書文面の“心から愛した相手”の文言には大きな偽りが存在することになる。
 いずれにせよこの2人の関係は決して“愛”などではなく、そもそも被告、被害者共に我が身息災の身勝手な未来を描いただけの取るに足りない“自堕落物語”と結論付けられるようにも思えてくるのがこれまた情けない程に辛い…。
 (もし万一、30代の被害者看護師女性が検察に提出した調書通り本気で被告を愛していたとしても、あなたは医療従事者としての基本的部分において何かが欠落していることは事実である。 自分が相手の医師を“愛している”美学に酔いしれて子宮弛緩剤をビタミン剤と信じて自宅で投与された結果、自らが命をかけて守るべき胎児を堕胎させられる低レベルの看護師が、医療現場において患者の命を守り切れるはずもない!、と原左都子が厳しくもここで言い切ろう。)


 現在の若者が恋愛交際相手と知り合う機会とは“ネット”上が大多数とも見受けられそうな、生身の人間関係が希薄化した世の中である。
 こういう時代にあって上記のごとく職場で知り合った生身の医療関係者同士の人間関係に少しは期待したいものだが、悲しいかな“騙し騙され”(?)の挙句、刑事事件に繋がる程お粗末な実態に、どこに救いを求めていいのやらの感覚を持たざるを得ない。


 若かりし独身時代に自分が慕う恋人を愛し、そして愛される時間を共有する経験というのは、必ずや将来に渡って自分の実りある人格の一部を築いてくれるものなのだ。
 またとはない素晴らしい独身時代に、男女双方に“かけひき”などない実直な恋愛関係を培って欲しいものである。
 老若男女を問わず、今の時代の“恋愛関係”のあり方を大いに危惧せざるを得ない原左都子である。
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辻元さん、離党するなら即刻議員辞職せよ!

2010年07月27日 | 時事論評
 本日(7月27日)昼間のテレビニュース報道によると、元国土交通省副大臣である社民党衆議院議員の辻元清美氏が社民党離党を明らかにしたとの報道である。 福島瑞穂社民党党首の引止めにもかかわらず、辻元氏の離党の意思は強靭とのことであるようだ。


 「原左都子エッセイ集」時事論評カテゴリーのバックナンバー 「福島さん、よくぞ連立離脱した!」 において私論を既述済であるが、原左都子は普天間問題を発端とした社民党の民主党政権よりの連立離脱を今でも大いに評価している。 その後、先だっての参院選において連立離脱が選挙戦に悪影響を及ぼしたのか、社民党は前回よりも議席を失うという敗北の結末となったことは国民の皆さん既に承知であろう。
 この社民党の連立離脱そして参院選における敗北こそが、今回の辻元氏の社民党離党の魂胆であることはその後のマスメディアの続報に触れるまでもなく重々察しがつく話である。


 ここで辻元清美氏の思想や国会議員としての経歴を、原左都子の私論を交えつつ以下に簡単に振り返ることにしよう。

 1960年生まれの辻元氏は学生時代より左派であったらしく「ピースボード」を設立等社会運動に参画した後、その目立つ行動が当時社会党党首であった土井たか子氏の目にとまった後、1996年に社会党(現社民党)より衆議院議員に初当選した。 男女共同参画や護憲運動等、左翼・中核派が関与する反戦運動の発起人としても名を連ねた。 この頃の辻元氏はまさに社会党党員としてまっしぐらの人生街道だったのであろう。
 その後“勢いと元気のみが取り得”の“目立ちたがり屋”とも表現できる辻元氏は、「鈴木宗男事件」に関して国会における証人喚問で鈴木氏本人をつつき倒すものの、翌月にはその報復に遭うはめとなるのだ。 自身の“秘書給与流用疑惑”が発覚し逮捕、起訴され有罪判決を受けることとなる。
 2000年に衆議院議員に再選された後、2004年の参院選比例区で落選。 翌9月の衆院選の選挙区でまたもや落選したものの、比例区で復活当選している。
 そして昨年2009年8月の、結果として“幻の”政権交代劇でしかなかった衆院選において、(辻元氏が目立つ存在であるが故に選挙戦で民主党に利用されたのみと私は考察するのだが) 民主党の全面的支援を受けて大阪10区から当選し、その後国交省大臣に任命された民主党大臣である前原氏より指名されて国交省副大臣として就任したのである。


 上記の辻元氏の略歴をお読みいただいただけで、今回、氏が何故に社民党を離脱したいのかの意図が歴然としていることに読者の皆さんは気付かれるであろう。

 この人、既に昨年8月の衆院選時より自分を支援してくれた「民主党」に心が傾いていたことと察する。
 新政権に利用されていただけとも未だに気付かず(まったく浅はかな女だよなあ~)と同情する他ないのだが、前原氏の指名により国土交通省副大臣にまで登り詰めた段階で、やっと辻元氏なりの国会議員としての“成功観”が満たされたということだったのかもしれないねえ…。 
 若かりし日に内面からエネルギーが湧き出すままに左翼に傾き自己実現欲に走り、それが功を奏して社民党の衆議院議員としてデビューできたけれど、今となっては“そんなもんどうでもええ~~”とのことで、辻元氏は今後民主党に翻ってでも自分が更に目立ちたいだけの話なのであろう。 昨夏政権を取ろうとしていた民主党が自分を衆議院選において支援してくれ、そして「副大臣」の待遇まで与えてくれて迎えてくれた。 そのような外見的に輝ける事実こそが、辻元氏が国会議員として目指す方向だったに他ならないのであろう。

 それが証拠に社民党の党首である福島氏が政権離脱をメディアを通じて表明した暁には、辻元氏は“まるで宝塚を退団するがごとく”前原大臣の胸にすがって大袈裟に泣き崩れたのである。(あの影像こそが、辻元氏が“我が身息災”な観点から副大臣を堪能していたことを国民に晒した証拠であると私は捉えている。)

 辻元さん、少なくとも何故に社民党を離党するのかを少数ながらも社民党を支持している国民に対し弁明してから離党するべきであるのは議員としての常識であるはずだ。
 あなたが若かりし頃に燃えていた左翼思想は今となっては一体どうなってるの? 人の思想とは外部環境によってそんなに移りゆくものなの? 


 原左都子が先だっての参院選において何処の政党を支持したかについては、個人情報故にここでは決して申し上げられない。
 その上で社民党福島党首による、政権を離脱して来る参院選で議席を失うことを重々覚悟した上で尚「普天間問題において社民党は是非とも県外、国外移転を守り抜く!」との英断は、他の政党より何よりも私にとって大いなるインパクトがあったことは事実である。 あの社民党の政権離脱の決断こそが、鳩山政権を滅亡に導く糸口となったと言っても過言ではないのだ。
 辻元氏のごとく“新政権と連立して依存しさえすば自分が出世できる”などとの軟弱な野党議員が存在することは、先だっての参院選においてせっかく国会を「ねじれ」状態にまで持ち込んだ野党支持派の国民にとって大いに幻滅以外の何ものでもない。 辻元氏は社民党を離党する以前の問題として、即刻議員辞職を決断するべきである。
 
 辻元さん、あなたは今後国政の「小選挙区」で勝つことを目標としているとの報道であるが、今現在のあなたの社民党離党行動は、先だっての参院選で“有名だから”の理由のみで勝利した「谷亮子」や「三原じゅん子」と同レベルの“ミーハー域”を超えていないことを、原左都子が親切にもこの記事の最後で示唆しておいてあげよう。
                 
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子どもの進路選択基準は「好きだから」でよい!

2010年07月25日 | 教育・学校
 今回の記事は前々回の記事「オープンキャンパスへ行こう!!」の続編になるのだが、昨日(7月24日)連続猛暑日が続く殺人的とも言える激暑の中、今年度最後のオープンキャンパスへ娘に同行した。

 昨日訪れたのは、日本において教員養成課程の中核的役割を果している首都圏に位置する某国立大学である。
 我が娘は教員を目指している訳ではなく、むしろ「教員にだけは絶対になりたくない」意思が以前より強靭である。親の目から考察しても、我が娘には“教員”の適性はないと判断している。 にもかかわらず何故に教員養成を主眼とする大学のオープンキャンパスを訪れたのかと言うと、その大学には娘が目指す美術分野のコースが存在するからに他ならない。

 娘の場合、自分が目指す専門分野に関して典型的な「下手の横好き」以外の何ものでもない。 その“下手さぶり”を親の私が懸念して、早くも高1時点より美大予備校にて受験に必要なデッサン力や色彩構成力を磨かせているのだが、親の期待とは裏腹に一向に上達しない。 サリバン(私のこと)が幼少時より厳しく指導している学科に関しては、高2にして受験模試で志望校合格圏内のAランクの成績を挙げられるのに、特に実技のデッサン力がいつまで経ってもDランクから脱出できないでいる。
 そこで目を付けたのがこの国立教員養成大学の芸術コースである。ここの実技試験が一般の美術大学より難易度が低そうなのだ。学科力のある我が娘にとっては、もしかしたら入りやすい大学であるかもしれないとの望みを抱いた訳である。 
 ただ、不安材料は盛り沢山だった。 教員養成大学の芸術コースが如何なる芸術教育を実践しているのか? 施設設備は整っているのか? 教員志望ではない学生に対する就職面でのバックアップ体制はあるのか?  これらの懸念事項を解明するべく、親子で激暑の中出かけたのだ。


 出かけてみて驚いた。
 まずは、大学最寄駅前のバス停でオープンキャンパスに参加する受験生達が長蛇の列なのだ。 そして大学構内でも至る所で生徒保護者等々多くの参加者でごった返している。 この猛暑にしてこれ程参加者の多いオープンキャンパスは、ここが初めてだったかもしれない。 そのように感じていたところ、全体説明会における大学側の説明も「予想をはるかに上回る受験生の方々に参加いただき、用意した資料が大幅に足りずご迷惑をお掛けします」とのことである。 
 経済不況の影響が大きいことを実感させられる思いである。 少しでも学費の安い国立は今や大人気なのであろう。 はたまた、若者の厳しい就職難の今、卒業後の就職の安定性を考慮した場合“教員”という職種はその代表格であると位置づける親子も多いのかもしれない。


 さて、話を我が親子に戻そう。
 教員志望がまったくない我が親子の関心は、上記のごとくこの大学の芸術分野における教育力であり、施設設備であり、教員以外の就職に関するバックアップ力である。
 教職員や現役学生に直に話を聞くのが一番手っ取り早いとの判断の下、早速芸術棟における学生の制作展示会場において現役学生を捉まえた。 この学生の場合、第一志望でこの大学に入学しているとのことで、十分に満足している趣旨の充実した話を聞くことができた。施設設備や教育力等の詳細については学生の立場の自分が話すよりも専攻の教官に聞いた方が正確とのことで、その教官が待機している展示場を教えてもらった。

 その教官はまさに我が娘が目指す分野の准教授であられたのだが、ちょうど我々がその展示場に訪れた時に他に訪問者がおらず、長時間に渡って話を伺うことが出来たのはラッキーだった。 しかもこの准教授先生、竹を割ったように歯に衣着せぬ明快な“ものいい”ぶりである。 以下にそのやりとりの一部を紹介しよう。
 私「○○分野の施設設備や教育体制はこの大学にありますか?」 教官「一切ありません。それを教授する教員もいません」 
 私「今後その分野の設備を増設する予定はありますか?」 教官「この不況期ですから、まったく予定はありません。 そもそも娘さんは芸術家を目指しているのですか? 今時、芸術家として身を立てるのは至難の業ですよ。 この大学はそもそも教員養成課程ですから、芸術分野の学生とて過半数が教員を目指します。そうでない学生にも教職免許を取るべく指導をしています。 教員はいいですよ。子どもを産んで3年間も育児休暇を大手を振ってとれます。 企業に就職したってそんなに恵まれている職場はないですよ。そして、今時企業に就職しようと志したところで“コネ”なくしてそれが叶う訳もありません。 ましてや、芸術家として生きて行こうとするならば、本人の類稀なバイタリティーとそれ相応のバックアップがない限り絶望的であるとも言えます。娘さんにそれ程のバイタリティがありますか?」
 私「(あんたが言ってることはこの厳しい時代における一般論であって、その程度の認識ぐらい今後大学へ進学させる子どもを持つ保護者としては百も承知の上だよ。大きなお節介だよ。 しかも未だ16歳の少女が健気にも未来に向かって描いている夢を心無い一言で潰さないでくれよな! と感じつつも…) 先生がおっしゃる通りですね。 私自身教員経験があるので、今時の教員が美味しい労働条件の下で働いていることは重々理解できています。 その上で、私は娘自身が“好きで自分がやりたい分野”で生きていくことを今後も応援したいと思っています。 今日は大いに参考になりました。ありがとうございました。」

 この准教授なりのご自身が現在所属する国立大学擁護の模範回答を聞いた思いの私であった。
 ここで少しだけ准教授先生を弁護しておこう。 今回の“会見”では他にも種々の話を伺えたのだ。 この准教授先生は紆余曲折しつつも東京芸大を卒業した後芸術家としてある程度の人生を歩んだ後にこの大学に就任されたとの話であった。 そういうバックグラウンドがあるからこそ、オープンキャンパスに訪れた初対面の親子に対してこれ程の単刀直入な“もの言い”が可能だったのではないかと推測した原左都子である。


 それにしても大学受験生を持つ現役母である原左都子は、子どもの大学における専攻の選考基準は本心から“本人が好きな”分野でよいと考えている。 
 就職難の時代だから安定した方面を目指せ!などとの親や大人の都合を子どもに勝手に押し付ける過ちとは、必ずや子どもにマイナスの負荷をかける結果となると私は考察するのだ。
 なりたくもない教員に子どもをならせようと躍起になることより、コネで企業に就職させることより、親が子に優先すべきこととは、まずは子どもが充実した大学生活を堪能するのを応援することだと原左都子は信じるのだ。 その後に子どもが確かな実力を育んでいるならば、親として更なるバックアップに着手しても決して遅くはないであろう。

 今はまだ我が子にデッサン力がなくてもいい。 日々D評価の連続でも“皆勤賞”で美大予備校に通いつめ、その分野の上達を志す我が子の熱意に日々触れている私は、何がなんでもこの子の美大進学を応援したい! 
 当然ながら、この国立大学は却下である。 
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「ザ・コーヴ」におけるドキュメンタリーのあるべき姿

2010年07月22日 | 時事論評
 芸術作品を観賞せずして論評をする程浅薄な話はない事を百も承知の上で、「原左都子エッセイ集」において今回の記事を公開させていただくことにする。

 芸術作品と表現したが、これは「ドキュメンタリー映画」と表現するのが正確であるようだ。
 既にお察しの読者の方々も多いことと推測するが、2009年度第82回米国アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞に輝いた「ザ・コーヴ」を今回の記事で取り上げようとしている原左都子である。


 「ザ・コーヴ」はアカデミー賞受賞直後より、特に日本国内において物議を醸し続けている米国映画作品である。
 この映画作品をご存知ない方のために、ここでその内容をごく簡単に説明しよう。
 我が国の和歌山県太地町において昔から伝統漁業としてイルカ漁が行われ、地元では学校給食にも捕獲調理されたイルカが出され食されている現状であるらしい。 これに目をつけたイルカ保護団体がそれの残虐性にのみ焦点を絞り、太地町の許可を得ずに隠し撮りや捏造、恣意的な編集、漁民への挑発や俳優に演技をさせた“やらせ撮影”等々の手段によりイルカ漁の“悪魔性”を強調して制作したのがこの「ザ・コーヴ」であるとのことである。


 この作品を鑑賞した見識者の意見は分かれているようだ。

 まず肯定派の意見を取り上げよう。
 一つの映画作品としての“娯楽性”が優れている、という見解がある。 
 イルカ漁をする漁民は悪、これを残酷と捉えるイルカ保護団体こそが善、との図式がこの作品において明快であるため、観賞する側としてはこの単純性に一瞬惹き付けられる魅力があるらしい。(この見解に関しては、“チャングム”等韓流ドラマの我が国における大ヒットにも共通項を見い出せそうである。)
 あるいは、映画全般を通しての“スリル感”が十分に描かれていて、映画作品としてアカデミー賞を受賞するのは理に叶っている、との見解もある。

 次に中立派、慎重派の意見を取り上げよう。 これは日本人に多い見解である。
 日本人の多くはイルカ漁の存在さえ知らない現状において、米国からこれを「日本の伝統文化だ」と押し付けられてもまずは困惑する、との見解がある。 (これに関しては、それを日本人全般に気付かせ問題意識を持たせることも一つの目的だった、との制作側の主張も存在するようだ。)
 あるいは、やはり映画自体がよく出来ていて娯楽的に面白いあまりに、鑑賞者が制作側の主張のみを鵜呑みにしてしまう危険性を孕んでいる、という見解もある。
 また、これはドキュメンタリー映画というよりもイルカ保護団体のプロパガンダ(宣伝)映画と位置づけるべきであろう、との見解も存在する。

 最後に否定派の意見を公開しよう。
 地元太地町からは当然ながら、「嘘を事実のように表現された」ことに関する反発が大きい。
 一方で、この映画がアカデミー賞を獲得したことにより 「反イルカ = 反日本」 の図式が成り立ってしまうのかと思いきや、世界の反応は思いのほかクールであることを実感させられる一面もあるようだ。

 農林省大臣を辞任した前赤松農林相の、この映画における議論の趣旨をまったく捉えられていない浅はかな発言をここで紹介しよう。 「食物連鎖の世の中で食べる事を否定したら何も成り立たない」 (この人、原左都子同様にこの映画作品を観賞せずしてコメントを述べているのであろうが、この発言で国家の大臣として太地町を救ったと勘違いしているとしたらまったくもってとんでもなく浅はかな発言であろう。)


 この「ザ・コーヴ」は我が国において当初「反日的だ」などとして保守系団体が上演禁止を表明していたものの、その後上演を期待する世論の高まりにより、東京、大阪など一部の地域で上演されている様子である。

 朝日新聞7月20日文化欄の記事によると、この映画を鑑賞した国民の反応は以外や以外冷静であるようだ。
 その中で、この映画が“ドキュメンタリー”だったことに対する朝日新聞記者の憤りは大いに原左都子にも伝わる思いである。 
 映画であれ何であれ“ドキュメンタリー”と名付けて制作する以上、その表現には一切虚構を用いてはならず、制作側の客観性のある冷静沈着な取材や記録に基づき事実のみを伝える内容ではくてはならないはずである。
 その意味で、この「ザ・コーヴ」はそもそも“ドキュメンタリー”との冠を付けてはならなかったのだ。 むしろ、一般娯楽分野の映画としてすべての取材対象者を匿名にして一つの“芸術作品”に特化して仕上げたならば、上記の評価のごとく何らかの価値があったのかもしれない。
 ところが、これを“ドキュメンタリー映画”の位置付けとし、アジアの一国(我が国のことであるが)の貧民弱者を犠牲にして実名を挙げねば作品としてのリアリティが得られなかった制作側の魂胆が見え見えのようにも察するのである。


 最後に、原左都子個人の鯨イルカ等の捕獲漁に関する個人的見解を述べると、正直申し上げて“反対派”である。
 我が国は既に(現在は曲りなりではあるが)一応先進国に位置している。その種の国では、食性において“世界標準”に従うべきではないかと感じるのだ。
 世界の数多くの国々が嫌悪感を抱く食材をあえて食さずとて、“世界標準”の食材を国民に分配することにより国民の健康は十分に満たされる時代のはずである。それ故に我が国の国政は、特殊な狩猟や漁に頼って生き延びている生産者への方向転換指導に早急に着手するべきと考えるのだ。
 我が国においては歴史的に決して特殊な宗教が蔓延っている訳でもない。その観点からも生産者側、消費者側両面での“世界標準”の食糧指導は容易なはずである。


 それにしても、一国一地域の食性問題とこの映画「ザ・カーヴ」の存在意義はまったく異質の議論であり、この映画は娯楽部門でアカデミー賞にエントリーすればよかったとも捉えられると言いたいのが、原左都子の結論である。
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オープンキャンパスへ行こう!!

2010年07月20日 | 教育・学校
 高校が夏休みを迎える前後の盛夏のこの時期に、毎年全国の大学において受験生のために大学を解放する“オープンキャンパス”が開催されるようである。

 現在高2の我が家の娘の場合、高校入学時点から早くも大学での専攻分野が決定していたため、既に昨年夏から娘が目指すべく大学のオープンキャンパスに親子で参加している。
 まだ年端もいかない我が子一人が表向きの大学を見学しただけでは判断材料が乏しいと考え、過保護は承知ながらも昨年から娘に付き添って(と言うよりも、むしろ親の私の方が意欲的に)我が子の大学選択のために積極的にオープンキャンパスを利用している我が家である。

 我が家の娘の場合、昨年の夏時点で既に第一志望及び第二志望大学が決定していたため、昨年のオープンキャンパスはその2大学に集中して訪問し、納得いくまで制覇した。


 今年は残りの第3希望以下の大学を娘と共に訪れた。
 
 首都圏の大学は、既に私が大学受験した時代より都市部から多摩地区や相模原地区等への郊外移転が相次いでいる。 都心に住む我が家の場合、一部の例外を除き何処の大学へ行くにも電車を3、4本乗り継いでそしてバスに揺られて片道2時間以上の時間を要する有り様である。 梅雨明け以降35℃前後の猛暑が続く中この“長旅”は老体にとって重労働であるが、日焼けも物ともせずに娘に同行した私である。


 私が大学受験の頃にはこのようなオープンキャンパスは元より、大学の説明会も大学が発行するパンフレット類さえもなかったように記憶している。 もしかしたらそれは私が単に田舎者だったからであり、しかも国立大学のみを受験ターゲットにしていたからなのかもしれない。 私の場合、志望大学を訪れたのは3月の国立一期、二期受験本番時が初めてだったものである。

 現在は少子化に伴い大学間の学生獲得が激化している背景もあって、何処の大学も少しでも優秀な学生の確保のために様々なイベントの開催に躍起になっている現状であろう。
 受験生側としては、このような機会を有効利用しない手はない。 大学に関する情報を得る手段は多様化している現在と言えども、やはり実際に志望する大学を訪れて自分の目で耳で情報を得るのが、一番手っ取り早い情報収集ではないかと私は感じる。


 今回我が親子が訪れた娘の第3希望の大学が予想以上に“好感度”であった。
 オープンキャンパス全般に関して自由見学できる大学の施設設備や展示が、我々のような素人受験生親子にも分かり易いように工夫されている。(参考のため、我が娘の専攻分野が特殊分野であるため、大学の施設設備や現役学生の日頃の成果の展示が大いに参考になるのだが。)
 それに加えて教職員と現役学生の対応がすばらしいのだ。 我々が大学の構内で迷っていると、「どこを見学されますか?」と教職員、学生を問わず気軽に声をかけてくれる。それに応えると「ご案内しましょう!」とその分野の建物まで引率してくれつつ、如何なる質問にも即答してくれるのだ。 おそらく現役学生に関しては“オープンキャンパス要員”として選考された学生達なのであろうが、それにしても受験生の一保護者であるこの原左都子の矢継ぎ早の質問にも即答できるそのキャパシティには心より脱帽の思いであった。
 娘にとっては今まで第3希望の位置付けであったこの大学を大いに気に入った様子で、むしろこの大学を“公募制推薦”の対象として早期に合格できたならば入学してもいいとまでも考えている様子である。


 必要以上に丁寧過ぎたりサービス過剰の大学も受験生としては考えものである。
 例えばランチは無料提供、最寄り駅からのバス代も無料サービスという美味しいオープンキャンパス大学もある。 一見いい思いが出来た気はするが、この種の大学ほど人材確保に難儀しているとも考察できる。

 それから一応老舗で昔から世間に名が通っている大学の中には、手厳しい表現をすると「この大学、何を目的にオープンキャンパスを実施してるの??」 と言いたくなるお粗末とも言える大学も存在する。
 例えば、我が家の近くに偶然我が娘が志望する分野の老舗大学の学部が存在する。 自宅から歩いて通える程近いこともあり、昨年からこの大学のオープンキャンパスに親子で通っている。
 ところが、この老舗大学のオープンキャンパスの実情が“お寒い”限りなのである。 まず第一に教職員も学生も受験生や保護者に向かって“あいさつ”を一切しないのだ。 暑い中頑張っている学生にこちらから挨拶すると、中には快く返してくれる学生もいるのだがほとんどの学生は戸惑っている。 ましてや教職員に関しては、事前に挨拶をしない取り組みでもしていたのであろうか?? こちらから質問しないと誰も反応さえしない有り様である。 この大学の学部全体会のテーマが“交流”とのことで、担当教員によるその話だけは立派ではあったものの、この大学学部の“交流”とは一部だけに通じる形骸化したものであろうと原左都子は悟ったのである。 恐らく教員の発言とは裏腹にこの大学は一部の世界に特化するがあまり、一般世界には閉鎖的な空間でしかないのであろう。 (この大学に関しては施設設備面でも我が子が目指す分野においてまったく満たされていないため、残念ながら今年のオープンキャンパス時点で志望却下対象とした。)
 (日芸さん、せっかくオープンキャンパスを開催しているのだから、せめて訪問者にはオープンに“あいさつ”ぐらいしても損はないと原左都子は思うのですが、それにも優先する程の貴学部のプライドでも存在するのでしょうかね??どうなのでしょうか?)


 いやはや、ご家庭により子どもを大学へ進学させる目的意識とは多様なことであろう。
 我が家の場合、娘の志望分野が明確なため大学のオープンキャンパスが果す役割を高1時点から堪能できている。
 そうではなく、もしこれから大学での志望分野を絞り込もうとしているご家庭においても是非共オープンキャンパスを有効利用して欲しい思いの原左都子である。 現地へ赴いて生身の教職員や学生に直接話を聞くことにより、必ずやパンフレット等の資料では得られない大学の持つ真の特質、個性を実感できるはずである。 
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