原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

公立小学校集団登校時の死亡事故を撲滅するには

2016年10月31日 | 時事論評
 2年程前に、日本にて美術個展を開催するためにアルゼンチンからはるばるやって来た知人女性の個展画廊までの道案内をしていた時の事だ。

 小学生の娘さんを持つ母親でもあるその女性が、たまたま日本の小学生達の下校風景を見て驚いて私に尋ねる。
 「日本ではこんな小さな子どもを、学校下校時に親の付添いなく子供だけで帰らせているのですか?!?」
 私が応えて、「はい、その通りです。 朝の登校時とて同様です。集団登校と称して子供達のみで登校させています。 こんな無謀で危険な事態を平気で放置しているのはおそらく先進国内では日本だけでしょう。」


 実は、米国在住の姉からも同様の話を耳にしていた。
 米国でも、小学生の登下校時には必ずや親が車で送り迎えする義務があると。 仕事等でそれが不能な場合も親同士で話し合いを持ち、相互扶助の体勢を採っているらしい。 相互扶助とは言えども日本の“なあなあ主義”とはまったく異なり“ポイント制”を採用して、入学から卒業まで親同士が公平になるように合理的に計算され尽しているとのことだ。


 私は過去にも、本エッセイ集にて小学生の集団登校に対し批判エッセイを綴り公開している。

 2012.4.25公開の 「『集団登校とは“集団逃避無責任思想”でしかない」 と題するエッセイの一部を以下に要約して紹介しよう。
 2012.4.23 朝、京都府亀岡市の府道を集団登校中の小学生の列に車が突っ込み10名の死傷者を出した事故を受けて、京都府内の公的機関が通学路や子ども達の登校の様子を点検しているニュースが流れた。
 近年、集団登校中の子ども達の団体に車が突っ込み幼き数人の犠牲者を出す大惨事が後を絶たない。 国民の多くが「痛ましい…」と言うよりも、「またか…」との感覚を抱いているのが正直なところではあるまいか。 この状況下に於いては、もはや公的関連機関が小手先の対策や付け焼刃的改善策を掲げたところで埒が明くべきもないのではなかろうか?
 学校教育現場に於ける「集団登校」の慣習とは、元々「交通安全」対策のために1960年代以降文部科学省(旧文部省)の指揮の下に各都道府県に於いて実施されるようになったらしい。 2000年以降は、防犯対策の面でも「集団登校」が有効との位置付けとなったとの朝日新聞の報道である。
 ところが、当然ながら学校現場よりの異論・反論も存在する。 例えば、「集団」とは児童一人ひとりの注意が散漫になり易いとのマイナス面もありむしろ交通安全面上危険性が高いとの理由で、実施を見送っている自治体も存在するようだ。
 文部科学省も68年の通知で、集団登校が「(例えば車が高速で走行する場所等)は大事故を起こす危険性があるため、集団登下校を避けることが望ましい」ことを既に指摘しているとのことだ。  平野文科相相は、「(事故現場が)通学路としてふさわしいのかも含め検証して、改めて全国の通学路の選定の方法が本当に良いのかどうかまで検討すべきかどうかを詰めて行きたい」と(原左都子に言わせれば遅ればせながら)述べているようだが……
 ここで、原左都子の私事を述べさせていただくことにしよう。
 我が娘も小学校低学年(高学年は他校に転校)に通学していた公立小学校に於いて、「集団登校」を経験している。 学校が全校生徒に強制するこの「集団登校」制度の内容が、想像以上にいい加減なのである。 その一例を挙げよう。 我が子が小学校に入学当初の4月の下校時に、まだ登下校に慣れない1年生児童のために学校教員が「集団登校」班に同行し保護者が道中まで迎えに行くとのシステムがあった。 その場に行くと、な、な、なんと、娘の姿がない!! 何分事情を抱えている我が子である。そんな事もあろうかと予想可能な私ではあるが、同行していた見知らぬ若い教員に我が子がいない旨を伝えた。 そうしたところ、返された応えには驚いた。「間違えて別の班で帰ったんじゃないですか~~?」 その教員の対応に唖然としつつも未だ6歳の我が子の安否こそを気遣い帰宅を急いだ。 そうしたところその同行教員から我が子がいない連絡を受けたとの、担任先生からの切羽詰った電話があったとの亭主の話だ。 警察に通報しようかと考えたその後、娘は雨にずぶ濡れになりつつ一人で帰宅してきた。 幸いな事にいつも母子で遊んでいた公園方面へ迷い込んだようだが、その辺の土地勘があったために自宅までの道程が把握できたことが幸いした。   義務教育に於ける「集団登校」実施の責任とは、最終的には学校が全校生徒一人ひとりに対してそれを負うべきではないのかと、娘の入学当初より抱かされた我が感慨深い出来事である。 それが不能であるならば、最初から児童の登下校時の全責任を保護者に転嫁しておくべきだ。
 最後に原左都子の結論に入ろう。   我が国の義務教育が「集団主義」に囚われ続けてきた長年の歴史に於いて、「集団登校」を今さら終焉させろ!と噛み付くこと自体が困難と成り果てている教育現場であろうことは悲しいかな私にも想像がつく。
 ただ義務教育が「集団登校」を「交通安全」「子どもの治安」との名目で深い思慮もなく安直に死守し続け、その歴史的変遷や社会的背景の移り変わりの実態を捉えないまま、近年どれ程の幼い尊い命を犠牲にしてきているかに関しても、そろそろ認識するべき時ではないのか!?
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 つい最近、横浜市に於いて登校中の9名小学生団体の列に87歳の高齢者が運転する車が突っ込み、多数の負傷者と共に小学一年男児の死者を出した事故は皆様の記憶に新しいことであろう。

 悔やんでも悔やみ切れない同様の集団登校時の死亡事故発生を、何故学校教育行政は放置し続けているのか?!
 “根本解決”を目指そうと、誰かが訴えないものなのか!?


 原左都子の私論でまとめよう。

 可愛い子供を学校ごときに殺されるてたまるものか!! との憎しみにも似た感情を抱きつつ我が子の安全を死守して来た(学校嫌いの)私から、登下校時の子どもの安全確保に関する根本的改善策を指南しよう。

 日本の公立小学校も、そろそろ「世界標準」を視野に入れるべきではあるまいか?
 その基本とは、年端もいかない子供達の登下校時安全確保を「親に委ねる」方式を採用することに踏み切ることだ。 
 その際に、一案として米国式を採用してはどうか。 要するに親同士で自主的に話し合いを持たせ“ポイント制”を導入し、あくまでも親同士が平等理念の下に親間での子どもの送迎を任せるとの方式だ。
 私の認識によれば、日本の小学校登下校時の事故に関して学校は単に安価な保険制度に加入しているだけの話で、自治体は何らの責任を負っていない現状と理解している。
 それならば、親に自身の子供の送迎を委ねても、当該民間保険システムに依存すれば事故発生時の保証には何らの変化も無いのではあるまいか?


 もう一点、まったく別の視点からの私論を記そう。

 今回の横浜の事故は、87歳高齢者の運転が引き起こした惨事らしい。
 ここは、もうそろそろ高齢者の運転免許取得制度を大幅に変更してはどうなのか!? 
 我が実母とて自分の判断で運転免許証を返上し、高齢者介護施設への入居を勇断したばかりだ。

 警視庁が強制力を持って高齢者の運転免許証取得(更新)を阻止しない限り、この種の事故が全国的に勃発し続けるだろうと危惧する…。

郷里で過ごした怒涛の一週間  - 高齢者有料介護施設比較編 -

2016年10月29日 | 医学・医療・介護
 (写真は、JR四国高徳線 板野駅ホームにて撮影した徳島駅行列車。 ワンマン運転1両車両にて運行。 郷里実家よりの帰りはまずこれに乗って徳島駅到着後、バスに乗り換え徳島あわおどり空港まで行き、空路東京への帰路につく。 郷里実家より東京の我が家まで約7時間の長き道程だ。)

 
 さてこの度の郷里旅行記最終章は、テーマを旅行の原点に戻そう。

 郷里に一人暮らしの実母を、高齢者有料介護施設へ入居させるための引越を実行するのが、今回の旅行に於ける我が第一義の任務だった。
 結果としてその任務を滞りなく終了出来たと振り返るのだが、実は出発前の事前準備が大変な作業だったものだ。
 私の場合、東京に住む義母の介護保証人を既に4年程実施している経歴もあり、高齢者有料介護施設に関しては熟知しているものと自分では把握していた。
 ただ高齢者有料介護施設と一言で表現しようが、その存在意義や果たす役割が多様化している現実だ。 これに関しても、6月に実母の介護施設を探すため郷里の複数の有料施設を見学しているため、認識出来ているつもりだった。

 ところが、実際に実母が入居予定の介護施設へ第一保証人(参考のため、第二保証人は郷里の叔母夫婦に任せている)の立場の私が最初に東京から電話を掛けた時の施設長の対応に、多少がっかりさせられたのが正直なところだ。
 施設長氏曰く、「第二保証人のお母さんの妹さんご夫婦に既に保証人業務をお任せしておりますので、ご心配は要らないですよ。」
 ここで私が置かれている現実を振り返るはめとなる。
 確かに施設長氏がおっしゃる通りだ。 遠方に住む保証人など何らの役にも立たないのは歴然だ。 有事の際には、必ずや直ぐに施設へ駆けつける事が可能な郷里の親族に連絡が行くのであろう。

 そして、この度実際に実母が入居する施設を初めて訪れ、私は再度施設長氏と面談(と言っても玄関先で数分間話し合っただけだが)を持った。
 その時にも、今一度第一保証人である我が任務を確認せんとしたところ、またもや「現地に住まれているお母さんの妹さんご夫婦に連絡を取りますので、(直ぐに役に立たない?)遠方の娘さん(私の事)に連絡をする事はまずありません。」との回答だ。

 そのご回答が重々身に沁みつつも、「私は東京にて義母の保証人を既に4年来担当しております。義母が入居している施設では、年に2度ケアマネジャー氏と保証人との会合を持ち、今後半年間の義母の介護計画が話し合われそれに両者が同意しサインをします。 (実母が入居予定のこの施設では)第一保証人である娘の私が、その種の会合に同席しなくてよいのですか?」  

 この会話で、どうやら私は実母入居予定の介護施設長に嫌われてしまったようだ……
 ただ私としては、有料介護施設には支払いに応じた介護を期待しているからこそ、それを確認したのみだったのに。


 ここで、「有料介護施設」の“ランク”に関して、私が認識している範囲で注釈を加えよう。

 義母が数年前より入居している都心の介護施設とは、「介護付有料高齢者施設」と名付けられている施設だ。
 おそらく、すべての「有料介護施設」の中で一番介護が手厚く(この表現は誤解があろう。あくまでも施設内で完璧に介護がなされた場合の話)、入居者本人の介護レベルが最高値に達しようが他界するまで施設を移動することなく(病気の場合は病院入院する場合もあるようだが)介護を受けられると捉えてよいだろう。
 その分、支払う介護料も一番高額となるのは必然だ。

 片や、今回郷里の実母が入居するのは、「サービス付高齢者向け住宅」に分類されるものと認識する。
 その施設の役割とは、比較的自立している高齢者を支援しつつ一人暮らしをさせる事に重点があろう。
 ただし今回実母が入居した施設とは病院付属であり、しかもその規模が大きい事が功を奏していると捉える。 もしも母の介護レベルが上がったならば、病院内のより高度の介護が受けられる別の施設へ転居させてもらえそうだ。 更には、病院付属が功を奏して死に際にも病院内でその死を看取ってくれそうなのも遠方に住む家族としてはラッキーだ。 
 まあ何と言っても、定年まで公務員だった母の年金内で残りの人生をこの施設で全うしてくれそうな事実こそが、何にも勝る子孝行と結論付けるべきと心得る。

 実母が入居する施設の長に対し、私がマイナスの印象を抱こうがどうであろうが、とにかく実母自身がこの施設を選択決定した事を「幸」とするべきだろう。


 最後に、原左都子の結論でまとめよう。

 人それぞれの老後があるのだろう。
 そんな中ご自身に高額年金等の経済力があるのならば、それ相応の施設にて他者の介護力に頼るのも良かろう。

 それがほぼ無いに等しい私のような人間は、如何に老後を渡るべきか?
 少なくとも金力に加えて集団迎合力の微塵も無い私の場合、遠い(近い??)未来には一人で息絶えることが一番の美学かもしれないと、自宅に戻った今改めて実感させられる‥……

 (「原左都子エッセイ集」読者の大方は、定年退職した殿方がほとんどとお見受けしております。 そんな皆様が、実際問題ご自身の老後介護を如何に処理されるおつもりだろうか??  奥方に頼る?!? そんな“甘え”が通じない時代に変遷している事を、今から重々肝に命じて欲しい感覚がありますよ!)

郷里で過ごした怒涛の一週間 - 懐石処編 -

2016年10月28日 | 旅行・グルメ
 (写真は、今回の実母介護施設入居引越旅行に際して、郷里到着初日に立ち寄った懐石料理処にて撮影した店内の風景。)


 私が郷里へ帰省する際には必ず1泊か2泊ホテルを予約し、ひとまず郷里の観光を実施した後に実家へ戻る段取りとなって既に10年の年月が経過している。

 今春娘が社会人となり郷里への旅行が“一人旅”となった暁からは、私の好みのホテルを予約し自分が欲する食事処で夕食をとる(“酒盛り”をすると表現するのが正確だが)事を楽しみとしている私だ。


 さて、今回の“酒盛り”を一体何処でしようか?? と迷っていた時、タイムリーに我が郷里の出身大学から「同窓会通知」が届いた。
 それを見ると、今秋の同窓会は、郷里主要駅ビルホテルの懐石処にて実施するとの通知だ。

 なるほど。 私が40年近く前に郷里を離れ上京した頃には、そのホテル自体が存在しなかった。
 時は流れ、既にそのホテルが老朽化している(?)のかもしれないが、今回はとにかくそのホテル宿泊を予約して、大学時代の同窓生達が来る11月に集うという懐石処(「藍彩」と名付けれらている)を是非とも一人で堪能しようと考えた。 


 そして尋ねた懐石処「藍彩」は、夕刻にしては時間が早かった事も理由だろうが、私が最初の顧客だった様子だ。

 明日の実母引越のため実家への到着時間を早い時間帯に設定していた事が大きく、手短に食せる「御膳料理」を発注した。
 もちろん、この飲兵衛の私が酒を外す訳がない。
 とりあえずジョッキビールをすぐさまゴクゴクと飲み干した後、次に注文したのが地元の冷酒だ。(これは6月に訪問した時にも別の懐石料理処で嗜んでいる。) 当日夏日程に全国的に暑かった頃だが、氷樽に入れられて運ばれて来たこの冷酒が、何とも美味な事!

 この冷酒を飲み干した頃、食事処「藍彩」の女将が私の席へやって来た。
 
 この体験は郷里の食事処にて今回が初めての事だった。
 と言うのも、今時全国津々浦々の“一応名の通ったホテル”の飲み食い処では、個人情報保護観点に関して“全国標準”を貫いている故と推測する。  確かにそれもプラスの効果はあろう。
 だがもしかしたら、顧客によれば(特に一人旅の場合など)地元の人々との一期一会の出会いに期待している場合もあり得る。 そういう心境の時に、とりあえず個人情報に触れる事無く一言声掛けしてくれたものならば、嬉しい顧客も存在するのではあるまいか?

 確かに、これが鬱陶しい場合もある事を私も心得ている。
 ご自分の職責も心得ず自由気ままに語りかけられたものならば、顧客のこちらが聞き役となり辟易とさせられる事態も数多く経験している。

 そうした中、「藍彩」の女将の対応力は素晴らしかった。 
 しつこ過ぎず、かつご自身の興味深い私事も語って下さり、有意義な時間を過ごせたことに感謝申し上げたい。


 私と本名が同名らしき「藍彩」の女将さん。
 今度、上京された際に、東京にて再び出逢える事を楽しみにしております。

 その前に、我が出身である郷里の国立大学医学部「のぞみ会」と称する私と同級生の同窓会が、来る11月12日(土)にホテルクレメント6階の「藍彩」にて開催されるようです。
 残念ながらその会合には私は出席不能です。
 もしもその会合を女将さんが担当されるならば、上京して40年近くの年月が流れている「のぞみ会」一員である私が10月に単身で「藍彩」を訪れた事を、「のぞみ会」メンバーに伝えて下されば嬉しく存じます。

郷里で過ごした怒涛の一週間 - 近隣の人々編 -

2016年10月27日 | 旅行・グルメ
 (写真は、この度郷里から持ち帰った私の古い写真の一枚。 おそらく1960年代半ば、私が小学校5年生頃の写真。)

 冒頭より、上記写真について補足説明をしておこう。
 元々高かった身長がこの頃から更に伸び始め、ご覧の通りのスリム体型で「骸骨ほね子」のあだ名を付けられていた時代だ。
 我が実母に洋服の趣味があり、幼稚園頃から高校生時代まで、私と姉が着る洋服のほとんどをお揃いでオーダーメイドにて仕立ててくれていた。(中高生時代は自分の好みで既製服も買っていたが。) 特に小学生時代は細身で手足が標準よりも長く、既製品の洋服では袖や足首がつんつるてんだった事もあるが、お陰でいつも自分の体型に合った洋服を着用出来た。
 写真のワンピースも、母と仕立て職人氏との合作デザインにより姉妹2人お揃いで仕立てられたが、我がスリム体型にピッタリ合っていた記憶がある。
 車でやって来た叔父が撮影してくれた一枚。 横の木造の建物は納屋。 太い大黒柱があった母屋は手前左側に存在していた。 玄関を入ると裏口まで続く土間が2部屋ありその一つを台所として使用していたが、私が小さい頃には祖母がかまどで薪をくべてご飯を炊いていた。 右手前には畑があり、祖母が一人で野菜を育てていた。 敷地内には柑橘類やグユミ、ザクロ、イチジク等々の果樹木が多く生育し、四季を問わず様々な果実を食していた。


 写真の説明が長引いたが、本題の郷里の近隣の人々との触れ合いにテーマを移そう。

 今回の旅行に限らず、郷里の実家へ行くといつも近隣の人々が野菜等の手土産を持って尋ねてくるのだが、母の介護施設入居が迫っている今回は、いつもに増して人の来訪が多かった。

 これらの人々に共通なのは、玄関から尋ねてくるのではなく、LDKの南側縁側の大窓から突然やって来る事だ。 中には、「おるで~?」(標準語で言うならば「いますか~?」)と叫びつつ部屋へ上がり込む人も珍しくない。
 これには意表を突かれる。
 寝起きで寝間着姿であろうが、化粧もせずウィッグも被っていない情けない状態で対応せねばならない。
 「あら、娘さん帰って来とったんじゃね。」と声を掛けられたものならばもはや逃げ場がない。 やむを得ずその格好のまま生き恥を晒す事態となる。

 例えば、近くの大農家のMさん。 
 この方など私とさほど年齢が変わらない農家の奥さんなのだが、何故か母と仲良しで、年中採れたての野菜や果物を運んでくれているようだ。
 昨夏など、私の分まで東京へ盛沢山の野菜を宅配してくれた。 「お返しはいらんけんな。」が口癖でそれに甘えて頂いてばかりだ。
 今回は、5㎏程の大量の採れたてスダチを持参して尋ねた来た。 転居間近の身の母が「施設へ持って行ってスタッフの皆さんに配るしかない」と言っていた。

 次なる訪問者は、母が後期高齢者となった10年程前より毎日高齢者用宅食を運んで下さっている料理処料理人のOさん。
 Oさんの場合夕方の配達のため、私もきちんと化粧してウィッグも被っているため安心だ。
 このOさんが10年来の私のファンだ。 商売人のリップサービスもあろうが、とにかく私に会うと「こんな綺麗な人見た事ない!」の繰り返しだ。  いつもそれに応えて母が「還暦過ぎたばあさん(私の事)捕まえて何言うとんで!」と返し、皆で大笑いする。 いつも私が帰省しているのを知るなり、必ずや料理処の自宅へ戻り、私のために魚のお造り等々の料理と日本酒一升瓶を運んでくれる。 このお造りが素晴らしく新鮮で美味しい事この上ない。
 母の施設入居に伴い宅食を終了するため、今回はOさんの奥様とも挨拶を交わした。 何でも奥様がご亭主のOさんよりも酒豪とのこと。 同じく飲兵衛の私は「今度帰省した暁には、是非Oさんの料理処で一緒に酒を飲みましょう!」との約束を交わした。

 それから、お隣で和菓子製造業を営んでいるKさんもお菓子を持ってやって来た。 
 この方はおそらく70代程だろうが、いつもしばらく座り込んで話をして行かれる。
 その途中、震度6弱を記録した鳥取地震が勃発したのに驚いた。 母とKさんの話によると、郷里のこの地方で防災無線による大地震警報が発令されたのは、これが初めてとの事だ。
 地震そのものの揺れは震度3程度で(私に言わせると大した事は無かったのだが)、二人が驚いて急いで外に出ようとする。 その行動を東日本大震災経験者の私が諭して、「家具等の倒壊が無い場合、室内の安全な場所にとどまった方が身を守れる。 下手に外へ飛び出すと、ガラス窓が割れたり地割れがしたりして返って危険な場合もある。」 ところが、2人とも外へ出たまま家の中へ入ろうとしない。 揺れているのが怖いとのことだ。 結局その状態で30分程過ごし、やっと2人は室内へ戻って来た。
 その後、テレビ報道を見て二人が住む地方では別段被害が出ていない事を確認・安堵し、Kさんは私に「元気でな」と言い残して自宅へ帰った。


 実母はこうやって、日々地元の人達との関係を紡いで来たのだと改めて認識だ。
 介護施設入居により、近隣の人々とのこの貴重な人間関係が希薄になる事態に何とも寂しい思いを抱かされる。

 そんな私に皆さんが告げてくれた。
 今後も回数は減るが、介護施設まで母に会いに行くから心配要らないと。 
 何とも有り難いお言葉に感謝しつつ、その後私は郷里を後にする。

郷里で過ごした怒涛の一週間  - 古いアルバム編 -

2016年10月24日 | 旅行・グルメ
 (写真は、郷里の実母が住む家に保存されていた古いアルバム内にて発見した私の過去の画像。 1970年に開催された大阪万博会場にて撮影したもの。)



 皆様、一週間のご無沙汰でした。

 9日前に公開した前回の本エッセイにて記した通り、私は先週より我が郷里に一人暮らしの実母を高齢者有料介護施設へ入居させる引越のため旅に出かけておりました。

 
 さて、旅程1日目はいつものことだがホテルを予約し、久々の故郷を一人で堪能した。
 
 ホテルへ到着直後、早速母に電話を入れ明日の引越スケジュールを再確認する事と相成る。
 「引越は午後からだから、私はそれに間に合うように行けばいいよね?」と母に問うと、「やる事が一杯あるから、朝早く来て欲しい。」と訴える。 「だって今回の引越は担当業者に梱包もお願してあるし、たかが年寄り一人の引越に大して時間はかからないよ。」と反論しても、「とにかく〇子にしてもらいたい事があるから早く来て!」と譲らない。

 (今夜はホテルの懐石処でゆったりと酒でも味わい、明日は遅めの出発にしたかったのに…‥)と内心思いつつも、確かに郷里の実家で母と過ごすのはこの旅程が最後だ。
 ここは私側が全面的に譲る決断をし、母の希望通り明朝の早い時間帯の実家到着を確約した。

 
 そして次の日、朝早く母が住む実家(参考だが私自身はこの家で暮らした事は無い。我が上京後両親の県内転勤等の都合で転居した家屋)に到着した。
 昨夜の酒が多少残る身にして眠い目をこすりつつ、「私がやるべき作業とは一体何なの?」と母に尋ねると、それは引越とは全く異分野の作業だった。  どうせそんな事だろうと想像していたが、一時でも早く私に会いたかったであろう母の思いを尊重し、それを責める事は避けた。

 私の到着直後に母が欲していた我が仕事とは、「古いアルバムから私が必要な写真を持って帰って欲しい」なる要望だった。 
 これまた、そんなこと1週間の滞在内で幾らでも時間が取れるはずだ。 なのに何故母がその仕事を第一義としたのかを、娘の私なりに承知した。 確かに母が長年大事に保存していた我が子の写真を本人に委ねたいとの希望に沿う事とは、娘として重要な任務なのかもしれないと。
 そう察知した私は、「分かった。直ぐにその作業をするね。」と応え、アルバムが保存されている2階へ上がった。

 いやはや、膨大な写真アルバムの数々だ。
 家族全員が映ったアルバム写真集と、私、そして姉の写真集を別々のアルバムにして母が保存していたのにも感銘を受けた。
 その中には、遠い昔に見た思い出深い写真が数多く保存されていた。 それらを中心に、今回私の趣味で自分自身が思い入れがある感慨深い少数の写真をアルバムから剥がして持ち帰った。


 冒頭で披露した写真は、私が中学2年生時(だったと記憶しているが)1970年夏に大阪万博会場を家族で訪れた時に撮影した中の1枚だ。
 今から40数年前のこの時の事は今でもよく覚えている。  何分暑い時期で冷たい飲み物を飲み過ぎ、万博会場内で下痢に苦しみ幾度もトイレに走った事が一番思い出深い。

 それにしても40数年も経過した今思うに、当時中学生だった頃の私と現在の体型が同じである事実に自ら驚かされる一枚だ!(言い方を変えるならば、今尚当時の体型を維持しているとの自慢話に過ぎないのだが。
 いや、おそらくこの後更に身長を伸ばし続け、今の身長にまで伸びた記憶もある。


 我が母が私の実家への到着後一番に与えた私に対する仕事が「自分の過去の写真の選別」だった事が、午後からの引越作業に大きくプラスに作動した事には間違いない。

 母の高齢老いぼれ実態を勘案するに、まさかそれを母が狙ったとは考えられない。
 が、もしかしたらその母の思いに到着直後私が素直に沿えた事実こそが、その後数日間に渡る母娘の引越作業をスムーズに遂行出来た事に繋がったのかとも後に振る返る。