原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「沖縄返還合意」より半世紀、未だ軽減しない沖縄の負担

2018年11月29日 | 時事論評
 (写真は、朝日新聞2018.11.03付 別刷「be」 “サザエさんをさがして” より引用した漫画。
 私事で恐縮だが、我が愛用デジカメの性能が私の取扱い能力範疇を超越している関係で、少し何処かに間違って触れると設定が勝手に変更してしまう始末です…。  現在、“普通撮影不能”な設定となってしまっている関係で急きょ携帯写真を掲載しましたため、写真が不明瞭な点をお詫び致します。


 昨日2018.11.28 安倍首相と沖縄県の玉城デニー知事が、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古移設をめぐり首相官邸で会談した。
 以下に、その内容に関してネット情報より引用しよう。

 安倍首相は、杉田和博官房副長官と謝花(じゃはな)喜一郎副知事による約1カ月の協議を踏まえ、移設の方針に理解を求めた。 玉城氏は移設の断念を重ねて要請し、意見の隔たりは埋まらなかった。 一方、首相は今後も必要に応じて話し合いの場を設ける意向を示した。
 首相と玉城氏の会談は10月12日以来2度目。 会談後の玉城氏の話によると、首相は移設について「米側との計画通り今の移設作業を進めたい。理解を求めたい」と述べ、玉城氏は「知事選で示された民意を真摯(しんし)に受け止め、工事を中止してほしい」と求めた。
 会談に先立ち、杉田氏と謝花氏も東京都内で移設について協議した。首相は会談で「両氏の協議はいったん終わるが、折を見てこのような話し合いの場は設けたい」と述べた。
 会談を受け、沖縄県は辺野古沿岸部の埋め立て承認を撤回した県の処分の効力を一時停止した国土交通相の決定を不服として、月内に第三者機関「国地方係争処理委員会」に審査を申し出る。 玉城氏は「県で会議を持って、どのようにするかを話し合って決める」と話した。政府は早期の土砂投入に向けて準備作業を急ぐ構えだ。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 冒頭写真の上記朝日新聞記事 “サザエさんをさがして” を参照しつつ、「沖縄返還合意」に話題を戻そう。

 「沖縄返還合意」が実施されたのは、1969年、私が中学生時の事だった。
 沖縄の存在は子供心に周知していたものの、その沖縄が米国領だった事実をその時初めて知った記憶がある。 
 時の総理は佐藤栄作氏。 その佐藤首相と米国ニクソン大統領との首脳会談で、72年に沖縄を核抜き・本土並みで返還することと、日米安保条約の自動延長などが合意された。
 この事実イコール、沖縄の米軍基地から核兵器を撤去し、安保条約や地位協定を“本土並み”に適用するというものだった。
 
 朝日新聞記事によれば、当時の沖縄に於いては“返還歓迎”の声が出る一方で、日米軍事体制の強化との批判が強く、(上記漫画のごとく)世論は分かれていたらしい。 
 沖縄県民に不当な差別と忍従を強いるとして安保体制を批判し、基地固定化は県民の願いと相いれないとの苦渋の反論もあったとの事だ。

 ここで我が過去を振り返るに、当時過疎地の中学生だった私はそんな論争が存在していたことすら露知らず、沖縄が日本に復帰する事実を単純に喜んでいた記憶しかない事実が何とも恥ずかしい限りだ…。 

 本土では60年頃までに米軍基地が大幅に縮小された。
 沖縄も“本土並み”に米軍基地が縮小されるだろうとの沖縄の期待は、大きく裏切られるどころか……
 「沖縄返還合意」後半世紀が過ぎ去り、現在ではその70%以上が沖縄に集中してしまっている現実…
 (参考だが、沖縄の面積は、国土全体の0,6%に過ぎない。)

 ちなみに、「沖縄返還合意」の張本人である佐藤首相は、返還合意に関し「大成功」と総括し、その年の12月に総選挙で自民党が大勝したとのことだ。

 ついでに、当該佐藤栄作氏と現安倍政権首相の安倍氏の関係に関し、ネット引用するならば。
 安倍晋三は56,57代内閣総理大臣・岸信介の孫。 そして61-63代内閣総理大臣である佐藤栄作は岸信介の実弟。 つまり佐藤栄作は安倍晋三の叔父にあたる。 (以上、ネットより引用したもの。)

 我が感覚を述べるならば、血は争えないと言うのか……。
 血縁関係とはそれ程までに後世に影響(悪影響)を引き継いでしまうのか…、 何だか、空恐ろしい感覚すら抱いてしまう。


 日々の「辺野古映像」をテレビ報道画面等で見せられると。
 移設反対派の命がけの反対運動にもかかわらず、既にここまで辺野古が安倍政権により“破壊”されてしまっている事実が実に悲惨で、実に嘆かわしい思いだ。

 加えて、やはり沖縄県民間でも“意見の相違”が存在するのは自明の理であろう…。
 本土の人間が無責任に“他人事のごとく”沖縄基地問題を取り上げ論争する事実を、迷惑と感じている沖縄県民の思いの程に触れた事もある。
 そんな現地の人々の感情も、出来る限り理解申し上げたいものだ。

 来年2月24日に実施されるとの「沖縄県民による県民投票」の結果を、今はとにかく見守りたい。
 

ブラック企業・組織からの “0120電話勧誘”のやり口

2018年11月27日 | 時事論評
 我が家は基本的に、「0120」着信電話にはナンバーアナウンス利用により出ない事にしている。

 いやその発信元が判明している場合は、出る。 
 たとえばその企業・団体と何らかの“係わり事”がある場合は、あらかじめその「0120」電話番号を周知している故だ。

 加えて、あまりにもしつこく同じ「0120」発信を何度も繰り返す場合、それが迷惑であることを一言警告する目的で出たりもする。
 ただ現在はネット検索により「0120」発信元を調査することが幾らでも可能故に、それも大いに利用している。


 わが子が学校に通っていた頃は、塾や予備校からの「0120」生徒勧誘電話が多発したものだ。
 そもそもこれが腹立たしいのは、学校が作製・配布している「電話連絡網」を悪用している事実だった。
 どうやら学校の「電話連絡網」とは高額で“売れる”らしく、保護者や本人(?)を通して入手した「電話連絡網」を悪用して生徒の勧誘をする塾・予備校が多発していた。

 元々学校の「緊急電話連絡網」作製・配布に関して“個人情報保護法”に基づき反対派だった私は、娘が公立小学生時代には、その旨を学校長に直訴するとの行動も採った。
 転校後2校目の公立小学校校長が、これに関する我が訴えに誠実に応えてくれたことが懐かしい。(バックナンバーにてその時の様子を複数回公開している。 例えば「個人情報保護報と学校の緊急電話連絡網」等々…。 今の時代は我が子が小学生頃に比し保護者の“個人情報保護”に関する関心が急激に高まっている様子で、これらのバックナンバーには今現在尚アクセスが多い。)
 例えば、「個人情報保護法に基づき、学校の『緊急電話連絡網』作製時には必ずや個々の家庭に“掲載許可”を取るべき」との持論を学校長に直談判した。 これが“形だけ”でも採用されたのは画期的だったと私は捉えている。 何故“形だけ”なのかと言えば、我が子が小学生時代には、世がまだまだ「個人情報保護法」を周知しておらず、残念ながら大方の保護者は素直に学校の連絡網作成を“当然の事”と捉えていた故だ。
 
 片や、塾や予備校よりの「0120」(03電話も含めて)生徒勧誘電話に関しては、私は当時から厳しく対応した。
 まず何処から我が家の電話番号を入手したかを、必ずや問うた。 中には素直に「学校の緊急電話連絡網です。」と応える業者もあった。 これに対し私は更に厳しく「その行為が“個人情報保護法”違反となる事実を承知した上での電話ですか!?!」と問い詰めた。  これに業者が何と反応したかの記憶が薄れているが、おそらくあちらが面倒臭くなって電話を切ったのではなかろうか??


 娘が社会人となって以降は、自ずと「学校の電話連絡網」由来の迷惑電話は皆無だ。 
 その代わりに鬱陶しいのは、亭主や私の“大学(院)同窓会名簿”利用による“寄付金を募る”魂胆の「0120」電話だ。
 私の場合は卒業・修了したのがすべて国公立大学(院)のため、さすがにその種の電話は無いに等しい。
 片や亭主の場合私学(早稲田だが)のためか、一昔前までは数多い電話が押し寄せた。 私が電話口に出ると必ずや「ご本人に代わっていただけませんか?」と来る。 どうせ“寄付金募集”であろうとの魂胆が読めていたため「私が対応しますが。」と言うと、直ぐに電話を切る場合が多かった。
 ある時は「早稲田の新聞部ですが、寄付金をお願い出来ないか?」なる内容の電話も受けた。 我が亭主が新聞部に所属していたなる話題に触れた事は一度も無いため、お断わりすると。 やはり、どうしても亭主に替わって欲しいと再び嘆願されたが、私がNO! を連発すると電話は切れた。


 ここ数年来我が家に増えているのは、「貴重品・着物類買取り」と思しき業者からの「0120」発信だ。
 これが何故我が家に多発するのかの理由が、貧乏人の我が家としては分かりにくいのだが。 (まさか、私や娘が義母から宝石や着物類を数多く譲り受けている事実がバレている訳でもあるまいに…)

 近い過去の新聞投書欄にて、これと同類の詐欺に引っかかった人物よりの投書を読んだところ。
 その悪質度がとてつもないらしい。 一旦電話口に出て“買い取り”を依頼したものならば悪質業者が自宅まで押しかけ、つかつかと家の中まで入り込み、勝手に家中を探り回し「これとこれを買い取ります」なる一言と共に、数千円を手渡して去り行くとの記述だ。

 この“詐欺電話”の不気味なところは、どうやら訪問する家の住居地情報を得ている事実だ。
 我が家に電話を寄越した時にも、「近くまで来ておりますので、ご希望の時間をお伝え下さればその時間に伺います」との返答だった。
 その後も「0120」電話番号を変えたり、時には地方発信の“分かりにくい”通常電話で繰り返し掛かって来ている。 もちろん、拒否し続けているが。

 
 ただ例えば一人暮らしの高齢者など電話が鳴れば”これ幸いと喜んで出る!”との話題に、ネット上で触れたりもする。 (人との会話に餓え、寂しく暮らしている孤独高齢者が多い実態のようだ…。)
 これぞ、“振り込め詐欺”を拡大させ続けるこの世の性(さが)であり、盲点である事に気付かされる。

 電話ねえ。
 私など昔から忌み嫌っている連絡媒体だ。 突然のごとく勝手に“舞い込んで来て、今すぐ自分の話を聞け!”と、まるで拷問のような感覚すらある。  あれが好きだと言う人の心理が未だかつて理解出来ないでいる。
 そんな私はメール(ネット)時代に移り変わった現在に、命拾いしている感すらある。
  
 それ故に尚更、ブラック企業・団体からの無駄な「0120」電話など断じてお断りしたいものだ!!

私も “謎トガリ” 人種かもしれない…??

2018年11月25日 | 人間関係
 (写真は、朝日新聞2018.11.24付夕刊記事より転載したもの。)


 上記写真が比較的鮮明に撮影出来たため、内容の反復を避けるが。

 いやはや、まるで我が高校生時代を“二重写し”したがごとくの漫画の内容に一瞬にして引き込まれた。

 いえいえ私の場合、漫画の少年よりもずっとその心理状態が“悪質”だったかもしれない。
 そもそも大の集団嫌い。 特に思春期真只中の高校生時代は、その3年間をほぼ“死んで”暮らしたと表現してもよい程の学校嫌いだった。

 そんな私にとっても漫画少年同様に、「文化祭」ほど無意味で空虚なものはなかった。
 ただラッキーだったのはオーケストラ部に所属していたため、高1時は文化祭ではその舞台演奏活動に集中すれば済み、比較的自分らしい文化祭を過ごせたと言えよう。
 ところが何分過疎県内バリバリの受験校のため、部活動は高1の文化祭にて終了する。(音大・美大・体育大等を目指す生徒はもちろんその後も活動を続行するのだが。)
 
 高2以降は必然的にクラスごとの催し物に全員が強制参加せねばならず、これ程の苦痛はなかったものだ。
 例えば、クラスで「劇」をやると“言い出しっぺグループ”が勝手に決める。 何の興味も無い私としてはまさにこの漫画のごとく、「えっ、私関係ないけど。」とでも反論したかったものだ。
 ただ私が高校生だった当時は、そういう時代背景ではなかった。 嫌でも何でも“言い出しっぺグループ”に迎合せずして済まされなかった実に不自由な時代だった。
 もしも今の時代に私が高校生であるならば。 必ずや、漫画少年のごとく「えっ、要らないけど。」と発言しただろう。


 その文化祭のTシャツに関してだが。

 これどうしたことか、現在の中高の文化祭に於いては全国津々浦々でクラス全員揃いの「Tシャツ」作りが“スタンダード化”している様子だ。

 我が娘が私立中高に通った6年間を通しても、毎年「文化祭」と「体育祭」毎にクラス全員お揃いのTシャツ負担を保護者に強制された。
 元々集団嫌いな私故、内心反発心が燃え滾ったものだが!
 それでもまさか保護者の立場で、娘が通う私立学校相手にその教育方針の是非を訴える訳にも行かず…  結局は6年間を通して合計12枚のTシャツに無意味に投資するはめとなった。
 ただ娘本人は決して私程集団嫌いでもなく、生来的に素直な性質に恵まれている事が幸いしているのだが。
 それでも生育環境面でサリバン(私の事だが)の影響を大きく受けている娘にとっても、どちらかと言えばあのTシャツは好きでは無かったようだ。

 そんな娘の中高時代のTシャツを活用したのは、この私である。 これ、寝間着(パジャマ)の上にもってこいなのだ! 娘が不要になったTシャツをもらい受けては、寝間着として有効活用して既に十数年の年月が流れた。
 ただ母娘共々、どうしても“着たくない”Tシャツが今尚一枚残されているのだ。
 それはクラス全員の名前を記したTシャツなのだが、娘自身はそれを見るのも嫌だと言う…  きっとサリバンが知らない学校クラス現場で“いじめ”を受けていた事だろう。  今となっては一体何処に収納しているのすら分からないのだが、見つけたら娘のためにも即刻廃棄処分としよう。

 それにしても現在に於いては、そんなクラスTシャツなど「要らない」と一生徒の立場で言えるまでに学校のクラス内環境が“進化”している事実自体に、私は冒頭の漫画を一見して安堵させてもらえた。


 話題を大きく変えさせて頂こう。
  
 このgooブログにて、私・原左都子側の“お気に入り”でこちらから読者登録させて頂いているブログが10本程存在する。 
 (参考だが、「原左都子エッセイ集」をお読み下さった相手側からの読者数は左欄にgooが明記している通りだ。)

 上記二者間に数値ギャップのある我がブログだが、原左都子としては、こちらから「読者登録」をさせて頂いている登録数こそをブログ画面に明記して欲しいものだ。 その旨を、gooチャットにて嘆願した経験がある。 それに対するgooの回答とは、「あくまでも貴ブログ宛の読者登録数を今後もブログ画面に表示する」との事だった。

 これ、納得出来ますか?? gooにブログを開設されている皆さん!

 我がブログのみの特質かもしれないが、読者登録をして下さった後ただの一度とて我が「原左都子エッセイ集」を訪れない方々が数多い現実だ。
 そんな方々に、「読者登録」をお返しする義務など一切無いのは歴然でしょう??
 私側とすれば必ずや、たとえネット上とは言えども今後共繋がり続けられると確信を得た方々と交信を続けたいものだ。
 
 そんな我が「ブログ思想」に基づき現在はブログ活動を続行しているのだが。


 つい最近、私が読者登録をさせて頂いている某男性氏が、ご闘病を乗り越え再びブログを再開された。 その事実こそ実に素晴らしく、今後共当該男性とネットで繋がることが叶った事実に私は感激した。

 その某氏のブログコメント欄に、某氏一ファンよりのコメント記載があった。
 そのコメント内容を読ませて頂き、私は大いなる違和感を抱かざるを得なかったのだ。
 当該コメントを我が記憶に頼り再現するなら。 「貴方がもしも死んだ後に貴方のブログを誰が引き継ぐのか? その副管理人(要するに“後見人”という意味だろうか??)を早めに選出しておいて欲しい。」
 この文章を読んで、当該コメンテイター氏の思想の程を私なりに理解した。 
 要するに当該コメンテイター氏の思考背景に存在するのは、「某氏の読者は皆仲間」との発想ではなかろうか? 
 (別の観点から、他人のブログを誰かが“引き継ぐ”との感覚も私には受け入れ難い。 自分が死んだらブログもその生命を閉じると考えるのが自然ではなかろうか? もちろん、自分の死後もどなたかがお読み下さるのはご自由だが。)

 これぞ、原左都子が一番に勘弁して欲しい「集団意識」である。

 当該コメンテイター氏のご闘病中の男性に対する思いの程は痛い程理解可能だ。
 ただ何故ここで「集団意識」感覚が登場せねばならないのかの程が、私には理解不能なのだ。
 その思いは何も某氏の読者皆を巻き込まずとて、コメンテイター氏ご自身があくまでも"個人的に”、闘病中の某ブロガー氏と1対1の関係で交渉すれば済む話と私は心得るのだが……

 もちろん私とて、自分自身が厳選し「読者登録」させて頂いた方々とは今後も是非共お付き合い申し上げたい。 上記某氏など私側が読者登録させて頂いているメイン人物であられる事実に間違いない!


 すっかり高齢域に達しようとしている私にも、当然ながら好みはある。

 それだからこそ、他者からの不必要かつ無遠慮な「集団主義」に直面した場合、冒頭写真の漫画に描かれている高校男子のごとく、「えっ、いらないけど。」と反発するパワーも未だ兼ね備えてもいるかもしれない!

精根尽き果てた “認知症義母介護付” 娘の誕生日祝い会

2018年11月24日 | 医学・医療・介護
 (写真は、昨日娘の誕生日祝い会に際し義母より“私宛”に譲り受けた真珠のネックレスと指輪類。 娘にはダイヤモンドのペンダントヘッドとイヤリング、指輪類を同じく譲り受けた。


 昨日は、我が最愛の娘の誕生日だったのだが。

 毎年この日を一番楽しみにしてくれているのが、高齢者有料介護施設に暮らす義母である。
 片や保証人の我々夫婦としてみれば、ここ数年これが“一大仕事”である事には間違いない。
 ただ、せっかく楽しみにしている義母の思いをくんで、必ずや外部の食事処で娘の誕生祝会を挙行せねばならない。
 
 その事前準備こそが大変だ。 
 まずは食事処の予約。 そして介護施設への義母外出の届け出と詳細時間の連絡。
 これらを一通り済ませた後の一昨日の事だが。

 施設のケアマネージャー氏より電話が入った。(参考だがケアマネ氏が先だって交代し、この時が新しいケアマネ氏との電話会話初回目だった。)
 「お義母さまより今朝、施設内自室にて“盗難被害に遭った”との報告がありました。 施設にて義母さまよりの聞き取り、防犯カメラ判定等々を実施しましたところその事実が確認されず、お申し出内容は義母さまの何らかの認識違いと判断致しました。 こちらからは、義母さまの心理を乱さないよう留意しつつそれをお伝えしております。 明日ご家族と会われるとのことですが、この件に関しては既に施設内で解決済みですので、どうか明日義母さまに会われた際には義母さまのご心理の程に配慮されますように。」

 ここで一旦私見だが。
 認知症及び耳の聞こえの悪さに苛まれている義母の施設内での“盗難等々”の被害妄想の程は、既に3年程前より十分過ぎるくらいに把握している我々保証人だ。
 それにしても、新しく義母の担当になったケアマネ氏の対応が完璧な事に唸らされた。 そこで、当然ながら施設内で大騒ぎした義母に関するお詫びと、その施設内での適切な措置に対する感謝を電話口で申し上げた。


 さて、娘の誕生祝会当日(昨日)のことだが。

 何と午前中に亭主が「今回は体調が悪いから出席しない」と言い始めるではないか!
 これぞ大打撃! と言うよりも亭主の魂胆は見え透いていた…  (ははあ、「一抜け」だな。)とすぐさま私は直感した。
 と言うのも、認知症状かつ耳の聞こえの悪さを抱える高齢者の相手とは、実に“体力・忍耐勝負!”である故だ。

 ただ認知症者とて多様性があろう。 黙ってそこに存在するだけで済む認知症者の扱いは、さぞや安易であろうと想像する。(そんな認知症者が存在するのかどうか??)
 片や我が義母だが。 これがどうしたことか他者とコミュニケーションを取りたい意欲が現在尚強靭だ。 敢えて悪く表現するに、そのくせそもそも“自己確立力が欠落している”と言うのか、要するに他者に依存せずして自己存在が成立し得ない人格を、90近い年齢まで持ち越してしまっている人物なのだ……

 娘の誕生祝会に於いて亭主欠席に加え、(元々持って生まれた事情により“寡黙”な)娘が義母に対応可能なはずも無い…
 結局義母との会合席に於いて、この私こそが全面的に義母とのコミュニケーションを任されてしまったとの現実だ。
 いえいえ最大限に努力し、2時間程のその場を繕って何とか娘の誕生日祝いはお開きとなった。

 この時既に耳の聞こえの悪さも併せ持っている義母対応のため、喉がカラカラに加え、大声を上げ続けたせいで既に頭痛が始まる始末…

 それでも尚、私には義母の“お付き人”との役割義務が残っていた…
 何でも義母はレストラン到着直後から、「今日はみかんやお菓子を買って帰らなければならないの」との要望を私に訴えていた。(それを施設内で配布する義務が義母に課されている訳が無く、要するにその行為により自分が施設で暮らし易いと信じて疑っていないのだ。 それらを配られたスタッフや入居者達の迷惑度にどうしても気付かない義母である。)

 娘の誕生日会合終了後は娘を自由行動として、その義母の要求に私が応えた。
 そうしたところ、いつもの事だが義母のそれらの“購買力”の程が物凄いのだ! 例えばみかんなど20個入りの袋を2個買い求めるではないか! 要するに、昔自ら事業を執り行っていた頃の記憶で末端従業員達に差し入れをする“ノリ”なのだろう。 上述のごとく、今現在はそれを施設内に暮らす人々に配るとの趣旨であろうが…
 更にはお菓子も沢山の数が必要だと譲らず、一件目の店舗で買い求めた菓子折りが足りないと言い始め、他店にも寄ると主張する。 ただこれを実行させねば義母は施設へ帰ってくれないものと判断し、それに付き合う事とした。 それも終了した後に、義母は未だ「みかんの数が足りない!」と私に泣きつくのだ! (こっちが泣きたいよ~~~。)

 さすがに私も「すみませんがこれ以上私が持てませんので、今日はこれで終わりにしましょう!」と訴えたところ、やっとこさ施設への帰り道のタクシーに乗ってくれた。


 これでよし、私の義母に対する任務は果たせたのではなかろうか…。
 との自己反省と共に、何とか本日(昨日)の娘誕生祝い会も成功ではなかっただろうか、と自宅で振り返っていたところ。

 夜になって義母の施設のケアマネ氏より電話が入った。
 どうやら娘の誕生会会場にて義母に手渡したはずの「12月分の小遣い」も無くしたならば、タクシー内にお土産類を置き忘れて施設にて下車した、との報告だ。(後程タクシー運転手氏が、お土産類はご親切にも施設へ届けて下さったようだが。)
 これこそ、娘の誕生日の締めくくりとして一番辛い施設からの報告だった。

 亭主には、こういう結末となるのは目に見えているから義母の息子である貴方こそが義母に対して一番の責任を取るべきだ!
 と主張し続けている嫁である立場の私の心理をいつ理解してくれるのかとの、亭主に対する不信感を煽られる昨日の“娘の誕生日祝会”にて直面させられた出来事だった。

 ただ、個々人がDNAレベルで生来抱えている“人格”や“生き様”とは、そうそう変わるものではないし…
 結局私は自身の精根尽き果てようが、今後も義母を筆頭に亭主や娘の面倒もこの細腕で一人で背負って見つつ(要するに“原家”を一人で支えて)、この世を渡っていく運命にあるのだろう… 


 と言いながらも、義母からは以前より冒頭に提示した写真の「宝石類」や「着物・毛皮類」を我が娘と私に、数多く譲り受け継いでいる。(要らぬものや役に立たないものも多いが… いずれ質屋へ持って行こうかな?? 
 義母よりこの恩恵がある事実こそが、私と娘を信頼して下さっている証拠とも受け入れているのが正直なところでもある…。
 

2020東京五輪ボランティア募集が“ブラック”と噂される所以

2018年11月22日 | 時事論評
 本日昼の時間帯のテレビ報道番組にて、2020東京五輪ボランティア希望者が未だ必要数の半数しか集まらない、云々の話題が出ていた。


 私原左都子は、安倍首相が2020東京五輪開催を“勝ち取って”タレントどもと共に「お・も・て・な・し」ナンタラと馬鹿騒ぎ・大はしゃぎした以前より、一貫して開催反対派だ。 
 (その理由に関してはバックナンバー「お台場は既に寂れたか?」等々… にて幾度となく述べているため、ここでは割愛するが。)


 そんな私が何を血迷ったか、昨年夏頃、東京都が募集している“東京五輪英語ボランティア”に応募したのだ!
 おそらく東京都広報を見て募集要件(英検2級以上、留学経験を有する、等々)を十分に満たしていたため、安直にネットより応募書類を提出したものと振り返る。
 ただ身勝手にも、応募後にその応募を大いに後悔した。
 何と言ったって「ボランティア」とは要するに、当たり前だが無料奉仕に過ぎないではないか。
 しかも東京五輪開催時に一体私は何歳だ? 高齢域に達している私が猛暑炎天下でボランティア活動どころか、熱中症にて救急搬送されないとも限らない。

 応募直後にやっとそれに気付き、応募を取消そうと志していたところ。
 東京都からの回答は、「今回は応募数が多かったため次回の応募をお待ちしております。」だったのだ。
 結果としてはそれで命拾いしたものの、都に対して大いなる不信感を募らされたものだ。 写真提出も面談も何も無く、単に簡単な応募要項に必要事項を記入してネット提出しただけなのに、何で私が「次回」以降に回されねばならないのかと!!
 私の推測に過ぎないが、おそらくやはり“年齢”で後回しにされた(切り落とされた)のだろう。
 いずれにせよ東京五輪開催反対派の身としても、五輪ボランティアになどもう2度と応募してやるもんか!! との決意を固くしたものだ。


 以下に、現在東京都がネット上に掲載している「東京五輪ボランティア募集要項」より一部を引用しよう。
 オリンピック・パラリンピックの成功は、まさに「大会の顔」となるボランティアの皆さんの活躍にかかっています!
「東京2020大会を成功させたい」という熱意をお持ちの方、またとない自国でのオリンピック・パラリンピックの運営に直接関わりたい方、みんなで一緒に東京2020大会を盛り上げていきたい方の応募をお待ちしております!
 (以上、東京都によるネット情報より引用したもの。)

  
 次に、おそらく東京都ではないまったく別組織がネット上に公開している「東京五輪ボランティア」に関する情報を以下に紹介しよう。

 近年のオリンピックでは、ボランティアスタッフの活動にも注目が集まっている。 その内容は、競技場内での誘導や案内、言語サービスから実際に目に触れる機会が少ない裏方のサポートまで多岐に渡る。
今回は、2020年東京オリンピックで募集されるボランティアの種類や条件について紹介する。
 東京オリンピック2020 ボランティアの種類
 東京都の発表によると、ボランティアは大きく分けて2種類ある。
 一つは大会組織委員会が募集・運営する大会ボランティア、もう一つは東京都による都市ボランティア。
 ボランティアの募集条件
 大会ボランティア、都市ボランティアの募集条件はそれぞれ案が公表されている。
[大会ボランティア]
 ・2020年4月1日時点で満18歳以上
 ・ボランティア研修に参加できる
 ・日本国籍または日本滞在資格を持っている
 ・10日以上活動できる
 以上が募集条件の案として挙がっている。
 それ以外にも。
 ・オリンピック・パラリンピックの競技に関する基本的な知識がある
 ・スポーツボランティア経験を始めとするボランティア経験がある
  ・外国語のスキルを持っている
[都市ボランティア]
 ・2020年4月1日時点で満18歳以上
 ・ボランティア研修に参加できる
 ・日本国籍または日本滞在資格を持っている
 ・5日以上活動できる(1日5時間以上)
 以上が募集条件の案として挙がっている。
 さらに、原則として東京までの交通費は個人負担、宿泊場所の確保は自己手配。(宿泊に関する情報提供は検討するとのこと)
 運営側から提供されるものは、ユニフォームや研修、飲食など。
 これらに対し、ボランティアの条件が厳しすぎる!? との批判もある。
 オリンピックという世界規模の大会のボランティアであるため、ある一定レベル以上の活動条件やスキルなどは求められてくるのは当然と思う反面、それを考慮しても厳しい要求がされる募集条件のような気がする。
 実際、この案が公表された際のネットの反応は “これだけ高スペックの人をタダで使うの?” “これお金を出してちゃんと人を雇っておくべき案件じゃないの?” “交通費自己負担な上に、宿の手配や負担も!?” など、かなり批判や否定的な意見が出ている。
 近年のオリンピックでは、2012年ロンドン大会では大会ボランティアに約24万人の応募があり、約7万人が選ばれて活動したそうだ。
 2016年リオ大会では約5万人が活動しており、それぞれ都市ボランティアも活躍していたそうだ。
 2020年の東京オリンピックでは合計約9万人以上のボランティアを想定している。
 しかし、その厳しい募集条件を満たせそうなのは、東京近郊に住んでいる高いスキルや知識・経験を持ったリタイア世代、大学生などになってくるかもしれない。
 (以上、ネット上より東京都でない別の情報源より引用したもの。)


 最後に私論でまとめよう。

 いやはや、直ぐ上に引用したネット情報のご意見に賛同申し上げたい。
 東京都も後2年後に迫っている五輪に向けて、“たかが”ボランティア募集に関し何を血迷っているんだ!、と言いたくもなる。
 
 まあ要するに“たかが”「ボランティア」とは言えども、都側としてはその募集や人材審査・選考等々に於いて大いなる出費が発生するのだろう。
 そこでなるべく優秀な人材を確保せんとした結果として、自ずと採用者が少数となってしまう現状。

 ただこれってまさに表題に掲げた通り、民間“ブラック”企業同然の、“従業員いびり・切り捨て” 大袈裟な表現をするならば、行きつく先は“過労死” を再現せんとするものではなかろうか??

 確かに“たかが”ボランティアとて一旦それを募集・採用したものならば、多大なコストが発生するのは自明の理だろう。
 そのコストを血税の形で都民が担わされる訳だ…。

 だから言い続けているじゃないの、私は元々2020東京五輪開催反対だって!!