原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

幾たびものヨコハマ

2008年12月31日 | 旅行・グルメ
(写真は、横浜ランドマークタワー上階の横浜ロイヤルパークホテル57階の客室より撮影した横浜港の夜景。手前に映っているのが大観覧車コスモクロック)


 中学生の我が娘が、将来は横浜に住むのだと豪語している。 おそらく母親である私の影響力が大きいと思われるのだが…。

 横浜は私が30歳代独身で勤労学生をしていた頃を中心に、7年間に渡り住んだ地である。 世はまさにバブル絶頂期、すべてが輝いているような時代であった。私自身も自らの人生において一番華やかできらめく日々を送っていた頃である。学業、職業、恋愛等々のプライベート、様々な分野においてあれ程充実していた時期は他にないかもしれない。
 そんな実り多き日々を謳歌する私を横浜の街が見守ってくれていた。
 
 きっと娘は、母の栄光の時代の昔語りを幾度か耳にしているうちに、横浜に住めばきらめく日々が待っているように感じたのかもしれない。 あるいは、私が単独で住んでいた横浜の別宅(現在賃貸中)での一人暮らしを、今からちゃっかりと狙っているのだろうか??


 さて、年末差し迫った12月29日、体調不良で出発直前キャンセルとなった身内を家に一人残し、母娘水入らずでの一泊の旅に出かけた。
 行き先は、娘の第一希望の横浜。 夏にも一泊した日本一ののっぽビル横浜ランドマークタワー上階の横浜ロイヤルパークホテルに宿泊し年の瀬の横浜港の夜景を楽しむのが主たる目的の旅である。

 東京の我が家から在来線で1時間半足らずの近場の旅である。
 東京メトロ副都心線の開通のお陰で、横浜ランドマークタワーのあるみなとみらい駅までは渋谷駅で一度乗り換えの手軽さだ。

 今回は早期にホテルを予約して、ベイブリッジビューサイドの部屋、すなわち横浜港が展望できる部屋を確保していた。お陰でコスモクロックの光のイルミネーションをはじめ横浜港の夜景を堪能できた。もちろん、昼間の横浜港の展望もすばらしい。ベイブリッジは当然ながら、汽車道や赤レンガパーク、横浜港大桟橋国際客船ターミナル等々、そして太平洋が一望できる部屋だった。

 前回の夏同様に中華街で老酒を飲みながら夕食を楽しんだ後は、中国雑貨店で中華グッズをショッピングするのが娘の(私も!)楽しみである。今回は家で留守番の身内への土産として、紫檀の箸と老酒のぐい飲みグラス、それにジャスミン茶と鉄観音茶葉を、そして街頭で天津甘栗を仕入れてホテルへ帰った。
 翌日はホテルでのルームサービス朝食の後、横浜インターコンチネンタルホテル横のシーバス乗り場からシーバスに乗り、赤レンガぷかり桟橋経由で山下公園へ行き、港や近隣の街並みを散策した。 みなとみらい地区が開発された後は少し陰が薄くなった山下公園地区であるが、それでも街並みは今尚美しい。
 その後、これまた前回の夏と同様、ランドマークタワーの隣の横浜美術館へ戻り、今回は特別展「セザンヌ主義」を観賞した後、東京への帰路に着いた。


 我が娘が現在の横浜を好む理由が私も納得できる。
 横浜とは大都会であるため、まずはすべてが揃った街である。どのような店もあり、何でも手に入る。 そして、すぐそこに海という自然があれば港がある。その夜景のイルミネーションも素晴らしい。さらに中華街もあって異国情緒も豊かだ。加えて、東京ほどの喧騒や大混雑もなく比較的落ち着いた街である。さらに、首都である東京へのアクセスも不自由ない程交通網が張り巡らされている。
 もしかしたら、日本においてこんなに恵まれた街は横浜のみかもしれない。

 私も娘と共に将来再び横浜に住んでみようかなあ~、などという気にさせられる素敵な街、横浜である。
 

 本年の「原左都子エッセイ集」へのご訪問に心より感謝申し上げます。
 来年も皆様よりの当ブログへの変わらぬご支持をお待ち申し上げております!!  
 皆様、よい年をお迎え下さいますように! 
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裸婦像のヘア

2008年12月28日 | 芸術
(写真は、“青山ユニマット美術館”の「シャガールとエコール・ド・パリコレクション」のチラシの一部)

 先だっての12月25日、冬休み中の子どもと一緒に東京の“青山ユニマット美術館”へ出かけた。
 上記美術館では09年1月13日まで「シャガールとエコール・ド・パリコレクション」展を開催中なのだが、20世紀最大の巨匠と言われているマルク・シャガールの作品25点をはじめ、モリディアニ、藤田嗣治、ユトリロなどのエコール・ド・パリの作品も常設展示されている。

 シャガールは赤、黄、青等原色の色彩使いと、猫、鳥、牛等の動物を多用しているのが特徴的な画家であるようだ。(写真のチラシの左上がシャガールの作品「ブルーコンサート」)
 藤田嗣治は“白”の微妙な色使いが特徴的な画家であるが、展示されている数枚の作品すべてにおいてそれぞれにこの微妙な“白”が表現されていた。(写真のチラシの右下が藤田嗣治の作品「バラ」)
 その他、面長の肖像画が特徴的なモリディアニ(写真下段右から2番目「褐色の髪の少女」や、ローランサン(写真左下「チューリップと女性」)の淡く柔らかい雰囲気も印象的である。

 なかなかの名作揃いで、私のような素人にも飽きることなく楽しめる美術館である。現在油絵を習っている中学生の娘も、私よりも時間をかけて絵画の巨匠達の作品を見入っている様子だった。


 ところで今回の美術館での絵画鑑賞において、ド素人の私が気付いたことがある。
 この年の瀬に相応しくない話題で恐縮なのだが、それは展示されている作品の中の裸婦像のすべてに“ヘアがない”ことだ。

 例えば、写真の下段左から2番目キスリングによる「長椅子の裸婦」など、裸体が輝けるように美しく描かれた作品であるが、ご覧のように“ヘア”がない。
 この美術館には裸婦を描いた作品が数多く展示されている。例えば、シャガールの「赤い裸婦」「白い裸婦」、藤田嗣治の「2人の裸婦」「横たわる裸婦」「裸婦像長い髪のユキ」、ナルシスヴィルジル「キューピッドと戯れるヴィーナス」、ルノワール「横たわる裸婦」、カバネル「ヴィーナスの誕生」……
 これらのすべてにおいてヘアがない!!

 私がこの“裸婦にヘアがない!”事態になぜそれ程興味を抱いたのかについて、ここで正直に話そう。
 先だって訪れたインドのお土産として「カーマースートラ」の日本語版絵本を購入したのだが、これによると「毛を取り除いて清潔にすると女性は愛するのはますます喜んでいる」(日本語版原文のまま引用)とある。それが印象的だったためだ。

 これらの裸婦はどういう状況で描かれたのであろう。単なるモデルなのか、それとも…。 私個人的には“愛”を一身に浴びながら描かれた裸婦を見たい気もするのだ。


 そこで私は某男性画家の方に、今回のコレクション展における裸婦像になぜ“ヘア”がないのか、果敢にも尋ねてみた。

 私の無謀な質問に対し、ありがたくも頂いた回答は以下の通りである。
 クールベ(フランス写実主義の画家、1819~1877)以降はあるべきところに描くようになったが、ヘアとは目立つものだ。色の白い肌に一箇所だけ黒々と描いたのではそこだけ強調し過ぎるようにも思える。 描く側からすれば、ヘアがない方が卑猥感が消えるかも知れないし素敵に描けるかもしれない。せっかく綺麗に仕上げていったヌードもビーナスの丘を黒々と塗りつぶすと味も素っ気もなくなる。かと言って、描かないと…。 北斎の絵のようにヘアを1本ずつ丁寧に書き上げると大変な労力がいるし…、等々で“ヘア”とは難しい存在だ。 存在を保持するために黒々しているのかもしれないな…。

 芸術とは素人には計り知れない程、奥深いことを再認識である。
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結果よりも過程の公開を

2008年12月26日 | 教育・学校
 朝日新聞12月25日(木)夕刊によると、結果の公開のあり方が議論されている全国学力調査で、秋田県は25日、市町村別の結果を市町村名すべてを明らかにした上で全国で初めて公表したとのことである。
 秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん、一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。

 この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
 この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。


 早速私論に入ることにしよう。

 大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
 このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのであるが、一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。

 そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。


 本ブログの上記バックナンバー「学ぶ意欲は育つのか?」に私のブログの読者でいらっしゃる秋田県に所縁のある方からコメントを頂いたのだが、秋田県の義務教育過程において大変興味深い宿題指導が取り入れられているそうだ。それは“自由課題”とでも名付けてよいのか、子ども一人ひとりが自由課題を設定してそれに取り組む宿題を学校が課すということだ。そして重要な点は、生徒が提出した宿題の内容が何であれすべてが教員に受け入れられ評価されるというシステムであるらしい。
 この方法は素晴らしいと私も感じる。教員にとって手数がさほどかからず、子ども一人ひとりの可能性を潰すことなく個性を認めることが可能な、優れた学習方法であると評価申し上げたいものである。

 ついでに私事で恐縮なのだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
 一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
 我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているのであるが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。


 話を元に戻そう。
 私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民、そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ、必要ともしていない。
 そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
 だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。
   
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アテネでの暴動

2008年12月22日 | 時事論評
(アテネ大学本部の写真。2007年の旅行時に撮影。 今回のアテネ暴動では多くの学生がデモに参加したと報道されている。)

 各種マスメディアの報道によると、12月初旬頃から続いているギリシャの首都アテネに於ける若者を主とした反政府抗議行動は未だ収束の気配はなく、20日夜には市中心部のクリスマスツリーに火がつけられ燃え上がるまでに至っている。

 普段は観光客で賑わうアテネでは、12月6日に起きた少年射殺事件をきっかけに、銀行や新車販売店が放火されたり国会議事堂前では投石されたり等の混乱状態が続き、市街はきな臭いにおいが漂い、歩道にはガラスの破片が散乱しているらしい。
 インターネット情報等により学生や労働者、アナキスト(無政府主義者)らの若者が集結し無秩序なデモ集団を形成し、投石や火炎瓶による暴動を繰り返しているという。

 アテネと言えば、昨夏我が家が一家で旅した地である。 子どもの名前をギリシャ哲学から引用しているため、ギリシャ哲学発祥の地である古代ギリシャのアテナイ(現アテネ)を訪ね、紀元前4世紀にプラトンが創設したアカデメイア等の歴史的建造物や博物館、そしてアテネ市街を子どもと共に観光して、紀元前の歴史を垣間見る目的での旅行だった。


 アテネの街は実に美しかった。

 おそらく2004年のアテネオリンピック開催に合わせて開通した(?)と思われる地下鉄の整備が行き届いていて、快適かつ利用が容易だったため、この地下鉄を利用して市街を巡ったものである。
 ギリシャ人は、私が先だって訪れたインドの人々と比較すると“無愛想”であまり微笑まない人種のようである。 それでも、この地下鉄構内で一家で乗り場に迷っているとギリシャ美人が声をかけてくれて、ギリシャ語は全く通じないながらも、案内図を見ながら親切に説明してくれたうれしい思い出もある。
 アテネの街は、我々の第一目的訪問地であるプラトンのアカデメイアに限らず、パルテノン神殿をはじめ街の至る所に神殿や彫刻が多く、古代と現代が自然に美しく融合している都といった印象が強い。

 こんなすばらしい都で暴動が起こっていることを本当に残念に思うのだ。
 先だってのインドの動乱に引き続き、なぜ私が訪れた地でこのような暴動が次々と起こってしまうのか、思い入れがある地だけに心が痛む私である。 
 

 今回のアテネ暴動の特徴は「理由なき改革」であるとの報道もある。
 その一方で、国民の失業率の高さ等の社会的不満の蓄積も暴動の背景にありそうだ。経済協力開発機構(OECD)によると、ギリシャの15歳から24歳の失業率は22%に上り、パートタイム労働者の低賃金など、暴動の背景には若者の不満があると指摘されている。「1日9時間働いて月700ユーロ(約8万5千円)。暴動の原因は貧しい若者の怒りだ。」との暴動デモ隊員の談話もあるらしい。


 ここのところの世界金融経済危機で、世界中における先の見通しは暗い。
 この日本においても、大企業の業績悪化等に伴い大量の失業者を出し続けている現状である。厚生労働省では急きょ失業者や就職内定取消者への小手先の対策に乗り出しているようではあるが、“焼け石に水”の感が否めない。ここでまた多額の公的資金が投入され、国家財政はますます危機に陥るばかりでもある。
 日本の、そして世界の行く末は一体全体……

 とりあえずは、日本でアテネのような暴動が勃発しないことを願う私である。
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“お嬢さん”では生きられない

2008年12月19日 | 教育・学校
 昨日、我が子の歯科受診に付き添ったのだが、この歯科医院を訪ねるといつも歯科医先生と子どもの教育談議になる。
 と言うのが、お互いに一人娘がいてその娘の年齢が近く、学校は異なるが私立女子校に通わせているというように共通項が多いためと思われる。

 それにしてもこの歯科医先生、父親であるにもかかわらずご自身の子どもさんの教育に関心の高い方で、いつも教育談議の内容が詳細に渡るのだ。

 
 ひと昔前ならば、開業歯科医師の娘さんと言えば“お嬢さん”のイメージが強かったものである。いわゆる“お嬢さん学校”で一通りの教養や知性を身につけ、“花嫁修業”をして歯科医師のお婿さんでも迎えて父親の歯科医院経営を引き継ぐというのが、よくある歯科医師の娘さんの姿だったのではなかろうか。
 あるいは娘さん本人が歯科医師になって医院を引き継ぐという手もあろう。

 だが、この歯科医先生の場合、娘さんには歯科医師の適性はなさそうだと既に判断されている。そして、血縁での歯科医院の継続もまったく視野に入れていないと断言されるのだ。
 しかも今時、娘を一生“お嬢さん”で生き抜かせるのは困難な時代であることも認識されているようで、娘さんの今後の進路及びそれを後押しする教育について父親の立場で熟慮していこうと考えていらっしゃる様子である。


 確かに、今の時代“お嬢さん”などという言葉は既に死語化していると言えそうだ。これだけの世界の金融危機の中、資産家の親の事業とて一寸先は闇の時代に突入している。親の経済力を当てにするのは危険性が高い。 加えて、晩婚化に非婚化、そして離婚率の急上昇…。男女にかかわらず結婚に将来の経済的安定を見い出す時代ではもはやなくなっている。 
 そうすると、資産家の家庭に生まれた“お嬢さん”であれ、将来は自力で我が身を立てていく準備を子どもの頃から要請されることになろう。そして、それが本人にとっての一生の生きがいともなろう。


 昨日は、我が娘が来年の4月に高校進学するにあたり、既にある程度の将来の進路を絞り込んでいる話をしたのだが、それに関してこの歯科医先生が高い関心を示されるのだ。
 どういう経緯で進路を絞り込んだのか、子ども本人が進路を絞り込むに当たり親として今までに如何なるフォローや環境作りをしてきたのか、等々の質問が尽きない。 我が家の場合、幸いにも子どもが好きで打ち込めることがあることや、それは小さい頃からの経験に基づいていること、等々の談話が続いた。


 この歯科医先生の娘さんご本人にはお会いしたことはないのだが、こういうお父様を持たれていることは幸せなのではないかと私はいつも感じる。
 父親にしてやや教育に熱心過ぎるきらいも感じなくはないのだが、患者の親を捉まえ情報収集をして、我が子の教育や進路の決定に役立てようとするその意気込み、そして元よりご自分の娘さんが今後“お嬢さん”では済まされないことを認識されていることを私は大いに評価申し上げたく思う。

 まさに今の時代、女が“お嬢さん”では生きられない。 
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