原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ビワの木に実が実りました!

2011年04月29日 | 雑記
 (写真は、我が家のビワの木。 今年初めて実が実りました!)

 我が家ではビワの木をベランダにて鉢植え状態で育てている。 写真が不鮮明だが、上部に小さい実を3個付けているのがお分かりいただけるであろうか?


 このビワの木を、一体どういう経緯で大都会のマンション住まいの我が家にて育てる事に相成ったのかについてまずは話そう。

 実は今を遡る事8年前の初夏にスーパーで買い求めたビワの実を食べた後、その種を我が娘がベランダの鉢に4個蒔いたのである。
 まさか芽を出すとは思っていなかったところ4個の種すべてが芽を出し、まさかその後育つと思っていなかったところ4本ともすくすくと育ち、毎年大きな葉を付けその葉を年々入れ替えつつ、今や最高で130cmの高さにまで成長している。

 そして、まさか花が咲くとも思ってもいなかったところ、昨秋一番大きく育っている木に30程の白い花が咲いたのだ! 
 我が家が自然栽培(単に水だけやって放ったらかしていると言う意味ですが)で育てたビワの木が来年の初夏には実を結び、一家で食することができるぞ!と期待していたところ、その期待通り現在実が大きくなっている最中という訳である。

 このまま3個の実が大きくなってくれたら一人一個ずつ食べられる計算だが、おそらくさほど大きくは熟さないであろうと原左都子は見ている。 と言うのも、既に巷の街の店先ではビワの立派な実が販売されている。 我が家のビワの木の場合、樹木の太さが最大でせいぜい2cm程度とか細い。 その木に見合った実を実らせるのが精一杯ということであろう。
 どのような小ささであれ、今年初めて結んだ実が黄色く熟する事を楽しみにしていよう。

 それにしても、「桃栗3年、柿8年」と言うが、ビワは8年にして実を結ぶ樹木であることを今回体得した思いである。 我が家のスリムなビワの木は、来年以降も花を咲かせ実を結ぶのか?今後の楽しみにとっておこう。


 さて、原左都子が大都会東京に於いて何故自宅でメダカを飼ったり、狭いベランダでビワを育てたりしているのかに関して、ここで私なりにその我が行動のルーツを自己分析して少し説明することにしよう。
 私が幼少の頃に育った父系の実家は元々梨農園を経営していた名残で、家屋の敷地内に数多くの果樹等の樹木が育っていた。 私の記憶によるとその頃の家屋敷地内には、みかん、夏みかん、渋柿、グユミ、イチジク、ざくろ等々、沢山の果樹木が生育していて毎年その樹が育む果実を食して育ってきたともいえる私である。
 ビワに関しては自宅内には植生していなかったのだが、隣家のビワの大木が我が家の敷地内にもその枝を伸ばし、たわわに実っていたことを記憶している。
 その頃の日本(特に過疎地域)は、隣家に伸びた枝でもめることなどない平和な時代であった。 毎年毎年お互いの敷地内に育った果実を含む植物等を“物々交換”しつつご近所同士の友好が健全に築かれている時代背景だったものだ。
 我が家の“イチジク”や“ざくろ”の一風変わった味や柑橘系の酸っぱさは苦手だったものの、隣家のビワに関しては子供心にその甘さや独特の香りを好んだものである。
 大人になり上京して以降も原左都子にとってあの頃食したビワの味が忘れられず、それを買い求める機会は多かった。 それを我が娘にも毎年食べさせていたところ、娘が種を植える行動に至ったといういきさつである。


 我が家には、現在ベランダに大小様々な鉢が10鉢程ある。 今の住居に引越した当初はその倍の20鉢程あったのだが、台風等の強風の都度飛ばされないよう室内に片付ける作業が煩雑なため、少しずつ減らしていって現在はこの数である。
 その鉢に、すべて“自然栽培”(この意味に関しては上記を参照下さい)にて、ビワ以外の植物も栽培している。 
 例えば、我が娘が小学校1年生の時に学校の校庭で拾って来た(おそらく“夕顔科”と思しき)植物の種を我が家の鉢に蒔いたところ芽を出し、今に至るまで毎年6月頃から10月頃までショッキングピンクから白色色調の花を毎日咲かせて楽しませてくれている。
 それから、やはり娘が友人から貰って来た“風船かずら”の種は、天然にハート模様にデザインされていて実に可愛い。  この種を娘が貰ったその年に早速鉢に蒔いたところ、成長して黄緑色の風船型の可愛い実を結んだ時には母娘共に感激したものだ。 その実から種を毎年収穫しておき、ちょうど今頃の季節にベランダの鉢に蒔くのだが、年々の気象状態にも左右されつつ毎年種が収穫できるのはうれしいものだ。
 娘が、学校から配布された“ほうずき”も翌年に真っ赤な実を結んだものだが、これはさすがに我が家の“自然栽培”方式では次の年には芽さえ出ず、枯れ果てる運命にあった…


 植木・盆栽や家庭菜園のご趣味があられる方々にとっては、我が家の集合マンションのごとく狭いベランダで展開されている“水だけ与えて後は放ったらかし”の「自然栽培」など、とんでもない話と思われるであろう。

 ただ、それでも植物という生命体が命を育みその命を後世に継続している姿を我が家で垣間見れることが何とも愛おしく、私は今後も自己流「自然栽培」で育つ力が在る植物を自宅で育て続けることであろう。 
                      
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リズミカル に タッチタイピング♪

2011年04月27日 | 自己実現
 少し前の話になるが、我が郷里の80歳に程近い母が「パソコンを習ってみようかなと思う」と言う。 「それはいい考えだよ!」と賛同したところ、早速年寄り向きの“パソコン体験教室”か何かに参加したようだ。 
 ところが一回体験して来ただけで「やっぱり年寄りには無理だからやめる」とのことだ。
 どうやら、キーボード入力に大いなるアレルギー感を抱いたのが第一の理由のようだ。

 ずっと若返って原左都子と同年代の複数の女性が、やはり同趣旨の言葉を口にするのを聞く機会も多い。
 どうしてもキーボード入力が億劫であるが故に自然とパソコンからは遠ざかってしまい、専ら携帯を利用しているとのことで、それらの相手からはいつも携帯メールが届く。 私などまったく逆で、未だに携帯文字入力が大の苦手であるため、外出緊急時以外は通信をパソコンに頼っているのが現状である。


 パソコンのキーボード入力に関しては、「習うより慣れた」人種が大多数なのではなかろうか?
 私の場合おそらく少数派に属するのであろうが、過去においてキーボード入力をわざわざ「習った」人種である。

 本エッセイ集のバックナンバー「資格は取りゃいいってもんでもないが…」において既述しているが、私がキーボード入力を習ったのは今から30年程前、20代半ば頃の事であった。
 当時従事していた医学関係の仕事において、業務上の要請でワークシート出力のためのコンピュータのプログラミングをする機会があった。 FORTRAN はともかくCOBOL はプログラムの入力文字数が多いのに難儀したのがきっかけで、キーボードのJIS配列をマスターしたいがために 英文タイプ2級 の資格を取得したのである。 (あの時、20代という若さにして文字入力に大いに難儀した記憶がある私は、現在80歳近い母の“キーボードアレルギー”を十分理解できる思いだ。)

 当時はパソコンなどほとんど存在しない時代であった。 ワープロでさえまだ出回り始めた頃で一般には普及していなかった。 そこで私は“英文タイプ”を通じてJISキーボードをマスターすることを企て、仕事帰りの夜遅く来る日も来る日もビジネススクールの英文タイプ科に通ったのである。 集中力のある(??)私の上達は早く、通い始めてまもなく英文タイプ検定3級試験に合格した。 3級程度の腕前を養っておけば一生キーボードを打てるとの情報もあったのだが、更なるスピードアップを目指して検定2級まで取得した原左都子である。
 
 この我がタイピング技術力はコンピュータプログラム入力に留まらず、後々の我が人生において大いに重宝している。

 その後、世の中はワープロにて文書を作成する時代に移り変わる。
 ローマ字入力でいくらでもバシャバシャとキーボード入力できる私は、専門の医学分野のみならず文書作成においても職場で重宝がられたものである。
 そして30代後半にして高校の商業科教諭となった私は、「ワープロ」の授業も担当した。 当時の私の専門分野は「経営法学」だったのだが、上記のごとく過去の職業経験においてコンピュータプログラミングを経験したり「ワープロ」を打ちまくっていた私にとって、これは楽しい授業であった。 生徒の前で“お手本”として高速スピードで“ブラインドタッチ”にてキーボード入力をするだけで歓声が上がるのが快感だったものだ。
 「おー、凄い!」「私もキーボードを見ずに高速で打ちたい!」等々、まるで“大道芸”でも見るがごとく若者が単純に喜んでくれるのが面白かった。 
 (ただ、“ブラインドタッチ”をマスターするまでの道程とは、実際は至って地道なのだけどね…)

 そんな私にとっての一番の“関門”は、世から「ワープロ」が消え去って「パソコン」に移り変わる時代となった頃に訪れた。

 今から15年程前、我が娘が幼少の頃我が家でも初代の「パソコン」(MACだったのだが)を購入した。 身内から「文書はパソコンでも打てるから、早めにワープロを卒業するべき」と促されるのだが、業務用ワープロ OASIS(当時、時価100万円を超える代物です! 私はこれを中古で購入しましたが…) をずっと使用していた私にとってはこちらが断然扱い易いのだ。
 ただ、この原左都子にして時代の変遷に乗り遅れる訳にはいかない。 とりあえずはOASISと同時進行でパソコン文書に慣れていった私である。 (という訳で未だにOASISの本体は保存してあるが、専用プリンターが壊れて廃棄処分にした今となっては、当時フロッピーに保存した文書を眺めるのみの役割しか果たしていない…)

 ここで余談になるが、今となってはパソコン文書作成にも十分慣れた身にして“JISキーボード打ちまくり歴30年”を誇る私原左都子に言わせていただくと、今のパソコンの文書作成能力より、ワープロ専用機であった 富士通OASIS の文書作成力の方が勝っていると判断するのだが如何であろうか??


 今回の記事を綴ったいきさつとは、朝日新聞「be」の先週の記事「ためしてみよう、タッチタイプ」を見たことがきっかけである。
 この記事も「習うより慣れよ」を主眼として構成したものと受け取るが、タッチタイピング(ブラインドタッチ)を短期間で“習って”習得した原左都子としては、「習うより慣れ」ることによりキーボードを習得された皆さんに、是非共その習得のいきさつをお伺いしたいものである。

 と言うのも、我が身内も当然ながら仕事上の要請により「習うより慣れ」てキーボードを日頃打っている人種であるが、私が“高速”でブラインドタッチをするのを自宅で垣間見ては、我が娘にはその技術を早めに習得させたい思いが強いようなのだ。
 そんな身内の意を受けてたまに娘に指導を試みる私であるが、これが一筋縄にはいかない。  キーボードを見ながら打つことに慣れている人とは、どうしてもキーボードを見る癖がついてしまっているようなのだ。 私のようにタイピングを習った人間の場合は、最初の第一歩から決してキーボードを見ないで打つ練習を積んでいるため、キーボード配列を“視覚ではなく指の距離関係”で理解しているのである。

 上記朝日新聞の記事においてはタッチタイピングが「やってみたらできた人も多い」とあるのだが、本当にそうなのか?  
 私の経験から言わせてもらうと、タッチタイピングもあくまでも地道な努力を覚悟の上で「慣れるより習う」方がよほど手っ取り早いかと結論付けるのだが、その辺の実態を知りたいものだ。


 それにしても、今後もパソコンのキーボード操作により文書作成する機会が増大する時代背景が続行することであろう。
 タッチタイピング(ブラインドタッチ)力とは、今後の社会を生き抜いていく人類の将来とって不可欠と言える技術なのではあるまいか。 
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スーちゃんにとって「キャンディーズ」は本当に幸せだったのか??

2011年04月25日 | 時事論評
 「元キャンディーズ」のスーちゃんこと田中好子氏の訃報を目にしたのは、先だって4月22日の朝パソコンを開いたその画面上のニュース見出しであった。

 “田中好子さん、乳がんで死去”
 田中好子氏と言えば、キャンディーズのスーちゃんではないか。 乳癌を患っていたとか闘病中という情報に関しては一切見聞したことがなかった原左都子なのだが、享年55歳と言えば私と同い年…。(私の方が半年程生まれが早いようだが)  やはり同年代女性の突然の死の報道が大いに気に掛かる私である。

 その夜、テレビでスーちゃんの訃報に触れたニュース影像を見て唖然とさせられたものだ。 
 街頭インタビューに応える私より年配と思しき初老男どもが、恥ずかしげもなく「キャンディーズは私の青春でした!」「スーちゃんは一番可愛くて私の好みでした」などとの“お悔やみ”の言葉を述べつつハゲ頭やヨレヨレ容姿の醜態を画面一杯に晒している…。 
 (ちょっと、あんた達! これじゃあ天国のスーちゃんの顔に泥を塗るようなもので、スーちゃんにとっては“ありがた迷惑”と言うものじゃないの??!)などと、不謹慎にも失笑するしかなかった原左都子でもある。


 キャンディーズと言えば、1970年代の歌謡界を一世風靡した女性アイドル3人グループである。
 確かにアイドルブーム全盛時代の当時において、3人の可愛い女の子が揃ったキャンディーズは、アイドルとしての要素満杯であったことだろう。 
 当時、時を同じくしてデビュー(キャンディーズの方が若干早かったと記憶しているが)したピンクレディと比較されることも多かったようだ。 そんな中、同世代の男性にとってはキャンディーズ支持派が大多数であったことは十分納得できる。 
 まだまだ男性が女性より優位に立ちたい時代背景の下、キャンデーズは一貫してそれに迎合するべくプロデュースされているグループだった。 とにかく“可愛い”ことを全面に出すべく、小柄な3人娘を揃え、歌も踊りも中途半端なお色気が売り物だったものだ。

 片や、ピンクレディの方は“似て異なるもの”との認識が当時の私にはあった。
 こちらは、とにかく高身長の体型の良さを前面に出した(失礼ながら可愛さは二の次の)2人組が元気に歌って踊って、日本に新時代が到来したごとく当時の世を圧巻し続けたものである。 当時のメディアにおけるマーケティング対象として、一部の男性のみではなくより広範囲の視聴者を取り込んだ“ピンクレディ プロジェクト”の方が結果としては高売上高を記録したというのが事実であろう。
 当然ながら、当時の原左都子の興味もピンクレディに大きく傾いていたものだ。 (ミーちゃんと同身長でもある私は、今尚ピンクレディをユーチューブで見ては一緒に歌って踊る日々である。)
 ピンクレディはその後も長年に渡り踊りと歌をよりバージョンアップしつつ、今現在も全国においてコンサートツアーの真っ最中である。
 

 アイドル路線を突っ走ることを余儀なくされたキャンディーズは結局1977年の夏、人気絶頂時に解散宣言をすることと相成る。
 同年の7月に日比谷野外音楽堂にて決行された(事実上の)解散コンサートのエンディングで3人は突然の解散宣言をした。 その後、ランちゃんが叫びながら発言した 「普通の女の子に戻りたい!」 宣言は、当時流行語にもなる程に今尚“名言”としての歴史を一人歩きし続けている。

 本当に「普通の女の子に戻りたい!」のかと思いきやそうではなかったようで、結局はキャンディーズ解散後直ぐに芸能界にカムバックしたランちゃんとスーちゃんであった。(ミキちゃんについては情報のない私なのだが…)
 二人共“女優”としてのカムバックであったが、まあそこそこ活躍してきていると言えるのであろうか?

 今回亡くなったスーちゃんに関しても、この私も解散後メディア影像で見ることはあった。
 実は昨日(4月24日)も追悼番組とのことでスーちゃんが出演しているドラマの一部をたまたまテレビで見聞した。 
 このドラマの内容が暗かったせいかもしれないが、どうも原左都子の感想として、スーちゃんが「キャンディーズ」以降に歩んだ人生がこのドラマの暗い内容と交錯して伝わってしまうのだ。
 実は、先だってスーちゃん亡き後直ぐにメディアのインタビューに応じたご亭主の態度にも私は疑義を抱いていた。 確かに子どもがいない熟年夫婦の繋がりとはこの程度のものかもしれない。 それにしても亡くなった直後にメディアを通して軽々しいコメントをご亭主に述べられたものでは、天国のスーちゃんは(上記の)往年のファンからのコメント以上に浮かばれない思いではないかと心を痛めた私である。

 
 本日NHKテレビの昼のニュースに於いてスーちゃんの葬儀が大々的に執り行われている様子が報道され、元キャンディーズのランちゃんやミキちゃんからの弔辞が放映されていた。 あくまでも私の記憶に辿るその一部によると、「私たちは“キャンディーズで幸せだった。これからもずっと私達はキャンディーズだよ!」との弔辞があった。
 (この弔辞は一体誰がプロデュースしてるの? そもそもスーちゃんがこれ程大々的な葬儀を執り行って欲しかったのだろうか??)

 スーちゃんが乳癌に侵されたことは事実なのであろう。 そしてその乳癌は1992年に発症したとの報道であるが、スーちゃんの闘病生活が19年もの長年に渡りつつ、その間スーちゃんが女優業を続けていた事も事実ということであろう。
 スーちゃんの一番の身寄りであろうご亭主が、その闘病にどれ程の協力体制を執っていたかなど私が知るところではない。 ただ、たとえ癌と言えども、スーちゃんが19年にも渡りその命を繋いでいたということは、その闘病(心身面や周囲の対応等)の如何によっては、55歳にして癌の転移により命を閉じずに済んだようにも考察してしまう元医学関係者である私なのだ。

 スーちゃんのご冥福を祈ると共に、今回の田中好子氏の葬儀報道全般を通して考察して、本当にスーちゃんは当時のキャンディーズ仲間による本日の弔辞のごとく「キャンディーズ」を経験して幸せだったのだろうか?? との疑念を抱いてしまう原左都子は単に心が歪んでいるだけなのか?

 死んだ後にまで、親しくもない人物や組織から過去に於ける自分の名声を利用されるなど、たまったものではないのではないというのが今回の原左都子の率直な感想なのだが、如何であろうか?? 
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東日本はいつまで揺れ続けるのか?

2011年04月23日 | 時事論評
 3月11日に発生した東日本大震災第一波本震において、東京新宿超高層ビルの一つである「新宿センタービル」(1979年建築)の最上階では、最高で108cmの横揺れが約13分続いたとの報道を先だっての新聞記事で発見した。


 東日本大震災が被災地にもたらした大被害は、「福島第一原発事故」を筆頭として今後の復興の見通しが立ちにくいレベルの傷跡を東日本各地に置き去りにしたままである。

 その中で我が住居地である首都東京が受けた被害とは震度5強の大揺れ被害のみであり、一部のビル倒壊や火災を除き、もはや東京は被災地として位置付けられない立場にあろう。
 復興を語る場合は、当然ながら大きな被害を被っている「原発被災地」や「津波被害地」が最優先されるべきである。

 それは重々承知の上ではあるが、生まれて初めて「震度5強」の揺れをマンションの高層部に位置する自宅内で実体験した原左都子自身の大震災の傷跡とは、やはりその“大揺れ”の記憶なのである。
 大震災から1ヶ月半が経過しようとしている今尚、東日本ではマグニチュード7以上、震度5以上の大きい規模の余震が続いている。 4月中旬頃特に余震が激しい頃があった後やや小康状態かと気を抜いていると、やはり今でも余震は朝昼そして夜中にもやって来て、うかうか寝てられもしない状態である。
 東京における余震は幸いな事に今のところは震度4を最大レベルとして経緯している。 それでも携帯が突如として不気味に奏でる「緊急地震速報」を耳にする都度、実行中の家事等を中断しガスの火を消して我が家の安全地帯に避難しつつ、我が脳裏にはあの日(3月11日)の大揺れにより本棚が倒れかけ、家中の置物が床に放り出された惨劇光景がフラッシュバックしてしまうのだ。 
 (3月11日以降胃痛に悩まされ体重を2㎏程減らしている私であるが、余震の速報がある都度その胃痛が再発して、薬嫌いの私が胃薬に頼らざるを得ない情けない日々である。)


 原発被害や津波被害が甚大である東北をはじめとする地方の被災者の皆様が今尚置かれている立場に配慮しつつも、今回大都会にして震度5強を記録した首都東京の今後の耐震対策に関しても頭の片隅に懸念感を抱き続けている原左都子である。

 東京はじめ首都圏に於いては、今回の大震災による家屋の崩壊はごく少数の被害に留まっているものの、大揺れ衝撃の影響で地盤が緩んだり目に見えない所で建物が致命的な損傷を受けていることも予測できるとの報道に、大いに納得する私である。
 我が家のマンションの場合まだ築8年少しの新しい物件であるためか内外共に外見的には何らの損傷もないのだが、私の気のせいかもしれないが強風が吹くと震災以前には聞こえて来なかった“ミシミシ音”等の異常音が建物から発せられているのが感知できるようにも思えてしまう。
 我が家に限らず、今後の余震の規模によっては本震の大揺れによりダメージを受けた建物に余震による衝撃が何度も加わり続けた場合、何らかの被害が生じても不思議ではないことを視野に入れるべきと考察するのである。

 そんな折に目にしたのが、冒頭に紹介した新宿超高層ビルの本震による“大揺れ”の実態に迫った朝日新聞4月19日夕刊一面トップ記事である。
 その一部を以下に要約しよう。
 新宿超高層ビルの一つである「新宿センタービル」に本社がある大成建設が3月11日に調査した結果によると、本震により約13分間に及ぶ長い揺れを観測したという。 東大地震研究所は本震時に関東平野では6分以上の揺れを観測したとしている。 超高層ビルにおいてはそれよりもかなり長く揺れた可能性があるとのことなのだが、この揺れは「長周期地震動」の影響を受けたものと見られるとのことで、これは大きな地震程発生し易く、関東地方等の堆積層がある平野部で揺れが大きくなるとの報道だ。 1985年に発生したメキシコ地震ではこの振動により地震発生地点から400km離れたビルが倒壊したこともあるそうだ。  日本建築学会によると、我が国に建設されている60m以上の超高層ビルに於いては揺れが続くとビルが傾く危険性がある場合も想定されるため、補強が必要と指摘している。 ある研究者は、今後「今回以上の長周期地震動が起きる恐れがあり、古いビルは耐震補強が必要。」と述べているようだ。


 ここで原左都子が思い出すのは、2005年に発生した姉歯ナンタラ氏と名乗る1級建築士がかかわった「マンション耐震強度偽装事件」である。
 あの時取り崩し対象になったマンション物件はその偽装故に“震度5強”に耐えられないと判断されたため、結果として取り崩し処分となったと記憶している。 当時の私の愚かな感想とは(震度5強の地震が大都会に今後到来する確率は極小であろうに、取り崩しすることによる経済損失は大きいなあ…)なるお粗末なものであった。

 ところがあれから数年も経たずして、未曾有の大震災が発生してしまったという現実に震え上がる現在の私である。
 姉歯物件はいざ知らず、我が家のマンション物件ですら震度5強の揺れにどの程度耐えて今存在しているのかなど、建築に関して素人の私には計り知れないのが事実というものだ。

 実に怖い話であるが、我が家の耐震強度はともかく、被災地各地において何とか姿を留めている建物群の今後の行く末を慮る原左都子の懸念の程をお分かりいただけるであろうか?

 
 今回の「マグニチュード9、0」大震災の科学的解明がいつになるのやも見通しがつかない被災地の現状である。
 そんな環境下において、地球上における巨大な海底岩盤層である“太平洋プレート”の沈み込み圧力が誘発した今回の東日本大震災の余震に日々怯えながら、東京に住む私も今後しばらくは胃を痛めつつこの揺れに耐え抜くのが宿命であるようだ。
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原左都子が選ぶ 「ビートルズ」 トップ10

2011年04月21日 | 音楽
 (写真は、原左都子が20代前半の頃趣味で活動していたアマチュアロックバンドの舞台。  中央リードボーカルが私)

 音楽好きの原左都子が選ぶトップ10シリーズ第3段は、「ビートルズ」を取り上げることにしよう。

 この時期になぜ 「ビートルズ」 なのかと言うと、これには私なりの理由がある。


 先だって大いに遅ればせながら、我が家のリビングルームのテレビを“地デジ”対応機種に買い換えた。
 本年7月にテレビが地上デジタル放送に切り替わるが、我が家(とは言っても、身内だけは当の昔にまんまと自室のテレビを地デジ対応型に買い替えているのだが)では、その切替えを機会に日常生活からテレビを排除しようか、と娘と話し合っていたのである。 大いに迷った挙句、やはりニュース報道はテレビを通して見聞したい希望が強い私の意向により、ついに今頃にしてやっと買い替えの運びとなったという訳だ。

 身内のお勧めとしては DVD(ブルーレイ?)録画機能等も付随している機種が便利とのことなのだが、子どもがバレエやピアノの舞台に立っていた小さい頃ならばいざ知らず、今となっては特段録画をする対象物はないからシンプルな機種でいい!、などといつもながら“小競り合い”しつつ家電量販店へ向かった。
 店に着いてからは当然ながら家庭内における実質的権力者である私のペースだ。 早速若手のイケメン店員氏を捕まえた私が尋ねて曰く 「シンプル機種希望なのですが、どれがお勧めですか?」 これにイケメン店員氏応えて曰く 「この辺の機種がお勧めです」  概ね4~5万円の機種が並んでいるのを見つつ 「他にはどういう機種がお勧めですか?」 と尋ねた私に、すかさずイケメン氏は 「例えば“ユーチューブ”をパソコンに接続せずに見れる機種があります。」 
 (何で、この店員は私が“ユーチューブ”ファンだと知っているのだろう???)

 この一言に俄然目が輝いてしまった私である!
 「パソコンに接続しないで、テレビで直接“ユーチューブ”が見れるんですか!!?」 「はい、そうです。」
 といういきさつを経て、イケメン店員氏の“ユーチューブ”の一言で予算が大幅に跳ね上がったもののソニーの“ユーチューブ”対応機種テレビをゲットしてきた原左都子である。 (私は家庭内で甘やかされ過ぎだろうか、と多少反省しつつもね……)

 その“ユーチューブ”であるが、私がネット上で“ユーチューブ”を検索しない日はないと言う程、実際に日々その画像のお世話になっているのだ。
 音楽好きの私としては、音楽鑑賞目的で“ユーチューブ”を利用する機会はもちろん多い。 だが何と言っても、音楽に関しては子どもの頃から“実行派”を誇る私である。 音楽を自分で奏で、自分で歌い、自分で踊ることを生涯の趣味としている私にとっての“ユーチューブ”の利用法とは、テレビの大画面を見つつ歌ったり踊ったりするのが理想なのである。


 ここでやっと「ビートルズ」の話題に移るが、我が中高生であった思春期に洋楽を好んだ私は当然ながら「ビートルズ」も重々マスターして来ている。 
 当時(1960年代後半頃)の私が趣味だった「ビートルズ」は、自ずと初期の頃の楽曲であった。
 今現在、私が“ユーチューブ”で楽しんでいる「ビートルズ」とはやはり初期に偏っているかもしれないが“歌って楽しめるビートルズ”である。


 そこで今回の記事に於いては、今現在原左都子がユーチューブで“歌って楽しんでいる頻度が高い曲”という観点で選んだ 「ビートルズ」トップ10 を公開させていただくことにしよう。

 1位  「Back in the U.S.S.R」

 この楽曲はビートルズの比較的初期のヒット曲と記憶しているが、歌ってよし踊ってよしのこの曲には当時から大いなる思い入れがあった。 今尚、原左都子“一押し”のビートルズナンバーである。

 2位  「Lady Madonna」

 原左都子の楽器演奏趣味の一つとして“エレクトーン”があるのだが、20代前半頃この楽曲をエレクトーンで練習した。 今でも時々エレクトーンで弾く機会があるこの楽曲の歌詞にもまた興味深いものがある。

 3位  「We can work it out」

 我が17歳の娘が私と一緒にユーチューブで歌って「大好き!」と推奨するビートルズ1960年代の楽曲なのだが、確かにそのメロディーラインは今聴いても素晴らしい。 
 加えて、この頃のポール、ジョン、ジョージ、リンゴが何と可愛らしくて素敵なこと!!(是非“ユーチューブ”でご覧いただきたいものだ。)

 4位  「Eleanor Rigby」

 この楽曲に関しては、実は60年代の若き私にとってはさほどの思い入れはなかった。 ところが今の私の年齢で再度視聴すると心が揺さぶられるものがあるのだ。 エリナー・リグビーという身寄りのない老女と、誰からも相手にされないマッケンジー神父という架空の人物を悲劇調に綴ったこの楽曲の物語性の高さを、同年代以上の皆様に是非“ユーチューブ”で視聴いただきたいものである。

 5位   「I am the Walrus」

 ジョン・レノンが中心に仕上げたこの曲は、ジョンの高音のボーカルが際立っている。 この頃、薬物の影響を受けていることを疑われるビートルズであったが、確かにそのノリが感じ取れる楽曲である。 そんな思いを背景にカラオケで歌う分には何やら幻想的な世界に入れそうな何とも言えないいい曲である。

 6位   「Lucy in the Sky with Diamond」

 これも上記と同じく発売当時から薬物疑惑を疑われていた楽曲である。 曲のタイトルの頭文字が“LSD”と一致していると報道されたことを私は高校生の頃に聞いたと記憶しているが、確かに今この曲を聴いてもその影響が疑わしく思われるふしはある。 
 ただ音楽に限らず芸術とは、ルネッサンスの時代以前から“薬物”の力により作者が身を滅ぼしつつ成り立っていると何世紀も言われ続けているのだしね……
 それはそうと、これは私は薬物疑惑伝説に限らず名曲と評価するのだ。

 7位   「Strawberry fields Forever」

 原左都子は19歳の夏に米国某大学に短期留学した経験があるのだが、その時その大学に「Strawberry field」なる巨大なグラウンドがあった。 これはビートルズのこの曲にまつわっているのか!?、とワクワクした記憶がある。 そうではなくて、実際はリヴァプールにある戦争孤児院"Strawberry Field"をモチーフに作った曲であるらしいことは後で判明したのだが、とにかく名曲であることには間違いない。


 既に字数が多くなってしまったため、後の3曲は曲目のみまとめて紹介することにしよう。

 8位   「Penny Rain」

 9位   「Across the Univers」
 
 10位  「In my life」 

  いずれもメロディラインが素晴らしい楽曲ばかりですので、どうか皆さん“ユーチューブ”にてお楽しみ下さいますように!!


 (著作権法は遵守して欲しい一方、それにしても“ユーチューブ”の発展とはネットを通じてあらゆる音楽や影像を庶民が気軽に楽しめる時代になった証ということなのでしょうかね??)
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