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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「手書き文字」 v.s. 「キーボードタイピング文字」

2025年07月08日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、「原左都子エッセイ集」バックナンバー「左都子の『科学哲学』小講座V」より転載した、我が2度目の大学での授業中に講義内容を聞き取り筆記したノートの一部。 講師の板書をノートに写したものでは無く、あくまで口述授業を聞き取り書きしたものであるため、速記にての筆記で字が大いに乱れている。 参考だが、我が筆記文字は丁寧に書くとこれ程汚くは無い。 さらに参考だが、28歳時に英文タイピスト検定2級を取得した後は、普段の筆記には昔はワープロ、その後はずっとパソコンを用いているため、今現在に至っては筆記を手書きに頼ることは皆無とも言えよう。)



 原左都子の、「文字筆記歴」を簡単に語るならば。

 幼・小中高・大学・2度目の大学、大学院と合計20数年間に渡って、手書き筆記に依存して来た。

 2度目の大学時代には、他の大学では筆記をパソコン持参でそれに打ち込む学生もいると見聞していたが。 我が所属大学ではそんな学生は皆無で、皆がノートに鉛筆で書きこんでいた。

 一つ、エピソードを語ろう。
 私が2度目に進学した大学・大学院は、首都圏に位置している比較的偏差値の高い公立大学だった。 にもかかわらず若き学生の中には、講師の口述授業を自身のノートに「聞き取り筆記できないから、ノートを写させて欲しい」と私に嘆願してくる学生が何とも多かったこと!!
 それを聞いて驚いた(と言うより呆れた😨 )私が、「どうして聞き取り書きが出来ないのかな?」 と問うと、「高校までずっと先生が黒板に書いたのを写してきた習慣が身についていて、それしか出来ない」との回答だ。
 少し私がアドバイスして、「とにかく講師の授業をよく聞くことが肝心、そして、特にこれは大事!と自分が捉えたことからノートに書くように努力してはどうかな?」 
 そうアドバイスしつつも、ノートを貸してあげたものだが…


 
 話題を変えて、2025.07.02付朝日新聞記事 編集者・ライターの新保信長氏による「手書きがレアな時代 下手な字でも輝く」より、一部を以下に引用しよう。

 私(新保氏)自身、自分の字がずっと嫌だった。 大学時代にワープロが売り出されると、「これぞ神道具!」と、当時20万円以上もしたのをローンで買った。
 その後、50歳で一念発起。 ペン字教室に通い、ハウツー本も読んで分かったのは、美文字でなくとも、自分なりにそれなりに「いい感じ」と思える字でよいということだ。 (途中大幅略)
 手書きの便りをもらって不快に思う人はいないでしょう。 手書きだとその都度、表現の仕方に思いを巡らす「間」がある。 手を動かすことで、思考が整理される面もある。
 
 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)




 原左都子の私事及び私見でまとめよう。

 おそらく今時の大学では自身の小型パソコンを学内に持ち込んで、それに講義内容を筆記する学生達が多数派となっているであろうと想像する。??

 この私の2度目大学・大学院が後10年遅かったならば、私も絶対的に授業に小型パソコンを持ち込んで筆記したであろうと振り返る。
 (私の場合、27歳時に「英文タイピング検定2級」を取得しているため、どう考えても手書きよりもキーボードタイピングの方が格段にスピードが速い故だ!)


 まあそうだとして。
 
 今現在に至って尚、 時折見直す我が2度目の大学・大学院にての「筆記ノート」の内容が実に充実していること!! (本エッセイ集バックナンバー「左都子の市民講座」等々にそれらの一部を紹介しておりますので、よろしければ閲覧下さい。)
 そのノートを自身が書いて以降、既に30年以上の年月が経過しているにもかかわらず。

 幾度見返しても、授業の学問ごとに。
 「そうだった! そうだった!」と再び感激出来る、私自身の学問に対する郷愁の実態が実に嬉しいものでもある。


 それ程までに我が2度目の学問への挑戦とは、当時既に30歳~30代半ばの年齢であったにもかかわらず。

 全力で取り組めた事実を振り返れる身であることを、今尚誇りに思えたりもする。


再掲載 「『調弦理論』はパラドクスを超えて“神の数式”となるか?」

2025年06月23日 | 学問・研究


 本日も、少し古くなるが。
 「原左都子エッセイ集」2013.09.23公開バックナンバーより再掲載させていただこう。


 


 私は、物理学者アルベルト・アインシュタイン没後、ほぼ半年の後にこの世に生を受けている。

 30代にして再び学問の道に入り、当時自分が目指す専門ではない哲学の一分野である「量子力学的実在論」の世界に魅了された。 
 大学の授業「科学哲学」の恩師である非常勤講師先生に「量子力学」の入門書とも言える ゲーリー・ズーカフ著「踊る物理学者たち」の紹介を受け、早速購入して多忙な日々の中時間を見つけてはむさぼるように読んだものだ。
 そして、私はまるで子どもの様に考えた。 (私がこの世に生まれ出たのはアインシュタイン没後、ほぼ半年後。 実はこの私こそがアインシュタインの生まれ変わりであり、今後一生哲学や量子力学的実在論分野の研究に勤しめるならば、何とミラクル人生なのだろう。)
 
 ただ、世の中そんなに甘い訳がない。
 人類の歴史に於いて天才と言われた偉人は数多かれど、アインシュタインを超越する天才はこの世に存在しないと言って過言でないと私は思うのだが、どうだろう?
 結局ただの凡人の私にとってのアインシュタインの存在とは、今後も我が一趣味の範囲で人生の合間にインパクトを与えてもらい楽しむ存在という事だ。

 そんな私が「原左都子エッセイ集」開設後間もない2007年11月に、「量子力学的実在の特異性」と題する学問・研究バックナンバーを綴り公開している。
 6年前当時の私は、我が子の「お抱え家庭教師」として現役バリバリに娘の勉強に付き合っていた頃である。 おそらく娘の学習を通してアインシュタインに触れる機会があったのだろう。
 今現在このエッセイを再び記せと言われても少し荷が思い感覚だが、当時上記書籍「踊る物理学者たち」を参照しながら綴った我が量子力学的実在論に対する熱い思いを、以下に振り返らせていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって「観測」というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。 結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため量子力学内で解決可能である。 「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。 合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔から感情移入している。 今回はその一端を語らせていただいた。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年11月バックナンバーより引用)

 さて、この辺でやっと表題に戻ろう。

 NHK総合テレビ「NHKスペシャル」に於いて、上記表題に掲げた「神の数式」に関する科学ドキュメンタリー番組が9月21日、22日両日に及んで夜9時から放送されたのをご見聞された方は多いであろう。
 
 これぞ「待ってました!」である。
 最近のNHK報道において、これ程に基礎科学の深層を追及する特集が組まれたのは久々の事ではあるまいか?
 普段はちょうどお風呂に入っている時間帯だが、少しお風呂を遅らせて私はこの番組を注視したのだ。
 
 21日放送分に関しては記憶が薄れているため、22日放送内容に関してあくまでも原左都子が記憶・記述している範囲で以下に紹介しよう。
 アインシュタインによれば、重力が小さく重い程空間に“歪み”が生じるが、巨大な重力がかかった場合、光すら曲がる。(これぞ、アインシュタインによる「一般性相対性理論」だが)  ところがこの理論では、宇宙の「ブラックホールの底」の説明が出来ない。 何故ならば計算式上、割り算の分母が∞(無限大)となってしまうのだ。
 そこで登場したのがロシアの天才マトベイ・ブロンスタイン氏であるが、氏は何故分母が無限大(∞)になるのかを追究し過ぎたために、それが当時の政権に「危険な思想」と受け止められ銃殺刑と相成った……
 それでも、世の科学者達は分母無限大の謎を解き明かすべく努力を重ねた結果、シャーク博士が「超弦理論」を打ち立てた。 ところがこの理論とは「10次元」世界を前提としてのみ成り立つのだ…。 現在我々が生きている世界とは「4次元」。
 そこに登場したのが、ケンブリッジ大学の二人の博士達。 「この世は本当に4次元なのか?」なる疑問と共に、「超弦理論」をバックアップするべく「n=496」の完全数を導き出すに至る。 この完全数こそがアインシュタインが発表した「相対性理論」と「素粒子理論」を矛盾無く証明する数値だった!
 これこそ大革命であり、現実世界すべてを表現可能なのだ。 ところが、まだまだ課題がある。 「一体、異次元がどこに存在する??」 そこで研究が進んだところ、より小さい世界(超ミクロの世界)に視点をおくと、異次元が見えてくるとの発見だ。
 この発見こそが「神の数式」か? と考えられたが、またもや難題となるのが「熱」の存在だ。  そこでポルチンスキー氏が一つのアイデアを発表した。 「弦は動き、熱を発するとの重要な性質を持つ」 この理論により宇宙のブラックホールの謎が明らかになった。 これを受けて、2004年にホーキング氏は自分の誤りを認めるに至った。
 さて、人類は宇宙誕生の謎を解くことが出来るのか? それは「ヒッグス粒子」の発見に加えて、宇宙とは実は「11次元」の存在でもあるとの研究によりますます神秘を増している。
 (最後は原左都子の私論も多少交えたが、以上はNHK総合テレビ番組「NHKスペシャル」22日版をあくまでも我が素人視点から要約したもの)
 
 科学の世界とは素晴らしい!
 くだらない現世の争いや闘いをアホらしく感じさせてくれる、天才科学者達の超越した天才的発想力こそがまさに人間としてこの世に生を受けた証明たるべきで、実に素晴らしい。 だからこそ、原左都子は一生に渡り学問を愛好し続けているのだ。

 それにしても、繰り返すがNHKスペシャル番組に於いてこのように正面切って「基礎科学」分野の話題を取り上げたのは、久々の事だったのではあるまいか?
 たとえ少数であるとしても、この種の番組放映を心待ちにしている視聴者が存在する事実を、国民放送局とも表現可能なNHKに訴えたい思いで綴った今回の我がエッセイである。


 (以上、「原左都子エッセイ集」2013年公開のバックナンバーを再掲載させていただいたもの。)






 まさに我が人生、30歳過ぎて今一度学問の道を志し、それを実現させたことにより。
 その後現在に至り今後に及ぶまでの我が人生の、幅や楽しみが数倍に膨らんだ事実を実に嬉しく思っている。


 科学・学問とは実に素晴らしい世界である!!


 今後も事ある毎にそれらに触れつつ、高齢期に達している我が人生を更に謳歌し続けたいものだ!!!


量子力学的実在の特異性   ー vol.2 ー

2025年06月23日 | 学問・研究
 本日は、我が「原左都子エッセイ集」開設直後期の、2007.11.15付バックナンバーに於いて公開した、表題のエッセイを再掲載させていただこう。


 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。

 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。 箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 

 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。

 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。

 量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。
 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。
 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。
 予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。
 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。
 シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。 ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。

 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。 経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。

 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。
 ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。
 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。


 (以上、我がエッセイ集 開設後間もない時期に公開した、学問研究カテゴリーエッセイを、再掲載したもの。)



 20代、30代を過ぎてずっと現在に至るまで、学問研究を追求し続ける人生を歩んで来ている原左都子だが。


 その原点となり得、私のその後の学問遍歴に於ける重要な核心であった「量子力学的実在論」の一部分を、再度語らせていただいた。


トランプ氏は米政府がハーバード大との全ての契約を打ち切るよう連邦機関に通知したらしい

2025年06月08日 | 学問・研究
 本日の表題エッセイは、2025.05.31付朝日新聞記事「ハーバード卒業生 晴れぬ心 政権攻撃はなお『後輩ら大学探し』より引用する。


 早速当該記事の一部を、以下に要約引用しよう。

 トランプ政権によるエリート大学への攻撃が強まる中、ハーバード大の卒業式には、連帯を示そうと地元の人たちも集まった。 だが、トランプ政権が手を緩める気配は無く、不安の表情を浮かべる卒業生らの姿も目立った。
 トランプ政権によるハーバード大へ留学生受け入れ禁止措置は撤回されておらず、「後輩たちは不安に駆られていて、他の大学を探し始めているひともいる。再入国できないかもしれないから、米国外にでられないでいる人も多い」と訴えた。 (中略)
 助成金の凍結や留学生の受け入れの認可停止などの措置をトランプ政権が次々と打ち出す中、27日には米政府がハーバード大の留学生の割合を15%までに制限し、事実上半減させるべきとの意向も示した。
 留学生受け入れは当面可能な状況だが。
 留学生受け入れに必要な認可がハーバード大に対して停止されたことを巡り、マサチューセッツ州の連邦地裁は29日、一時的な差し止め命令を継続させる方針を示した。 当面は、留学生の受け入れが可能な状況が続く見通しとなった。
 ハーバード大が裁判所に提出した書面によると、「数えきれないほどの学生が他大学への転校を検討している」が、既に秋学期の転校申請期限が過ぎている大学も多いという。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 このトランプ政権による「ハーバード大学留学生」への攻撃は未だ収まるどころか、強まっている様子だ。

 今の季節は米国においては学年末の時期であろうが。
 この騒動のさなかに、とりあえず「ハーバード大学」博士課程修了になんとか持ち込めた留学生もいたようだが。
 あと何年かの留学期間が残っている多くの留学生たちの不安の程は、拡大するばかりであろう。


 原左都子の私事を述べさせていただくと。
 この私も、(日本国内首都圏の公立大学においてだが)大学院修士課程を修了している身だ。
 それにチャレンジしたのは、30代半ばの事だった。
 幸いにも入試の関門を突破して、2年間の大学院生生活を送ったものだ。
 当時は未だ未婚だったし、自力で稼いで生きる立場の勤労学生の身ではあったが。 それにチャレンジするのに他に何らの障壁(例えば、それに適する学力が不足していたとか、親の反対とか、自己資金不足、ましてや、トランプ大統領の如くの外部圧力による大学院生攻撃😱 😵 等々)が何一つ無かったのが幸いして、見事に「大学院修士課程修了証(経営法学修士取得)」を手にすることが叶っている。
 
 
 それと米国ハーバード大学の「大学院修了証」とでは、雲泥の差があることなど重々承知の上だが。😱 😖 😝 

 それでも 我が30代半ばにして果敢にも「大学院修了」を目指し、それを成し遂げた事実は我が人生における“快挙”であったと。
 今尚誇れる事実こそを、一生大切に我が心の中に潜ませておきたく思っている。


 それにしても、現在米国ハーバード大学にて、今現在トランプ氏による攻撃を食らっている留学生の皆さんの混乱の程を想って余りある。
 既に諸外国の大学院へ移動した学生の皆さんも多いようだが。

 どうかご自身が目指されている学問・研究を、この度のトランプ氏による大きな障壁を乗り越えて、何卒成就されますように。
 

「数学」は単なる道具ではなく宇宙そのものかもしれない

2025年05月07日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、2025.054.27付朝日新聞記事「数学は宇宙の心理なのか? 宇宙×数学」より引用した ケプラーが作った太陽系の模型。 ケプラーは、この模型により自身が考えた太陽系の惑星が、この軌道に対応しているのではないかとの仮説検証を行ったが。 実際の惑星の観察データとは一致しなかった。)


 当該朝日新聞の記事の一部を、以下に引用しよう。

 宇宙を理解する上で、数学は不可欠だ。 
 近年では、数学は単なる道具ではなく、宇宙そのものかもしれない。
 そんな大胆な仮説を唱える研究者すらいる。
 この特集では、宇宙と数学の神秘的な結びつきに迫る。

 数学という言語で宇宙を見る。
 専門家に取材していると「見えて来る世界が全く違う」と感じる瞬間がよくある。 中でもそれを強く実感するのが、宇宙論の分野の取材だ。
 活き活きと語られる宇宙のはじまりや、無数に存在するという平行宇宙、目には見えない素粒子の世界。 取材の度に思うのが、物理学者が「数学」という言葉でこの世界を理解していることだ。 数学を駆使して宇宙を研究するj人には、どんな世界が見えているのか?
 そんな疑問が、今回の特集の出発点だった。
 取材を進める中で印象に残ったのは、研究の最前線に立つ専門家でさえ、宇宙も数学も、その全体像のごく一部しか理解できていないと感じる事だった。 数学者と物理学者の協働によって、宇宙の謎は今後も少しずつ解かれていくことだろう。

 ガリレオは、アリストテレスの理論をくつがえした人物だ。
 ガリレオ以前は、「重い物体は軽い物体よりも早く落ちる」と考えられていた。 これは、古代ギリシャ哲学者のアリストテレスの理論体系に基づいていた。 その結果、物体の移動距離は質量に依存せず、時間の二乗に比例することがわかった。 これは斜面の角度を急にしても成り立ち、「ピサの斜塔の角度を急にしてもなりたち、斜面を垂直にすれば「落体の法則」になる。 「ピサの斜塔から球を落とした」というエピソードは有名だが、ガリレオはこの実験を実際には行っていないと言われている。


 最後に、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)の明言を紹介しておこう。

 宇宙という書物は数学という言葉で書かれている。
 そしてその文字は三角形であり、円であり、
 その他の幾何学図形である

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 
 この原左都子は当該「原左都子エッセイ集」の初期頃に、頻繁に 古代ギリシャ哲学(主にプラトン哲学)を取り上げている。

 はたまた私め原左都子は中学生頃から学校の学科の中で「数学」が一番好きで、中高と学校の成績で高得点を挙げていた事実もぬけぬけと書かせて頂いている。 (「数学」好きであったが故に、大学での専攻は迷うことなく 理系を目指した事実に関しても述べている。)

 いや 上記の両者共々、実際本気で若かりし時代にはそれらの学問に没頭していたものだ。


 ところが、高齢域に達した今となってはどうかと言えば。

 「数学」好きであることは間違いない。
 娘の中高の「数学」指導は 間違いなく母である私が専属でやり抜き、塾等々の世話には一切なっていない!!

 「プラトン哲学」ねえ。
 これも 若かりし時代に随分と没頭して。
 我が娘の命名を、「プラトン哲学」から名付けたものだった。

 そうだなあ。
 今後時間がとれたら、「プラトン哲学」の復習でもやってみようか…

 まあそれでも。
 そんな我が学問経歴があるからこそ 今回のような新聞記事に飛びつける身である事実を、今は喜んでおこう。