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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

量子力学は「物理学者の学問」にとどまらず、100年経って「産業化の時代」に突入した

2025年08月30日 | 学問・研究
 冒頭表題に関する2025.08.26付朝日新聞記事 量子フェス実行委員長 山本貴博氏による「パソコン、スマホ、LED… 次は量子産業化の時代」と題する記事を、以下に要約引用させて頂こう。


 100年程前といえば、日本は大正が終わり、昭和が幕を開けたころだ。 同じ時期に、人類は自然界の根源的なルール「量子力学」を発見した。
 この新しい物理学により、私達はいろんな技術を生み出すことに成功した。 パソコンやスマホ、発光ダイオード(LED)も量子力学のたまものだ。 この技術革新は、18世紀の産業革命に匹敵するものと言えるだろう。 一方で、人類は原子爆弾という間違いなく過ちと言える使い方もした。
 次の100年を考えた時、人類はもっと量子の世界を自在に操れるように技術的にはなるだろう。 (中略)
 今年5月には石破茂首相が量子コンピュータを視察し、「量子産業化元年」に位置付けると発言した。 量子力学は「物理学者の学問」にとどまることなく、100年経って「産業化の時代」に突入したのだ。
 量子コンピュータが実用化されれば、エネルギー問題や気候変動問題を解決する新材料や新技術が見つかるかもしれない。 薬の設計や候補の絞り込みが簡単になり、多くの人の命を救う新訳が生まれる可能性だってある。
 ただし、金融取引の暗号を解いたり、軍事戦術に使われたり、驚異的な計算能力が悪用される危険性もある。
 そうした時、量子技術の正しい使い方を、専門家だけでなく、世界中の皆で考えていく必要があると感じている。
 ほかの技術と同様、量子技術も使い方ひとつで、役立つものにも危険なものにもなる。 だからこそ、人をあやめるような方向に使ってはいけない。 どこかの国だけが裕福になるような使い方もしてはいけない。
 科学者や政治家だけでなく、みんなで量子技術の在り方を考えていきたい。 量子力学誕生100年の節目が、そのきっかけになればと願っている。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)




 原左都子エッセイ集において、過去に「量子力学的実在論」等を幾度か取り上げてきている。
 あくまでも「科学哲学分野」の対象として、それを取り上げ論述したものだが。

 この「量子力学」は上記引用文中に書かれているように、物理学の技術として世にパソコンやスマホ、LED等を生み出し各分野の技術革新に大いに貢献する学問のひとつである。

 故に上記記事の記載通り、今後の「量子力学」は「物理学者の学問」、はたまた「哲学者の学問」にはとどまらず。 
 今の「産業化の時代」の理論として活用され、産業の発展を支える役割を果たすことであろう。

 まさに今現在が「量子力学誕生100年」の節目であるとのことだが、今後益々この世の発展を支えていくことであろう。


地球の自転が速まっているらしく、「負のうるう秒」が導入されるとか??

2025年08月06日 | 学問・研究
 本日のエッセイも、2025.08.05付朝日新聞記事より題材を得よう。


 早速、上記朝日新聞記事「きょうの1日 1,25ミリ秒短い? 早まる地球の自転「負のうるう秒導入可能性」より、以下に一部を引用する。

 8月5日は1日の長さが1.25ミリ秒短くなるかもしれない。 地球の自転を観測する国際機関などのデータ分析から、こんな予測が出ている。 地球の自転が速まっているためで、このまま1日が短くなると初の「負のうるう秒」が導入される可能性もあるという。
 地球の自転の観測結果を取りまとめている国際地球回転・基準系事業(IERS)のデータによると、今年に入ってから1日の長さが最も短かったのは7月10日で、「24時間マイナス1.37秒」だった。 自転がわずかに速まったことになる。 さらに予測では8月5日も1,25ミリ短くなるとされている。
 1日の長さは地球が2回転する時間を基準にし、平均で24時間、秒にすれば8万6400秒だ。 だが地球の自転速度は常に速くなったり遅く鳴ったりしている。 潮の満ち引きによる潮汐摩擦や大気の動き、地球内部にある核の運動の変化などが複雑に影響しているためだ。
 このような状態が続くと、地球が1回転することによる1日の長さと、高精度な原子時計によって決まる1日の長さにずれが出てくる。 ずれを解消するため導入されたのが「うるう秒」だ。
 うるう秒の導入は、国際機関が調整のタイミングを決める。 日本では標準時を管理する情報通信研究機構(NICT)などが周知や通報に当たる。 過去に27回、直近だと2017年にあった。
 これまでは、地球の自転速度が遅くなる傾向にあったため、原子時計の時刻に59秒-60秒ー00秒というように1秒のうるう秒を足していた。
 しかし最近では、地球の自転が速くなる傾向が出て来た。 このまま地球の自転速度が速まり続けていくと、どうなるか。 NICTの担当者は「1日が短くなっていくと「負のうるう秒」を導入する可能性もあると説明。 57秒-58秒-00秒といった、秒をスキップする対応が必要になる可能性がある。
 うるう秒をめぐっては、導入されるとイレギュラーな時刻が発生し、コンピュータなどで発生するリスクが高まる。 国際度量衡総会は22年、うるう秒の「実質的な廃止」といえる決議を行い、少なくとも100年間、時刻調整をしないことを提案した。

 (以上、朝日新聞記事より引用したもの。)



 原左都子の私事に入らせていただくが。

 実はこの私、中学生頃に将来一番やりたいと思っていた仕事が “この手”の分野だった。
 いえいえ、決して宇宙のロマンに触れたいとの思いが強かったという訳ではなく。 とにかく数学好きだった私は、このような地球の自転速度等々の細かい計算作業が出来るような業務に就きたい、との希望が漠然とあったものだ。
 それ故に今尚 このようなニュース報道に触れると、気分がワクワクして来ると言うのか。 
 特に地球や宇宙のようなはるかなる壮大なロマンの世界の現実に触れる機会が得られることに、年齢を重ねて尚 心が解放される思いだ。


 まあ、私の場合は結果として医学方面の業務に携わることが叶って。
 壮大な宇宙のロマンの世界、 ではなかったが。
 医学における例えば人間の細胞や遺伝子等々のミクロの世界に触れることが叶ったのは、ラッキーだったと結論づけられるであろう。

 いえいえミクロの世界の探求は、それはそれは神経をすり減らしての実験の繰り返しだった!!
 年齢を重ねた時期の医学研究においては、実際そのミクロの実験に耐えられなくなりそうな身体的・心的負担もあったが。
 それでも、何とか実験のノルマは無事にこなしたものだ。

 
 話題を戻して。

 一日の時間がわずか1,25ミリ短くなるとの地球の自転のその差異を、「負のうるう秒」にて調整する作業が厳しい現実と。
 それが導入されるとイレギュラーな時刻が発生してコンピュータシステム障害が発生するリスクが高まるとの問題。 

 それらの整合性を如何に取りつつ 地球や宇宙と人類の発展との課題を叶えていくかが、まさに今後の地球人が抱える課題であろう。


「手書き文字」 v.s. 「キーボードタイピング文字」

2025年07月08日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、「原左都子エッセイ集」バックナンバー「左都子の『科学哲学』小講座V」より転載した、我が2度目の大学での授業中に講義内容を聞き取り筆記したノートの一部。 講師の板書をノートに写したものでは無く、あくまで口述授業を聞き取り書きしたものであるため、速記にての筆記で字が大いに乱れている。 参考だが、我が筆記文字は丁寧に書くとこれ程汚くは無い。 さらに参考だが、28歳時に英文タイピスト検定2級を取得した後は、普段の筆記には昔はワープロ、その後はずっとパソコンを用いているため、今現在に至っては筆記を手書きに頼ることは皆無とも言えよう。)



 原左都子の、「文字筆記歴」を簡単に語るならば。

 幼・小中高・大学・2度目の大学、大学院と合計20数年間に渡って、手書き筆記に依存して来た。

 2度目の大学時代には、他の大学では筆記をパソコン持参でそれに打ち込む学生もいると見聞していたが。 我が所属大学ではそんな学生は皆無で、皆がノートに鉛筆で書きこんでいた。

 一つ、エピソードを語ろう。
 私が2度目に進学した大学・大学院は、首都圏に位置している比較的偏差値の高い公立大学だった。 にもかかわらず若き学生の中には、講師の口述授業を自身のノートに「聞き取り筆記できないから、ノートを写させて欲しい」と私に嘆願してくる学生が何とも多かったこと!!
 それを聞いて驚いた(と言うより呆れた😨 )私が、「どうして聞き取り書きが出来ないのかな?」 と問うと、「高校までずっと先生が黒板に書いたのを写してきた習慣が身についていて、それしか出来ない」との回答だ。
 少し私がアドバイスして、「とにかく講師の授業をよく聞くことが肝心、そして、特にこれは大事!と自分が捉えたことからノートに書くように努力してはどうかな?」 
 そうアドバイスしつつも、ノートを貸してあげたものだが…


 
 話題を変えて、2025.07.02付朝日新聞記事 編集者・ライターの新保信長氏による「手書きがレアな時代 下手な字でも輝く」より、一部を以下に引用しよう。

 私(新保氏)自身、自分の字がずっと嫌だった。 大学時代にワープロが売り出されると、「これぞ神道具!」と、当時20万円以上もしたのをローンで買った。
 その後、50歳で一念発起。 ペン字教室に通い、ハウツー本も読んで分かったのは、美文字でなくとも、自分なりにそれなりに「いい感じ」と思える字でよいということだ。 (途中大幅略)
 手書きの便りをもらって不快に思う人はいないでしょう。 手書きだとその都度、表現の仕方に思いを巡らす「間」がある。 手を動かすことで、思考が整理される面もある。
 
 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)




 原左都子の私事及び私見でまとめよう。

 おそらく今時の大学では自身の小型パソコンを学内に持ち込んで、それに講義内容を筆記する学生達が多数派となっているであろうと想像する。??

 この私の2度目大学・大学院が後10年遅かったならば、私も絶対的に授業に小型パソコンを持ち込んで筆記したであろうと振り返る。
 (私の場合、27歳時に「英文タイピング検定2級」を取得しているため、どう考えても手書きよりもキーボードタイピングの方が格段にスピードが速い故だ!)


 まあそうだとして。
 
 今現在に至って尚、 時折見直す我が2度目の大学・大学院にての「筆記ノート」の内容が実に充実していること!! (本エッセイ集バックナンバー「左都子の市民講座」等々にそれらの一部を紹介しておりますので、よろしければ閲覧下さい。)
 そのノートを自身が書いて以降、既に30年以上の年月が経過しているにもかかわらず。

 幾度見返しても、授業の学問ごとに。
 「そうだった! そうだった!」と再び感激出来る、私自身の学問に対する郷愁の実態が実に嬉しいものでもある。


 それ程までに我が2度目の学問への挑戦とは、当時既に30歳~30代半ばの年齢であったにもかかわらず。

 全力で取り組めた事実を振り返れる身であることを、今尚誇りに思えたりもする。


再掲載 「『調弦理論』はパラドクスを超えて“神の数式”となるか?」

2025年06月23日 | 学問・研究


 本日も、少し古くなるが。
 「原左都子エッセイ集」2013.09.23公開バックナンバーより再掲載させていただこう。


 


 私は、物理学者アルベルト・アインシュタイン没後、ほぼ半年の後にこの世に生を受けている。

 30代にして再び学問の道に入り、当時自分が目指す専門ではない哲学の一分野である「量子力学的実在論」の世界に魅了された。 
 大学の授業「科学哲学」の恩師である非常勤講師先生に「量子力学」の入門書とも言える ゲーリー・ズーカフ著「踊る物理学者たち」の紹介を受け、早速購入して多忙な日々の中時間を見つけてはむさぼるように読んだものだ。
 そして、私はまるで子どもの様に考えた。 (私がこの世に生まれ出たのはアインシュタイン没後、ほぼ半年後。 実はこの私こそがアインシュタインの生まれ変わりであり、今後一生哲学や量子力学的実在論分野の研究に勤しめるならば、何とミラクル人生なのだろう。)
 
 ただ、世の中そんなに甘い訳がない。
 人類の歴史に於いて天才と言われた偉人は数多かれど、アインシュタインを超越する天才はこの世に存在しないと言って過言でないと私は思うのだが、どうだろう?
 結局ただの凡人の私にとってのアインシュタインの存在とは、今後も我が一趣味の範囲で人生の合間にインパクトを与えてもらい楽しむ存在という事だ。

 そんな私が「原左都子エッセイ集」開設後間もない2007年11月に、「量子力学的実在の特異性」と題する学問・研究バックナンバーを綴り公開している。
 6年前当時の私は、我が子の「お抱え家庭教師」として現役バリバリに娘の勉強に付き合っていた頃である。 おそらく娘の学習を通してアインシュタインに触れる機会があったのだろう。
 今現在このエッセイを再び記せと言われても少し荷が思い感覚だが、当時上記書籍「踊る物理学者たち」を参照しながら綴った我が量子力学的実在論に対する熱い思いを、以下に振り返らせていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって「観測」というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。 結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため量子力学内で解決可能である。 「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。 合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔から感情移入している。 今回はその一端を語らせていただいた。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年11月バックナンバーより引用)

 さて、この辺でやっと表題に戻ろう。

 NHK総合テレビ「NHKスペシャル」に於いて、上記表題に掲げた「神の数式」に関する科学ドキュメンタリー番組が9月21日、22日両日に及んで夜9時から放送されたのをご見聞された方は多いであろう。
 
 これぞ「待ってました!」である。
 最近のNHK報道において、これ程に基礎科学の深層を追及する特集が組まれたのは久々の事ではあるまいか?
 普段はちょうどお風呂に入っている時間帯だが、少しお風呂を遅らせて私はこの番組を注視したのだ。
 
 21日放送分に関しては記憶が薄れているため、22日放送内容に関してあくまでも原左都子が記憶・記述している範囲で以下に紹介しよう。
 アインシュタインによれば、重力が小さく重い程空間に“歪み”が生じるが、巨大な重力がかかった場合、光すら曲がる。(これぞ、アインシュタインによる「一般性相対性理論」だが)  ところがこの理論では、宇宙の「ブラックホールの底」の説明が出来ない。 何故ならば計算式上、割り算の分母が∞(無限大)となってしまうのだ。
 そこで登場したのがロシアの天才マトベイ・ブロンスタイン氏であるが、氏は何故分母が無限大(∞)になるのかを追究し過ぎたために、それが当時の政権に「危険な思想」と受け止められ銃殺刑と相成った……
 それでも、世の科学者達は分母無限大の謎を解き明かすべく努力を重ねた結果、シャーク博士が「超弦理論」を打ち立てた。 ところがこの理論とは「10次元」世界を前提としてのみ成り立つのだ…。 現在我々が生きている世界とは「4次元」。
 そこに登場したのが、ケンブリッジ大学の二人の博士達。 「この世は本当に4次元なのか?」なる疑問と共に、「超弦理論」をバックアップするべく「n=496」の完全数を導き出すに至る。 この完全数こそがアインシュタインが発表した「相対性理論」と「素粒子理論」を矛盾無く証明する数値だった!
 これこそ大革命であり、現実世界すべてを表現可能なのだ。 ところが、まだまだ課題がある。 「一体、異次元がどこに存在する??」 そこで研究が進んだところ、より小さい世界(超ミクロの世界)に視点をおくと、異次元が見えてくるとの発見だ。
 この発見こそが「神の数式」か? と考えられたが、またもや難題となるのが「熱」の存在だ。  そこでポルチンスキー氏が一つのアイデアを発表した。 「弦は動き、熱を発するとの重要な性質を持つ」 この理論により宇宙のブラックホールの謎が明らかになった。 これを受けて、2004年にホーキング氏は自分の誤りを認めるに至った。
 さて、人類は宇宙誕生の謎を解くことが出来るのか? それは「ヒッグス粒子」の発見に加えて、宇宙とは実は「11次元」の存在でもあるとの研究によりますます神秘を増している。
 (最後は原左都子の私論も多少交えたが、以上はNHK総合テレビ番組「NHKスペシャル」22日版をあくまでも我が素人視点から要約したもの)
 
 科学の世界とは素晴らしい!
 くだらない現世の争いや闘いをアホらしく感じさせてくれる、天才科学者達の超越した天才的発想力こそがまさに人間としてこの世に生を受けた証明たるべきで、実に素晴らしい。 だからこそ、原左都子は一生に渡り学問を愛好し続けているのだ。

 それにしても、繰り返すがNHKスペシャル番組に於いてこのように正面切って「基礎科学」分野の話題を取り上げたのは、久々の事だったのではあるまいか?
 たとえ少数であるとしても、この種の番組放映を心待ちにしている視聴者が存在する事実を、国民放送局とも表現可能なNHKに訴えたい思いで綴った今回の我がエッセイである。


 (以上、「原左都子エッセイ集」2013年公開のバックナンバーを再掲載させていただいたもの。)






 まさに我が人生、30歳過ぎて今一度学問の道を志し、それを実現させたことにより。
 その後現在に至り今後に及ぶまでの我が人生の、幅や楽しみが数倍に膨らんだ事実を実に嬉しく思っている。


 科学・学問とは実に素晴らしい世界である!!


 今後も事ある毎にそれらに触れつつ、高齢期に達している我が人生を更に謳歌し続けたいものだ!!!


量子力学的実在の特異性   ー vol.2 ー

2025年06月23日 | 学問・研究
 本日は、我が「原左都子エッセイ集」開設直後期の、2007.11.15付バックナンバーに於いて公開した、表題のエッセイを再掲載させていただこう。


 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。

 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。 箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 

 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。

 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。

 量子力学では、何をもって観測というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。
 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。
 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。
 予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。
 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に、「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。
 シュレーディンガーの猫の場合、当該猫に「意識」を持たせることが可能であるならば最初に観測するのは当該猫であるため、この猫が“波束の収縮”をもたらすと結論付けることができる。 ただ、これもナンセンスな考え方である。結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。

 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。 経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため、量子力学内で解決可能である。「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。

 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。
 ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。
 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔からはまっている。今回は、その一端を語らせていただいた。


 (以上、我がエッセイ集 開設後間もない時期に公開した、学問研究カテゴリーエッセイを、再掲載したもの。)



 20代、30代を過ぎてずっと現在に至るまで、学問研究を追求し続ける人生を歩んで来ている原左都子だが。


 その原点となり得、私のその後の学問遍歴に於ける重要な核心であった「量子力学的実在論」の一部分を、再度語らせていただいた。