原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

賃貸物件のオーナーもつらいよ。

2013年09月30日 | 時事論評
 原左都子が独身時代に購入して数十年前当時の住居とし、独身のうちに住宅ローンを全額返済して抵当権抹消登記が完了しているマンション一室を、現在賃貸物件として有効活用している話題はバックナンバーで幾度か紹介している。

 自己所有不動産を賃貸物件として運用し収入の一助とする事が、現在では若年層でも一般化している(?)らしき様子をネットで垣間見る事がある。
 あるいは就職難のこの時代にサラリーマン所得に代替する収入源とするため、多額のローンを組んで運用不動産を購入させ、月々の家賃収入を得る事を現役世代若者層に煽るネット上の広告にもよく出くわす。
 ただどう考察しても、後者は危険極まるギャンブルと表現できよう。  自己所有不動産物件を賃貸して収入を得ようとする場合、ローンを完済している事が最低条件と私は判断するのだが如何だろうか?

 賃貸物件も入居者が家賃を滞納するでもなく長年住んでくれる場合には、上記の“ギャンブル”もある程度安定性があるとは言える。 ところが今の社会の現実は決してそう甘くはない。


 つい最近、原左都子が賃貸中マンションの入居者が近日中に退室する旨の連絡が仲介不動産業者から届いた。
 今回の入居者氏は、5年以上の比較的長い期間に渡り居住してくれた事はありがたかった。
 ただし家賃が振込み期日までに納入された事は少なく、必ずや遅れて振り込まれて来るのた。 それでも「滞納」されるよりもマシと解釈しつつも、毎月毎月(今月こそは滞納するのだろうか…)なる恐怖心に苛まれてオーナーとしては落ち着いている場合ではなかったものだ。
 たとえそうであろうが今の時代の賃貸借現状を慮った場合、我が事例は“幸運”な部類と解釈できるであろう。

 現在の不動産賃貸借契約に関する法的措置とは、よく言えば年々“弱者保護”観点に傾いている。  何故“よく言えば”との表現を用いるのかと言うと、賃貸借のオーナー側とて私のような“零細オーナー”が数多い世間の実態であり、決して強者とは言えない辛さ・厳しさを抱えているためだ。

 それにしても、去り行く者は仕方ない。 その理由すら問えない程に個人情報保護法が確立した時代背景こそを賞賛しよう。 
 今後賃貸物件オーナーである私が尽力するべきなのは、賃借人退去時の現場立会い及びリフォーム会社との打ち合わせ、そして、次なる賃借人募集に関する仲介不動産企業との賃貸借条件設定のやり取りである。

 本日その件で現在賃貸借仲介業務を依頼している業者と電話で話し合った。
 まずは賃借人退去時の立会い及びリフォームに関してだが、その話し合いにより、再度今の時代は「オーナー」の立場が法的に実に弱い立場であることを思い知らされる始末だ。
 居住者5年程度の居住空間において、一番高額リフォーム代金が発生する恐れがあるのは、壁クロス張替えとのご意見である。  これに関しては我が家自体が住居買替時に経験済みのため既に理解できている。 壁クロス汚染に関しては煙草による変色が一番著しいとの話でもある。  もしも賃借人が自分の非を認めないかあるいは訴訟に持ち込んだ場合、オーナー側に多額の支出が発生する恐れがあるとの説明だ。 話の内容は重々理解できるものの、現在の賃借人氏が煙草愛好家でない事を祈りたい思いしか抱けないものだ…。

 次なる課題は、次期入居者募集であることは言うまでもない。
 現在の賃貸借住居とは、前入居者が退室後必ずや業者による室内リフォーム及びクリーニングを施した後でなければ入居を許可できないシステムとなっている。 そのため、せっかく次の入居者が決定している場合に於いても、ある程度の期間空室にせざるを得ないとの事情だ。
 それはよしとして、上記のごとく現在の賃貸借契約に於ける法的措置とは賃借人に甘くオーナーに厳しい制度である。
 今回の我が入居者募集の実態をここで表明すると、礼金及び敷金は共に「0」。 賃料も相場より大幅に下げての募集だ。 
 ただ、ラッキーなのは現在はネット情報が氾濫している時代である事だ。 不動産会社もその現実を十分に理解している通り、現在の賃貸物件模索作業とは特に若い世代や結婚後間もない家族構成世帯の場合、ネット検索が主流ではなかろうか。
 そうした場合、我が所有マンションの一室も比較的早期にネットよりオファーが入るかもしれない、などと少しは希望的観測を持つものの……

 
 最後に参考だが、我が所有物件は 東急東横線某急行停車駅 より徒歩4分の商業地に立地している。
 約40㎡の2DK。 4階角部屋。南東向き。 横浜・みなとみらいが近いのは元より、東京メトロ副都心線との直通運転により渋谷・新宿・池袋方面にも程近く、とにかく通勤や買い物に至便なことが最大特徴の物件です。 
 今回破格にての入居者募集に付き、もしご本人やお知り合いの方がお部屋をお探しでご興味がございましたら、「原左都子エッセイ集」メッセージ欄よりそのご意向を直接お伝え下さいますように。
 何分、我が所有物件への“良き方”のご入居こそを願っている私であります。

職場に於ける妊婦の権利をどこまで保障するべきか?

2013年09月28日 | 時事論評
 最近、マタハラ(マタニティ・ハラスメント)なる言葉が幅を利かせているようだ。

 以下に、ウィキペディアより検索したその言葉の意味と現状を記そう。
 マタハラとは、妊娠・出産をしたことが業務上支障をきたすという理由で、精神的・肉体的な嫌がらせを行い、退職を促す行為のことを指す。
 嫌がらせによる流産の危険性もあり、男女雇用機会均等法はもちろん労働基準法に違反する場合も多々見受けられる。 2012年に日本労働組合総連合会が行った調査では、「セクシャルハラスメントされた経験」(17.0%)を大きく上回る25.6%が被害を受けたとの結果が出た。 (以上、ウィキペディアより引用。)


 原左都子自身も妊娠中に職場で働いた経験がある。
 今から遡る事20年程前に高校教員をしていた頃の話だ。 参考のため、当時の社会は今程に妊婦の権利が保障されていない時代背景だった。

 私の場合高齢での妊娠だったにもかかわらず、妊娠当初に訪れた産院主治医先生が、働く妊婦に大いに理解がある人物だったことに勇気付けられたとも言える。
 「高齢出産になる身で仕事も持っていますが、日常生活上何か留意すべき事などありますか?」 と問う私に、「現在は体調良好のようですし、特に何もありませんよ。 今まで通りの生活をして下さい。」
 そのお言葉通り、私は妊娠前と変わらず電車・バスによる片道2時間に及ぶ遠距離通勤をこなしつつ、職場に於いても何らの変化もない勤務態度だった。 
 そもそも学校長と教頭以外の教職員には妊娠している事実自体を伏せていた。 職場内で周囲に妙に気を回されても、かえって自分自身が困惑するのみと判断したためだ。 (参考のため、私の場合結婚披露宴は親族版と知人・友人版を分け時期をずらして行っている。 知人・友人版はつわり症状が安定した妊娠4ヶ月時点で執り行い、その時初めて職場仲間に妊娠の事実を公表した。)

 妊娠4ヵ月後職場内に於いて、初めて妊娠している体に配慮してもらうはめになる機会があった。 それは校内陸上競技大会に際してであるが、さすがに生徒達と一緒に走り回る業務は回避し本部テント内任務を担当させてもらう事態となったのだが、何やら申し訳ない感覚が先行して落ち着かなかった記憶がある。
 もう一つ、妊娠8ヶ月時点の職場での出来事を紹介しよう。  当時の我が勤務高校では、生徒禁煙指導(当時は校内で喫煙する生徒が後を絶たない時代背景だったのだが…)なる業務が存在した。 生徒下校後、トイレ内で生徒が隠れて吸った煙草の吸殻を教員が当番制で広い集める作業(“モク拾い”と名付けられていた)が定期的にノルマとして課せられていた。(既に教員を辞めた人間がこんな事を世間に公開してよいのやら判断不能なままに記しているが、これこそ当時の一部底辺公立高校の実態だったことは確かな事実だ。)  これが結構、強烈な悪臭との闘いでもあった。 そこである一人の男性教員の方が提案してくれた。「○先生(私の事)は妊娠中だからこの業務から外してあげては如何か?」 お気持ちはありがたいが、皆の反応を待たずして私は直訴した。 「いえいえ私は大丈夫ですし、この作業に要する時間はたかがしれています。さほどの体内悪影響はないと判断しますので、このまま続けさせて下さい。」 医学経験もある私であり、妊婦の体に対する影響の程を吟味しての発言だった。

 ただ私の印象であるが、「教員」との職種は上記の我が妊娠中の事例にあるような学校行事や特殊な作業を除くと、普段は自分一人の采配で動ける業務内容が多い。 そのため仕事を続ける事が妊娠中の体に特段の弊害はなかったとも言える。 我が産院主治医先生がおっしゃる通り妊娠前と何ら変わらぬ職場生活が叶うと捉え、職場で妊娠前同様に頑張れた私は恵まれていたのか??


 それに比し、妊婦女性がもしも現在の厳しい民間企業現場で働いているとしたら、どう転ぶのだろう?

 その問いに応えるべくの朝日新聞9月19日付け記事を発見した。
 「おめでた…くない会社はツライよ」なる記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
 34歳妊娠5ヶ月の女性曰く、同僚達が妊娠したとたんに立ちっぱなしの仕事に回されたり、子どもが熱を出して早退せねばならなくなった時に泣きながら上司に報告する姿を見て、この会社は続けられないと思った。 会社は対外的には「産休・育休制度が整った企業」とPRしているのに、その内情は社会の流れに逆行していると感じる。
 33歳有期雇用で働いている女性は、先輩ママの無理解さを訴えている。「あなたの休業中の手当てを、我々が節約せねばならない。」 妊娠経験がある先輩から「やめて欲しい」と解釈できる発言をされるのは、男性に言われるよりも悲しい。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用。)

 確かにそういう事例が民間企業に於いては存在するのかもしれない。
 と言うのも、原左都子自身が3~40年近く前に民間企業勤務を経験している。 我が記憶を辿ると、確かに同年代の女性同僚達が妊娠するのを何度も経験してもいる。
 結婚・出産にさほどの興味がなかった当時の我が私見を語るならば、申し訳ないが正直言ってその事態とは「迷惑」だったものだ。 彼女達はあくまでも自分の“嗜好”により結婚し子どもを産もうとしている。 当時の私に言わせてもらうならば、妊娠しようがしまいがそれは“個人的趣味”の範疇でしかない。 なのに何故、妊娠した女性を社会が尊び、職場に於いても彼女らに優遇措置を施すのか? それを認めるとしても、それがために職場で頑張る我々に穴埋め負荷義務が発生する事実は理不尽としか言いようがない。

 そのような我が感覚を長年胸に秘めていたからこそ、私自身が高校教員時代に高齢妊娠した暁にも、「妊娠」とのあくまでも個人的な事由で、周囲へ迷惑を及ぼす事態を最小限に留めるべきとのポリシーが育成できていたとも言える。


 最後に表題に戻そう。
 
 職場に於いて、妊婦の権利を全面的に保障する事が実際可能なのか?
 それは特に民間企業の場合、職場個々が抱えている営業実績等々諸事情に大幅に左右されざるを得ないであろう。

 厳しい私論であることは承知の上だが、個々の妊婦氏達が現在勤めている職場の内情を分析・理解することからスタートし直す必要があるのかもしれない。
 どこの企業とて“無い袖は振れない”事態であろうし、はたまた末端労働者である同僚達への負荷労働の苦悩をも思いやる気持ちを妊婦氏にも持って欲しい気もする。

 妊娠・出産はおめでたい事象であることには間違いない。
 だが今の時代背景に於いては周囲からの祝福のみを期待するのではなく、個々が客観的視野を持って周囲の事情をも勘案しつつ、生まれてくる子どもの未来のためにも心豊かな妊娠時代を育んで欲しいものだ。
 
 それと同時に妊婦社員を抱える職場が経営上厳しい局面に置かれているとして、もしも最悪の場合妊婦女性を解雇に至らせる場面に際しても、今後の出産を暖かく見守るべく常識的な対応をするべきなのは私が言うまでもない。

「お台場」は既に寂(さび)れたのか!?

2013年09月26日 | 時事論評
 (写真は、9月24日東京お台場 デックス東京ビーチ にて撮影の原左都子)


 私が初めて東京お台場地区を訪れたのは、今から遡る事30年近く前の事だっただろうか。 
 それ以前にも東京湾に面するその地域へ何某かの所用で出向いた事はあるのだが、当時は「お台場」との名称で呼ばれていなかった記憶がある。
 
 ある日職場の若い世代の仲間から「お台場へ行こう!」と誘われ、車2台に男女2人づつ乗って出向いた目的地は、「船の科学館」だった。  当時館内が相当混雑していた記憶があるが、船に関する展示が充実している科学館であり参加者中最年長の私個人としては興味深かったものだ。 
 その後年月が流れ子どもを産んで後も、この「船の科学館」へは娘を伴って何度も訪れている。 科学館を出てビーチの奥の方では、南極観測船「宗谷」の船内が内外共に見聞可能となっていた。 それも娘と共に観察してきた私だが、当時の南極観測船乗組員達の苦悩の程を思い知らされるべく、船内及び船員達の「居住空間」の狭さを実感させられたものだ。

 残念ながら「船の科学館」は現在閉鎖中である。 今後の再開を待ち望みたい。

 我が娘を産んだ後娘幼少の頃より一貫して「お抱え家庭教師」を担当している私は、娘の教育及び娯楽の意味も兼ねて、その後もお台場へは頻繁に出向いた。
 例えば、東京ビッグサイト(東京国際展示場)で娘の成長に役立ちそうなイベントが開催されるとの情報を収集しては出かけたものだし、あるいは「科学未来館」へも出向いた。
 娯楽好きな私は、「パレットタウン」にも何度も娘を連れて行った事もあれば、上記写真のデックス東京ビーチ内にあるアミューズメント施設「ジョイポリス」も幾度となく訪れている。


 さて9月24日に我々母娘が何故「お台場」地域へ出向いたのかに関して、説明しよう。
 あくまで「2020東京五輪」反対派である原左都子のその主たる目的とは、来たるべく東京五輪開催に向けて東京都及び阿倍政権が開催候補地の中心としているその地の現状を視察する事だった。

 まずは東京メトロ豊洲駅から「ゆりかもめ線」に乗り、お台場の風景を観察した。
 私の感想を述べると“何だか寂しい風景”である。 メトロ豊洲駅から「ゆりかもめ線」に乗り換える事は数年前にも経験しているが、その後のこの埋立地の風景は活性化しているどころが、むしろ埋立地の広大な空き地が目立つ……
 その後もずっと「ゆりかもめ」に揺られつつ、そもそも「ゆりかもめ線」自体ガラ空き状態だ! 人混みを嫌う私としては好都合だが、平日昼間の時間帯に都心の鉄道がこれ程空いている事で営業元主体団体の経営が成り立つのだろうか??

 冒頭写真の「デックス東京ビーチ」に関しても、ご覧のごとく一人として人がいない… ビル内のショッピングセンターやレストラン等々もガラ空き状態…
 これも私にとっては好都合だが、果たしてこれでこの民間企業の営業が存続可能なのだろうか???


 もしかしたら、巨額の財源を投入してせっかく埋め立てた「お台場」が国家財政難と潮害と共に寂れ始めている対策を早期に打つべきとの最大のターゲットが、東京に於ける2020東京五輪招致だったのではあるまいか。
 
 ここで、私がネット上で得た2020東京五輪と「お台場」との関係を以下に紹介しよう。

 まずは2020東京五輪開催に当たり、お台場地域で新設予定の会場から。
 有明アリーナ•バレーボール(インドア)。 晴海地区 大規模選手村。

 次に「仮設」にて建設予定のスポーツ施設を以下に列挙しよう。
 自転車競技用の「有明BMXコース」及び「有明ベドロローム」、「有明体操競技場」「お台場海浜公園 トライアスロン競技場」 等々。

 改修施設としては「有明テニスの森」。

 いや確かに、埋立地である「お台場」地区の今後の経済活況が望めないとするならば、東京都としては、五輪でも招致してその対応策の穴埋めを練る事こそが切羽詰った課題であり結論だったのかもしれないとも考察する。


 そうだとしても、「お台場」地区には今後抱えざるを得ない大きな課題がある。
 それは今後起こるべく危険性が高い東日本大震災の余震であり、はたまた南海トラフ地震の到来であろう。

 もしも、これら大地震が近年中に発生した場合の被害の程を以下にネット情報より引用しよう。
 東京都内では、中央区、港区、江東区、品川区、大田区、江戸川区の6つの区で、最大で2メートルから3メートルの津波が押し寄せると想定されている。 にもかかわらず、国はいずれも防潮堤や水門などを越えることはなく、人的被害や建物への被害は出ないとしている。 ただし、防潮堤や水門よりも海側にある公園などでは、津波がそのまま押し寄せる恐れもあり、東京都は地震が起きた際には津波に関する情報に十分に注意して欲しいとしもしている。
 オリンピック期間は長くて二週間前後である。オリンピック期間中の場合一種の「非常事態」であり、開催中止などでの損害はある程度免除されるであろう。
 むしろ問題なのはオリンピック準備中に起きた場合だ。今すぐ起きても不思議ではない南海トラフ巨大地震がその期間に起きたとして、建設したスタジアムが倒壊して開催できなくなった場合はどう対処するのか? 急遽中止にすることはできるだろうが、東京都もIOCも開催されて収入が入ってくることを前提で建設費などを出している故にその穴埋めは如何にするのか、財政の大問題となろう。
 そんな非常事態が今後数十年いつ起きてもおかしくない段階でオリンピックを招致するのは、まさに地雷原に招致するようなもので、正気の沙汰とは思えない。
 (以上、ネット情報より引用。)


 原左都子の私論としては、巨大地震が後7年間及びその後も東京(を含めた日本)を襲う事を希望的観測として避けたい思いだ。
 
 それにしても2020東京五輪開催報道に沸き、「お台場」地区の湾岸マンションを買い求めるリッチ層が増加しているとの情報こそが大いに気に掛かる。
 おそらく彼らとは、アベノミクスの一時の経済指標なり、2020東京五輪に開催報道につられその気を煽られたのであろう。

 私のように少しは「ゆりかもめ」や「りんかい線」に揺られつつ、広大な空き地が目立つお台場の現状を視察しては如何だろうか?
 実際問題、思った以上に開発が進んでいないその地で、7年後に五輪が開催された後々の姿にまで思いが及んでしまうという事ではなかろうか??

「超弦理論」はパラドックスを超えて“神の数式”となるか?

2013年09月23日 | 学問・研究
 私は、物理学者アルベルト・アインシュタイン没後、ほぼ半年の後にこの世に生を受けている。

 30代にして再び学問の道に入り、当時自分が目指す専門ではない哲学の一分野である「量子力学的実在論」の世界に魅了された。 
 大学の授業「科学哲学」の恩師である非常勤講師先生に「量子力学」の入門書とも言える ゲーリー・ズーカフ著「踊る物理学者たち」の紹介を受け、早速購入して多忙な日々の中時間を見つけてはむさぼるように読んだものだ。
 そして、私はまるで子どもの様に考えた。 (私がこの世に生まれ出たのはアインシュタイン没後、ほぼ半年後。 実はこの私こそがアインシュタインの生まれ変わりであり、今後一生哲学や量子力学的実在論分野の研究に勤しめるならば、何とミラクル人生なのだろう。
 
 ただ、世の中そんなに甘い訳がない。
 人類の歴史に於いて天才と言われた偉人は数多かれど、アインシュタインを超越する天才はこの世に存在しないと言って過言でないと私は思うのだが、どうだろう?
 結局ただの凡人の私にとってのアインシュタインの存在とは、今後も我が一趣味の範囲で人生の合間にインパクトを与えてもらい楽しむ存在という事だ。


 そんな私が「原左都子エッセイ集」開設後間もない2007年11月に、「量子力学的実在の特異性」と題する学問・研究バックナンバーを綴り公開している。
 6年前当時の私は、我が子の「お抱え家庭教師」として現役バリバリに娘の勉強に付き合っていた頃である。 おそらく娘の学習を通してアインシュタインに触れる機会があったのだろう。
 今現在このエッセイを再び記せと言われても少し荷が思い感覚だが、当時上記書籍「踊る物理学者たち」を参照しながら綴った我が量子力学的実在論に対する熱い思いを、以下に振り返らせていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって「観測」というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。 結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため量子力学内で解決可能である。 「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。 合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔から感情移入している。 今回はその一端を語らせていただいた。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年11月バックナンバーより引用)


 さて、この辺でやっと表題に戻ろう。

 NHK総合テレビ「NHKスペシャル」に於いて、上記表題に掲げた「神の数式」に関する科学ドキュメンタリー番組が9月21日、22日両日に及んで夜9時から放送されたのをご見聞された方は多いであろう。
 
 これぞ「待ってました!」である。
 最近のNHK報道において、これ程に基礎科学の深層を追及する特集が組まれたのは久々の事ではあるまいか?
 普段はちょうどお風呂に入っている時間帯だが、少しお風呂を遅らせて私はこの番組を注視したのだ。
 
 21日放送分に関しては記憶が薄れているため、22日放送内容に関してあくまでも原左都子が記憶・記述している範囲で以下に紹介しよう。
 アインシュタインによれば、重力が小さく重い程空間に“歪み”が生じるが、巨大な重力がかかった場合、光すら曲がる。(これぞ、アインシュタインによる「一般性相対性理論」だが)  ところがこの理論では、宇宙の「ブラックホールの底」の説明が出来ない。 何故ならば計算式上、割り算の分母が∞(無限大)となってしまうのだ。
 そこで登場したのがロシアの天才マトベイ・ブロンスタイン氏であるが、氏は何故分母が無限大(∞)になるのかを追究し過ぎたために、それが当時の政権に「危険な思想」と受け止められ銃殺刑と相成った……
 それでも、世の科学者達は分母無限大の謎を解き明かすべく努力を重ねた結果、シャーク博士が「超弦理論」を打ち立てた。 ところがこの理論とは「10次元」世界を前提としてのみ成り立つのだ…。 現在我々が生きている世界とは「4次元」。
 そこに登場したのが、ケンブリッジ大学の二人の博士達。 「この世は本当に4次元なのか?」なる疑問と共に、「超弦理論」をバックアップするべく「n=496」の完全数を導き出すに至る。 この完全数こそがアインシュタインが発表した「相対性理論」と「素粒子理論」を矛盾無く証明する数値だった!
 これこそ大革命であり、現実世界すべてを表現可能なのだ。 ところが、まだまだ課題がある。 「一体、異次元がどこに存在する??」 そこで研究が進んだところ、より小さい世界(超ミクロの世界)に視点をおくと、異次元が見えてくるとの発見だ。
 この発見こそが「神の数式」か? と考えられたが、またもや難題となるのが「熱」の存在だ。  そこでポルチンスキー氏が一つのアイデアを発表した。 「弦は動き、熱を発するとの重要な性質を持つ」 この理論により宇宙のブラックホールの謎が明らかになった。 これを受けて、2004年にホーキング氏は自分の誤りを認めるに至った。
 さて、人類は宇宙誕生の謎を解くことが出来るのか? それは「ヒッグス粒子」の発見に加えて、宇宙とは実は「11次元」の存在でもあるとの研究によりますます神秘を増している。
 (最後は原左都子の私論も多少交えたが、以上はNHK総合テレビ番組「NHKスペシャル」22日版をあくまでも我が素人視点から要約したもの)

 
 科学の世界とは素晴らしい!
 くだらない現世の争いや闘いをアホらしく感じさせてくれる、天才科学者達の超越した天才的発想力こそがまさに人間としてこの世に生を受けた証明たるべきで、実に素晴らしい。 だからこそ、原左都子は一生に渡り学問を愛好し続けているのだ。

 それにしても、繰り返すがNHKスペシャル番組に於いてこのように正面切って「基礎科学」分野の話題を取り上げたのは、久々の事だったのではあるまいか?
 たとえ少数であるとしても、この種の番組放映を心待ちにしている視聴者が存在する事実を、国民放送局とも表現可能なNHKに訴えたい思いで綴った今回の我がエッセイである。

昔受けた「いじめ」をあなたは許せますか?

2013年09月21日 | 人間関係
 朝日新聞9月12日付「声」欄に、心温まる投稿を発見した。

 (余談ではあるが、現在「声」欄は“無断転載禁止”扱いとなっている。 これは、「声」欄が読者から寄せられた投稿を実名にて紙面で公開している故のトラブルを回避する目的と私は解釈している。 従って、個人が匿名で転用する分には“無断転載禁止”措置違反とはならないであろうと我が身息災に捉え、紹介させていただく事とする。)


 早速67歳主婦による 「昔のいじめ許してあげます」 と題する投稿を、以下に要約して紹介しよう。
 故郷で行われた中学校の同窓会に出席した。 各自の近況報告の後私はある人のそばに行き、「私、あなたにいじめられていたことがあるのだけれど覚えてる?」と聞いてみた。 その人は私の名札をじっと見て、「本当?」 「あの頃は太っていたから当時のプロレスラーの名前で呼ばれていた」事を伝えると、瞬間彼は遠くを見た。 「そんなこと言ったの。ごめん。本当にごめん。」両手を合わせ頭を下げ「ごめんなさい」を連発する姿が可笑しく、何だか可愛そうにもなって「もういいよ」と許してあげた。
 同窓会の時間は流れ、眼下を流れる水の青さや夏の日差しを受けて光る橋が美しい!と思った。 帰り際に彼は手を差し出し「本当にごめんね。またね」と言う。 その手は大きく、温かかった。
 (以上、朝日新聞「声」欄への投稿より引用。)

 ここで少しだけ原左都子の私論を語ろう。
 上記事例の場合はそもそも「いじめ」と表現するより、多少口の悪い男子生徒が女子をからかった程度の、級友同士のコミュニケーション場面の一つとも受け取れる。
 ただ投稿者である女性が、数十年前に浴びせられた当時の自分の身体的特徴に関する呼称を今現在まで「いじめ」として認識していた事実にも同感できそうにも思う。
 
 実はこの原左都子も、小学6年生時の話だが 「がいこつ骨子(ほねこ)」 の異名を取っていた。  要するにやせ細っていたのだ。 何分伸び盛りで1年間に十数cm身長が高くなった時期である。 元々長身ではあったが、早熟女子達数人に一時身長を追い越されていたのを1年間で抜き返してまだまだ伸びた。 
 「がいこつ骨子」の異名を誰が名付けたのかは今となっては記憶していない。 それにしても今分析するに、当時より手足がひょろ長かった私を上手く表現したあだ名であると考察するし、当時の私にとってもさほどの抵抗がなかった故かこれを「いじめ」とまでは解釈せずして過ごしてきた。

 それに引き換え、今の時代とは友の身体的特徴をあだ名とする事が即「いじめ」と解釈される事は推測可能だ。 その中でも、やはり「低身長・高体重」を表現する呼び名が現在に於いては「いじめ」に繋がり易い事実も把握できている。


 さて表題に戻って、昔受けた「いじめ」を許せるか? のテーマに関する私事を再び紹介しよう。

 私の場合、正面切って「いじめ」を受けた記憶がない人間であることはバックナンバーでも幾度か公開しているのだが、もしかしたら相手が私をいじめたかったのではなかろうか?と考察できる事件は幾度か経験している。

 例えば同じく小学6年生の時に、クラスの某男子生徒(参考のため警察官の息子氏だったことを記憶している)が私に面と向かって「挑戦状」のような言動をしてきた事がある。 
 男子生徒曰く「おまえのような女子が一番嫌いだ! 担任先生に向かって“えこひいき”するなと責めるし、クラスの皆で一致団結している事に反発ばかりしている。 皆が仲良くしようとしているのに何でおまえはクラスを乱すのか!」 (いやはや、我が天邪鬼気質が小6にして既に表出していた事を、実感させられる事件なのだが) これを面と向かって一男子児童に訴えられた事実は今尚忘れもしない。 ただ当時の私は既に、この男子児童からの1対1での直談判に屈するつもりなど一切無かった事のみは事実だ。 相手男児に何と言って反論したかの記憶はない。 だが、もしも今後小6の同窓会に出席する機会があったならば、「当時幼い私が取った態度こそが、同じく幼い立場で私に歯向かって来た単純思考の貴方を超越していたよ!」と言い返したい思いはある。

 もう一つ我が記憶にある私事を話そう。
 中学1年生時の出来事であろうか。 赤い羽根運動で学校から全員強制で購入させられた“針付き羽”をクラスの前席に座っている女子相手に、「小娘倒れろ!」などと小声で言いつつ男子生徒が女子の背中に突き刺すのだ! 当時授業中にこの被害を受けているのは私のみではなかったのだろうが、授業を行っている教員が気付かない。 これが実際結構痛いのだが、女子の誰も騒がなかったのは何故なのだろう?
 それを考察するに、当時の国内文化とはまさにまだまだ男尊女卑時代だった。 「羽飛ばし」遊びのターゲットになる女子とはそれを行う男子がむしろ好意的に捉えていたのかもしれない。 だからこそ、多少の「痛さ」に耐えつつ女子は騒がなかったのではあるまいか??
 そうではないにせよ、私自身もこれは「いじめ」ではないとの感覚を抱いていたのは確かな事実だ。  


 いやいや同窓会が果す役割とは、当時の同級生個々の“対決場面”を出席者間で演出したり、当時の男子生徒のいたずらが“何が目的だったの?”かを数十年経過した今こそ検証する場を設けてくれるべく会合であるべきで、その趣旨で同窓会が開催されるならばこの私とて出席したいものだ。
 ところが実際の同窓会とは、それを開催する幹事連中が自分らの狭い認識の下好き勝手に騒ぎつまらなく運営したり、あるいは恩師を思いやるばかりに“恩師迎合集会”となるのが現状実施されている「同窓会」の実態ではなかろうか??
 そんな中身の乏しい同窓会が全国各地で開催されている寂しい現状であることは否めない事実であろう。

 その折に冒頭の朝日新聞「声」欄投稿女性は、果敢にも数十年来胸に秘めていた過去の「いじめ」に関する自分なりの決着を果したことを、心より賞賛したい原左都子である。