原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人間関係の手始めに“手土産”を持参しよう!

2012年08月26日 | 人間関係
 ここのところ、私は“目の上のたんこぶ”がポロリと取れたがごとくのすっきり爽やかな日々を送っている。

 一体何がどうしたのかと言うと、原左都子が現在の居住地としている集合マンションの隣に、先日“お年寄りご夫婦”が引っ越して来られたのだ。


 それまでお隣に住み先だって転出したご一家に関して、当エッセイ集7月30日バックナンバー 「女性が“望まない妊娠”から解放される日」 と題する記事に於いて、以下の記述をした私だ。 少し振り返ってみよう。
 とにかく、よく言えば“賑やか”、悪く言えば“粗雑”な一家だった。
 3年半程前に引っ越して来た時には、3歳位の女の子が1人いる若い世代の親子3人の家族構成だったのだが、どうやら近くにどちらかの実家や親戚が多数あるのか、大都会のマンションにしては例外的にいつも人の出入りが激しく入居当初より“ドタバタ”状態だった。 直ぐに次の男の子が生まれ、大きな泣き声や子どもが部屋中を暴れる騒音が日夜我が家に響いて来た。 片や玄関前の通路に目をやるとそこは隣家の“物置き場”と化していて、各種粗大ゴミやママチャリ、三輪車やベビーカーが通路の真ん中にも置かれている有様だ。 その通路を通行してエレベーターや階段を利用せねばならない位置にある我が家は、日々難儀させられた。 時々堪忍袋の緒が切れる私がそれを隅に片付るとの“実力行使”に出るのだが、隣家からは何らの反応もなく、誰かが片付けてくれてよかったとでも思っているような様子だった。
 そして何と驚いた事に、昨年隣家に3人目の赤ちゃんが誕生した! 実に失礼な表現だが、日々迷惑を被っている我々一家としては 「え~~~、今までに増して騒音が発生するし、通路の粗大ゴミが増えるってこと!?!」でしかなかった……  もちろん、その現実にも日々耐えた。  若き世代が子どもを産み育てる事を応援するのが古き世代の役割であるとの、悲壮的なまでの責任感を我が原動力として…。
 ただ、実際問題として日夜隣家の喧騒に耐えねばならない、“静かに暮らしている住人”の切実な現状も少しはご理解願いたいと思う。 一言の挨拶でもあれば我が家も凌げるが、こちらから挨拶しても“なしのつぶて”状態なのだ。 何分、個人情報に深入りしない人間関係をわきまえねばならない現社会でもあり、対応が困難だった…

 上記ご一家が転出後、しばらく静寂を取り戻していた我が家である。
 それでも次に隣に転居して来る家族構成の予想をしつつ、身内と談話を交わしたものだ。 「どう考えても、おそらくまた小さい子どもがいる家庭が引っ越して来る確率が高いよね? 今時中古マンション物件が高額で即売できる時代だから、また直ぐに喧騒が押し寄せて“旧の木阿弥状態”になるのは目に見えてるよねえ…  まあせいぜい今の内だけでも静寂を堪能しておこうよ…」

 ところが、である。
 1週間後にお隣に転居して来たのは、80歳前後のお年寄りご夫婦だったのだ!
 実はこのお年寄りご夫婦は階下に住む娘さんご夫婦の親御さんであられるのだが、その娘さんに対して私はほぼ10年前の入居当初より好印象を抱いていた。 私より若干下の世代と思しきその女性は、いつお会いしても物静かに丁寧にご挨拶下さっていた。 こんな人ばかりが住人ならば、皆が静かに穏やかに暮らせるのになあ… といつも感じていた。
 そして週末の日曜日に、新しいお隣さんは娘さん共々3人で我が家に“菓子折”と共に転入のご挨拶にみえた。  「両親がお隣に住む事になりましたので、どうかよろしくお願い致します」といつものように物静かに丁寧にご挨拶下さる娘さんである。 そして“この親にしてこの子あり”を証明するがことく、母親であられる女性も娘さんそっくりの物腰である。 ご亭主の高齢男性は多少足がお悪いようだが、一緒にニコニコと静かに頭を下げておられた。

 これを我が家が喜ばない訳がない。
 「何とラッキー!!」と身内と共に、心底お隣“お年寄りご夫婦転入”の幸運を讃え合ったものだ。
 
 集合住宅のみならず新興住宅地の一戸建とて同様であろうが、自分が住む家を購入するに当たり周辺住民環境を自分自身が選択出来ないとの運命を背負わされるものだ。
 それはまさに“くじ”を引かされているような感覚である。 たまたま“当たりくじ”が出て周辺住民に恵まれると自分が欲する生活が叶うが、この“くじ”を外すのが世の常だ…  我が家の場合、住居買替えにより転居に転居を重ねて来ているが、今まで“くじ”が外れっぱなし状態だったと言える。
 上記のごとく、「どうせ、また“はずれくじ”だよね… それを覚悟しておかないと」と身内と語り合った直後にご挨拶にみえたのが“お年寄りご夫婦”だったのだ。

 このご夫婦、いつ転居して来られたのかも分からない程静かに入居されたようだ。 引越挨拶にみえて初めて入居された事を知った我が家である。
 その後も在宅されているのかいないのかも不明な程の静けさだ。 時折タクシーを利用してお二人で外出されているようだが、その出入りに際してすら物音が一切しないのだ。 以前のご一家など家族の誰かが外出する時のドアの開け閉め音たるや物凄い音量だった。 とにかく1日中“ドタン・バタン、ギャーギャー・ワイワイ”の喧騒音の連続だった。


 以上のように今回 “ラッキーくじ” を引き当てた我が家であるが、この自分たちが理想とする素晴らしいまでのお隣との人間関係を今後も是非共大事に慈しみたい思いの私だ。
 そこで私は身内に申し出た。 引越しのご挨拶に頂いた菓子折のお返しとして“手土産”をお隣に持参したいと。 そんなもの亭主になど相談せずとてさっさと持って行けばいいじゃないか!、とおそらく地方に暮らしておられる方は思われるであろう。 ところが、大都会に於ける人間関係とはそれ程単純ではないのだ。 これを「迷惑行為!」と言って付き返してくる家庭が実際数多く存在するのが現在の“大都会の掟”なのである。
 とにもかくにも様々な世代や人種が共同生活を営む集合住宅内に於いては、広い視野を持ち住民の皆さんとの摩擦を避けつつ暮らしていかねばならない。

 それでも、身内の合意の下に私はそれを実行した!
 タイムリーに我が故郷から送られてきた“すだち”をお隣に「おすそわけ」という形で持参したところ、それはそれは喜んで下さった。
 それだけでも私は十分嬉しかったのに、その1週間後にまたお隣からやはり「おすそわけ」との事で、新鮮なトウモロコシやプチトマトを沢山頂いたのだ。 



 夏も終わりに近づいていますが、明日から私は娘を引き連れて上記“すだち”の里である我が郷里に旅に出ます。
 帰宅時には、我が住まいである大都会集合住宅の“お隣さん”に郷里のお土産をお届けしたい思いを持って…。

 その間ネット世界からは一切離れ、我が娘と共に過疎地ド田舎の自然と人情に触れて参ります。
 しばらく「原左都子エッセイ集」の執筆をお休み致しますが、もしよろしければ当エッセイ集のバックナンバーなどを紐解いて頂けましたら幸いです。

「鬱病」という逃げ場を医療界が仕立てるべきでない

2012年08月25日 | 医学・医療・介護
 私は、人間誰しも切羽詰った状況下でその局面から“逃げる”という行為は正当な解決策の一つであるとの思想の持ち主だ。

 当「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても、いじめ問題を取り上げた 「いじめられている君 今はとにかく逃げよう!」 と題する記事を綴り公開している。


 最近精神医療現場に於いて、「新型鬱病」なる患者が急増しているとの報道である。 この「新型…」は従来の“鬱病”とは症状が異なるとのことだが…。

 朝日新聞8月21日付記事「ニュースがわからん!」より、同じ「鬱病」でも“従来型”と“新型”が如何に異なるのかに関する記述を以下に要約して紹介しよう。
 飲み会や海外旅行には元気に参加できるのに、仕事となると激しく気分が落ち込んで動けなくなり、精神科を受診する20~30台の若者が増えている。 これらは従来の鬱病とは症状が異なるため、「新型」「現代型」と呼ばれるようになった。 
 日本うつ病学会は、現時点でははっきりした分類や定義はできず、根拠のある治療法はないという立場を取っている。 同学会が最近まとめた「うつ病の治療指針」でも、これらは「マスコミ用語」「医学的知見の裏打ちはない」と記している。
 精神科医の間でも意見が分かれているが、軽い症状の患者が増えているのは事実であり、本当に苦しんでいる人をひとくくりに“怠けているだけ”と批判してしまうのは問題だとしている。
 何かに挫折し一時的に心のバランスを崩すことはあり、病気との境目を判断するのも難しい。 「新型鬱病」の中には軽い鬱病やそううつ病、発達障害等別の病気が隠れていることもありそうだ。 また、長引く不況で社会や職場の環境にストレスが多くなったことも影響しているようだ。 鬱病が社会的に知られるようになり、精神科を受診する抵抗感がやわらいだ要因もある。 表面的な症状から安易に「鬱病」と診断されている人もいる、と語る専門家もいる。
 (以上、朝日新聞記事より引用要約。)


 本音を言うと、本エッセイ集に於いて「鬱病」の話題など一切取り上げたくはなかった。
 原左都子の場合、もしも自分に「鬱」傾向があると自己診断したとて、絶対に精神科受診などする訳がないのが一つの理由である。 元々医学関係者の私としては、我が心身に異常が出現した場面に際して、まずは自分自身でそれを冷静に受け止めたいと常に心がけている。 その異常症状の改善策に関しても、ある程度自分なりに総合的に分析して方向付けする能力を培って来れていると信じている。
 だからこそ、ちょっと落ち込んだ位で何で好き好んで精神科になど行くの?? と言いたい思いが強い。 そんな処へ行くから「鬱病」のレッテルを貼られ、副作用が強靭な抗鬱薬や睡眠薬を処方されて薬依存の体を自ら作り上げ、真の「鬱病」患者に仕立て上げられてしまうのだ。

 上記朝日新聞記事内に記されている通り、特に「新型鬱病」とやらに関しては根拠のある治療法がないのが実情であろう。 いい大人であるならば、まずは自分自身で心身コントロール方法を探ってみるべきだ。
 余談になるが、NHKドラマ「梅ちゃん先生」を見ている人はご存知だろうが、開業医の梅子は救急患者以外には「お薬出しますから飲んで下さいね~~」としか言わないよねえ。 この場面が以前より気になっている原左都子だ。 せめて患者側から「何の薬ですか?」と問わせるシナリオを書け!と言いたいところだが、現在昭和30年代のドラマ設定に於いては、開業医などその程度のものかもしれない。

 ただそんな私も、現在多発中の上記「新型鬱病」とやらの症状が出る若者が置かれている現状を多少理解できる気もする。
 「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて幾度も披露しているが、私はバリバリの“学校嫌い”だ。 そもそも「集団・組織嫌い」の私の場合、人が集まる職場も苦手だった。
 ところが職場とは、お上から無条件に通う事を強制される学校とはまったく異質で、主体的に自己の「能力」を開花できる場である。(学問の場である大学も同様だが。) それ故に「集団嫌い」の私も職場や大学(大学院)という集団内では自分の居場所が見出せ、実績を積み上げ自分なりの地位を築きつつ有意義に過ごせたと自負している。
 私の場合、主体性をもって自己実現可能な大人となって以降は、大失恋でもした場合を除き「鬱」とは無縁の人生を歩み続けていると言える。
 上記朝日新聞の事例にあるような、“仕事となると激しく気分が落ち込んで動けなくなり精神科を受診する20~30台の若者像”とは、要するに自らの仕事に対して主体的能力が発揮出来ず、職場内で自分の居場所が見出せない状況下にあるのだろう。
 ただし、だからと言ってすぐさま精神科受診に走るのはやはり短絡的ではあるまいか?


 ここで原左都子の私事に入るが、我が身内がおそらく“従来型”の「鬱病」を患っている事に関しては当エッセイ集バックナンバーで少しだけ紹介している。
 鬱病も自殺願望が濃厚になる程重症になると、やはり身近にいる近親者にとっては厄介だ。 この症状が出始めた時、身内は「鬱病」と診断して私が精神科へ連れて行った。 そうでもしなければ日常において一時足りとて目を離せず、私一人で抱え込むには負担が多き過ぎた故である。 身内自身は当初「鬱」を否定していたのだが、案の定精神科医は「鬱病」の診断を下し、早速抗鬱薬を処方される事と相成った。
 今となっては私が身内を精神科に連れて行った事こそが、身内に薬依存の“ドツボ”にはまらせる種を撒いたと後悔している…

 そんな身内を今現在も家庭内で抱えているからこそ、そもそも現代において「鬱病」にかかり易い人種の傾向が分析できそうに私は感じるのだ。
 彼ら・彼女らには、“人がいい”との共通項が存在しないだろうか?  そしてある程度恵まれた環境の中のんびりとした道程を生きて来ているのではあるまいか?? そんな“のほほん人生”を歩む範囲内で自らの能力の開花・発揮が叶い(叶ってしまい)、自分が欲する社会的地位もその付随的要因として受動的に舞い込んで来たのかもしれない。
 ところがその種の“人がいい”人種がそれなりの人生を歩む中で、突然“逆境”に直面した途端に、その後の行き先を見失い易いのかと私は分析するのだ。


 それはそうとして 「新型鬱病」 とはやはり、一般人が精神科へ通い易くなった今の時代に精神科分野の医療業界や製薬業界が自己の利益のために作り上げた“負の所産”であると私は結論付けたい。
 医療界が率先して、国民の体調の悪さの何でもかんでもを医療領域の疾患に仕立て上げる方策により患者を増産し、国や自治体と結託して血税を食い潰す癒着行政など、もうそろそろ終わりにするべきであろう。

副都心西新宿・超高層アートプレイス

2012年08月22日 | 時事論評
 (写真は、昨日私が撮影した東京西新宿超高層ビルの一つ コクーンタワー)


 原左都子は過去(20数年前に遡るが)に於いて、東京副都心・西新宿某超高層ビル内オフィスへ1年余りの期間勤務した経験がある。 新卒入社した医学関連会社の本社がそのビルに存在していたためだ。
 そもそも医学専門職社員として当該民間企業に新卒採用された私の場合、都下に位置する ラボラトリー への勤務期間が長かった。
 ところが30歳直前にして、身勝手にも更なる私的学問追究を目指し退社を視野に入れた私だ。 その時、(どうせ民間企業を辞め去り行くならば、その前に我が医学専門分野のみではなく社内異部署で“一暴れ”する経験を積んだ後に退社して、我が野望を実行しよう)と志した私は、社内総合分野への異動を申し出た。
 実はそんな私の歪んだ意向を、入社以来10年来懇親にして頂いていたラボラトリーの上司は重々心得ておられた。 上司は私の意向を早速実現してくれるべく、西新宿本社への異動に向けて動いてくれた(と私は後々考察している)。
 自己都合で退職予定の私の我がままを承知している上司がラボラトリー内で取った措置とは、表向き“左遷扱い”だったと重々心得ている私である。 それでも我が異動先部署へは、私が1年後に退職意思である事実を一切伏せるとの上司の配慮があったからこそ、私は短期間ではあるが西新宿本社での“一社員”としての勤務が叶ったのだ。
 参考のため短期間の本社勤務に於いて私は私なりに総合職業務に全精力を注ぎ込み、自分なりの業績を挙げた後に退社したと今でも自負している。

 とは言え新卒入社にして10年来お世話になった民間企業に対し、恩を仇で返すがごとくの身勝手な去り際はやはり今振り返っても実に後味が悪い。 西新宿超高層ビルに於ける1年少しの勤務経験は、そんな事情があって今現在その地に足を運んでも出来れば省みたくない我が過去の一歴史である。 
 その後我が長き独身時代に、彼氏達と飲み食い等を堪能した思い出深い超高層スポットが数多く存在するにもかかわらず……

 冒頭から、原左都子にとって過去の一時の“汚点”に関する郷愁が長引いてしまった事をお詫びする。


 ここで気持ちを入れ替えて、上記写真“コクーンタワー”に関する補足説明をしよう。

 この超高層ビルは、東京西新宿超高層ビル街の一角に 学校法人モード学園 が2006年着工、2008年10月に竣工した建物である。 その所在地は朝日生命保険本社跡地であり、モード学園が運営する3つの専門学校等が入居している。 「創造する若者を包み込み触発させる」という意味を込めイメージしたというコクーン(繭)のような外観が特徴で、数百億円に上る事業費はモード学園の自己資金により全て賄っているとのことだ。 学校法人が所有するビルとして国内で最高の高さを誇っているらしい。 (以上、ウィキペディア情報より引用)

 ところがこのコクーンタワー、竣工当初よりその“奇抜なデザイン”により賛否両論の反応を浴びている事に関してご存知の方は少なくないであろう。

 実は原左都子がこのビルを間近い位置から見物するのは今回が初めての事だった。
 上記写真は当該ビルの斜め前に位置する 損保ジャパン本社ビル 1階玄関前から撮影したものだが、まさに“アーティスティック”で素晴らしいと皆さん感じませんか??!
 少なくとも私はそう感じた。 だからこそ、このビルの写真を撮りたいと志し急いで携帯を取り出し激写したのだ。

 私がこのタワーがそびえ立っている風景を一見して何故感動したのかと言うと、今まで写真や影像で見たよりも現物はずっと“スマート”かつ“ソフィスティケイト”した姿を誇っていて、一個の創造物としての“一貫性”や“風格”が感じられた故である。
 竣工より4年程経過したビルの姿は、まだまだ新鮮で実に美しい!と私は心より賞賛する。


 経済危機の近年に至っては、西新宿超高層ビルの建築ラッシュも消沈気味なのであろうか?
 そうだとしてもおそらく私が昨日見た西新宿超高層ビル群の風景は、20数年前に超高層ビルの一角に勤務していた時代と比し、目まぐるしいまでにその建設が進んだ事であろう。

 副都心西新宿とは東京都心の他の地域と比較すると高度経済成長以降の時代に大発展を遂げた地であり、現代の最先端科学技術専門力を駆使して造り挙げられた街であると私は理解していた。
 ところがその地に建設された東京都庁舎超高層2棟のビルが実は欠陥だらけの構造であり、その修繕費用が毎年膨大に発生していている現状との事だ。 この際、(同じ建設家氏による「赤プリ」のごとく)むしろ一旦壊して建替えた方が費用損失計上が少なくなるとの情報も、ずっと以前より見聞している。

 コクーンタワーはどうなのか? と言いたいところだが、昨日私が観察した限りでは、あのデザインにして赤プリや東京都庁舎ビルのごとくの表面上のデコボコはないようで、意外とメンテナンスが容易で修繕にも耐え長年持つ構造なのかと考察した。(いえいえ、あくまでも素人視点での観察のため保障はできないが…)


 まあそれにしてもたまには大都心へ出向き、最先端科学技術の結集体である超高層ビルを間近から観賞するのも、大自然を観察するがごとくの刺激が得られるものと気付かされた次第だ。
 参考のため、現在の西新宿超高層ビル街に於いては経済不況の流れか平日日中さほどの人混みがない。 十分にゆったり寛げるスポットであり、自分が好む風景の撮影が可能な地である。

 実は今回の記事では、昨日 損保ジャパン東郷青児美術館 で観賞した美術作品の評論でもしようかと志していたのだが、ついつい コクーンタワー に関する前置きが長くなってしまったため、それは次回以降に回すことにしよう。

金子勝さん、“おかしな大人”とて人間だよ。

2012年08月20日 | 時事論評
 朝日新聞朝刊紙上に於いて、34回に渡り連載された 「いじめられている(いじめている、いじめを見ている)君へ」 シリーズが先日やっと終了した。

 上記記事を見ていない人のために少し補足説明をすると、当該シリーズは大津市の中学2年生男子が「いじめ」により自殺した問題を受け、朝日新聞が各界の“著名人”を対象として“いじめ”問題に対する体験談や意見等を集結した連載ものである。


 「原左都子エッセイ集」先月26日付バックナンバー 「いじめられている君、今はとにかく逃げよう。」 に於いて、私は既にこのシリーズに対する批判的見解を述べている。 それを少しだけ振り返らせていただこう。
 現在朝日新聞紙面で「いじめ」に関する“見識者”達によるメッセージを朝刊で連載中のようだ。 その中には原左都子に言わせてもらうと、いじめられている人物の“切羽詰った”状態を本気で理解できているのか?!? との拍子抜けのメッセージが数多く存在する。
 
 7月に上記エッセイを公開した後も、私は世の“見識者”(と名乗る人)達が“いじめられている子ども達”を救うべく如何なるアドバイスを朝日新聞紙上で展開するのかを注視し続けてきた。
 結論として、上記我がエッセイ集バックナンバーで賞賛させて頂いた 社会学者 土井隆義氏 による 「友達づくり、苦手でいい」 との見解以外には、残念ながらこれとして実際に“いじめ”を受けて苦しんでいる子ども達を救済できそうな内容の記事が一つも見出せない。
 それに少し近いご意見を書かれている“著名人”の方もいなくはないのだが、結論部分でご自身の“成功談”を披露することによりすべてを台無しにしている印象を私は受ける…
 決して「成功」してはいけない、などとの私論を展開する訳ではないのだが、とにかく、今現在“いじめ”を受けて自殺さえも視野に入れている子ども達に対して「自分は成功したぞ!」との言及は如何なものであろう? 今はその記述を慎むべきではあるまいか?
 天邪鬼の原左都子でなくとも、全国紙上で著名人によるそんな“自慢話”を庶民の誰が読んだって、「だったらあんた達は今後も勝手に有名人として生きていけば?」との、付き合っていられない感覚に襲われるというものではなかろうか??

 この朝日新聞“いじめ”解決?シリーズは、“著名人”にアドバイスをしてもらおうとのスタンス自体がそもそもの誤りであると原左都子は判断する。 名も無き年少の子ども達が今現在切羽詰っている事象を、世の成功者(? そうではない“名ばかりの著名人”も多く存在する実態ではあろうが…)にその解決策を委ねたところで、適切な回答が望めるべくもない事など歴然だったであろうに。
 とは言っても新聞紙上で無名人がアドバイスをしたところで、誰もそんなもの読みやしないしねえ、朝日新聞さん……


 そうこう悶々としていたところ、経済学者の 金子勝氏 がこの朝日新聞“いじめ”シリーズ終盤で「大人」相手にとんでもない喧嘩を売って出たのだ!

 参考のため、金子勝氏とは朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談員として長い期間活躍されている人物でおられる。 原左都子としては、氏の回答内容より“中庸穏便な人格者”として一応好印象を持たせて頂いていた。

 ところが驚いた事に私にとって穏便な印象の金子氏が「いじめている君へ」の記事においておっしゃるには、 「おかしな大人見習うな」 である。

 この題名を一見して、被害妄想かもしれないが原左都子のような大人を見習うな!と金子氏から斬られた思いの私だ…
 と言うのも私は本エッセイ集を通して、世間相手に言いたい放題辛口論評を公開しているがごとくの印象を振り撒いているのであろう、との客観的視野で自分自身を捉えている部分があるからだ。 実は、現実世界では常に自己を様々な角度から省みている私であるが、そんな事を一庶民が自己分析したところで埒が明かないことも承知しているし…

 それでは、上記金子氏による「おかしな大人見習うな」の記述内容の一部を以下に紹介しよう。

 金子氏は自民党参院議員 片山さつき氏 が高額所得者であるお笑い芸人の母親が生活保護を受けている事を国会で突いたことを 「いじめ」 とみなしておられるようだ。 そして、これこそが学校で生徒が受けている「いじめ」と似ていると指摘されている。
 加えて、片山さつき氏が“親族の扶養義務を強めるべきだ”と主張した事に対し、そんな事をしたらたちまち生活に困ってしまう弱い立場の親子だっている、と訴えておられる。
 この事案に対しては、原左都子は片山さつき氏が国会でお笑い芸人を突いたことを評価している事に関して、本ブログバックナンバーで既に公開している。

 当該議論に関しては、現代社会に於いて誰が弱者で誰が強者なのかを根本的に突き詰める事からスタートし直すべきであろう。
 おそらく金子氏のご見解とは、片山さつき氏こそが強者であるのに、何故弱者であるお笑い芸人を国会で突き倒したのかとのご自身の論理によるのであろう。
 金子氏が如何程の生活をされているのかを私はまったく存じないが、一時とてお笑い芸人が5000万円を超過する年収を得ているのならば、やはり親をその年収内で扶養する選択こそが庶民感覚と私は判断する。 従って原左都子としてはこの事例の場合、片山さつき氏がお笑い芸人を国会で突いたことに関しては、国会議員として正当な行為であったと位置付けるのだ。

 さらに金子氏は大震災に伴って発生した福島第一原発事故に関しても言及しておられるが、これなどはまさに東電や原子力安全保安院の責任が今後に至って追求されるべきなのは当然である。

 それにしても、ちょっと待ってよ金子さん。
 すべての事象を一緒くたにして、「弱い人はいじめられ、追い込まれる。強い人は何をしても許され平気でいられる。こんな社会を今の大人は作っているんです。 どうか、今若い君達は今の大人とは違った生き方をして下さい」 とは、どうしたことか??
 こんな陳腐な決まり文句を、現役学者たるものが一般新聞紙上で公表して許されるのか?? 
 
 金子さん、こんな場で恥をかかせて申し訳ないが、庶民の私が拙いエッセイ集を綴る時とて世に公開されている各種資料や文献を参照しつつ、自らの記事に関する検証・監修作業に時間を費やしている。
 今の時代とは各種学問が融合しつつ発展を遂げている事実をも捉えるべきではないのか? 通り一遍の決まり文句をそのまま新聞紙面に公開するのではなく、その背景要因を深く掘り下げ自分なりに分析・考察し直す作業に時間を費やすべきである。それこそが学問を追究する(した)者の社会に対する使命として。


 私自身は“おかしな大人”であることを少し認める。
 それでもそんな私も含めて世の中に生きている庶民達とは、子どもも大人も経済学者であられる金子氏の想像の及ばぬ処で、“おかしな世の中”を自分なりに渡っていこうと努力を重ねつつ生を営み続けていると私は信じたい。

庶民が返せない金を貸さない体制作りを

2012年08月18日 | 時事論評
 政府や自治体が社会保障のスローガンの下、生活保護対象者にさほどの自助努力を促さずしてそれを「量産」し続ける実態には辟易とさせられる。
 その事実に反論を唱え続ける原左都子であることに関しては、本エッセイ集バックナンバーに於いて何度か綴り公開している。

 生活資金を全面的に“血税”に依存する事により命を繋いでいる「生活保護者」と比べると、とりあえず“借金”という形で資金を得ている庶民はまだしも許される対象なのか?

 それにしても、近年の世のキャッシング動向は凄まじいものがある。
 ネットを開くと、キャッシングしませんか?  クレジットの支払いをリボ払いにするとポイントが沢山溜まります!  等々、庶民に「借金」を煽る文言ばかりである。


 ここで原左都子の個人的志向を述べると、私は子どもの頃から大の「借金」嫌いである。
 何のための資金であれ、必ずや目標額を蓄積した後に購買行動に出て来ている。 そんな悠長な事をしていたら、欲しい時タイムリーに欲しい物が手に入らないのではないのか? とのご心配を頂きそうだ。
 ところが、私の場合その種の心配はまったく御無用である。 本エッセイ集「お金」カテゴリーバックナンバーにおいて再三述べているが、私には子どもの頃から“貯蓄趣味”があるのだ。
 こんな趣味を暴露すると、我が“変人素養”及び“貧乏気質”を公開しているだけの話かもしれないが、子ども心に手元にお金が増えていく事が実に快感だったのは確かだ。 小学生の頃夏休みに学校で集団購入する「肝油ドロップ」の空き缶の中に小遣いに貰った小銭を貯め始めた事をきっかけに、それは紙幣に形を変えて増え続けた。 ある程度まとまった紙幣を高校生の時に自分で郵便局へ持参して“郵便貯金”通帳を作成した。(当時は、子どもでも誰でも個人情報確認なしに預金通帳が作成できたと記憶しているが。)

 社会人となった後も、私の“貯蓄趣味”はその桁を増強しつつ続行する。
 24歳位の頃だっただろうか? 私は当時の趣味だった“エレクトーン”の最新型機種をどうしてもゲットしたく思いそれを実行した。 売り場にて80数万円のその機種を“ボーナス一括払い”決済したいと申し出たものの、この若き年齢でその額のボーナスが支給される訳がないと勘ぐられたのだろうか??  売り場から保証人を付けて欲しいと言われ郷里の親を保証人にしたところ、早速親元に確認の電話が行ったらしい。 その直後親から「エレクトーンを買ったんだって?」との電話が届いた。 当時医学専門職の私は現実に1回のボーナスでその額を超える支給があったし、それ以上に手元に預貯金を積んでいたのに何で親元にまで電話されるの! と実に鬱陶しい思い出として記憶している。

 その後30歳にして未だ独身だった私は、分譲マンションを購入した。
 既に全額現金購入可能な額の預貯金が手元にあったが、税務対策により一部ローンを組み独身時代に独力でローン完済した。
 時が流れ晩婚後、諸事情により数回に及ぶ所有物件買換え転居を余儀なくされたが、夫婦共有物件分譲マンションのローンはすべて3年以内で完済してきている。 晩婚故に身内が定年退職後に我が娘は大学へ入学と相成ったが、その4年間の学費に関しても計画的に蓄積した後に大学へ入学させている。
 
 以上は、「原左都子エッセイ集」“お金”カテゴリーに於いて公開済エッセイの重複である事をお詫びする。
 このような記述をすると、“元々ある程度裕福な家庭の出身だからそのような事が可能だったのではないか?”なる反応が届きそうだが、それは絶対違う。 我が実親は両親共に過疎地自治体地方公務員を定年まで全うし、親自体は不自由のない老後を迎えたようだが、娘らに対する教育方針はあくまでも「自立して一人で生きていく力を自分自身で培え!」だった。 その教えに沿って私(及び米国在住の姉)は自立人生を歩み続け、親からの援助などただの一銭も受けていない。
 片や、晩婚後身内の実家よりまとまった額の支援を得た事に関しては否定しない。 それでも、義母が既に要介護の身となりケア施設へ入居した現在、我が一家は今後自立の道を歩み続ける予定である。 


 ついつい原左都子の私事が長引いてしまったことをお詫びする。

 それにしても、返せないお金を借りてまで人生をエンジョイしよう!との文化がこの国で流行ったのはいつの頃からなのか? 
 おそらくそれはバブル時代に端を発しているのだろうが、世界的経済危機のこの期に及んで、何故大手金融機関までがそれに次々参入して庶民に「借金」を煽り続けるのか??
 “貸す側”のその行為こそが自暴自棄であり、やがて国家を滅ぼすと私は判断するが…。

 例えば、大学入学生に貸与される「奨学金制度」などその最たるものではあるまいか?
 奨学金の事例の場合、一般のキャッシングのごとく一時の人生エンジョイ短絡目的ではなく、その分野が“学生の学問意欲及び将来生きる糧”に繋がっているためキャッシングとしては合法と判断され易いのであろう。
 ところがその実態とは、大学卒業後就職した企業が倒産等により職を失った元学生達が奨学金を滞納したり、返済できない結末が多発状態である。

 朝日新聞7月13日報道では、日本の学生が何故大学卒業後奨学金返済を実行できないのかに関して、それは米国の学生と比較して“金融教育”や“将来設計能力”が劣っているとの調査結果を示している。


 いやはや、原左都子もまったく同感である。
 我が金銭感覚など、子どもの頃から(親の教育力の下)自分自身で培ってきたものだ。 その背景として我が親の育て方がどうだったのかとの疑問もあるが、とにかく私はおそらく一生に渡り一人で生きていける程の金銭感覚を身に付けた人生を歩んでいると自己評価する。
 
 バックナンバーでも再三述べたが、自分が産んだ子どもを大学まで進学させたいのならば、通常はその資金は親が全額負担するべきであろう。(原左都子のごとく、子どもの頃から貯蓄が趣味とのよほどの変態子どもを持つ親を除外すれば!??)

 それにしても、誰も彼もに奨学金を「貸与」するこの世のシステムこそを見直すべきではあるまいか。 これ程の経済難、就職難の現状に於いて、「貸与奨学金」を返済できない若者が今後続出すること間違いない。

 奨学金とは本来「給与」であるべきだ。 昔はこれが奨学金の基本だったと私は心得る。 
 それ相応の学力ある学生・生徒のみに奨学金を給与するシステムに見直しては如何か?