原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「素敵ですね!」の言葉を贈れる人の素敵さ

2015年09月30日 | 人間関係
 昨日、私は5年に一度の運転免許証更新書き換え(現行運転免許制度下では、更新区分が「優良」の場合5年後の更新となるのだが、既に10年来ペーパードライバーの私の場合「優良」ドライバーの区分に位置付けられる)のため、某警察署併設の免許更新センターへ出かけた。

 本日のエッセイは当初その更新内容について綴る予定でいた。
 が、それよりも更新センターへの道中に一期一会にて出会った人達とのほんの一時の触れ合い等々の方がずっと印象深かったため、今回はそれをエッセイとしてまとめる方向に転換する。


 まずは自宅から出る直前に、我が亭主に警察署までの道程を確認した。 と言うのも亭主も今年5月に免許証更新のために当署を訪れている故だ。 私も過去に2度訪れているのだが、降車駅から徒歩10分と遠いのに加えて、曲がり角が多く分かりにくい道程だからだ。
 「駅を降りてどっちの改札口に降りるの?」 と問う私に、「南口だと思う。そこから商店街を通過して左に曲がれば主要街道に出る。云々…」  「まあいいや。駅についたら地図を確認する。」と言いながら、更新センターの最終受付時間が迫っているためそそくさと自宅を出た。
 電車内で座っていると、携帯電話が鳴り亭主からCメールが届いた。 そのメールには目的警察署までの詳細の道案内文章が記されていた。 おそらく私が自宅を出発した後にパソコンネットにて地図を確認してくれ、急いでCメールを打ってくれたのだろう。 
 ここで補足説明をしておくが、我が夫婦は決して皆さんのお宅のような“親しい間柄”ではない。 お互いの自由を尊重し合っていると言えば聞こえはいいが、晩婚故か、双方がそれぞれに身勝手に生きている人間同士であると表現出来よう。  故に普段メールにて連絡を取り合う事など皆無と言ってよい程だ。 
 メール文化が未だ発展していない「電話」時代に遡っても、私が亭主の仕事中に勤務先に電話をかけたのは、インフルエンザで寝込んだ時のみだ。「熱が40度近く出て寝ているから今夜は夕飯が作れない。自分と娘が食べるものを何か買ってきて。」と電話で伝えると、さすがの亭主も結婚後最初で最後の私からの電話に「これは尋常な病状ではない」と察したそうだ。


 そんな亭主からのCメールに「サンキュー!」と一言返信した後、私は警察署が位置する駅を降車して南口へ向かった。
 この降車駅から警察署への道程が分かりにくい主たる要因として、駅を含めた近隣商業地帯一帯が大規模に生まれ変わるべく工事中であり、それに伴い周辺環境が大幅に進化(後退??)を遂げようとしている故だ。 (近年の東京都内はやたらこの手の工事が多発している。 アベノミクスの歪んだ経済政策による2020東京五輪開催までは、悲しいかな、東京都心では国家(都)財源無駄消費が続くのだろう…

 南口を出たものの、5年前の風景とは一変している。
 どっちへ歩くべきかと困惑していた時に、とある女性(おそらく私と同年代だろうが申し訳ないが老けて見える女性)が手に何かのパンフレットを持ちつつ私に近づいて来て声をかける。 「よろしければ、これに来ていただけませんか?」
 (どうせキャッチセールス、あるいは女性の年齢を考慮した場合新興宗教の誘いかもしれない)と警戒しつつ斜め目線でそのパンフレットを眺めながら、私はそのパンフレットに記載されている題目を一瞬にして判断した。 ああ、地元の小団体が何らかがコンサートを行うんだなあ、と。 それでも、私はたまたま5年に一度免許更新のためにこの地を訪れただけの話でその地元の人間ではないし、とにかくお断りしよう、と考えた。
 その間、5秒程だっただろうか。 「申し訳ありませんが、お断りします。」と答え目的地に向かって歩き始めた私に対し、当該同年代と思しき女性が私に語りかけてくれた言葉が表題の通りだ。
 「素敵な方ですね。 ワンピースとアクセサリーのコーディネイトも素晴らしくとても素敵です。」
 褒めてもらえば、当然ながらこちらも御礼を言うのが礼儀だ。 「ありがとうございます。」と頭を下げつつ、私はその女性を尻目に急ぎ足で警察署へ向かった。
 私見だが、この女性は本気で私に小団体が開催するコンサートを訪れて欲しかったものと推察する。 と言うのも、宗教団体やキャッチセールス等の街頭勧誘の場合、勧誘する“前時点で”「素敵ですね!」の決めゼリフを吐くものだ。
 もっと説明を加えるならば、私は昨日運転免許証の「写真撮影」に備えて、お洒落をして出かけたのだ。
 私の場合ペーパードライバーであるが故に、運転免許証の使用価値とは単に「自己証明書類」に他ならない。 これを後5年利用せねばならない立場としては、せめて写真だけでも“美しく”写してもらわねば後5年間の免許証の利用価値がないとの事態だ。
 故に、まるでパーティにでも出かけるがごとく派手なワンピースを着用して出かけたことは認めよう。 


 その後、案の定私は警察署への道を迷う。
 その時、ちょうど交差点にて警察官が交通整理をしている現場に出会った。
 後で警察署免許更新センターにての「講習」にて聞いた内容だが、ちょうどこの地域では「交通安全月間キャンペーン」を警察署が繰り広げている時期だったらしい。

 道に迷えば、お巡りさんに道を聞くべきと考え、その交差点にいた巡査氏に警察署までの道を尋ねようとした。 ところが、その巡査氏は既に自分の役割を終えた様子で、そそくさとどこかへ消え去った。 
 その時その交差点の私の真横で信号待ちをしていたのが、おそらく30代後半位と思しき毅然としたイケメン男性だ。 この人に警察署への道程を尋ねよう!と志し、私はそれを勇気を持って実行した。
 少しびっくりした様子だったが、そのイケメン男性は信号待ちをしている時間内(おそらく20秒程度)の短時間内で私の訴えである「某警察署」への道程を端的に正確に語ってくれた。 この早業も素晴らしく、よほど出来てるイケメンだったと、(単に道を尋ねたのみで取り逃がした事実に)後で思えば多少の未練も募るのだが…


 それは冗談としても、東京大都市内でも“一期一会”の出会いがある事を実感出来た昨日だった。
 
 たとえ東京都心とは言えども、自分が住む地域(路線)ではないほんの少し離れた地域へたまに出向けば、その地域特有の文化があり、少し違う出会いがあるのかもしれないと思えた、昨日の我が運転免許証更新手続き場所への“小旅行”だった。

美容整形とは失敗の事例もあるし、怖いね…

2015年09月28日 | 自己実現
 私自身は美容整形の経験は一度も無く、こと外見的要因に関しては生まれ持ったDNAを最大限活用しつつ現在も生き抜いている。


 一方で、病気や出産のために身体各部の手術を今までに3度経験している。

 一度目は中学生時代に“虫垂炎”を患い、右下腹部を切開して化膿した虫垂を摘出する手術を受けた。
 1960年代頃の話だが、おそらく当時はまだ医学がさほど進化していなかった時代背景ではなかろうか。 術後まもなく麻酔が切れた頃から切開した右腹が激しく痛み始め、一晩中眠れずベッドで幼心に痛みに耐えつつ泣いた記憶がある。

 二度目は、高齢出産の際の帝王切開手術だ。
 これに関しては、「原左都子エッセイ集」2008.8.21 バックナンバー「医師の過失責任」に於いて詳述している。 自宅待機との主治医の指示中自宅にて破水し、大病院へ救急搬送され緊急帝王切開手術と相成ったのだが、一時は死を覚悟する程の壮絶な手術だった。 後々の後遺症も厳しく、娘出産後半年程はまともな脳内思考が不能な程心身共に憔悴する大打撃を受けた。
 
 三度目は、産んだ娘が未だ1歳時に患った皮膚癌の手術だった。 
 頭部に発生した皮膚癌のため、癌部位を含め周囲頭皮を直径6㎝程切除し、自分の足から皮膚を切除して頭部に植皮するとの手術内容だった。
 二度目の帝王切開手術の予後の悪さに散々苦悩させられた記憶が新しかったため、決して同じ失敗を二度繰り返さないよう、私は担当医と十分に話し合いを持ちつつの術後入院生活だった。 とにかく自助努力にての回復を目指したく、医師の指示に反して手術翌日から起き上がり歩行を始めたい旨を担当医に嘆願した。 それが聞き入れてもらえ、手術後早々に私は院内を自力で歩きいつも通りに自分らしく入院生活を送った。 それを見た見舞客の友人より「明るい癌患者」の称号を授与されたものだ。 (詳細は、2007.10.5 バックナンバー 「癌は突然やって来る」をご参照下さい。) 


 話題を「美容整形」に戻そう。

 私は過去に於いて、「美容整形」手術を受けた身近な女性と接触した事がある。
 彼女は当時モデル及びタレントをしていた人物なのだが、ご本人曰く「二重瞼整形手術を受けたい」との事だ。 ところが彼女は生まれながらの二重瞼である。 しかもその二重が、私の印象では“憂いがある”と表現するべきか独特の魅力的な二重なのだ。 にもかかわらず彼女曰く、「モデルとして収入を得るためには、宣材写真力にも耐えねばならない。その宣材写真に於いて私の二重瞼が中途半端との事だ。ここは意を決してくっきりとした二重の手術を受ける!」
 そうして、彼女は二重瞼手術を受けた。 美容整形とて皮膚にメスを入れる以上ダメージを受ける事は明白だ。 彼女は瞼の傷が回復するまでの一定期間サングラス生活を余儀なくされた。 その後手術により受けた傷は完治し、彼女曰く「私が目指す二重になれた!」とある程度の期間喜んでいた。
 ところが、この話はまだ続く…
 彼女が二重瞼整形手術を受けて、如何程の年月が経過した頃だろうか?  今となっては我が記憶にないのだが、彼女が言うには、「DNA力や自然の脅威とは侮れない。 私の二重瞼は元の場所と形になってしまった。 単なる“傷”だった術後の二重線は今や消え去り、私は元の二重瞼に完全に戻っている。」
 いやいや医学関係者の原左都子としても、「なるほど!」と実に興味深い話として記憶している話題だ。


 今回のエッセイを綴り公開しようとのきっかけを得たのは、いつもの通り朝日新聞“悩みのるつぼ”である。
 早速、朝日新聞9月26日付 「be」“悩みのるつぼ” 30代女性による 「決意の整形に失敗、どうすれば」 なる、ショッキングな題目の相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 私は30代独身女性だが、おそらくほかの人より劣等感が強い。 そして幼い頃から家族にも「ブス」と言われながら育ったことが原因だと思うが、自分でも容姿に自身が持てない。 ならば内面を磨こうと努力をしたつもりだ。 一人で海外へ行き様々な人種の中にいることにより、「人間はみんな違って当たり前なんだ」とも感じる事が出来て心が楽になった。 が、日本に帰って来るとどうしても他人と比べる自分が苦しい。  そんな自分の醜い容姿が嫌で、ついに美容整形をした。 成功すれば劣等感を克服できると思ったのに結果失敗。 もう整形はしないし、鏡も見ないように生きている。 楽に生きるために、これ以上何をしたらいいのか? 美輪明宏さんにご相談したい。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より一部を要約引用したもの。)

 この質問に対する美輪明宏氏の回答の表題のみ紹介するならば、「笑顔ときれいな姿勢で先入観覆しては」である。


 最後に、原左都子の感想と私論で締めくくろう。

 いや、まずはびっくりだ!
 「美容整形」とは、(一部の医療的瑕疵等の例外を除き健康保険が適用されるはずもなく)容易い金額で執り行えない手術と認識している。 “悩みのるつぼ”相談女性はそれが叶うほどの経済力があると判断しよう。
 それ程の経済力がありながら、何故いつまでも自分自身が抱えている“容姿劣等感”に苛まれ続ける人生を送っているのだろう。
 しかも、せっかく大金を注ぎ込んだ「美容整形」に失敗したのだと??

 貴方は海外旅行して様々な人種に会ったと言うが、どのような会い方をしたのだろうか? 質問内容から想像するに、もしかしたら貴方は身勝手な“人種差別感”を先入観として持っていて、人間は皆違って当たり前なる歪んだ結論を感じただけで帰国しているのではなかろうか? 

 ここで原左都子の身勝手なアドバイスだが、せっかく30代独身女性が単身で諸外国へ旅行するならば、その国で恋愛相手を見つける程の積極的行動に出ては如何だったのだろう?  私自身の感想だが、恋愛相手との出会い程人と人との出会いに於ける濃密な出会いはないはずだ。 (「原左都子エッセイ集」バックナンバー 2008.6.21 「彼の名はジョニー」、 あるいは 2008.6.27 公開の 「ジョニーと別れた理由」 をご参照下さい。)
 恋愛経験でなくとも、とにかく人間の自信とは人付き合いによってもたらされると言って過言でなかろう。 中でも濃厚な人付き合いである恋愛を通して得るものは多大だ。

 “悩みのるつぼ”相談女性とは、せっかく単身にて幾度となく海外経験をしながらも個人的恋愛体験すら一切せずして帰国し、「美容整形」にも失敗し“負け犬”人生を歩むしかない現状が何とも悲しい… 

 ここは、少なくとも美輪明宏氏がご指摘のごとく、相談女性には無理をしてでも「笑顔ときれいな姿勢で先入観覆す」しか選択肢がないのかもしれない……

平和賞マララさん、やはりメディアに利用され続けている

2015年09月26日 | 時事論評
 (写真は、昨日9月25日付朝日新聞 朝刊一面に掲載されていたマララさん大写しの写真。)


 2014年ノーベル平和賞受賞者である マララ・ユスフザイさん が現在何歳かご存知だろうか?

 ノーベル賞受賞当時17歳だったのだから、現在未だに18歳である事に間違いない。
 上記の写真は私が新聞から転載したため不鮮明で申し訳ないものの、冒頭写真を一見して、この女性を18歳と信じる人が如何程いるのだろう。
 私の感想では、どう見ても40代~50代、下手をするともしかしたら私と同年代以上か!?との風貌にしか映らない。
 
 その第一原因として、相変わらず、と言うよりもノーベル賞受賞当時より更に太っておられるせいではなかろうか?
 世の18歳といえば、ダイエットにお洒落。 そして恋愛に励む年頃だろう。
 
 マララさんの場合、自国であるパキスタンが未だ政権不安定故に身の危険回避のため英国暮らしを余儀なくされているらしい。 ただ、そうだとして、先進国英国にて恵まれた暮らしを保障されている身にして、その立場でマララさんが青春を謳歌したとて世界中の誰もそれをバッシングしようとは思わないはずだ。 
 むしろノーベル賞を受賞したからと言って、その後の人生全てを「兵器より子供を守れ」なるスタンスでメディアに利用され続けるより、18歳らしい生き様をマララさんが自然体にて謳歌しているとの報道こそを世界中が望んでいるのではなかろうか。 そのニュースの方がよほど世界平和に貢献可能かと私など考えるのだが…

 いや、それじゃメディアが儲からない。
 加えて、マララさんの自国であるパキスタンが現在尚戦禍にある事を考慮するならば、若輩にしてマララさんにノーベル平和賞を“外部の圧力”で受賞させた世界各国首脳たちの思惑が活きない。
 マララさんにはどうしても、今後一生に渡りメディアに登場し続けてもらい、「兵器より子供達に本を!」と語ってもらわねば、平和賞を受賞させた趣旨が貫けないのだ! なる反論が届きそうだ。


 そんな外圧論理を十二分に原左都子は既に理解済みのため、今回のエッセイでは、どうしてもマララさん自身の18歳なりの青春を応援したいのだ。

 ただ、強引にマララさん平和賞受賞に持ちこんだ外圧組織体が言いたい事も分かる。
 ノーベル賞賞金とは(日本の「文化勲章」が年金制を採用しているのとは異なり)“一時金”授与との事だが、その金額が数千万円に及ぶらしい。  それを貴方(マララさん)に与える見返りとして、メディア報道の要求に応える事をノーベル賞受賞前に既にマララさんと公約していたとも考えられる。
 マララさんが、自国パキスタンでは比較的恵まれた家庭環境に育っているとはいえ、失礼ながら、今現在英国にて生活可能な程の経済力はなかったのではあるまいか? そうした場合、マララさん(及びその保護者も含め)昨年のノーベル平和賞受賞に関して家族総意でそれを喜んだものとも捉えられる。


 ここで上記紹介の朝日新聞が昨日の記事内から、平和賞受賞マララさんを弁護したと思しき 「ふつうの女の子の大きな勇気」 と題する記事内容を以下に要約して紹介しよう。
 マララさんは、ボードゲームが好きなごく普通の女の子だ。 英国バーミンガムで女子校に通っていて、毎日宿題と向き合い、テストに向けて勉強している。 弟達と喧嘩をすることもある。
 マララさんは(祖国パキスタン時代に)自分が特別な人とは思わずただ単に「学校へ行きたい」とブログに書いたら、それを攻撃され襲撃された。 奇跡的に命を取り留めたマララさんは、パキスタンを攻撃したタリバーンに対して、学校を壊したり勉強をする女の子達を攻撃する事を批判し続けたために撃たれてしまったのだ。 それでも声を上げる事をやめなかったからこそ、マララさんの勇気が認められて、その行為が「ノーベル平和賞」へと繋がった。
 ただ、ノーベル賞受賞後のマララさんの姿勢は冷静だ。 「私は私。背の高さも同じです」「平和賞は世界中の子供達へ贈られたものです。」とマララさんは言う。
 マララさん自身が、故郷であるパキスタンへ今尚帰れず、今現在のシリア同様に「難民」である。 「子供達をそんな目に遭わせず、のびのび通える学校に通える平和な日をつくる。 それが大人が取り組まねばならない宿題。
 (以上、朝日新聞9月25日付朝刊12ページより ヨーロッパ支局長 梅原季哉氏とやらが記した文章から一部を要約引用した内容。)


 ここから、原左都子の私論に入ろう。
 
 ちょっと待ってくれるかなあ。 朝日新聞ヨーロッパ支局長の梅原さんとやら。
 貴方が実際に英国現地でマララ氏にインタビューをした上で、この記事を書いて公開したのだろうか?

 ノーベル平和賞受賞マララさんが、複雑な思いで英国生活を余儀なくされているであろうその心理は、私にも(おそらく貴方以上に)理解可能だ。 
 それはそうと、わずか18歳の年齢で(しかも他力本願にノーベル平和賞を与えられた立場で)世界メディア各社のインタビューをこなさねばならない若輩マララさんの日常の忙しさとその思いも少しは理解した上で、インタビューを実施して欲しいものだ。

 本気で、マララさんが世界各国(特にマララさんに平和賞受賞させる事により営利をむさぼったり、自国の勝手な政策が貫ける)相手に対応していると思っているのか??
 どう考察しても、いくら戦禍過激な地域で尋常ではない過去を歩んだ身とて、わずか18歳の脳とは、それ相応の脳内発達状態範疇と私は推測する。


 もしかしたら未だ18歳のマララさんにして、今現在はメディアに迎合することが自分が獲得した(他力本願で獲得させてもらった)ノーベル平和賞の重み及び責任と健気に捉えているのかもしれない。

 確かにマララさんがノーベル平和賞を受賞して後、わずか1年しか経過していない。
 2015年今年のノーベル平和賞が決定した時点で、メディア連中の興味がそちらに移り、マララさんの存在すら忘却される日が近いとも推測出来よう。

 その暁には、現在英国で(金銭面では)悠々たる暮らしぶりのマララさんに、本気でダイエットをして青春を謳歌してもらっても少しも遅くないのかもしれない。


 (「原左都子エッセイ集」2014.10.13バックナンバー 「平和賞マララさん、若輩17歳にしての“上から目線”が気になる」 もよろしければご参照下さい。 公開後1年経過した今尚アクセス数が多い人気エッセイです。)

稀にみる駄作だった NHK連続朝ドラ「まれ」

2015年09月24日 | 時事論評
 NHK連続テレビ小説「まれ」が、2日後の9月26日にエンディングを迎える。


 本日(9月24日)朝方、ネット上で当該ドラマを総括したと思しき“マイナス評価”報道記事を発見した。

 早速以下に、その内容の一部を紹介しよう。

 百歩譲って脇役は二の次でもいい。 最大の問題はヒロイン・希だ。 父親を反面教師に「夢は無用。地道にコツコツ」をモットーに生きてきた希。 パティシエになりたいという夢を封印し、高校卒業後に役所勤めをするも夢をあきらめきれず、わずか1年足らずで役所勤めを辞めて、パティシエになる修業をするのだが、まず公務員は夢がないと決めつけている。
 いざパティシエ修業に入るも、肝心の修業シーンはほとんどなく、恋愛エピソードほか余計なエピソードばかりでお茶を濁したかと思ったら、突然、絶妙に敏感な舌を持ち、味覚の違いがわかるという設定を後乗せし、いつの間にやらシェフ(小日向文世氏)の信頼を得る存在に。 ケーキ作りのシーンも作りながら喋るわ、髪はボサボサ、手、洗ったの? と疑問ばかり。 ケーキ屋さんはこんなに不潔なのかと…。
 で、スーシェフに昇格したと思いきや、能登に帰り、塗師屋のおかみ修業をすると言い出す始末(この間、まれは幼馴染の輪島塗職人・圭太と結婚していた)。さらに地元でケーキ屋をオープンするも、子どもを身ごもり開店休業。 あっという間に子供は大きくなり、現在世界一のパティシエになる夢を叶えるために、なにやら有名なコンクールに出場するために、日夜レシピづくりに勤しむというのがここまでの話だ。
 話があっちこっちに飛び、整合性がない。
 要するに、まれ自身がひたすらパティシエ道に邁進するのかと思いきや、あっちに行きこっちに行って、たまに思い出したように「世界一のパティシエになる!」と言い出したかと思いきや、なにかのコンクールに出場するという、「地道にコツコツ」とは真反対の生き方に視聴者の批判的な声が集まっている。
 まれ自身が自分の人生設計を大きな紙に書いて説明したり、コンテストのためのケーキのアイデアを大きな透明ボードに書いたり、頭の中を視覚化させるところも視聴者にわかりやすくということなのかもしれない。 が、本来は台詞や演技で見せるべきものだ。 横浜編での不器用な後輩(福田彩乃)の唐突なタレントものまねも、まれの先輩・陶子の「な~め~す~ぎ~」も笑えない。
 (以上、ネット情報より 連ドラ「まれ」をマイナス評価した記事より一部を引用したもの。)

 ネット引用ついでに、ここで原左都子の個人的趣味観点で付け加えさせてもらおう。
 我が国が誇る舞踊家 田中泯氏をせっかく(こんな低レベルドラマの)お爺ちゃん役に抜擢しておきながら、NHKが泯氏に委ねたパフォーマンスが、「●○、●○、世界一!」との、聞く方が恥ずかしくなるようなギャグ振付だった事が、私は到底許し難い。


 上記ネット「まれ」批判記事は長文に渡っているのだが、「まれ」内の脇役に関しても厳しい指摘をしている。
 その中で、私もバックナンバーにて取り上げた まれの友達“一子”に関する記述を以下に振り返らせて頂こう。
 以下は「原左都子エッセイ集」2015.7.20 バックナンバー 「一子(いちこ)よ、もう一度東京で頑張ろう!」 より要約引用。
 主役が主役足り得ない中、ドラマ内で光り輝いているのが、脇役である まれの女友達「一子(いちこ)」の存在だ。
 一子はドラマ内で中学生の頃から、「私は東京に出て必ずモデルになる!」と宣言していた。  残念な事にオーディションに受かる事はなく、一子はとりあえず大阪に出てブティック(洋服店)店員の身分で頑張ると同時に、ブティック仲間達と楽しい大阪三昧をしいてたようだ。
 その後、結局一子は一旦能登へ帰省した後、自分が最初から目指していた上京を決行し、東京で独り身にて生活を繰り広げるに至る。  最初はアパレル系で働いていた一子だが、そこがあえ無く倒産した暁には、キャバクラにてキャバ嬢をする事と相成る。
 ここで原左都子の私論だが、真面目な話、安易に上京する若き女性すべてが“阿呆”だから田舎に戻れ!と言いたいようなドラマ展開にはまったくもって辟易とさせられる。  他方、まれのごとく“一応”の目的がある女性に関しては、都会に出没する事を奨励するがごとくのステレオタイプの描き方は、今の時代に至って一体全体どうしたものか??!
そんな中、ドラマ「まれ」内で一子自身がいつも口癖のごとく発言する言葉に賛同する私だ。「田舎は仲間意識が強すぎて私は嫌悪感を抱く。 だからそれの延長線で、田舎の食べ物など食べたいとも思わない。 もういい加減にして欲しい。 私を田舎から解放してくれ!」
 上京後既に40年近くの年月が流れている原左都子にとっても、一子同様に本当にいい加減にして欲しい事柄がある。 それは、上京後40年近く経過した私にいつまでも郷里より同窓会の便りを寄越す連中が存在する事実だ。
 私は今後も東京こそを我が真の故郷として、喜んでこの地に骨を埋める覚悟である。  なに? 郷里開催の同窓会に今更出席しろ??  何のためだ。 貴方達が郷里で頑張っている姿を上京して頑張っている私に今更認めて欲しいのか!?  その種の自己存在証明手段としての郷里での同窓会などに誘われるのは、本気で鬱陶しく勘弁して欲しい。(同窓生のどなたかが私に会いたいと言うのならば話は別で、その旨個人的に言ってくれればよいが、単に機械的に同窓会通知を送り付けているならば実に許し難い! 出席するつもりは毛頭ないため今後控えて頂きたい。)
 我が私見によれば、他力本願でしか動けない主人公まれより、失敗を繰り返し落胆失望しつつも、自分の意思で再びの上京を目指している一子の将来性こそを有望視している。
 (以上、「原左都子エッセイ集」より「まれ」の友達である一子を弁護したバックナンバーより一部を引用したもの。)

 ところが、その後の一子(いちこ)に関してのNHKドラマ脚本の描き方にも落胆させられ続けた。
 一子が立ち上げたブログが世間で人気を博すると脚本は言うのだが…   正直言って現実社会では絶対に「あり得ない」!
 原左都子の私論をここで述べるならば、一子にはキャバクラ嬢として東京で頑張り切って欲しかった。 だって、現実問題貴方が培ってきた能力範疇ではそれしか生きる道はなかったはずだ。


 エッセイの字数ばかりが多くなりそうなので、最後に原左都子が まれ の母親だったなら(今回常盤貴子氏がそれを演じたが)の教育論で締めくくろう。
 父親が(結婚後の結果として)あれ程の“プー太郎”を貫き続けるならば、私が妻であったら当の昔に離婚手続きをとった事だろう。
 それを実行しなかった妻側にも責任が大きいとして、せっかく娘が高卒の身分で役場に就職出来た暁には、(上記ネット情報にも記されている通り)その快挙に貧乏な親としては感謝しつつ、公務員の立場でその合間に娘の未来の夢を描かせるべく指導方針を設定するべきだった。

 もしもこのドラマが1980年代後半期以降の経済バブル絶頂期にでも放映されたのだとすれば、貧乏人にして“パティシエになりたい!”なるドラマの信憑性が歪みを伴いながらもあり、視聴者間で支持者も存在し得たのかもしれない。
 一体全体このドラマを今の時代に放映して、NHKは国民(特に若い世代)に如何なる夢を描け!と訴えたかったのだろう?

 NHKもここのところ連ドラの視聴率が高位に推移している事実に、あぐらをかいていなる場合ではなかろう。
 少しは移り行く現実社会市民の生き様の変遷の程を本気で直視した上でドラマ制作しない事には、単に惰性で続いている「NHK連続テレビ小説」の今後の未来は短いような感覚に陥るばかりだ…

西新宿超高層ビル上階ラウンジでグラスを傾けた遠き日

2015年09月21日 | 雑記
 (写真は、昨日私が娘を伴って訪れた西新宿 損保ジャパンビル内にある 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館 上階から撮影した コクーンタワー。)


 私は連休が嫌いだ。
 何故ならば狭い国土内がそれによって大渋滞を引き起こすし、特に大都会に暮らしている身としては何処を訪れようと人混みを避けられない故だ。

 ただ年末年始やお盆の時期の連休に関しては、その存在を許してもよい感覚はある。 何故ならば、それは日本の昔ながらの伝統・文化に基づき人々が動く慣習が今も根付いていると考察可能だからだ。

 片や、5月の連休(いわゆるゴールデンウイークだが)も許されるべきかとも考察する。 何せ、我が国にとっての最高法規である憲法が制定された日 「憲法記念日」 が5月3日に位置している故だ。 あるいは、かつては5月1日がメーデーだったためその日が休日になる社会人が少なくなった事から間の平日を休日にすることで長期連休化したとの過去の国家思惑にも賛同する。
 その一方、昭和天皇の生誕日であられた4月49日を「昭和の日」として温存した国家の措置には異論がある。 「昭和の日」ではなく「みどりの日」で必要十分だった。 むしろその方が今後の遠い未来に生きる国民皆に支持され続けたのではないかとの感覚が、“もはや戦後ではない”とのスローガンが掲げられた時代に生まれた私にはある。

 一体どうしたの??  と言いたいのが、現在我が身もそれに委ねられねばならない9月の“シルバーウィーク”とやらだ。
 我が記憶によれば、今まで9月中旬に定められていた「敬老の日」を一週間後にずらす措置により「秋分の日」との間隔を縮めその合間の日を「国民の休日」と法整備して、国民皆に大型連休を保障せんとの国家政策だったと記憶している。
 これで誰が喜ぶのか!?!  と国民に問うたところで、現に“シルバーウィーク”期間中の国土は交通網ラッシュ状態とのニュース報道なのだから、国家政策に単純に迎合する国民が多いことのみを再認識させられる事実だ…


 自宅に目を移せば、我が家の“就活落ちこぼれ娘”さえも、この“シルバーウィーク”期間中は企業側が休みを取っている関係で就活もお休み状態だと言う。
 ならば、過去の趣味だった「美術館観賞」でもしようと娘を誘って出かけたのが、冒頭写真内で記述している 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館 にて現在開催中の 「もうひとつの輝き 最後の印象派 1900-20's Paris」 である。
 フランスパリへは私も娘も、お互い時は異なるが訪問している。 私が個人旅行でパリを訪れたのは1970年代終盤の時期だ。 片や娘は5年程前に高校の修学旅行でフランスパリを訪れている。 過去に於いて一時美大進学をも目指していた娘もおそらく今回の美術展に興味を抱いてくれるだろうと想像して、私は娘を上記の美術展へと誘った。

 私本人は、この超高層ビルが「安田海上火災ビル」と名乗っていた1980代当初より幾度も訪れている。
 その身にしての感想を述べるならば、今回の「特別展」よりも当時からの「常設展」内に展示され続けている“ゴッホ作 ひまわり”等の大作にこそ心を奪われる思いだ。 この「ひまわり」を私は今まで幾度観賞したことであろう。 見れば見る程、我が年齢を重ねる程に、この作品が大作として評価されている事実の程が素人ながら少しづつ分かる気にもさせられるのが不思議だ。


 さて美術展鑑賞後、我々親子は西新宿超高層ビル街に出た。

 私が医学関係民間企業に勤務していた頃、退職直前最後の1年間のみ、自分自身の希望で本社勤務を申し出た事がある。 その本社が位置していたのが西新宿某超高層ビルだった。
 何分、一生を通じて“飲兵衛”人生を貫いている私が、仕事終了後に飲み会の誘いに乗らない訳もない。 まさに散々新宿超高層ビル群内の“飲み処”を堪能したものだ。
 それと並行して、当時付き合っていた彼氏とも西新宿超高層ビル上階等々の“スカイラウンジ”を謳歌した。

 その中で私が昨日思い出したのが、80年代当時は新宿駅から一番近かった“センタービル”内上階に位置する某スカイラウンジだ。 
 そのラウンジが今尚存在するか否かをセンタービル内の地図にて確認した。 そうしたところ、経営主体は替わっているかもしれないものの、上階にスカイラウンジが存在する事を突き止めた。 娘に早速、「今夜はここでゆったりと食事をしよう!」と提案したものの…
 「まだ就職が決まっていない身だから、内定を取れたらこういうところで食事したい……」
 まさに自己中心に過去の郷愁に浸った我が身を反省させられる思いだ。  娘が言う通りだ。 「そうだね、そうしたら貴女が内定ゲット出来たら、私の還暦祝いも兼ね時期を改めてゆったりとスカイラウンジで寛ごうね。」
 そして、昨日は下界のイタリアン店舗にて夕食を済ませた我々母娘だった…


 それにしても、2,30年前の経済バブル期に比して、西新宿超高層ビル群の店舗も大幅に移り変わっている事実を実感させられる。
 そのほとんどが大手企業による“チェーン展開”の店舗へと移り行き、バブル崩壊後は大都心にして個性無き時代へと変遷せざるを得なかった昨今の歴史を思い知らされる。

 バブル崩壊以前の一昔前には、「フランス印象派絵画展」を彼氏と観賞した後に西新宿超高層ビルの上階ラウンジにて星空を見上げグラスを傾けつつ、その感想等をお互いにゆったりと語り合えた“勘違い時代”がこの私にも確かにあった。
 そんなバブル期を若気の至りで堪能した世代の責任と懺悔を、今現在まさに「安保法案成立」との歪んだ形で容赦なく叩きつけらている気もする。