原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

浅田真央選手の五輪敗因を検証する

2010年02月26日 | 時事論評
 「長くてあっという間だった4分間…」

 バンクーバーオリンピック女子フィギュアスケートフリー競技の終了直後に、開口一番上記のごとくメディアのインタビューに応えた後“悔し涙”で泣き崩れた浅田真央選手…。

 五輪初の女子ショートプログラムにおける“トリプルアクセル”の成功、そしてこれまた五輪初の女子フリーにおける“トリプルアクセル”2度の成功。 
 未だ19歳にしてこれだけ輝かしいまでの技術力のある浅田真央選手を、何故に「浅田真央プロジェクトチーム」(そんなものが存在するのかどうかは不明だが)は五輪で勝たせてやれなかったのか…
 ご当人の浅田選手とはまったく違った観点から、本日のフィギュア女子フリー後に“悔し涙”で泣きはらしてしまった真央選手ファンの原左都子であった。


 現在のフィギュアスケート競技においては、単に技術力のみならず、芸術力がそれと同等以上に採点評価対象となっている。
 この芸術力は現在では“演技構成力”との名称に移り変わっているのだが、その内容とは選手の音楽性や演目の全体的展開まですべてを含めて、広い意味でプログラム全体の芸術総合構成力を評価の対象としているようである。 むしろこの“演技構成力”に重きが置かれるのが、現在のフィギュア競技の採点基準の特徴であろう。

 過去の五輪において、フィギュア女子日本代表の伊藤みどり氏がフリー演技中失敗を何度も重ねつつ五輪初の“トリプルアクセル”を何とか成功させることにより「銀メダル」を力づくでもぎ取ったごとくの時代は、既に過ぎ去りし遠い昔のノスタルジーと化しているのである。


 まだまだ19歳の浅田真央選手には、おそらく「(仮称)真央プロジェクト」が背後組織として後援しつつ、今回のバンクーバー五輪に挑んだものと推し量る。
 その上で、(これまた原左都子の推測にしか過ぎないが)「真央プロジェクト」は、あくまでも真央選手の最大の武器である“トリプルアクセル”を何度も飛ばせることをもって「金メダル」をゲットしようと目論んだとも憶測する。
 
 これに対して、韓国のキムヨナ選手の背後組織である「(仮称)キムヨナプロジェクト」の目指す方向は何年も前から異なる方向をしっかりと見据えていた。
 「キムヨナプロジェクト」は、バンクーバー五輪においてのキムヨナ選手の最大の“ライバル”は浅田真央選手であると4年も前から射程を定め、その打倒対策を虎視眈々と採っていたものと原左都子は推測するのだ。
 この戦略とは物凄いものがある。
 まずは今期オリンピック開催地カナダにおいて国民の間でその名を轟かせている男子フィギュア銀メダリストのブライアン・オーサー氏をキムヨナ選手のコーチとして、カナダを練習地とすることで韓国のみならずカナダの地にもキム選手を早くから溶け込ませる作戦であった。(故に、キムヨナ選手は自国韓国のみならず、カナダ国民の間でも絶大な人気を得つつ五輪に臨めたのであろうが。)

 この戦略がもたらした効果の程も凄まじい。
 ブライアン・オーサー氏の指導力もすばらしかった様子だ。 現在のフィギュア採点基準から判断した場合、五輪に勝つためにはキム選手が苦手な“トリプルアクセル”にこだわる必要は一切ないと言い切り、それを早期に切り捨てたとの報道である。 本番での失敗の危険性が高く大して点数に繋がらない大技の習得に無駄な時間を費やすよりも、得意な3回転ジャンプの精度を上げることを優先した。 さらにはフィギュア本来のスケーティング技術やスピード力の向上に専念して技術力の強化を図ると同時に、キム選手の天性の持ち味である“芸術力”をさらに研ぎ澄ますことにより本人の自信を高度のレベルまで導いた様子である。
 しかも、五輪開催地のカナダで直前までトレーニングを積んだことにより、キムヨナ選手は事実上カナダの市民権を得たがごとくカナダの世論まで見方につけていた。
 その裏面における相乗効果として、あくまでも「金メダル」獲得のプレッシャーをキム選手にかけ続ける地元韓国メディアや国民からも距離を置ける形となり、キムヨナ選手は自らのトレーニングに集中、専念できたのである。


 片や浅田真央選手は、あくまでも“トリプルアクセル”にこだわり続けた。それは本人の意思なのか、背後組織の策略なのかは私には計り知れない。
 ここで全国の真央ファンの反発を覚悟の上で提言すると、現在の真央選手はどうひいき目に見ても、“芸術表現力”においてキムヨナ選手には到底及んでいないと原左都子は判断するのだ。 しかも真央選手の得意な技術面においても、キム選手は完成度を極めて五輪に挑んで来ていた。 従って現在のフィギュア採点システムによるならば、もしも今回真央選手が五輪のフリーで2度の“トリプルアクセル”も交えて技術面で“完璧な演技”をクリアできていたとしても、「金メダル」には僅差で届いていなかったのではなかろうかと判断する。
 それ程までにキムヨナ選手の今回の五輪での演技はショートもフリーも完璧で、非の打ち所がなかった。

 いえいえ、今日の五輪フリー演技後の真央選手の号泣は、単にキムヨナ選手に負けたなどとのちっぽけな理由からでは決してないことは重々通じる。 あくまでもフリー演技における失敗という、彼女自身の内面の要因で負けた実感から込み上げてくる悔しさから生じた涙だったのだ。  そんな真央選手の純粋に悔しい思いが身に滲みるからこそ、原左都子も泣けてしょうがないのだ。
 
 
 19歳という若さにして、様々なバックアップ要因に後ろ盾されつつ五輪最高得点を獲得して今回世界頂点を完全制覇したキムヨナ選手。  片や、トリプルアクセルという離れ業を大舞台で3度も披露しつつも、戦略面で敗れ去った同年齢の浅田真央選手。
 だが、勝負とはまだまだこれからが面白いというものだ!
 米国代表の長洲未来選手をはじめとして、フィギュアの次世代を担うべく真央、ヨナを追うさらに若い世代が凄まじい勢いで力をつけて来ているのも、これまた頼もしい限りである。
 これだから、オリンピックは素晴らしい!  ブラボー!!  
Comments (4)

期待と実力の狭間で…

2010年02月24日 | 時事論評
 去る2月21日に投票が行われた長崎知事選において、民主・社民・国民新党の与党3党が推薦した候補は、自民・公明両党の支持を受けた無所属候補に大差を付けられ落選した。
 今年に入って最初の知事選において新政権が推薦した候補が大敗した結果を受けて、鳩山首相はメディアのインタビューを通してこの期に及んで初めて、「“政治と金”問題が長崎知事選における敗因である」と国民の前で明言した。

 ならば、首相自らと小沢幹事長はその責任を取るために辞任の決断をする気にやっとなったのか?? と思いきや、まったくそうではないらしく、首相も幹事長もこのまま続行とのことである。 首相自ら敗因分析が出来ているならば政権内でその責任問題にけじめをつけるのが最優先課題と考えるのが常識であろうに、それを放置して新政権としてのさばり続けて尚、夏の参院選に勝利できると虎視眈々と目論んでいるのであろうか??

 長崎知事選と時を同じくして実施された朝日新聞の世論調査によると、内閣支持率は続落し37%にまで落ち込んでいる。 しかも参院選で民主党が過半数を取ることに「反対」が全体で55%、無党派層では62%とのことで、民主党にとっては至って厳しい世論となっている。
 これを承知で、尚も“政治と金”問題に決着を付けず灰色幹部が居座ろうとしている民主党の魂胆はある程度推測できる。 それは、上記朝日新聞の世論調査における「政党支持率」の回答結果が物語っているのだが、民主党支持が32%、自民党支持が18%と、民主党支持率は大幅に下落したものの、第一野党である自民党の支持率が相変わらず低迷を続けているためであろう。
 原左都子は決して自民党支持派でもないのだが、自民党が支持率を伸ばせないことに関してはある程度同情をしたくもなる。 政権を取れない野党と一旦成り下がってしまった以上、力の見せ場がないのであろう。 野党としては、とりあえずは新政権の失態を突くことしか仕事がないのが議会制民主主義の実態なのではなかろうか?  一方で民主党支持派の意見としては、野党はいつまでも“政治と金”問題を叩いていないで早く予算の審議に入るべきだとの声が強いが、それはいとも単細胞な“身びいき”と言うものだ。 ここは(大して仕事のない)自民党には、早急に鳩山政権の“政治と金”問題に確実にケリを着けてもらおうではないか! 
 それにしても、内閣支持率が30%台にまで落ち込んだ現状をさすがに新政権も踏まえ始めたのか、昨秋よりずっと耳障り極まりなかった「国民の“皆さんの期待”に応えるべく」云々… の空虚なフレーズが鳩山首相はじめ政権幹部の発言からすっかり消え失せたことが、元々新政権支持派ではない国民にとってはせめてもの救いである。


 さてさてすっかり前置きが長くなったが、本記事においてはバンクーバーオリンピックにおける女子カーリング競技の日本チームの予選敗退の要因について考察するのが実は本来の目的だったのだ。

 女子カーリングチームが国民の間でもてはやされたのは、前回のトリノ冬季オリンピックがきっかけであったように記憶している。 前冬季五輪において日本人が期待している“メダル”に代表選手の活躍がなかなか届かない中、メディア影像を通じてカーリングという競技の面白さに魅せられた国民の間で、五輪終了後もカーリング競技が流行し続けたのである。 トリノ五輪の結果は結局8位入賞に終わったものの、その後も現役を続行している女子選手の“美人度”も大きなプラス要因となり、カーリングの人気は今回のバンクーバーまで持ち越されることとなった。
 そんな日本女子カーリングチームの今回の五輪の試合を、2月20日(土)に私はテレビにて観戦する機会を得た。 対戦相手は強豪イギリスチーム。 解説者によるとこの試合はカーリング競技の歴史に残る程の稀に見る高レベルの試合だというコメントだったが、まさに息詰まる熱戦が繰り広げられ両チーム共に素晴らしいショットの応酬とチームワークの結束の中、僅差で日本女子チームが勝利を挙げたのだ。 この試合を見た限りにおいては、日本女子チームが持つ技術的底力はただものではなく、このままの力を持続すれば予選リーグ通過も困難ではないと(あくまでもカーリング素人の)私は判断していた。
 ところがその後ロシアには延長戦の末勝利したものの、続けて3敗を記して予選リーグをあっけなく敗退してしまったのだ…
 
 原左都子の考察によれば、“針の穴”を通すがごとくのミラクルショットを確実に繰り出す技術力のあるリーダーの目黒選手を筆頭に、この日本女子カーリングチームの個々の実力のみに絞ると、ある程度世界に通用するレベルに達しているのではないのかと見る。 
 にもかかわらず今回「予選敗因」してしまった原因は何かと言うと、その一番の要因はこのチームの“チームワーク”の不十分さにあると私は断言したい。 
 諸外国のチームの年齢構成が多様であるのに比し、日本チームは同年代の若い世代のみの集団という実態だ。 カーリングの歴史が浅い日本においてこの現象はやむを得ないのかもしれないが、チーム内に真のリーダーが欲しい思いがテレビで観戦していて否めない思いであった。  例えば試合中の作戦時に次のショットに関する選手間の戦略がまとまらず、持ち時間を大幅にロスする場面が多い。  尚悪い事には、せっかくのタイムアウトの時点で、おそらく選手同様に若い世代と思しき男性監督さえもが適切なアドバイスが出来ず、まったく選手をまとめられない。  こんなお粗末な状態ではチームプレイの競技で勝てる訳もないと私はイライラしていたら、案の定、予選の残り試合で連続3敗を期してあっけなく敗退してしまったといういきさつだ…。


 チームワークにはリーダーシップ力が欠かせない。 真のリーダーとは決して“独裁者”でもなければ、単なる“お飾り”的存在でもあり得ない。

 カーリング日本女子チームが今後の冬季五輪で上位に食い込むのは、今現在活躍中の選手がベテランの域に達して以降、メンバーの中の誰かが真のチームリーダーとして育つ頃なのであろう。 それは早くて、後2、3回後の冬季五輪においてであるのかもしれないと原左都子は読む。
 今回の冬季五輪において、国民の期待と実力の狭間であえいだ結果予選敗退を余儀なくされた日本女子カーリングチームには、今後真のリーダーの育成に基盤を置いた“チームワーク”の強化を望みたい思いである。 

 一方で既に国民の期待をすっかり失っている鳩山政権には、一刻も早く“政治と金”の問題の決着を自らつけて欲しいものだ!
Comments (2)

自国メダルにこだわる心理の背景

2010年02月22日 | 時事論評
 4年に一度しか開催されないオリンピックに、各国の代表として出場する選手がメダル獲得にこだわり勝利を目指す事については、至って正当な志向であると私は捉えている。

 むしろ自国の五輪代表を自らの競技種目で勝ち取って尚、開催前より「五輪でメダルを取る事にはこだわらない」と主張しつつ五輪本番の舞台で尚それを復唱し続ける選手に関しては、観ている側としては応援する気力も消え失せるというものであろう。 
 この種の選手はごく稀な存在ではあろうが、そういう選手とは結果として元々メダル云々には所詮程遠い実力しかないことを観る側として改めて認識させられるのが、いとも過酷なオリンピックという世界最高に研ぎ澄まされた舞台における結末なのではなかろうか。

 
 冒頭から話がズレたが、今回の記事では選手側ではなく“観戦側”の“自国のメダル”獲得にこだわる心理について考察しようとする意図であることを最初に断っておこう。

 私ども原左都子に関しては、前回の記事 「ブラボー!! ライサチェク!」 において既に披露しているが、オリンピック観戦に当たっては“自国のメダル”云々よりも、世界のトップアスリートの超越した演技こそを五輪で堪能したい思いを綴らせていただいたばかりである。

 やはり同意見の国民が存在することを、昨日(2月21日)の朝日新聞「声」欄の投書で発見したため、早速この投書を以下に要約して紹介しよう。
 男子スピードスケート500mで日本選手が銀、銅メダルを獲得したことが新聞の一面に大きく報道された。これは日本人としてうれしいニュースではあるが、そこにはなぜか金メダルを取った選手の名前が載っていない。 そんなはずはないと思い読み直したところ、片隅に小さく名前と略歴が載っていた。これは大して報道に値しないと判断したのだろうか。 この現象は、小学校の運動会で我が子の姿だけを一心不乱にビデオに収めようとする親の姿とダブって見える。その瞬間親は我を忘れて周りが見えなくなっている。 自国選手の快挙に熱くなるのは当然であろうが、他国の選手であれその栄誉は我々の敬意に値すると思うからきちんと報道されてしかるべきである。 お祭りムードに流されて、自国選手に偏る報道に少なからず違和感を持つ。


 私論に入ろう。

 実はこの私にも、我が国で初めて開催された1964年の東京オリンピックを幼き頃にテレビで見たのを事の始めとして、その後日本が国際的に目覚ましく経済力を強化していく時代を背景に、「がんばれ ニッポン!!」精神を学校教育やメディアによって他動的に操られるまま、我が未熟な心理においても“自国ひいき”の精神が強靭なものとして培われた一時の歴史はある。

 いつ頃からだろうか。 おそらく大人になって以降、オリンピックで諸外国の超人ともいえる選手達の活躍を目の当たりにし始めてから、五輪の見方も変化してきたように今振り返る。
 もちろん、日本代表選手が五輪においてすばらしく活躍する姿を報道で垣間見るのも、今尚感動的であるのは揺ぎない事実だ。 だがそれ以前に4年に一度しか開催されない五輪においては、世界のトップレベルの超越した技や芸やスピードや芸術性を、メディアには優先して報道して欲しい思いはこの私も強いのだ。


 この国の国民にさほどの愛国心があるとは到底思えないのに、何故にこれ程までに自国の日本選手のメダルにこだわる風潮が未だに横行しているのかについて、以下に少し考察してみよう。

 この現象は決して国民各々の「愛国心」から発しているものではないと、まず私論は結論付けたい。
 それでも、何らかの“帰属意識”というものは国にかかわらず人間誰しも存在する心の拠り所なのであろう。
 特に日本の場合、国際化が急激に進んでいるとは言え、未だにこの“島国”においては同じ肌の色をした黄色人種である国民が大多数を占めている。 そして、航空便と海路を経由するしか諸外国に渡れない日本の国民にとって、諸外国との交流は今に至って尚不自由であるのが現状でもあろう。 さらに「日本語」という言語がこの国のみでしか通用し得ないという特殊性も、我々国民が抱えている国際的ダメージの決定的実態でもあろう。

 どうひいき目に見ても、この国の特に若い世代の人々の間に「愛国心」が育っているとは私は到底信じられない。 それでも彼らは、サッカーやオリンピックの国際舞台で“日の丸”が掲げられ“君が代”が流れると涙を流しつつ、その試合を選手と一緒に闘ったごとくに大声で斉唱している。 その姿は至って無邪気、単純明快であるため年長者としては否定し難いものの、これを国の指導者がまかり間違っても「愛国心」の裏づけと捉えるべきではない。 若き世代におけるこの風景は、単なる社会的弱者の“帰属意識”“同調意識”の域を出ていない現象であると私論は結論付けた上で、国政の頂点に立つ者にはその種の弱者国民に真の主体性を持たせるべく、今後共に心して国政に臨んで欲しいものと改めて主張したい思いである。
 (新政権は昨日長崎知事選挙で大いなる敗退を期したようだが、“政治と金の問題”で右往左往している暇などまったくないことを直ちに認識して、自らが即刻この問題に決着を着けるべく行動することを最優先して欲しいものである。)


 すっかり話が飛躍してしまったが、自国中心の五輪報道を操っているその“諸悪の根源”はマスメディアであることには間違いはない。
 4年に一度のみ開催される五輪の醍醐味とは、世界のトップアスリートのパフォーマンスを観戦できることにあるはずだ。 これ程発展を遂げているメディアの科学技術力を最大限駆使して各国代表選手の活躍の程の影像や音声を伝えてくれるのが、本来のメディアの役割と認識する原左都子である。

 選手のプライバシー等の余計な情報など一切必要ない。(そういう意味では、ハープパイプの国母クンが空港でどういった服装をしていたかの影像など、まったく不必要な報道だったと言いたい思いの原左都子でもある。 五輪競技本番以外の取るに足りないくだらない騒動に巻き込まれるよりも、その分世界のトップアスリートの活躍場面の影像を堪能させてもらいたいものだ。)
              
Comments (10)

ブラボー!! ライサチェク!

2010年02月20日 | 芸術
(写真はバンクーバーオリンピック男子フィギュアスケート金メダルに輝いた米国のエバン・ライサチェク選手   -朝日新聞2月19日夕刊記事より転載-   写真は私の映し方が悪いため、ライサチェク選手の理想的体型が横長にデフォルメされている点をお詫び致します。)


 オリンピックのフィギュアスケート競技において、ショートプログラムとフリー2本共にこれ程完璧な演技を見たのは、私は今回が初めてのことである。
 米国代表の金メダリスト・ライサチェク選手に魅了され続けた今回の五輪の男子フィギュアスケートだった。
 
 身長が188cmとフィギュアスケート選手としては長身のライサチェク選手がリンク上で手足を広げると、両腕両足がリンクの端まで届きそうなほどに長い。 そして精悍な顔つきと風貌の中にも繊細な雰囲気が交じる。 ショート、フリー共に黒の衣裳で登場したライサチェク選手であるが、そんな恵まれた肢体と雰囲気に全身黒の演出がよく映えて存在自体が芸術的でさえあった。
 その外見だけでも圧巻であるのに、これに完璧なまでのスケーティングの技術力及び芸術表現力が五輪本番の大舞台で全開して、昨日金メダルを勝ち取ったライサチェク選手だった。


 日本時間17日のショートプログラムでは、ライサチェク選手は完璧な演技ならがも僅差でロシアのベテラン・プルシェンコ選手に1位を譲る形となっていた。
 ただ、プルシェンコ選手の場合、いきなり4回転ジャンプを難なく決めジャンプに関しては完璧で他を寄せ付けなかったものの、ステップやスピンのスピードや勢いがなく精彩を欠いている印象を持った。  一方のライサチェク選手は4回転ジャンプこそなかったものの、その他の要素に関しては芸術面も含めて非の打ち所がなく、ド素人の原左都子審判員による判定では、ショートプログラムの勝者はダントツ1位でライサチェク選手との判定を下していたのだ!

 上記のごとくショートプログラムで早くもすっかりライサチェク選手に魅了された私は、昨日(19日)のフリーでの同選手の演技を心待ちにしていた。 最終滑走グループのトップバッターで登場したライサチェク選手にさらに感嘆の声を上げることとなる。 なんと神がかり的に、4分数十秒間のフリーの演技をショート同様にノーミスで完璧に演じ切ったのである!

 その後登場した日本代表の高橋大輔選手も銅メダルに相応しいすばらしい演技だった。 冒頭の4回転ジャンプで回転不足と転倒の失敗がなければ、もう少し点数が上がったであろう。
 実は私は高橋選手の演技をまともに見たのは今回のオリンピックが初めてだったのだが、世界一と評されるステップの見事さが評判通りであるのに加えて、この人の芸術性に唸らされた思いである。 私にはクラシックバレエ観賞の趣味があるため、フィギュアスケートにおいても技術面のみならず芸術面での重要性を重々認識しているのだが、これ程までに感性豊かな表現力のある選手だとは知らなかったのだ。 とにかく、高橋選手も堂々のメダリストとして褒め称えたい。    高橋選手はまだ23歳の若さ。今後益々の活躍を楽しみにさせていただきたいものだ。

 そして、最終滑走のプルシェンコ選手。 やはり4回転ジャンプは確実に決めてきた。 解説によると、プルシェンコ選手はここ8年間公式試合においてジャンプでの転倒が皆無だそうである。そんな偉業を遂げられる天才ジャンパーのプルシェンコ選手が主張するには、もう3回転は過去のもので、今後は4回転を飛ばねばフィギュアとして認められないとのことである。 それをベテランの自らが実証するべく、このオリンピックでもショート、フリー共に4回転ジャンプを難なく成功させたのには脱帽である。 ただ、その他のジャンプの軸がずれたり、倒れそうなのを強引に着地する等の、プルシェンコ選手にしては珍しいミスが続いたのにも時の流れを感じさせられたものだ。 結局プルシェンコ選手は銀メダル獲得で、これは順当な結果と原左都子審判員も判断する。

 ついでに触れると日本代表の織田信成選手であるが、試合終了後のインタビューで、靴紐がとれたのは全て自分の責任だと言って泣き崩れていたのが印象的である。 靴紐は元々切れていたのを感覚重視のためにあえて新しい靴紐に変えず、そのまま切れた所を結んで本番で使用したとのこと、その織田選手の微妙な感覚にこだわるプロ意識を私はむしろ評価したい思いだ。 そして、靴紐アクシデントの後の演技もすばらしかったし、観客席からの応援も感激的だった。 自己責任による演技中断の大量減点にもかかわらず7位に入賞できる力がある選手だし、まだ22歳という若さでもある。今後の活躍を十分楽しみにさせていただこう。


 それにしてもオリンピック観戦の醍醐味とは、世界のトップアスリートによる高度な技や芸やスピードや身体の美を堪能できることにあると実感である。
 特にフィギュアスケートという種目は、それらに加えて“高度な芸術性”を誇る競技であることを再認識した上で十分堪能させてもらえたが故に、今回の記事はあえて「芸術」カテゴリーに分類した。 
 今期五輪で堂々たる金メダルを獲得したライサチェク選手に関しては、アスリートとしての総合評価において今回特別の思い入れを持った原左都子である。 ライサチェク選手も未だ24歳の若さとのことで、どうか今後もフィギュアスケートの国際舞台で活躍されて、トップアスリートとしての総合力を披露し続けられることを期待申し上げたいものである。
     ブラボー!! ライサチェク!  
Comments (2)

お金と時間を天秤にかけりゃ…

2010年02月18日 | お金
 昨秋からフィットネスジムに通っている私であるが、平日昼間にジムに通っているメンバー層は主婦や高齢者が多数であるように見受けられる。

 今時のフィットネスジムの料金システムは曜日時間帯に応じた月極定額制であるため、ジムを頻繁に利用する程、利用者にとっては高いコストパフォーマンスが得られるという単純計算となる。

 主婦と思しき高齢者のご婦人達がロッカールームやエクササイズフロアーで井戸端会議に勤しむ風景によく出くわすのだが、さすが主婦らしくこの“コストパフォーマンス”には大いに敏感な様子である。
 昨日もロッカールームで大声でくっちゃべっている60歳代位のご婦人連中に出くわしたのだが、その会話によると、皆さん特段の用件でもない限りほぼ毎日ジムに通ってデイタイムの長時間を過ごしているとのことなのだ。
 「せっかく月会費を払ってるんだから、ここで長時間過ごさないと損だわね」
 「そうよ。エクササイズだけじゃなくて、サウナもジャグジーもお風呂もマッサージもフルに利用しなくちゃ損よ」
 「家にいると光熱費やトイレットペーパー代もかかるけど、ここに来るとそれも全部浮くし絶対お得よね」
 「○○さんは昨日来てなかったけどどうしたの?」
 「急に亭主の親が具合が悪くなって来れなかったのよ。 1日分損しちゃったわ」
 「それにしても、ジムに来てない人達って毎日何して暮らしてるのかしら? ここに来ると運動になって健康にもいいし、お得なのにね~」
 いやはや、高齢者ご婦人層の損得勘定には降参申し上げたい思いの原左都子である。


 昨秋以降、半年程の期間に渡って週2日一回1時間半程度のペースでジムに通いながらメンバーの行動をそれとなく観察していると、上記の高齢者主婦層のみならず若い世代の主婦らしき女性達や高齢者男性層も同様の行動をしていることに気付かされるのだ。
 若手と思しき主婦層は上記の高齢者主婦のように“群れる”習性はほとんどなく単独行動が多い様子なれど、やはり時間一杯最大限にジムを利用している様子が伺われる。 若い世代の方々は体力面で私などより数段勝っておられる故とも推測するが、そのジムの“利用力”を垣間見ているとやはり“コストパフォーマンス”観点に基づいている部分もあるのか?とも考察できるのだ。
 片や、定年退職後と思しき高齢男性達も、ここ半年の間に出くわすメンバーは皆さん見慣れた方々ばかりである。 これに関しては、“コストパフォーマンス”の観点と言うよりも、もしかしたら奥方に配慮して外で過ごす時間をジムで確保しているのやもしれない。

 上記のごとく平日昼間のフィットネスジムのマーケティングターゲットはまさに主婦や定年退職後の老夫婦等であり、それらの層の経済志向や生活パターン等の時代の趨勢に適合しつつ事業を展開し業績を維持している事業団体の一つであろう。
 まあそういう経営側の経営戦略は二の次として、利用者側としては自分なりのスタンスでジムを利用できればそれで十分という結論に達するのではあろうが…

 話を戻して、冒頭の60歳代主婦連中と思しきご婦人たちの会話はある意味で興味深いとも言える。 お金と時間とのバランス感覚が単純明快で損得勘定も至って表面のみをかすっているところが、失礼ながら端で聞いていてとりあえず笑えてしまう。 その背景とは、お金と時間を客観的相対的に天秤に掛けて物事を考慮するがごとくの実りある人生経験に乏しい故ではないかと、弱輩者として失礼は承知の上で推測申し上げるのだ。 ご自身達が本心でそれで満足ならばそれに越したことはないのだが、話が「ジムに来てない人」にまで及び、自らの単純な想像で自他を比較評価して自己を優位に位置づけようとしているあたりの思考が何とも貧弱で、端で聞いていて寂しい限りである。
 (気持ちはわからなくはないけど、せめてもう少し小さい声で井戸端会議してくれたなら原左都子の耳に入らず、このようにブログで公開されずに済んだのに…。)


 さてさてそれでは本記事の最後に、原左都子にとっての“お金と時間とのバランス感覚”に基づいた私見を述べさせていただくことにしよう。
 この高齢者主婦達同様に普段より高いコストパフォーマンス感覚を持ち合わせている私ではあるが、昼間の時間帯を毎日長時間ジムで過ごせと言われたら、その拘束感と不自由さに“拷問”に近い感覚を持つのみの思いである。 おそらく、この主婦達はジムに入会して日が浅いのであろう。 そういう単純生活には必ずや“飽き”が訪れるのが人間の習性というものだ。 特にこの主婦達のごとく、ジムにおける本来の目的である健康維持や体力増進等が二の次と化し、低レベルのコストパフォーマンス観点や、同趣旨の仲間との井戸端会議が代替目標として成り立っているような場合、その時間空間を仲間と共有できる期間の程の先がしれているというものであろう。 

 お金と時間を天秤にかけるという本記事のテーマに戻るとすれば、この不況の世にあって尚、両者のせめぎ合いの中にも自らの生きがいや達成感を最優先に見出せるがごとくの価値観を最大限維持しつつ、今後我が身にもいずれ訪れる老後を引き続き有意義に生き延びたい思いである。 
Comments (4)