原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「平成」最終月に入るに当たり記録しておくべき私記

2019年03月31日 | 自己実現
 今朝方当該goo「編集画面」“みんなのブログ”を閲覧していたところ、gooブロガー某氏による面白い記述を発見した。

  
 我が記憶に頼って紹介するならば、何でも「平成」の次の元号が「安晋」になったら悲劇だ、との趣旨の内容だった。
 思わず吹き出してしまうと同時に、ゾッとさせられもしつつ、私もそれだけは勘弁して欲しい!ものと嘆願した。 (gooブロガーのクンちゃんさん、しばらくご無沙汰しておりますが許可なく引用させて頂きました事、この場でお詫び申し上げます。)

 おそらくそれは避けられることであろう。 個人が特定されるべく元号は(たとえ本人が強く望もうと)却下する常識は現政権にもあると信じよう。
 それにしても確かに突拍子もない元号が採用されたならば、世も末だろうなあ。

 もしも万一、次なる元号が「安晋」になったならば、私はこの“独裁国”からの逃亡を目指すだろう。
 何処かの国へ難民として逃れ、野垂れ死んだ方がマシな気がする… 

 
 明日4月1日に、その新たな元号が発表される。
 その後一カ月も経過すれば、この国は新たな天皇の時代へと踏み出すこととなる。


 ここから私事に入るが。

 「昭和」から「平成」へ時代が移り変わった昭和64年(平成元年)の事を、私はよく覚えている。
 当時の私は2度目の大学にて一心に学業に励む超真面目な学生だった。

 選択科目の一つとして、自分の専門分野ではない「社会学」を受講していた。
 その担当の教官氏が私とほぼ年齢が変わらないと思しき30代前半程の助教授だったのだが、お若いにもかかわらず、ご自身の専門に関して確固とした自信があることが伝わるかのような集中した講義をされる人物だった。
 授業内容はとても厳しく、前期・後期試験に加えて、年に5度のテーマレポート提出も課せられた。 教官氏のご専門が「地域社会論」だったのだが、その科目ド素人の私であるにもかかわらず、感情移入しやすい教科でもあった。

 レポートの大まかなテーマは設定されているのだが、学生自身がテーマに掲げる「小題」は自由だった。 当時30代前半独身期の私は、「シングルライフに関する考察」や「見合い結婚に関する考察」をテーマにレポートを仕上げ提出したものだ。
 それがこの真面目教官に“大受け”して、いつもレポート評価は「A」をもらっていた。

 その教官の最後のレポート課題が、ちょうど「昭和」から「平成」に移ろいだ直後期であったため、それに関するものだった。
 先程我が書棚を探し、上記「シングルライフ…」「見合い結婚…」をテーマにしたレポートは発見でき、今自分で読み直しても興味深い内容かつ優れた考察が成されていて当時の私を褒めたい程なのだが…。  
 どういう訳か、肝心の「昭和から平成へ移ろいだ…」レポートは残念ながら探し出せなかった。 おそらく学年最後のレポート提出だったため、学生へ返却されなかったのかもしれない。

 (参考だが、私は我が書棚に今尚。  20代の医学関係レポートや医学学会抄録類。 そして上記に紹介した2度目の大学・大学院時代の「修士論文」控を筆頭に小論文やレポート、講義ノートの数々。 30代後半期高校教員時代の「授業ノート」の数々。 その後再び舞い戻った基礎医学分野での実験ノート類。 それらの数々を保存している。 巷で買い求めた書籍類よりも、それらの数々こそが書棚のほとんどを占領している。 何分、未だコンピュータシステム化が成されていない時代だったため、書類として保存する以外手立てが取れなかった故だ。  それにしても、何故廃棄処分しないのか? いやもちろん、「終活期」に至れば自己責任として処分する予定だ。 ただ今現在に於いても、当時の時代を振り返るに当たり、私にとっては下手なネット文献等よりもずっと貴重な情報源の役割を果たしてくれている。


 今回の表題には「平成最終月に入るに当たり記録しておくべき私記」なる“大袈裟”なテーマを掲げてしまったが。

 その時間とスペースが足りなくなっようだ。

 ここはそのテーマの記述は後回しにして。(必ずや4月中にはその関連私記を綴り公開する予定です。)


 とにかく、明日の「元号」発表に着目しよう。

 いや、「平成」の元号が発表された直後には、“何だか変”感覚を皆様も抱いたことであろう。
 ただこれ、まさに平成天皇・皇后両陛下に実に相応しい元号では無かっただろうか?
 (平成中に移り変わった各政権どもには、何ら相応しくなかったものだが!  )


 何はともあれ、新元号が「安晋」ではない事を、私も心より祈っているぞ!!
 

「花冷え」と「引きこもり」と「ダンボ」と「新潟清酒朝日山」

2019年03月30日 | 雑記
 (上記表題項目のうち、昨日「花冷え」と「ダンボ」と「朝日山」の写真を撮影したが、その中から冒頭では「花冷え」関連写真を掲載した。)

 
 3月も終わろうとしている今の時期だが、日本列島はどうやら「花冷え」天候が続いているようだ。 私が住む東京も昨日から真冬の寒さが舞い戻って来て、三分から五分咲きの桜も凍えているかに見える。

 そんな天候の中昨日午後から私は、映画「ダンボ1人観賞」と「1人飲み会」と「1人花見」に出かけた。


 と、その前に。
 
 昼食時に亭主とNHKニュースを見ていると、「引きこもり」に関する情報が取り上げられていた。 
 ニュース報道によれば、今現在の引きこもりは若者層ではなく“中高齢者層”で深刻との内容が伝えられた。 要するに、若い頃に突入した「引きこもり」がそのまま長年続行してしまっているのだろう。
 そのニュースの中で、アナウンサーが不可思議な発言をしたのだ。
 「自宅ならず“自室”からも一歩も出ない」引きこもりの存在は私も想像出来るのだが。
 「自分の趣味にしか出掛けない」とのアナウンサー発言があったのに驚いた私だ。

 ここで私見だが。
 趣味に出かけられるならば“引きこもり”とは言わないんじゃないか?  そんな事言われてしまうと、私を含めて退職高齢者のほとんどが“引きこもり”に分類されてしまわないか??  まあ要するにNHKとしては(職業に従事せねばならない状況下にもかかわらず、趣味にしか出かけられない引きこもりが多い)との事実を伝えたかったのだろうが…。
 これ、特に退職高齢者には失礼な発言だよ。 この私も午後からまさに“趣味”に出かけんとしているが、それを“引きこもり”と後ろ指さされてしまうのならば意気消沈だなあ。 
 そもそも元専門職に従事していた人種とは、退職後もそのプライドを持ち続けていると思うよ。 高齢域の私でよければ今でもその専門力を活かしたいが、それを“お払い箱”にしているのは社会の責任だろ!? やむを得ないから、せいぜい趣味範疇の事柄に励み自己活性化しているんだよ! ホント、今からでも自分の意に沿う仕事をしたいのが本音だよ。 云々……

 等々とNHKニュースを聞きながら私がぶつくさ文句を垂れていると。
 何とも心優しい(??)亭主が、「NHKも別に〇子を責めている訳でないよ。 午後は映画を楽しんでくればいいよ。」 (チコちゃんじゃないが、「ありがとね…」)


 そうして我が“趣味”三昧の昨日が開始したが。


 まず出かけたのは、映画「ダンボ」だ。

 これは我が家から徒歩圏内で行ける場所に位置する映画館での上映だったのだが。
 少し前にこの映画館の会員登録をした事に関してはバックナンバーにて公開済みだ。
 その会員特典が数多い。 特に“シニア会員”の私の場合、いつ何時も(2Dならば)¥1,000- にて見放題だ。 しかも年間6回見たら1回無料のおまけまで付いて来る。 これは、(たとえNHKに“引きこもり”呼ばわれされようが)、行くしかないだろう!
 
 映画「ダンボ」の感想を簡単に述べるならば。
 今時の映画制作に於いては常識化しているのだろうが、「実写版」にしてその制作実態の程が物凄いものがある! 最新最高のテクノロジーを駆使して作られているのだろう。 特に主役“ダンボ”に関しては私は“作り物”と判定した。 
 ただ、この映画には付加価値があったと判断する。 実写版でしか味わえない登場人物像の描き方が素晴らしかった。  これに感涙しつつ、私は映画館を去った。


 次なる目的地は、映画館近くの回転寿司店だ。

 ここへは、今年の1月に年末年始休暇中の我が娘を引き連れ当該映画館にて「シュガーラッシュオンライン」観賞後に出かけた。
 その時に飲んだ「新潟清酒朝日山」の美味さ加減を、“飲兵衛で名高い”私が忘れるはずもなかった!
 さてさて回転寿司店舗へ出向くと、店内が空いているではないか!
 これ、実にラッキーだ。 と言うのも、女にして“1人飲み”とは目立ってしまう事実を自己分析出来ている故だ。 
 人知れず(?)「朝日山」のこぼれ酒を寿司やおつまみと共に3杯お替りした後、私は更なる目的地である花見会場へと出向く。


 これぞ、冒頭の写真である。
 
 映画に出向く徒歩道中より、自宅からさほど遠くない公園にて「桜まつり」が開催されている事実を把握していた。
 映画の帰りには、是非共ここに立ち寄ろうと欲していた私だ!
 何だか昔の郷愁が煽られる思いだ……
 我が郷里の神社等々の「祭」に子供心に心躍った光景がカムバックする。

 昨日は“花冷え”の寒さだったため、残念ながら人が少なかったが…

 もう少し活気づいていたならば、私もこの場を二次会として寒い中お花見を楽しめただろうに…。
 

「生前葬儀」だと!?それやりたい輩って単に“自意識過剰者”だよ

2019年03月28日 | 人間関係
 NHK連ドラ「まんぷく」が明後日にて最終回を迎える。


 ネット情報より、最終週のあらすじを以下に引用しよう。

 「まんぷくヌードル」がついに発売。 仲間たちから絶賛され、萬平さんと福ちゃんの苦労は報われたかと思われたが、売り上げが全然伸びない。 そこで萬平さんは新たな販路を開拓することを決断。 深夜勤務の業界で夜食の需要があると考え、タクシー会社や消防署、警備会社などに売り込むことに。 一方、福ちゃんも地道な営業活動を続け、わざわざ人が集まる場所でヌードルを食べてアピール。 そんな中、鈴さんが「お葬式を挙げたい」と言い出し…
 (以上、ドラマ「まんぷく」の最終週あらすじをネット引用したもの。)


 冒頭より、私見を述べるが。

 このドラマ、近年のNHKドラマとしては「傑作」だったと私は高評価している。 
 とにかく、ドラマの作りが綿密・精巧だった。 発明家(?)である主人公萬平が試行錯誤を重ねつつ様々な発明に取り組むストーリーだったが、その試行錯誤の過程が実に丁寧に描かれたと私は感じた。
 
 いつものこのドラマの“やり口”とは、若き女性主人公が何の努力もせずして突然成功していたり、特段何の魅力も無いのに急に相手役男性より「好きです!」と告白されたり…。  嘘臭いやらアホらしいやらで(人生そんな甘い訳ね~~~だろ!)と、ダレてばかりだったものだ。 


 順調な流れで高視聴率に恵まれ、とんとん拍子で最終週に突入した「まんぷく」だが。


 これ、どうしたんだ!?  と言いたくなるのが本日(3月28日)放映の、福子の母親の「生前葬儀」シーンだった。
 まあ私が推測するに。
 おそらく現時点に於いて芸能界で「大女優」の位置付け(?)にあろう母親役の松坂慶子氏に対する、NHKスタッフからの半年間の御礼を兼ねた演出だったのではなかろうか?
 ドラマ内で「皆さんに“ありがとう”のお礼を言いたいために生前葬儀をしたい!」と福子に嘆願した母親の願いが叶えられ、本日15分間のドラマはこれに終始した。

 私見だが、これが何ともつまらない。
 要するに、半年間を振り返る“総集編”的意味合いも重ねて、出演者たちをこの「生前葬儀」に出演させたのであろうが。
 (あまりにもつまらな過ぎて、私は途中からスマホで“ナンプレ”ゲームをやりつつの15分間視聴だった。)

 ドラマとは、本筋を最終回まで貫き通してこそ価値ある作品に仕上がるのではなかろうか?
 視聴者としては、本筋ストーリーを外れて制作者側の意図で勝手な“余興”を放映される事ほど興ざめな事は無い。
 NHKもよくぞまあ、ドラマ最終場面で墓穴を掘ったものだ。


 
 さて、話題を標題の「生前葬儀」に戻そう。

 原左都子の“死生観”に関しては、バックナンバーにても幾度か述べている。
 何分無宗教の私であることが前提だが。
 そんな私の「死生観」とは、“人間は生きていてこそ!” に尽きよう。

 芸能人を筆頭に、大袈裟な葬儀をやらかす人物は現在でも後を絶たないが。 
 それを本人が望んでいるのかどうかに関しては、測り知れない。 おそらく所属事務所の巨額利潤追求や宣伝効果等々の背景事情があることには間違いないであろう。 それに踊らされるファンが数多い事実も、その実行を後押ししている訳だが。


 我が死生観に話題を戻すと。

 まさに人間とは、“生きていてこそ”である。
 生きているうちに最善を尽くしたい!、と日頃から欲しつつ私は日々を過ごしている。(その割には努力が足りていない事実を常に反省し、自分の腑甲斐無さにも反省と共に心を痛める時も数多いが… )

 例えば元医学者である私が医療依存せず「予防医学」を貫いているのも、生きている時にこそ最善を尽くしたいからに他ならない。
 これを一旦医療に依存してしまうと(要するに他者医学関係者の見解を聞く機会があったなら)“迷い”が生じるのではないか、との不安感があるのも正直なところだ。 ここは、自分の判断(診断)を信じよう!との意気込みで、今まで事なきを得ているとも言えよう。


 葬儀に話題を移すならば。 
 
 私は家族(と言っても亭主と娘の二人だけだが)には、もしも私が一番先に死んだとして「直葬」でお願いしたい旨を以前より告げている。
 とにかく自分の死後まで家族に迷惑を掛けたくないのが本音だ。 形式のみの葬儀を施して時間や金銭面での要らぬ出費をするよりも、それを残された家族達が今後有意義に生きる糧として欲しいと、本心で家族に提案している。

 家族側(亭主だが)も、まさか「直葬」とは言わないが「家族葬」でいいと伝えてくれている。
 これぞ我が幸せと捉えている私にとっては…


 今現在、「生前葬儀」を実行する輩が実在するのか否かも不明だが。

 もし実在するとすれば、これぞその輩の“自意識過剰”あるいは“自己顕示欲”の深さを物語っている醜態であろう。
 天邪鬼の私など、アンタはそれ程までに生前に周囲親族や近親者に恩恵を与えられたと“勘違い”したんだね、と憐れむしか他に方策が取れない…


 それでもどうしても、「生前葬儀」を実行したい人種への提案だが。

 おそらく今現在この世を生きる人達は、原左都子同様にその“招待状”が届く事自体が迷惑であろうと判断する。
 その代替案として。
 本気で「ありがとう」を言いたい相手を自分の生前葬会場に集結させるのではなく。
 個別に誘って、旅行なり食事なりを自費で実行しその場で「ありがとう」を言えば済むのではなかろうか?
 それなれらば、この私もその誘いに乗ってもいいかも!?!

 ただし条件がある。 貴方自身が「要介護・要支援」ではない身ならばの限定話だ。 

 結論としては、自分の身が自分で満足に管理・維持不能な人種が「生前葬儀」を成したいなど、単に自意識過剰に過ぎず、招待される側としては迷惑でしかないことを自覚して欲しいものだ。
 

ブログの存在命題とは?

2019年03月27日 | 時事論評
 つい先程、当該gooが公開しているブログ記事 「リニューアル第2弾リリースのお知らせ 」のコメント欄に、上記表題と同一の意見書(コメントだが)を提出した。


 
 以下に、その本文全文を転載しよう。


   ブログの存在命題とは?  (原左都子)
        2019-03-27 09:08:11


 ブログの存在命題及び本質とは、“記事を綴り公開して皆様にお読み頂く事”こそにあろう。
 その意味では、ブロガー個々が公開しているブログ本体が充実していれば必要十分であり、「編集画面」とは記事の記述や公開がし易ければそれで役割を果たせているのではなかろうか?

「編集画面」のリニューアルというから一体何を施すのかと思いきや。 
 要するに「アクセス数」や「フォロアー」を増やすがために躍起になっているブロガーの手助けを、さらに強化せんとの魂胆のようだ。

 各論及び個別要望に入らせていただくが。

 上記皆様よりのコメント内にも記されているが、編集画面の上部に「コメント管理」を配置するのは私も勘弁して欲しい。 2011年にコメント欄を閉鎖後今後未来に渡り「コメント欄」閉鎖続行予定の私としても、個人的にこの項目は不必要であるし邪魔でしかない。

 更には公開されているブログ本体の充実こそを目指したい私としては、何故「テンプレート編集」が不能になったのかが理解し難い。
 個人的な事由だが、Facebook画像を随時テンプレート内Facebookコーナーに入れ替えている身として、この欄を「固定」されてしまう事態は許し難い。 (現在「桜」の映像を公開中だが、桜の季節が終われば映像を変更する予定でいた。 今後永遠に「桜」の映像固定では、我が恥を晒すのみだ。)

 今後共、一ブロガーとしてgooを末永く利用させて頂く予定でおりますので、上記に関し何卒ご善処の程よろしくお願い申し上げます。

  
        「原左都子エッセイ集」著者  原左都子

レオパレス21施工不備問題、犠牲となるのはいつも弱者…

2019年03月26日 | 時事論評
 (写真は、我が家から目と鼻の先にあるレオパレス21賃貸物件。 現在解体作業中。 背後や周辺に存在する建物は今回のエッセイとまったく無関係です。 にもかかわらず画面に映ってしまっている事実をあらかじめお詫び申し上げます。)


 このレオパレス賃貸物件が建設されたのは、我が“あやふやな記憶”によればたった3~5年程前のことだ。
 我が家の南面バルコニーより展望出来るこの地は、都道路計画に引っかかっている場所だ。(小池都知事になった後、まったく計画が進展しないが…。) 

 現在解体中のレオパレスは道路計画地ではなく、道路が完成した暁には道路の面前に位置する事となる地に存在する。 この計画道路が完成(その目途はまったく立っていない事だろうが…)した暁には、東京メトロ沿線駅から徒歩5分圏内となり、都心の賃貸物件としてはおそらく立地条件良好な物件であろう。


 実は私がこの物件こそが“レオパレス賃貸物件”である事を知ったのは、昨日のことだった。

 いつもフルート練習音楽スタジオへ通う道中に位置するのだが、そう言えばレオパレス施工不正問題が発覚した2,3カ月前より引越が相次いでいた。 (度々引越車が狭い公道に停車していて、フルートを背負った私がその公道を通り過ぎるのに難儀させられたものだ。)

 
 そして、1週間程前から「解体作業」が始まった。
 当時レオパレス物件とは露知らなかった私は、(どうしたのだろう、こんな立地条件の良い新しい物件を何故解体しているのだろう…)との不可思議感と共に。 (それにしても解体作業を一目するに、何とも安普請の建物だこと。 素人目にも建物構造が安っぽく、直ぐに壊せてしまうような物件だったのだなあ…。)

 昨日フルート練習帰りに解体作業が終了している物件をじっくり観察して判明したのが、「レオパレス21」物件だったとのいきさつだ。


 ここでネット情報より、「レオパレス21 オーナーでつくる被害者の会」が早期補償を求めているニュースの一部を引用しよう。

 レオパレス21 「オーナーでつくる被害者の会」早期補修求める 2019年3月20日
 賃貸不動産大手の「レオパレス21」の建物に施工不備が見つかった問題で、オーナーでつくる「被害者の会」が会見し、会社側に対し不備の調査と補修を合わせて行うなどして違法状態を速やかに改善するよう求めた。
 レオパレス21の建物では、天井の耐火性能が法律の基準を満たさないなどの施工不備が相次いで見つかっていて、特に危険性の高い641棟に住むおよそ7700人が退去を迫られる事態となっている。
 会社側が18日、当時の社長だった創業者の指示のもと、設計図と異なる材料を使う方向性が示されたなどとする外部の調査員会の中間報告を公表したのに続き、20日はオーナーでつくる「レオパレス違法建築被害者の会」が会見を開いた。
 この中で被害者の会は、会社が行っている不備の調査に工事担当者を立ち会わせ、その場で補修を行うなどして違法状態を速やかに改善するよう求めた。また会見では、過去に不備が見つかり会社側が「補修した」としていた建物でも、不備が直っていなかったケースがあることがことし2月の調査で分かったと明らかにした。
 被害者の会の前田和彦会長は「入居者の方には申し訳ない思いで、1日も早く違法建築を解消してほしい。オーナーには修繕に立ち会うなど納得するまで確認してほしい」と話していた。
 レオパレスのビジネスモデルは。 レオパレス21は建物の所有者からアパートなどの賃貸住宅を一括して借り上げ、入居者にまた貸しする「サブリース」の大手。 相続税の対策などで土地の有効活用を望む地主らに対して、アパートの建築を提案し、建築工事も請け負う。 アパートを建築したあとは建物を一括してオーナーから借り上げ、入居者の募集を始めとする賃貸管理も行っている。
 会社側は入居者から家賃を集め、空室があるなしにかかわらず、建物のオーナーに対してあらかじめ決めた賃料を一定期間支払うため、オーナーにとっては安定した収入が見込めるというメリットがある。しかし、相次ぐ施工の不備で会社のイメージがダウンしアパートに入居する人が少なくなれば、会社から保証されている賃料がいずれは減額されるのではないかと不安を抱えているオーナーもいる。
 会社によるとオーナーの数は全国でおよそ2万7000人、3万6700棟の建物を管理しているという事だ。
 (以上、ネット情報より一部を引用したもの。)


 一旦、私事に入るが。

 (何度も公開して恐縮だが)この私も30歳独身時にマンション物件を単独購入し、その後独身のうちに自力経済力にてローン完済したマンション物件を、婚姻後20年間に渡り賃貸物件として運用した実績がある。
 そんな私も、結果としては“悪質入居者”に遭遇してしまい多額損失計上させられた後、2014年にオーナーチェンジ物件として売却せざるを得なかったとの失態を経験している。
 それでも我が経済面での人生プランに於いて、ちょうど売り時だったとも考察できよう。(この賃貸物件売却資金は、必ずや我が老後の資本として確保出来ている。 これがあるお陰で私は今後独り身となっても野垂れ死ぬことはないだろう。) 


 心配なのは上記レオパレス21物件に関し、レオパレス側から「相続税の対策などで土地の有効活用を望む地主らに対して、アパートの建築を提案し建築工事も請け負う。」との名目で“実質騙されてしまった”零細賃貸オーナー氏達の存在だ。
 これに関しては、過疎地の事例をテレビ報道でも見聞したが…。
 これが大都会の土地ならばいざ知らず、何故過疎地の土地がアパート建築で末永く有効活用と判断してしまったのだろう?


 ただこの問題、レオパレス21側に元々大いなる経営瑕疵があった事実が明白だ!

 ここは「レオパレスオーナーでつくる被害者の会」の早期補償が勝訴することを、私も願っている。