原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「チルドレン」より「世襲」がマシな場合もあるかも。

2012年11月29日 | 時事論評
 何故、政界各党派は選挙立候補者を擁立するに際して、立候補者個々人の政治家としての能力・資質を第一義とした上で、その要件を満たしているか否かの程が見抜けないのか? 

 それは、現在の国政・地方行政を問わず一旦選挙戦に突入した場合、「選挙」制度に依存せざるを得ないからに他ならないのであろう。 とにかく国民あるいは市民から票をもらい受ける事にのみ専念しているのが、現在の「投票制度」の最大弱点であろうと私は把握している。
 要するに如何にして票を稼ぐか、「誰」が投票数を稼げるかのみが、各党や派閥の関心事でしかないのだ。
 そのため選挙直前には何処の政党も党首自らの政策公約がぶっ飛んでしまったかのような、選挙民から見ると各党共に奇異な理解不能行動に出るものだ。 それ故、数だけ集めた各党立候補者の政治家としての能力・資質など二の次以下の位置付けとならざるを得ないのであろう。


 いやはや、ここのところの“第三局”とやらの新党合流二分化茶番劇には辟易とさせられる。
 これら新党の政治ポリシーって一体何だったの?? と、国民の皆さん呆れておられることであろう。  何とか自民・民主二大政党の間に割り込んで上位に食い込みたいがばかりの「安直票取り作戦」にはアホらしくてものが言えない私だ。

 まずは、橋下徹氏率いる「日本維新の会」と石原慎太郎氏の「太陽の党」合流茶番劇に関して私論を述べよう。
 原左都子個人的には元々騒がしい奴らが大嫌いだが、橋下さんに石原さん、この自我の強い“お騒がせ”連中が仲良くしようったって、端から見ていても所詮無理に決まっている。 橋下さんも一旦合流を断ろうと決断したならばそれを貫けばいいものを、何で最終的には石原さんに丸め込まれる選択をしたの?? 相手は都民や国民の前で怒って吠えてばかりいる80の爺さんだよ。 この人とつるんで、この国のどんな明るい未来を描けると志したの? 今回の選挙直前合流右往左往行動一つ取り上げても、橋下さんの信用度が大幅に下落したというものだ。

 そうしたところ、やはり、同様の見解が巷に溢れている。 その中で、先程見聞したネット情報を以下にかいつまんで紹介しよう。
 「衆院選は300選挙区に候補者を擁立する」と豪語しながら、最終的には半分の150人規模しか立てられそうにない「維新の会」。 さすがに“お膝元”の大阪ではある程度の立候補者擁立力はあるようだが、深刻なのは大阪以外。 近畿圏でも当選確実なのがいない。北海道や東北は維新への期待がほとんどなく壊滅状態。 東京は石原前都知事の応援があるが無名の候補者が多く、勝負になるのは山田宏前杉並区長ぐらい。 (ここで一旦原左都子の私論だが、元杉並区長の山田氏が本当に勝負駒になり得るの?? だいたいこの人物が橋下氏や石原氏の“手下チルドレン”に成り下がっていたことに驚くというものだ。)
 維新の会は公募などで集めた100人以上の新人を出馬させるが、接戦に持ち込めそうなのはほんのわずかの予想。 (再び原左都子の私論だが、今後新たに政権を握ろうと志す新政党が何故訳の分からんチルドレン擁立などとの既に陳腐化した方策を打ちたているのかに関して不思議でさえある。)
 マスコミは橋下氏率いる維新の会に関して騒いでいるが、単なる大阪の“地方政党”で終わりそうな情勢だ。
 (以上、ネット情報より一部を要約引用)


 さらには、脱原発を掲げる“第3極”勢力の糾合を目指す「 日本 ( にっぽん ) 未来の党」の突然の結党劇は、国民に波紋を広げた様子だ。

 実は原左都子は、上記「日本未来党」の党首であられる嘉田 ( かだ ) 由紀子氏なる人物をさほど認識していなかった。 この方、滋賀県知事としてはある程度の実績を上げておられるようだが、それにしても、嘉田氏を取り巻く熱の高まりとは裏腹に、滋賀県議会からは知事と党首の兼務を疑問視する声が上がっている様子でもある。
 一夜にして女性知事である嘉田氏を第三極の“シンデレラ”に仕立て上げた陰の立役者である「国民の生活が第一」の小沢一郎代表。 それを受けて小沢氏率いる「生活党」内でも、未来の党への合流に戸惑いが生じているとの報道だ。
 結局はこの嘉田氏も、小沢氏の「手下チルドレン」との運命を享受させられたことに他ならないであろう。


 そんな中、“第三局”勢力への迎合を拒否し続けている「世襲」議員も存在する。
 それは「みんなの党」代表の渡辺善美氏であるが、原左都子の認識ではこの人物のみが現在自らが立ち上げた党の政治理念を貫いているのではないかと感じるのだ。
 「みんなの党」にはあくまでも自らの政党政策を全面に打ち出して、他の“第三局”弱政党などと合流することなく選挙戦を勝ち続けて欲しいものだ。 
 (かと言って、原左都子が何処の政党に投票するかは未だ未知数なのだが。)


 民主党では、「世襲」議員を壊滅するべく動いている様子だ。
 その気力は重々評価するとして、民主党が3年前に劇的政権交代のために小沢氏が用いた「チルドレン(ガールズ)」方策こそが、今後に及んで原左都子としては受け入れ難い思いだ。
 一般選挙民を“馬鹿国民”と認識したこの「チルドレン」擁立は、考えようによっては「世襲」よりも悪質であり、是非共全党派共に控えて欲しいものである。
 参考のため、本日告示された東京都知事選においては、訳の分からん「チルドレン」やタレント議員の立候補がなかったことだけは評価できよう。
 
 能力の程が計り知れない未熟な「チルドレン」よりも、時には「世襲」議員の方が底力があるのかと思えたりもする。
 何はともあれ、何処の世界も個人差能力が激しいのが現実ですけどね……

紅葉と光のショーのシンフォニー

2012年11月26日 | 旅行・グルメ
 (写真は、房総半島 養老渓谷の紅葉を背景に立つ原左都子。 2012.11.24撮影)

 前回の「原左都子エッセイ集」に於いて、南米アルゼンチンへの渡航予告をしたばかりである。

 引き続き“旅行記カテゴリー”エッセイの公開と相成るが、今回は一転して我が国の晩秋風景に話を移そう。

 都会暮らしの私がたまには娘と共に大自然に触れ晩秋の紅葉を堪能したいと志したのは、1ヶ月程前にバスツアー関連新聞折込チラシを見たのがきっかけだった。

 今回何故上記バスツアー参加を志したかの最大の理由とは、朝に弱い私にとって出発時間が午前11時頃と遅めの設定だったからに他ならない。
 しかも団体行動が大の苦手の原左都子にとって、この種のバスツアーに於いて見知らぬ人々と食事のテーブルを相席にされる事など到底我慢ならない。  (いえいえそうではあるものの、配慮心旺盛な私としてはこういう場面に際してあれやこれやと頭を回転させて、差し障りのない会話を提供しようと努力するタイプだ。 ところが人間関係が希薄化した現在においては、そのような配慮さえ鬱陶しがられてしまうのが現実だ。) 
 そうしたところ、今回のバスツアーは車内で弁当の昼飯、夕飯は自由との条件が大いに気に入って私は参加を決定した。

 さてさて、バス乗り場からバスに乗車する段になるとあらかじめ座席が決定されている。
 何と幸運な事に、我々親子には運転手氏直後右側最前列の座席が用意されているではないか!  これはラッキーと喜ぶと同時に、客観力のある私としては他のツアー客から羨望視線を投げ掛けられそうな窮屈感も抱く… 
 おそらくツアー会社の座席決定方式とは「申し込み順」であろうと推測するのだが、もしもそうであるならば、その旨を全顧客に明示して欲しいものだ。
 そう言いながらも、車内の中央後部では団体客が盛り上がって賑やかだったことを省みれば、最前列で正解だったと振り返る。


 いよいよ旅行記本番の記述に移ろう。

 今回のバス旅行は、房総半島に位置する千葉県の養老渓谷、粟又の滝、亀山湖、そして東京ドイツ村を巡る日帰りツアーだった。
 原左都子にとっては紅葉を観賞する目的で(日帰りではあったが)旅に出る事など、おそらく何十年ぶりの事である。 その種の旅行経験が一切ない都会暮らしの娘に晩秋の紅葉を見せたい思いも強かった。
 娘もそんな親心に同感してくれ、今回房総半島へと旅立つことと相成った。

 最初に到着した養老渓谷では、前日まで降り続いていた雨の影響で地面が泥と化していて滑りやすいため十分な注意を、とのツアーコンダクター氏の提言だった。 
 3連休中日のため大混雑状態の養老渓谷歩道を観光客の流れに沿って進んでいくと、確かに地面のぬかるみが激しい!  しかもこの観光歩道には、川の渓流内に敷き詰められた石畳を貫かねばならない箇所もあるのだ!! これを通り過ぎるのが実に難儀だ。 何分石畳上が泥状態に加えて人、人、人の大渋滞である。 写真撮影をしたい思いなど吹き飛び、我が身が川の渓流に流されないことのみに集中して、何らの紅葉観賞など出来やしない有様だ。
 (皆さん、房総半島の養老渓谷を訪れる場合、連休は避けて平日にゆらりと観賞されることを是非共オススメします。)

 粟又の滝も同様、写真を2,3枚撮影するのが精一杯の混雑ぶりだ。
 しかも道路渋滞も相俟って次なる訪問地の 亀山湖 観光は旅程よりカットされ、観賞出来ず終いである… 
 これは法的に言うと契約不履行であるはずなのに、ツアーコンダクター氏よりそれに関する何らの説明もなかった事に異議を唱えたい思いの私だが…。 (今後如何に対応するつもりですか、㈱クラブツーリズムさん???)

 そして最後に訪ねた「東京ドイツ村」に関しては、私は全く予備知識がなかった。
 旅行申し込み時のパンフレットで一見するに、特に晩秋や冬の季節には夜の光のイルミネーションを売りにしている様子だ。
 確かにイルミネーションも美しいだろうと期待してバスツアーで訪ねた「東京ドイツ村」ではあるが、ここも3連休の影響か観光客でゲロ混み状態だ… 
 正直言って、光のイルミネーションなど我々親子にとってはあちこちで見飽きているという事だったかもしれない。 
 しかもお土産店に関してはある程度充実しているものの、落ち着いて食事ができそうなレストラン類が一切ないことには難儀させられた。 要するに屋台形式の食べ物屋しかないのが当地の特徴と言えよう。
 後にパンフレットを一覧して私が思うには、「東京ドイツ村」とは四季を通じて“花畑”が美しいようだ。 その時期の昼間にこそ今一度訪れてみたい思いはある。
 要するに、一旦東京湾を渡ってアクアラインを超えたならば、そこは地方自治体の収入源として娯楽施設が林立し、この経済難の時代背景を潜り抜けて都心部よりの観光客誘致のためにやっとこさ頑張っているとの図式なのであろう。
 それを十分に感じ取った私は、せいぜい千葉県産やドイツ村で取り扱っているヨーロッパ地方直輸入のお土産を精一杯買い求めたとの事だ。


 バスツアー帰り道で通るお台場地域から垣間見た東京ベイの展望イルミネーションが、何とも素晴らしい。
 我が娘に「千葉のドイツ村より、こっちの光のイルミネーションの方がよっぽど美しいと私は思うのだけど…」と語りかけたところ、我が娘より同感の反応があった。
 娘曰く、「東京ドイツ村のイルミネーションはカラフル過ぎでドギツイと思ったけど、お台場の風景は“オレンジ”と“緑”と“白”で統一されていて洗練している」
 さすが、元々美術家志望だった娘らしいコメントと私は評価した。

 最後に原左都子の見解を述べよう。

 私にとっても、観光目的で展開されている人為的な“奇をてらった陳腐な”光のショーよりも、帰り道で一見したお台場のイルミネーションの方が価値が高いと感じたのだ。
 もちろん東京のお台場とて人為的に埋め立てられ、そこに人が集合している地域であることには変わりない。
 ところがたとえ人為的であれ一旦人が生息し生業を展開した地とは、必ずや人の生命が宿り血が通う地域と化している事を私はその光により匂い嗅ぐのである。
 
 そんな意味で、予定時間を大幅にオーバーしたものの、バスツアーに参加したことにより現在の我が故郷である東京の体温が感じられる一風景を垣間見れた事に、何だか安堵する思いであった。 

南米 アルゼンチン への誘(いざな)い

2012年11月23日 | 旅行・グルメ
 昨夜遅くパソコンを開きメールチェックをした私は少なからず驚いた。
 ここのところしばらくお会いしていなかった知人より、南米アルゼンチンへの旅行のお誘いメールが届いていたためだ。

 
 猛暑をくぐり抜け、今秋はまだ残暑厳しい頃より我がランニング趣味の延長として9月と11月に陸上競技会やロードレースにエントリーし、その本番出場に向けてランニング練習に没頭して過ごしたとも言える。 
 競技会本番を終え、足腰の痛みや体の疲れを感じつつ気が付けば時は晩秋である。
 本日の東京の最高気温は10℃! ランニングに明け暮れる日々を熱く過ごしていた私は、まさに真冬の寒さが押し寄せる季節となっている事に気付かされつつも、昨今の異常気象の激しさの程に呆れざるを得ない日々である。

 そうしたところ舞い込んで来たのが冒頭の“南米アルゼンチンへの旅行誘(いざな)い”メールであった。
 老体にムチ打ってロードレースなどに出場し実力以上に頑張り過ぎた我が体を労わりつつ、今年は静かに年末を迎えようかと志す反面、実は我が内面にはそろそろ郷里ではない場所へ旅に出たい欲求も目覚め始めていた…

 それにしても、その行き先が地球の反対側のアルゼンチン!?!  これはどう考慮しても想定外だ。
 ちょうど風呂から出てきた娘に、「お母さんにアルゼンチン行きのお誘いメールが着信してるのだけど…」と声をかけたところ、 ギョエー!!と驚かんばかりに娘曰く、「それはナイゼンチン!!」  (日頃から反対語表現を好む娘だが、その種のユーモアセンスも育っている事に感心しつつも親の立場としてどう対処するべきか……)


 その後、何事であれ自らが取るべき行動に関して自分なりに十分検証をした上で実行したいと志している私は、早速ネット検索手段でアルゼンチン情報を得ることに専念した。
 何分、海外旅行歴は少なくないものの、地球の反対側に位置する南米最南端のアルゼンチンを訪ねるのは今回が初めてである。(だからこそ、お誘いに乗りたい思いが山々でもあるのだが…)

 
 そこで検索したアルゼンチン情報を、今後南米地方への旅行を企てておられる方々の参考の一助の意味も兼ねて、以下に少しだけ紹介しよう。

 正式名称は「アルゼンチン共和国」。 
 国旗デザインの爽やかな美しさは小中学生の頃から我が脳裏に刻まれているが、ライトブルーと白の横ストライプは空と海を表現しているらしい。 その中央に描かれている人の顔にも見える太陽は、スペインからの独立を表す自由のシンボルとのことだ。
 人口は約4000万人。  面積は日本の約7,5倍。 その面積の広さによりアルゼンチン国内でも時差が存在するようだが、日本との標準的時差は12時間。 まさに日本から見て地球の反対側に位置する国家所以である。(アルゼンチン国内にはサマータイム制が導入されているとのことで、国内での時間差が存在するらしいが。)
 歴史的背景として以前はスペイン領だったこともあろうが、民族の大半がスペイン系、イタリア系であるとのことだ。 そのため、国民が崇拝する宗教も92%がローマカトリック系との様子も理解可能だ。

 首都はブエノス・アイレス。  今回、この地を私は訪れることとなるようだ。
 そこでさらに首都ブエノスアイレスに特化した情報を検索してみたところ、「南米のパリ」とも表現されるべく南米の中では最も美しい街として名高いとのことだ。
 20代前半の頃(今から30年数年前に遡るが)フランスパリに訪れた経験がある私だが、年末年始の休みを利用して旅行したため当時のパリは実に寒かった。  これに比して、“南米のパリ”ブエノスアイレスは地球の南半球に位置していることが幸いして、現在「夏」状態である。 我がネット検索によれば「夏」とは言えども、日本のような高温多湿ではなく爽やかな暑さのようで絶好の観光季節と言えそうだ。 

 ただし、アルゼンチン国内を始めとする南米内陸各国と首都ブエノスアイレスとの政治経済格差が大き過ぎるため、しばしば内乱が勃発しているとの情報もある。 (そんな国内政治情勢を垣間見るには旅行日程に制限があって、短期旅行者には到底無理であろう。 現地で苦しむ人達には、いつも“いい所取り”の旅行ばかりして申し訳ない思いでもあるが…)


 日本から見てまさに地球の反対側に位置するアルゼンチンなる国を訪れる機会は、年齢的体力的にも還暦を迎えつつある原左都子にとってこれが最後の機会と心得る。
 (何せ、日本からの国際便移動が26時間以上も要する米国空港経由便に依存している現実である。 南米に旅する場合、時差及び行き帰りの空輸旅程こそに覚悟を決めるべきであろう。)

 それでも知人よりの突然のお誘いを、まさに“神の思し召し”同等に貴重なチャンスを頂いたものと解釈して、私は12月中旬に南米アルゼンチンに旅立つ予定でおります。

贈り物の極意

2012年11月21日 | 人間関係
 昨夕、我が郷里の母より宅配便が届いた。
 30数年前に上京後、ほぼ1ヶ月に一回のペースで続いているこの“親心定期宅配便”は私が家庭を持って以降も途絶えることなく、孫(我が娘)の誕生以降はむしろその回数を増やしつつ続行している。

 正直言って、「こんなもの要らないのに…」なる内容物も数多い。
 娘のために送ってくれるお菓子類等がその筆頭だが、何分子どもとて好みがあるのに加え、わざわざ郷里より高い宅配料を支払って送って来ずとて都会で十分手に入る類のものを平気で送りつけてくる。
 あるいは採れ立て新鮮野菜などはうれしいのだが、「うちは馬でも飼ってるのか?!?」と思わんばかりの大量を届けられても大困惑だし… 
 それから、夏場に腐りやすい食品を手作りして送って来るのにも難儀する。 まさか「美味しかったよ」とはどうしても言えず、腐敗していたことを正直に伝えて「宅配物とは輸送中高温状態に放置されることを考慮して、送る季節を考えてよ」と指導した経験もある。 「分かった」と答えたはずなのに、“親心”の愚かさ、切なさと表現するべきか、同じ失敗を何度も繰り返してくれる事実には閉口させられる。

 もっと許し難いのは、母が「今は宅配業者が自宅まで集荷に来てくれるから助かるが、もう年老いた身としては宅配物の梱包をするのが疲れる」と、私相手に平気でのたまう事だ。
 売り言葉に買い言葉で、「こっちだっていつも要らないもの送りつけられて迷惑してんだから、今後一切宅配物を送りつけて来るな!!」と、捨てゼリフを吐きたい思いが山々なれど、親不孝者で名高い(?)原左都子ですら (これを言っちゃ最後…) との感覚だけは持ち合わせている。
 「もう高齢なんだから、そんなに無理して宅配を送って来なくてもいいよ」などと、私らしくもなく精一杯配慮した言葉で母をねぎらってやっているつもりだ。

 なんだかんだ言いつつ、親子間での「贈り物」とは“親子の愛情”表現の一産物であり、梱包されている内容の如何にかかわらず、お互いの無事と平穏を確認し合うまたとはない機会なのであろう。
 母親が高齢になるにつれ、その思いが強まるのは確かだ。 月に一度の宅配が郷里から届く事が、私にとっては母が元気に気丈に生きているサインでもある。
       


 話題が変わるが、時は「お歳暮」との我が国特有文化である“贈り物”による時候の挨拶の季節となっている。

 原左都子は誰から指示された訳でもなく、夏のご挨拶である「お中元」も含めて、日頃お世話になっている(と私が判断申し上げる)方々に年に2度“贈り物”を届ける習慣がある。 (この我が習慣とは、もしかしたら母が定期的に宅配物を届けてくれる現象と相関があるのかもしれない。) 
 日頃のご恩を何らかの形で表出したいと思いつつ、直接お会いしてご挨拶する機会もなくご無沙汰続きだったり、あるいは年賀状等の文筆手段よりももう少し顕在的な形態にしたご挨拶をするべきと判断した場合に、私は日本特有であろう「お中元」「お歳暮」慣習を有効利用しているという事だ。

 実は、この“贈り物”の商品選択にいつも難儀している。

 当初はとりあえず、私自身が貰って嬉しいものを贈る事とした。
 その筆頭が「酒類」(スミマセン、底なし飲兵衛なもので…)だったのだが、贈り先の正直な方から「下戸です…」との返答を頂いた時には、“真っ青”状態だった。 だが、それを正直に言って頂いて原左都子としては後々大いなる勉強となった。
 次に考慮したのがやはり私が好む「著名ホテルの保存食品」だったのだが、これを郷里の親戚にクール便で贈ったところ、母から「奥さんは喜んだようだが、ダンナが嫌いだったようだよ」との情報を得て、反省しきりである。 
 万人の好みが異なることは重々想像できてはいるが、“贈り物”とはその選択が困難であることを再認識だ…。

 それでも私自身の結論としては、やはり私が贈ってもらってうれしい事を第一義として、その中で概して一般に受け入れられそうな商品を贈呈すれば、もしもご本人が好まずとてご家族内で何とか消費可能でないかと志している。


 少し古くなるが、朝日新聞11月3日別刷「be」“RANKING”のテーマは 「もらってうれしいお歳暮」 だった。

 早速、朝日新聞記事のランキングを 10位まで紹介しよう。
     1位   商品券
     2位   ハム・ソーセージ・肉類
     3位   海鮮類
     4位   酒類
     5位   フルーツ・果物類
     6位   カタログギフト
     7位   ビール券など特定のギフト券
     8位   洋菓子
     9位   コーヒー・お茶
    10位   チーズ・乳製品
  (以下、朝日新聞のランキングは20位まで続くのだが…)


 最後に、原左都子の私論に入ろう。

 正直言って、上記ランキング内の“贈り物”に関して貰う立場であるならば、私はすべて 「要らない」 と判断させていただきたい思いである。
 と言うのが、そのすべてを「歳暮」も含めあらゆる“贈り物”として現在までに頂いた経験がある故だ。

 まず、食品類は勘弁して欲しい思いである。 
 2位に位置づけているハム類など、私に言わせてもらうと贈答品は塩辛くて“まずい”ことこの上ない。 3位の海鮮類も同様だ。 5位のフルーツ類に関しては、元々私の好物ではない。 9位のコーヒー・お茶に関しては、美味しい場合は試飲することもある程度だ。 10位のチーズ等に関しては頂いた経験がない。
 その中で、4位の酒類に関しては飲兵衛の私としては一応歓迎するものの、“真正飲兵衛”とは日々飲む酒にはとことんこだわりがあるものである。 ただし、私の想像では“似非飲兵衛氏”にとっては酒類の贈り物(地元産等珍しい酒が贈られるであろうから)はうれしいのではなかろうか?
 9位の洋菓子に関しては私も貰って嬉しい故に、贈る立場としてもこれを志向している。 ただ、食べ終わった後の箱や缶等のゴミ分別作業が鬱陶しい限りであることを贈答業者は考慮して、今後はエコ観点に立つべきではなかろうか。

 1位の商品券、及び7位のビール券等に関しては受け取った側の思いが分からなくはないが、原左都子にとってはこれも鬱陶しい。
 「商品券」の場合、その使用店舗が限定されていることが常である。 指定の店舗を訪れない限り使用不能なため、この「商品券」が使用可能な店舗にわざわざ出向く気がせず、我が家では“タンスの肥やし”状態だ。
 7位のビール券に関しても同様だ。 もしかしたら地方ではこれが容易に使えるのだろうか? 都会の店舗ではビール券使用を拒否している店舗(スーパー、ディスカウント店等)が数多く、使用できないままこれも“タンスの肥やし”状態である。


 「贈り物の極意」と題して綴ってきた今回の我がエッセイである。

 その結論を述べるならば、第一の極意として、“贈られた側”こそが何を頂いたとしてもまずは贈り主が“贈り物”をしてくれたその事自体に思いを馳せるべきであろう。

 それは“贈り物”をする方も同様である。
 政府及び産業界等各界ではその癒着が叩かれ、一般市民間に於いても人間関係が希薄化している今の時代背景に於いて、安易に“物を贈る”という事自体が迷惑行為ではないかと振り返る事こそが、今の時代 最高の極意 かもしれないと原左都子は示唆するのだが…

大学乱立にトドメをかけた田中大臣を評価する!

2012年11月19日 | 時事論評
 現在“風前の灯”状態の民主党政権最後の内閣文科省大臣に任命されている 田中真紀子氏 が、11月上旬に突発的に発表した 「大学新設不認可」 を巡って世が混乱した事件をご記憶の方は多いであろう。
 その後の文科省の「不認可撤回」により、本日現在、当該3大学は推薦入学試験対応に漕ぎ付けている様子だが…。


 冒頭から原左都子の私見を述べよう。

 (あくまでも、上記新設予定3大学が如何なる事由により認可基準を満たしていなかったのかに関して、その内容の詳細を調査検討していない発言である事を事前にお詫びしておくが)、 “よくぞ真紀子さん、「不認可」決定を下したものだ!” と当初、田中大臣の“自暴自棄の勢い”に拍手を送りたい思いの私だった。

 と言うのも、現在大学を取り巻く環境の不確実性の程が甚だしい現状だ。
 大学志願者及び入学者の急増と平行して「乱立」を続けてきた我が国の大学設立状況だが、国内経済危機に伴う景気後退、及び少子化現象を受けて、大幅な「定員割れ」を起こす底辺大学が次々と経営破綻に追い込まれる現実を筆頭に、多くの大学において質の低下が留まる事のない現在の大学内部事情である。

 上記のごとく、田中真紀子大臣による「3大学不認可」擁護私論を我が内面に秘めていたところ、やはり同類の見解は国内に存在するようだ。

 朝日新聞11月9日付 「大学乱立? まだ必要?」 と題する記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
 「大学の乱立を止めて質を確保し、時代の要請に合った卒業生を生み出すために舵を切らねばならない」。 11月7日の衆院文科省委員会に於いて、田中大臣は3大学の申請を認可しなかった理由を追及される中、上記の通り自らの主張を繰り返したとのことだ。
 91年に大学設立基準が見直され、さらに小泉内閣時の規制緩和の流れを受け03年度の大学設置の「抑制方針」を撤廃したことが、現在の大学乱立に繋がってしまったようだ。
 大学を運営する側の事情としては、「短大の大学化」現象や専門学校の“箔付け”目的で大学を新設したり、はたまた地方からの若者流出を防ぐため自治体の支援を受けて大学を設立する等のケースが増殖した様子である。
 そうしたところ、少子化と競争激化の狭間で定員割れに悩む大学が増産される結果となり、その対策として「社会人学生」を積極的に取り入れたり、土地が安い地方に移転した私学は変わった学部をアピールする等苦戦を強いられている状況だ。
 ただ、OECD加盟国の中では日本の大学進学率は未だ低く、現状では大学数の抑制に慎重な意見もあり、今回田中文科相大臣が大学のあり方を見直すとした事に関して「本質的な部分を突いている」との指摘も存在するようだ。
 見識者曰く、「世界では規制緩和の流れだが、日本には向かないかもしれない。」とも付け加えているとのことだが…。
 (以上、朝日新聞記事より要約引用)
 

 そうした日本国内の大学が於かれている特殊事情も受けて、現在“風前の灯”状態ではあるものの、民主党政権閣僚である田中文科相は、大学設置に向けた現在の審査体制を問題視し、“基準厳格化”に向けて「有識者会議」で検討に入っている様子でもある。


 本日昼のNHKニュースによると、田中文科相により一旦「不認可」決定と相成った3大学に於いて、国よりの再認可措置により期日が遅れたものの「推薦入学試験」に向けて動き出した模様である。

 そのニュース影像を原左都子が垣間見たところによると、3大学共に結構立派な学舎を建造している様子だ。
 大学(及び大学院)へは理系・文系そして大学院と何度も真面目に通った私であるが、古き時代であるのに加え、すべてが国公立だったためか、こんな立派な学舎で学んだ経験は皆無である。
 今回一旦「不認可決定」が下された3大学とはすべてが地方の大学と心得るが、私立公立を問わず今時の新設大学とはこの経済難にもかかわらず、こんなに立派な学舎を建設可能な事に少なからず驚かされる思いだ。  この学舎を一見した高校生達がこの大学で学んでみたいと思う現実が理解できる気もする。

 その中で、原左都子が一番気になるのが 「秋田公立美術大学」 だ。
 私は秋田を訪れたことは一度もないのだが、3、4年前に我がエッセイ集読者の方から、秋田とは芸術を尊重し美術館等の設備が整っている県であるとのメッセージを頂戴したことはある。
 それにしても、大変失礼ながら秋田県の自治体としての財政面での収支状況は如何なるものなのだろう??
 いや、地方都市に於ける公立大学設立の成功例を見聞した事もなきにしもあらずだ。 山梨県内に位置する歴史が古い“某公立大学”では、その大学を中心とした市政が成功していることも承知している。 (ところが、この公立大学の学費の高さは私立並みであることを、私は数十年前より承知しているぞ。


 最後に私論でまとめよう。
 
 小中高、大学の如何にかかわらず、「学校法人」とは「営利法人」である民間企業等とは異なり、法的には「財団法人」の位置付けにある。  主に私立学校の設置を目的として設立される法人であるが、その公益性が認められ国や自治体より多額の資金援助を得て成り立っている法人である。
 要するに国民や市民の税金が「学校法人」に多額に投入されていることを、庶民は今一度認識するべきなのだ。

 国内の政治経済危機により国家が財政難にあえいでいる現状において、国家や自治体の財源を食い潰す対象である「学校法人」の合理的存在意義を、文科省大臣たる者が的確に見抜いていかねばならないのは当然の事である。

 そういう意味では、ウダウダと煮え切らないまま衆院を解散し“落日”に至った野田政権内の最後の文科省大臣として、重要論点の一つである「大学乱立」にトドメをさすことを明示し、各界及び国民に問題意識を明確に投げ掛けた田中真紀子大臣を大いに評価したい原左都子である。