原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「赤プリ」 の落日

2010年04月29日 | 時事論評
 一昨年のリーマンショック以来、我が国の経済界においても大手企業や老舗デパート等が経営難にあえぐ姿の報道を見聞することが日々珍しくもない現実である。
 その種の報道に日々接している国民の一人である原左都子も、このニュースには驚かされた。
  
 大都会東京の一等地赤坂紀尾井町に煌びやかな存在を誇っていたあの 「赤プリ」 が、来年3月末に閉館するのだという。


 「赤プリ」こと、赤坂プリンスホテル(2007年4月より「グランドプリンスホテル赤坂」に改名)がバブル時代にトレンディスポットとして脚光を浴びたのは、1983年に建築家 丹下健三氏設計による40階建ての超高層新館が誕生して以降のことである。

 当時、まさに花の独身貴族真っ盛りだった私もこの「赤プリ」には何度か訪れている。

 私が「赤プリ」を一番最初に訪れたのは、新館誕生後間もない1984年のことである。
 当時、医学(免疫学)の仕事に従事していた私は、「赤プリ」の直ぐ近くに位置する 日本都市センター に於いて開催された「日本臨床免疫学会総会」に出席した。 その際の昼食、夕食、休憩場所として「赤プリ」を利用したのが事の始めだった。 丹下健三氏の設計による新館のゆったりとした寛ぎの空間に一歩足を踏み入れ、広々とした大理石のロビーに置かれている椅子に腰掛けただけでも心が癒される思いだったものである。

 その後、我がデートスポットとして、新館最上階の(紫が基調色だったような記憶がある)バー「トップオブアカサカ」や、別館旧館のバー「ナポレオン」や仏蘭西料理レストラン「トリアノン」も何度か利用している。

 当時の若かりし私としては丹下健三氏設計による煌びやかな新館が断然好みだったのだが、“通”にとっては旧館こそが「赤坂プリンスホテル」の真骨頂だと主張する彼氏等の好みに合わせて、旧館にも足を運んだものだ。

 30代後半の独身時代最後の頃に知人と新館の「トップオブアカサカ」を訪れて以降、「赤プリ」とは疎遠となっている。
 数年前に我が子を連れて赤坂近辺の美術館を訪れた際に、「赤プリ」が間近に展望できる食事処で昼食を取った。 その際に “このホテルは昔から「赤プリ」と呼ばれているんだけど、この母にとっては色々と思い出深い場所なのよ…” などと独り言のごとく我が子に語ったのが「赤プリ」とのかかわりの最後である。


 今回の「赤プリ」閉館に関する報道によると、閉館の理由は新館の老朽化であるそうだ。
 老朽化と言えども、新館は1983年の建設だからまだ開館後27年…。 超高層ビルがそれ程に短命であるとは到底思えないのだが、この新館を取り崩す方針とのことは、要するに今後の維持管理のメンテナンスに莫大な資金投入を要するからそれを回避した方が得策との理由によるのであろうか? 
 どうやら都心一等地におけるホテル業界の競争が激化している昨今であるし、「赤プリ」の経営が芳しくない現状を考慮した場合、いっそ取り崩して新たな跡地利用計画を展開しようとの意図のようである。 
 今後は大都会の一等地であることを利用し、新たな高級ホテルやオフィスビル、商業施設などの再開発を目指す、との報道でもある。


 話が変わって、昨日私用で渋谷を訪れた際に 東急bunkamura に立ち寄り、ついでに隣接する 東急デパート本店 でショッピングをした。
 この 東急デパート本店 (ここで実名を挙げて誠に申し訳ないが)が、連休前の夕方の時間帯であるにもかかわらず“閑古鳥”状態なのである。 各フロアーに数えるほどしか顧客がいない。 その顧客の数倍いると思われる店員の“いらっしゃいませ”の声のみが閑散としたフロアーに響き渡っている。 その人件費に加えて、“閑古鳥”であるにもかかわらず空調や照明等の光熱費や立派に飾り立てられたディスプレイ、それらの維持管理に一体如何ほどの経費を要しているのか??   過去において経営学も学んでいる原左都子としてはおちおち買い物している場合ではなく、まずはそろばんをはじきたくなる思いであった。


 今回の「赤プリ」新館の閉館、取り崩しの“勇断”は、その辺の今後の経営収支を見越した結果であることには間違いない。

 ただし、当然ながら問題点は大いに残る。

 まず、建設に膨大な費用がかかったであろう超高層ビルを築27年という短命で取り崩すという決断は、例えば今“流行(はや)り”の「エコ」観点から如何なる影響が出るのであろう? 
 あるいは、(あくまでも一時代においてではあろうが)都会に住む人々のトレンディブームを創り上げたその文化的貢献に対して、それを解体して無にすることによる何らかの喪失観が一企業として一切ないのであろうか?

 今回の「赤プリ」閉館は、この不況下においてまだ経営基盤に多少の余裕のある(?)一大手巨大企業グループの社命にかけた“勇断”であるのかもしれない。 
 たとえそうだとしても、今後の末長い未来に渡って経済社会の一員としての存在を持続したいのであれば、その収支バランスの判断においてもよりグローバルな観点から今後の世の動向を見極めることこそが真の企業の存続に繋がるのではないかと、原左都子は今回の「赤プリ」の閉館、取り崩しに直面して考察するのである。 
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人間関係における相対性

2010年04月27日 | 人間関係
 他者とどういう人間関係を築いていきたいか?  それは誰しも、関係を築く相手によって大きく異なることであろう。

 今回の記事では久しぶりに、私が以前よりファンである 明川哲也氏 が回答を担当されている朝日新聞夕刊“悩みのレッスン”4月26日(月)の相談を取り上げることにしよう。

 まず、29歳会社員女性よりの「素の自分がわからない」と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 素の自分というものがわからない。 私は他人と一緒にいると気が休まらない。よくこの人とは自然体でいられる等の話を聞くし私自身も他人からそう言われることもあるが、私には他人に対して自然体でいられるという感覚がない。 人と過ごすと気を張りすぎて疲れ耐えられず、一人でいる時間がないと気持ちがふさぎ込んでしまう。 小さい頃からソツなく人と距離を保ってきているので誰かに気を許すなんてあり得ない。 そもそも私には何かが欠けているのだろうか。


 原左都子がファンである明川哲也氏の回答は後回しにさせていただいて、まず私論から述べさせていただこう。
 この相談者とまったく同様の感覚を抱くことは、この女性よりはるか長年生きてきている私にも今尚大いにある。  いや、むしろ人間としての他者に対する礼儀や配慮を考慮した場合、この女性の対応はさしあたって常識的と言えるのではないかと私は捉える。
 相手と知り合った状況にもよるが、さほどの時間的経過もないのにいきなり自を丸出しにして“自然体”で接して来ようとする人に対しては、この私など“世間知らずで失礼な奴だなあ”との思いを抱き、むしろその相手の良識の程や(失礼ながら)脳ミソの中身を疑い、少し敬遠させてもらいたく感じるものである。
 そういう意味では、この相談者は至って良識的な人物でスマートな人付き合いをしているとも評価できる。

 ただし、人間関係とは自分が関係を深めたいと欲したりそう意図する相手に対しては、その顕在意識の有無にかかわらず相手と関係を深める方向性が自らの内面に存在しない限り、いつまで経っても進展は望めないであろう。
 もしもこの相談女性が、その種の相手に対しても関係を深める方向性が見出せずにいつまでも気を張っているのだとしたら、確かに早急に改善を要するようにも思われる。
 それはこの相談者が元来の“人間嫌い”だからであるのか??  どうやら人間関係のぎこちなさを自ら分析して悩んでいるこの相談を読む限り、決してそうではなさそうだ。
 あるいは、今までの人生において関係を深めたいと思える人物に巡り会えずにいるのか? そうだとすると問題が深刻なようにも感じる。

 ここで私事を述べるが、一般的な人間関係においてこの相談女性同様のぎこちない感覚をよく抱く私であるけれども、我がプライベート世界においては自を露出して至って自然体で過ごせる相手が若かりし頃よりいつも周囲に存在するのだ。それが我が人生の一番の醍醐味でもある。 表面的に繕わねばならない相手との付き合いももちろん世を渡っていく上で必要不可欠ではあるが、人間とは自然体で過ごせる相手が存在してその相手と時間を共有できるからこそ充実するものである。

 この相談女性はもしかしたら人に対する警戒感や拒否感が強く、今までの人生において“自を露出”できる機会が得られないのかもしれない。
 そうであったとしてもそれは決してこの相談女性に全面的に非があるのではなく、実体のない人との付き合いを強要されるネット社会の横行等を背景とした、現在の殺伐とした人間関係の希薄化現象が顕著な世に生かされている要因も多大であるのかもしれない。


 今回の相談の回答者であられる明川哲也氏は、原左都子による上記私論とはまったく異なる、人間存在の普遍性を鑑みたグローバルな観点から回答を述べられている。

 「ボクもそう、恐れず胸開いて」 と題する明川氏の回答を以下に要約して紹介し、この記事を締めくくることとしよう。
 ボクにも素の自分があるのかどうかわからない。 十年ほど前ボクは芸名を捨てて今の筆名にして仕事が減った。でもボクが消えた訳ではない。でも職業が自分なのかというとそれも怪しい。いろんな事をして生きているのでとりあえず創作家と名のっているが、別にカツ丼評論家でも構わない。 ただひとつ言えるのは、ボクらは何らかの関係性においてしか存在し得ないということだと思う。あなたが相談してくれたからボクは今頭をひねっている。ひょっとしたらボクは常に流動していく他者、他存在との関係があるからこそ言葉を発することができ、それを自分だと思い込んでいるだけなのかもしれない。 だとすれば、始まりには自己という型があるのではなく、それが分かるのは旅の終盤に差し掛かる頃なのかもしれない。それは鬱蒼たる森として。 ならば恐れずに胸を開き、人や風景や犬や文字とつながり合うことだと思う。

 私が明川哲也氏のファンになったのは、氏が芸名を捨てて“明川哲也”となられ(ご本人曰く)“仕事が減った”以降のことである。 その後の明川氏に共鳴させていただく私も(恐れ多くも)偶然に同様の思いを描く人生を歩んでいると自負するのである。

 朝日新聞“悩みのレッスン”の相談者は、もしかしたらもっと具体的で実効性のある回答を欲していたのかもしれない。 だが、少しでも明川氏の今回の回答の根源を辿ってみたいと思えたならば、きっとこの相談者にもいつの日か人間関係の醍醐味を感じられる明るい未来が訪れるのかもしれないと、原左都子は信じるのだ。
        
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結婚の吟味決断は自分でするしかない

2010年04月24日 | 恋愛・男女関係
 これ程就職難の今の世の中において、結婚したい相手が無職、あるいはそれに匹敵する低収入者、雇用上の不安定者である確率は高いことであろう。
 現在の特に若い世代の夫婦間においては、男であれ女であれ働き口にありつける方が働いて収入源を確保して暮らしていくしか選択肢がない時代であるのかもしれない。


 朝日新聞4月19日の「悩みのレッスン」の相談は28歳独身女性による “彼は無職…結婚は?” という題名であった。
 早速この相談を以下に要約して紹介しよう。
 私には付き合って2年になる2歳年下の彼がいるが、優しい心の持ち主で一緒にいると自然体で過ごせるし波長も合う。 だが彼は無職である。彼の就職のための試験勉強を応援しつつお互いに結婚の意思もあるが、彼が無職であるため現実的に結婚は程遠い。 私は結婚願望が強く子どもも2人欲しいので20代で結婚したい。 就職するから待ってくれと言う彼を信じて待っていいのか。あるいは別れて新しい人を探すか。 とはいえ、この彼ほど気が合う人がいるのか、振ったら後で後悔するのか、悩んでいる。


 早速私事に入るが、原左都子が相談者と同じちょうど28歳の若かりし時、(その後長~い独身を貫いたこの私にも)当時こちらから積極的に結婚したいと思える相手が存在した。
 上記朝日新聞の相談者とはそのシチュエーションが大きく異なるのだが、この相談を読んでその時の影像が我が脳裏に鮮明にフラッシュバックしたため、ここでその恋愛談議を少し語らせていただくことにしよう。

 そのお相手は「原左都子エッセイ集」のバックナンバーに幾度か登場している。(「偶然の再会」「デザイナー誕生!」「別れた恋人との再会」等々…) 我が恋愛遍歴史上、もしかしたら最高にインパクトを与えてくれた人物であったかもしれない。
 この彼とはとにかくお互いの思想や生き方、将来像等々すべてにおいて価値観がピタリと合っていて、いつ会って何時間語り合っても話が尽きないほど充実した時間を共有できる相手であった。 しかも、生育歴や学業的バックグラウンド、そして自分達自身の職業経験による経済力の背景的要因においてもバランスが取れている相手でもあった。 結婚願望がさほどなかったこの私が、これだけ諸条件が一致している彼とならば結婚してうまくやっていけると冷静に実感していたのだ。

 付き合いが1年程経過した頃であろうか、結婚話を持ち出したのは私の方からだった。
 そんな私に対して、彼はきっぱりと答えた。
 「僕は今後将来に渡って“結婚”をする気はない」 私の前で、開口一番そう言い切った。
 これには結婚願望がさほどなく決して結婚に焦っている訳ではなかった私にとっても、いきなり“大打撃パンチ!”をくらわされた思いだった。  
 こういう場面において、負けず嫌いな私としてはどうしても売り言葉に買い言葉となる。
 「私ももう28歳、結婚願望が一切ないと言い切るあなたとは付き合っている時間がもったいないから、もし私と付き合いたいという男性が他にいたらそっちと付き合ってもいい?」
 彼曰く、「仕方ないと思う…」

 その後ギクシャクし始めた2人は距離と時間を置き始め、私は一時期新しい彼氏と付き合うこととなるのだ。
 ところがお互いの思いは冷めないままである。 
 結局、私と新しい彼氏との関係を偶然目の当たりにして取り乱して介入してきた元彼に、心を揺さぶられた私の方にもその後自然と「結婚」の意識が遠のき、元彼との間に価値観一致の付き合いが再燃したのである。
 (参考のためこの彼との恋愛関係は、30代を目前とした私が自らのために企てた新たな学問を志す人生設計と共に終焉する運命にあるのだが…)


 話を朝日新聞の相談に戻そう。

 私がウン十年前に青春を生きてきた時代とは明らかに異なる厳しい時代を生きる力を、今の若い世代の人々は要求されている。
 それ故に、今思えばいい時代に青春を好き勝手に謳歌してきている私のような人間が、厳しい現状を自分なりに打開して生き抜こうとしている若い世代の人々相手に安易に物申せないことは重々承知の上である。

 その上で、やはり「結婚」とは人間にとってビッグイベントであることには間違いない。

 どうでしょう。 この相談者の独身女性に少しでも経済的余裕があるのならば、思い切って少しの期間、結婚を“棚上げ”してみては? 
 愚かだった若かりし頃の私のようにすぐさま“次の男”をゲットする必要はないが、この際彼氏から距離をおいて彼を客観視してみてはいかがかとも思えるのだ。
 そうすると、あくまでも結婚にこだわったり、どうしても子どもは2人欲しい、しかも20歳代に産まねば!等の旧態依然とした意味のない独りよがりの観念から解放されて、彼の本来の姿が素直に見えてくるのではなかろうか。

 確かに出産は早い方が安全性が高いのは医学的観点からも否定はしないが、もしも相談女性が特殊体質でもない限り、後数年の猶予期間はあるのではなかろうか。
 それ以前の問題として、結婚とはやはり、結婚相手に自分なりに納得することからスタートした方が成功率が高いようにも思えるのだが…

 時代がどのように変遷しようと人生におけるビッグイベントである結婚に際しては、この相談の回答者であられる あさのあつこ氏 も述べられているが、最終的には自分自身で相手を吟味して決断するしかないということであろう。
               
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ダイエットは“目立たないように”しよう。

2010年04月22日 | 医学・医療・介護
 20歳代前半からウン十年来、165cm、47㎏の体型をキープし続けている原左都子にとっては “体重を減らす”という意味での「ダイエット」とは今までの人生において無縁であると言える。 ただし、健康と美容目的で自分が理想とする上記体型維持の潜在意識は強靭なものがあり、その潜在意識に従った行動パターンを展開する日々ではある。(毎日かかさず体重計に乗ったり、ジムでトレーニングしたり、とかね…)


 話が本題よりズレるが、先だっての「原左都子エッセイ集」のバックナンバー 「男に翻弄される人生の行く末」 の記事内において評論家の岡田斗司夫氏の評論を少し取り上げさせていただいたところ、恐れ多くも岡田斗司夫氏ご本人より当該記事にコメントを頂いた。 (あのコメントは岡田氏ご本人から頂戴したものと、私はその文脈より判定させていただいているのだが。)
 一般庶民が細々と綴るこのような拙ブログにありがたくもメディアに登場している“有名人”からコメントを頂戴した訳であるが、さすがにメディアの威力とは凄いものがあると実感させられる。 と言うのも、その後私のブログ記事本体の内容は二の次で、評論家の岡田氏よりコメントが入っていることが 「凄い! 凄い!」 と周囲で話題となったのである。 (岡田氏のお蔭を持ちまして「原左都子エッセイ集」が益々世間に注目されることに相成りましたことを、この場で感謝申し上げる次第です。

 今回ダイエットには無縁の私がダイエット関連記事を綴るきっかけとなったのは、上記の岡田氏が回答者の一人として活躍されている朝日新聞の相談コーナー「悩みのるつぼ」4月17日の記事によるのだ。
 その「悩みのるつぼ」において、従来の岡田氏は“大人”の年齢層の女性からの恋愛関連相談の回答者としてご活躍だったような記憶がある。 その岡田氏が4月17日の朝日新聞の当該コーナーにおいて、何故に中学生のダイエット相談に応じているかの理由に“ガッテン!”の私なのである。

 岡田氏より我がブログに頂戴した上記のコメント内容の趣旨と意図を分析させていただくため、ネット上でそのご経歴等を確認させていただいたところ、岡田氏には“凄まじいとも表現できるダイエット経験”がおありのようである。 それ故に、朝日新聞からこの相談の回答者として名指しを受けられたのであろうかと推測する。
 (参考のため、今回の「悩みのるつぼ」における岡田氏の回答は中学生という若年者への配慮を意識したことが読み取れ、また私のような一般読者にもなかなか楽しめる内容だった。 裏ページの勝間和代氏のコーナーに関する記載が必要不可欠だったのかの是非の程はともかく…) 


 話をダイエットに戻そう。

 “体重を減らす”目的のダイエットを必要とする程体重を増やした経験がない人間にとっては、そもそも“何故にそれ程に体重を増やしてしまうのかの命題”そのものが不可解である。

 とは言いつつ、この私も高校生時代に体重が急激に増えた時期がある。 これに関しては既に「原左都子エッセイ集」のバックナンバーで披露しているのだが、大学受験の精神的ストレスで“過食症”だったためと後に自己分析している。 とは言え、元々痩せ気味の私としては体重が急激に増えたとは言えどもやっと平均体重に達した程度だったため、精神医学的知識のない愚かな親など子どもの苦しみも露知らずかえって喜んだくらいである。 受験期が終了した後に自然に精神的ストレスが消滅するのと平行して過食症状は消え去り、体重もすっかり元に戻ったのだ。

 「悩みのるつぼ」の相談女子中学生はどうやら学年一のデブであるらしい。 中2という輝かしい未来が待ち構えている若年齢の娘を学年一のデブに仕立て上げた責任は、すべて親にあるとここで断言しよう。
 人間の体型を含めた個性は様々であると言えども、我が子を決して学年一のデブに育ててはならない。 “デブ”であることが健康上もたらす悪影響が甚大であることは、既に「メタボ」報道等で市民の間で熟知されていることであろう。 にもかかわらず、何故に親が未来ある年端もいかない子の体重を管理してやれないのか??

 しかもこの女子中学生の相談の場合、学校の担任までもがダイエットに反対するのだと言う。
 学年一のデブであるならば、将来に渡る健康のためにやはりダイエットはするべきであろう。 そのダイエットの方法がこの中学生の場合目立つのかもしれない。 人目に“目立つダイエット”とは、その方法において行き過ぎがあるからこそ担任及び周囲が警告するのかもしれない。
 医学的に考察しても行き過ぎたダイエットとは百害あって一利なしであるのに加えて、リバウンドも激しいとの情報でもある。

 上記の評論家の岡田斗司夫氏のように既にメディアで名の売れた“有名人”であられる場合は、そのダイエット経験とて名声に繋がり得るのであろう。
 そうではない一般人の場合、基本的にはダイエットとは人目につかないペースで“ゆるり”と実施して、いつの間にやらナイスバディになっていた方が健康的でもあるし、周囲へのインパクトも大きいと思うのだけどね。
 (そうは簡単にはいかないからこそダイエット本が売れるのかな~~)  
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いっそ東京に米軍基地を移設したら?

2010年04月20日 | 時事論評
 とでも言いたくなるくらい、鳩山政権の普天間基地移設政策には呆れる程にポリシーがない。

 沖縄がダメなら、今度は徳之島…。 まるで過疎地に住む国民には人権無きのごとくに短絡的な決断である。
 しかも現地住民の大規模反対運動が起こるや否や、政権は徳之島への受け入れ要請は保留にして出直し、5月末までには再度結論を出すと言うけれど… (本日昼間のNHKニュースより見聞)

 ならばいっそ東京永田町の国会議事堂の隣か首相官邸の近くにでも米軍基地を移設して、政治家が率先して基地周辺住民の痛みを味わってみたらどうか、とも言いたくなる。 東京に住む原左都子もその痛みに付き合おうではないか!  そうでもしなければ、こんな短絡的な移設政策では沖縄と徳之島の住民の方々に一国民として申し訳が立たない思いである。
 東京は既に都市化により環境破壊や騒音公害が進んでいることだし、ついでに米軍基地の面倒を見てもさほどの環境破壊の拡大はなかろうし、都心に暮らす住民は騒音公害にも長年慣らされて来ているとも言えるしね…   (これはあくまでも新政権に対する“皮肉発言”の域を超えないのだが…) 

 沖縄、徳之島、と来ると、その次は太平洋側に面する我が出身の過疎県あたりが米軍基地移設先の候補地となり得るのか??  だとすると、「原左都子エッセイ集」のバックナンバーで記載済みなのだが、この春郷里帰省中にタクシー運転手氏から小耳に挟んだ “4月に開港した(我が郷里の)新空港は、政府と米軍とのからみもあり滑走路を拡張する目的でこの不況の時期にあえて建設された” との裏情報の話が信憑性を帯びてきて、背中が薄ら寒くなる思いである。

 数の原理で過疎地の国民をいたぶる政策からは本気で卒業して欲しいものである。 
 沖縄の各自治体長も発言しているが、“米軍普天間移設問題は沖縄県民のみが苦悩するのではなく、国民全体の問題として考えて欲しい”…、 これは徳之島とて同様であるためあれ程大規模な反対集会が成立したのであるし、(海外も含めて)他の候補地と成り得る地域の住民もその思いは同じであろう。


 鳩山政権の内閣支持率は下げ止まりを知らず、先だっての世論調査によると20%台にまで落ち込んでいる。 一方で不支持率がさらに増加を続け60%台の高率を記録するに至っている。
 昨年夏の政権発足後、民主党はその当選者の“数”に有頂天となって“実体の乏しい国民の支持”に頼り、自らの票取り目的のみで政策面でのポリシーが何らない“マニフェスト”にいつまでもこだわり続け、7ヶ月にも及んで世の動向を省みることも忘れ国民不在の国政を続行した結果がこの有り様である。  
 ここまで内閣支持率が落ち込んだのは、未だにけじめをつけずうやむやにやり過ごそうとしている小沢氏や鳩山氏やその他の“政治とカネ問題”も大いにその根源としてあろう。 だが今となっては、それ以前の問題として政権の政策の立て続けの失策と、その背景を形作っている鳩山首相をはじめとする閣僚のリーダーシップ力の無さにあるのを把握しているのは、どうやら仙石氏だけであるようだ。

 仙石氏曰く、「鳩山首相が普天間問題で5月末までに結論を導けない場合、鳩山内閣は解散し夏には衆参同時選挙となろう」  新政権の閣僚にして勇気ある発言であり、民主党内の現在の危機感を物語っている。 いくら他の閣僚がこの発言が不適切であると批判しようとも、自らのリーダーシップ力がないことを世間に晒して墓穴を掘るのみである。 
 (若手の前原氏や枝野氏には民主党を立て直すべく多少期待していた原左都子であるが、何故、何の圧力でここにきて弱体化するのだろうか…、 とても残念だなあ……)
 結局、民主党内には真にリーダーシップが取れる人材がただの一人として存在しなかったからこそ、短期間にして滅亡に繋がりつつあるものと厳しくも考察できそうである。  


 民主党を主体とした政権発足後、既に7ヶ月が経過しようとしている。
 新政権にとって外交面での要である米国との外務交渉において最大の関門である普天間移設問題を、何故に後回しにしてきているのか?

 そもそもこの問題は、50年前の日米安保条約にまで遡って考察されるべきであろう。 現に、普天間移設問題に関しては日本に米軍基地が必要なのかの議論からなされるべきとの見解も一部の国民の間で存在する。 アジアにおける北朝鮮の核開発の脅威や中国の軍事面での進展も考慮しつつ、鳩山新政権は日本の国際軍事面における立場を政権交代した今こそ再度明確にするべきではないのか。
 ところが鳩山政権は米軍基地を普天間から何処の地へ移転させるかの狭い見識の政策のみで、7ヶ月間右往左往している有り様である。 これでは国民からそのリーダーシップ力の無さに幻滅されて当然であるし、また米国よりの対日不審を募って今後の日米関係が悪化するのもやむを得ない現状である。

 いっそ東京に米軍基地を移設したら、 などと突拍子も無いたわ言を一国民が吐き捨てたくなる程の、鳩山政権の“成れの果て”を実感させられる今日この頃である… 
           
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