(もし、ロミオとジュリエットが死ななかったら、その後どうなっていただろう。所定の目的を達して結ばれたと考えるべきなのだろうが、突然酔いが覚めるように気が変わり、ついには別れてしまったということだって考えられなくはない。)
上記の書き出しで始まる朝日新聞10月15日(水)朝刊の、沢木耕太郎氏によるコラム記事「銀の街から」の今回のエッセイ “ロミオたちの哀切な「その後」” に私はついつい惹き込まれた。
早速、沢木氏によるこのエッセイの続きを、抜粋、要約して以下に紹介しよう。
結ばれたか、別れてしまったか。だが、それ以外の道は考えられないだろうか?
中国映画「初恋の想い出」は、生き残ってしまったロミオとジュリエットの「その後」の物語だと言えるかもしれない。この中国版のロミオとジュリエットが結果的に選択することになる「第三の道」は、そこに至る心の軌跡が十分に理解できる哀切な「その後」となっている。
( 中 略 )
一途に恋するホウジアとチーランの悲劇の恋愛は、二人の背負った宿命によって引き裂かれようとする。「死」を口にしはじめたチーラン。そして、ある日二人は侘しいラブホテルで初めての時を過ごした後、薬を飲もうとするが飲み切れない。
大学を卒業した二人は、やがて離れ離れになる。ホウジアはアメリカに留学し、チーランは地元の会社に勤める。最初のうちは連絡を取り続けているが、小さな出来事をきっかけに音信が途絶えてしまう…。
これによく似た同監督による映画「故郷の香り」では、その結果それぞれが別の家庭を持つ事になるのだが、この「初恋の想い出」ではそのような単純な展開になっていかない。なぜなら、そこには「家」というより「肉親」が介在してくるからだ。異性への「愛」と肉親への「情」がせめぎ合うことによりさらに複雑さを増していく。
最後は二人が夢のような儚い行為をするところで終わっている。これをある種のハッピーエンドと取るか、究極のアンハッピーエンドと取るか。そこには、観客の側の「愛」と「情」というものへの考え方をあぶり出す、試験紙のようなものが含まれているようにも思われる。
(以上、沢木氏のコラム記事より抜粋、要約)
私は、フォ・ジェンチイ監督によるこの「初恋の想い出」も、同「故郷の香り」も観ていないのだが、この二人のその後が気にかかる。二人が最後にした夢のような儚い行為とは一体何であったのか。映画を観ずして、私なりに二人の「その後」、ひいては一般的な人々の恋愛の行方を追ってみることにしよう。
恋愛の結末とは多様であろうと私も考える。
ロミオとジュリエットのように、宿命に翻弄された結果「死」に陥ってしまうような究極の悲恋もあろう。
この世紀の大恋愛物語は別としても、沢木氏が述べられているように、恋愛の結末とは結ばれるか別れるかのみではなく、それ以外の選択肢があってもいい。そして現実的に、恋する二人が無意識のうちにその二者以外の道を選択している事例は実は多いのではなかろうかと私は思うのである。
あまりよい例ではないのだが、例えば「結婚」などというものは、“恋愛”としてはとうの昔に終焉している場合が多いのではなかろうか。それでも形の上での二人の関係は続いている。これなども一種、結実と別離の狭間に位置する関係と考えられる。
もっと話にロマンを持たせて、ホウジアとチーランのような若い二人の純粋な恋愛関係における、結実でも別離でもない恋の結末に思いを馳せてみよう。
結ばれもせず、別れもせず、恋愛感情を維持し続けたまま二人の関係を続ける事は可能だと私も思う。 例えば、友人として人間としての付き合いを続ける等…。私自身、過去から現在に至るまでこういう経験は何度もありそうなのだが、これは恋愛感情が消え失せていないうちは相当の欲求不満を伴う業でもあろう。
ホウジアとチーランの「その後」は“哀切”であるということなので、こういうよくあるような単純な話ではなさそうである。
肉親の介在、「愛」と「情」とのせめぎあいの中でホウジアとチーランの二人が選んだ恋の結末とは…。
興味を持たれた方は、是非実際に映画をご覧下さい。現在各地で順次公開中のようです。私もインドから帰国後、まだ上映されていて機会があれば映画館を訪れることにしましょう。(決して、映画配給会社の回し者ではございません。)