原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

国会議員二世・元首相の息子とてコロナ感染にて急死に至る…

2020年12月31日 | 医学・医療・介護
 冒頭より表題に関連するネット情報を、以下に引用しよう。



 羽田議員の急死が万人に教えること


 12月27日 「参議院議員で立憲民主党参院幹事長である羽田雄一郎氏が急逝」との報道がもたらされた。
 享年53歳。
 羽田孜元首相の長男で、現在の野党勢力では数少ない「サラブレッド」として、将来の首相候補にも擬せられていた若手議員逝去の衝撃は、単に「コロナで初の代議士死亡」というだけでなく、政局全体にも中長期的な影響を及ぼす可能性があるかもしれない。
 そうした観点、また、参院診療所の判断が正しかったか、といった議論については多数の報道があるため重複しない、かつ一般読者にすぐに役立つ情報をお届けする。
 ポイントは、12月27日の午後に秘書の運転する一般車両の後部座席で「俺、肺炎かな?」という言葉を最後に意識を失い、短時間で急逝したという事実。ここから理系・医系の教訓を導こう。
 肺炎を疑われる急患は、どんなに短距離でも救急車で搬送すること。
 何かあったとき、それこそ手遅れ、命とりになりかねない。 羽田雄一郎氏のケースはその「何か」があり、手遅れが命とりとなった可能性が極めて高いと思う。
 羽田議員の12月
 報道から察するに、羽田議員は12月上旬新型コロナウイルスと無縁であった可能性が高いと思う。
 ただし、既往症として糖尿や高血圧、循環器障害などがあった可能性が報道されているのも目にした。
 ここから一般の私たちが参考にできるのは、持病がある人は間違ってもリスクに近づかない方がよいという、春先に芸能人の逝去が続いたときと、全く同じ教えになるだろう。
 違うのは、春の芸能人が軒並み還暦を過ぎているのに対して、今回の羽田議員はまだ53歳、働き盛りの若手であった事実。 (中略)
 代議士が一人陽性になると、各地の中枢に濃厚接触のリレーが走ってしまうことが如実に示されている。
 12月24日 午前中参院診療所に「知人に感染者が出たのでPCR検査したい」と連絡
 参院診療所は「無症状なのでPCR検査はできない。民間で可能な機関リストを送る」と返信
 リストにあった医師に連絡→検査できないので別のクリニックで予約を勧められる。羽田議員(の秘書?)は、PCR検査をネットで予約。
 同24日 深夜に発熱、38度6分
 24日に発症ということから、1週間から10日の潜伏期間を仮定しても、12月上旬の段階ではコロナと無縁であった可能性が高い。
 逆に言えば、12月10日前後から、羽田議員と接触のあった参院関係者はもちろん、地方と中央の官庁、与野党、支援者、関係者などあらゆる人が「接触者」だった。
 12月25日 羽田議員は自宅で静養 朝 体温 36.5度 深夜 38.3度
 26日 この日は羽田議員の妻の誕生日とのことで 自宅静養と報道。
 朝 体温 37.5度 深夜 38.2度
 27日 朝、体温 36.1度。 午後、予約していたクリニックに、秘書と一般車両で移動中「俺肺炎かな」の言葉を最後に、容態が急変。
 報道に従ってより詳細に記すなら、運転していた秘書が言葉をかけても返事がなく、確認してみると意識がなくなっていた。
 直ちに救急車を呼んで、東京大学医学部付属病院に搬送。
 12月27日16時半頃、病院到着時には心肺停止の状態が確認される。
 ちなみに12月27日16時半頃、私は東京大学本郷キャンパスの自分の研究室で、学生の学位研究追い込みで缶詰になって実験中でしたが、遮音材が不足し新宿へ買いに出たタイミングだった。
 私のラボは医学部付属病院の目の前にあり、搬送口の真横に建物があるので、当該救急車は至近を通過したはず。
 報道を読み、目を閉じて点を仰いた。羽田議員は私より3歳若い年齢です。
何が起きたと考えられるのか?
 なぜ羽田議員は急逝したのか?
 秘書運転車両の後部座席で、(たぶん高熱を発し、容態が悪かったのに)意識があり「大丈夫」という気力だけで乗っていた状況で容態が急変していること」。
 具体的には意識を失っていることで、これは酸素欠乏、血中の酸素分圧の低下によって脳が意識活動を継続できなくなったためとみられる。
 もしこのとき救急車での搬送であれば、ただちに酸素ボンベなど「バイタル」生命を維持するサポートの救命医療を実施できたはず。
 しかし、一般車両で秘書が運転席にいるだけでは、何もできない。
 端的に言えば「窒息状態」に陥ったと考えればよい。
  (以下、肺に関する専門内容は大幅略)
 酸素マスクの装着、場合によっては気管への挿管措置などを、緊急に行うべきでした。
 しかし、秘書の運転する一般車両では、そのような救急救命措置は何一つ採ることができなかった。そのため手遅れになった可能性が考えられます。
 羽田議員は、まず間違いなく全肺同時に進行する新型コロナウイルス肺炎の特徴的な急性症状に見舞われ、呼吸困難=ガス交感困難な状態、ECMOなど取り付ける場合もある状況に漸近、ボンベで肺の酸素分圧を高める救命措置が取られる必要があったものと思われます。
 コロナ急患は単距離でも救急車移送で、こうしたリスクは万人に平等に訪れます。
 「新型コロナウイルス肺炎」を疑われる急患は、決して一般車両で移送してはならない。どんなに短距離でも、救急救命の対処が可能な救急車で移送するべきである」という本当に役立つポイントだけを本稿には簡潔に記し、読者の利便に供する。
 なぜ私がこうした救急救命に、医学部教授でもないのに通じているかというと、19年前に肺炎で死にかけた家族の介護で、こうした状況を医師との議論を通じて知悉する機会があったからです。
 まずは急患のケア、命を救うアクションが一番必要ですから、それのみを、まず強調してお伝えします。

 (以上、ネット情報より一部を引用したもの。)



 ここで一旦、表題とはまったく無関係の私事を語らせて頂こう。

 原左都子が29歳の時の話題だが。

 私は当時の勤務先だった医学関係企業退職を(周囲へは極秘で)視野に入れ、社内での配属先の異動を希望した。 それが難なく叶い、(結果として)退社までの1年間私は本社の教育課勤務となった。
 業務は医学に関する専門内容を社員(特に医学に詳しくない間接部門社員)への医学教育が主たる業務だったのだが。
 その業務をつつがなくこなしつつ、私はもう一つの目標を達成せんと志した。

 勤務先が週休2日だったのを利用して、土曜日のみ東大医学部病院物療内科の研究助手として1年間勤務することになった。(当然、勤務先にはこれも極秘)
 私を雇って下さった東大物療内科の女性医師が、我が医学実験能力にそれはそれは感嘆下さり、私はいつも一人で東大医学部実験棟の実験室にこもって、気管支ぜんそくダニアレルゲンの定性試験等々を集中的に実施した。 報酬がさほどよくないことを医師先生が心苦しいとおっしゃり、その代わりとよく夕食を御馳走して下さったりもした。
 (その後私は再び学生になったのだが、この女医先生から時間があれば是非東大に実験しに来て欲しい! と幾度もお電話を頂戴したものだ。 ただ、生活費を本格的に稼がねばならなかった故にお断りし続けた…)

 
 上記ネット情報を読んで、私は一番にその頃の光景を鮮明に思い出したのだ。
 私の場合は、本郷の東大病院の外来棟真横にあった研究実験棟の一室が仕事場だったのだが。 
 確かに上記の研究者氏が書かれている通りだったものだ。
 大病院内とは常に様々な患者が入り乱れ、また急患が運ばれてくる光景を間近にしたりと、医学部新卒後就職して以来ずっと臨床現場から離れた場で医学職務に当たっていた私にとって、大いなる刺激であり勉強になったものだ。

 この2020大晦日の日に、そんな我が過去の医学分野業績の一つをフラッシュバックすることが叶ったのも、何かの巡り合わせであろう。



 最後に、やっと表題テーマに戻そう。

 
 立憲民主党参院幹事長である羽田雄一郎氏の若干53歳にてのコロナ感染による急逝。

 糖尿病に高血圧、高脂血症、等々…  
 コロナ感染時に急激に悪化する危険性のある持病を数多く持ちつつ、何故油断してしまい、秘書が運転する車で病院へ向かったのだろう。
 上記東大にて医学研究に携わっている人物が書かれているネット情報がおっしゃる通りだ。

 ただこの感染激増時に、たとえ父親が元国家首相だった国会議員であるとせよ、救急車を優先手配不能な現在の切羽詰まった救急事情であるのだろう。

 特に持病をお持ちの方々、お若いからといって安堵することなく、来年も“コロナ感染”防御につとめつつ。

 皆様、良きお年を迎えられますように! 😃 


ユーミンが太った!?!

2020年12月30日 | 音楽
 (冒頭写真は、先程テレビにて撮影したユーミンの写真。)


 私はそもそもユーミンファンではなかった。

 ただ、ユーミンが未だ「荒井由実」名で活躍していた頃に聞いた「あの日に帰りたい」は、当時のカラオケでよく熱唱した。

 ユーミンの低音歌唱が我が音程にマッチしていて歌いやすかった。


 その後も、「中央フリーウェイ」、「ルージュの伝言」、「卒業写真」、「春よ来い」等々は、その後の我がカラオケ愛唱曲でもある。



 本日先程からテレビにて放映されている“松任谷由美特集”番組を垣間見て、私は愕然とさせられた。


 どうしたことか、国民のアイドルであるべき松任谷由美が太っているではないか!?!
         


         


         


         

 以上、テレビ映像より撮影したもの。 (転載禁止ものでしたら、後程抹消処理をしますが。)


 我が私見だが。

 あくまでも過去に一世風靡したアイドルが、あくまでも“アイドル”として名を売り続けたい場合、決して映像上でみっともない外見を晒すべきではないと私は心得る。


 番組後半に入った今、ユーミンはパンツスタイルに姿を変えたが。
 やはり太ってしまっている姿を否定出来ない。 しかも、大顔に見える…


 ユーミンと言えば、一昔前からそのライブステージが売りだったと私は認識している。

 その映像を今後とも自身の売りにしたい場合、少しでも太ってしまったならそれが続行不能と判断するべきではなかろうか。


 この原左都子は、決して舞台のライブで自身を売りに出そうと目指してはいない。

 ただ、オピニオンブログとして公開し続けている我がブログ上に、長身スリム体型写真を公開している以上。
 それが叶わぬ現実となった際には、ブログスタイルを変更せんと考える程に、自身の長身スリム体型にはこだわり続けている。

 どうかユーミンさまに於かれましても、今後とも大規模ライブを続行される以上、歌唱のみならず持って生まれた長身体型にこだわり続けられる事に期待申し上げたい。


本日の東京は師走に入って初めての大雨です

2020年12月30日 | 雑記
 (冒頭写真は、我が集合住宅の南前に広がっている“区民農園”。)


 今年は晩秋後、東京では雨を見なかったような気がするが…

 大晦日を明日に控えた本日、ご覧のような雨模様。



 冒頭写真の“区民農園”は、以前にも紹介した記憶があるが。

 東京メトロ駅から徒歩6分のこの場に、何故農園が存在するのかを説明するならば。
 この地は地下鉄工事が始まる4,50年程前?までは、一面農地だったようだ。 地下鉄開通と共に、この地は住宅地へとすっかり姿を変えたにもかかわらず、この農地(“三角畑”の愛称が付けられていたが)だけは畑のまま残すことになったようだ。 
 そして3,4年前に区がこの畑を買い上げ、“区民農園”としたとのいきさつだ。

 この“区民農園”は抽選により区画毎の主が決まったのだが。
 当初区からその話題が持ち上がった際、我が亭主が「抽選に参加しよう!」と言い始めるではないか!!

 私としては、「ちょっと待ってくれ!!」に決まっている!
 その抽選に下手に当たると、農園の世話をするのはこの私と相場が決まっている。  (アンタと娘の世話で日々手一杯の私に、農園の世話までさせる気か!!)と猛反対の私の“鶴の一声”で、亭主は農園抽選参加を断念してくれた。😩 


 日々、洗濯物干し時にこの農園の様子を観察するのだが。

 農作業とは、実に大変である事を思い知らされる。

 冒頭写真をご覧になるとおわかりだろうが、冬になる前には必ず“ハウス”作り作業が発生する。  そして夏場は草抜きで大変だ。 それを怠ると、直ぐに周囲の区画に迷惑がかかる。
 定期的に区の職員が農園の様子を点検に来て、迷惑状態の区画者に連絡・指導をしている様子だ。

 毎週特に土日になると、この区民農園は農作業者で満杯になる。 
 子ども達も引き連れてきて、一家総出で農作業に励んでいる様子だ。 (閑静が売りのこの辺の地がその時ばかりは大騒音となり、正直言って迷惑でもあるのだが…)



 明日は2020年大晦日。

 “コロナ禍”に翻弄され続けたこの1年だった…

 本日の東京の雨のお陰で、区民農園に人影がない。

 2020年の年の暮れを、区民農園に降る雨でも眺めながら心静かに過そう。 


政権トップの「ステーキ会合」、二階氏の言い訳は論理破綻かつお粗末過ぎ!

2020年12月29日 | 時事論評
 冒頭から、表題に関するネット情報を引用しよう。

 
 元日本テレビ・フリーアナウンサー某氏が28のテレビ番組内で。
 自民党の二階俊博幹事長が、菅総理らとの多人数ステーキ会食についてテレビ番組で反論したことに「違うメッセージが国民に伝わっているのは間違いない」と、“反論”に“反論”した。
 番組では27日のBSテレビ朝日の番組でステーキ会食について二階幹事長が反論したことを取り上げた。
 二階幹事長は「飲食店でやったといって、飯を食うために集まってきたのではない」「会食というそんなことを特にやったわけではない」と語り、飲食店で食事を共にしたら会食ではないのか?という問いには「ただそこでその時間に出会った。今の事態に対してどう対応するかなども考えてやっている」と答えた。
 これにアナ氏は「そしたらお店でなくても出来ると思うが」と首を傾げた。他氏も「(会食を)やめろっていっている人間が、会食に見えるようなことをやるから、それをやったら何の効力もなくなっちゃうよと。そこは謙虚に受け止めて」「これから気をつけるというスタンスでいいと思うけど」と謝らない姿勢に疑問を呈した。
 アナ氏は「楽しむ為の会食ではない、必要なものという問題ではない。この行為が国民に与えるメッセージの方が大事で、(会食は)いいじゃんとなっちゃう方が怖いのかな」と会食の内容ではないのでは?ともコメント。「こういった方々の認識とは違うメッセージが、国民に伝わっているのは間違いない」とも語っていた。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 ついでに昨日付朝日新聞夕刊記事より、同じテーマの記述を追加すると。

 二階氏は、政府が多人数での会食自粛を求めるさなかの会合が批判されていると指摘されると、「それはある意味で誤解だ」と主張。 「別に8人で会っただけで、会食をいうことを特にやったわけではない。飯を食うために集まったんじゃない。」と語った。
 司会者が「国のトップに近い人達が、言っている事とやっている事が違うと、(国民は)何のために忘年会を我慢したのだろうと思ってもおかしくない」と重ねて問うと、二階氏は「今の事態に対しても、どう対応するかということなども考えてやっている。全く無駄なことをやっているわけじゃない。」など応じた。

 (以上、朝日新聞昨日夕刊記事より引用したもの。)



 私見に入ろう。

 自民党の二階氏は、現在81歳であられるようだが。
 申し訳ないが我が目には、“パッとしない爺さん”にしか映らない。 発言にも切れがないし、過去に政治家として特段優秀な人材だった記憶もない。
 そんな人物が安倍政権以降、何故あれ程に首相をバックで操るドンに成り上がっているのかの理由が知りたく思ったりもする。

 そこで、二階氏に関するその辺のネット情報を少し探ってみた。  以下に引用しよう。

 いまや自民党の“最高実力者”となった二階俊博・幹事長(81)。旅行代理店の全国組織・全国旅行業協会の会長を長年務める「観光業界のドン」としても知られ、菅義偉首相が独断で年末年始のGo Toトラベル全国一斉停止を表明すると、二階氏はその夜(12月14日)、芸能・スポーツ関係者らと開いた“ステーキ会食”に首相を呼びつけ、「二階さんの一声で総理が飛んできた」(二階派議員)という権勢ぶりを見せつけた。 
 その政治権力はかつて「自民党のドン」と呼ばれた金丸信・元自民党副総裁に匹敵するとも言われる。だが、金丸氏が当時の最大派閥・経世会(竹下派)の圧倒的な数と力を背景にキングメーカーとなったのに対し、二階氏率いる志帥会(二階派。所属議員47人)は細田派(98人)、麻生派(55人)、竹下派(54人)に続く自民党第4派閥で、岸田派(47人)と並ぶ。 往年の金丸氏のような「数の力」があるわけではない。  それがなぜ、総理を呼びつけるほどの権力を握ることができたのか。
 二階氏の“成り上がり物語”を政治経歴から辿ってみよう。  和歌山県御坊市出身で父・俊太郎は戦前からの和歌山県議、母・菊枝は医師だった。中央大学法学部政治学科を卒業して代議士秘書を務めた後、落選していた父の跡を継ぐ形で1975年の和歌山県議選で当選。県議を2期つとめた後、1983年総選挙に自民党(田中派の候補)から出馬して初当選した。いわゆる2世議員だ。  (中略)   政界遊泳術は巧みだ。  1993年、宮沢内閣不信任決議案を経て竹下派が分裂すると、小沢一郎氏に従って自民党を離党し、細川連立内閣で2度目の運輸政務次官に就任。このころには“影の運輸大臣”と呼ばれた。  その後も新進党、自由党と小沢氏に従って側近の1人として頭角を現し、小渕内閣で自民党と自由党が連立すると、念願の運輸大臣として初入閣。 この運輸大臣時代、二階氏は航空会社や大手旅行代理店の社長ら旅行業者2000人の大訪問団を率いて中国を訪問した。  しかし、小沢氏が連立を離脱して自由党が分裂すると、政権にとどまって「保守党」(後に保守新党)結成に参加。小渕氏の急死後、続く森内閣の自公保連立政権でも運輸大臣に再任された。小泉内閣時代の2003年に自民党に復党する。  約10年ぶりの自民党復帰──。二階氏が出世の糸口をつかんだのはこの小泉内閣時代だ。  二階氏は保守新党から一緒に自民党に合流した議員と旧二階派(二階グループ、「新しい波」)を旗揚げして派閥領袖となり、出戻りながら小泉首相から選挙の実務を担当する自民党総務局長に抜擢されると経産大臣、自民党国対委員長とトントン拍子に出世していく。 
 (以上、ネット情報より一部を引用したもの。)


 私見に戻ろう。

 二階氏の母上がその時代に“医師”だったというのは、政治家としてかなり異色な存在ではなかろうか? (原左都子としては、これに一番驚かされた。)😲 
 そして類い希とも言える幾多の政権を渡り歩き、政界遊泳術を学んだ様子だ。

 ただ今となっては既に81歳の高齢にして“政治家としての資質や能力が疑わしくなっているが故に、二階氏にとっては“扱い易い”のであろう安倍氏や菅氏の面倒をみるのがやっとこさの状況下にあるような印象も抱く。


 今回の「ステーキ会食」事件に関しては、何も一言のみ「私の不徳の致すところでした」と謝罪しておけば済んだものを。

 何故、これ程までにメディア取材相手に幼稚な反論をしてしまったのだろう??
 それはご高齢故の失策であったと、私は結論付ける。

 もうそろそろ政治家生命を自らの意思で終焉に持ち込まれて、今後はどうかご家族と共にご家庭でゆったりとステーキを堪能されては如何でしょうか、二階さん。
 

こんな年末の時期にあわや “ギックリ腰” か!?!?

2020年12月28日 | 医学・医療・介護
 昨日午後のことだ。

 
 昼寝から目覚めてソファーから起きようとすると。

 あっ!!
 何だか腰がギクッと来る実感があった。

 まずいなあ、と思いつつソファーから立ち上がろうとしても、腰に激痛が走り上半身を起こせない。

 昨日は亭主も娘も在宅していたが、両人共々医学経験は皆無。
 これは私の判断で対処しようと志し…


 とにかく腰を90℃近く前方に曲げると特段痛まないことを発見!

 その姿勢でとりあえず過すこととして。

 不便ではあるが、その体勢で夕飯の支度をして家族に食べさせ。
 風呂を沸かし自分も入り、やっと就寝の時間にたどり着いた。

 (参考だが、我が家族達は100%私を信頼しているというのか、あやつは放って於いても自助努力で生き抜いていける輩だとの有り難き評価を貰っているというのか。 とにかく、私を放っておいてくれる事実に助けられる。)


 布団に入ってもやはり腰が曲がりにくい。 下手にまっすぐの体勢で寝ようとするとやはり激痛が走る。 横向きに寝つつ、それでも私は眠りに入った。


 真夜中のことだが。

 どうも熱っぽい。
 そんなことも予測して、枕元に体温計を置いておいた。
 体温測定をすると、やはり37℃ある。

 (こんな年末に鬱陶しいなあ。 ただ、コロナ感染で「腰痛」のみの発症との話題を耳にしたことはない。 おそらく“コロナ”ではないだろう。  それでも朝になっても熱が下がらないかもっと高熱に至っていた場合、やはり“PCR検査”を受けるべきなのか??? …… )
 
 あれこれと我が微熱対策を寝床で考えつつ、私は再び眠りに入ったようだ。


 朝になり一番に体温測定を実施したところ、36,4℃まで我が体温が下がっている。

 これ大丈夫だ! 少なくとも“コロナ感染”ではない! と確信した私は。

 まだ痛む腰を何とか労りつつ、家族の朝食準備をした。

 
 結論から言えば、おそらく今回の我が腰の激痛は“ぎっくり腰”ではなかったのだろう。
 ましてやコロナ感染でもなく、単なる持病の“側湾症”から派生した腰痛だったと判断した。


 家族が我が健康状態に関し“一切心配してくれない”事実こそが私に対する絶大な信頼であり。
 日々我が身を支えている源との事実を実感した、今回の腰部激痛事件だった。