原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

塾の「教育力」のレベル

2007年09月28日 | 教育・学校
 近年、世間では子どもを持つ親御さんたちが塾だ塾だと騒いでいる様子だ。だが、この現象をよく観察すると、塾を真に崇拝し塾に「教育力」を期待しているという訳ではなさそうだ。皆さん行き着くところ、子どもを受験に合格させてくれさえすればそれでよしとしているように見受けられる。
 かく言う私も、子どもを受験時に塾に通わせた経験がある。我が家の場合、子どもの学習指導は普段より私が担当しているため、塾通いの目的は受験のための情報収集にあった。ところが塾は、個別に欲しい情報(志望校に関する詳細情報等)については至って貧弱で当てがはずれ、塾側から提供される情報というと通り一遍で一般論的なものしかなく大して役に立たないのだ。わざわざ塾に行かずとも入手できる情報しか伝授されず、塾に入れた意味がなくがっかりしたものである。結局は自分で直接志望校に足繁く通い情報収集するのが一番である。むしろ、志望校から得たその生の最新情報をこちらから塾に提供するために塾通いしたようなものなのだ。今後一生、子どもを塾に通わせる事は我が家の場合はないであろう。
 そもそも塾の社会的立場を考慮した場合、塾に「教育力」が要請されているわけではない。「教育力」が要請されるのは家庭であり学校である。子どもの教育とは本来、各家庭が主体となって行われるべき業である。(本ブログ「道徳教育私観」で既にその見解につき述べているのでご参照いただきたい。)一方、現在“学校教育法”により小中学校教育が義務化されているため、法的に学校には子どもの教育の責務がある。 これに対し、塾は基本的には市場原理に従い存続発展するべく努力すればよい一営利法人である。子どもを一定時間預かってどのような学習指導を行おうが、誰からも非難される筋合いはない、気に入らなければ来なきゃいい、という道理なのである。   
 塾は親の要望をよく見抜いている。子どもを受験に合格さえさせればよいという短絡的な要望を。(極端な場合、私立ならどこでもいいと公言する親さえいる。)そこで塾はこの要望に応えるべくどのような手を打つかというと、皆さん既に十分ご承知のように、まず学校を偏差値ごとにランク付けする。そして、子どもの偏差値に合わせて志望校を決定するよう本人と親に仕向けるのだ。この方法を取れば大抵の子どもは合格する。塾にとって自塾生の受験合格率は命だ。塾の存続にかかわる。“偏差値ランク付け方式”は塾側にとっても一石二鳥の方法であり、一番手間暇いらず金もかからない方法なのだ。 元々志望校を決めた上で入塾してくるケースももちろんあろうが、その場合は一応志望を尊重するようには見せかけるのだが、子どもの偏差値が振るわないと志望校変更を迫るかあるいは併願校を増やすよう打診されるのである。(我が家の場合もそうであったが、志望校変更や併願校についての打診は断固として受け付けなかった。そうすると、塾側は責任は持てないらしく勝手にすればと言いたげで、相手にされなくなるのである。)この現存する塾が当たり前のように採用している偏差値第一主義は、「教育」という言葉とは程遠い事実としか言えない。
 塾が乱立し競争が激化してきているとはいえ、これ程塾がもてはやされている現段階においては、さほど経営努力をせずとて“偏差値ランク付け方式”という通り一遍の方法で経営さえしていれば、おそらく破産に陥ることも少ないのであろう。とはいえ、先の見えない不確実性の高い世の中である。塾業界でも買収、統合が進んでいる様子でもある。一寸先は闇だ。社会的には「教育力」が要請されない業界であるとはいえ、それに甘んじ時代に迎合ばかりしていてはますます教育界全体が退廃していく。塾業界は自らの生き残りのためにも一歩前進して、もう少し真の「教育力」を身につけるべく精進されてはいかがか。
  
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「横並び教育」の所産

2007年09月25日 | 教育・学校
 バブル経済崩壊後の長引く不況の中、若者のフリーターやニート、そして引きこもりが増加の一途を辿っている。これら若者の組織や社会からの逸脱の諸現象は、現在の学校の「横並び教育」の所産であるように私は思えてならない。
 近世において欧米等諸国が“民主主義”を市民が流血の末に勝ち取ったのと比較して、我が国の場合それを敗戦により米国から与えられたという経緯があるためか、どうもこの国は今もって「人権」に対する意識がすこぶる低く、かつ「自由」や「平等」の解釈を履き違えているのではないかとの感が否めない。
 私は“もはや戦後ではない”と言われた時代にこの世に生を受けた。そんな私の小学生時代(1960年代)の学校教育については当ブログの「道徳教育私論」でも一部述べさせていただいているので、そちらもご参照下さればうれしく思う。  当時の小学校においては、時代背景的に決して「横並び教育」ではなかった。私の印象では“学業成績第一主義”であったように記憶している。これも大いに歪んだ教育ではあるのだが、子どもにとってある意味での“わかりやすさ”はあったように思う。例えば学級委員等クラスを統率する生徒や、学芸会や音楽会等での中心人物は担任教員の一任で成績順に決められていた。高学年になってからは立候補制も取り入れられていたが、結局は成績上位者が立候補し、すぐさま皆の支持も得られすんなりと代表に決まっていたようであった。
 現在の公立小学校を保護者の立場から垣間見ると、何事にも当番制、輪番制が取り入れられ生徒全員に“一見”「平等」な機会を与えているような錯覚に陥る。加えて、学級委員や学芸会、音楽会等の出演者決定には“立候補”制が取り入れられていて、あたかも「平等」に加えて自主性をも演出しているつもりであるのは理解できる。しかし、実はこの“立候補”制にも大きな落とし穴があり、その実態は単なる「横並び」でしかないのだ。というのも、立候補者の後のフォロー(少なくとも立候補には責任が伴うことを指導し、立候補した子ども達にその責務を全うするべく努力させるべきである。)がまったくなされておらず、何年経ってもいつもいつも同じ子ども達が立候補し、毎年同じパフォーマンスが繰り返されるのだ。何も誰も、たかが小学校の行事に技や芸、また作品の完成度の高さを求めている訳ではないのだが、立候補制を採り入れさえすれば保護者からのクレームがないであろうとの学校側の短絡的な発想が見え見えで、保護者としては辟易とするしかないのである。これはまさに違った形での“横並び”でしかない。
 「横並び」が平等だと勘違いしている公教育で育った子ども達は気の毒だ。その子ども達が学校を卒業(中退でもいいが。)し、一旦社会に進出すると(大変失礼な言い方ではあるが公務員になる以外は?)そこには厳しい競争社会の現実が待ち構えているのだ。今までの「横並び」の学校教育とはまったく異質の別世界が広がっているのである。その現実社会へスムーズに移行しきれずあえぐ若者が多いのではなかろうか。
 決して「横並び」イコール平等ではない。個人の能力や個性に応じた平等こそが真の平等であると私は考える。 今の学校では「横並び」を平等と勘違いし(あるいは、指導が容易なためあえて「横並び」を選択し)、現実社会の厳しさから逃避しているのだ。そして、この「横並び教育」は、他者の能力や個性を認めるという人間にとって大切な心の働きをも奪い去っている。このような学校教育の勘違いや現実逃避が子どもの人格形成に悪影響を与え、ひいては社会の退廃を招いているのではないかと私は常々推し量っている。
 偏差値や歪んだ受験競争等、人為的な序列化や競争は当然ながら否定されるべきである。が、健全な社会には必然的に競争は存在し、自然に序列化がなされ淘汰されていくものと私は考える。
 「横並び」を平等と勘違いした現状の学校教育の下では、自然発生的な競争にさえ耐えられない人材ばかりを育成してしまうのではないかと、私は懸念するのである。
 

(「原左都子エッセイ集」のバックナンバーも是非お読み下さい。コメントもお待ち申し上げております!)
  

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就職活動悪戦記

2007年09月24日 | 仕事・就職
 50歳を過ぎたおばさんが就業を試みても、自分が納得できそうな求人は年齢制限で門前払いであることは別章「宝の持ち腐れ」で既に述べた通りである。
 それでも、私は新聞の求人欄や求人折込広告を日頃よく見る。就業に関する社会的動向を把握するのが第一目的なのであるが、まれに年齢制限が無かったり高齢者可の募集で、かつ自分の職業経験や資格が活かせそうな求人を発見すると、私は果敢にも電話で求人先に問い合わせたり、履歴書を送ったりすることがある。

 電話で問い合わせる場合、求人広告には年齢不問とは書かれていても大抵は年齢の確認ははずせない様子で、必ず「何歳ですか?」との質問が返って来る。正直に答えると、やわら手のひらを返すような対応をする担当者が多い。年齢不問とは書いておいたものの、まさか50歳代のおばさんから問い合わせがあるとは夢にも考えていないのであろう。「とりあえず、履歴書送っていただけますか?」との応えは返ってくるのであるが、まかり間違っても採用されそうもないため、個人情報保護の観点からも履歴書送付は控えることが多い。 また、“高齢者”の解釈が当方と求人側とで大きく異なる時もある。私は高齢者とは60歳以上位の方々を指すものと認識しているのだが、以前の私の経験では求人側は35歳位から45歳位を高齢者としていた事例もあった。当然ながら、電話での問い合わせ時点で門前払いである。

 電話連絡は不可で直接履歴書を送付せよとの場合は、私の場合、経歴、資格等の応募条件を満たしている求人しか応募しないためか、ほぼ100%試験、面談通知が来る。どうせまた年齢で採用まではこぎつけない事は承知の上ではあるが、採用担当者の資質や力量や事業所のレベルの程をとくと拝見する楽しみもあり、私は必ずいそいそと採用試験に出かける。

 1年ほど前に、某(名門塾として名高い)塾の本部まで個人指導講師募集の試験、面談のため出かけた時のことだ。30歳代位の若い採用担当者(この業界は、大体30~40歳代位の担当者が多いようだ。)が対応されたのであるが、担当者にお会いするなりいきなり学科試験から始めるとおっしゃる。それは特段問題ないのだが、試験の前に「小6程度の学科試験ですが、受験しますか?」と聞く。今日私はそのためにわざわざ来ているのにおかしな事を聞く人だと思い、その旨聞き返すと、「学科試験は受けたくないので面談だけにして欲しい、と要求する応募者が多いため。」との答えなのだ。加えて、「途中でやめても結構です。」とも言う。何だかずい分失礼な採用試験との感覚を持ちつつ、私は学科試験を開始した。内容的には恐らく超難関中学受験を想定したレベルの試験であったが、第一50歳を過ぎた人間に小6の問題を解かせること自体大変無礼であるけれども、どうせそんなことであろうと私は前もって予想して採用試験に臨んだため、大して驚きもせず試験に集中していた。個室受験だったのだが、私が集中している最中に担当者が突然入ってきて、何と「まだ続けますか。」と聞くのだ。「はい。」と言いつつ試験に集中していると、「終わったら言って下さい。」と言う。制限時間も無いとはまったく人を馬鹿にしているとしか思えないと怒りつつ、試験が終了したためその旨告げた。私は学科試験をやり遂げた爽快感はあったものの、この時点で塾側は採用する気が元々ない事を既に悟っていた。元より、塾講師に50歳以上の“高齢者”がいないことは、子どもの塾通いの経験から私は既に承知の上でもあった。
 その後の面談では経歴の確認や時給額の折衝がなされた。そして、採用担当者から「講師として登録されても、実際の仕事をいつ紹介できるかについては今は申し上げられない。」旨の話があり、その後、案の定、現在に至るまで一切連絡は無いままである。(塾だ、塾だと世間は騒いでいるが、塾の存在の是非についてはいずれ別章で私観を述べたいと考えている。 それはそうとして、このような講師採用の実態から推し量って、今時の塾の経営理念とはどういうものなのか、是非共塾経営者様にお伺いしたく存じるものでもある。)

 話はガラリと変わって、私は半年ほど前に公立小学校の“相談員”募集にも応募した。当然ながら自治体の教育委員会からの求人である。 数年前、私がまだ40歳代であった頃にも同一の求人に応募して“不採用”となっている。数年前に私が不採用となったのは、この相談員の主たる業務(不登校対策)に関する自己の考え(私は不登校肯定論者である。この問題についても後に別章にて私観を述べたいと考えている。)が教育委員会の見解(当然ながら、不登校否定の立場を取らざるを得ないのであろう。)と大幅に異なったためであると私は考えている。
時代が流れ、いじめ問題、子どもの自殺が大きな社会問題となり社会全体が激震する中、学校や教育委員会の社会的立場も縮小化せざるを得なくなっている。そのような現在、公教育理念も移り行き時代に即応するべく進化しているものと私は考え、果敢にも再チャレンジしたのである。その期待もむなしく、面談(公的機関での採用試験は面談のみの場合が多い。短く、しかも集団での面談でいったい応募者の何がわかるのか不思議でもあるし、やはり公的機関は未だに“コネ”採用なのかとの疑惑が消し去れない…。)のみの採用試験の結果、またまた不採用となった。(コネを使ってもいいんだけど、コネをつけてくれた人に気兼ねしながら働くよりも、自分自身の実力を思う存分発揮しながら自由に働きたいと若い人たちだって思ってるんじゃないかと、おばさんは思うよ~。)
(と言いつつ、私はいつ再び、子どもたちを救えるのだろう…。)
  
 
 まだまだ、50歳を過ぎてからの「就職活動悪戦記」は語りきれないので、また近いうちに続編としてお届けしたく考えている。
 次回も、是非お読み下さい! 
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道徳教育私論

2007年09月20日 | 教育・学校
 本ブログのテーマは“自己のオピニオンの公開”である。 ブログの概要にも「教育問題等の社会問題まで幅広く…」と掲げた割には、まだ正面切った教育問題に関する記事を記載していないため、物足りなく思っていらっしゃる愛読者の方(?)も多いのではないかと推測する。
 私は日頃、公的機関はじめ各種機関への意見書提出や新聞雑誌等への投書投稿をライフワークとしている。 中でも「教育問題」に関する自己のオピニオンを相当数書き溜めており、それらを公開しようと考えたのもこのブログ開設の大きなきっかけであった。

 そこで、いよいよこのブログでも「教育問題」を取り上げることとする。
 
 さて本題に入るが、昨日の新聞によると、「道徳」は教科とはせず、現行の枠組みを維持する方向となったそうだ。この記事を読み、私は胸を撫で下ろした。 なぜならば、安部教育改革の目玉の一つとして、「道徳」の教科化が取り上げられていたためである。 私はこの時代錯誤の教育改革を懸念し心を痛めていたが、安部首相の辞任により今後「安部色」が薄まることは必須である。(安倍さん、よくぞ辞任してくれたものだ。)

 話は1960年代に遡るが、私が子どもの頃に受けた「道徳」の授業というと、通り一遍の社会通念の押し付けでしかなかった。 例えば、“人には親切にしましょう。”“お友達とは仲良くしましょう。”“親や先生の言うことは聞きましょう。”等々…。子ども心にもつまらなくて白けているのに“いい子”を演じさせられる薄っぺらな時間でしかなかったような記憶しかない。 しかも、それを語っている先生に力量がなく不完全な存在であることを小さな子どもでさえ見抜いているのに、教える側の先生もさぞ身の置き場がなかったことであろう。 その頃、「小さな親切、大きな迷惑」という流行語があったが、この言葉、まさに我が意を得たりの思いであった。

 時代が流れ、学校教育自体が大きく変容する中で、必然的に道徳教育も様変わりしてきている様子ではある。
 子どもの学校参観で何度か現在の学校の「道徳」の授業を垣間見たが、さすがに1960年代のような“子供だまし”の授業はやっていないようだ。 子どもの年齢に応じた身近なテーマ(例、家でのお手伝い、難民問題、等)が設定され、子ども一人ひとりの意見を取り上げ、高学年ではディスカッションの時間が設定されたりしながら授業が進められていた。 私が参観した限りでは決して教員の主観は入れず、結論は出さない方針の「道徳」であった。ずい分と「道徳」も進化している様子に私も一安心したのではあるが、テーマによっては子どもが感情移入しにくいという欠点もあるし、また、正直なところ大人の私が見ても“かったるさ”は否定できない感があった。 おそらくその授業を受け持っている教員の力量による部分が大きい。 場面によっては、子どもの反応を見つつ自己のポリシーをある程度盛り込んでも良いのではないかとも感じる。教員ご本人に皆の立場の違いを察する思いやりがあるならば、本音で語っても相手が誰であれ通じるものはあると思う。

 「道徳」という科目の存在自体が熱く議論された時代もあったが、今やそのような議論さえないまま、当たり前のように「道徳」は存在し続け、この度の教育改革では「道徳」の教科化が持ち上がっていたわけである。 
 教科化とはすなわち、数値での成績評価、教科書検定が伴うのである。 これらは誰が考えても「道徳教育」にそぐわないのは明白である。 今回の教科化見送りで、とりあえずはとんでもない時代錯誤、勘違い教育に陥らずに済んだ訳である。

 道徳心、すなわち倫理観を子どもに身につけさせるのは、本来、家庭の役割である。 親の生き様を見て、親の信念に触れて(つまり、親の背中を見て)子どもは自然に自分なりの倫理観を培っていくのであろうと私は思う。(当ブログ「聖母マリアにはなれない(Part3)」参照) 
 学校等の集団社会においては、友人や教員等、家庭とはまた異なる様々な価値観に触れていく過程の中で、さらに思考の幅を広げつつ子どもは成長していくのであろう。
 そして、社会には多様な価値観があり、道徳すなわち人の倫理観には結論がないことを自然に学習し、故に世の中には様々な対立が存在し、それでも人々は接点を求め平和を求め、幸せを追求して生きていくことを少しずつ理解していく。 それが、本来の「道徳」であろうと、私は考える。

 とりあえず、「道徳」の教科化が見送られたことは何よりの吉報である。 
 
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宝の持ち腐れ

2007年09月19日 | 自己実現
 近年、晩婚、高齢出産を選択する人々が怒涛の勢いで増え、何も特別な事ではなくなっている。 40歳を過ぎてからの出産も今や少しも珍しい事ではないようだ。


 かく言う私も、晩婚、高齢出産の道のりを歩んできている。

 私が適齢期(この言葉も今や死語と化しているが。)を過ぎた頃(今から30年近く前の話になる。)は、まだ、ハイミス、オールドミス、売れ残り、行き遅れ、という類の言葉が生命を持っていた時代であった。
 今思うと、とんでもない差別用語であるし、そもそも私的な事柄であり“大きなお世話”以外の何ものでもないのだが。 
 当時は20歳代後半にさしかかった女性がまだ独身でいると、早くもこれらの言葉に該当するらしく、職場などの組織の中でもそろそろ浮いた存在となり始めるのだ。 それにともない、友人関係や異性関係が希薄化し、人間関係において一抹の寂しさが漂い始める。 自分の意思とは関係なく、周囲からもはや用の無い人間として扱われるような境地に置かれる。
 
 私は、その頃の心境を親しい友人に「何だか最近、自分が“宝の持ち腐れ”のようでもったいない気がする。」と表現したことがある。 それを聞いた友人は「よくまあ、ぬけぬけと言うわ。」くらいに感じたようだ。 が、まだまだ利用価値が十分あるのに、世間は私たちにハイミスだ何だと勝手にレッテルを貼って蚊帳の外に置くなんて、もったいないことをするものだ、と本気で考えていた。 
 私の口から“宝の持ち腐れ”という言葉が出る所以は、当時の世間の常識とは裏腹に、自分自身に(若気の至りゆえの)自信があったからに他ならない。 そんな固定観念に縛られた見識の狭い世間をせせら笑いつつ、私はマイペースで十分に“行き遅れ”をエンジョイし、長い長~い“ハイミス”時代を謳歌した。


 時は流れ、40歳近くで結婚、出産間近で退職し、プレ更年期真っ只中育児に追われているうち、早くも50歳を過ぎ本格的な更年期を迎えている。
 体調は不良気味、頭は老化の一途を辿り、薄毛は進行し、顔はしわとしみだらけになるばかり…。  子どもは未だ中学生で手がかかる。

 再び就業を試みても自分自身が納得のいく仕事はまず年齢制限で門前払い、何とか妥協線の仕事を見つけ、試験、面談にこぎつけても結局は理由不明で不採用となる。(と言うより、雇う側の気持ちもわかる。私が採用者であっても、この就職難で若い人材がいくらでもより取り見取りの時代に、何も好き好んで高齢者を雇うような冒険はしないであろう。仕事の能力が同等ならば、若い人の方が扱いやすいし、体力もあるし、支払う給料も少なくて済むし、いいに決まっている。)
 それでは、趣味にでも励もうかと思いそうはしているのであるが、何事であれ若い頃のように単純には感情移入しにくく達成感が得られにくい。
 人間関係もまた然りである。独身時代の友人とは必然的に一人ひとり疎遠になっていく。周りを見渡せば、同じ子育て中のお母様方はひとまわりも年齢が下だ。 異世代コミュニケーションもたまにはいいのだが、“自”を出した本音でのお付き合いは困難だ。 
 一方で、“適齢期”で結婚し既に子育てが終了した同年代の主婦たちが、楽しそうに第二の人生をエンジョイしている。たまに、お誘いを受けてはみても、どうしてもこの主婦達のノリには同調しづらく自分を抑えたお付き合いとなってしまい、かえってストレスがたまる。


 そしてまた、“宝の持ち腐れ”感に陥らざるを得ない訳である。(と、ぬけぬけと言ってないで、日々、些細な「成功」を積み重ねる努力をしよう。)
 
<「成功の尺度」参照>