原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

原左都子が水面下で学者を目指していた裏話

2015年04月29日 | 自己実現
 朝日新聞夕刊紙面で、4月20日から上野千鶴子氏に関するインタビュー記事が連載されている事は承知していた。

 ところが何分、時を同じくして我が身内が手術入院と相成り、新聞を開く時間すら確保出来ない日々を過ごす羽目と相成った。 
 (お陰様で身内は昨日退院致しました。 現在自宅にて静養中です。)


 私が若かりし頃、上野千鶴子氏の一ファンであったことは当エッセイ集バックナンバーに於いて幾度か記載している。
 現在に至っては、上野氏のご活躍の程に直に触れるのは朝日新聞「悩みのるつぼ」のみなのだが、この新聞コラムを拝見する都度、(僭越ながらも)氏のご回答と原左都子の私論が一致する現象を実感し、身勝手にも上野氏に対して“同朋意識”を抱かせて頂いているのだ。
 何と言っても、上野千鶴子氏の相談者に対する“ズバッと繰り出す直言(苦言も含めて)”が痛快だ! (同様に美輪明宏氏のご回答の程にも、同様の快感を見い出させて頂ける。)
 参考のため他の回答者の場合、朝日新聞読者の視点に気遣っている様子は一応伺える。 が、メジャー新聞のたかが一コラムを受け持っているといったところで、一体誰に迎合せんとしているのか、何やら中途半端な回答にゲンナリする事が多い事実だ。

 
 私が上野千鶴子氏のファンになったのは、遠い昔の我が20代後半期である。 
 当時の私は既に結婚願望がさほど抱けないまま、医学関連企業内での日々の昼休み中に朝日新聞をむさぼるように読み込んでいた。
 おそらく当時の上野氏とは、氏の一番最初の就職先である地方短大の講師をされていた頃だったのではあるまいか?  その時代に上野氏が朝日新聞紙上で展開された持論(今となっては内容を記憶していないが)に大いに触発された私である。 
 その頃とは、我が国のメディア上で“女性学者”の意見が取り上げられ始めた創世期だったように記憶している。

 当時の私は所属していた医学関連企業を退職する事を視野に入れ、虎視眈々と次なる活動を開始し始めていた。  そんな我が行動に大いなる影響を与えてくれたのは、おそらく上野千鶴子氏を筆頭とする若き女性学者達が“世に意見申せる”立場に昇格していた事実である。 (後の考察だが、結果として当時より現在までメディア上で生き延びておられるのは上野千鶴子氏のみではなかろうか? その時代に新聞紙上で活躍していたその他の女性学者達が、現在に至っては“影が薄い”事実が多少気にかかる…)

 そして私は20代後半期にして、今後の我が身の振り方を熟慮した。 ここは私も「学者」を視野に入れた将来を見つめようではないか! 
 私が30歳間際にして学問分野を180°方向転換したいきさつには、そのような背景事情も存在したものだ。


 実際その後、私は30代後半にして大学院修士課程修了直前の秋頃、新聞広告に頼り某私立短期大学専任講師一般公募に応募して、書類選考段階で即刻落とされる運命を経験した。
 ところが当時の現実を語るならば、大学教官になりたい場合(たとえその立場が講師であろうと)自分が所属する大学院ゼミ教官氏の縁故に頼るのが常識だったのだ。
 その事を露知らなかった訳でもないのだが、偶然他ゼミ生の女子学生が教授の縁故に頼り某私立短大の講師に採用“されそうになった”と言う。 その内部実態を彼女から聞きて私は驚いた。 何と、専任講師とは言えども結局は“言っちゃ悪いが”某無名私立短大教授の秘書役。 週に2時間程しか授業をもたせてもらえず、その内容もまったく専門外の「秘書論」との事だ。 しかもその報酬とは年俸たったの300万円程也との薄給たる始末!

 勘弁してよ! との事実だが、要するに国公立大学院出身者と言えどもそれが天下の“東大京大”でもない限り、他大学(短大)にて学者を目指そうとてこれが日本国内の貧弱な実態だったのだろう。
 結果として、当時既に公立高校教員を務めていた私の年収が、名も無き短大にて講師をする事の“倍程”だったため、何の迷いもなくそれを続行する道を選択した。


 話題を冒頭に戻そう。
 
 社会学者の上野千鶴子氏が大学教員を目指されたのは、1979年との事だ。
 氏曰く、その頃の時代背景とは指導教授ですら女には就職を世話しない時代背景。 公募に送って落ちまくり、ぎりぎり決まったのが京都市内の短大だった。 何せ、女とて食わなきゃいけない。 求人欄募集要綱を見るにつけ、自分自身が無芸無能で能力も資格もない女だということに初めて気が付いた。 もうここは、無名短大で専任講師として食っていくしかしょうがないと思った。

 その後の上野氏のご活躍の程が素晴らしい事実こそを、原左都子が存じている。
 確かに、1980年頃の上野千鶴子氏の所属大学が“無名”だった事実を私も記憶している。 京都大学・大学院ご出身の世に名を売られている学者氏にしては、所属大学の名を聞いた事すらないなあ… なる感想を描いた記憶がある。
 上野氏はその後のメディア上でのご活躍による“売名”により、東大助教授及び大学院教授の立場で招かれたと記憶している。 残念ながらその後の上野氏の学者としての業績の程を、さほど認識していない私だ。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
 
 そうだとしても、上野千鶴子氏はやはり素晴らしい。
 恵まれた実家に生まれ出ていながら、こと就職に当たってはご自身のポリシーで積極的に動かれた事が実に素晴らしい。 元を辿れば、それ程のポリシーと行動力を京都大学・大学院時代に培われていた事実こそが圧巻だ。
 そんな勢いがあられたからこそ、上野千鶴子氏とは自分自身の力で学者としてのスタートラインである最初の大学に出逢われたのであろう。

 人々の成功とは、偶然彼方からやって来るものではあり得ない。 本人が本気で努力した結果の賜物であることに間違いない。
 そういう意味では原左都子の場合「学者」になりたいと一時脳裏に浮かんだとは言えども、今振り返ってみても、その夢を本気で描いていたとは到底思えない。
 そんな中途半端な事実こそを反省材料として、ここはあくまでも我が過去に於ける「学者」との夢物語をこっそり“水面下”で語らせて頂くに留めておこう。

毎日同じ場所へ通うという行為の無気力性

2015年04月27日 | 自己実現
 我が身内が大学病院に入院して本日で10日が経過した。
 お陰様で病状が安定し、先が見通せそうな段階に入っている。


 本日の「原左都子エッセイ集」は視点をガラリと変えて、10日間(中2日程休んだが)に渡り病院通いをした我が日々を、まったく異なる角度より考察せんとするものである。

 
 身内が入院している病院へは電車とバスを乗り継いで通ったのだが、比較的空いているバスの車窓を眺めつつ、我が脳裏に過ったのは過去に於ける職場への通勤風景である。

 元々集団嫌いな私だ。 それは学校に於いても職場に於いても例外ではなかった。
 ならば学校はともかく、職場は集団生活を回避できる場を選択すればよいであろう。 確かにその行動も採った。(50歳時点でフランチャイズ自営に挑戦した経歴がある。 ただこれとてその実質は企業側からの“雇われの身”に他ならない事実を、つい先だってのコンビニ訴訟をご存知の方々はご理解頂ける事と想像する。 結局私の場合、多額の損失を計上した後早期撤退を選択する事態と相成った。)
 自営家業を継ぐとの環境下にでも生まれ出ていない限り、おそらくほとんどの市民は集団生活下にある組織体への就業を余儀なくされるのではあるまいか?
 その事態が自らの適性に合致しているのなら、特段問題はないとも考察可能だが…。

 私自身もこと職場に於いては、自己の専門能力を発揮出来るとの意味合いでは、組織体に通う意義は十分にあった。 それ故、短からぬ職場生活を全うしつつ有意義な独身時代を過ごし、ある程度の自己資産も増殖可能だった。 その観点からは、私が過去に所属した職場組織に対して感謝申し上げたい。

 ただ、とにもかくにも“集団嫌い”の私だ。 特に職場へ通う「往路」は日々憂鬱この上なかった。
 何と説明すればよいのか“集団嫌い”の身としては、とにかく「組織体」(社会学でいうところの“コミュニティ”)への“帰属意識”がどうしても抱けないのだ。  かと言って、特段人間嫌いではない私は常に職場内外に親しい人物が少なからず存在した。 片や親しいとは言えないその他大勢の人物達が組織内に存在している事自体が、私にとって煩わしく鬱陶しかったと結論付けるべきか…

 そんな事を我が脳裏に蘇らせる、身内入院病院へのバス内風景と表現可能だ。
 今回の場合、行先が私の過去の専門分野である「医学」関連場所であったことが“災い”し、そのようなマイナス観念が我が脳裏に増長して再現したとも考察出来よう。


 本日身内の合意にて病院通いを休ませてもらい、久しぶりに朝日新聞をめくって発見したのが“悩みのるつぼ”の相談である。
 4月25日付“悩みのるつぼ”40代無職男性の相談によると、「『社会不適応』の私です」とのことだ。

 以下に、その一部のみを要約して紹介しよう。
 40代後半の男性だが、10年程前に地方公務員を辞めて以来、定職に就けない。もちろん未婚だ。 公務員を辞めた理由は多岐に渡るが、その後定職にありつけない。 ただ退職後求人広告を見て、過去に於ける学歴や職歴が一切役に立たない事実を知った。  我が父は元々私と同じ「社会不適応者」でしかも酒飲みだったため、認知症になる前から母や妹を泣かせていたが、既に他界している。 父の「社会不適応」の遺伝子を引き継いだことを自分の代で終わりに出来てよかったと自分に言い聞かせたいが、悔しい思いは消えない。 負け組確定の人生、何を心の支えにすればよいのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より、相談内容を引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 上記朝日新聞相談の男性は、自分を「社会不適応者」と結論付けておられるようだ。 しかも、それは父親から受け継いだ遺伝子のせいであり、自分はそのDNAによる犠牲者??  
 それしきの考察しか不能な人種こそが、次世代にもそのDNAを引き継がせてしまうのではなかろうか??! 40代後半にまで達して、自分が定職に就けない事実をDNAに責任転嫁するとの過ちこそを反省する事から始めてはどうなのか?

 そもそも「社会」とは何なのだ!?
 自分が今通っている“いとも狭き組織体”こそが「社会」??  そんな狭い見識の下に生きているからこそ、自分の首を絞める事態となることを指摘しておこう。

 そもそも「社会」とは何か?  その課題こそを、今現在この世に生きる事を宿命として背負っている個人個人が分析し直しても遅くはなかろう。
 「社会」とは、おそらくこの世を生き抜く人格ある人間それぞれ個々が描く共同体(コミュニティ)に他ならないことに気付く事を信じたい。 
 それ故、その「コミュニティ」に関する心理的多様性が豊富な程に、個人の人生経験が拡大するとの事ではなかろうか。

 そういう意味では、毎日同じ場所に通い続ける人生が存在してもよいのかと、日々病院通いのバスに揺れながら疲れた頭脳で考えたりもする。
 
 現時点に於いて身内が入院している病院(という一集団組織)に、とにかく日々通い詰めようと思える我が現在の心境こそが、今後の我が人生に何らかのプラスになる予感が確かにあるのだ…

介護人に要求される心構えと精神力

2015年04月25日 | 人間関係
 今週の「原左都子エッセイ集」は、現在我が身内が手術入院している関係で、自ずとテーマがそれに関連する話題に偏っている事をあらかじめお詫びしておく。


 昨日も病院を訪れたところ、身内に術後の回復傾向がみられる事に大いに安心した。
 手術直後より多量の出血が続いていたが、ここに来て出血量が目に見えて減少傾向にある。 加えて手術により併発した感染症による微熱も、高熱には至らず経過しているようだ。

 何よりも、患者本人である身内の表情に明るさが見える事実に一番安堵させられる。
 食事に関しては(おそらく微熱の影響により)未だ半分ほどしか食べられないとのことだが、昨日初めて「プリンが食べたい」との要望に沿い、病院内売店でそれを買い求めて来た。  早速その蓋を開けて、介護人である私の目の前で食べ始めてくれた事実こそが、回復の兆しを物語るものと感激すら抱かされた。
 更には自分自身で担当医とある程度の会話も可能となっている様子である。 術後間もない頃には、そんな余裕などあるはずがなかったのは当然だったのであろう。 
 昨日私が病院へ訪れた際に、主治医が身内に対し指摘した現在の病状や今後の展望を、元医学関係者である私相手にある程度詳細に伝えられるようになっている事実にも、身内の回復ぶりを実感した。


 身内が手術入院したのは、今回が初めてである。 (本人の人生に於いても、配偶者である私にとってもまさに初めての経験だった。) 身内のこの度の手術入院事態とは、お互いに高齢域に達している事が幸か不幸か、判断し兼ねるような現在の我が心境だ。

 身内が訴えた病状が“高齢化に伴う”一疾患だった事には間違いない。 そのお陰で私にとっては“子育て終了間際課程”での発病だったことにおそらく感謝するべきであろう。
 何分多少の事情を抱えてこの世に生まれ出た我が子である。 家庭内での日々の我がサリバン指導教育の現実は並大抵のものではなかった。 もしも万一身内の手術入院が我が子が未だ手間がかかる時期だったならば、娘のサリバン先生である我が身としては、おそらく外部から“介護人”でも雇う等の手段を施さねば、娘・亭主両人の世話が叶わなかったことと想像する。
 その意味では、娘が大学4年生に進級している現在に於いて亭主が入院してくれた事実に、実に助けられたと言えよう。


 ところが世の中はそう言っていられる程には甘くはない。
 年齢を重ねたら重ねたなりに、これまた他の介護対象者を我が身に抱えざるを得ないものだ。
 現在、我々夫婦は両方の母の後見人を任されている。 (とは言っても、我が郷里の母など未だ田舎過疎地に一人暮らし状態で放置しているが…)

 我々夫婦は亭主の定年退職後「独立採算制」を採用し実行しているため、互いの家系親族の相続財産に関しても、双方がそれぞれにその財産を引き継ぐ事をも約束している。

 そんな中、亭主側の義理母は、一昨年長女である実の娘を膵臓癌にて亡くすとの不運に苛まれている。 その後頼るべきは長男夫婦(我々夫婦)との事実だ。 
 我が家が夫婦間の「独立採算制」を採用しているとは露知らぬ義母が現実問題として日常一番頼っているのが、実は“他人”の私である… (要するに、私としては義母より微々たる税務管理手数料を受け取るのみで、義母死去後の遺産はすべて亭主のものとする約束だ。 それを義母は一切知らず、自分の死後遺産が夫婦の共有財産となるものと理解して現在私を全面的に頼っている。

 今回身内が手術入院するに当たり、義母に対し如何なる対応をするべきか事前に話し合った。
 私の意見としては、「お義母さんに今さら貴方のお見舞いに来てもらうとて、私がケアマンションまで迎えに行かねばならないとの余分の手間が発生して鬱陶しいのみだ。 しかも医学に関してド素人の身にしてプライドばかりは健全な義母に病院に来てもらったとて、弊害こそあれメリットなど一切無い。 今回の手術入院は義母にバレるまで内密にしておこう。」
 その我が意見に従い、身内も入院前に義母からの見舞い拒否に賛同していた。

 それでも、必ずやケアマンションに住む身内の母(義理母)から亭主入院中に私の元に電話が来るのは想定内だった…。
 覚悟はしていたものの、やはり多少痴呆が混ざっている義母が亭主手術直後に電話を掛けて来て私に告げるのは、どうでもよい自分本位の課題だ。 
 それをしばらく聞いた私だが、何分病院にて手術後体調が安定していない亭主を抱える身である。 「お義母さんのお話は把握しました。 申し訳ないのですが実は現在お母さんの息子さんである亭主が大学病院で手術をしたばかりです。 体調が良くなりましたら連絡しますので、私から連絡をするまでお待ち頂けませんか?」

 ところが痴呆が混ざり耳も遠い老人にとっては、これは理解不能な無理難題だった様子だ…
 次の日にもケアマンションの義母から私に電話がかかって来た。 「○子さん(私のこと)に幾度も電話を掛けているのにいつも出ないけど、○子さんは仕事にでも通っているのかしら??」
 私が応えて曰く「昨日の電話で、お母さんの息子さんが現在入院している事は申し上げた通りです。そのため私は毎日病院へ通ってその世話をしています。」
 義母応えて曰く、「あ~~。それそれ。 私は息子が入院している病院へ行きたいのよ!」
 私応えて、「息子さんは現在体調がすぐれないため、おそらくお母さんにお会いしたくない心境と思います。 今後息子さんの体調が回復しましたら、お母さんにお見舞いに来ていただけるよう私が手配しますので、もうしばらくお待ち下さいますように。」…


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 介護人の立場として手術後入院中の患者に対し何を一番最優先するべきかを考察した場合、当然ながら今後真に回復するべく未来を見守る事であろう。
 ところがそんな簡単な事を、痴呆が混ざる義母に理解してもらう事が難儀な事実に直面させられ嫌気がさす。
 患者本人の病状や意思にかかわらず、義母とは自分が息子の病床に立ち会う事こそが一番の“お見舞い”と勘違いしている始末…  一体全体自分が何様なのかまったく客観視出来なくなってしまっているお粗末さを、哀れにすら感じる…。

 いやもちろん、我が亭主にも入院中に義母に来て欲しいか否かに関して質問した。  そうしたところ、「もし入院が長引いた場合、来てもらってもいいかも…」 なる軟弱回答だ。
 あのさあ、その際私があんたの(痴呆が混ざり歩行力も十分でない)母を病院まで連れて行かねばならないとの“更なる労力”をも考慮した上での発言かなあ…   私とて現在腰痛に悩まされつつ日々入院中のあなたの介護を続けている現状を、誰にも一切告げずに精一杯頑張っている身だけどねえ…。
 と言いたいのを堪えた…。

 要するに介護人である身に課せられる条件とは、いつ何時も弱音など吐かず、介護される立場にある人物の要求に添えるべく心構えと強靭な精神力を備えているべきと悟る私だ。

 実際問題、現在の私は(要介護の身の義母の我がまま対応も含め)心身共に疲れ果てている…

今時の大学医学部附属病院病棟レポート

2015年04月23日 | 医学・医療・介護
 我が身内が先週大学附属病院に入院し4月20日に手術を受けた関係で、ここのところ日々病院通いにて身内のフォローに当たっている立場だ。

 それ故、現時点の原左都子の興味・関心視点がどうしても当該病院内光景に向かざるを得ない状況下にある。


 私自身が遠い過去に於いて国立大学医学部(パラメディカル分野)に在籍していたため、大学附属病院にて実習を強制される身にあった。
 元々医学になど一切興味がないのに、親から(単に郷里に残れ!との理由で)この進路を強制された私だ。 それ故(特に患者様達には実に失礼な話だが)、当時日々の病院実習に大いなる違和感を抱きつつ、私にとっては無駄とも表現可能な煮え切れない日々だった記憶しかない。
 病院独特のあの特殊な匂い…。 種々雑多な患者氏達が訪れるのみで何らのポリシーも抱けない、ただ単に混雑している病院内の風景…。  それら社会的弱者であられる患者氏達に対し、対等な立場で医療に臨んでいるとは到底思えない大学病院職員側の横柄な対応、等々…  すべての光景が私の脳裏に“無機質感”“虚無感”を抱かせる事態だった。
 そんな私は、自らの就職先として決して我が趣味範疇ではない“病院臨床現場”など断固として避け通した。 そして新卒就職先には自ら民間企業を選択し、上京後私なりの医学経験を重ねて来ている。

 月日が経過し、我が子を産んだ直後ともいえる40歳時に私の体内に癌が発見された。
 その時癌摘出手術のためお世話になったのが、(実に偶然だが)亭主が先だっての4月20日に手術を受け現在入院中の病院である話題は、一昨日当エッセイ集にて公開済みだ。


 さて、それでは私自身が当該大学病院に20年前に入院し癌摘出手術を受けた立場として、現在の病棟内が如何に変遷しているかに関し、以下にレポートしよう。

 当該大学病院にて私が手術入院した時点の印象とは、直に対応してくれる医師団、及び看護師(当時は未だ看護婦との名称だった)が実に懇切丁寧かつ優しく対応してくれた事を記憶している。
 
 その一因をここで考察するならば、特に当時の看護婦達とは皆が白いワンピース姿(現在歪んだコスプレにて人気のごとく…)に加え、頭にハットを付けていた。 そのコスチューム自体が患者達に“優しさ”や“美人度”なる心理的和み感を煽っていた時代背景だったのではあるまいか?? 
 当時40歳だった私とて例外ではない。 そんな美人かつ若き看護師氏達が病室を訪れ「体調は如何ですか?」なる声掛けをして下さるのみで、女の立場でも病状が回復する思いだったものだ。
 
 時を現在に移そう。
 看護師もズボン着用のセパレートユニフォームが常識と相成っている現状だ。これは時代の趨勢であり職業着として進化した事実に関しては私も重々ガッテンである。  しかも、ほとんどの看護師氏が常にマスクを着用している。
 職業人としての看護師氏の未来発展を願うならば、これぞ理想のユニフォーム姿である事に間違いない。
 一方で、不謹慎ながらも必然的に“美人度”が低下し、入院患者側の期待からは遠く離れ、病状回復を遅らせる予感も邪心ながら抱いてしまう…。


 次に医師達に関する私見を述べよう。

 当該大学病院は某私立大学附属である。
 4年程前に私が娘を大学に進学させる時点で、様々な私立大学の学費の程を調査した経験がある。 そのうち当該私立大学医学進学過程へ子供を入学させるためには、在学6年間で最低限5000万円也!の学費が必要な事実を私は把握している。
  
 そうかそうか、この病院内で若気の至りの立場で蔓延っている医師達(研修医も含め)はすべてその金額の恩恵を受けた後に、この病院に就職しているのか…??
 (ただそうでもない事実も把握している。 大学医学部幹部教授陣とはたとえ私立であれ、実務及び研究業績を積んだ人物を外部より招いているものだ。 もちろん生え抜き優秀者もおられるであろうが。)

 まあそれにしても、どう見ても大学内部の特に若き医師どもが、うだうだと病棟内を闊歩している姿に辟易とさせらる…  エレベータ内で公然と私事をくっちゃべり合う医師連中にも出会った…
 あんたたちねえ、まだ研修の身(?)だとしたら、廊下やエレベーター等で出会う患者さん達に挨拶でもしたらどうなの??  少なくとも、その“うだうだ歩き”は病棟内では慎みなさい。  患者家族の身としては、病院内でヤクザにでも遭った気分にしかならないってものよ。 


 もちろん、貴方達が今後成長した暁には立派な医師として活躍するであろう事に期待しているよ。 
 ただやはり、現況下の医療業界に於ける「三角ミラミッド」構造とは、各医学分野職員の実力に関わらず医師こそトップに君臨する事実が今尚揺るぎない現状だよね。

 それが証拠に、いつ何時我が亭主の病状に関し病室を訪れる看護師氏に質問しても、「医師に伝えておきますので後で担当医ご確認下さい」なる返答しか返されない現状だ。
 パラメディカル職員達を僕にその頂点に君臨している医師達が、患者やその家族達で溢れている病棟内を“ヤクザもどきに集団でうだうだと”闊歩してどうするの?!?

 少しは医療業界「ピラミッド頂点」を将来担うべく医師としてプライドを持ち、少なくとも病棟内で出会う患者達に毅然とした態度で挨拶(一言掛ける)等のキャパを発揮しても将来的に損はなかろうに… 

手術を受けるより傍らで見守る方がよほど重圧

2015年04月21日 | 医学・医療・介護
 昨日、私の身内(亭主)が大学病院にて手術を受けた。


 原左都子の場合、元医学関係者である事が一番の理由で、出来得る限り医療に依存しない人生を貫いている。 これに比し、身内は元々医療依存度が強い人間である。 
 このように、こと医療対応に関しては全く相容れない両者であり、少し前までは見解の相違でよく対立したものだ。
 「深い思慮もなく医療に依存し過ぎるから不要な検査や薬漬けに陥り、更なる体調不良を招いているんだよ! 貴方も科学者の端くれならば、少しは科学的観点に立って物事を冷静に思慮判断したらどうなの!?」と、私はよく亭主を責め立てたものだ。  ところが私の叱責などお構いなし。 好き放題医療に頼る亭主の机の上は、ありとあらゆる医療科の“診察カードコレクション”で溢れている。

 そんな亭主が既に定年退職した身分となりては暇に任せて病院へ通う日々だが、言っても聞かない事だし医療バトルするのも疲れるしで、本人の自由意思に任せていた。 
 その陰で私なりに亭主の不調を“問診”しては“裏診断”している事に亭主は気付いていないだろう。 元々精神力が強靭とは言えない亭主の場合、どうもほとんどの病状が精神的弱さに基づいていると結論付けるのだが、大方はその通りのご意見を主治医より頂戴してくる始末だ。


 ただ、人間の体とは確かに老化の一途を辿る宿命を負っている。

 亭主が通っている数ある医療科の内、某科(ここではプライバシー保護観点で公開を避けるが)に於いて放置不能な病状が発見されたのは昨年末の事だ。 
 大学病院主治医より「手術」措置の診断が下された後、度重なる各種検査(癌の疑いもあった)を経て、病室ベッドの空きを待つ運命となった。(都会の大病院は何処もゲロ混み状態であり、癌末期でもない限りベッド空き待ちを余儀なくされるのが通常だ。)
 そして、4月17日に入院。 昨日(4月20日)に手術の運びと相成った。

 
 私自身が過去(20年前)に癌摘出手術のため、(偶然今回亭主がかかっている)大学病院にてお世話になっている。 
 そんな私にとっては大学病院での手術は手慣れたものだが、今回は傍で見守る役割である。

 入院初日17日に外来診察担当医師による、家族相手(要するに私相手)の手術事前説明が実施された。
 私の手術時にも亭主が見守り役でやって来て説明が実施されたが、その際には既に医学関係者の私自身が担当医と十分に話し合いを済ませていたため、ごく短時間で済んだ。
 ところが今回亭主の手術説明に費やされた時間は1時間にも及んだ。 と言うのも、私の“ツッコミ”が容赦ない。
 だが、それより感じたのは医療現場に於いて“説明責任”体制が20年前に比し各段に進化している事実である。 とにかく、何を聞いても担当医が即刻解答してくれるのだ。 ある時は臓器組織を図示しつつ「ご主人の場合患部の線種がこれ程の大きさになっている」とか、「腹腔鏡をここから通す」とか、「もしかしたら腹腔鏡がこの組織を突き破った場合大出血の恐れもある…」(それは勘弁して欲しいものだが) 「術後感染症の恐れもある」 「一度で取り切れない場合、期間をおいて再手術の場合もあり得る」等々…
 そして、出血多量の場合輸血対応を想定して「輸血同意書」にも印鑑を押し、事前説明を通過した「同意書」にも署名捺印した。

 全国津々浦々の大病院にて、腹腔鏡手術後短期間内に多数の死亡者が出ている現況下だ。 
 患者本人及び家族に対し説明責任を果たし「同意書」に署名捺印させておかない事には、もしやの医療事故発生後の責任問題対応に医療現場は苦慮する事であろう。
 そうだとしても、今回1時間にも及んで主治医より詳細の手術事前説明がなされた事実に、私は大いに安堵し一旦帰宅した。


 昨日はいよいよ手術日。
 手術中待合室にて手術終了を待つ時間とは、重圧に押しつぶされそうな感覚だ。 自分自身が手術を受けた方がよほどマシな気さえする。
 アナウンスにて手術終了を告げられ、私は手術室へ向かった。 早速オペ担当医より術後まもなく説明を受けたのだが、一見して医師のマスク顔の目に安堵感が漂っている。 (これは手術成功に間違いない!)事を確信した私に、「無事に手術は終了しました。」との報告だ。  亭主の体内から取り出した線種の残骸を見せてくれつつ「80gが採取出来ました。これで時間が経過すれば体調は良くなる事でしょう。」 「出血はどの程度でしたか?」との我が問いに対し「全く問題ない量でしたので輸血の必要はありませんでした。」と明瞭に解答して下さった。

 術後すぐに病棟ナースステーション直結の特別病室に運ばれた亭主が、私の顔を見るなり「痛い!」「痛い!」と半分意識朦朧としつつ酸素マスク着用状態で唸り始める。
 見るからに可愛そうで出来れば変わってやりたい心境だが、ここは本人の踏ん張りどころだ。 一応モニターにて脈拍数や血圧を確認したところ、まあまあのデータが掲示されていて多少安心した。 額に手を当てて高熱も出ていなさそうと判断した。
 昨夜はこの特別病室にて一夜を明かすとの看護師の説明だ。
 「痛いの辛いけど、我慢して。 明日また来るからね。」と言い残し、心を鬼にして私は帰宅した。

 本日も午後、病院へ様子を見に出かける予定だ。 少しでも痛みが緩和しているとよいのだが…


 
 P.S. 
  しばらく病院通いをして入院中の亭主の見守り役を続行するため、「原左都子エッセイ集」執筆が不定期となりますことをお知らせしておきます。