原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

iPS臨床応用 丼予算計上より法規制を優先せよ

2013年01月31日 | 時事論評
 一昨昨日の1月28日に召集された第183回通常国会の所信表明演説に於いて、自民党安倍首相は自らが構想する経済政策 「アベノミクス」 を前面に出す言及を行った。
 
 この「アベノミクス」に関しては、既に野党や産業界、諸外国よりの反発を招き、敵対心を煽っている現状である。
 原左都子の私論としても、一部の期待感で株高や円安等経済指数の急変動をもたらしてはいるものの、実質的経済力の裏付けなき一国の身勝手な国力増強政策が国内外で今後どこまで機能し得るのか、不確実性の高い政策と捉えている。
 (「アベノミクス」に関してはまた日を改め、我がエッセイ集において議論の叩き台としたい。)


 さて、今回のエッセイでは表題の通り 「iPS細胞臨床応用研究」 に関する現状の問題点を取り上げ、私論を展開することを目的としている。

 自民党安倍政権は「アベノミクス」経済政策の一環として、iPS細胞臨床応用研究にも数千億円に上る巨額の国家予算を注ぎ込もうとしている様子だ。
 昨年京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞研究によりノーベル医学生理学賞を受賞したのに伴い、国内において当該研究の知名度及び市民の期待感が高まっている事を受けての巨額予算計上と私は理解している。 (早い話が、これまた自民党の夏の参院選対策票取り目的と私は解釈しているのだが…

 と言うのも元医学関係者の原左都子としては、そもそも昨年山中氏がiPS細胞研究によりノーベル賞を獲得した事自体に対し、疑義を抱いている。
 「原左都子エッセイ集」2012年10月バックナンバー 「科学基礎研究の終点は『ノーベル賞』なのか?」と題するエッセイにおいてその疑義内容に関して論評しているため、以下に少し反復させていただこう。
 原左都子が今回懸念するのは、「iPS細胞」研究に対してノーベル賞を贈呈するのは時期尚早だったのではないかという点だ。 と言うのも、「iPS細胞」は未だ基礎研究段階を超えてはおらず、人間の命を救うべく臨床医学に達していないと考えるべきではあるまいか?  決して、今回の山中氏の「ノーベル医学生理学賞」受賞にいちゃもんをつけるつもりはない。 ただ原左都子が考察するに、「ノーベル賞」受賞対象となる科学分野の基礎研究とは、医学生理学賞、物理学賞、化学賞を問わず、現在までは当該基礎研究の成果が既に世界規模で実証されていたり、経済効果がもたらされている研究に対して授けられて来たような記憶がある。 それら過去に於けるノーベル賞受賞対象と比較して、山中氏による「iPS細胞」研究はご本人も言及されている通り、まだまだ研究途上と表現するべきではあるまいか? 
 今回のエッセイの最後に「ノーベル賞」を筆頭とする「賞」なるものの意義を問いたい私だ。 「賞」を取得したことでその人物の今後の道程を歪めたり、更なる発展意欲を縮める賞であるならば、その存在価値はない。 そうではなく、受賞者に今後に続く精進を煽る意味での「賞」であって欲しいものだ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより私論部分の一部を引用)


 上記エッセイを綴った後に、私は朝日新聞紙面「声」欄で、これまた私論と一致する内容の投稿を発見した。
 少し古くなるが2012年11月9日の「声」欄で公開された51歳男性による「iPS細胞、畏れ忘れずに」と題する投書の一部を、以下に要約して紹介しよう。
 京都大学研究チームがiPS細胞から卵子を作るのに成功したとの報道に触れて戸惑った。 数日後、山中伸弥氏のノーベル賞受賞が決まってからも違和感を拭えずにいる。 iPS細胞はあらゆる臓器を作れる可能性があるらしい。臨床応用が実現すれば、難病の苦しみから解放される人々の数は計り知れないことは理解できる。それでも…  「倫理上の問題」解決を急ぐことなく、一つひとつの臨床応用について十分な議論がなされるよう望む。


 「iPS細胞臨床応用研究」とは、上記朝日新聞「声」欄投書者が懸念されている「倫理面」での問題に加えて、「再生医療現場における患者への人体リスク」との大きな問題を孕んでいる事実も厄介な課題である。

 朝日新聞1月29日朝刊一面記事によると、自民党政権厚生労働省は「iPS細胞臨床応用研究」に於ける安全確保を目的とした「再生医療規制法」案により、人体へのリスクが大きい治療を計画する医療機関には国の承認を求め、患者に健康被害が出た場合の補償を義務付けるとの報道だ。 現在開催されている通常国会での提出、成立を目指すという。

 原左都子の私論としては、「iPS細胞臨床応用」へ“丼勘定”で巨額の歳費計上法案を国民の前に提示する以前の問題として、上記「再生医療規制法」案の提出こそを優先して欲しかった思いだ。
 世の中には、必ずや“便乗組”が存在するものだ。 朝日新聞同日別ページの報道においても、既に「再生医療便乗組」の野放図な“便乗”の実態が取り上げられている。 例えば、民間クリニックの間では既に万病に効くとPRする“似非再生医療”が広まっているとの報道である。 その効果や安全性は確認されておらず、公的医療保険が使用できない段階の中、自由診療で数百万円が支払われる事例もあるという。


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 そもそもこの国の「健康医療教育」がお粗末過ぎることに関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて幾度となく訴えてきている。
 その弊害故に医療に関する知識が乏しい市民が一旦体調を崩した場合、老若男女を問わず直ぐに医療機関へ直行する事態となる。

 京都大学教授であられる山中伸弥教授グループのiPS細胞研究、ひいてはそれによる昨年のノーベル賞受賞はもちろん讃えられるべきであろう。
 片や、昨年末に発足したばかりの自民党政権がそれにすぐさま便乗して巨額の予算を計上することを、山中教授は如何に捉えられているのであろうか?
 元医学関係者である原左都子が推測するに、山中氏とて国による巨額予算計上は一応うれしいであろうとは思う。  その反面、再生医療がもたらす“倫理面”での問題、及び悪質な“再生医療便乗組”の出現にも頭脳明晰な山中氏ならば既に思いを馳せられておられることと信じたい。

 そうであるからこそ、ノーベル賞との誉れ高き賞を取った国内研究者の今後更なる研究を妨げないためにも、国政には何を優先するべきかを熟考した対応を期待したいものである。

人付き合いは自然体が一番!

2013年01月28日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」3本前のバックナンバーに於いて、「『ソーハラ』を悩む前に交友関係をふるいにかけよ」 と題する人間関係カテゴリー記事を公開したばかりである。

 我がエッセイ集を5年来ご贔屓にして下さっている常連読者のK氏より、某SNSサイト上に上記エッセイに関するコメントを頂戴し、それに対し返答申し上げた私だ。
 以下に、その我が返答コメントをそのままコピーして紹介しよう。

 Kさん、居酒屋が大好きで夜な夜な同僚との交友を深めていた古き良き時代が飲兵衛の私には確かにありました。 あの頃は酒のマナーどうのこうのと社会から後ろ指を指される事もなく、飲兵衛が大手を振ってのさばれた時代でした。 下戸の方々からすれば昨今を問わずとんでもない話かもしれませんが、酒の勢いでののしりあっても次の日にはまた一緒に杯を交わせる、そんな信頼関係が飲兵衛の間には成り立っていたものです。 
 話を変えて、人間が懇親に付き合える相手とは一生に渡り数える程の少数であるのが普通と私は心得ています。 某SNSサイト上でも友達の「数」を誇るがごとく数百人いえ、数千人の友達登録をしている方を多く見かけますが、商売人寄せ目的ならばともかく、一般人がそれをして何の得になっているのか私も不思議です。
 年老いて死を迎える時に、“あの人と知り合えたことが私の財産だった”と言える人物が少数存在する事こそが幸せと私は信じています。  Kさんが書かれている旧友との付き合いに関してても、私も慎重に対応するべきと考える派です。 時の流れというものは必ずや人の人格を変えるものですが、それを心得ず過去の感覚のまま接してこられる無礼さを私自身よく経験します。 
 ましてや、ネット上で見知らぬ人物と交流しようとする場合、まずは無礼とならない対応を心得るべきでしょう。 ネット上でも長く付き合いが続く相手というのは信頼関係が成り立っている証拠と捉えています。 長いお付き合いのKさん、今後共よろしくお願い致します。
 (以上、某SNSサイトに原左都子が投稿したK氏への返答コメントより引用)


 さて、本題に移ろう。
 
 「原左都子エッセイ集」でお馴染みの朝日新聞「悩みのるつぼ」1月26日の相談テーマは、18歳男子学生による 「人と友好関係を維持出来ません」 だった。

 男子学生の相談内容を紹介する前に、今回の回答者であられる 歌手・俳優 三輪明宏氏の「人付き合いは『腹六分』でいい」と題する回答内容が、上に引用した原左都子の返答内容とダブる部分があるため、その回答内容から先に以下に一部を要約して紹介しよう。
 人間の付き合いというのは「腹六分」がちょうどいい。いつまでも付き合える人は一生に何人も出てこない。 親友なんて一人できればいい方で、助けが必要な時にいつでも助けてあげて、普段は当たり障りのない距離で見守っている人こそが親友でしょう。 何から何まで悩みも聞き、金も貸してくれる、そんな便利な人はいるはずがない。 離れていく人はニセ者だから、惜しむ必要はない。 本物は離れない。 仲良しだけれども、つかず離れず、それが大人の関係というものでしょう。
 (以上、「悩みのるつぼ」三輪明宏氏の回答より一部を引用)

 そろそろ還暦を迎える年代の原左都子だが、もっと人生の大先輩である三輪明宏氏には失礼を承知の上で、氏と交友関係に関してほぼ同様の思想を抱いていた事に大いに感動の私である。


 それでは、今回の「悩みのるつぼ」18歳 男子高校生による相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 私の悩みは、人との友好関係を維持できないことである。 人見知りであまり話すのが得意ではないが、少数の友人や定義は難しいものの親友という感覚の友達もいる。 ただ、何年か前は仲がよかったが喧嘩したわけでもないのに校内ですれ違っても挨拶すらしなくなってしまった人物がいる。 つまり、私には在学中に理由もなく疎遠になってしまった人物が多いのだ。
 私のような人間が高校卒業まで、さらに将来社会に出てやっていけるのか? このような体験をした人が私以外にもいるのか?  高校生活を振り返ると自分に問題があるのかと悩んでしまう。 大学受験を間近に控えた私の自分勝手な悩みかもしれないがご意見をお聞かせ願いたい。

 今回の回答者であられる三輪明宏氏も、この相談に対する具体的な指示を述べておられる。 
 それを再び紹介しよう。
 今や人生90年。 成長も進化も遅くなり、30歳でやっと成人式との印象。 40歳、50歳になるとようやく経験を積んで大人になると言うか…。 10代では人間の「新品」だ。 世の中がまだ分かっていない。
 あなたは全体的に暗い表情の人ではなかろうか? 微笑がない人に近づく人はいない。 口下手なら、聞き上手になればいい。 いつもゆったり微笑みながら、知識、教養、技術を身に付ける努力をすればいい。 (それらは)誰からも必要とされる。
 (以上、三輪明宏氏の回答から再度一部を引用。)


 最後に、原左都子の私論に入ろう。
 
 上記の三輪明宏氏のご回答内容に関して言えば、“一部”を除きごもっともである。 (その“一部”に関しては最後に私論を展開させていただこう。)

 まさに三輪氏がおっしゃる通り、人生90年時代の現代だ。
 それは相談者である18歳男子高校生に限ったことではなく、還暦近い年代の原左都子とて、ほんの少しばかり人生経験を積めてやっとこさ大人になりかけている感覚であるぞ。
 三輪氏がおっしゃる通り、10代など人間の新品でしかない。 世の中が分かっていなくて当然であろう。

 ただ、この18歳男子高校生は周囲への気遣いができるハートを生来的に持ち合わせていると、相談内容から私は感じる。 今はそれで十分ではなかろうか。
 三輪氏がご指摘されているような笑顔を、何も今現在無理にしつらえて周囲に振りまく必要はないと原左都子は結論付けたい。 むしろ、周囲の生徒とてピリピリせざるを得ない現在の若者群像を考察した場合、そんな作り笑顔などバレバレなのが歴然の過酷な現実世界でもあろう。

 今後男子高校生が進学して学業に励み自分の専門を貫く努力を重ねる過程、その後社会に出てもっと幅広く活動する過程が今後の人生に待ち構えている。 それらの階段を一歩ずつ踏み進み、知識、教養、技術を積み重ねる努力を続ける中で、いくらでも同類の人種と知り合え共感できる機会は到来するものだ。

 その時点で男子生徒が生来的に持ち合わせている自前のハートが自然体で表出することにより、少数であっても良き友好関係を築けたならば、それで十分な人生ではなかろうか?


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 別件ですが……

 本日(1月28日)午前9時頃、私どもがネット上に公開しております当「原左都子エッセイ集」メッセージ欄に、「通りすがり」様名にてメッセージをお送り下さった方にこの場でご返答申し上げます。

 おそらく今回初めて「原左都子エッセイ集」をご訪問下さったものと承知申し上げます。
 この度は、私どもがネット上で公開しております拙いエッセイ集をご訪問頂き、誠にありがとうございました。
 「通りすがり」様のご指摘によりますと、我がエッセイ集は誤字脱字が多いとの事です。 その失態を反省し心よりお詫び申し上げますと共に、今後更に校正、監修作業を強化して参りたいと存じております。
 もう一点、私どもの記述に「人を見下している表現がある」とのご指摘がございました。 これに関しましても、今後当該ご指摘を肝に銘じそのように読者の皆様がお感じになられる表現に関しましては改善して参りたいと心得ます。
 貴重なご意見をありがとうございました。
 今後共、「原左都子エッセイ集」は皆様のご訪問をお待ち申し上げております!! 

ネットバンキングは利用しない慎重派の私

2013年01月26日 | 時事論評
 昨年秋頃、インターネットバンキングのホームページに偽のログイン画面が表示され、その画面にパスワードなどを入力してしまった預金者の口座から、預金が不正に引き出されるとの事件が多発した。

 この事件はゆうちょ、三菱東京UFJ,三井住友、みずほ等の大手銀行のみならず、ネット銀行やカード会社等も巻き込み、被害が広範囲に及んだようだ。
 従来のフィッシング詐欺被害の場合、銀行のサイトに似せた偽の銀行のサイトに預金者を誘導し、そこにログイン情報を入力させ預金を不正に送金する、という手法で行われていた。 しかし昨年秋の事件では、実際の銀行のウェブサイトにアクセスして事件が起きたのが特徴との事である。
 日本経済新聞の報道によれば、不正事件は特定のウイルスに感染したパソコンで起きているそうだ。 ウイルス感染パソコン画面にパスワードなどを入力すると、入力されたデータが犯人に送信され、犯人は不正に得たログイン情報を元に口座に侵入し、犯人の用意した口座に振込の指示を与えて預金が不正に引き出されるとのしくみのようだ。
 (以上、ネット情報を要約して引用)

 当該事件に関しては、その後警察庁が暗証番号の入力を求めるなどの不正画面を表示する原因とみられるウイルスを検出した、と見聞していたのだが…


 ところが、本日(1月26日)昼のNHKニュースによると、またもや三菱東京UFJ銀行ネットバンキングにおいて、1000万円を超える預金が不正に送金される事件が勃発したとの報道だ。
 今回の場合、契約者本人のみが保管している「契約者カード」の裏面に記されている「確認番号」をネット画面に記載せよとの指示が表示され、それに従った結果不正送金と相成ったとのことだ。

 ここで「契約者カード」に関する私事を述べると、私も日頃「テレフォンバンキング」は利用しているため、当該「契約者カード」を手元に保持している。 裏面に記されている「確認番号」とは「暗証番号」同様に極秘扱いとするべき番号だ。 にもかかわらず、被害者は何故画面の指示に従って「確認番号」を入力してしまったのであろう??


 さらなる私事に移ろう。

 私は現金預貯金資産管理に関して、一貫して“慎重派”である。
 それ故に、現在に至って尚「インターネットバンキング」は一切利用していない。 面倒ではあるが逐一ATMに出向くか、あるいは銀行の窓口で高額の手数料を支払い各種取引をしている。
 現在、ATMでは引落しも送金も(特別な手続きをしない限り)取引額が1日50万円以内と定められているため、それを超過する取引をしたい場合は取引完了まで何日もATMへ出向くか、あるいは混雑した窓口を利用せねばならず、大いなる時間と手数料の無駄となる。 それでも私は“安全性”にこそ重きを置いてその煩雑さを日々耐え忍んでいる。

 次に私がお金に関して慎重派である証拠となる私事具体例を、以下に列挙させていただく事としよう。

 先だって娘の振袖を“全額現金一括払い”により仕立てた際、呉服店より「友の会」入会を奨励された。 その手続段階において、会費引落銀行口座番号をその場で申込用紙に記載して欲しいと定員氏が言う。 「現在その番号を持ち合わせておりませんが。」と私が応えると、「キャッシュカードに記載されていますのでお客様がお手持ちのカードからそれを記入して頂けるだけで結構です」…  「ん???」
 (要するに、一般の人々とは銀行のキャッシュカードを財布に入れて常に携帯しているということなのか??) とひらめいた。  「申し訳ないのですが、私は盗難紛失等防止目的で普段銀行のキャッシュカードを持ち歩いていません。」と応えると、若き店員氏は狐につままれたごとくの不可思議感を露骨にする。(この客、実は銀行口座すらない程の貧乏人か?!? 今回一括払いした現金は一体何処から仕入れた資金か?? と勘ぐられただろうか…)
 見知らぬ他人にどう思われようが、慎重派の私としてはその時に必要な「現金」を一時のみ持ち歩けど、銀行キャッシュカードを常に携帯する訳にはいかない。  カードは必要最低限の所持としたいと常に心得ている。 クレジットカードとて同様だ。必要時にのみ携帯する習慣が身についている。
 ついでに言うと、現金もその日の支出予想額に若干加算した金額を日々ちまちま計算し財布に入れて持ち歩く私である。 


 ここで、再度ネット記事より「インターネットバンキング」に関する庶民の対応及び感覚の実態調査結果を紹介する。
 約6割の人がインターネットバンキングのセキュリティーに不安を感じる―。 ジャパンネット銀行の調査でこんな結果が出た。大手銀行のネットバンキングで暗証番号を入力させる偽画面が出る事件が相次いでおり、国民の不安が高まっているようだ、としている。
 またスマートフォンの普及に伴って増えているネットバンキング専用のアプリ(ソフト)についても質問した結果、便利と感じる人が約9割に上る一方、アプリで個人情報が流出する事件があったためか「インストールするのは不安」と答える人も多い。

 ついでに既に陳腐な情報ではあろうが、今後市民が「ネットバンキング」不正引出し被害に遭わないようにするには如何に対応するべきかに関するネット情報を追加しよう。

 1.ウイルスに感染しない
 怪しいサイトにはアクセスしない、怪しいメールは開かないといったことに気をつけよう。何が「怪しい」のか「怪しくない」のかの判断は非常に難しい。見知らぬアドレスから届いたメールは絶対に開かないといった最低限のことだけでも守ろう。

 2.セキュリティソフトを導入する
 どんなに気を付けていても、ウイルスに感染するリスクはゼロにならない。ウイルスに感染しないよう、またウイルスに感染してしまったときのためにアンチウイルス機能があるセキュリティソフトが必要。
 
 3.ネットバンキングのログイン画面に注意する
 銀行によって違うが、一度に複数の合言葉の入力を求められることはない。 そうした異常に気付けるよう、ネットバンキングを利用するときは普段から気をつけるべき。

 4.口座の入出金履歴をチェックする
 日頃から怪しい入出金の記録が残っていないかをチェックしておくことが必要。 預金者に重大な過失が無ければ、預金の不正引き出しによる被害は銀行が補償する可能性が大きい。 被害に遭ったことに気づかなければ、補償を受けることもできない。
 (以上、ネット情報よりその一部を要約して引用したもの)


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 「インターネットバンキング」の被害に遭う人種とは、その人物像が特定されそうに私は感じる。
 一攫千金でカネを得た人物。? 
 ネット世界をさほど心得ないにもかかわらず、それに依存している人物。?
 金融機関ひいては経済社会システム等々を心得ずして、カネを保持している人物。?
 カネの有効な使い道に思いを馳せられない人物。?

 列挙すればきりがないため、この辺でやめておこう。
 繰り返すが、原左都子は今後しばらく「インターネットバンキング」を利用する意思はないし、不必要にキャッシュカードを持ち歩くつもりもない。

生徒を自殺に追い込んだ学校及び社会が取るべき対策

2013年01月24日 | 教育・学校
 大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将の男子生徒が、顧問の男性教諭より体罰を受けた翌日自殺に追い込まれるとの痛ましい事件が起きたのは、昨年12月中旬のことであった。

 事件発生後から1ヶ月程が経過した1月中旬頃になって、ようやく大阪市教委の顧問教諭に対する聞き取り調査結果がメディア上に氾濫し始めたようだ。
 朝日新聞1月12日朝刊記事によれば、部活動顧問教諭は部員への体罰が常態化していたと認め、「強いクラブにするには体罰は必要。気持ちを発奮させたいがためにそうした。ただ、自殺した男子生徒に対しては厳し過ぎたと思う。」等々とのコメントを述べたとのことだ。


 大阪市内公立高校で発生した、上記部活動顧問教諭の体罰により自殺者が出た事件に、大阪市長である橋下徹氏が反応を示さない訳がない。
 そう予想していた原左都子だが、案の状、橋下氏はすぐさまこの事件に飛びつき、メディア相手に再三再四のインタビュー対応を展開した。

 現職としては一地方自治体の市長にしか過ぎない橋下氏ではあるが、昨年末の国政選挙戦に於いて新勢力として大旋風でも起こすのか?!と氏に期待した報道界だったことは国民の記憶に新しい。  そのため橋下氏が何か言えばメディアが飛びつく図式に関しては、特段珍しい現象ではなくなっているこの国の報道現象ではある。
 この現象にいつもは「またか…」と辟易とさせられるのだが、元公立高校教員でもある原左都子としては、今回のみは「待ってました!」とばかり橋下氏の激言をテレビ報道等で注視した。

 橋下大阪市長は今回の事件に対して、私が抱く学校教育に関する思想とほぼ同様の見解をメディアを通して痛烈に世にぶつけてくれた印象がある。 私の記憶に頼り、その幾つかを以下に列挙しよう。
 体罰 イコール 指導・教育ではありえないこと。
 当該高校の部活動現場においては日常的に体罰が繰り返されていたことに関して、教育現場に於いて絶対にあってはならず、即刻体育系の生徒募集を停止するべきこと。
 当該部活動顧問教諭はこの高校に十数年間もの長き期間に渡って勤務を続けており、校長・教頭等幹部職員よりも学校内で実質的権限を保っていたらしい。 職員異動を流動化することにより、一部の職員の権力が学校内で増強されるような事態が起こらない体制作りをすること。 等々… 


 ひとまず、原左都子の私論に入ろう。
 
 今回の桜宮高校における生徒自殺事件に関して言うならば、大阪市長橋下氏のメディアを通しての提言に全面的に賛同する私だ。

 そもそも、体罰 イコール 指導・教育 であるはずがない。 体罰とは暴力であり、それをする側(今回の事件の場合は部活動顧問教諭)にこそ大いなる問題が内在しているものである。  親による子の虐待とて然りであろう。 子を虐待する親は決まり文句のごとく「しつけ」との言葉を吐くものだが、その背景事情を探った場合、必ずや可愛いはずの我が子に暴力を振ってしまう元凶を親自身が抱えているのが現状だ。

 桜宮高校体育系部活動において日常的に顧問教諭より体罰が繰り返されていたとなると、この冬自殺者を出した直後の現場であるからこそ、一時体育系コースの生徒募集を停止するのが常識的判断であろうかと私も考えるのだが。

 公立高校に於ける教職員の異動に関しては、短期間であるがその現場に勤務した経験がある私もよく理解できている。
 どうやら民間企業と公立学校現場とでは、職員異動の方式や原理がまったく異なると私は痛感させられた。 民間企業現場においては「左遷」もあれば「栄転」もあるのが社員異動の実態である。  片や、公立学校現場とはそもそも校長・教頭を除きすべてが「平教員」の立場であるのだが、その平教員の中でも当然ながら能力差による上下関係は存在する。
 ところが公務員という世界には「左遷」がないのが実情だ。(誤解を恐れずに言うと、無能力職員とて定年までの勤務を全うできるのが公務員世界の特徴である。)  もし校長・教頭に実力があれば、能力不足あるいは問題を抱えている平教員を「左遷」扱いで何処かに異動させることは可能であろうが、大抵の場合その力がないのも実情だ。  そうした場合、やむを得ず問題教員の異動措置を取らずそのまま勤務させることと相成る… 
 教員による生徒への体罰が日常的に行われていようが、校内で生徒の自殺者を出そうが、自分の定年を静かに迎えたいのが今尚公立学校現場の校長・教頭陣の本音ではあるまいか… 


 その辺の学校教員をはじめとする公務員の甘さを、よくぞ橋下さん、突いてくれたものだ!! と喜んでいた私なのだが…

 ところが、昨日1月23日付朝日新聞夕刊記事によると、「桜宮高校生 心に傷」 との事だ…
 早速その内容の一部を以下に要約して紹介しよう。
 桜宮高校サッカー部生徒の母親によると、「桜宮をすべて否定するような橋下市長の言葉にも報道にも傷ついている。子ども達の方が加害者みたいにされていませんか」  運動部主将の高3女子も「自殺した子のことを皆重く受け止めているのに、何もできない間に体育科を奪われ、支えてくれる先生も奪われ、部活も奪われ、つらい」…  
 自分達が信頼していた教員が橋下氏により非難され、自分自身が責められていると感じる生徒もいる。大事なのは被害者の周辺にいる人々が日常を早く回復することだ、と話すのは東京学芸大学教授の小林正幸氏である。  しかも生徒に追い討ちをかけているのが「風評被害」である。
 (以上、朝日新聞1月23日付夕刊記事より要約引用)


 最後に再び、原左都子の私論に入ろう。

 上記朝日新聞1月23日付夕刊記事にコメントをされた東京学芸大学教授の小林正幸先生。 我がエッセイにおいて、あえて小林先生の実名を記させていただくのには私なりの理由がある。
 朝日新聞の取材に応じ、桜宮高校現場が置かれている現状を慮り一般市民の誰もが感じ得る程度の見解を語るのはよいのだが、何故現役大学教授としてもっと具体的な現場支援対策見解をせっかくのメディア取材のチャンスに言論しないのか!?

 自殺者を出した高校現場からこの種の反論が出ることは国民誰しも承知の事実であろう。
 それでも尚、私は橋下氏がメディア上で厳しく叫んだ見解にこそ賛同したい。
 今後学校現場で自殺者を出す事態を壊滅するためには、橋本氏の言及通り、現状を根源的に打破するべく徹底的な対策が講じられるべきであると私も常々考えている。

 その裏で、橋下市長のメディア発言に心を痛めている桜宮高校の生徒や保護者の皆様にとって今現在一番必要なのは、適切なカウンセリングであろう。 
 どうか市政維持の観点ではなく、現場の生徒や保護者の困惑に真に寄り添えるべく優秀なカウンセラー陣を桜宮高校学校現場に早急に配置することを、大阪市長橋下氏に願ってやまない。

「ソーハラ」を悩む前に交友関係をふるいにかけよ

2013年01月21日 | 人間関係
 人間関係が気まずくなった場面において 「ハラスメント」 という流行(はや)り言葉の武器を振りかざして護身に出ようとする風潮を、実は私は以前より好まない。

 いえいえ、確かに「ハラスメント」を主張するべき被害に遭う機会がこの世に多々存在するのも事実であろう。

 「ハラスメント」の代表格として「セクハラ」が挙げられよう。
 これなど多数の場合、被害者vs加害者間にそもそも人間関係が成立していない事例が多いと私も認識している。  そうであるにもかかわらず加害者側が何らかの錯覚に陥り、相手が自分を受容していると勘違いしてセクハラとの“犯罪”行為に至るのが過去の法廷における数多くの裁判例ではあるまいか?
 例えば職場の上司による部下女性へのセクハラ事件など、その典型例であるように感じるのだが…

 「アルハラ」なる言葉もあるが、これも同様の要素があろう。
 酒飲み会の場において、他者の“飲みたくない意思”にもかかわらずアルコールを強要するのが「アルハラ」である。  元々親しい間柄の飲み会とはいえども、一旦アルコールが体内に入った後には対等な人間同士の付き合いが成り立ちにくい状況にあろう。 その状況下でのアルコール強要は確かに「ハラスメント」と言え、それは犯罪行為である。


 それに対して「ソーハラ」??

 この言葉を原左都子が初めて目にしたのは、少し前の朝日新聞記事に於いてであった。 残念ながらそのスクラップを保存し忘れているため、ここではネット情報により「ソーハラ」の解説をしよう。
 まずは、「ソーハラ」とは “ソーシャルメディア・ハラスメント” の略語であるらしい。
 例えば、現実社会の職場上司から部下の女性社員に対して友達申請をする等、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアで執拗にコミュニケーションを求める中年男性が加害者であるらしく、被害者(?)側の若き世代からは「監視されているみたい」「なれなれしい」「距離感がない」などの反発が生じている、とのネット記述である。

 「ソーハラ」の具体的事例に関してもネット情報より入手したため、それを以下に要約して紹介しよう。
 某経済新聞記事によると、ネット上の会員制交流サービス「フェイスブック」「ミクシィ」などのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で、職場の上司との付き合い方に悩むケースが最近目立っているという。
 例えば、NPO法人「日本オンラインカウンセリング協会」には今夏、都内の20代の男性会社員から「会社の上司からのフェイスブック上の『友達』申請を断れなかった」という相談が寄せられた。 その上司は40代の上司。 「なぜ承認してくれないんだ」と催促され渋々応じた。 上司を友達に承認すれば学生時代の友人らとの近況報告など気楽なやりとりを読まれてしまう。 案の定休日も上司がコメント。返信が苦痛となり今ではほとんど書き込まなくなったという。
 また都内で働くフェイスブックを利用する20代の女性会社員も、投稿のたびに男性上司が「いいね!」の共感を示す。 上司からの閲覧を制限すれば職場の人間関係が悪化しかねない。 悩んだ末上司から監視されているような気がして約1カ月後に更新をやめた。
 ちなみに、フェイスブック発祥の地の米国では仕事関係の人には友人申請をしないのが一般的というから、ソーハラは職場で濃厚な人間関係を求められがちな日本特有の現象といえそうだ。 
 ソーハラ対処法について、一橋大の堀部政男名誉教授(情報法)はこうコメントしている。「上司側の理解が足りない部分もあり、むやみに部下のプライバシーに踏み込むべきではない。(略)各企業が節度ある使い方を社員に徹底する必要もある」。
 ちなみに「労働安全衛生法」第71条には、会社は「快適な職場環境」を形成する努力義務があることを明記している。そのためにはソーハラ対策も必要といえそうだ。
 (以上、ネット情報より要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 上記のネット情報を読んで真っ先に抱いたのは、現実世界の知り合いと何故ネットを通じて“執拗”にまで交友せねばならないのかとの不可思議感である。
 例えば職場という公的場面ならその場で、プライベートならプライベートで、様々な人間関係を“生身の人間同士として”個々が築いていくのが本来の交友関係かと私は思うのだが…。

 いえいえ、ネットが人間関係構築維持発展のために果たしている欠かせない役割を、私も日々享受していることは事実だ。
 例えば「メール」機能などはその主たる存在であろう。 この私もリアルタイムに人と通じ合えるメール無くしては、現在の我が人間関係が成り立たないと言っても過言ではない。
 加えて私の場合ネット上に当該「原左都子エッセイ集」を公開しているため、これを媒体として繋がっている読者の皆様とのコミュニケーションも、現在の私にとってかけがえのない恩恵であることは認める。

 それにしても……
 プライベートに於ける人間関係、職場という公的場面での人間関係、そして不特定多数の人間が交流可能なネット上の人間関係等々。  それぞれの場面に於ける自分自身のシチュエーション(あるべき姿)を、個々人がまずは見直すべきではあるまいか。

 原左都子自身は、現在SNSサービス媒体の一つであるフェイスブックに「原左都子」のペンネームで登録している。  何故実名ではなくペンネームでの登録を志したのかと言えば、様々な人間関係交流に於ける自己表現の“あくまでも一場面”としてネット上の「フェイスブック」を利用したかったからに他ならない。
 現実世界で生きている私本人に関しては、今後共私自身が心身共に醸し出す人格でこの世を渡り交友関係を展開したいと志している。


 上記ネット情報によると、現実世界の職場の上司からフェイスブック上で“コメント”や“いいね!”が届くのが鬱陶しい、それこそが「ソーハラ」だ! との記述がある。
 
 職場の上司たる立場で、部下のネット世界にまで立ち入りプライベートに介入することの無礼さを、まずは上に立つ人間の立場から認識し直すべきなのは当然だ。

 それが先決問題であるとしても、部下である被害者側も何故公私混同が普通に行われる宿命のネットSNS世界で、「友達」申請を野放図に拡大し続けるのか?? 
 そんな事を嗜好し続けたら「ソーハラ」被害に遭うことなど一目瞭然のこの世において、「ハラスメント」と騒ぎ立てる以前の問題として、自己責任意思で交友関係をふるいにかけようではないか!