原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

iPS臨床応用 丼予算計上より法規制を優先せよ

2013年01月31日 | 時事論評
 一昨昨日の1月28日に召集された第183回通常国会の所信表明演説に於いて、自民党安倍首相は自らが構想する経済政策 「アベノミクス」 を前面に出す言及を行った。
 
 この「アベノミクス」に関しては、既に野党や産業界、諸外国よりの反発を招き、敵対心を煽っている現状である。
 原左都子の私論としても、一部の期待感で株高や円安等経済指数の急変動をもたらしてはいるものの、実質的経済力の裏付けなき一国の身勝手な国力増強政策が国内外で今後どこまで機能し得るのか、不確実性の高い政策と捉えている。
 (「アベノミクス」に関してはまた日を改め、我がエッセイ集において議論の叩き台としたい。)


 さて、今回のエッセイでは表題の通り 「iPS細胞臨床応用研究」 に関する現状の問題点を取り上げ、私論を展開することを目的としている。

 自民党安倍政権は「アベノミクス」経済政策の一環として、iPS細胞臨床応用研究にも数千億円に上る巨額の国家予算を注ぎ込もうとしている様子だ。
 昨年京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞研究によりノーベル医学生理学賞を受賞したのに伴い、国内において当該研究の知名度及び市民の期待感が高まっている事を受けての巨額予算計上と私は理解している。 (早い話が、これまた自民党の夏の参院選対策票取り目的と私は解釈しているのだが…

 と言うのも元医学関係者の原左都子としては、そもそも昨年山中氏がiPS細胞研究によりノーベル賞を獲得した事自体に対し、疑義を抱いている。
 「原左都子エッセイ集」2012年10月バックナンバー 「科学基礎研究の終点は『ノーベル賞』なのか?」と題するエッセイにおいてその疑義内容に関して論評しているため、以下に少し反復させていただこう。
 原左都子が今回懸念するのは、「iPS細胞」研究に対してノーベル賞を贈呈するのは時期尚早だったのではないかという点だ。 と言うのも、「iPS細胞」は未だ基礎研究段階を超えてはおらず、人間の命を救うべく臨床医学に達していないと考えるべきではあるまいか?  決して、今回の山中氏の「ノーベル医学生理学賞」受賞にいちゃもんをつけるつもりはない。 ただ原左都子が考察するに、「ノーベル賞」受賞対象となる科学分野の基礎研究とは、医学生理学賞、物理学賞、化学賞を問わず、現在までは当該基礎研究の成果が既に世界規模で実証されていたり、経済効果がもたらされている研究に対して授けられて来たような記憶がある。 それら過去に於けるノーベル賞受賞対象と比較して、山中氏による「iPS細胞」研究はご本人も言及されている通り、まだまだ研究途上と表現するべきではあるまいか? 
 今回のエッセイの最後に「ノーベル賞」を筆頭とする「賞」なるものの意義を問いたい私だ。 「賞」を取得したことでその人物の今後の道程を歪めたり、更なる発展意欲を縮める賞であるならば、その存在価値はない。 そうではなく、受賞者に今後に続く精進を煽る意味での「賞」であって欲しいものだ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより私論部分の一部を引用)


 上記エッセイを綴った後に、私は朝日新聞紙面「声」欄で、これまた私論と一致する内容の投稿を発見した。
 少し古くなるが2012年11月9日の「声」欄で公開された51歳男性による「iPS細胞、畏れ忘れずに」と題する投書の一部を、以下に要約して紹介しよう。
 京都大学研究チームがiPS細胞から卵子を作るのに成功したとの報道に触れて戸惑った。 数日後、山中伸弥氏のノーベル賞受賞が決まってからも違和感を拭えずにいる。 iPS細胞はあらゆる臓器を作れる可能性があるらしい。臨床応用が実現すれば、難病の苦しみから解放される人々の数は計り知れないことは理解できる。それでも…  「倫理上の問題」解決を急ぐことなく、一つひとつの臨床応用について十分な議論がなされるよう望む。


 「iPS細胞臨床応用研究」とは、上記朝日新聞「声」欄投書者が懸念されている「倫理面」での問題に加えて、「再生医療現場における患者への人体リスク」との大きな問題を孕んでいる事実も厄介な課題である。

 朝日新聞1月29日朝刊一面記事によると、自民党政権厚生労働省は「iPS細胞臨床応用研究」に於ける安全確保を目的とした「再生医療規制法」案により、人体へのリスクが大きい治療を計画する医療機関には国の承認を求め、患者に健康被害が出た場合の補償を義務付けるとの報道だ。 現在開催されている通常国会での提出、成立を目指すという。

 原左都子の私論としては、「iPS細胞臨床応用」へ“丼勘定”で巨額の歳費計上法案を国民の前に提示する以前の問題として、上記「再生医療規制法」案の提出こそを優先して欲しかった思いだ。
 世の中には、必ずや“便乗組”が存在するものだ。 朝日新聞同日別ページの報道においても、既に「再生医療便乗組」の野放図な“便乗”の実態が取り上げられている。 例えば、民間クリニックの間では既に万病に効くとPRする“似非再生医療”が広まっているとの報道である。 その効果や安全性は確認されておらず、公的医療保険が使用できない段階の中、自由診療で数百万円が支払われる事例もあるという。


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 そもそもこの国の「健康医療教育」がお粗末過ぎることに関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて幾度となく訴えてきている。
 その弊害故に医療に関する知識が乏しい市民が一旦体調を崩した場合、老若男女を問わず直ぐに医療機関へ直行する事態となる。

 京都大学教授であられる山中伸弥教授グループのiPS細胞研究、ひいてはそれによる昨年のノーベル賞受賞はもちろん讃えられるべきであろう。
 片や、昨年末に発足したばかりの自民党政権がそれにすぐさま便乗して巨額の予算を計上することを、山中教授は如何に捉えられているのであろうか?
 元医学関係者である原左都子が推測するに、山中氏とて国による巨額予算計上は一応うれしいであろうとは思う。  その反面、再生医療がもたらす“倫理面”での問題、及び悪質な“再生医療便乗組”の出現にも頭脳明晰な山中氏ならば既に思いを馳せられておられることと信じたい。

 そうであるからこそ、ノーベル賞との誉れ高き賞を取った国内研究者の今後更なる研究を妨げないためにも、国政には何を優先するべきかを熟考した対応を期待したいものである。

人付き合いは自然体が一番!

2013年01月28日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」3本前のバックナンバーに於いて、「『ソーハラ』を悩む前に交友関係をふるいにかけよ」 と題する人間関係カテゴリー記事を公開したばかりである。

 我がエッセイ集を5年来ご贔屓にして下さっている常連読者のK氏より、某SNSサイト上に上記エッセイに関するコメントを頂戴し、それに対し返答申し上げた私だ。
 以下に、その我が返答コメントをそのままコピーして紹介しよう。

 Kさん、居酒屋が大好きで夜な夜な同僚との交友を深めていた古き良き時代が飲兵衛の私には確かにありました。 あの頃は酒のマナーどうのこうのと社会から後ろ指を指される事もなく、飲兵衛が大手を振ってのさばれた時代でした。 下戸の方々からすれば昨今を問わずとんでもない話かもしれませんが、酒の勢いでののしりあっても次の日にはまた一緒に杯を交わせる、そんな信頼関係が飲兵衛の間には成り立っていたものです。 
 話を変えて、人間が懇親に付き合える相手とは一生に渡り数える程の少数であるのが普通と私は心得ています。 某SNSサイト上でも友達の「数」を誇るがごとく数百人いえ、数千人の友達登録をしている方を多く見かけますが、商売人寄せ目的ならばともかく、一般人がそれをして何の得になっているのか私も不思議です。
 年老いて死を迎える時に、“あの人と知り合えたことが私の財産だった”と言える人物が少数存在する事こそが幸せと私は信じています。  Kさんが書かれている旧友との付き合いに関してても、私も慎重に対応するべきと考える派です。 時の流れというものは必ずや人の人格を変えるものですが、それを心得ず過去の感覚のまま接してこられる無礼さを私自身よく経験します。 
 ましてや、ネット上で見知らぬ人物と交流しようとする場合、まずは無礼とならない対応を心得るべきでしょう。 ネット上でも長く付き合いが続く相手というのは信頼関係が成り立っている証拠と捉えています。 長いお付き合いのKさん、今後共よろしくお願い致します。
 (以上、某SNSサイトに原左都子が投稿したK氏への返答コメントより引用)


 さて、本題に移ろう。
 
 「原左都子エッセイ集」でお馴染みの朝日新聞「悩みのるつぼ」1月26日の相談テーマは、18歳男子学生による 「人と友好関係を維持出来ません」 だった。

 男子学生の相談内容を紹介する前に、今回の回答者であられる 歌手・俳優 三輪明宏氏の「人付き合いは『腹六分』でいい」と題する回答内容が、上に引用した原左都子の返答内容とダブる部分があるため、その回答内容から先に以下に一部を要約して紹介しよう。
 人間の付き合いというのは「腹六分」がちょうどいい。いつまでも付き合える人は一生に何人も出てこない。 親友なんて一人できればいい方で、助けが必要な時にいつでも助けてあげて、普段は当たり障りのない距離で見守っている人こそが親友でしょう。 何から何まで悩みも聞き、金も貸してくれる、そんな便利な人はいるはずがない。 離れていく人はニセ者だから、惜しむ必要はない。 本物は離れない。 仲良しだけれども、つかず離れず、それが大人の関係というものでしょう。
 (以上、「悩みのるつぼ」三輪明宏氏の回答より一部を引用)

 そろそろ還暦を迎える年代の原左都子だが、もっと人生の大先輩である三輪明宏氏には失礼を承知の上で、氏と交友関係に関してほぼ同様の思想を抱いていた事に大いに感動の私である。


 それでは、今回の「悩みのるつぼ」18歳 男子高校生による相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 私の悩みは、人との友好関係を維持できないことである。 人見知りであまり話すのが得意ではないが、少数の友人や定義は難しいものの親友という感覚の友達もいる。 ただ、何年か前は仲がよかったが喧嘩したわけでもないのに校内ですれ違っても挨拶すらしなくなってしまった人物がいる。 つまり、私には在学中に理由もなく疎遠になってしまった人物が多いのだ。
 私のような人間が高校卒業まで、さらに将来社会に出てやっていけるのか? このような体験をした人が私以外にもいるのか?  高校生活を振り返ると自分に問題があるのかと悩んでしまう。 大学受験を間近に控えた私の自分勝手な悩みかもしれないがご意見をお聞かせ願いたい。

 今回の回答者であられる三輪明宏氏も、この相談に対する具体的な指示を述べておられる。 
 それを再び紹介しよう。
 今や人生90年。 成長も進化も遅くなり、30歳でやっと成人式との印象。 40歳、50歳になるとようやく経験を積んで大人になると言うか…。 10代では人間の「新品」だ。 世の中がまだ分かっていない。
 あなたは全体的に暗い表情の人ではなかろうか? 微笑がない人に近づく人はいない。 口下手なら、聞き上手になればいい。 いつもゆったり微笑みながら、知識、教養、技術を身に付ける努力をすればいい。 (それらは)誰からも必要とされる。
 (以上、三輪明宏氏の回答から再度一部を引用。)


 最後に、原左都子の私論に入ろう。
 
 上記の三輪明宏氏のご回答内容に関して言えば、“一部”を除きごもっともである。 (その“一部”に関しては最後に私論を展開させていただこう。)

 まさに三輪氏がおっしゃる通り、人生90年時代の現代だ。
 それは相談者である18歳男子高校生に限ったことではなく、還暦近い年代の原左都子とて、ほんの少しばかり人生経験を積めてやっとこさ大人になりかけている感覚であるぞ。
 三輪氏がおっしゃる通り、10代など人間の新品でしかない。 世の中が分かっていなくて当然であろう。

 ただ、この18歳男子高校生は周囲への気遣いができるハートを生来的に持ち合わせていると、相談内容から私は感じる。 今はそれで十分ではなかろうか。
 三輪氏がご指摘されているような笑顔を、何も今現在無理にしつらえて周囲に振りまく必要はないと原左都子は結論付けたい。 むしろ、周囲の生徒とてピリピリせざるを得ない現在の若者群像を考察した場合、そんな作り笑顔などバレバレなのが歴然の過酷な現実世界でもあろう。

 今後男子高校生が進学して学業に励み自分の専門を貫く努力を重ねる過程、その後社会に出てもっと幅広く活動する過程が今後の人生に待ち構えている。 それらの階段を一歩ずつ踏み進み、知識、教養、技術を積み重ねる努力を続ける中で、いくらでも同類の人種と知り合え共感できる機会は到来するものだ。

 その時点で男子生徒が生来的に持ち合わせている自前のハートが自然体で表出することにより、少数であっても良き友好関係を築けたならば、それで十分な人生ではなかろうか?


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 別件ですが……

 本日(1月28日)午前9時頃、私どもがネット上に公開しております当「原左都子エッセイ集」メッセージ欄に、「通りすがり」様名にてメッセージをお送り下さった方にこの場でご返答申し上げます。

 おそらく今回初めて「原左都子エッセイ集」をご訪問下さったものと承知申し上げます。
 この度は、私どもがネット上で公開しております拙いエッセイ集をご訪問頂き、誠にありがとうございました。
 「通りすがり」様のご指摘によりますと、我がエッセイ集は誤字脱字が多いとの事です。 その失態を反省し心よりお詫び申し上げますと共に、今後更に校正、監修作業を強化して参りたいと存じております。
 もう一点、私どもの記述に「人を見下している表現がある」とのご指摘がございました。 これに関しましても、今後当該ご指摘を肝に銘じそのように読者の皆様がお感じになられる表現に関しましては改善して参りたいと心得ます。
 貴重なご意見をありがとうございました。
 今後共、「原左都子エッセイ集」は皆様のご訪問をお待ち申し上げております!! 

ネットバンキングは利用しない慎重派の私

2013年01月26日 | 時事論評
 昨年秋頃、インターネットバンキングのホームページに偽のログイン画面が表示され、その画面にパスワードなどを入力してしまった預金者の口座から、預金が不正に引き出されるとの事件が多発した。

 この事件はゆうちょ、三菱東京UFJ,三井住友、みずほ等の大手銀行のみならず、ネット銀行やカード会社等も巻き込み、被害が広範囲に及んだようだ。
 従来のフィッシング詐欺被害の場合、銀行のサイトに似せた偽の銀行のサイトに預金者を誘導し、そこにログイン情報を入力させ預金を不正に送金する、という手法で行われていた。 しかし昨年秋の事件では、実際の銀行のウェブサイトにアクセスして事件が起きたのが特徴との事である。
 日本経済新聞の報道によれば、不正事件は特定のウイルスに感染したパソコンで起きているそうだ。 ウイルス感染パソコン画面にパスワードなどを入力すると、入力されたデータが犯人に送信され、犯人は不正に得たログイン情報を元に口座に侵入し、犯人の用意した口座に振込の指示を与えて預金が不正に引き出されるとのしくみのようだ。
 (以上、ネット情報を要約して引用)

 当該事件に関しては、その後警察庁が暗証番号の入力を求めるなどの不正画面を表示する原因とみられるウイルスを検出した、と見聞していたのだが…


 ところが、本日(1月26日)昼のNHKニュースによると、またもや三菱東京UFJ銀行ネットバンキングにおいて、1000万円を超える預金が不正に送金される事件が勃発したとの報道だ。
 今回の場合、契約者本人のみが保管している「契約者カード」の裏面に記されている「確認番号」をネット画面に記載せよとの指示が表示され、それに従った結果不正送金と相成ったとのことだ。

 ここで「契約者カード」に関する私事を述べると、私も日頃「テレフォンバンキング」は利用しているため、当該「契約者カード」を手元に保持している。 裏面に記されている「確認番号」とは「暗証番号」同様に極秘扱いとするべき番号だ。 にもかかわらず、被害者は何故画面の指示に従って「確認番号」を入力してしまったのであろう??


 さらなる私事に移ろう。

 私は現金預貯金資産管理に関して、一貫して“慎重派”である。
 それ故に、現在に至って尚「インターネットバンキング」は一切利用していない。 面倒ではあるが逐一ATMに出向くか、あるいは銀行の窓口で高額の手数料を支払い各種取引をしている。
 現在、ATMでは引落しも送金も(特別な手続きをしない限り)取引額が1日50万円以内と定められているため、それを超過する取引をしたい場合は取引完了まで何日もATMへ出向くか、あるいは混雑した窓口を利用せねばならず、大いなる時間と手数料の無駄となる。 それでも私は“安全性”にこそ重きを置いてその煩雑さを日々耐え忍んでいる。

 次に私がお金に関して慎重派である証拠となる私事具体例を、以下に列挙させていただく事としよう。

 先だって娘の振袖を“全額現金一括払い”により仕立てた際、呉服店より「友の会」入会を奨励された。 その手続段階において、会費引落銀行口座番号をその場で申込用紙に記載して欲しいと定員氏が言う。 「現在その番号を持ち合わせておりませんが。」と私が応えると、「キャッシュカードに記載されていますのでお客様がお手持ちのカードからそれを記入して頂けるだけで結構です」…  「ん???」
 (要するに、一般の人々とは銀行のキャッシュカードを財布に入れて常に携帯しているということなのか??) とひらめいた。  「申し訳ないのですが、私は盗難紛失等防止目的で普段銀行のキャッシュカードを持ち歩いていません。」と応えると、若き店員氏は狐につままれたごとくの不可思議感を露骨にする。(この客、実は銀行口座すらない程の貧乏人か?!? 今回一括払いした現金は一体何処から仕入れた資金か?? と勘ぐられただろうか…)
 見知らぬ他人にどう思われようが、慎重派の私としてはその時に必要な「現金」を一時のみ持ち歩けど、銀行キャッシュカードを常に携帯する訳にはいかない。  カードは必要最低限の所持としたいと常に心得ている。 クレジットカードとて同様だ。必要時にのみ携帯する習慣が身についている。
 ついでに言うと、現金もその日の支出予想額に若干加算した金額を日々ちまちま計算し財布に入れて持ち歩く私である。 


 ここで、再度ネット記事より「インターネットバンキング」に関する庶民の対応及び感覚の実態調査結果を紹介する。
 約6割の人がインターネットバンキングのセキュリティーに不安を感じる―。 ジャパンネット銀行の調査でこんな結果が出た。大手銀行のネットバンキングで暗証番号を入力させる偽画面が出る事件が相次いでおり、国民の不安が高まっているようだ、としている。
 またスマートフォンの普及に伴って増えているネットバンキング専用のアプリ(ソフト)についても質問した結果、便利と感じる人が約9割に上る一方、アプリで個人情報が流出する事件があったためか「インストールするのは不安」と答える人も多い。

 ついでに既に陳腐な情報ではあろうが、今後市民が「ネットバンキング」不正引出し被害に遭わないようにするには如何に対応するべきかに関するネット情報を追加しよう。

 1.ウイルスに感染しない
 怪しいサイトにはアクセスしない、怪しいメールは開かないといったことに気をつけよう。何が「怪しい」のか「怪しくない」のかの判断は非常に難しい。見知らぬアドレスから届いたメールは絶対に開かないといった最低限のことだけでも守ろう。

 2.セキュリティソフトを導入する
 どんなに気を付けていても、ウイルスに感染するリスクはゼロにならない。ウイルスに感染しないよう、またウイルスに感染してしまったときのためにアンチウイルス機能があるセキュリティソフトが必要。
 
 3.ネットバンキングのログイン画面に注意する
 銀行によって違うが、一度に複数の合言葉の入力を求められることはない。 そうした異常に気付けるよう、ネットバンキングを利用するときは普段から気をつけるべき。

 4.口座の入出金履歴をチェックする
 日頃から怪しい入出金の記録が残っていないかをチェックしておくことが必要。 預金者に重大な過失が無ければ、預金の不正引き出しによる被害は銀行が補償する可能性が大きい。 被害に遭ったことに気づかなければ、補償を受けることもできない。
 (以上、ネット情報よりその一部を要約して引用したもの)


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 「インターネットバンキング」の被害に遭う人種とは、その人物像が特定されそうに私は感じる。
 一攫千金でカネを得た人物。? 
 ネット世界をさほど心得ないにもかかわらず、それに依存している人物。?
 金融機関ひいては経済社会システム等々を心得ずして、カネを保持している人物。?
 カネの有効な使い道に思いを馳せられない人物。?

 列挙すればきりがないため、この辺でやめておこう。
 繰り返すが、原左都子は今後しばらく「インターネットバンキング」を利用する意思はないし、不必要にキャッシュカードを持ち歩くつもりもない。

生徒を自殺に追い込んだ学校及び社会が取るべき対策

2013年01月24日 | 教育・学校
 大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将の男子生徒が、顧問の男性教諭より体罰を受けた翌日自殺に追い込まれるとの痛ましい事件が起きたのは、昨年12月中旬のことであった。

 事件発生後から1ヶ月程が経過した1月中旬頃になって、ようやく大阪市教委の顧問教諭に対する聞き取り調査結果がメディア上に氾濫し始めたようだ。
 朝日新聞1月12日朝刊記事によれば、部活動顧問教諭は部員への体罰が常態化していたと認め、「強いクラブにするには体罰は必要。気持ちを発奮させたいがためにそうした。ただ、自殺した男子生徒に対しては厳し過ぎたと思う。」等々とのコメントを述べたとのことだ。


 大阪市内公立高校で発生した、上記部活動顧問教諭の体罰により自殺者が出た事件に、大阪市長である橋下徹氏が反応を示さない訳がない。
 そう予想していた原左都子だが、案の状、橋下氏はすぐさまこの事件に飛びつき、メディア相手に再三再四のインタビュー対応を展開した。

 現職としては一地方自治体の市長にしか過ぎない橋下氏ではあるが、昨年末の国政選挙戦に於いて新勢力として大旋風でも起こすのか?!と氏に期待した報道界だったことは国民の記憶に新しい。  そのため橋下氏が何か言えばメディアが飛びつく図式に関しては、特段珍しい現象ではなくなっているこの国の報道現象ではある。
 この現象にいつもは「またか…」と辟易とさせられるのだが、元公立高校教員でもある原左都子としては、今回のみは「待ってました!」とばかり橋下氏の激言をテレビ報道等で注視した。

 橋下大阪市長は今回の事件に対して、私が抱く学校教育に関する思想とほぼ同様の見解をメディアを通して痛烈に世にぶつけてくれた印象がある。 私の記憶に頼り、その幾つかを以下に列挙しよう。
 体罰 イコール 指導・教育ではありえないこと。
 当該高校の部活動現場においては日常的に体罰が繰り返されていたことに関して、教育現場に於いて絶対にあってはならず、即刻体育系の生徒募集を停止するべきこと。
 当該部活動顧問教諭はこの高校に十数年間もの長き期間に渡って勤務を続けており、校長・教頭等幹部職員よりも学校内で実質的権限を保っていたらしい。 職員異動を流動化することにより、一部の職員の権力が学校内で増強されるような事態が起こらない体制作りをすること。 等々… 


 ひとまず、原左都子の私論に入ろう。
 
 今回の桜宮高校における生徒自殺事件に関して言うならば、大阪市長橋下氏のメディアを通しての提言に全面的に賛同する私だ。

 そもそも、体罰 イコール 指導・教育 であるはずがない。 体罰とは暴力であり、それをする側(今回の事件の場合は部活動顧問教諭)にこそ大いなる問題が内在しているものである。  親による子の虐待とて然りであろう。 子を虐待する親は決まり文句のごとく「しつけ」との言葉を吐くものだが、その背景事情を探った場合、必ずや可愛いはずの我が子に暴力を振ってしまう元凶を親自身が抱えているのが現状だ。

 桜宮高校体育系部活動において日常的に顧問教諭より体罰が繰り返されていたとなると、この冬自殺者を出した直後の現場であるからこそ、一時体育系コースの生徒募集を停止するのが常識的判断であろうかと私も考えるのだが。

 公立高校に於ける教職員の異動に関しては、短期間であるがその現場に勤務した経験がある私もよく理解できている。
 どうやら民間企業と公立学校現場とでは、職員異動の方式や原理がまったく異なると私は痛感させられた。 民間企業現場においては「左遷」もあれば「栄転」もあるのが社員異動の実態である。  片や、公立学校現場とはそもそも校長・教頭を除きすべてが「平教員」の立場であるのだが、その平教員の中でも当然ながら能力差による上下関係は存在する。
 ところが公務員という世界には「左遷」がないのが実情だ。(誤解を恐れずに言うと、無能力職員とて定年までの勤務を全うできるのが公務員世界の特徴である。)  もし校長・教頭に実力があれば、能力不足あるいは問題を抱えている平教員を「左遷」扱いで何処かに異動させることは可能であろうが、大抵の場合その力がないのも実情だ。  そうした場合、やむを得ず問題教員の異動措置を取らずそのまま勤務させることと相成る… 
 教員による生徒への体罰が日常的に行われていようが、校内で生徒の自殺者を出そうが、自分の定年を静かに迎えたいのが今尚公立学校現場の校長・教頭陣の本音ではあるまいか… 


 その辺の学校教員をはじめとする公務員の甘さを、よくぞ橋下さん、突いてくれたものだ!! と喜んでいた私なのだが…

 ところが、昨日1月23日付朝日新聞夕刊記事によると、「桜宮高校生 心に傷」 との事だ…
 早速その内容の一部を以下に要約して紹介しよう。
 桜宮高校サッカー部生徒の母親によると、「桜宮をすべて否定するような橋下市長の言葉にも報道にも傷ついている。子ども達の方が加害者みたいにされていませんか」  運動部主将の高3女子も「自殺した子のことを皆重く受け止めているのに、何もできない間に体育科を奪われ、支えてくれる先生も奪われ、部活も奪われ、つらい」…  
 自分達が信頼していた教員が橋下氏により非難され、自分自身が責められていると感じる生徒もいる。大事なのは被害者の周辺にいる人々が日常を早く回復することだ、と話すのは東京学芸大学教授の小林正幸氏である。  しかも生徒に追い討ちをかけているのが「風評被害」である。
 (以上、朝日新聞1月23日付夕刊記事より要約引用)


 最後に再び、原左都子の私論に入ろう。

 上記朝日新聞1月23日付夕刊記事にコメントをされた東京学芸大学教授の小林正幸先生。 我がエッセイにおいて、あえて小林先生の実名を記させていただくのには私なりの理由がある。
 朝日新聞の取材に応じ、桜宮高校現場が置かれている現状を慮り一般市民の誰もが感じ得る程度の見解を語るのはよいのだが、何故現役大学教授としてもっと具体的な現場支援対策見解をせっかくのメディア取材のチャンスに言論しないのか!?

 自殺者を出した高校現場からこの種の反論が出ることは国民誰しも承知の事実であろう。
 それでも尚、私は橋下氏がメディア上で厳しく叫んだ見解にこそ賛同したい。
 今後学校現場で自殺者を出す事態を壊滅するためには、橋本氏の言及通り、現状を根源的に打破するべく徹底的な対策が講じられるべきであると私も常々考えている。

 その裏で、橋下市長のメディア発言に心を痛めている桜宮高校の生徒や保護者の皆様にとって今現在一番必要なのは、適切なカウンセリングであろう。 
 どうか市政維持の観点ではなく、現場の生徒や保護者の困惑に真に寄り添えるべく優秀なカウンセラー陣を桜宮高校学校現場に早急に配置することを、大阪市長橋下氏に願ってやまない。

「ソーハラ」を悩む前に交友関係をふるいにかけよ

2013年01月21日 | 人間関係
 人間関係が気まずくなった場面において 「ハラスメント」 という流行(はや)り言葉の武器を振りかざして護身に出ようとする風潮を、実は私は以前より好まない。

 いえいえ、確かに「ハラスメント」を主張するべき被害に遭う機会がこの世に多々存在するのも事実であろう。

 「ハラスメント」の代表格として「セクハラ」が挙げられよう。
 これなど多数の場合、被害者vs加害者間にそもそも人間関係が成立していない事例が多いと私も認識している。  そうであるにもかかわらず加害者側が何らかの錯覚に陥り、相手が自分を受容していると勘違いしてセクハラとの“犯罪”行為に至るのが過去の法廷における数多くの裁判例ではあるまいか?
 例えば職場の上司による部下女性へのセクハラ事件など、その典型例であるように感じるのだが…

 「アルハラ」なる言葉もあるが、これも同様の要素があろう。
 酒飲み会の場において、他者の“飲みたくない意思”にもかかわらずアルコールを強要するのが「アルハラ」である。  元々親しい間柄の飲み会とはいえども、一旦アルコールが体内に入った後には対等な人間同士の付き合いが成り立ちにくい状況にあろう。 その状況下でのアルコール強要は確かに「ハラスメント」と言え、それは犯罪行為である。


 それに対して「ソーハラ」??

 この言葉を原左都子が初めて目にしたのは、少し前の朝日新聞記事に於いてであった。 残念ながらそのスクラップを保存し忘れているため、ここではネット情報により「ソーハラ」の解説をしよう。
 まずは、「ソーハラ」とは “ソーシャルメディア・ハラスメント” の略語であるらしい。
 例えば、現実社会の職場上司から部下の女性社員に対して友達申請をする等、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアで執拗にコミュニケーションを求める中年男性が加害者であるらしく、被害者(?)側の若き世代からは「監視されているみたい」「なれなれしい」「距離感がない」などの反発が生じている、とのネット記述である。

 「ソーハラ」の具体的事例に関してもネット情報より入手したため、それを以下に要約して紹介しよう。
 某経済新聞記事によると、ネット上の会員制交流サービス「フェイスブック」「ミクシィ」などのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で、職場の上司との付き合い方に悩むケースが最近目立っているという。
 例えば、NPO法人「日本オンラインカウンセリング協会」には今夏、都内の20代の男性会社員から「会社の上司からのフェイスブック上の『友達』申請を断れなかった」という相談が寄せられた。 その上司は40代の上司。 「なぜ承認してくれないんだ」と催促され渋々応じた。 上司を友達に承認すれば学生時代の友人らとの近況報告など気楽なやりとりを読まれてしまう。 案の定休日も上司がコメント。返信が苦痛となり今ではほとんど書き込まなくなったという。
 また都内で働くフェイスブックを利用する20代の女性会社員も、投稿のたびに男性上司が「いいね!」の共感を示す。 上司からの閲覧を制限すれば職場の人間関係が悪化しかねない。 悩んだ末上司から監視されているような気がして約1カ月後に更新をやめた。
 ちなみに、フェイスブック発祥の地の米国では仕事関係の人には友人申請をしないのが一般的というから、ソーハラは職場で濃厚な人間関係を求められがちな日本特有の現象といえそうだ。 
 ソーハラ対処法について、一橋大の堀部政男名誉教授(情報法)はこうコメントしている。「上司側の理解が足りない部分もあり、むやみに部下のプライバシーに踏み込むべきではない。(略)各企業が節度ある使い方を社員に徹底する必要もある」。
 ちなみに「労働安全衛生法」第71条には、会社は「快適な職場環境」を形成する努力義務があることを明記している。そのためにはソーハラ対策も必要といえそうだ。
 (以上、ネット情報より要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 上記のネット情報を読んで真っ先に抱いたのは、現実世界の知り合いと何故ネットを通じて“執拗”にまで交友せねばならないのかとの不可思議感である。
 例えば職場という公的場面ならその場で、プライベートならプライベートで、様々な人間関係を“生身の人間同士として”個々が築いていくのが本来の交友関係かと私は思うのだが…。

 いえいえ、ネットが人間関係構築維持発展のために果たしている欠かせない役割を、私も日々享受していることは事実だ。
 例えば「メール」機能などはその主たる存在であろう。 この私もリアルタイムに人と通じ合えるメール無くしては、現在の我が人間関係が成り立たないと言っても過言ではない。
 加えて私の場合ネット上に当該「原左都子エッセイ集」を公開しているため、これを媒体として繋がっている読者の皆様とのコミュニケーションも、現在の私にとってかけがえのない恩恵であることは認める。

 それにしても……
 プライベートに於ける人間関係、職場という公的場面での人間関係、そして不特定多数の人間が交流可能なネット上の人間関係等々。  それぞれの場面に於ける自分自身のシチュエーション(あるべき姿)を、個々人がまずは見直すべきではあるまいか。

 原左都子自身は、現在SNSサービス媒体の一つであるフェイスブックに「原左都子」のペンネームで登録している。  何故実名ではなくペンネームでの登録を志したのかと言えば、様々な人間関係交流に於ける自己表現の“あくまでも一場面”としてネット上の「フェイスブック」を利用したかったからに他ならない。
 現実世界で生きている私本人に関しては、今後共私自身が心身共に醸し出す人格でこの世を渡り交友関係を展開したいと志している。


 上記ネット情報によると、現実世界の職場の上司からフェイスブック上で“コメント”や“いいね!”が届くのが鬱陶しい、それこそが「ソーハラ」だ! との記述がある。
 
 職場の上司たる立場で、部下のネット世界にまで立ち入りプライベートに介入することの無礼さを、まずは上に立つ人間の立場から認識し直すべきなのは当然だ。

 それが先決問題であるとしても、部下である被害者側も何故公私混同が普通に行われる宿命のネットSNS世界で、「友達」申請を野放図に拡大し続けるのか?? 
 そんな事を嗜好し続けたら「ソーハラ」被害に遭うことなど一目瞭然のこの世において、「ハラスメント」と騒ぎ立てる以前の問題として、自己責任意思で交友関係をふるいにかけようではないか! 

「東大脳」?? そんなものこの世に存在し得ないよ

2013年01月19日 | 教育・学校
 例年1月中旬のこの時期に実施されるセンター試験が、今年も本日(1月19日)より全国707会場で始まった。
 13時過ぎ時点での報道では、57万人の受験生が試験に臨んでいるとのことだ。
 昨年は、新たな方式を取った「地歴、公民」問題用紙配布に関して全国各地の試験場で大規模なミスが勃発し、大勢の受験生が再試験等の大迷惑を被った。
 今年は現在のところ大きなミスの報告はないという。

 昨年は、我が娘もこのセンター試験に挑んだ。
 娘の場合、大学に於いて秋に実施される公募制推薦入試の合格を既にゲットしていたため、センター入試はあくまでも高校生としての学力が維持できているかの確認目的受験だったものの、それでも当日大雪等の悪天候とならないか等々、親として気をもんだものだ。

 ところが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のが人の性(さが)である事を実感する。 現在及び今後の受験生の皆様には大変申し訳ないが、我が子が無事大学生となり真面目に学業に励んでいる今となっては、この手のニュースを耳にしても正直なところ“他人事”感が否めないことをお詫びしたい。

 それにしてもセンター試験ニュース報道に於いては、どういう訳かいつもいつも東京本郷に位置する某国立大学(東大のことだが)からの影像が真っ先に流れるのには辟易とさせられる。 全国津々浦々に受験会場は707箇所もあるのだがら、少しは国民の多様性に配慮して報道姿勢を改めては如何なものか!?


 さて、今回のエッセイ本題に入ろう。

 先だって1月13日付朝日新聞オピニオンページ「ザ・コラム」と題する欄において、「東大脳」なる妙な造語を発見した。
 この記事の筆者は(東京・社会部長)山中季広氏と記されているが、おそらく朝日新聞東京支部社会部長であられる山中氏とやらが東大出身であり、自らの“東大経験”に基づき今回の記事をオピニオンとして記されたのであろう。

 早速、「ああドラゴン桜 東大脳の限界を知りました」 と題する山中氏による記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
 「ドラゴン桜」の作者である三田紀房氏は、私立高校における一人や二人の東大合格は学校再建の決め手にはならないと話す。 氏曰く、「新設高校の評判を上げる即効薬として東大合格と甲子園があるが、東大は甲子園よりもはるかに達成し易い目標である。ところがある年にポッと受かったくらいでは経営は好転しない。」
 (「東大脳」なる造語は、三田氏による漫画内で使われたようだが)、東大文Ⅱと理Ⅲを卒業した「東大脳」の持ち主である現在57歳の福井氏によると、東大合格に求められる東大脳とは、当時も今も  ①効率のよい暗記能力 ②高速処理能力 に尽きる。 すなわち、東大入試には発想力は問われない。記憶力と解法をすばやく脳から引き出す力と超難問を見切る力、それのみである。
 「時間のかかる超難問」と聞いて尖閣等領土問題や巨額の政府債務が頭に浮かぶが、東大卒の官僚や政治家達の脳裏でも一向に解決しないのは何故か。 福井氏によると、それは脳科学的に言えば使う部位が違うから。 交渉事には政治的鋭敏さや人間的魅力が欠かせないが、それらは脳内の別の部位が関与する。 東大入試で鍛えた側頭葉や海馬だけでは国家的難題はとても解けないわけである。
 東大出身である自分(山中氏)自身のアタマの限界を母校のせいにするつもりはないが、東大はグローバルな競争で他国に伍していけるような東大生をもっと外向きに刺激して欲しい。 日本が殻を破るにはあるべき「東大脳」の定義を東大自身が思い切って変える他ない。
 (以上、朝日新聞「ザ・コラム」1月13日記事よりその一部を要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 「原左都子エッセイ集」において、私は幾度か「東大」に関する種々のエッセイを綴り公開している。 いずれの記事も我がエッセイ集公開趣旨に逸脱することなく、辛口論評を展開した内容である。

 ただし私が東大(及びその出身者)に対し手厳しいオピニオンを展開する背景として、決して“東大コンプレックス”を抱えている訳ではないと自己分析している。
 と言うのも私自身、過去に東大大学院修士課程入学を志して東大に願書を提出した経歴がある。 それは法学研究科だったのだが、入試3科目のうち民事訴訟法の勉強が間に合わず直前に受験断念したものの、その後別大学で自分が望んだ分野の学問に精力的に励み「経営法学修士」を取得し目標達成が叶っている。 
 もう一点述べさせていただくと、上記「ザ・コラム」内に取り上げられている、東大を2度卒業された福井氏との人物は、偶然原左都子と同年齢のようだ。 私も大学は異なるが氏と同じく理系と文系両方の学業に励んだことにより、現在の思考回路を作り上げていると自負している。 全国に位置する大学の教官には東大出身者あるいは東大教授(助教授)が数多く非常勤で勤務しているが、私も大学在学中にはそれら尊敬するべく東大大学教官のお陰もあって、十分に我が欲する学業をまっとうしてきている。
 

 そのような我が経歴も含めて考察するには、そもそも朝日新聞の山中氏が書かれているところの「東大脳」の定義が、あくまでも“東大受験段階”を超えていないことにどうしても“未熟”感を抱いてしまう私だ。 人間18、9歳とはまだまだ成長途上の子どもでしかない。 そんな段階で培った能力をいつまでも測りにかけられて議論されたのでは、東大卒業生こそがたまったものではないだろう。
 少なくとも「東大脳」と言うからには、東大現場に於いて培える学問力、すなわち学生が卒業後にどれだけの学問力を身につけているかをもって議論するべきだ。
 そして、もっと重要なことは社会進出後の東大卒業者の社会貢献度も踏まえて「東大脳」を解明しないことには、世界中に数多く存在し各方面で活躍を続ける東大卒業生に対して失礼この上ない話でもあろう。

 さらに原左都子の趣味で付け加えさせていただくと、東大を2度卒業され医学博士として現在東京都内の高齢者施設で働いておられるという福井氏の脳科学分野の発言を、山中氏が殊更取り上げている事に関してだが、特段目新しい情報ではなく昔から論じられている陳腐な内容であることにも少し寂しい思いがする…
 (高齢者施設が置かれている現実も厳しいものがあろうが、東大を2度卒業され朝日新聞紙面で取り上げられる程“顕著な「東大脳」の持ち主”の福井氏には、私個人的な希望としては一生に渡り医学最先端分野で闘い続けて欲しい思いもするが…)


 最後に冒頭のセンター試験に話を戻そう。

 受験生の皆さん、とにかく大学に合格しないことには自分が目指す学問に触れることすら叶わないのは明白な事実だ。 だからこそ、現在まで受験のために培って来た力をフルに受験の場で発揮しよう!
 貴方が入学する大学が「東大」でなくとも何らの支障はないと私は思う。 もし貴方が東大出身の優れた学者先生から学問教授を賜りたいのだとしても、東大の門をくぐらずとて全国各地の大学においてその実現がいくらでも可能だ。

 「東大脳」??
 わずか18,9歳にして、そんなものを自負している奴らの人生こそが危ぶまれる今の厳しい時代背景を認識しよう。 
 今後様々な経験を積みつつ歩む個々の人生にこそ、自らの脳を活性化できる様々なチャンスが待ち構えている!

医療依存脱却のため国民健康教育の構築を急ごう

2013年01月16日 | 時事論評
 昨日1月15日、自民党安倍政権は70歳~74歳の高齢者にかかる医療費窓口負担について、現法律で定められている通り本来支払うべき2割負担に戻さず、1割に据え置く措置を継続することを閣議決定した。

 当該年齢層高齢者の医療費窓口負担をめぐっては、現在特例的に定められている1割負担から、本来の2割負担に戻すかどうかの検討が行われていた。 しかし、低所得者に対する負担が多くなることなどから、政府は1割負担の特例措置を継続することを正式に決める事となったようだ。


 このニュースに関して、朝日新聞は早くも1月12日の社説において、「高齢者医療 国民はなめられている」と題して安倍政権の今回の決定に対し手厳しい批判を展開している。 

 早速当該朝日新聞社説の一部を以下に要約して紹介しよう。
 どうやら有権者はなめられているようだ。 安倍政権は今回の1割負担特例措置継続に関していつ法律通りの2割にするか、その決定を今夏の参院選後まで棚上げする見通しだ。 ねじれ国会解消のため、自公で参院の過半数を獲得するのが安倍政権の最優先課題であり、「負担増」のようなマイナス材料は極力少なくして、参院選を乗り切った後にすぐに2割引き上げ議論を開始する魂胆だ。
 1割を維持するのにかかる費用は年約2千億円。 これを安倍政権は13年度も「緊急経済対策」の予算案として計上する。 既に支出は1兆円に迫る。 その多くは後世代へのツケ回しである。 さすがに自民党内からも、いつまでも貴重な税財源を投じ続ける訳にはいかない、2千億円は次世代のために使った方がよいとの異論が出ている。  (中略)
 民主党政権を経て、有権者は社会保障に魔法の杖がないことを学んだ。 厳しい財政事情の下、高齢者にも相応の負担を求めざるを得ないことへの理解は広がっているはずだ。 そこを信頼しないでは、あるべき社会保障の姿は描けない。


 さてここから原左都子の私論に入るが、上記朝日新聞社説の内容を私なりの観点から3つに分類した上で、それぞれに対する私論を展開させていただくこととしよう。


 まず一つ目は、安倍政権が“参院選の「票取り」目的”で今回高齢者医療の一端である70台前半高齢者の医療費窓口負担を1割に据え置いたと論評している点。
 これに関しては、朝日新聞の批判通りである。
 
 国家が財政危機に陥り経済が低迷し国際競争力を失おうが、政権が短期間でコロコロ移り変わろうが、何処の政権もその行動原理とは常に“「票取り」目的”でしかない点に関して、実に辟易とさせられる。
 国民から「票」をもらって与党とならねば、党が理想とする政治の実現がままならないことは理解できる。 それにしても、あまりにもあからさまに「票取り」を前面に出されたのでは、朝日新聞の論評通り、政権は(国民はどうせ皆馬鹿ばかりだから)なめてかかろうと考えている魂胆が見え見えというものだ。
 上記社説の最後に記されている通り、前民主党政権の失策により国民は既に社会保障には“魔法の杖”がないことを学んでいる。 現政権はもうそろそろ「票取り」決議を取り止めて、税財源の投じ先を真剣に議論するべきである。


 2つ目の論点であるが、「高齢者医療負担軽減策 イコール 次世代へのツケ回し」 と明瞭に結論付けている上記朝日新聞社説論評に関して、少し原左都子なりに考察してみたい。

 現在の高齢者は過去の政治の“過ち”や“いい加減さ”により、年金制度を含む社会保障制度全般において、本人の現役時代の実力や社会貢献度以上に老後厚遇される結果となっている事実は否めないであろう。 それらが今の時代背景や世代間の公平さの観点から見直されるべきであることには私も異論はない。
 ところが、これが一端「医療費」となると如何であろうか。
 人間を含めた生命体とは年齢を重ねる毎に身体の老化現象と共に様々な不具合が生じるのが常であり、若い世代に比し疾病罹患や不意の怪我等が多発するのは避けられない運命にあろう。 だからこそ法律では70年代前半国民は2割負担として、3割負担の現役世代層とは区別しているではないか! との政府よりの反論も届きそうだ。
 そこで原左都子の私論としては、高齢者と若い世代との医療費負担に於ける整合性を保つための正確な試算を、今一度し直す作業から取り掛かることを安倍政権に提案したいのだが… 


 3つ目の論点として、いよいよ今回の「原左都子エッセイ集」のエッセイ表題に掲げたテーマに入ろう。

 そもそも「医療」というものを今一度政府も医療機関も国民も、皆が捉え直す事から再スタートするべきと私は常々考えている。
 この国に限らず、先進国においては医療という一科学分野が進化発展したが故に、国民は心身の不都合が生じると、安易に「医療」機関に依存するとの行動に出る事が常識化している現状だ。
 国民のその安易な行動こそが、医療行政とそれに迎合する民間製薬企業や医療組織との癒着を増強する後ろ盾となり、ひいては医療保険制度を圧迫し破綻に招いている。
 その結果、現在政権が今回閣議決定したがごとく高齢者医療費負担を1割2割いずれにするかとの(私に言わせてもらうと体たらく)議論に政権が翻弄される顛末となるのだ。

 高齢者は心身の老化現象により不具合が生じ易いと上記に記したが、これに関しても、少しばかりの専門力と日々の自己心身管理力により、個々人が自分にとってよりよい身体環境を維持することが可能である。 それを自ら実践可能な高齢者の皆さんは、おそらく老化現象にもめげず比較的元気にこの世を生き抜いておられることであろう。
  
 原左都子の日々の感覚によれば、「国民健康維持教育」が大いに遅れている我が国を実感させられてばかりである。
 何故この国でその種の教育が遅れているかと言えば、過去の政権が私利私欲に走り続け医療分野との癒着を増強し国民に医療現場受診を煽り続けて来た故であろう。
 
 今後は病気になったら医療に頼る教育よりも、自らの身体を健康に保つべく栄養・体力精神力増進に関する国民教育こそを子どもの頃から充実させるべきである。
 それが叶ったならば国家の医療費負担が大幅に軽減し、今回の閣僚決議もせずに済んだはずだ。

 (最後に参考であるが、原左都子が培った専門科学力を基に我が家に於いて日々指導する「健康維持教育」の賜物か、私と娘の昨年度の医療費は0(ゼロ)であり、母娘共比較的健康体でこの世を生き延びている。)

大雪に見舞われた今年のハタチの旅立ち

2013年01月14日 | 自己実現
 (写真は、本日1月14日 14時頃自宅ベランダより撮影した東京の雪景色。 参考のため、我が家は東京都23区内閑静な住宅地に位置する。 写真中央にしな垂れているのは竹林。いつもは凛とそびえている竹林だが、突然の大雪の重さでこの姿に変貌した。)


 我が娘は来年成人式を迎えるが、この正月に早々と娘を伴い呉服店を訪れて1年後の成人式の日に着る振袖の仕立てを注文した私だ。 
 小物類は1月中に到着、そして振袖と袋帯及び長襦袢は2月上旬の納品到着予定となっている。

 成人式対象者のお嬢様をお持ちでない方々にとっては、これまたずい分と早い時期から振袖の準備を始めたものだとの印象を持たれたことであろう。 そこで参考のため、現在の世の振袖商戦は成人式の約2年程前から始まっていることを付け加えよう。

 我が家にも、既に2年程前から呉服業者より娘宛に振袖のカタログが届いている。
 当初は私もてっきり業者が娘の年齢を1歳間違えているものと捉えていた。 もしそうであるとしても、娘がこの世に生まれ出た当時から我が子ハタチのお祝いには“親の責任範疇”として振袖を仕立て成人を祝ってやるつもりでいた私である。 それ故に、業者から届くそれらカタログ写真を大いなる参考として眺めていた。

 何と言っても振袖を始め和服とは芸術品である事には間違いない。 特に振袖は若い女性が一番美しい時期に着用する衣装であり、実に煌びやかで華麗なのだ。 それを眺めるだけでも、雅(みやび)の世界へ誘(いざな)われる思いだ。

 昨年末頃よりそろそろ娘の振袖仕立てを現実化しようと志していた私は、大学が冬休みに入ったことを契機に、娘を振袖の世界へいざ導入することと相成った。
 何と言っても、日頃大学の課題をこなす事に日々精一杯の時間を費やしている我が娘である。 その合間に少しずつ振袖情報を娘に提供することにより勧誘しつつ、冬休みにこそ振袖仕立てを実行しようと目論んでいた私だ。

 年が明け、娘と共にプラネタリウムを観賞するため外出した私は、ついでに目ぼしい呉服店へと足を向けた。
 実は我が娘は当該呉服店がカタログで公開していた振袖写真の中で、自らの“お気に入り”を既に発見していたのだ!  店員氏の説明によると、カタログ掲載商品は人気があるため既に販売済のことが多いとの事である。  (そうだろうなあ…)と同意していたところ、我が娘が当該カタログ掲載振袖生地の存在を店内で発見したではないか!
 その後定員氏の勧めにより数枚の振袖生地を身にまとわせて頂いた結果、やはり娘と私が最終決断したのは、当初より娘お気に入りのカタログ掲載商品だった。


 我が娘の振袖生地購入過程の説明が長引いてしまい恐縮である。 
 上記の段取りで、とりあえず娘が来年迎えるハタチのお祝いの外観的要素は既に整った我が家である。
 さてそうした場合、来年娘が所属する現在居住地である自治体主宰の成人式へ当人が出席したいか否かが次なる問題点だ。
 (そんなもん、出たくもないよな~~)と思うのが原左都子自身の正直な心情だ。 (どうせ、来賓とやらの爺さんどもがろくでもない祝辞を述べた後、出席者の皆がキャピキャピとうるさく騒ぐばかりで、我が娘の居場所など何処にもないのは目に見えている) 
 予想通り「成人式には出たくない」と訴える我が娘に、私はあえて是非共出席することを促した。 何故ならば、せっかく素晴らしい振袖一式を仕立てたのだから! というのがまずはその経済負担をした親としての正直な思いである。  これが親馬鹿ながら我が娘に実によく似合っているのだ。
 そして、もう二言私は娘に付け加えた。 「貴方は自分の同窓生を(過去における“いじめ”等の理由で)受け入れ難いのかもしれないが、相手の誰かが貴方を受け入れている場合が必ずある。 その証拠として未だに貴方に年賀状を寄こす同窓生もいるじゃないの。 あるいは、貴方のピアノやバレエの発表会の場で偶然出くわした過去の同級生が貴方の成長に驚いたりもしてるでしょ。 もしも来年成人式に出席したら、その後もっともっと成長を遂げている貴方にとって更なるプラス評価が投げ掛けられるかもしれないよ。」  「そもそも成人式なる祭典は、万人にとって一つの通過点に過ぎない性質のものだよ。 出たくなきゃ出ないでもいいけど、そんなくだらない式典に参加した事実こそが以外や以外、後々の人生にとってひょんな想い出になる事もありかもしれないよ。 特に感受性がまだ強靭なハタチの時期に嫌々ながらも成人式に出たところでさしてメリットもないならば、さほどのデメリットもないと私は思うけどね」
 そして今一度、私は娘に付け加えた。 「今回(現金一括払い!で)仕立てた貴方の振袖は実によく似合っていて親の目線でも美しいよ!」と。

 それでもまだ少し来年の成人式出席に不安の陰を残している娘に対し、昨日私は再度提案した。
 「じゃあ、明日はとりあえず今年の成人式会場を偵察に行こう!」と。


 ところが本日、この大雪である。
 我が娘のための偵察どころが、一体全体今年の成人式参加者はこの悪天候の下如何なる行動を取ったのであろうか?
 昼のニュース報道によると、東京都内でも不意の大雪悪天候にもかかわらず晴れ着の下に「ブーツ」を履いて成人式場へと向かう果敢なハタチ女性達の勇姿が放映された。
 これには、我が娘も大いなる勇気を与えてもらった様子だ。
 「来年の成人式には私も事前に雪用ブーツを用意しておく」との娘の談話である。

 私が現在住む自治体の成人式出席率は、ほぼ60%とのことのようだ。
 原左都子自身は数十年前の成人式に、我が親の歪んだ思想により出席していない立場にある。 (参考のため、我が親の考え方とは「成人式に着飾ることになど何らの価値もない。そんなことでチャラチャラするより確かな専門力を身に付けて自立せよ」である。 ただし娘達の成人式に振袖を作らなかったことを反省して、後々和ダンス一杯の和服を仕立て私と姉に送りつけてきたのだが。)
 それが苦い思い出であるからこそ、親とは我が子に人生最大の祭り事である「ハタチの祝い」をしてやりたいと思う事こそが世の常であって欲しいと希望しつつ、来年成人を迎える娘を心より祝福できそうなハートを抱き続けていることを幸せと思う私だ。

学校給食における 「おかわり」 考

2013年01月12日 | 教育・学校
 昨年12月に東京都内某公立小学校において、食物アレルギーのある女子児童が、担任が誤って渡した給食の食材によりアナフィラキシーショックを起こし死亡するとの痛ましい事故があった。


 このニュースを先だってNHKニュースで見聞した原左都子だが、その報道のし方に大いなる違和感及び疑義を抱かされた。
 当該NHKニュース報道では、「女児が給食で『おかわり』をした際に担任が手渡した食材によりアレルギー反応が起こった」との表現を用いていたのだが、ニュース表題にも「おかわり」の文字を使用する等、女児自身が「おかわり」をした事を殊更強調しているかのように私の耳に入ってきたのだ。
 これでは、まるで「おかわり」をした女児側の自己責任範疇の事故と視聴者に受け取られかねないのではあるまいか?!?
 とんでもない話だ。 
 女子児童は未だ11歳の小学5年生。 もしも周囲の児童達が元気よく「おかわり」をするのが日常であったとするならば、女児とて担任が自らのアレルギー体質を理解してくれているものと信じ「おかわり」を要求することは重々想定内の出来事であろう。

 今回の我がエッセイは、当該事故を時事問題あるいは医療問題として取り上げる趣旨ではないため、ここでは専門的な発言を差し控えることとする。
 ただ、元医学関係者として一言のみ私論を付け加えさせていただくならば、義務教育現場は一部の児童が抱えている食物アレルギーを絶対に軽く捉えてはならない事を再認識するべきである。
 現在公立小中学校に通う児童達は、全員学校で給食を取る事を強制されている。 そうであるなら尚更、現場の教職員は一部の医療的弱者児童の存在を肝に銘じるべきである。 一見元気そうだからと、児童が抱えている体質を安易に見過ごしてはならない。 
 
 学校給食が元でアナフィラキシーショックにより命を落とす児童は、今回に限らず後を絶たない現実である。
 もしも学校現場の教職員がそれら児童の徹底管理にまで手が回らないのであれば、全員一斉食材を基本とする給食システムこそを、今一度その細部に至るまで再考し直すべきだ。
 食物アレルギー児童を抱える家庭によっては、自宅から弁当を持たせる事例も存在する事は私も承知している。  それが時間的制約等様々な事情で叶わない家庭が多い実情をも踏まえ、時代の要請に応じてもうそろそろ義務教育行政は何らかのきめ細かい対策を練る事に着手するべきではないのか。

 参考のため、1月8日付朝日新聞の当該事故に関する報道のタイトルは 「担任、誤り料理渡す」と記されている。
 記事を読み進めたところ、最後の目立たない場所に一言のみ「おかわり」の文字があるものの、この記事においてはあくまでも担任教諭の落ち度を前面に出す体裁となっている。
 原左都子としては、当然ながら朝日新聞の報道観点・姿勢こそに賛同したい思いだ。


 さてさて今回の記事は、学校給食における 「おかわり」 を考察することを趣旨としているのは表題に掲げた通りである。
 上記女子児童の学校給食による痛ましい食物アレルギー死亡事故に際して、NHKニュースが給食を 「おかわり」 したことを執拗にまで繰り返していた事実に、とことん反発したい思いが我が脳裏に渦巻き続けている故である。

 実は我が子が小学2年生の時、公立小学校担任先生との保護者個人面談において、「○○ちゃん(我が子のこと)は給食の『おかわり』ができるまで成長していますよ!」と告げられた経験がある。
 これには仰天した。 (「原左都子エッセイ集」長期読者の方はご存知であろうが)我が子は出産時のトラブルにより若干の事情を持って産まれ出ている。 特に幼少の頃は衣食住全てに関してケアが必要な身であった。 「食」に関しても例外ではなく、必要最低限の栄養源を摂取させることに日々精進した私である。 
 公立小学校入学後は、案の定給食を時間内に食することが出来ず、担任先生のご好意による配慮で我が娘のためにクラスの給食時間を最大限長くして頂いた経験もある。
 その後上記担任先生がおっしゃるには、娘が小学2年生に進級した時、級友達の勢いに煽られて給食の「おかわり」をしたと言うのだ!(それを娘が食べ切れたか否かは不明であるものの…。)  

 このようにまだまだ未熟な児童にとっては、公立学校に於ける給食時の「おかわり」とはその成長を物語る一場面の意味合いもあるのかもしれない。  集団生活内での「給食」という場を有効活用して、我が子を成長に導いて下さった当時の担任先生に感謝申し上げたい思いである。


 原左都子自身の昭和30年代後半頃の郷里過疎県での小学校給食を振り返ると、それはそれは実に“まずかった”の一言に尽きる…
 既に4時間目あたりから給食時間が嫌で嫌で、(今思えば)そのストレスで胃液が我が体内を襲い、とても給食が食べられる身体環境ではなかったものだ。(後々考察するに“集団嫌い”だったことも理由として大きいのだが…)
 そんな厳しい学校給食現場を経験した私は、当時級友が「おかわり」をしていたかどうかの記憶すらない。
 今思うに、当時から学校給食とは給食当番児童生徒が「アルマイト」の食器にテキトーに配るシステムだったため、当然ながら“残り”が存在していた事であろう。それを元気な児童が「おかわり」していたのであろうと考察するものの…。

 中学生になってからは、多少事情が変化した。
 身体が大きく育っているこの私とて昼食時にはお腹が空き始めたのである。 ところがこれまた当時の時代背景であろうと考察するが、女子生徒が学校給食の「おかわり」など出来る訳もないのだ。 まだまだ控え目な女子が好まれた時代背景である。
 周囲の女子生徒皆が「もう食べられない~ ウッフ~~ン」などと(言ったかどうかの記憶はないが)、給食のパンを残すことが美徳とされていたのだ。 「ゲゲ!私は完食できるのに…!」とは思いつつそれに同調しないことには、その中学を女子として渡っていけない気がしていた私だ…
 そうこう思い起こしてみるに、人間最低限の食の場であるにもかかわらず集団行動を強制される学校給食とは実に辛いなあ…… 


 最後にやはり冒頭の事件に戻りたい私だ。
 義務教育学校現場における給食が国民に果たしている役割は、その恩恵に与った時代がある私も確かに大きいものであることは自覚できている。
 そうであるからこそ、「食」に関するあらゆる多様性を学校現場は認識し直すべきであろう。

 今一度言うが、公立小学校に通っていたアレルギー女児は、決して給食の「おかわり」をしたから死に至ったのではない。
 人間の多様性を心得ない、あるいはその対策を怠っている義務教育学校現場が招いた悲惨な事故に他ならない。

「追い出し部屋」で働いてみたいぞ。

2013年01月10日 | 時事論評
 職場に於ける「追い出し部屋」なる部署の存在を原左都子が初めて知ったのは、昨年放映されたNHK連続テレビ小説 「純と愛」 においてであった。

 上記「純と愛」で私が視聴したその場面を、我が記憶のみに頼って以下に少し再現してみよう。
 主人公純が働く大阪のホテルオーサキは経営難に陥り、外資系大手ホテルへ吸収合併される運命と相成った。 それと平行して無能な社員のリストラが実行されることとなる。
 幹部よりの再三に渡るリストラ勧告にもかかわらず自主退職を希望しない社員達が、大きなテーブル一つと椅子以外何も置かれていない薄暗い部屋へ召集され、日々そこで与えられる何らの生産性にも繋がらない小論文等の課題を虚しくこなしつつ、退社時間を待つ措置となる。

 これぞ「追い出し部屋」である。
 要するに「追い出し部屋」とは、企業の経営難等によりリストラ勧告をしたにもかかわらず自主退職を望まない社員達を、無常にも強引に辞職へと追い込むべく試練を与えるために用意された部署を指す。


 新年が明け幾日かが過ぎ去った頃、年末のアルゼンチン旅行出発以降たまりに溜まっている新聞の山を片っ端から爆読する作業に取り掛かった私だ。
 そこで発見したのが、朝日新聞12月31日付一面トップの 「配属先は『追い出し部屋』」 と題する記事である。
 1年を締めくくる大晦日の一面トップ記事として、この種の話題を提供する朝日新聞の一種偏向しているとも捉えられそうな趣味を私は好意的に捉える人種である。
 
 それでは早速、上記朝日新聞トップ記事を要約して以下に紹介しよう。

 赤字にあえぐパナソニックグループに、従業員達が「追い出し部屋」と呼ぶ部署がある。 本社より遠く離れた子会社内のその室内には100台程の古い机とパソコンが並ぶ。 その部署の主な仕事は他部署の「応援」である。要請があれば駆けつけて製品を梱包する等の単純作業に励む。 応援要請がないと就業時間を待つしかない。
 この部屋の正式名称は「事業・人材強化センター」。 ある女性社員は上司より「今の部署には君の仕事はない」と告げられ、子どもの事を考えて上記センターへの異動を受け入れた。 「そこへ行っても1年後はどうなるか分からない事は承知していますね」と上司に付け加えられつつ…。 
 このセンターの存在に関して会社側は「退職強要ではない」と説明しているようだが、社員側は「実質余剰人員を集めて辞職するよう仕向ける狙い」と受け止めている。 当該パナソニックの事例の場合、就職氷河期を勝ち抜いて正社員の座をつかんだ30代の世代においても上記センター配属、すなわち「社内失業」が増える現実のようだ。

 話題を上記朝日新聞2面に移そう。
 我が国日本では、経営難の企業が従業員を解雇することは過去の裁判例で厳しく制限されている。 そこで企業は仕事を与えられない社員に自主退職を促す手段に出て“人減らし”計画達成を目指すとの図式である。
 その一方、全国に広がる「追い出し部屋」を商機と見て活発に動くのが人材紹介・派遣を手がける人材サービス業界だ。 「社内失業者」の出向を受け入れるビジネスも出てきているとのことだ。
 最後に朝日新聞記者のまとめとして、「社内失業」や人減らしの増加は、経済の低迷と雇用政策の欠如がもたらす構造的な問題だ。 現時点において失業した人への支援は失業手当が軸で手薄なままだ。 政府の無策が続く……
 (以上、朝日新聞昨年大晦日のトップ記事より要約引用)


 朝日新聞よりの引用が長引いたが、ここで私事に入らせていただこう。

 原左都子が民間企業(現在東証一部上場企業であるが)に正社員として勤務していた1970年代から80年代半ばにかけても、当該医学関連企業に於いてリストラ対象職員を幹部が自主退職に導く手段は存在していたと認識している。
 それは 「左遷」 との個別的方策であるのだが、当時よりこの「左遷」に耐え抜いて生き残り、新たな実力を発揮する社員は少なくなかった事実を私は記憶している。
 
 いえいえ、過去に於ける「左遷」と現在の「追い出し部屋」とは、その時代背景及び企業側が置かれている経営難との切羽詰った事情等々、その趣旨が大いに異なることは私とて重々理解できているつもりだ。

 ここからは、原左都子の私論に入ろう。

 そうだとしても私が考察するに、「左遷」「追い出し部屋」… リストラ先の如何にかかわらずリストラ対象となる社員とは、もしかしたら単に直属の上司に嫌われただの、組織の経営理念に合わないだのとの、私に言わせてもらうと上層部の“狭い見識”がもたらした結果とも受け止められそうだ。 要するに、上に立つ人間の能力不足により有能な社員を使いこなせないだけの話かもしれないのだ。

 冒頭のNHK連続テレビ小説「純と愛」も同様ではなかろうか!?
 主人公純にはホテルの「社長」になりたいとの大いなる野望がある。 そんな純の純粋な野望を周囲がとことん潰し続けているドラマと解釈している私は、純には是非共何処かのホテルの「社長」になって欲しいと期待している。

 既に還暦に近づいている私は、まさか今後何処かの「社長」になろうとは一切欲していない。
 だが過去に於ける民間企業経験者加えて元公立高校平教員の立場として、当時実力なき経営者や上司に対しては何が何でも逆らい続けたい思いが我が体内から沸々と湧き出ていた事を、NHKドラマ主人公 純 から回想させてもらえるのだ。

 そんな原左都子から、「追い出し部屋」を設けている企業幹部に言いたいことがある。
 自分は会社経営者や顧問の身分だから、あるいは部署の上司の身分だから、狭い世界での弱者である部下をいたぶって「お前は『追い出し部屋』へ行け!」などと安直に指示していたのでは、後々真に実力ある部下から“しっぺ返し”を食らうことを認識しておくべきであるとの事実だ。


 表題に掲げた通り、年齢を重ねた今こそ私は「追い出し部屋」で働きたい思いがする。
 そこで弱者の立場として労働力を提供することにより、組織の上位に君臨する自ら力があると自負する人物達の真の実力の程に決戦を挑みたい故だ。

 現在世界競争力を失っている日本、そしてこれ程までの経済難の時代であるから故に、下に位置する弱者を排除する以前の課題として、上に立つ人材こそが自らの実力の程を鑑みて今後の進退を問い直すべきではないのか?!?

マチュピチュ、アンコール遺跡 壮大なるCGの旅

2013年01月07日 | 芸術
 (写真は、東京池袋サンシャインシティ コニカミノルタプラネタリウム満天 に於いて2013年3月まで上映予定の「世界遺産宇宙への祈り」をパンフレットより転写したもの)


 昨年末にアルゼンチンへ旅行した原左都子であるが、新年に入ってまたもや南米への壮大な旅行に旅立つことが叶った。  ただし、それは上記プラネタリウムにてのCG画面を通しての話であるが…

 私がプラネタリウムファンであることに関しては、本エッセイ集バックナンバーにおいて幾度か紹介している。
 同じく影像観覧娯楽である映画に比し、プラネタリウムは上演時間が短い故に、時間面でのコストパフォーマンスを考慮した場合料金的に割高感があるのは否めない。
 それでも何故私がプラネタリウムファンであるかと言えば、リクライニングシートに身を委ね天空の巨大スクリーンを眺めるゆったりとしたあの時空間は、到底映画館では味わう事が叶わない“癒しの場”を私に提供してくれる故である。  (ただし今回に限って言うと、快適であるはずのリクライニングシートが、年末アルゼンチン旅行の片道30時間に及ぶ過酷なまでのロングフライトを、多少なりとも私の脳裏に呼び起こしたとも言えるのだが…


 正月3日間を自宅で比較的のんびり過ごした私は、一昨日の4日に大学が冬休み中の娘を誘って自宅からメトロ乗車で程近い場所にある上記の“プラネタリウム満天”に出かけた。
 
 この“プラネタリウム満天”に於いては、いつもメインプログラムの前にその時期の季節に夜空に輝く星座の放映がある。
 冬の星座の代表格は“オリオン座”であるのは皆さんもご存知の通りだが、ギリシャ神話に登場する猟師である“オリオン座”のオリオンと、その周辺の“大犬座”“子犬座”等々が紹介された。
 そして今回の星座紹介場面では、オリオン大星雲に注目して星の誕生、そして近い未来に起こると言われているオリオン座の「ベテルギウス」の超新星爆発を通じて星の死の様子を壮大な映像表現で描いていたのが特徴であろう。
 私が過去に見聞した新聞報道によると、当時既に冬の星座の王者である一等星「ベテルギウス」は超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されていたとのことである。 
 その報道によると、ベテルギウスの大きさがわずか十数年で15%減ったという報告もあり、専門家は「爆発は数万年後かもしれないが、明日でもおかしくない」と話していたようだ。 もし爆発すれば満月ほどの明るさになり昼でも見えるようになるとの事だった。
 話を繰り返すと、冬の大三角の一つでもあるオリオン座のベテルギウスは赤色超巨星であり、直径は太陽の一千倍。 重いため一生は短く既に寿命は近い。 最後は超新星爆発を起こしブラックホールなどになるとされる。  一昨年米欧の研究者が3本の論文を発表し、ベテルギウスが大量のガスを放出していることや大きさの急減が示された。 ガスの放出によって星の表面が梅干のようにでこぼこに膨らんでいるらしい。 ある研究員は「爆発がいつかはわからないが、我々は地球からその死の直前を見ているのは間違いない。 今まで想像するしかなかった星表面の様子も実際に見て確かめられるようになってきた」と話しているそうだ。
  (以上、朝日新聞過去記事より引用)
 ただし、もしも明日オリオン座ベテルギウスが超新星爆発を起こそうが、地球からの距離が膨大であるためそれを地球上から観察できるのは何百年(正確な年数を記憶しておらず恐縮だが)後との今回の満天プログラムでの説明だった。


 それでは、いよいよ今回のメインプログラムである「世界遺産宇宙への祈り」が描いたCGによる壮大な世界遺産への旅へ皆さんを誘(いざな)おう。

 まずは、コニカミノルタが提供している今回のプログラムのコピーを以下に紹介することにしよう。 

 マチュピチュ、アンコール遺跡、東大寺。  さぁ、「超」臨場感の旅へ出掛けよう!
 私たちの祖先は、今では想像もつかない圧倒的なスケールで巨大な建造物を造り上げました。
 彼らはなぜ、どうしてこれらの建造物を造ったのか?
 最新のコンピュータグラフィックス技術を駆使して、その迫力ある世界遺産を全天360度ドーム映像に再現。 その謎に迫ります。 
 地球という奇跡の星で、わたしたちの祖先がつくりあげた「世界遺産」という奇跡の結晶を旅するものがたりです。
 謎の空中都市「マチュピチュ」、繊細な造形美が魅了する「アンコール遺跡バイヨン寺院」、そして迫力に満ちた「東大寺大仏殿」。 
 各々の世界遺産映像は、3次元計測や高精細なCG表現によって精緻につくられており、まるでその場に本当にいるかのような臨場感を体感できます。 
 なぜ、彼らはこのような遺跡を作ったのか? 遥か遠い昔に生きた私たちの祖先に思いを馳せ、その謎に迫ります。
 また、それぞれの世界遺産の世界観や思想を表現した幻想的な映像表現が、作品の随所に盛り込まれています。
 (以上、コニカミノルタプラネタリウムがネット上で提供している当該番組についての紹介文章より要約引用)


 既に幾度も国内外へ旅行に出かけ、世界中の文化遺産の中の幾つかをこの目で実際に見聞してきている原左都子である。
 そうであるとしても、今回の“プラネタリウム満天”プログラム「世界遺産宇宙への祈り」が放映したまたとはないCG影像は素晴らしかったの一言に尽きる。

 と言うのも実際に世界遺産への旅に出かけてみたところで、何処も観光客でゲロ混みである事は避けられない事態だ…。  はたまた、現地ガイド氏によるたどたどしい日本語説明を配られたイヤホンで聞こうとしても、その語学力やイヤホンの性能に左右され聞き取りにくい事この上ない…。  しかも時間とカネをかけて現地を訪問しようが、我々観光客が足を踏み入れられる場所は遺産保存目的で特定されているのが常でもあろう。
 そうした場合、観光客とは遠目にそれを見たような気がしているだけで、実はほとんど何も見ずに帰国し、後にネットや絵葉書等で認識した事実を元に周囲に自慢話を展開するのが一般海外旅行経験者が行う“関の山行動”ではあるまいか???
 まあそれでも、実際に現地へ出向き旅行者それぞれの五感で感じ取った現地への思いこそが旅の醍醐味であることは間違いないし、それこそが旅行者の優越感を煽るのであろう事実は原左都子も理解範疇だ。


 それを前提としても、今回私が観賞したプラネタリウム番組「世界遺産宇宙への祈り」に於いて取り上げられた、南米ペルーのマチュピチュ遺跡、及びカンボジアのアンコール遺跡バイヨン寺院の壮大なCG影像は“実に実に素晴らしい!”の一言に尽きる。 現地へ旅をしてもこんな風景は到底堪能できないであろう壮大な画面を、十分に楽しませていただけた。

 今後、“コニカミノルタプラネタリウム満天”に原左都子が個人的に期待申し上げたいのは、このような世界遺産CG大スペクタクルプログラムを充実拡大していただくことである。
 それが少しずつでも叶うようなら、私は後々何度でも“満天”に足を運ぶつもりである。

人の生命力こそ医療の限界に打ち勝ちたい!

2013年01月05日 | 健康・医療・介護
 昨年末より、本エッセイ集の著者である原左都子自らが親族に余命短い末期癌罹患者を抱える身となっているため、新年早々から読者の皆さんに明るいエッセイ話題を提供できず恐縮である。

 そうとは言いつつ、私は比較的マイペースを貫く日々を送っている。 
 それは決して、突然末期癌宣告を受けた義理姉を軽視せねばならない事情や思想によるのではない。 むしろ元医学関係者としては、義理姉が医療現場で患者として置かれている立場を私こそが一番理解できているものと内心自負し続けている。
 ただ現在義理姉の容態が悪く、親族が面会することも叶わない現状を受け入れざるを得ない現実である。

 
 今を遡る事40年程前、私は生まれ育った過疎地で医学関係の学問に励み、新卒後医学分野の国家試験に合格すると同時に、臨床現場の病院ではなく自らの希望で医学関係民間企業を選択して東京に本社がある当該企業へ就職した。 
 元々「医学」分野とは私にとっては親から強要されたが故にやむなく進学したのであり、自分が希望して選択した進路ではないとの思いを引きずり続けていた。 そのため、身勝手にも臨床現場である病院への就職のみは何が何でも避けたい思いが強く、当時あえて民間企業への就職を望んだといういきさつだ。
  
 そんなマイナス背景が存在したものの、(元々負けず嫌いの私は)上記民間企業で最大限の精進を続け自分なりの地位を築いてきた。 
 ところが、30歳直前にして新たな学問分野への大幅な進路変更を目指す目標を掲げることと相成った。
 その後は、我が次なる分野の大学及び大学院への合格を次々とゲットしつつ学問に没頭した結果、30代後半にして「経営法学修士」を取得するに至っている。 (参考ではあるが、自力で苦労して取得したこの学位が、我が後々の人生の各方面に於いて有形無形の輝かしきご褒美を与え続けてくれている。 やはり学位とは様々な意味合いで取得しておくべきであることを今更ながら実感の日々である。)
 その間の我が独身時代におけるあくまでも“食い扶持”としての就職先を選択するに当たっては、過去に業績を積み上げてきた医学分野を利用するのが一番の方策であろう。 ところがその期に及んで私は尚、臨床現場である病院を徹底的に避け続けて、やはり民間企業への派遣社員として割高な収入を得てきている。


 前置きが長くなってしまったが、そんな半生を歩んできたが故に、今後の人生も含め一生に渡り病院現場を忌み嫌い続けるであろう原左都子であるとも言えるのだ。

 病院現場の何がそんなに私にとって嫌なのか??
 現在に至っては、徹底して基本的に「病院へ行かない主義」の私である。 この理由に関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて幾度となく記載しているため、それを参考にして頂きたく思う。
 簡単に一言で説明するならば、私は医療における政府と医師会と製薬業界等々との癒着故の無駄な医療行為の現状を基本的に否定的に捉えている、というのが正直な回答であろうか。 (どうか医学素人の皆さんは決して私の真似をせず、必要に応じて適宜に病院受診をされますように。)


 人間が突然死に至る病に苛まれるか否かは、産まれ持って備えているDNAによるところも大きいであろうか。 
 あるいは、自分が産まれ持ったDNA体質を人生早期に捉え理解し、冷静に対処しようと努力して身体改善に励んでいる人物はある程度長生きできると考察するべきか??

 まずは、現代医学が既に解明を終了している病理分野DNAに関しては、最先端医療が既に太刀打ちできるまでに進化しているのであろう。

 片や、現代医学が未だ解明できていないDNA分野の病に不幸にも突然取りつかれてしまった場合、自分の命はないものと覚悟を決めねばならないのか……
 と言うのも、何故人間が自分の意思とは裏腹に欲さない疾患に罹患し命を落とさねばならないのかに関して、DNA観点を含め考察して私が思うに不可思議この上ない感覚を抱かせられる故だ。


 そんな我が考察の前提として、やはり医療とはまだまだ発展途上であることを思い知らされる。
 医療という科学の一分野が今後市民の命をどれ程助けられるのかを改めて慮った場合、初心に戻って今この世に生命を宿している市民の健康を保つ事からスタートし直すべきなのは言うまでもない。

 何故人間がそれを望まないにもかかわらず若年にして突然命を落とさざるを得ない病に苛まれるのかに関しては、ある程度の遺伝子分析科学が進展している時代背景ではあろう。

 そんな現在までの医学の歴史におごることなく、今後はあらゆるDNAを持ってこの世に生まれ出て来る多様性ある生命体が、現代医学の限界を超越して、できるだけ長い生命を宿せるごとくの社会的文化的視野を含め多面的発想で医学発展がなされることに期待したい思いである。

新年にこそ身近な周囲に愛と人情を注ごう!

2013年01月02日 | 人間関係
 (写真は、我が家が今年購入したお節料理。 今年は上記“洋風おせち”を2箱購入し本日2日昼までに一家3人で2箱をほぼ完食した。 出来合いのお節にしては予想以上に分量が多く、食べ応えがあった。
 上段左から、パストラミビーフ、帆立貝柱のマリネ、パンチェッタのミートローフとチキンとチーズのテリーヌ、サーモンとベーコンのロースト、 中段左から、栗のブランデー煮と若桃の甘露煮、海老、ローストビーフ、豚角煮、  下段左から、大根ピクルスのスモークサーモンロール、生ハムのマリネ、フルーツカスタード、ポークグリラーのサワーソース和え)


 2013年の新年は私の居住地 東京では、本日やや風が強いものの比較的穏やかな晴天が続いている。
 年末突然の出来事が相次ぎ慌しく過ぎ去った師走を駆け抜けた後、この正月期間を利用して少し腰を落ち着け、現在小休止中の原左都子である。


 先程昼間にテレビで垣間見た「箱根駅伝」では、日体大が26年ぶりの往路優勝を遂げた様子だ。  何でも往路5区の日体大最終ランナーでありキャプテンでもある3年生の男子学生氏は、昨年父親を癌で亡くしたにもかかわらず、その葬儀の翌日から駅伝ランナーとして気丈に練習を続けてきたとのアナウンサー氏の解説でもある。

 素人ランナーの私自身が昨年初めて公的な陸上競技会やロードレースに出場して完走するとの経験を積めたお陰で、テレビ報道を通しての駅伝やマラソン中継が今まで以上に楽しめることが嬉しい! 
 一素人初心者ランナーの立場ではあるが、テレビ画面を通して、こういう場面では如何なるレース展開にするか、あるいは沿道からの声援にどう応えるか等々、自分が走っている気分でレース観戦が楽しめることが実際にレースに参加した身としての特権でもあろう。
 加えて、今回の箱根駅伝日体大5区ランナー氏のお父上が癌で亡くなったとの情報も、現在の我が身に滲みる思いで本日のレースを見守ったものだ。


 という訳で、ここからの新年初頭「原左都子エッセイ集」は、昨年12月初旬頃より末期膵臓癌にて闘病中の義理姉に関する第3報に入らせていただく事としよう。
 
 昨年末の12月29日に義母に会い義理姉の容態を尋ねたのだが、その段階では義理姉は2度目の開腹手術直後だったこともあり正確な情報を得られないでいた。
 昨日の元旦に義母を我が家に招待し再確認したところによると、短期間内の2回に及ぶ開腹手術のダメージが甚大な様子で、現在義理姉は体力消耗状態を強いられ到底人に面会出来る状態ではないとのことだ。
 既にご存知の方も多いであろうが、膵臓癌とはあらゆる癌の中でも完治に至る確率が低く予後が期待できない癌の一つである。 いくら定期健診を毎年真面目に受けていようが、発見しにくい性質の癌なのであろう。
 それが故に膵臓癌に罹患した以上、本人は癌部位からの出血による貧血症状や突然の激しい腹痛等が起こって初めて病院の診察を受けるしか方策が取れないようだ。 そうしたところ医師から告げられるのは、既に癌が末期状態……

 そうだとしても昨日我が家に招待した義母が、膵臓癌の厳しい現状や義理姉が現在置かれている医療的立場を重々わきまえた上で、私と対等に話し合ってくれることに大いに助けられた元医学関係者の私である。
 義母が毅然と私に告げる。 「娘(義理姉)の命は膵臓癌の厳しさから推し量って後3ヶ月と考えるべきだ。 そうした場合、やはり今後の事は今から計画的に考えて置きたい。」云々…
 既にその話を年末にも義母から聞いて承知していた私だが、改めて義母の気丈さに感謝すると同時に、もはやベットから起き上がれるのか否か不明の義理姉の現状を思い、今後ますます一族の一員として役立てるべき行動を取るのが私に課せられた任務と再確認した。


 この種の差し迫った事象が自分の身近に勃発しない限り、現在の国全体の社会や自治体、あるいはもっと狭い地域コミュニティにおいてすら、人と人との関係を見直す機会など皆無であるのが現在の日本国民が置かれている実情ではなかろうか?

 昨日の元旦、私は多少足が不自由との理由で要介護ケアマンションに入居中の義母を我が家に招待するため、駅近くのタクシー下車場所まで迎えに出かけた。 
 そこを通り過ぎる地域市民の人々の姿が、一部の子どもを除き正月にして皆“暗い”ことこの上ない。 この国の市民達はいつの間にこんな暗い表情で街を歩かねばならなくなったのか??
 正月だと言うのに、まるで墓場にでも行くかのごとくの市民の有様だ…… 

 いやいや、それはあくまでも先だってアルゼンチンを訪れたばかりの原左都子の主観的観測に過ぎず、一見“暗く”見える市民の皆さんとて、それぞれに初詣等々を楽しまれるために元旦から街に繰り出しておられるのであろう。
 それにしても、まさか皆さんの家族すべてが癌罹患者を抱えている訳でもあるまいに、一家揃って元旦の日に街に繰り出せるならばそれを「幸せ」と考え、もう少し穏やかな微笑を少しでも周囲に示して欲しい思いの私だ。


 私とて身内の切羽詰った不幸は辛い。
 それでも、少なくとも本人の不幸後にこの世に残される我が身内達には出来る限りの笑顔で接し続けたく考えている。

 常に私に遠慮がちだった義母が元旦早々我が家を訪問する決断をしてそれを実行してくれた事に感謝しつつ、今後少なくとも身近にいる周囲の人々には私なりの人情と愛を注ぎ続けよう! との所信を掲げた今年の正月である。

 日本の皆さんも新たな年を迎えた事を契機に笑顔を取り戻そうではありませんか?!