原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“迷い小鳥” の物語

2023年07月30日 | 人間関係
 (冒頭写真は、本日朝 我が家・バルコニーの洗濯干し場に迷い込んで来た小鳥。)


 今朝の事だ。

 バルコニーに洗濯干しをするのは、いつも午前7時半頃からなのだが。

 それを終えて、1時間ほど経過した午前8時50分頃に台所にいると。
 どうもバルコニーから小鳥のさえずりのような鳴き声が聞こえて来る。
 すぐに飛び去るだろうと放置しておいたら、どうやら未だにバルコニーにて鳴いている。

 珍しいなあ、と思いつつその様子を観察しに行った。

 こういう場合も普通は私がバルコニーに近づくとすぐに鳥は飛び立つものだが、何故か洗濯干しに泊まって未だ鳴いている。

 その様子をカメラに撮影した。

          


          

          

   
          


          

      
          

          


          


 こんなに撮影しても、未だ逃げないと言うことは。
 もしかしたら、“逃げられない”のではないかと推測した。

 成鳥ではなく、小鳥の様子だ。
 そして一時遊びに来たというよりも、洗濯ものの合間に入り込んでしまって逃げようが無いものと結論付けた。

 
 さて、どうしてやればいいものかと考えつつ。

 その存在自体が可愛いので、この機会に十分観察させてもらっていると。😛 

 時々鳴きつつ、比較的おとなしく過ごしている。

 30分ほど経過して、どうやら親鳥がこども(この小鳥)の居場所を鳴き声から察知して、連れ戻しに来ようとする。

 ところが、やはり親鳥は用心深く、私が部屋内から観察しているのに気付くと咄嗟に逃げる。 そしてまた小鳥の様子を伺いに来ては、助ける手段が見つからない様子だ。

 その様子を撮影しようとしたら親鳥はすばやく逃げて、カメラのシャッターが間に合わない。


 これどうしてやればよいものかと亭主に相談したりしつつ、いっそ、もう洗濯物を室内に取り入れればよいのか? と思いついた! (猛暑のため、朝干した洗濯物はとっくに乾いている。)

 そしてバルコニーに出て、小鳥が止まっている洗濯物干しに近づくと。
 驚いた小鳥は、その驚きの勢いで空へ飛び立った!


 その様子を近くで伺っていた小鳥の親や仲間たちも安堵した様子で、それぞれが鳴き声をたてている。


 そのすぐ後に、面白い事象が起こった!

         

 これは、我が家のバルコニーから直線距離で7m程のところにあるアンテナなのだが。

 未だバルコニーにいた私の目の前のこのアンテナに、親鳥はじめ3羽程の仲間の鳥が泊って。  
 (私の勝手な推測だが)、まるで「小鳥を逃がしてくれてありがとう!!」と言っているがごとくに、一斉に鳴くのだ!

 それを見届けている私を確認(??)して、喜んだように鳴きながら皆で飛び去って行った。



 本日午前中に偶然発生した、我が家のバルコニーに舞い込んできた迷子の小鳥とその親鳥や仲間たちとの貴重な交流経験を、エッセイに綴らせていただきました。 

 動物(特に鳥類とは頭が良く)って “感謝の気持ちを表現できる生き物” だと見聞することがあるが、それをマジで経験できた(?)ことに心より感動した我が本日一時の物語でした。


 (今回のエッセイは、正確に言えば「人間と動物との関係」カテゴリーにするべきですが、それが我がブログには無いため「人間関係」に分類しておきました。)
 

「消すことのできない感情」は、あなたを突き動かすエネルギーになる

2023年07月29日 | 自己実現
 冒頭表題は、2023.07.29付朝日新聞 “悩みのるつぼ” 相談に対する社会学者 上野千鶴子氏の回答より転載させていただいた。


 という訳で、本日のエッセイテーマは久々に朝日新聞 “悩みのるつぼ”の相談より引用しよう。

 早速、10代女性の相談内容より要約引用する。

 大学2年生だが。 小さい頃からシングルマザーの母に虐待やネグレクトを受けて来た。 何度か学校が警察や児童相談所に通報したが、何も変わらなかった。
 高3の冬、母が出て行かなかったら殺すと言ってきたのがきっかけで家を出た。 自分で施設を探し、自立支援ホームで暮らしている。
 本題だが、自分は今大学に通えて塾講師のバイトしている。 でもなぜか心が満たされず、毎日しんどい。 ホームにいる高校生たちを見ていると、国の支援で定期ダイヤスマホ代、学費を払ってもらっていいなと感じる。 自分は家にいたため学費も自分で払っていたのに……
 支援が充実していることはいいことだと思っているのに、自分の高校時代と比較して嫉妬している自分がいる。 消すことの無い感情だが、現状に満足して楽しく充実した生活を送るにはどうしたらいいか。


 今回の相談回答者は、冒頭の通り社会学者の上野千鶴子氏だ。
 
 回答最後の部分の今回のエッセイの表題に掲げさせていただいた「『消すことのできない感情』は、あなたを突き動かすエネルギーになる」の部分のみを紹介させていただいて。



 後は、原左都子の私見を述べよう。

 今回の相談者である(おそらく)現在19歳の大学生は、十分に頑張っておられると高評価したい!

 「出て行かないと殺す」とまでの爆弾発言をした実母に対して、自力で自立支援ホームに入居し、現在は塾講師のアルバイトをしながら学費を自分で払いながら大学へ通っている、とのこと。

 その生活を一人で叶えているだけでも、拍手ものだ!!!

 それでもなぜか心が満たされず、毎日しんどい、とのことだが…

 相談者の大学の学業は大変なのだろうか? (例えば私が通った医学部などは、学業そのものが実に大変だった。)

 この私の事例を出しても埒が明かないことは承知だが、確かに一つ目の医学部時代には日々実習、また実習、そして国家資格取得との厳しい日々だったものだが。 それでも私はアルバイトもしたし、夏季休暇中には短期留学もこなした。 

 2つ目の大学時代(既に30歳を超えていたが)にも、学業を精一杯頑張りつつ、医学業務や夜間はラウンジコンパニオン、土日には単発のパーコンやデモンストレーター等々、自身の外見的特徴を活かしながら自力で学費を稼ぎつつ、30歳時点で単独で自分が住むマンション物件を購入したりもして、嬉し楽しい日々を送ったものだ。 (このマンション物件は晩婚後20年間程の期間賃貸運営して、自身の蓄えを増強させるのに更に役立った!)
 合間にもちろん学業は精一杯頑張り、大学院修士課程へ進学後は夜間定時制高校教諭を勤め、かなりの高給を稼ぎつつ全ての生活を自力で賄ったものだ。



 原左都子の私事が長引いたが。

 この“悩みのるつぼ”相談者である現在おそらく19歳の大学生も、私ほど(って何だ???)😝 のパワーの持ち主と私は見る!

 実の母親に「出て行かないと殺す!」とまで宣言された辛い過去を、しばらくはどうしても引きずってしまうのかもしれないが。

 大学生との現在の難局を自身で乗り越えて何らかの道程で就業を遂げた暁には、随分と大人に成長されていることであろうし。

 そうしたら、後は自身の“独り勝ち”の未来が待っているのではあるまいか?!! 

 もう少しの辛抱かもしれない。

 上野千鶴子先生がおっしゃるとおり、「消すことのできない感情」は、あなたを突き動かすエネルギーに必ずや転換することであろう!!😃 
 

NHK「らんまん」の田邊教授、とんでもない!と怒ったら真実はテレビよりも奇なり!のようだ

2023年07月28日 | 学問・研究
 冒頭より、ネット情報を引用しよう。


 日本の植物学の父、牧野富太郎氏をモデルに、激動の時代にひたすら愛する草花と向き合い続けた植物学者、槙野万太郎(神木隆之介)の波瀾万丈の生涯を描く「らんまん」。 俳優・要潤が万太郎が出入りしている東京大学植物学教室の教授、田邊彰久を演じている。

 この日(07.28)の放送で、偶然見つけた水生植物を万太郎が植物学教室に持ち込んだ。助教授の徳永政市(田中哲司)や助手の大窪昭三郎(今野浩喜)らはその水草に興味を示すも、その正体がわからなかった。そこに田邊が現れ、自分の目で水草を確認。「心当たりがある」とつぶやき、本を見ながら「これだ…。Aldrovanda vesiculosa(アルドロヴァンダ ヴェシクローサ)」と述べた。さらに田邊は、この水草を「アルドロヴァンダ ヴェシクローサはかのダーウィンを魅了した植物だ」と説明。インドや欧州などでしか発見されておらず、日本で見つかったとなれば、それは世界を驚かすことになると強調し、万太郎に、論文と植物図を書いて世界に向けて報告をするよう命じた。

  矢田部良吉(田邊教授の本名のようだが)の足跡と主な出来事
 矢田部良吉は、嘉永4年(1851)に生まれ、明治32年(1899)に没した。
 アメリカ留学、植物学者の道へ
 良吉は、嘉永4年(1851)、蘭学者の父・郷雲のもとに生まれる。幼少期から西洋の影響を受けていた良吉は、外国人宣教師から英語を教わっていたとされ、明治2年(1869)に開成学校(東京大学の前身)にて教授を務めた。
 さらに翌年、駐在公使として赴任する森有礼(もり・ありのり)とともに、アメリカへ留学することに。渡米した当初は外交官を目指していたようだが、やがて学者の道を志すようになる。そして、現地のコーネル大学に、日本人初の合格を果たす。
 大学では植物学を専攻し、そこで培った近代的な植物学の知識が、帰国後の活動の原動力となった。
 東大理学部の初代教授となる。
明治9年(1876)に帰国。翌年、東京大学が開設されたことを受け、東京開成学校で教授を務めていた良吉は、そのまま東京大学理学部生物学科の初代教授に就任した。留学時代には植物分類学のほか、生理学も学んでいたが、東大では専ら植物分類学に力を入れていたことで知られている。(中略)
 良吉は、植物学の雑誌を作りたいという富太郎の案に賛同する。 さらに、彼が刊行した『日本植物志図篇』を称賛するなど、富太郎の植物学者への第一歩を後押しした。

 (以下略すが、以上ネット情報より一部を引用したもの。)


 NHKの連続テレビ小説「らんまん」だが、何処かの情報で、かなり史実よりもアレンジしていると見聞していたが。

 結構 史実に忠実にドラマが作られている事実が判明し、驚かされる。😲 




 ここから原左都子の私事に入るが。

 この私も最初の大学が医学部であり、在学中は大いに実験実習に励んだ経験があるため。 「らんまん」の映像の各所が我が経験とダブり、非常に興味深いものがある。

 例えば、顕微鏡を覗く場面など。
 当然ながら時代が進化していて、私の医学部在学中にはあんなレトロな顕微鏡は既に使用していなかった。 ただし、我が学生時代にはもしかしたらまだ「片眼顕微鏡」が使用されていたような記憶もある。???

 私の医学部卒業研究テーマがヒトの「赤血球」に関するものだったため、まさに日々顕微鏡を覗き続けたものだ。
 研究過程の中で一番記憶に深いエピソードを語ろう。
 学生の卒研など大抵の場合、検体(研究材料、例えば血液等々)は学生同士で採血し合って試験体の数を確保したものだ。
 ところが、どうしても臨床(各種疾患を患っている患者等々の)研究は欠かせない。
 そこで私は指導教官だったN先生にお願いした。 「大学病院にて検査済みで廃棄処分になる患者さんの血液を、卒研用に拝借する訳にいきませんか?」
 そうしたところN先生はそれに即座に対応して下さり、病院から各種疾患を抱えている患者さん達の検査済み血液を日々運んで下さった!
 この事実こそが、我が卒研の成果を大いに上げてくれたものだ。
 特に我が卒研の場合、溶血性疾患のある患者氏の血液に対応不能な検査薬が今現在尚実際に使用されているのがどうか?との疑問を呈することが可能となった。 
 その結果こそが、我が卒研を一段と医学的に有意義なものとしてくれたのだ。

 後のことだが、我が卒研論文は私が大学卒業後にN先生が「BioMedical Jornal」に投稿して下さって、世の日の目を見ることとなった。 (参考だが、「BioMedical Jornal」は現在廃刊となっています… )


 医学部時代にそんな貴重な思い出がある私は。

 ドラマ「らんまん」にての実験室風景や研究内容の話題等々が、到底他人事と思えない気分で日々朝と昼の再放送を注視している。

 そして 今週の田邊教授の態度は、心底腹立たしかった!!
 なんだって!?!?
 学生(万太郎は正確に言うと東大の学生ではないが)が教授である自分の名を提出論文中に入れなかったと激怒した場面など、「そんなチンケなアンタには、学生を指導する器や権利など一切無いよ!!!」とまさに怒り心頭だったものだ。😡 

 そんな場面を「らんまん」にて見せられた私は、自分自身の学生時代がどれだけ恵まれていたのか、と“過去の栄光”を懐かしく思い出させてもらったものだ。


 (参考ですが、我が医学部恩師のN先生とは卒業後も例えば年賀状交換等々でずっと連絡を取らせていただき。 N先生ご他界後の現在に至って尚、郷里にお住いのN先生の奥様((本エッセイ集内に時折登場するマチ子さん))と懇親にさせていただいております!)


「年齢」は、その人の背景理解に役立つと私も思う

2023年07月26日 | 自己実現
 本日は久々に、朝日新聞記事より話題を引用しよう。


 早速、2023.07.22付朝日新便「多事奏論」より  科学みらい部 次長 岡崎明子氏による“「何歳ですか」聞いて聞かれて 輪切りにされて」の一部を、以下に引用しよう。

 私(岡崎氏)は、2日前に誕生日を迎えた。 今年は、小学高学年の娘が初めて私の実年齢を知って祝う家族の誕生日だった。 
 「これまでずっと黙っていたの?」というツッコミの声が聞こえるが、言い訳をすれば、私は出産が遅く大概のママ友に比べると年上だ。 その自分の年齢がママ友に伝わった瞬間、敬語を使われるのが嫌だった。 (途中大幅略)
 そもそも新聞記者の仕事は、年齢とは切って切れないものがある。 
 新聞記事に年齢があった方がいい理由はいくつもある。 報道は事実を客観的に伝える役割があること、年齢がその人の背景理解に役立つと「自分と同世代だ」と興味を持つきっかけになることなどだろう。 (途中大幅略)
 米国の歴史学者ハワード・チェダコフの「年齢意識の社会学」によると、米国でも年齢が意識されるようになったのは1800年代後半だという。 学年別に学ぶ公立小学校の設立や、「年齢で個人の能力を判断する方が機能的だ」という資本主義の広がりが背景にあるという。 誕生日を祝う習慣も、この頃に生まれたそうだ。 (途中大幅略)
 年齢を確認することが当たり前の文化は、知らず知らずのうちに年齢規範の教科につながりかねない。 (中略)
 と考える自分自身こそ年齢にとらわれていることを深く反省し、数年前、娘にも年齢を白状した。 で、娘の反応は見事だった。
 「ふーん、そうなんだ。 でもママが何歳でも関係無いよ」

 (以下略すが、以上朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 原左都子の私事に入ろう。

 この私も 晩婚。 そして、高齢出産にて一女をもうけているが。

 私の場合は、娘が物心ついた時から自分(と父親)の“正確な年齢”をきちんと伝えておいた。
 そうした方が、むしろ娘も正確な情報の元に混乱なく親と接することが叶うだろうと想像したし。
 それよりも何よりも、両親が高齢である事実の背景に何らの隠すべき事情がないどころか。
 両親揃って長い独身時代を有意義に自己鍛錬しつつ生き、素晴らしい業績(これに関しては私の方は未だ道半ばかもしれないが😖 )を立ち上げてきている事実こそを、娘に正しく理解して欲しかったからに他ならない。

 何も包み隠す事情が無い程に、母であるこの私とて晩婚出産までの人生を精一杯歩んで来ている。 我が内面にその自負は大きく存在した。

 ただ、困惑させられたのは。
 
 (決して自慢話では無く、私にとっては違和感があったのは)、我が見た目の若さ故に娘と同級生の周囲の母親達が“タメ口”をきいてくる事態だった。
 もちろん、それに合わせてこちらも“タメ口”にて対応しましたよ! ただ、話題の内容が所詮噛み合わないと言うのか、何と言うのか… 内心、(これに合わせないと母親としての任務が果たせないのね…)のごとくの、周囲の母親達との付き合いがまるで“奉仕活動”的に思われて、重荷となったものだ。😭 

 これが一変したのが、娘を私立中高へ入学させて後の事だった。
 周囲の母親達の対応が一貫して「敬語」だったのに助けられたし。 娘自身も既に成長している故に、さほど学校現場へ出向かずに済むようになった事実に安堵させられた。



 そんな私は、今現在に至っても思うのだが。

 年齢って、そんなに隠さねばならない事実なのかなあ?? 

 我が方針としては、他者とは年齢をオープンにした付き合いをしたいのが本音だ!

 それはこのgooブログに於いても例外では無いからこそ、私はある程度自身の年齢をオープンにしてきているし。
 また、goo上でお付き合いする相手の方々に対しても、同じく年齢をある程度公開されていらっしゃる方々の方がお付き合いし易い感覚を抱かせて頂いている。


 そんな私が正直言うならば。
 自分の年齢を隠さねばならない人物って、もしかしたら自身の生き様に自信が無かったり、後ろめたさがある等々のご事情があられるのか??? 
 とすら、勘ぐってしまうのだが…


郷里から今夏も「みかん」と「すだち」のお中元が到着しました!

2023年07月25日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、昨日郷里から届いた「みかん」と「すだち」。)



 これらの贈り主は、本エッセイ集内に時折登場する、郷里の我が叔母の“さっちゃん”です。

 昨年も、ちょうど今頃同じく「みかん」と「すだち」をお贈りいただいています。


 さっちゃんとは、昨夏7月に郷里を訪れた際にお会いしているのだが。
 我が幼少の頃より時折お会いしている人物なのだが、昨夏に郷里のさっちゃん宅を訪問させていただいて以降、急激に親しくなったと言えよう。

 今年の春頃電話にてさっちゃんとお話した際には、何と!! 2時間程の長電話になるほどに会話が弾んだ。
 何と申しますか、血は争えないというのか、とにかく頭の回転速度がやたらと一致していると言うのか、終わりなき会話となったものだ。

 本日も、お中元のお礼の会話をしたのだが。 
 これからご主人の付き添いで病院へ行かれるとの事で、長話は遠慮させていただいた。
 私の左膝に挿入されている針金除去手術が終わって完全回復した暁には、再び郷里のさっちゃん宅を訪れ。 今度は、実母の永代供養墓地である5番札所「地蔵寺」までさっちゃんにお供頂いて、実母生前のご挨拶に行く予定でいる。


 さて、話題をさっちゃんからお届け頂いた「お中元品」に戻そう。


 みかんに関しては今の時代は全国各地で「ハウスミカン」が栽培されていて、季節を問わずその風味を味わうことが可能となっているようだが。

 私が郷里にいた頃は、夏にみかんを食する習慣は無かった。
 みかんと言えば冬に味わうのが通常であり、どこの家庭でも(ん?うちだけか??)冬場が来ると段ボール一杯のみかんを購入して、家族皆で食したとのことだったのであろう。

 そんな私は、昨夏さっちゃんから「冷蔵ハウスミカン」を贈っていただいたのが、それとの初めての出会いだった。
 これが、何とも甘く美味なこと!!
 しかも冷蔵保存のため日持ちもして、昨夏も9月頃まで楽しませて頂いた。




 片や 「すだち」に関しては、今になっても全国でも徳島のみの名産品であり続けている様子だ。

 今回、さっちゃんからお送り頂いた「すだち」の中に挿入されていた説明書から、以下に引用させていただこう。

 すだちは歴史が古く、一説には万葉の昔から阿波(徳島)で栽培が継承されている香酸柑橘です。 特産品として今も全国の皆様に愛用されています。
 南国の太陽、清らかな水、黒潮の香りに育てられたすだちを、清々しい味覚として食卓へお届けしています。

          

          
 これだけの量を東京で購入したら、一体如何程の値段になるのだろう?!?!
 たまにスーパーでも見かけるが、5個ほどが安くて200円程度で販売されているだろうか??
 この私も それを購入する機会はある。 やはり、あの味が懐かしくて…

 「レモン」は元より、「カボス」や「だいだい」などとも全く別物のあの風味を味わいたくなるんだなあ…

 

          

 何と言っても、「絞って使う」のが一番一般的だろう。
 焼き魚や冷や奴、 すだち酎も美味だなあ!! (今夜はすだち酎を堪能するぞ!!!)


 この「すだち」も昔は、晩夏頃から出回り始めて秋の特産品だった記憶があるが。
 今となっては7月に既に大量に出回っている様子だし、保存手段によれば 冬まで持たせることも可能となっているようだ。



 さっちゃん、今年の夏も嬉し懐かしいお中元をお届け頂きまして 誠にありがとうございました!!

 亭主共々、今夏も美味しく味わわせて頂きます!