原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私的年金対策に際しアベノミクスの早期崩壊が心配…

2014年05月31日 | 時事論評
 朝日新聞5月28日付「経済気象台」なるコラムに、原左都子としては“複数の観点”から興味深い記事を発見した。

 「私的年金のススメ」と題する上記記事内容を、“原左都子の観点カテゴリー”毎に分類しつつ、以下に項目ごとに紹介していこう。


 まずは冒頭の書き出しから紹介しよう。
 (朝日新聞当該コラム)2月13日の当欄に書いたことが「YAHOO!知恵袋」で思わぬ誤解を読んでいることを、たまたま知って驚いた。 誤解の対象となったのは、老後の生活で公的年金を補う「私的年金」に関する事だ。 大事なことなので、今一度私的年金の考え方を紹介したい。
 (以上、朝日新聞記事の冒頭のほんの一部を紹介したもの。)

 ここで原左都子の目に留まったのが、「YAHOO!知恵袋」の文言である。

 実はこの「YAHOO!知恵袋」に、著者である私に無断で「原左都子エッセイ集」記事より著作権法に違反して“丸ごと”転載した回答が「ベストアンサー」として取り上げられている事実を偶然発見し、驚かされた経験がある。 
 2014年1月23日バックナンバー「『無断転載』は固くお断りします。」に於いてその内容を公開しているため、以下に一部を紹介しよう。
 今朝方、当該「原左都子エッセイ集」からの“無断転載”現行犯現場をネット上でたまたま発見した。 それは「Yahoo!知恵袋」に於いてなのだが、なんと! 我がエッセイ集文面から“丸ごと”転載した記述が「ベストアンサー」に選ばれているではないか!    ここまで“丸ごと”転載したからには、文末に「『原左都子エッセイ集』より引用・転載」の文言が必ずあると思いきや、いくら探してもその記述がない“非常識”ぶりに改めて仰天させられたものだ。
 「Yahoo!知恵袋」の質問を以下にコピーして紹介しよう。   法学のレポートについて。近代市民法の原理について述べた上で、それがその後どのように修正されたかについて論じなさい(1800~2000文字以内)  どのように書いたらいいのか困ってます。  知恵をお貸しください。 小論文などを書いた経験がないのでどうしたらいいか分からないんです。
 驚く事には、上記「ベストアンサー」回答内容とは、「原左都子エッセイ集」2007年バックナンバーにて公開したエッセイ内容をほぼ“丸写し”したものだったのだ!  
 我がエッセイ集“左都子の市民講座”カテゴリー 2007年12月16日公開 「近代市民法の基本原理とその修正(その1)」 に於いて、私は上記「ベストアンサー」にコピーされているのと瓜二つ内容の文章を綴り公開している。  上記エッセイの公開時期をご覧いただければ一目瞭然だが、私が当該文書を公開したのが2007年、 「Yahoo!知恵袋」ベストアンサーとして取り上げられている回答の日付は2010年となっている。  誰がどう考察しても、この原著の「著作権」は原左都子にあるとお分かりいただけることであろう。
 「Yahoo!知恵袋」ベストアンサー回答者の一番の法的過ちとは、回答文書が「原左都子エッセイ集」よりの「引用」であることを明記していない点にある。   それを確認するでもなく、「ベストアンサー」として2010年以来長い期間においてネット上に平然と公開し続けている Yahoo! にも大いなる過失責任があることも間違いない事実だ。  たとえネット業者とはいえ、もう少し法的観点に基づいて営業活動してもらえないものなのか!?!
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用紹介したもの。)

 上記バックナンバー公開後、もちろん私は「YAHOO!」に対し著作権法違反である旨を訴え、ベストアンサー回答者に「掲載元である“『原左都子エッセイ集』より引用”の一文を入れさせるよう指導せよ」、なる抗議文を送った。 ところが虚しくもなしのつぶてのまま、月日が経過しているのが実態だ…

 上記朝日新聞コラム記事を読んだ私は、大手新聞社の記事に関するネット利用者の誤解を無視してでも、「YAHOO!知恵袋」の人気を優先したいYAHOO!の強気経営姿勢を思い知らされたものだ。
 そんなYAHOO!が、まさか一庶民が公開しているに過ぎない一エッセイ内容になど、配慮するべくもないのであろう。


 私自身の YAHOO! に対する疑惑記述が長引いたが、やっと表題に掲げた「私的年金」に関する朝日新聞記事内容に関して、原左都子の視点から語ろう。

 要するに、この朝日新聞記事でコラム筆者が訴えたかった「私的年金」を、「YAHOO!知恵袋」回答が大いに誤解してネット上で伝えているとの内容である。
 そもそも「私的年金」とは何かに関してすら、(失礼だが)「YAHOO!知恵袋」愛読者の皆さんがご存じなのかどうかも疑わしい。
 そこで原左都子から説明するに、「私的年金」とは「公的年金」に対して、個々の市民が自分の経済力と意思の下に自らが老後に至るまでに蓄え得る貯蓄等の金融財産の事であろう。 
  
 確かにバブル期以前の高金利時代には、「私的年金」の元金はそのまま温存しつつ利子を老後の資金に回せる“美味しい”時代があった。
 私自身の若かりし頃の趣味として「貯蓄」もその一つだったのだが、そんな高金利時代を少しばかり経験している。 例えば預貯金の年利が8%などという時代も確かに存在した。  一例として1000万円を年利8%で運用した場合、年間80万円の利子収入がある。 それを老後の私的年金に回せるとの計算になったのだ。


 ところがそんな老後「夢物語」の時代は、経済バブル崩壊と共に過去の自民党政権の大いなる過ちとして当の昔に過ぎ去っている…
 その後この世に残された国民は長引く不況時代を経て、今現在安倍政権より“アベノミクス経済政策”を強要されている運命下にある。 4月からは消費税率8%の追い打ちまで課せられ、一般庶民には日常生活に困窮が忍び寄っている現実であろう。
 現在、安倍総理は国会にて「集団的自衛権を行使する!」とうそぶいている。 その陰で、野党連中どもは金権政治を復活させたり分裂再編等の茶番劇を繰り返す始末で何らの与党攻撃力もない有様だ。 一体全体いつになれば国民皆の安定した経済生活が叶うと言うのか!??


 最後に、冒頭で紹介した朝日新聞記事「私的年金のススメ」に戻ろう。

 結局、上記記事を書いた筆者が言いたかった事とは(現在で言う)私的年金とは「“元金を取り崩しつつ”成り立つ資産」との意味合いに過ぎないのだ。  そんな事をあえて朝日新聞記事で発表してくれなくとも、多くの国民が既に「私的年金」蓄積に励み、それを取り崩しつつの老後であろう。
 
 それよりも気になるのは、記事内に書かれている「年利1%」運用との文言である。
 今時「年利1%」運用にも大いなる(ハイリスクハイリターンの)危険性が伴うのではなかろうか? との私論で締めくくりたかったのが原左都子の意向だ。

 もしかしたら、朝日新聞コラム筆者は安倍政権アベノミクス経済政策に賛同の立場なのだろうか?
 預貯金金利が0.00何パーセントの現状の時代背景に於いて、朝日新聞がリスクの高い「1%運用」の金融資産を庶民に勧めてその責任が取れるのかどうか、問いたいものである。 

認知症不明者、人生終盤に自由徘徊が叶い幸せだったのでは?

2014年05月29日 | 時事論評
 認知症のある高齢者の約1万人が、毎年行方不明になっているそうだ。

 その中には徘徊中に保護され、身元不明のまま介護施設で暮らしているお年寄りも少なからず存在するようだ。


 私はつい最近、NHKのニュース報道にてその事例を2件ほど視聴した。

 その一例を紹介しよう。
 徘徊中に保護されたとある男性は、生年月日や住所はもちろんの事、自分の名前すら認知していない。 そのため男性は介護施設で新たな氏名を付けてもらい、その名前で呼ばれつつ日々を過ごしている様子だ。
 私がテレビを通して見た印象としては、男性は血色もよく元気そうだ。 (一人で徘徊出来る程の)足腰の丈夫さを現在も兼ね備えている様子でもある。  しかも、介護スタッフの皆さんに他の入居者同様に大事にされつつ、施設で余生を送っている風に私の目には映った。 
 その映像を一見した私の脳裏に一瞬過ったのは、不謹慎は承知の上だが(この男性、認知症で徘徊して家を出た結果、幸せな余生が送れているのではなかろうか??) なる感覚である…。
 
 と言うのも、もしもこの男性が徘徊前には一般家庭で家族と共に暮らしていたとして、認知症高齢者を抱える側の家族の日々の壮絶さを想像して余りあるのだ。

 
 例えば、少し前に90代認知症高齢者が徘徊中にJR東海線路内に立ち入り、列車にはねられ死亡するとの事故が発生した。
 その際の列車遅延等に対する損害賠償責任を家族に課すとの判決を裁判所一審が下した事実に、私は驚かされると同時に心を痛めた。  判決理由としては、家族には認知症高齢者の監督責任があるのにそれを怠った、との内容だったとの記憶がある。  その後二審にて家族が負担する損害賠償額は半額に減額されたものの、それでもJR東海への賠償額は何百万円単位だったとも記憶している…。
 この裁判事例を通し、認知症高齢者を抱える家庭が置かれている“壮絶な現状”をどこまで法廷が理解したした上で、家族に多額の損害賠償を課したのかを私は問いたい思いだ。
 まさか認知症高齢者を鎖で家につないでおく訳にはいかないであろう。 そして、家族達にも人権は基より日々の生活がある事も当然だ。  列車にはねられ死亡した認知症お年寄りには気の毒だが、このような事例の場合、突発的・偶発的事故として家族の賠償責任を問わずに済ませる手段を裁判所は採用できなかったものなのか!?と、今尚私の憤りの置き場がない。


 話題をNHKニュース報道に戻そう。

 上記で紹介した徘徊中に保護され高齢者介護施設で暮らしている男性お年寄りの場合も、ご家族が捜索願を提出していた事も考えられる。 そして、NHKテレビ映像を通して自分の家族である男性高齢者を発見し、すぐさま引取りを実行して、今は既に当該男性は家族に暖かく迎え入れられているのかもしれない。

 ただこれは原左都子の勝手な悲観的思想に基づく論評に過ぎないが、この男性は自分の家庭には戻らずこのまま保護された高齢者施設で余生を全うした方が、ご本人は元より、ご家族皆が幸せな人生を送れるのではないかとの結論が導き出せそうに思えるのだ。
 その根拠について述べよう。
 あくまでも我が発想範囲を逸脱していないが、痴呆症徘徊行方不明高齢者を抱えている家庭から捜索願が提出される事例とは、当該高齢者が自宅に戻ってきてくれる事に何らかの“プラス要因”がある家庭に限定されるのではなかろうか。
 例えばたとえ痴呆症状があろうと、その高齢者が家庭内で素晴らしいばかりの人格的存在者であり家族皆が尊敬していたとか??  
 それより確率的に多いのは、おそらくその人物に「親族内相続」に関して早めに“遺産相続手続”を実行して欲しい故に、どうしても所在確認したいとか???
 私の推測では恐らく「痴呆徘徊者」の捜索願を提出している家族とは、後者が大多数と結論付けるのだが…


 社会的観点からも考察してみよう。
 
 たとえ認知症徘徊高齢者であろうが、一旦自治体に保護され高齢者施設に入居させた場合、その介護費用とは莫大なものがある事実に関しては私も認識可能だ。  その費用負担をすべて国家(地方)財源で賄って済ませてはなるまい!と焦り騒いでいるのが、国及び地方自治体側の発想であろう。
 だからこそ、この期に及んでNHK報道番組にて「痴呆高齢者徘徊ニュース」を殊更にクローズアップしていると推測する。
 国や自治体としては、早期に痴呆徘徊者を家庭に戻したい意向であろう。  「家庭の経済負担で痴呆高齢者を家庭内に囲み込め! お前らが放置した痴呆老人の面倒など一切見る気はないよ!」とのアンサーと受け取れる。

 これに対し、決して経済的に困窮していない家庭であれ、痴呆高齢者を“死ぬまで監禁状態で看とどける事態”に関して、大いなる負担が伴う事は誰しも理解可能であろう。

 結局、「痴呆高齢者徘徊」対策を担当するべき事務局とは、国や地方自治体でしかあり得ないのではなかろうか。
 既に国家や自治体は「介護保険制度」を開始して久しい。 その保険制度を(従来の国民・厚生年金制度同様に)どんぶり勘定の上、我が身息災に癒着利用するなどもちろんご法度として、運営を誤らず有効活用出来たならば、今後の痴呆症徘徊高齢者にも有意義に機能するのではなかろうか。


 人生の終盤には、私も独りで自由気ままに好きな地や(人間関係を)我が足(と心)で徘徊しつつ、(国家・自治体とは無縁の立場で)自分の命を閉じたいものである…

誰にでもついていく女

2014年05月27日 | 恋愛・男女関係
 「原左都子エッセイ集」4本前の2014.5.16バックナンバーに於いて、「“みんな主義派 V.S “人間関係こだわり派”」と題するエッセイを綴り公開した。

 上記エッセイは、私がペンネーム「原左都子」名で登録しているFacebook上の友達(通称)mito氏とのチャットやり取りをエッセイにまとめて公開した内容である。
 mito氏が当該エッセイをFacebook上でリンクして下さったお陰で、このバックナンバーにはその後数多くのアクセスを頂戴している。 その現象に、この世には人間関係で苦悩する市民の数多さを再確認させられる思いでもある。
(参考のためここでmito氏の略歴を述べるならば、東大ご出身、現役大学教授であられる。)


 さてその後、Facebook上でmito氏及び当該エッセイにコメントを頂いたmito氏のご友人との間で、チャットはまだ続いた。
 この内容こそが今回のエッセイを綴るきっかけとなったため、以下にその一部を紹介させていただこう。

 原左都子
 mitoさんと原左都子との関係とは実におもしろい♪のです。 そもそも知り合ったきっかけキーワードが「70年代ディスコサウンド」であり、お互い実際にディスコダンスを踊り合ったのが最初の出会いでした。 私にとってはこの突拍子もない出会いが最高だったとも言えます。 その後Facebookに場を移して後は、お互いに自由議論が成り立っていると私は解釈しております。

 mitoさん
ネットの醍醐味ですね。
ぼくは、ディスコダンスを教えてあげるつもりで、
たまたま見つけた原さんのディスコ音楽のブログ書き込みに、
某ディスコ大会へのお誘いをレスしました。
本当に来てくださいました。
と、その前に、ディスコについては、
彼女はクィーンであることを身に知らされました。
ほんと、かっこよかったです。
ぼくは昔から、ステップを教えるのは上手なんですが、
自分が踊るのは下手くそなんです。
ぼくらの若い頃は、
ディスコで上手に踊ってる女の子は、
みんなかっこ良くて、
高嶺の花でした。
それよりは若い世代ですが、
原さんはそういう女性だったのです。
僕らが淡く憧れていた不良少女だったかどうかは、
まだ聞いておりません。(笑)

 原左都子
 mitoさんは私より少し早く70年代ディスコデビューされたようですが、好きなディスコナンバーがかぶっていて都内某所では何曲も一緒に踊りました!
 mitoさん、私が不良少女だったかどうかは不明(と言うよりヒ・ミ・ツ)ですが、長い独身時代を通じてずっと主体的に「自由人」を貫いたのは確かです。♪♪
 (以上、Facebook上でのmito氏とのやり取りのうち、原左都子にとって“都合のいい部分”のみをちゃっかり引用したもの


 さて、今回のエッセイ本題に入ろう。

 「恋愛・男女カテゴリー」に位置付けた本エッセイに於いては、要するに、mitoさんよりの上記Facebookご質問に回答するべく、原左都子がこと“男関係”に於いて、「不良少女」だったか否かに関して自ら論評せんとするものである。

 結論から言うと、上記mitoさん宛の返答内でも述べているように、(私自身の解釈では)あくまでも独身時代は「自由人」を貫いただけの話で、決して「不良少女」ではなかったと自己分析している。


 ここから、原左都子若かりし時代の私事を語ろう。

 新卒入社で東京に本社を有する民間会社(参考のため現在東証一部上場企業)に、私は医学専門社員として勤務していた。
 その当初まさに時代が70年代後半期であり、私は週末には新宿・六本木等々のディスコへ会社の女性友人らと共に通い詰めていたとも表現できるであろう。 
 元々ダンス好きの私はディスコの最前列にしゃしゃり出て、得意のダンスを披露したものだ♪ そんな私に目を付ける男性ディスコ客が多かったのも事実だ。  ただし、元々客観力が取り柄の私としては、必ずや声をかけてきた男性と十分なる会話の上に虎視眈々と相手の“人となり”を見極める作業は欠かさなかった。(酒に強かった我が身体的条件にも助けられたのだが。)

 我が20代前半頃の民間会社内に私事を移そう。
 勤務先に於いても、20代前半の“うら若き”私に「お誘い」を寄越す男性は少なくなかった。(このシチュエーションの場合、ディスコで知り合う相手と比較すると、おそらく学業・職業的バックグラウンドとしてはある程度一致していると考察して間違いないであろう。) 片やそれら男性どもに対しても当然ながら私なりの好みはある。 第一関門としてまずは「外見」で切り捨て、それをクリアした男性に関して私は「面談」方式を採用したのだ。
 ところが、私が当時採用した「面談方式」が社内同年代女性社員よりバッシングされる運命だった!
 彼女らが言うには、「あの人(私の事だが)、『誰にでもついていく』タイプね」
 ところが、時代は未だ「適齢期」なる俗語が蔓延っていた頃である。 その言葉で私を蔑んだ彼女らはさっさと結婚・出産して会社を去って行った…。 


 最後に、原左都子の私論に入ろう。

 我が20代前半期に、私を「誰にでもついていく女」と蔑んだ彼女らの思いも十分理解可能だ。
 要するに70年代後半期に民間企業に勤務していた彼女達は、“適齢期”に狭き社内で“寿退社”を狙い結婚相手を模索するのに血眼状態だったのだろう。

 ところが我が理想は遥か遠いところにあった。 結婚などしている場合ではないとの。
 自己実現意欲に燃え続けていた私にとっての男の存在とは、自分の夢に付き合ってくれるキャパ無くして成り立たないのだ。 そんな男を追い求め、近づいてくる男の「面談」を実施するため会合を持っただけの話である。  
 要するに、決して誘いをかけてくる男に受け身で「ついて行った」のではない。 独身を貫きたい私側として、それを理解出来るキャパある男を私側から選別するべく積極的に対応しただけの話なのだ。


 で、それがいつも成功したか、ですって?
 いやいや我が若かりし時代には、相手男の「外見」にこだわり過ぎての失敗もあったことは事実だ。

 そんな原左都子20代前半期の恋愛失敗談に関しては、2008.5.22「傘を返して欲しい」、2008.6.13「別れて下さい」 等々バックナンバーでも公開しておりますので、そちらをご覧頂けますように。 
 (不謹慎ながらも、私自身が今読み直しても結構面白い内容ですよ~~♪♪)

年金75歳引延ばし案、「貰わず死ね!」と言ってるも同然

2014年05月24日 | 時事論評
 少し前になるが、昼のNHKニュースに於いて自民党政権 田村憲久厚生労働相が何やら“したり顔”で登場し、「高齢者の皆さん、75歳まで年金受給を遅らせると大幅に月々の受給額が増えますよ~!」 とのニュアンスの答弁を“平然と”公開した事実に、私は唖然とさせられるばかりだった。


 以下に、このニュースを詳述しよう。
 公的年金をもらい始める年齢を本人の選択で遅らせられる制度について、田村厚労相は5月11日のテレビ番組で、年齢の上限を今の70歳から75歳程度に引き上げることを検討する考えを明らかにした。 開始時期を遅らせると月々にもらえる額が増える。 働き続ける高齢者の増加が見込まれるなかで、年金のもらい方の選択肢を広げるねらいだ。
 現在、国民年金の受給開始年齢は原則65歳、厚生年金では60歳から65歳まで段階的に引き上げている途中だ。 ただ、本人の希望で60歳まで早めたり、70歳まで遅らせたりできる。 時期を前倒しするとそれに応じて月々の受給額は減り、逆に後にずらすと額は増える。
 時期を遅らせられる範囲について、田村氏は「例えば75歳まで選択制で広げる提案が与党から出ており一つの提案と認識している。 選択の幅をのばすのは、一つの方向性としてはある」と述べた。 少子高齢化の影響で今後は年金の支給水準が下がり続ける見込みだが、受給を遅らせると月々にもらえる額の目減りは緩和できる。
 一方、受給開始年齢を今の原則65歳から一律で引き上げることについては、「国民の反発は非常に大きい」と述べ、消極的な考えを示した。
 (以上、ネット情報より引用。)

 ところがこの田村厚労相の年金75歳引き延ばし案に対し、発表早々より国民から反発意見が相次いだようだ。
 これを受けてか、その後この案に関する自民党政権よりの続報を見聞する事はない。
 

 このニュースを受けて、私は現在の日本人の「平均寿命」を調査してみた。
 平成 24 年簡易生命表によると、男女それぞれ 10 万人の出生に対して 65 歳の生存数は、 男87,760人、女93,844人となっている。 そして、例えば75 歳まで生存する者の割合は男 73.1%、女 86.9%、90歳まで生存する者の割合は男 22.2%、女 46.5%となっている。 生命表上で、出生者のうちちょうど半数が生存すると期待される年数を寿命中位数といい、平成 24 年においては、男 82.95 年、女 89.25 年となっている。 平均寿命に比べ、男 は 3.01 年、女は 2.84 年上回っている。


 原左都子の私論に入ろう。

 
 上記寿命統計によれば、75歳まで生存している人口は男女共に私の予想以上に多い。 大まかに平均して、約8割以上の高齢者が75歳を過ぎて尚生き残っている計算となる。 
 この現状を捉え、これら高齢者の年金受給を現行より更に遅らせる措置が採用出来たなら、今後の少子高齢化により更に緊迫する年金制度に及ぼす悪影響緩和に繋がると、田村大臣は短絡的に考えたのであろう。 しかもそれをあくまでも「選択制」と銘打つことにより、国民からの反発を回避出来るものと安易に公表に踏み切ったものとも考察できる。

 さてこの自民党政権案に同意して、年金受給を75歳まで先送り決断を下すお年寄りが一体どれ程存在するのであろうか??
 その候補者としては、やはり富裕層が挙げられるであろう。 ただ私の推測では、年金受給を75歳まで引き延ばして“涼しい顔”をして生きていけるお年寄りとはごくごく少数の国民に限られると想像する。 また、富裕層とて長きに渡り年金保険料を納めてきているのは歴然だ。 その“元を取らず”して「お国のために」死に至ろうとの奉仕精神に溢れた国民など、今時希少価値であることに間違いない。


 計算高い原左都子など、支払った年金保険料総額 対 将来もらえる年金総額の収支に関して“ある程度の”数値を既に算出している。 
 私の場合、国民年金基礎部分で「第3号」扱い期間があるのに加え、厚生年金を60歳からもらえる立場でもあり、(40年来ずっと保険料を支払い続けている国民の皆さんに比し)あくまでも平均寿命以上生きた場合は受給額が上回る立場である。   (片や、私は個人年金保険にも加入しているのだが、中途での保険会社の経営破綻に伴い相当長生きせねば保険料の元が取れない事情も抱えている。
 それでも、年金受給を75歳まで遅らせようなどとの思考は全くない。 それよりも現在少し検討しているのは、むしろ「60歳前倒し受給案」だ。
 と言うのも、義理姉が昨年63歳の若さで癌闘病の後亡くなった事実に直面している。 我が実父も急性心筋梗塞で69歳時に突然死した。 はたまた教員だった我が友も、同じく60代でくも膜下出血で突然死を遂げる運命だった。 何れの人物も60歳まで粛々と年金保険料を国家や自治体に納めているにもかかわらず、大幅に採算がとれないまま死に至っている…
 一体いつまでと運命づけられているのか得体の知れない個々の寿命。 出来れば少しでも、今まで真面目に納め続けた年金保険料分の価値ある人生を歩みたいものだ。


 しかも、もっと気になるのは、田村厚労相はじめ自民党政権が 「年金」 を如何なるものと位置付けているのかという点だ。

 「年老いて自立生活不能な“お荷物ども”に国家や自治体からカネを配ってやるから、そのカネで何とか自分の体をもたせて、社会に迷惑かけないうちにとっとと死ねよ」なる意味合いなのか。(現行の年金制度とはこのニュアンスと私は捉えているが…)

 あるいは、「現役時代の労働等功労に感謝する目的で、国民自らが積み立てた保険料を国家から還元する」意味合いなのか。 もしそうであるならば、“75歳まで年金受給を遅らせよ!”なる案が未だ若き政権大臣から提出される事態に大いなる違和感を抱かされると言うものだ。


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 年金制度に関して、若い世代からの「現役年金受給者」に対する攻撃発言をよく見かける。 それによれば、「我々がお前らの年金を支えているんだ!」との論理のようだ。
 田村厚労相の「75歳以上年金受給先送り」案も、その一端だったのかと私は捉えている。

 ただ、正確にはそうではないと私は言っておきたい。 
 国家や自治体の年金制度とは時代の変遷にかかわらず、それが正常な機能を果たしていさえすれば、決してこれ程までの国民の困惑、及び制度の廃頽を招かずに済んだはずだ。
 そのすべてが、元自民党政権下で「年金制度」“どんぶり勘定”の下にいい加減に実施されていたのが“諸悪の根源”なのだ!

 表題に戻すが、過去に過酷な戦中時代を生き延びた現75歳過ぎの後期高齢者達とは、皆「明日は死に至るか?」なる不安に日々苛まれつつ最後の人生を個々に全うしていることを、若き世代の閣僚や市民にも理解して欲しい思いである…。

小保方論文“切り貼り”は何故「改ざん」と確定されたか?

2014年05月21日 | 学問・研究
 今回の我がエッセイ内容は、朝日新聞5月15日朝刊記事に依存するところが多大である事を、最初にお断りしておく。


 「原左都子エッセイ集」5月10日バックナンバー 「5/8理研調査委STAP細胞論文取下げ記者会見を論評する」 と題するエッセイに於いて、私は以下の記述をしている。

 小保方論文電気泳動写真内の“切り貼り”を理研委が「改ざん」と結論付けた場面を取り上げよう。
 これに関して、理研委渡部氏は論文内“切り貼り”に関して、小保方氏に(上記の意味合いでの)「悪意」があったか否かに関して取り上げていた。
 その説明内容とは、「電気泳動写真のレーン3の挿入」「その画像」「挿入位置」に関して調査結果を提示した上で、最終的には小保方氏の「目視による確認だった」事実に関して科学的根拠を有していない故に「改ざん」に当たるとの結論に至ったようだ。
 これに関し調査委は、小保方氏が2012年「ネイチャー」への論文提出後、「サイエンス」誌へも論文を投稿し、ネイチャー誌とは異なった内容を提出している事実にも触れた。 これに関し小保方氏からは「サイエンス誌への論文は未公開であり、ネイチャー誌とは関係ない」との理由で、理研委よりのファイル提出要求にもかかわらず、小保方氏側からの提出がない事実も「改ざん」決定の一因としているようだ。


 遡ってその1ヶ月前の 2014.4.10バックナンバーに於いて、私は 「4/9 小保方会見、むしろ科学者として墓穴を掘った」 なる表題のエッセイを公開している。
 その中から、小保方氏が電気泳動写真に関するネイチャー論文が「改ざん」ではないと主張した箇所、及び小保方氏の弁明に大いなる落ち度がある点を原左都子が指摘した部分を振り返らせていただこう。

 〇 電気泳動写真が「切り貼り」されている事実に関する釈明に関して。
 小保方氏によれば、論文の不具合が発覚した時点で科学誌「ネイチャー」担当者に電気泳動写真の「切り貼り」に関して質問したそうだ。 その結果、「切り貼り」自体は許容できるが、それをする場合「切り貼り」をした事実を黒線で囲む等の手法により明記するべき、との回答を得たとの事だった。小保方氏としては、その措置をしなかった部分のみで自分に責任があり、これは「改ざん」に当たらないとの説明だったが。
 元医学関係者であり「電気泳動」実験もこなしてきている私にして、初めて耳にした話である。
 もし、ネイチャー発言が正しいと仮定しても。  世界トピックス的論文発表に於いて何も電気泳動写真「切り貼り」などとの“極めて危険性の高い処置”をせずとも、(ご本人曰く)200回も成功した(らしい)STAP細胞実験過程に於いて、幾らでも理想的な電気泳動写真は撮れたであろうに…… 


 冒頭で紹介した5月15日朝日新聞記事 「STAP細胞論文画像『改ざん』 切り貼り不正の境目は?」 と題する記事は、上記電気泳動画像「切り貼り」に於ける研究不正のセーフとアウトの境界線に関して、素人にも分かり易く解説している。
 巷のメディアに於いて、「素人には分かりにくいであろう」解説や「解説内容に専門性が乏しい」解説等、大して役に立たない論評はあちこちで見かける。  これらに対し、上記朝日新聞記事は科学的専門性をもってきちんと解説出来ていると私は評価する。
 以下に、その内容の一部を要約して紹介しよう。

 小保方論文電気泳動画像に関し理研委は「改ざん」に当たり、研究不正と認定した。
 これに対し、元理研委委員長だった古関氏の過去論文は、「不正なし」と判断している。
 その違いはどこにあるのか?
 小保方論文の場合、違う実験で行った2枚の画像を組み合わせた点を挙げ、「図を加工したことで、正確な情報が失われた」と指摘した。
 片や古関氏論文の場合は、実験ノートから元の画像が1回の実験から得られたことが確認されたとしている。
 要するに、加工によってデータの信頼性が損なわれたかどうかが「不正」を判断する一つの分水嶺となった。
 研究不正とは認定されていない古関氏は、画像の切り貼りがあったことを受け、一部の論文掲載誌に訂正や修正を申し出ている。 その申し出とは、画像を切り貼りした事実を明示するように改める内容である。
 (以上は、朝日新聞記事より一部を要約して紹介したもの。)


 原左都子の私論に入ろう。

 今一度、4/9小保方会見の「切り貼り」に関する一部を以下に振り返らせていただこう。
 小保方氏によれば、論文の不具合が発覚した時点で科学誌「ネイチャー」担当者に電気泳動写真の「切り貼り」に関して質問したそうだ。 その結果、「切り貼り」自体は許容できるが、それをする場合「切り貼り」をした事実を黒線で囲む等の手法により明示するべき、との回答を得たとの事だった。 小保方氏としてはその措置をしなかった部分のみで自分に責任があり、これは「改ざん」に当たらないとの会見の説明だったが…

 ならば何故、小保方氏は「ネイチャー」相手に未だかつて論文修正を実行しないのか!?! 
 科学素人弁護士を雇い、素人感覚で理研委に無駄に盾突いてばかりいないで、それこそを真っ先に実行するのが小保方氏が今後“科学者として生き残る道”ではないのか。
 それは小保方論文とは言えども、その実態が理研上司や周囲研究者に“煽てられ”、取り急ぎ提出した論文に過ぎないからであろう。 まさかまさか、小保方氏の個人力のみで「ネイチャー」に論文訂正を実行できるすべのない程の、弱体立場なのであろう。

 しかも、もっと深刻な小保方氏の“墓穴”とは、実験ノートが至ってずさんな実態である。
 元理研委である古関氏の場合、少なくとも手元に当時の電気泳動画像を「実験ノート」内で保存していたため、それが論文が生き残る命綱となったとの事だ。

 この差は歴然と、原左都子も結論付けたい。


 世間には、理研内の長老どもが自分こそが生き延びる目的で若き小保方氏一人を排除せん!と動いているとの世論がある。 確かにそれも真実であろうと(過去に一時理研に籍を置いた)私も推測している。

 それにしても小保方氏の科学者としての対応が、今に至ってずさん過ぎるのだ。
 何故、科学に関して素人の弁護士を雇ったのだ?  写真捏造疑惑に関し「当時超多忙だった故に写真を整理する時間がなかった」と弁護士に言わせて事が済むと、小保方氏は本気で考えているのか!?!
 本心で「自分は科学者」を自負しているならば、さっさと理研を自主退職し、メディアの目が届かない水面下でSTAP細胞検証をさせてもらえる場を模索し既に研究再開していても不思議でないであろうに、今一体何をしているのだろう??
 もう少し時が過ぎたら、小保方晴子氏がタレントとしてメディアに出る日が来るのか?? 
 なる意地悪視点を庶民に抱かれても仕方がない程の、現在の小保方氏が置かれている“貧相な立場”ではあるまいか。