原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

帰宅困難者問題、東日本大震災時の“娘対応”で“冷血失格親”と後ろ指を指された身として…

2021年03月25日 | 時事論評
 本日2021.03.25付朝日新聞「社説」のひとつは。


 「帰宅困難者 次への備え 企業も人も」と題する論評だったが、以下に一部を要約引用しよう。

 東日本大震災10年を機に、記憶を風化させず教訓を引き継ぐことの大切さが改めて指摘されている。 首都圏で起きた一斉帰宅に伴う混乱もその一つだ。
 発災直後はむやみに動かず、安全な場所にとどまるように。 政府や専門家はそう訴えてきたた、どれだけ浸透・定着しているか。 一人ひとりが今一度、日頃の自分の行動範囲を確認し、いざという時の対処方法を考えておきたい。
 気になる数字がある。 
 内閣府は15年、平日昼に大都市圏でマグニチュード7以上の地震が起きると3日間は鉄道の運行が止まるとして企業に対し、自社施設内での社員待機や飲料・食料の備蓄などを求めるガイドラインを定めた。 東京都は帰宅困難者対策条例を一足先に13年に実施している。
 ところが、昨年5月に公表された先のアンケート結果によると、条例について“知っている”との答えは約4割しかなかった。 (中略)
 群衆があわてて移動すれば大規模な転倒を招く危険があり、建物の倒壊や落下物による怪我、道路渋滞に伴う緊急車両の通行障害なども予想される。
 多くの人が帰宅を急ぐのは、家族が心配だからだという……

 (以下略すが、以上朝日新聞本日の「社説」より一部を要約引用したもの。)



 次に、2011.10.10公開・本エッセイ集バックナンバー「同調意識は身を滅ぼす」の一部を、以下に再掲載させていただこう。

 我が家の話に戻ると、私は既に東京12チャンネルTVとNHKラジオ放送を通じて3月11日当日16時頃から首都圏の大混乱状態は把握していた。
 こういう状況下においても、大抵の場合学校組織とは「保護者が学校まで迎えに来た家庭から子どもを帰します」と言い始める事くらいは我が子幼稚園児の頃より承知している。(この“通り一遍”の学校の指導で、悲しい事に巨大津波地方では多くの児童や保護者の犠牲者が出ている事は皆さんもご存知であろう。) 
 ところが首都圏は既に道路も大渋滞だ。 そもそもこれ程巨大な地震が発生した以上、今個々人が居る場の安全が確保できるのならば、そこに留まる事が最善の安全策であると既に私は確信していた。
 そんな私にとって幸いだったのは、学校の(おそらく子どもを迎えに来い、との内容であろう)「緊急連絡網」が通信網の大混乱により届かなかったことである。 我が娘とは16時半頃より私からのパソコンメールにより、娘の携帯に連絡が途切れ途切れではあるが通じるようになった。 もしも娘が私にどうしても学校まで迎えに来て欲しいと言うならば何が何でも行ってやるつもりでいた矢先、娘から「どうやら学校で泊まれるらしい」との連絡が入った。 こういう場合、自分は理想的な親だと自覚し他者からもそう評価して欲しい親ほど、学校へすぐさま迎えに行くのであろうか?? 実は原左都子も迷った。 ただ私が出した結論とは、ここはドンと構えて娘も私も生き延びよう!ということだった。
 そして私は娘に対し「学校が今夜泊まっていいと言ってくれるならば、それが一番安全だからそうしなさい。」と指示し、娘は学校の体育館で“銀紙”のようなブランケット一枚で一夜を明かし、翌日昼頃やっと復旧した交通網で無事に自宅まで帰ってきた。
 娘の話によると、当日学校の体育館で一夜を明かした生徒は全体の1割強だった模様だ。 多くの親達はたとえ深夜や朝方になろうと大渋滞を耐えて学校まで迎えに来たとのことだ。
 3月11日の大震災当日に娘を学校まで迎えに行かなかった私は“冷血失格親”なのだろうか?? 私が知らない処で、もしかしたらそういうレッテルを貼られて後ろ指を指されているのであろうか???
 それでも私は周囲に同調はしない!  あくまでも自分自身の状況判断力と決断力の下、今後も我が子を育ててつつ親子共々この世に健全に生き延びて行きたいと欲している。

 昨夜放映された「NHKスペシャル」においても、同様の結論が導かれていた。 
 人の「同調意識」とは、時に危機的状況をもたらすものである。
 例えば3月の大震災時に於いても、混乱を余儀なくされた道路を負傷者を運ぶ救急車が大渋滞にはまってしまった。  今回首都圏においては震災に伴う大規模火災が発生しなかったのは幸運だった。 だが今後大震災によりこのような交通網の混乱が再び引き起こされた場合、必ずや消防車が道路の大渋滞に巻き込まれ、街全体が焼き尽くされるごとくの大火災が発生することはNHKが分析せずして目に見えている。
 「同調意識」とは“平和な日常”が繰り返す空間においては、その平和を維持増強するエネルギーを発揮する源である事を私も否定はしない。
 だが一旦自然災害等の予期せぬ事態が発生した場合、人間は安易に「同調意識」になど頼って行動している場合ではない事は歴然である。
 どうもこの国は、時代が移り変わり人々を取り巻く事情が大きく変遷しているにもかかわらず、学校教育が集団主義から脱却できず旧態依然としたまま軟弱である事を私は以前より憂慮している。  
 ここは昨日の「NHKスペシャル」の結論として導かれた通り、少しは国民一人ひとりに“有事の際”に自ら考え行動できるごとくの「主体性」を身に付けさせるべく、教育を展開する時期ではなかろうか。

 (以上、本エッセイ集2011.10バックナンバーより一部を引用したもの。)



 私見でまとめよう。

 上記朝日新聞社説内に記されている「多くの人が帰宅を急ぐのは、家族が心配だからという。」との部分が我が感覚としてはアンビリバボーであり、大いに気がかりだ。 
 2011.03.11に都内で本人や家族が“帰宅難民”を実際に経験した家庭では、まさかそんな安易な発想が出ないと信じたいが。 
 そんな大災害の時こそ、“家族皆が生き伸びる”手段を普段から確認して欲しいものだ。 


 最後に余談だが。
 
 ちょうど東日本大震災直後期の娘の春休み中に、当時高2の娘の大学オープンカレッジに母娘で参加した。
 世の中が未だ東日本大震災勃発に対する恐怖が覚めやらぬ時期だったが。
 訪れた私立女子大学学長氏が、大震災当日の夜を徹しての学内対応に関して興味深い談話をして下さった。 
 それによると早い時間帯から帰宅しそびれた学生達を学内にとどめると共に、(当該大学は都心に位置するのだが)大困惑して大学を訪れる帰宅難民を積極的に受け入れ、学生達と区別無く翌日まで歓待したとの談話だった。

 表題のごとく、当時娘が通っていた高校からは大震災当日迎えに来なかった親どもを、まるで“冷血失格親”とでも言いたげに後ろ指をさされた気分だった我が身にして。
 当該大学学長氏の談話が身に沁みたものだ。 
(この大学に娘を入学させようか!)と一時考えた程だが、結果としては娘の進路希望に従ったのは当然の成り行きだが。
 

昔は“手紙魔”だった私

2021年03月23日 | 人間関係
 (冒頭写真は、おそらく上京後より2017.05頃に至るまで私が収集した便箋類。)


 昨日のPopular entries top 10に、「左都子コレクション ー便せん編 ー」と題する2017.05.24公開のバックナンバーがランクインしていた。


 以下に、本文を要約引用させていただこう。

 私はかつては “手紙魔” だったかもしれない。
 思い起こせば子供の頃より文章を書く事をまったく厭わなかった私は、小学校低学年の頃より女の子友達と“手紙交換ごっこ”をしていたような記憶がある。
 その頃より文房具店に行けば、女子が喜びそうな絵柄の封筒便箋類が販売されていた。 
 一体何をテーマに手紙を書いたのかの記憶はないのだが、相手から返事が届きまたそれに応えて手紙を綴る行為が、とても嬉しかった思い出がある。

 中高生時代に「文通」を始めた私は、元々の手紙好きに更に拍車がかかる。
 特に中学校から高校にかけて文通をしていた大阪に住む某男子との文通は、4,5年間続いただろうか。 高校生になった時、実際に会おうとの話になり、最初相手が友達を連れて我が郷里までフェリーに乗ってやって来て我が友と4人で会った。 手紙の文面そのままの真面目な好男子だった。 そして高2の夏には今度は私が大阪へ行き、2度めのご対面を果たしエキスポランドで無邪気に遊んだ。(これに関しては、既にバックナンバーにても紹介している。)
 この好男子とどういうきっかけで文通をやめたのかに関してまったく記憶がないのだが、もしも現在まで文通が続いていたとして、やはりあの文通相手は今でも好男子ではないかと年月を超えて尚確信を持って思える。 
 それ程に成長途上期に手紙との形で1対1の文章のやり取りを4,5年もの期間続行出来た事とは、類稀な奇跡だったのかもしれない。

 上京した後は、まさに郷里の友達や旧彼(?)等々と手紙のやりとり三昧だ。
 仕事にもプライベートにも超多忙な身の私にして、手紙を書く事が億劫だと感じた事など一度も無い。 常にお好みのレターセットを買い求めては、1通に付き4枚程の手紙をしたためては投函していた。 しかも必ずや相手も返信をくれる。 
 一体如何程の手紙を書き、どれだけの返信を貰った事だろう。 溢れる程の返信手紙を保存しては、引越の都度整理して始末したものだ。
 おそらくそれが叶ったのは、今の電子メールとは異なり手紙の往復には日数を要した故だろう。 直筆で綴る手紙とはいえ、たとえ相手が複数いたとしても、数日に一通の返信程度軽くこなせた事を今になって納得させられる。

 その後も、私は“手紙三昧”の日々を送った。
 特に高校教員を出産退職した後、私のファン(?)であってくれた女子生徒達より、何通もの手紙を頂いた。 今尚それらの一部を保管してあるのだが、中には“人生相談”のような内容の手紙もあった。 それに誠意を持って彼女達との手紙のやり取りに応えつつ、年月の経過と共にどうしても音信不通とならざるを得ない。 それは電子メールの発展故であり、何よりも彼女らが成長して立派な大人になった証拠であろうと私は信じている。 (中略)

 悲しいかな、時代は変遷してしまった。
 今となっては“手紙を綴る”という文化が、この世から消え失せ果てている。
 かく言うこの私とて、日々キーボードタイピングにて当該「原左都子エッセイ集」で愚痴をばら撒いている始末だ… 
 もしも「手紙文化」が未だ生命を保っていたならば、人々の間を過ぎゆく時間間隔に余裕が持て、自分にとって大事な人とじっくり向き合える機会を取り戻せたのだろうか、と思ったりもする……

 (以上、2017.05バックナンバーより一部を要約引用したもの。)



 まさに、上記バックナンバーに記した通りの現実世界であろう。

 私の場合、ネット上の他者との交流は “メール”と当該ブログにコメントを記載させて頂くことに限定している。(これもごく一部の特定ブロガー氏に限定して実施しているのが現状だが。)
 今現在個人情報上の問題が発生しているらしきLINEはそもそも一切使用しておらず、SNSに関してもFacebookを極度限定的に利用しているのみだ。

 昨夜も某ブロガー氏宛にブログコメントを発信させていただいた。 原左都子としては、95%程の我が思いを伝ることが叶ったと自己評価している。 
 (我がブログコメント記載に対する姿勢とは、決して“挨拶程度”で終わらせず、必ずや自己のポリシーや相手に伝えたいことを伝えることをモットーとしているのだが。 それ故、ついつい長文になってしまいますことをこの場でお詫び申し上げます。)

 そういう意味では原左都子の場合、ネット上のお付き合いとて十分に自己の思いを相手に伝える手段として有効利用活用出来ている、と評価可能なのであろう。


 「手紙文化」は、既に過去の所産となってしまった。

 それでも、やはり人とは自分の思いを伝えたい相手に伝えたい!と欲する生き物ではなかろうか。

 ネットとて、その役割を担ってこの世に存在しているはずだ。


再掲載 2016夏 左都子の台北旅行 最後の晩餐・イタリアン編

2021年03月22日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、2016夏に娘を引き連れて行った台北旅行の際の最後の晩餐、イタリアンレストランにて。 この写真は最後に出されたデザート。)



 話題が突如、2016夏 台北旅行・最後の晩餐を振り返ることとなるが。

 つい先程goo編集画面を覗いていたら、この台湾旅行がランクインしていた。

 
 早いもので、あれから5年もの年月が流れていると気付かされる。

 台湾とは日本から目と鼻の先程に近い旅行地であり、いつでも行けるぞと思っていたら、あれから5年の年月が過ぎていた。


 いつでも行ける、どころか。
 世は“コロナ禍”のせいで、何処にも行けない有様…

 世界規模で“マスク着用”を後5年続行せねばならないとの情報もあるが。
 一体、いつまで謹慎状態を強いられるのか…


 さて本日は、台湾旅行最後の晩餐・イタリアンレストランに的を絞って、以下に写真で振り返らせて頂こう。

 台湾旅行4日目最終日の晩餐は、娘の希望でイタリアンを食することとした。 前3日は台湾料理に日本料理を食べ尽くし飽き飽きしていた故だ。

 ホテルフロントにてイタリアンレストランの場所を確認すると、ホテルから程近い場所にあるとのことで、早速訪ねた。

 小規模ながら、お洒落で落ち着いた雰囲気のレストランだった。


           

           

           

           

           

           

           

           

           

 この他に白ワインも頂きました。
 720mlボトル丸ごと一本私一人で軽く空けられるが、この日の夜中に日本への帰国フライト便に乗る予定だったため、グラス2杯でやめておいた。😭 


 お味の方は、これまた料理全般を通して“ジャパニーズテイスト”と言おうか。 台湾と日本の料理の味が概して変わらない印象だったが、まさにこのイタリアンもジャパニーズテイストで、十分に我々の口に合った。

 「こんなに台湾が近いならばいつでも食べに来れるね。」と娘と同感し合ったものの…

 一体いつになったらそれが叶うのか??


 (ところで、台湾暮らしのはずの “卓球の愛ちゃん” が現在おかしなことになってるねえ……)😱 


私って、そんなに “ものが言い易い” 人間かなあ…??

2021年03月21日 | 人間関係
 当エッセイは、午前中に公開した「老老介護殺人事件、身につまされるなあ… 」の続編の形となるが。


 あくまでも今回の表題は、義母と実母に限定しての我が思いだが…


 まず、義母の事例から言わせて貰おう。

 義母の介護保証人を亭主と共に義理姉から引き継いだのは、義理姉が膵臓癌で急死した2012.12月の事だった。

 当時義母が私を捕まえて曰く、「やっぱり介護って“女の仕事”だと思うのよ。 息子(我が亭主)には当然保証人を引き継いで貰うが、実際の世話は〇子さん(私のこと)に全面的にお任せしたく考えているので、よろしくお願いします。」

 私としては大いに異議があったし、義母も随分と男尊女卑思想の下に年老いたものだ、と正直感じた。
 ただ、実際義母は年老いている。 その年寄り相手にその場で議論を持ち出すほどの非常識者でも無い私としては、それに反論するでもなく快諾した。
 と言うのも、義母の施設は「介護環境」が充実している。 現場のスタッフのみですべての介護を全う可能なシステムとなっていて、保証人の役割とは重要案件に同意の書面を提出するのみと言って過言で無い。

 それにしても義母が身勝手だと感じたのは、亡くなった長女(大学卒業までずっと名門私立のお世話になった女性だが)に関してはそもそも“お嬢さん扱い”で、何らの我が儘も言わなかったことだ。 
 どうやら内面に、私との階級差が存在するとの感覚を抱いている事実を見合い結婚直後から嗅ぎ取っていた。
 要するに、(あの娘は“お嬢さん育ち”だから、私の介護などさせられないのよ。)とのごとくの雰囲気が常に存在した。 
 ただ一方で私を邪険にする人でもなく、大学院を修了している私に、「うちの〇〇(義理姉のこと)は大学院へ行ってくれなくてね…、それだけが心残りだったのよ。」と何度か告げたことがある。
 私と亭主との見合い結婚を義母が一番に喜んでくれたものだが、それを嫁となる私が達成していた故である一面も大きいのであろう。

 そんなこんなで、義理姉が急死して後既に9年の年月が流れている。
 義母が年老いたのは確かだが、我が介護業務もまあ何とかなるとの範疇であり、実際それで済んでいる。

 
 実母に話題を移すと。

 こっちは、かなり“たちが悪い”。

 表題に掲げた通り、この実母に関してはまさに次女である私に対しては幼少の頃より“言いたい放題・使いたい放題”だ。
 まさに、実母にとって一番“ものが言い易い”のは次女のこの私なのだろう。
 父親も“難しい気質”の人間だった。 姉も母自身が“人格的欠落がある”と少し認めている通りの人間だ。
 そうなると、実母にとって“言いたい放題・使いたい放題”可能なのはこの次女の私のみとなるのは必然だ。

 実際、我が幼少の頃より次女の私はよく実母に“こき使われ”た。
 例えば実母には編み物の趣味があったのだが、毛糸の玉を巻き取る際には必ず次女の私を呼んで、「これ手伝って!」だった。 扱いにくい長女である姉は決して呼ばない。
 それを見かねた祖母が機会ある毎に、「〇子(私のこと)ばかりを利用するな。」と実母を叱咤してくれたものだ。
 にもかかわらず、実母は高齢域に達しても次女の私には言いたい放題状態が続いてしまっている…。



 最後に、結論になりそうも無い結論に入ろう。

 私自身は我が義母・実母以外の人間関係に於いては、何処のどなたからも “ものが言い易い”、“使い易い”人間として扱われた事は皆無だ。
 
 むしろ、一見“気難しそうに見える”私に対面する人物によっては、真逆の印象を与えたことであろうとも想像する。

 だとすると、やはり親族とは独特の存在であるとの印象を抱かされる。

 特に母(実母・義母両者を指すが)との存在とは、時代が流れようととにかく最後に頼るのは親族の「女」であるのか?との結論に至りそうにも思う。

 いえ、私自身は決して最愛の娘に死を看取って欲しいとの感覚はさらさら無い!

 などと言いつつも、結局その結末にならざるを得ないのかとも想像出来てしてしまうのが悲しい……


老老介護殺人事件、身につまされるなあ…

2021年03月21日 | 時事論評
 今朝つい先程ネット上で見た事件を、以下に引用しよう。

 
 姉とみられる女性を殺害した疑いで、82歳の女が逮捕された。
 〇〇容疑者(82)は20日午前、東京・北区のマンションで、姉とみられる△△さん(84)の口や鼻をティッシュでふさぎ、殺害した疑いが持たれている。
 警視庁の調べに対し、「2年前から寝たきりで、介護に疲れてしまった」と容疑を認めているという。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 この原左都子も、現在義母・実母の面倒をみている。
 この状況は既に義母9年、実母(両者共々介護施設入居後)4年になる。

 ただし私の場合は、(  )記載の通り両人共に介護施設に入居してくれている故に、日々面倒をみている訳では無い。
 しかも両人共に、比較的元気でもある。

 それでも電話等の手段で、日々“理不尽”な物言いや“無理難題” はたまた“我が儘”を突きつけられる機会が多発している今、かなりのストレスを食らっている。
 正直言って、早めに“あの世”へ行ってくれないものか…、 と本気で考えることが多くなった…

 
 上記事件の場合、まさに「老老介護」だ。

 おそらく貧困か何かの理由で、82歳との高齢の妹が84歳の自宅で“寝たきり姉”の介護をするしか方策がとれずに暮してきたのであろう。

 私見だが、公的施設に相談する等の方策がとれなかったものか?
 私は基本的に、親族とは言えども“兄弟”の面倒を兄弟同士でみる義務は無いと捉えている。


 それ故に、米国の実姉ともこちらから“縁を切っている”。
 この事態に対して、実母が今尚しつこく「米国の姉の面倒(相談相手の意味だが)を母である自分亡き後は妹である貴方がみてやって欲しい。」と再三再四私に訴えてくる。
 これに対し私は、「兄弟姉妹間でその義務は一切無い! そもそも姉が渡米して何年経っているか分かっているか? 既に30数年だよ。 姉側とて20年以上前に私側から縁を切られた後、あちらからも音信不通状態だ。 何故今になって母の貴方が死んだとて、その縁をぶりかえさねばならないのか!?? しかも姉は私よりもずっと裕福だ。 自助努力で自分が好きな米国で生き抜き、かの地で骨を埋めれば済む話だ!!」

 それに対して実母が言うには、「あの子は、(人格的欠落があり)何処で生きても人間関係が築けない子だ。 どうしても妹の貴方と仲良くしたいと本人も切に言っている。少しは耳を傾けてやってくれないものか?」

 それに対し私は毅然と、「過去にあの姉に妹の私が“言われ無き”虐待を受け続けたことを、母の貴方は妹の私が我慢強いのを良きこととして、それを見て見ぬふりをし通したではないか! 何度嘆願されても、私側は米国の姉と金輪際付き合う意思は無い!」

 この会話を繰り返している我が実母と私の関係だ…



 冒頭の事件に話題を戻そう。

 寝たきりの84歳姉の面倒を自宅にて看続けたという82歳の妹が、不憫でならない…

 どうか事件の背景を勘案して、妹氏の罪の処置を軽減して欲しい。