原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

不気味に増殖するフジツボ

2009年02月28日 | 学問・研究
 本日取り上げる話題が真実か偽りかの検証をせずして記事として綴ることを、最初にお断りしておく。


 20歳代の若かりし頃に、背筋がゾッとして全身の血の気が引くような話を知人より耳にした。
 まずは、その“奇談”から紹介することにしよう。

 知人の知人が、海へ海水浴に行った時の話である。
 泳ぎの得意なその人物は、海の中で素潜りを楽しんでいたらしい。そうしたところ、海中の岩に膝をぶつけてしまい、負傷したとのことである。
 傷が深いため病院を受診し、傷口を縫合して様子をみていたところ、日数が経過し傷口は塞がって治ったかにみえたそうだ。
 恐怖はここからはじまる…
 どういう訳か、治ったはずの傷口辺りが腫れて日ごとにどんどん盛り上がってくるのだそうだ。その盛り上がり様が尋常ではないため、再び病院を受診し、再検査したところ…
      な、な、なんと!!  
      フジツボが膝の骨に寄生し、体内で増殖を続けていたそうである!! 

 海中の岩に膝をぶつけた時に岩に付着していたフジツボが体内に入り込み、骨に寄生し増殖したものと考えられるそうだ。 
 その人物は膝の骨からフジツボを除去する再手術を受けた、とのことである。

 知人よりこの話を耳にしたとき、背筋がゾッとしつつも、疑り深い私は内心は冷静だった。当時医学関係の仕事に従事していた私は、学術的に考察した場合、人間の体内でフジツボが増殖し得るのかどうかについては半信半疑のまま月日が流れた。


 先だって2月18日(水)の朝日新聞夕刊 環境面の「外来フジツボ 勢力拡大」と題する記事を見てすぐさま、若かりし頃に耳にした上記の“フジツボ奇談”が私の脳裏に蘇ったという訳である。

 この朝日新聞の記事を読むと、もしやフジツボは人の体内でも骨に寄生して増殖し得るのか?!と再認識させられるほど、フジツボの繁殖力は旺盛であるようだ。

 では、朝日新聞記事の一部を以下に要約して紹介しよう。

 中米パナマ原産のフジツボが本州沿岸に侵入し繁殖を始め、在来産のフジツボを押しのけて勢力を拡大しており、日本の磯の生態系を変えてしまうのではないかと心配されているとのことである。
 日本への定着が確認されたのは、ココポーマアカフジツボと名付けられているフジツボの一種で、繁殖力が強く在来種のフジツボ類を押しのけるように生息域を拡大しているらしい。
 フジツボの幼生が船に付着して成長し、運ばれた先の海域で新たな幼生を放出したのが原因と研究者は見ているそうである。
 進化論で有名なダーウィンは、フジツボの研究者としても活躍していたそうだ。(これは私は初耳ながら大変興味深い。)このココポーマアカフジツボを始めて論文で発表したのはダーウィンであるそうだが、ダーウィンは「種の起源」を発表する前からフジツボ研究者として活躍していたとのことである。
 ダーウィンは絶海の孤島であるガラパゴス諸島を訪ね、隔離された環境で独自の進化を遂げた生物たちを知り、その体験が進化論のヒントとなり偉業を成し遂げたらしい。
 (この外来性のフジツボは漁業用の浮きなどにも付着するとして、プラスチック製の浮きに付着したココポーマアカフジツボの写真がこの朝日新聞記事に掲載されている。この写真を見ると、上記“フジツボ奇談”において人体の骨に寄生して増殖したフジツボの話がリアリティをもって私に迫ってくるのがまた怖い…)

 上記朝日新聞記事の最後に大学教授の見解が綴られている。
 「ダーウィンの時代は今のように海上交通機関が発達していなかったが、もしダーウィンが現状を知ったら、きっと残念に思うでしょう。」


 そもそも人間がもたらした科学や経済の発展と共に、生物群も自ら生き長らえようとする生命力故に、世界に張り巡らされた交通機関等を経由して世界各地に蔓延するのは、今の時代、もはや自然の摂理の一部として容認するべきかと私は捉える。
 このような自然の底力を、地球上の生命体としては歴史が浅い人間の微々たる力で抑制しようとするのは、浅はかな人間の思い上がりであるようにすら私は考察する。
 フジツボの繁殖力は不気味ではあるが、今後の科学はこの種の生命体を利用するべく発想転換する時代に移行しているようにさえ感じるのは、私だけであろうか。 
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それ程重くはない。

2009年02月26日 | その他オピニオン
 「それ程重くはない。」

 少し古い話になるが、この言葉は昨年ノーベル物理学賞を受賞し授賞式から帰国したばかりの小林誠氏が、国内のマスメディアからの「ノーベル賞のメダルは重いですか?」とのインタビューに応じて、返した第一声である。

 昨年ノーベル物理学賞を受賞した日本人3氏のうち、今回のノーベル物理学賞受賞の対象研究に恐らく一番貢献した人物であると思われるこの小林氏に、私は受賞当初より好感を抱かせていただいていた。小林氏は始終控えめな態度でいつも諸先輩の受賞者の後ろに位置し、冷静に言動されていた。
 そんな小林氏が授賞式より帰国後開口一番、今回の自らの受賞に対し、静かな口調で「それ程重くはない。」との私観を述べられたことが私の脳裏に焼き付いている。
 世界で最高の賞とも言えるノーベル賞を受賞され、世界の賞賛の渦中にありながら、ご自身の受賞を「それ程重くはない」と冷静に捉えられている小林氏の奥深い思慮が、私は今尚印象的である。


 すべての事象に重みがないことを体感させられる今の時代である。
 さすがにノーベル賞に関してはある程度の重みがあると私は考えるのだが、世に氾濫する各種の「賞」というものの重みが昔と比して格段と軽くなっていることを、実感する今日この頃である。

 例えば、芥川賞、直木賞等の文学賞であるが、あれなど、今や本が一時期売れさえすればいいという出版社の商業主義の観点で選考がなされているのかと捉えられるほど、賞の価値が成り下がってしまっている印象を受ける。作家が使い捨ての時代と化している現状が浮き彫りであるように感じているのは、私のみであろうか。
 そんな現象を象徴するかのように、受賞者(特に女性の受賞者)は受賞後顔を整形して着飾って、まるでタレントのごとくマスメディアに登場した挙句短命で消え去り、世間から忘れ去られていくのが今の文学賞というものの実態である。

 先だって授賞式が行われた米国アカデミー賞に関しても同様の印象を私は抱いている。
 これに関しては、単に私がそもそも映画というものにさほどの興味がないせいであることによるものかもしれない。 ただ、映画にはズブの素人の私も過去においてアカデミー賞受賞作品に感銘を受けた経験はある。何本かのアカデミー賞作品を観ているが、“クレイマーvsクレイマー”などは大いに感動して涙を流したものである。
 今年の短編アニメ賞を受賞した加藤久仁生監督による「つみきのいえ」は、ニュース報道で垣間見てこの私も興味を抱いている。機会があれば是非観賞させていただきたいものである。 
 その他の今回のアカデミー賞受賞映画に関しては、マスメディア報道から得た情報の範囲内では私がさほど興味を持てないでいるのは、単なる好みの問題であろうか。

 文学にせよ、映画にせよ、社会における情報の多元化や人の価値観の多様化と共に、今の時代は如何に優れた作品であれ“一世を風靡”するという現象が困難な時代と化しているようにも思える。それが「賞」の重みを下落させている一因であるようにも考察する。
 これは、人の個性の多様性の尊重という意味合いにおいては“健全”な現象であろう。そして別の意味では人間同士の共通の話題がどんどん減少し、人間関係の希薄化を加速する一要因ともなっているのであろう。


 いずれにしても、商業主義に基づいた「賞」や、それとの癒着により一部の個人に一時のみの利益しかもたらさない「賞」とは、結局は今後の科学や学術や文化の発展に寄与し得るすべもなく、歴史のほんの一端さえ形成し得ないことは明白である。
 商業主義を抜きにしては成り立たない今の資本主義社会構造の中において、「賞」の重みがどんどん下落していくのは、残念ではあるが必然的な現象であるのかもしれない。 
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飲兵衛の心得

2009年02月24日 | 
 いや~~、やってしまった……
 あの影像は見ている方が辛かった… 

 先だってのG7後の「もうろう会見」で世界中に醜態を晒して、財務・金融相を引責辞任したあの方の影像の話である。
 ご本人は風邪薬のせいにしてごまかしたつもりのようだが、あれは大方の指摘通り、どうひいき目に見ても酒の泥酔状態の成せる業である。
 引責辞任してしばらくは社会から姿を隠すしか、あの方の身の置き場はないであろう。

 同じく自他共に認める飲兵衛であるこの私も、長い人生においてあちこちで泥酔して散々醜態を晒しおおしてきている。それが故に、あの醜態の影像を見せられたことはこの私には心底辛かった。我が“飲んだくれ”の恥さらし人生がフラッシュバックするようで、私の方が穴があったら入りたい気持ちにさせられ、我が目を覆ったものである。
 
 
 この機会に、私自身の過去の酒席の反省とご迷惑をお掛けした皆様への謝罪の意味も込めて、我が人生における酒の上での醜態について、少し振り返ってみることにしよう。

 私の場合の泥酔の醜態の失敗は、“暴言”が最多だったであろうか…。
 飲兵衛の悪癖の中でも一番嫌われるパターンであろうが、私は泥酔すると周囲に怒りをぶつけ始める癖がある。決して根も葉もない事柄について怒り始める訳ではなく、怒りの根拠は必ずあるのだが、それにしても言い過ぎであることにはいつも酔いが冷めてから気が付く。“時既に遅し”である。
 ただ親しい相手同士の場合、それを後日相手からとがめられたり、それが元で不仲になったという事はないため、自責の念に怯えるほどの暴言ではなかったのかもしれない。あるいは「また始まったか」程度で、誰も相手にしてくれていなかったというのが正解であろうか。

 それから私特有の泥酔時の奇癖として、相手構わず人に“くっつく”という醜態を独身時代によく晒したものである。これは特に男性は喜ぶ人も多いのだが、大いに誤解を招く醜態であり、後々まで誤解を引きずることも少なくなかった。逆にこれがきっかけで恋愛関係に発展したこともあるのだが…。

 転んだり物にぶつかったりで、怪我をしたこともよくある。
 ある時は、泥酔のあくる日胸に激痛を感じた。どうやら椅子から転げ落ちて胸を打った時に肋骨を痛めてしまったようだ。動いても喋っても痛く寝返りも打てない日々なのだが、酒の上での失敗のため仕事を休む訳にもいかず、完治まで相当の無理をした。自業自得である。 よく今まで命が繋がっているものだ。

 泥酔すると“脱ぎ始める”人もいるようだが、幸いな事にこの奇癖は私にはない。 命拾いである。ホッ

 引責辞任した財務相同様、私も“ろれつ”が回らなくなる方である。私の場合は結構飲み始め早期から回らなくなる。飲みが深まるとむしろ饒舌となり、上記のように周囲に怒りをぶちまけ始めることになる…
 家で飲んでいる時に一番困惑するのは、飲酒中の不意打ちの電話である。独身時代はすべてが自己責任で済んだが、家族のいる現在はナンバーディスプレイの活用により、飲酒中に大事な電話には一切出ず後日対応することにしている。
 引責辞任の財務相についても既に各種報道で叩かれているが、本人は元より、周囲もなぜ泥酔状態の要人を世界に配信される会見に出席させたのかが不可解である。側近に一人として、会見への出席を何らかの理由を付けて取り止めさせるべく決断できる人物がいなかったものなのか。


 最近の若者は外での酒宴を嫌う傾向にあるとのことである。お金を散在するのが痛いというのもひとつの理由であるようだが、それよりも大きな理由は、外で酒に酔って醜態を晒している大人を見飽きているからだそうだ。(骨身に沁みるお言葉で、心より反省申し上げます。誠に申し訳ございません。

 これに関しては、若い世代の論理は正しい。この指摘には私も降参である。酒であれなんであれ、醜態を晒し合うのは信頼関係のある親しい者同士の範囲内で留めるべきである。決して自らの醜態を公の社会に露呈してはいけない。 ましてや、一国の要人が世界に向けて醜態を晒すなど、言語道断の事態である。
 私も過去における酒による醜態を反省し、社会で酒の醜態を晒すことはもうやめにしようという認識は重々ある。


 それにしても我が人生においてお酒は美味しく飲み続けたいから、親しい方々、今後共お酒のお付き合いをよろしくね!  
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戸籍制度と本人確認

2009年02月22日 | その他オピニオン
 先だっての報道によると、「長男」であるのに、役所の記載ミスにより戸籍上「長女」と記載されていた男性の婚姻届が受理されなかった、という事件が発生したようだ。
 当該自治体は、法務省に対して「長男」に訂正する許可を求め、男性に対し謝罪はしたらしいのだが、その手続きに1週間の日数を要するとのことである。
 

 この私も、戸籍謄本の記載事項の誤記を経験している。

 数年前の話になるが、戸籍抄本が必要となり、当時の私の本籍所在地の東京都豊島区へ取得に出かけた。
 発給された戸籍抄本の内容をその場で確認してみると、私の母の氏名の一字が抜けている。ちょうど全国的に戸籍簿の電算化が進められていた直後であり、手書きの戸籍簿から電算処理へ移行時の役所の「転記入力ミス」であるとすぐさま推測した私は、その旨を母の正しい氏名と共に窓口に訴えた。
 「しばらくお待ち下さい」とのことで、1時間足らず待たされた後、再び窓口に呼ばれた。担当者は新たに作成し直した戸籍謄本を私に手渡しながら、「ただ今貴方の戸籍履歴を確認しましたところ、貴方がおっしゃったお母様の氏名が記載されていましたので、その氏名で作成し直しました。」との不十分ですっきりしない説明である。
 結局、役所の「転記入力ミス」の一言も発せられず、誤記に対する謝罪の一言もないまま、私はその場を立ち去らざるを得ない成り行きとなった。


 さて、話が変わるが、我が子は普段“戸籍名”ではなく“通称名”を使用している。これにはやむを得ぬ事情があるためだ。
 我が子の名前は、母である私がギリシャ哲学より引用して命名している。あれやこれやと漢字の当て字を考慮したり、ひらがな表記も候補として考えたのであるが、原語の持つ意味合いを尊重したいがためにあえて“カタカナ”表記で命名し、役所に出生届けを提出した。
 母としては自信を持って我が子に贈った名前のつもりだったのに、予想だにしない世間からの反応の洪水に合う羽目となるのだ。
 「ご両親のどちらかが外国人ですか?」
 子どもを産んだ後に出会う人、出会う人からこの質問攻めに遭う。名前の由来の本来の意味合いを理解してくれて「ギリシャ哲学からの引用で素敵な名前ですね!」などと言って下さるのは、1%にも満たない。(もちろん、元よりの知り合いの方々は当然ながら名前の由来をご存知で、賞賛いただいていたのであるが…)
 落胆し困惑を極めた私は、子ども本人の苦労を回避するため、幼稚園入園時から“戸籍名”を避けてひらがな表記の“通称名”で通すことに決めた。
 そして現在に至っている訳であるが、公文書や公的機関への書類提出時には“戸籍名”を使用する等の使い分けの労力が日々結構煩雑である。

 先だって、日本郵政公社が民営化によりゆうちょ銀行へ移行したのに伴い、現在ゆうちょ銀行では、通帳の“本人確認”を進めているようである。
 我が子の通帳は“通称名”で作成していたために、この“本人確認”に難儀した話を以下に披露しよう。
 近くのゆうちょ銀行へ行き我が子の本人確認を申し出ることになる。当然ながら、本人であることを証明する書類と通帳との氏名が一致しない。「こういう事例は至って稀」で支店での判断が困難とのことで、係員が本部に問い合わせてくれるのだが、この問い合わせが難航している模様だ。待つこと1時間、結局結論が出ないとの回答で、後日自宅に電話をいただけることになった。そして、後日の電話による指示の何種類もの必要書類を持参して再び支店を訪ねるのだが、またもや係員の電話での本部との話し合いが難航している模様である。またまた待つこと今度は1時間半、やっと通帳を“戸籍名”に書き換えてもらえたのであるが、「本部が届出を受理しない場合も考えられるので、その際にはまた電話する」とのことである。(一体何度ゆうちょ銀行へ足労すれば本人と認めてもらえるの…

 本人が本人であると申し出て、承認されない…
 戸籍制度とは何とも難儀な制度である。



P.S.  表題から話がずれるが、こう言った話題を出すと必ず出るのが「子どもの名前は子ども本人の迷惑を考慮して、親は奇名・珍名は避けるべきだ。」との意見である。この私も既に何度も何度もこの言葉を聞き飽きている。
 そこで私は申し上げたいのだが、奇名・珍名の定義も人それぞれであるということだ。私が子どもに贈った名前は最高の名前であると当時から今に至るまで自負しているし、そんな親の熱い思いは子どもに確実に伝わっている。我が家にとっては決して“奇名・珍名”ではないのである。加えて子どもの成長と共に子どもの周囲の環境も変化してきて、現在では子どもの名前の受容者、賞賛者が増えて苦労も軽減されてきている。
 子どもが高校を卒業した時点で通称名も卒業して、氏名をカタカナの“戸籍名”で通したいというのが、子ども本人の希望でもある。


 我が子の名前が奇名・珍名であるとの反論コメントは、既に成長している子ども本人にも悪影響を及ぼしますため、筆者原左都子のポリシーに基づき、今回に限り、誠に勝手ながら削除させていただきます故をお許し下さいますように。
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哲学者でありたい

2009年02月20日 | 自己実現
 日本の著名な哲学者として真っ先に私の頭に浮かぶのは、和辻哲郎氏である。
 私が哲学を哲学として認識し得るようになった当初の30歳代の学生時代の「倫理学」の授業において、“倫理学の命題をひとつ取り上げ、それについて論ぜよ”という小論文課題を課せられたことがある。私はその命題として“善”を取り上げたのであるが、その際に、和辻哲郎氏の著書「人間の学としての倫理学」を参考文献の一つとして参照させていただいている。
 先程、書棚からこの本を引っ張り出してみると、赤線が沢山引かれていて、哲学に燃えはじめていた若かりし頃の自分の姿が蘇り、当時への郷愁に駆られる思いである。

 同時に思い出すのが、磯野友彦氏である。磯野氏は当時早稲田大学の名誉教授でいらっしゃったと記憶しているが、我が大学には80歳代の高齢にしてご本人の希望で非常勤講師として通われ、「近代哲学」の授業を担当しておられた。
 私は30歳代で遅ればせながら哲学に目覚め、当時の自分の専門ではない哲学関連の授業をはしごしていたのであるが、恥ずかしながら磯野氏の哲学における専門もよく把握せずして授業を受講させていただいた。
 この磯野氏が、知る人ぞ知る著名な哲学者であることを私が知ったのは受講し始めてから後のことである。著名な哲学者である磯野氏の授業を聴くために学内から学部を問わず“哲学マニア”が数人集まってきていて、その受講生の情報から私は磯野氏の哲学的背景を初めて知ったといういきさつである。
 ところが、磯野氏の体調がすこぶる悪く、いつも杖を頼りに歩いてこられては椅子に座り息を整えられる。5、6名の少人数の受講のため授業は小教室で行われていたのであるが、毎講義ごとに先生は「少し待って下さい」とおっしゃって、咳き込み始められる。受講生としては見かねて皆が口々に「先生大丈夫ですか?」と心配しつつ授業の始まりを待つのであるが、女性の私など背中でもさすって差し上げた方がいいのか、と毎時間気をもんだものである。授業中も同様に咳き込まれて中断し、その都度丁寧に「申し訳ありません…」と謝られていた。
 このような磯野氏の健康上の事情により休講も多かったのであるが、大変残念ながら年度の途中で亡くなられてしまい、授業は磯野氏の弟子の哲学者の先生にバトンタッチされた。ご自分の命をかけて、人生の最後の最後まで学生に哲学を語ろうとされた磯野氏の姿は今尚私の脳裏に鮮明に焼き付いている。
 その磯野氏が一番最初の授業でおっしゃった言葉は「人生を生きる中に哲学あり」であった。


 さて前置きが長くなってしまったが、朝日新聞2月13日(金)夕刊“悩みのレッスン”の今回の相談は、14歳の女子中学生による「哲学者の定義は?」であった。早速この相談内容を以下に要約して紹介することにしよう。
 私は哲学が好きで、哲学の本を読んだり自分なりの思いに浸ったりするが、自分とは何者かとか、悲しさはどこから発生してくるのかとか、生きることや死ぬことの意味を考える。そこで疑問なのは、哲学者という肩書に定義はあるのかということである。大学や研究室に入ればそう呼ばれるのか、論文を発表して認められたらなのか、それとも自分が哲学者だと思ったら哲学者なのか…。また、考える時の苦悩や喜びなどはどんなものなのか?
 以上が女子中学生の相談の内容である。

 ここで一旦私論に移るが、この相談コーナーの相談はいつも“すばらしい”の一言に尽きる。今回の相談も中学生にして既に哲学に目覚め、哲学の本を読み、自分とは何者か、生きること死ぬこと等に思いを馳せ、哲学者の定義とは何かと模索する… それでもう十分に哲学者たり得るのではないかと、私など頭が下がる思いである。
 現在はプラスの意味合いでも情報を入手し易く学問的環境も整っている時代であり、本人に受容能力さえあれば若い頃から哲学をはじめ様々な学問に存分に触れることができることを、この相談を読むと実感させてもらえる。私が若かりし当時は、学問に触れる手段としては書籍か大学で学ぶしか選択肢のない時代で、30歳代にして哲学に目覚めた私など、羨ましくさえ感じる相談内容である。


 今回の“悩みのレッスン”の回答者は哲学者の森岡正博氏である。以下に回答内容を要約しよう。
 哲学者の肩書きに定義はない。自分とは何か、生と死といった問題に、徹底して自分の頭で考え続けていくことができれば、あなたはもう哲学者だ。哲学者になるためには何の資格も要らない。極端な話「私は哲学者である」と宣言しさえすれば誰でも哲学者になることができる。
 哲学の愛すべきところは、世間の価値観からまったく自由になって、物事を突き詰めて考えることができる点である。たとえば、我々は過去・現在・未来と時間が流れると思っているがそれを疑う哲学者もいる。存在するのは「いま」だけで、その他はすべてまぼろしだと言うこともできる。
 自分自身の生にとってもっとも大切な問題を、狂気のように追求せざるを得ないのが哲学者の苦悩であり、また喜びなのだ。
 以上が、哲学者森岡氏の回答である。


 哲学の話からはずれるが、この私も何歳になっても決して周囲に流されて“右にならえ”で生きたいとは思わない。如何なる事象であれ、自分自身で分析し状況判断し深く思慮し模索して結論を導きながら、苦悩と喜びを自分のものとして実感しつつ、納得して我が人生を生き長らえたいものである。
 そういう意味で、私は今後共“哲学者”であり続けたい。
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感情移入が記事の生命の源

2009年02月18日 | 自己実現
 本ブログの前回の記事「ネット友達は成立し得るか?」に対し、3日間に渡りご覧のように多数のコメントを頂戴しました。ここで、この大いなる反響に改めて感謝申し上げます。
 その総数は(筆者である私よりの返答も含めて)30を超過し、おそらく本ブログにおける過去最高タイ記録だったのではないかと思うほどの勢いでした。しかも、皆様との議論の内容が濃厚でもありました。

 これは、ネット上の人間同士の付き合いのあり方に関する皆様の関心の高さを物語るものであり、そのような現状を再認識させていただくことができました。


 さて、今回の某ブログコミュニティのリニューアルには当初少なからず驚かされた私ではありましたが、これがきっかけとなって、原左都子なりのブログライフのあり方を再考する機会を与えていただけたようにも思います。

 自己のオピニオンの公開を趣旨として私は既に1年半の期間に渡り本ブログを綴り続けている訳ですが、「原左都子エッセイ集」が今後どうあるべきか、はたまたその筆者である私は自分の分身とも言えるこの「エッセイ集」に如何なる生命を宿したいのか…、 皆様より前記事に怒涛のごとくコメントを頂戴し、それに返答させていただくことに集中したこの3日間の経験を通じて、この自らの問いに対する現時点での結論が少し見えてきたように思えます。


 私はこの「原左都子エッセイ集」を綴るに当たり、当初より“自分自身が感情移入できる”ということを一番のモットーとしております。そして一記事一記事に生命を宿らせることにより、ブログに「公開力」を持たせる事が可能となると考えております。
 そのためには、テーマの設定から関連資料の収集、そして記事の全体的バランスや文章の展開等の技法、加えて記事の内容の正確さや専門用語の監修作業等々が欠かせません。それら記事作成のすべての過程において自分自身が熱くなって感情移入できないと、記事に生命が宿らないと考え、おそらく皆様の予想をはるかに上回る集中力で一記事一記事を書き上げております。
 (その割には私の能力不足故に、愚作記事ばかり披露させていただき恐縮なのですが…

 時には実際に書き進めていくうちに当初趣旨としたテーマからどんどんずれていき、途中でテーマ自体を変更することもあります。 またある時には、全文を書き上げたもののどうしても満足感が得られず、結果として“没”にして削除することもあります。
 とにかく、結果として原左都子自身が“合格点”を出せない記事は基本的には公開しない方針を貫いております。

 これにより、私は(あくまでも自己満足の世界ではありますが)大いなる達成感を得ております。自己評価による記事に対する点数が高い程、当然ながらその達成感は大きくなります。
 ですので記事を書き上げた後の私はいつも、大なり小なりその達成感がもたらしてくれる満足感に浸れます。これは、ブログを開始して以来、私(この場合の私とは生身の私本人でありますが)が日々を生きていく上での大きな糧となっています。


 今回の某ブログコミュニティのリニューアルへの混乱から派生して、私は本来のブロガーとしての初心に戻る事ができたように思います。
 このブログの一記事一記事を綴り終えた後の達成感そして満足感が味わいたいがために、私は「原左都子エッセイ集」を綴り続けている訳でありまして、それが記事に生命力を与える源となっていることを再認識させていただくことができました。
 この達成感そして満足感を味わう感性や能力を失わない限り、私は原左都子として「原左都子エッセイ集」を今後も綴り続けることでしょう。


P.S.  ブログ記事の公開性の使命は常に心得ておりますので、前回の記事「ネット友達は成立し得るか?」へのコメントも引き続き何なりとお寄せ下さいますように。必ず返答申し上げます。
       
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ネット友達は成立し得るか?

2009年02月15日 | 人間関係
 私は本ブログ「原左都子エッセイ集」を、某ブロガーコミュニティに登録させていただいている。

 先週、39度の発熱で“鬼の霍乱”をしている間に、このブロガーコミュニティが“リニューアル”されシステムが大幅に変更されていて、私は現在大いに戸惑っている最中である。

 その戸惑いの第一点は、「読者登録制度」が廃止されたことである。
 この制度のお陰で、大変ありがたいことに、私の拙いブログに対して現在までに400名を超えるコミュニティ会員の方々から読者登録をいただいていた。そして毎記事毎記事にご訪問いただき、ご覧の通りの内容の濃いコメントを下さる会員の方も少なくない人数であった。
 加えて、それら読者の皆様より心温まるブログの紹介文も沢山頂戴していた。私はこのブログ紹介文に大いに励まされ、ブログを綴る原動力ともなるほどのエネルギーを与えていただいていた。 今回の“リニューアル”により、この紹介文がブロガー本人や読者の方々への承諾もないまま、すべて跡形も無く消し去られているのだ。この措置には驚かされると同時に大いに遺憾な事態である。
 ブログあってのコミュニティであるはずなのに、肝心要のブログに対する「読者登録制度」を廃止したり、ブログ紹介文を断りも無く削除するとは、一体全体如何なる趣旨の“リニューアル”であるのか。


 上記のごとく「読者登録制度」を廃止して、このブログコミュニティが今後何を目指すのかというと、それは“友達作り”なのである。
 今回の最大の“リニューアル”ポイントは、「友達申請制度」を導入したことにあるようだ。
 そしてこの私も既に多くの会員の方々より“友達申請”を頂戴し、私はさらに頭を痛めている。この“友達申請”に対し、Yes か No かの回答を強要するシステムとなっているためである。 そしてYes回答を出して双方が友達の“契り”を交わさないと友達関係がシステム上反映されず、他会員に関する何らの情報も届かないシステムとなったようだ。要するに、この「友達申請制度」を利用したくない会員は形骸会員と化し、事実上コミュニティから“村八分”扱いとなるようである。(申請を頂戴している皆様には大変申し訳ございませんが、現在そのすべてを保留状態とさせていただき未だ返答を申し上げておりません。何卒ご容赦下さると共に、是非直接ブログ本体をお訪ね下さいますように。)
 このように、私のこのコミュニティにおける目指すべき方向と、コミュニティ側の趣旨との間に大きなギャップが生じてしまった現状である。


 さて、そもそもネット上で友達関係が成立するのかどうかについて考察してみよう。 私の場合、ネット上の人との付き合いとはこのブログを通じてのみなのであるが、この経験に基づいて私論を述べさせていただくことにする。

 人間という全人格の中の“一部分”において、それは成立し得るかもしれない。それが証拠に、この私もブログに頂戴する有意義なコメントを通じてコメンテイターの方と議論をさせていただくことにより、その人物像の一部に触れさせていただける思いがする。お会いした事はないけれど、何らかの“繋がり”を感じさせていただくことができる。それは、私の生活の一部分として活力を与えてくれていることも確かである。
 こういった関係が短期間で消え去る場合が多いのがネットというバーチャル世界の特徴であろう。そんな中、私の場合はこの関係が長続きする方々も多く、そこには“友達関係”が成立していると考えてよいのかと思う。

 要するに、たとえネット上とは言え、“友達関係”とはある程度の時間的持続を要するのではなかろうか。すなわち、最初から「あなたとはお友達ね」とか、いきなり「友達になって下さい」という制度にはやはり無理が大きく、違和感を抱かざるを得ない。
 友達とは、仲良しの契りを交わして相手に友達でいることを強要するものではなく、2人でよい関係を創り上げていった結果として、“友達関係”が自然と出来上がってくるものではなかろうか。
 

 それにしても、やっぱり私はバーチャルよりも、肉体も伴っていて五感で相手を感じて受け入れることのできる“生身”の人間との関係の方が好きだなあ。  
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くたばっています…

2009年02月11日 | お知らせ
          本ブログの筆者 原左都子 は



          発熱のためダウンし


          現在、休養中です。





          回復し次第、ブログを再開致しますので、


          今しばらく、お待ち下さいますように。




          皆様もお風邪など召されませんよう


          お気をつけて。



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超ミニの群像

2009年02月08日 | 人間関係
(写真は昨年の秋頃の私。いつも代わり映えのしない“足出し”スタイルでスミマセン…)


 私も昔からミニスカートが大好きな人間である。

 ギスギスに痩せたミニスカートの元祖スーパーモデル“ツイッギー”が世界を一斉風靡した頃から、私もミニスカートに慣れ親しみ、既にウン十年の年月が流れている。参考のため、ツイッギー氏は現在59歳でご健在のようだ。

 私の年齢になると、日頃出歩いている街中を超ミニで公衆の面前を闊歩するのはさすがに気が引ける。そこで私が普段愛用するのは、膝上数センチ程度の控えめな丈のミニスカートに限定される。

 そんな私も海外旅行などに出かけると、周囲の迷惑を顧みず、今尚上記写真位の超ミニ姿を披露させていただいたりする。
 先だってのインド旅行における美術賞の受賞式典にも、超ミニのドレスで出席させていただいた。ホテルを出発前に、受賞当事者である女性の美術家先生が、同行者である私のその超ミニ姿を見るなり、「本気なの???」と唖然とされたものである。(美術家先生、その節はお騒がせ致しました。何事も無く式典が終了し何よりでした。


 話が大きく変わるが、先だって2月6日(金)の朝日新聞夕刊に「雪道新潟 超ミニの謎」と題する、女子高校生の制服の超ミニ現象について取り上げた記事があった。 この記事には真冬の雪道を歩く超ミニ制服の女子高生の後姿の写真が添付されているのだが、そのあわらに露出された生身の太股を見るだけで、寒そうなのと、大変失礼ながら一種の“不快感”で震え上がった私である。

 では、さっそく朝日新聞記事を以下に要約してみよう。
 現在、女子高校生の制服のスカート丈が全国一短いのは“新潟県”であるらしい。女子高生の多くが今も太股をあらわに歩くのを見かね、新潟県内の全高校は、今月一斉に生徒指導に乗り出したと言う。
 ある新潟の女子高生は、男性からのちらちら視線は平気なのだが、同性の視線は気になると話す。そして、「スカート丈が長い女子もいるけど、そういう子は別グループ。一緒に行動するのは短い子」とのことだ。
 “短い”のが定説だった東京でも00年頃から、私立を中心にスカート丈が少しずつ伸びている。学校毎に制服文化が生まれ、多様化が進んでいるのだという。「今の子は、近くの友達におしゃれに見えるかどうかが重要になっている」ということだそうだ。
 「スカート丈が短いのは高校の時だけ」と見る大学教授もいる。「人間には『役割獲得』の心理があり、母親になれば母親らしく見られたいと、それらしい服装にぱっと切り替えるんです。」
 以下は略すが、以上が朝日新聞記事の要約である。


 では、私論に入ろう。

 個人が自由感覚としてのお洒落志向でミニスカートを楽しむのと、女子高校生が集団内で制服のスカートを短くするのとは、まったく異質の意思や感覚に基づく行動であると私は捉える。
 女子高生の制服の超ミニ志向を支配しているのは、集団従属心理に基盤を置く“同調心理”であると私は考察する。 彼女達は自分には似合ってもいないことを重々承知の上での“太股露出”行動なのであろう。その行動で、自分が存在し得る「共同体」創りを精一杯することにより、そこで安穏としたい一種の“生き残り”心理のせめてもの表現なのだと推測する。
 もし私の考察が正しいならば、彼女達のその健気な“生き残り心理”の表現の仕方が幼稚過ぎるがばかりに、自らの“太股”を曝け出さざるを得ない哀れさも漂うようにも思えてくる。
 そんな思春期の壊れやすい少女の心を周囲の大人は“生徒指導”という規律により頭から潰そうとするのではなく、対話により救う手立てを考慮するべきではなかろうか。


 それにしても、今回取り上げた朝日新聞の記事内で「スカート丈が短いのは高校の間だけ」との私見を述べている大学教授の先生、それはあなたの貧弱な人生経験に基づくご自身の勝手な都合や好みで女性を捉えているだけの話ですよ。
 えっ?? 女性とは母親になったら母親らしく見られたい生き物だから、それらしい服装にぱっと切り替える、ですって???

 一体、どこの誰が??? 

 そんな女性、私の周囲には今時皆無ですけどね。
 あなたの周囲にはそういう女性しか存在しないのかもしれませんが、世間一般においては今時そういう女性は少数派ではないですか? そのような一種男尊女卑の思想に基づくコメントを、全国紙である朝日新聞がこれみよがしに取り上げたセンスも疑いますけどね。
 あなた方のように、自分の個人趣味的な女性に対する嗜好を女性に強要しようとする男性が社会において今尚大きな顔をしてるから、今時の女子高生が超ミニ現象に歪んで走ってしまうのではないですか?

 とんでもない話です。 私は個人の自由意思で80歳になってもハイヒールで超ミニを着るつもりでいますよ。 それには日々の体型維持の努力が欠かせないと常々思っています。
 見ようが見まいが、あなた方の勝手なのですけどね……  
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滞った家賃収入

2009年02月06日 | お金
 税務署の確定申告期間が近づいている。
 この私も不動産賃貸収入の所得税の申告を控え、毎年この時期は何となく憂鬱な季節である。

 そろそろ確定申告書の作成に着手しなければと思っていた矢先、当該不動産物件の今月の家賃収入が滞っているのを発見した。
 賃貸料が振り込まれる銀行口座の残高を2月4日に確認したところ、先月末までに入金されているべき賃貸料の記録がないのだ。

 現在入居中の賃借人は、昨年9月に入居した。某企業の“契約社員”として採用されたばかりの独身女性で、転職と共に我が所有不動産物件に転居して来たのだ。
 入居の際の賃貸借契約時に、賃借人が“契約社員”であるとの個人情報は把握していたのだが、勤務先は一応大手企業であるし、保証人も付けているし、まずはトラブルはないであろうと予測していた。


 嫌な予感が私の脳裏をよぎった。

 昨年来の世界の経済不況のあおりで、まさに今現在この日本でも大手企業も含めた民間企業において、“派遣社員”や“契約社員”等正規採用社員以外の労働者の首が大量に切り捨てられている現状である。
 もしかしたら、我が不動産物件の賃借人も、今回の不況のあおりで解雇処分を余儀なくされているのかもしれない。その可能性は大いにある得ると私は推測した。

 こうなると、私のような零細不動産賃貸人にとっては大打撃である。
 昨年9月に入居、そして私の推測どおり職場解雇によりもしも今年1月で退室の申し出となると、賃貸期間はわずか5ヶ月…。こんなに短期間で出入りされたのでは、退入室に伴って発生する費用負担ばかりが賃貸人である私に大きくのしかかってくる。 もちろん賃借人が負うべき費用負担部分もある。だが、現在は不動産賃貸借契約において、賃借人保護の観点から賃貸人の法的立場が相対的に弱くなっていて、賃借人に入居中の大きな瑕疵でもない限り費用負担の大部分は賃貸人が負うこととなるのだ。


 今年の確定申告に備えて、既に私は昨年度の不動産賃貸に伴う所得金額をざっと計算してあるのだが、「基礎控除金額」を控除すると結局納税額は「0」となる。これが何を意味するのかと言うと、私が自己所有不動産を賃貸した結果、儲かった収入額は「基礎控除額金額」(38万円)以下であるということだ。
 昨年も賃借人がわずか9ヶ月の入居で退室し、退入室に伴う室内クリーニング代やリフォーム費用、次の賃借人募集のための“入居促進費”等がかさんだためである。
 「骨折り損のくたびれ儲け」とはまさにこのことである。

 不動産賃貸には“全面借受け”という制度があることを私は重々承知している。この制度を利用すると、賃貸借に伴うすべての手続きを賃貸借仲介会社に一任して賃貸人は安定収入を得る事ができる。ところがこの制度を利用する場合、当然ながら賃料査定は低く抑えられ、退入室費用もボラれる(言い過ぎでしたら申し訳ありません)危険性もあると推測するため、私は利用する気はない。今後共、必ずすべての契約にオーナーである私自らがかかわり、自分の判断を最優先したいと考えている。


 昨日(2月5日)、再び不動産賃貸の銀行口座の残高を確認したら、遅ればせながら賃借人から2月分の賃貸料が振り込まれていた。 賃借人にはまだ引き続き入居の意思はあるものとみなして一応安堵した私である。
 今回は、賃貸料納入遅延を責めることは踏みとどまろうと私は考えた。
 だが、やはり不安感は拭い去れない。この賃借人は、自分の住処を確保するべくやっとこさの思いで2月分の賃借料を工面したのかもしれない。
 来月になれば、ある程度の方向性が明るみになるのであろう。


 それにしても今回の賃借人による家賃滞納によって、この私も現在の深刻な世界経済不況の一端を垣間見た思いである。  
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「同じ」であることの認識

2009年02月03日 | 学問・研究
 朝日新聞の連載ものの中に、有識者が学校を訪れて授業を行うシリーズがあるのだが、その1月31日(土)の記事の中で、解剖学者の養老孟司氏による熊本県立高校での授業の様子が掲載されていた。
 
 「同じ・違う どこでキャッチ」と題するこの養老氏による授業の記事が何とも興味深いのである。私もこの授業に高校生と一緒に出席してみたかった思いをそそられる。


 さっそく、この授業の様子をレポートした朝日新聞記事を、以下に要約してみよう。

 「君たち、僕の話を聞いているうちに居眠りし始めるだろう。で、ハッと起きたとき、どうして寝る前と同じ自分だってわかるのかな?」
 「意識には『同じ』と認識する働きがある。」だから目覚めても「寝る前と同じ私」と思う。また、色や形が違うものを「同じ種類の果物」として(例えば)「リンゴ」という言葉でくくれたり、モノの価値をお金という尺度で表して等価交換できるのも、この働きのおかげだ。
 一方、個々のリンゴの違いに気付くのは感覚の働きによる。人間はその違いに気付いた上で、「同じリンゴ」と概念化してくくることができる。
 身を乗り出して養老氏の授業を聞いていた男子生徒が、「民話『わらしべ長者』は、わら1本から次々と物々交換して大金持ちになる話ですが、あの交換は人々の意識の中で等価交換じゃないのでは。」と質問した。
 それに答える養老氏。「交換は等価でこそ成り立つという意識があるから、あの話は面白いんだ。」
 「意識には秩序を好み、行き当たりばったりを嫌う、という性質もある。例えば環境問題においても、「部屋の温度を一定に」という秩序を実現するために空調に頼り、ひいては石油の消費が供給を上回り、究極のオイルショックが訪れる。どうするか。「考えるのは君たち」「石油に任せている仕事を人間が取り戻すこと」と養老氏はアドバイスする。
 「要は意識に支配され過ぎないこと」との、この授業における養老氏の提案である。

 養老氏の授業内容も興味深いのだが、あっぱれなのは、この授業の前半部分で『わらしべ長者』の民話を持ち出して“等価交換”について質問した男子高校生である。 解剖学の権威であり、思想、執筆界における日本の第一人者を相手に、この男子生徒は十分に対等に渡り合えていると私は見た。
 今の混沌とした時代にこんなすばらしい高校生が育っていることに、私は勇気を与えられた思いである。


 ここでちょっと休憩して、「わらしべ長者」の話を少しだけ紹介してみることにしよう。
 
 ある一人の貧乏人の男が旅に出た。その貧乏人の男は石につまずき転んで偶然1本のわらしべ(ワラ)をつかんだ。そのわらしべの先にアブが止まったのを男はわらしべの先に結びつけた。
 男が歩いていると、アブを結びつけたわらしべを男の子が欲しがり、男の子の母の「ミカンと交換しましょう」という申し出の交換条件に男は従った。
 さらに歩くと、今度はその「ミカン」を欲しがる喉が渇いている男に出くわし、男の所有する「布」と交換した。
 次は、倒れた馬を見捨てようとする侍と出会う。貧乏人の男は、その「倒れた馬」と自分が持っている「布」との交換を申し出て、先を急いでいる侍の家来はそれに従う。男は川から水をくんできて馬に飲ませたら馬は回復した。
 その馬と共にさらに進むと、大きな屋敷があった。中から主人が出てきて、旅に出たいのでその馬が欲しいと言う。主人は3年間帰って来なかったらこの屋敷は男のものだと言い残し、馬に乗って旅に出た。
 男はその屋敷で裕福に暮らしたとさ。

 なるほどねえ。 養老氏のおっしゃる通り「わらしべ長者」物語では確かに“等価交換”が成り立っている。
 現実社会においては、この貧乏人の男のような奇跡的とも言える“等価交換”が連続し続けるほどの幸運と巡り合えることはまず皆無であろう。

 それはそうとして、この男子高校生のとっさの質問は、日本に名立たる有識者をも唸らせたことには間違いない。

 今回の私の記事では、養老氏による授業の前半部分に絞り込んで取り上げてきた。
 それにしても「同じ」であることを認識できる人間の意識の働きとは、生命を保つ上で欠かせない機能である。
 「わらしべ長者」のような幸運な“等価交換”が続くことは今の時代期待できそうもないが、昨日も今日も明日も私が「私」として存在できる認識力が、「私」というひとつの生命体の内部に備わっていることに感謝したいものである。

 人体とは、もしかしたら遠い昔に神と“等価交換”した生命体であるとも言えるほどすばらしく普遍な存在ではなかろうか。
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死語化した“エチケット”

2009年02月01日 | その他オピニオン
 近頃、「エチケット」という言葉を耳にしなくなった。

 「エチケット」とは、“礼儀”“作法”等の意味合いがあるのだが、社会という人間の共同体の中で人々が共に生活する上で、自分の行動が他者に及ぼす不快感をできる限り軽減するための人としての心得の重要な一概念である。
 
 例えば電車に乗ると、公然と化粧をする女性に当たり前に出くわす時代と化している。公道を歩くと、老若男女にかかわらず2、3人が並列で話に夢中になりつつ歩き、後ろの通行人の歩行を妨害していることにまるで気付かない。 悲しいかな、こういった光景を日常的に皆さんもご経験されていることであろう。
 自分の周囲の小社会に対して別段大した悪影響はないと判断しての行動なのか、あるいは、自分が社会的共同体の一存在であることにすら思いを馳すことのできない人種が増殖しているのか私には判断が付きにくいのであるが、とにかく心寂しい時代と化している様子だ……


 話は変わるが、インフルエンザが例年通り流行する季節に突入している。東京都も先だっての1月29日に“インフルエンザ警報”を発令した模様である。その警報によると、今年のインフルエンザは05年以来4季ぶりとなるほど猛威を振るうそうだ。 皆さんも、どうかくれぐれも予防に留意されますように。

 そのようなインフルエンザの流行とも関連するのだが、先だっての朝日新聞日曜版別刷の記事(1月25日)で“咳エチケット”と題する、私に言わせてもらえば一種“奇妙”な記事を発見した。

 この記事によると、今の時代は公共の面前で“咳”をする時に口を覆わない人が一般化しているとのことだ。
 そこで誕生したのが「咳エチケット」なる新語らしい。
 この「咳エチケット」の内容をかいつまむと、まず、咳やくしゃみをしている人はマスクをつけましょう、マスクが無い時には袖口やティッシュペーパー等で鼻や口を覆いましょう、等々……。 こういう「エチケット」を、いい大人に対してマニュアル化して指導しなければならない時代に現在は突入しているという話である。


 今は朝夕の満員電車に乗らなくなり、“咳”の洪水の被害を受けなくなって久しい私ではあるが、この記事を読んで、まったく別の場面で私にも似たような経験があることを思い出した。

 私は比較的最近、資格取得のために某資格取得受験専門学校に何年が通ったのだが、その学校の自習室において、自習生による上記のような“非常識”に遭遇し難儀した経験がある。
 大勢の資格取得を目指す受験生が勉学に集中して静まり返る自習室で、どういう訳か大声での“くしゃみ”や“咳”や“ため息”や、中には“独り言”を言い始める人物がいつも必ずと言っていいほど出現するのである。
 これには私もほとほと参った。その資格受験学校が扱っているのは一応国家資格としては名立たるものであり、それらに合格した人物はある程度の社会的地位が得られそうな立場にあるといった類の資格である。 そういう類の資格合格を目指すべく人物達が何故にこれ程周囲に対する“エチケット”の感覚がないのかと、私はいつも呆れイラついたものである。 「あなた、退室して外でくしゃみしなさいよ!!」と怒鳴りたい思いが喉まで出かかったことを何度も経験している。(単に変人扱いされるだけと自分を客観視し、結局は踏みとどまりましたけどね…。)


 この朝日新聞記事によると、インフルエンザにおける「咳エチケット」は単なる道徳や礼儀に留まらず、欧米においては社会を守るための最低限の規則と捉えられている、とのことである。

 「エチケット」という言葉と普段ほとんど縁のない方がもしもこの記事をお読み下さったならば、一社会人の常識として、少なくともご自身の病気や奇癖を周囲に撒き散らさないようにしなければ、程度の心得を共有しましょうかね。
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