原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

続 ブログ私観

2007年11月29日 | 自己実現
 本ブログ「原左都子エッセイ集」を開設して2ヶ月半が経過した。「たかがブログ、されどブログ…」の書き出しで始めたこのブログであるが、2ヶ月半が経過した今、ブログの存在使命とはいったい何なのか、再び問い直す必要性に私は直面している。

 前回9月中旬頃、開設後一週間の時点で「ブログ私観」と題して当時の私が考えるブログの存在使命について述べた。少し振り返ってあの頃の私観をまとめてみよう。ブログのひとつの使命は情報の“公開性”にあると私は考えるが、公開されているブログを拝見すると、全体的に概して“内向的”でありややもすると“閉鎖的”な印象すら受ける。せっかくのブログの“公開性”を活かすためには、その内容に“外に向かって発信する力”が欲しいように感じる。ブログの魅力は自由度の高さでもあるため、その自由度はもちろん尊重しつつ加えてこの“外に向かって発信する力”が備われば公開力のあるブログとなると考える。それとも、そんなつもりは元々なくて、仲間内で楽しむ目的で公開しているブロガーが多いのであろうか。
 以上が、当時のブログ私観であった。

 さて、ここで私自身のブログ開設の目的を述べると、ブログの表題にも掲げている通りその趣旨は“自己のオピニオンの公開”にある。ここ十年来、新聞雑誌等への投書投稿、各種機関等への意見書提出活動をライフワークとしており、自己のオピニオンを相当数書き溜めている。これをエッセイ集として出版化することを目論んだのであるが、それに先立ち、とりあえずブログの形で綴ってネットで公開してみようと考えたのが本ブログ「原左都子エッセイ集」開設のきっかけであった。

 そしてエッセイを綴り続けて2ヶ月半が経過した現在、私がブログの使命だと考えるこの“公開性”がどうも疑わしく感じる今日この頃なのである。
 その理由の第一点はブロガー人口の急増である。私が無料で利用させていただいているこのgooだけでも総ブロガー数は90万人を超過している。概算ではあるが、おそらく今や国民の10人に一人はブロガーであるかと思われる。これだけの膨大な数のブロガーが毎日毎日記事を公開いている中、自ずと“公開力”は弱まる。そんな事は重々承知の上だから、聡明な皆さんは“公開力”などには頼らず、仲間内で楽しむことを目的としているのかと妙に納得さえするのである。
 “公開力”が疑わしい第二点は、ブログとは“通り過ぎていくもの”である印象が強いためである。(このフレーズはkuisinさんのブログから拝借しました。kuisinさん、無断転用をお許し下さい。)ブログ開設前は、記事は“蓄積”されるものだと私は考えていた。ところが、日々更新のブログの世界では記事は“蓄積”されるのではなく、“通り過ぎていって”しまうのだ。しかもそのスピードが速過ぎて私は取り残されてしまいそうな焦り感すらある。記事の賞味期限はわずか一日しかないのであろうか。ブログを綴ることが“はかなく”“寂しく”すら感じてしまう程だ。記事の“蓄積性”を追求するためには、ブログではなくやはり出版化を選択するべきなのか。

 それでも、こんな“はかなさ”“寂しさ”を抱きつつも、とりあえず私はブログを綴り続けるであろう。こんなつたないブログにアクセスして下さり、コメントをいただける読者の方々に支えられつつ…。
 たかがブログ、されどブログである。
  

(時々、バックナンバーにひょっこりコメントを頂戴します。記事がまだ生命を持っていることに気付かせて下さり、ブロガー冥利に尽きます。ありがとうございます。)
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ジゼル

2007年11月27日 | 芸術
 先週の日曜日、五反田ゆうぽうとホールにて小林紀子バレエシアター第88回公演「ソワレ・ミュージカル」「ジゼル全2幕」を観た。

 バレエ古典名作ものはもうほとんど何回も観ているのだが、この「ジゼル」だけは今まで縁がなく今回初めての観賞であった。 小林紀子バレエシアターは、前回の第87回の3部作公演「コンチェルト」「ザ・レイクス・プログレス」「エリート・シンコペーションズ」がまれに見る傑作であり、英国紙“ファイナンシャル・タイムズ”に大きく取り上げられる程の大好評だったことは当ブログのバックナンバー「バレエを観に行こう!」でも既に述べた。今回の「ジゼル」への期待も大きく、娘と二人で大変楽しみに出かけた。

 バレエ古典名作ものは大抵そのストーリーは単純で、失礼な言い方をすると子どもにも分りやすい。そんな中で、この「ジゼル」は珍しく(?)大人志向であり、そのストーリーは愛と裏切り、怨念そして許し、永遠の愛を描いている。そういう理由もあるためか、今回の観客は若いカップルが多かったようだ。
 小林紀子バレエシアタープリンシパルの島添亮子さんは、決して長身ではなくきゃしゃで繊細な雰囲気なのだが、いつ拝見してもその存在感は揺るぎないものがある。今回も主役ジゼルとして女の可愛らしさ、情念、せつなさを見事に表現されていた。

 この「ジゼル」は1841年にパリのオペラ座で初演されたらしい。近代バレエの最初の大ヒット作が「ラ・シルフィード」であり、「ジゼル」は2匹目のどじょうを狙って制作されたそうだ。そのため「ジゼル」は「ラ・シルフィード」の影響を大きく受けているらしいが、なるほど、第2幕などは「ラ・シルフィード」の場面を彷彿とさせた。第一幕は舞台装置や登場人物、衣裳等が私は「コッペリア」と似ていると感じたのだが、「コッペリア」の方が後で初演されたようだ。そうだったのか「ジゼル」のほうが古かったのか、知らなかった。

 バレエは総合芸術であり、踊り、音楽、衣裳、舞台装置等、一度に様々な分野の芸術が楽しめるのが特徴だ。それに加えて、バレエは人間の体の美しさも堪能できるのがもうひとつの特徴であると私は思う。バレエの振り付けはこの体の美しさを極限まで表現している。人間の体こそすばらしい芸術であることを教えてくれる。特に、今回のアルブレヒト役のゲストプリンシパル、ロバート・テューズリーさんのナイスボディには見惚れてしまったなあ。

 さて、今度は12月の「くるみ割り人形」だ。毎年恒例で観ているためこれを観ないと1年が終わらない。今年は未だ予約していないが、どこのバレエ団の公演を観ようか。今からとても楽しみである。
  

エロコメント再考

2007年11月26日 | その他オピニオン
 高齢の私が綴る色気とは無縁のこんな“気難しい”ブログにまでどういう訳かエロコメントをいただくことについては、10月にも「エロコメントを送って下さる方へ」の記事で既述した。
 エロコメントのほとんどが読解不能か読解困難なため主張論点が読み取りにくいこと、せっかくコメントをいただけるのであれば読解可能なものを、そしてたとえエロの世界であれ文化の香りのする格調高い内容のコメントをお願いしたいという趣旨の私見を、上記記事の中で述べさせていただいた。

 その後見聞したところによると、どうもエロコメントは「言葉」に反応して送信されてくることが多いようである。
 確かに、例えば私のブログの場合、エロコメントが過去最多の記事は「横並び教育の所産」である。これはタイトルの通り教育問題を取り上げたもので、至って正統派で硬派の内容の記事である。なぜこの記事にエロコメントが多いのか私はとても不思議に感じていたのだが、“横並び”という言葉に反応しているということが判明し、私なりに“なるほど”と納得したのである。

 さて今回は、この読解不能あるいは読解困難なエロコメントを持ち前の洞察力で解読した上で分析したところいくつかのカテゴリーに分類できたので、そのカテゴリーについて述べてみよう。

  ○自己陶酔型
  ○嫌がらせ、中傷型
  ○ビジネス型
    ・サービス提供型
    ・求人型
  ○混合型

      エロコメントは、大きく以上のカテゴリーに分類できそうである。

 上記のうち、「自己陶酔型」は勝手に堪能していただくとして無視しよう。
 「ビジネス型」について解説すると、「サービス提供型」とは例えば私の場合女性であるので男性をエロ目的で派遣する、等の内容である。「求人型」はその逆でその仕事への勧誘である。このカテゴリーは社会秩序上、公序良俗上問題が大きく、法に触れていないか否かが問われるべきである。が、コメントを送って来られる立場としては即時削除をすれば済むため、さしあたっての問題はないとも言える。
 一番厄介なのが「嫌がらせ、中傷型」である。何に対する嫌がらせ、中傷であるのかが捉えにくい。記事の内容に対するものであれば、どうかくれぐれもそういった手段での圧力、暴力は控えていただきたい。議論という方法で正々堂々と立ち向かってきて欲しいものである。私個人に対する嫌がらせ、中傷であるならば、その旨正当な手段でお伝え願いたい。
 「混合型」も同様である。

 いずれにせよ、エロコメントを送信される方は、何らかの心理的背景を抱えていることと察する。
 今回は送信側の心理的考察については記述を控えるが、どうかエロコメントを発信される皆さん、送信ボタンをクリックする前に今一度思いとどまっていただく事に期待申し上げたい。
  
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美味しい酒を楽しむために

2007年11月24日 | 
 小さい声で言うが、私は飲兵衛である。
 元々酒には相当強い体質であるようだが、ありがたいことに加齢と共に急激に酒に弱くなっていることについては既述の通りである。(当ブログ9月の「飲兵衛はつらい?!」をご参照下さい。)

 酒とは皆さんも既によくご存知の通り、いくら好きでもめくらめっぽう浴びるほど飲んでよいというものではない。そんな事を続けていたら直ぐに健康を害してしまう。やはり、酒とは自分なりの理念を持って飲むべきものである。

 酒には効用がある。その効用は人それぞれ異なるであろうが、私にとっての酒の効用は頭を休めることにある。どうも、私の頭はいつもいつも働き過ぎているようだ。“働き過ぎている”などと言うと語弊があるので言い直すと、雑念がすこぶる多いということだ。この雑念、時には役に立つのだが、頭が休まらないのだ。私にとってはこの雑念を毎日振り払う手段と時間が必要なのだ。すなわち、私にとっての酒の効用はその日の自分の頭を“リセット”することにある。

 それでも、酒はやはり人々の健康にとって害になる。酒を飲み続けたい人は自分の体を客観的に捉えることから始めなければならない。すなわち、自分のアルコール限度量を把握しておくべきなのだ。肝臓の弱い人の飲酒はもっての他だ。

 では、自分のアルコール限度量を知るためにはどうすればよいのか。実はこれはアルコールに弱い人の方がそれを知るのが簡単だ。これ以上飲んだら健康状態が怪しくなる量を把握すれば良いからだ。
 私自身も、自分を客観視できる余裕には程遠かった若かりし頃は、その時の気分に任せて飲んだくれる事が多かった。 ところが、加齢と共に酒にめっぽう弱くなった今では、自分のアルコール限度量が把握できるのだ。その限度量を守ることが毎日飲み続けられる秘訣である。

 もうひとつの飲兵衛の秘訣は、飲むからには自分を信じて飲むことであると私は考える。アル中についての報道は数多い。まずは、自分がアル中であるかどうかの判断も肝心である。私自身のアル中の判断は、酒が自分の日常生活に差し支えているか否かである。自分はアル中ではないとの確信が持てるならば、酒害に怯えつつ飲むよりも、安心して酒に身を委ねて飲むことが飲兵衛の秘訣ではないかと私は常々考えている。

 どういう訳か、昨今を通して文化人には飲兵衛が多いことも事実である。
 そんなことで飲兵衛の自分を正当化するのは邪道であることは承知の上ではあるが、私はやっぱり、美味しいお酒を一生飲み続けることも今後のささやかなひとつの夢である。
 
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プラトンの「イデア論」

2007年11月23日 | 学問・研究
 今日は、プラトンから命名した娘の14回目のバースデー。
 素直に、着実にあなたらしく成長してくれてありがとう。
 14歳になったあなたに、母からブラトンの「イデア論」を贈ります。
  


 紀元前4世紀に古代ギリシャのアテナイにアカデメイアを創設した哲学者プラトンの関心は、一方の永遠普遍なものと他方の流れ去るものとの関係にあった。プラトンは自然界や社会の中で何が永遠普遍なのかに興味をよせた。プラトンは永遠で変わることのない「本当の世界」をとらえようとした。何が永遠に真理であり、善であり、美しいのかを示そうとした。
 プラトンは私たちが自然の中で触れたり感じたりできるものはすべて「流れ去る」と考えた。感覚世界に属するものはすべて時間に侵食されてしまう。だが、すべてのものは時間を超えた「型」に従って創られている。この「型」は永遠で普遍である。
 プラトンが永遠で普遍と考えたこの「型」は抽象的なひな型であり、それをもとにあらゆる現象が型どられるひな型である。プラトンは私たちの身の回りにあるあらゆるものの背景には限られた数の原型があるはずだ、との結論に達した。そしてこの原型をプラトンは「イデア」と名付けた。この考え方がプラトンの「イデア論」だ。
 感覚世界にあるものはすべて、つかの間のものでしかない。動物も植物も衰えていき、いつかは死ぬ。岩石だってゆっくりと朽ちていく。私たちは変化するものについての確かな知を入手することはできない。触れたり感じたりできる感覚世界のものに関して、私たちは曖昧なドクサ(意見)しか持てない。私たちがエピステーメー(確かな知)を持てるのは、理性でとられることができるものについてだけなのだ、とプラトンは考えた。理性は永遠で普遍であり、永遠で普遍にかかわることしか語らない。私たちが知覚するもの感覚するものに関して、私たちは曖昧な意見しか持てない。だが、理性で認識するものに関しては確かな知に達することができることをプラトンは示そうとした。(だから、「イデア」は日本語では「理性」と訳されたりもしている。)
 私たちは何かの陰を見たら、この陰の元にあるものがこの陰を投げていると考える。でも、確信はない。それで、私たちは振り向いてその陰の正体を確認する。その正体は陰よりもずっとクリアで輪郭もはっきりしている。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの陰だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその陰の中の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。(プラトンはこの話を「洞窟の比喩」として説明している。)


  参考文献 : ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」1995年
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