冒頭から、2008.07.10公開の表題バックナンバーを再掲載しよう。
2008.7月6日(日)朝日新聞朝刊のコラムで「忘れ去られる恐怖」と題する朝日新聞編集委員による記事を見つけた。
興味深いコラム記事であると同時に、本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」の内容にも通じるエッセイであるため、前回の続編の意味合いも兼ねて今回の記事で取り上げることにする。
それでは早速、上記コラム記事「忘れ去られる恐怖」を以下に要約しよう。
“死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の「月下の一群」に収められた画家マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」の一節が頭から離れない。 あの秋葉原の悲惨な事件の容疑者が、現実にもネット上でさえも孤独であったと述べている。 近年、この“忘れ去られる恐怖”が静かに広がりつつあるように感じる。携帯電話への過剰な寄りかかり、ネット上で過熱する自己主張…。
浅羽道明氏著「昭和三十年代主義」という本がある。昭和30年代が多くの人がノスタルジックに讃えるほど明るくて前向きでいい時代だとは思ってはいないが、なぜこの時代がブームになったのかと言うと、この時代は、不便だから仕方なく成立していた、人が誰かのために体を動かして働いていることが目に見える「協働体」のような関係の広がり、いわば、お互いの存在が“忘れられない”世界であったためという。
便利さや豊かさとは、そんな人の働きを機械や見知らぬ人々のサービスに置き換えていくことだった。そして、働く人々は効率化のため機械の一部品のように使い捨てられていく。誰のために、何の役に立つのかわからない働き…。(自分の存在が)忘れ去られたと思い込む人々が増える世間なんて、あまりろくなものでもない。
以上が、朝日新聞コラム記事「忘れ去られる恐怖」の要約である。
本エッセイ集前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」には多くの反響コメントをいただいた。 そのコメント欄で、奇しくも上記コラムと同様の議論を読者の方々と展開させていただいている。
昔、電話さえもなかった時代は、人と人とのかかわりのすべてが“生身”の人間同士のかかわりであった。科学技術の発展と共に文明の利器が次々と登場するにつれて、“生身”の人との間に距離感が生じてくる。今や、パソコン、携帯を経由したネット上での人とのかかわりが日常茶飯事に展開される時代と化している。この現象は人間関係の希薄化に追い討ちをかけ、希薄化を決定的なものとしている。そして、子どもまでもが人とのかかわりを携帯等を通じたネット社会に依存する時代となってしまった。
“出会い系”というサイトが存在する。なぜネットを通さなければ人と出会えないのか、私には理解し難い世界である。普段の普通の生活の中で生身の相手に出会い、かかわれば済むはずなのに…。もちろん、ネット社会には普段出会えるはずもない遠方の相手等とも瞬時にして出会える等のメリットもあることは認める。 だがその背景には、生身の人間同士のコミュニケーションの希薄化という病理が現代社会に蔓延りつつあることは否めない。それでも人間とは本能的に自分の存在を“忘れ去られ”たくない生き物なのだ。誰でもいいから手っ取り早く出会える相手をネット上で見つけてでも、自分の存在を認めて欲しいのであろう。
メール交換も同様だ。大した用件もないのにむやみやたらとメールを送り、相手に強迫観念を抱かせる程の返信を要求するのも“寂しさ”のなせる業、すなわちやはり“忘れ去られ”たくない心理を物語る行為である。
ネット上でさえも孤独であったと言う秋葉原事件の容疑者。だがそもそも、ネットというバーチャル世界で真の人間同士のコミュニケーションがとれていつまでも“忘れ去られない”関係が築けるのがどうか、それ自体が疑わしい。
加えて、どのような人間関係であれいつかは終焉が訪れるものでもある。自分の存在を“忘れ去られ”てしまう恐怖に怯えネット社会をさまようことよりも、忘れ去られる勇気を持って現実社会で人とかかわり人の温もりを感じていたいものである。
20 Comments
依存症 (カズ)2008-07-10 16:26:24
ネット依存症の人は忘れられる勇気を持たぬ人ということなのですね。タイムリーなテーマですね。
カズさん、大人のネット依存症の人は確かに… (原左都子)2008-07-10 16:48:48 今回のカズさんのコメントは私にとっては少し重いです。と言いますのが、私自身がネット依存症どころか、ネット世界をほとんど知らない立場にもかかわらず今回の記事を書いたためです。
少なくともまだ未熟な子どもがネット世界にどっぷり漬かってしまうことは懸念しますが、大人にとってはどうなのでしょうか。もちろん、大人の年齢や人それぞれのバックグラウンドにもよるのでしょうが…。
これも現代病? (凛)2008-07-10 18:23:04
20年前高校生でしたが今とは全然違いますよね
若い頃は携帯なんてなかったから、好きな人に電話するのにも親が出るかもしれない自宅の固定電話にかけるしかなかったし、メールは手紙だったし…
忘れ去られる恐怖って、やっぱり怖いけど
依存しすぎてる現実社会ももっと怖いな…
出会い系や異常なまでのメール交換は私も理解不能です
ネット依存か? (カズ)2008-07-10 18:39:24
秋葉事件の容疑者で注目されるネット掲示板の機能は、ネットを象徴するものと扱われるようですが、その全てとは言えないと考えます。また、仮想現実の世界と現実の世界とは無関係に存在するものとは言えない以上、ネット世界を理解するには現実世界と仮想現実との往復が必要であると思います。この容疑者に限らず、自分が無視されたと考えるかどうかの理由づけをネットにのみ見出すことには賛成しかねます。すいません、まとまりのないことを、また書いてしまって。
凛さん、共通点がありますね。 (原左都子)2008-07-10 19:12:24
私は凛さんよりずっと前の時代から生きていますが、昔はまさに凛さんがコメントに書いて下さったような世界でした。
電話は家族で共有でしたので、こちらからかけるにしてもあちらからかかってくるにしても、家族経由でしたね。そういう周囲の目が届いている事がフィルターになっていましたね。だからこそ、安心して人との関係が築けたようにも思います。
凛さんが出会い系サイトや過剰なメールに理解不能だということを聞かせていただいて、何だかとてもホッとしている私です。
カズさん、貴重な情報をありがとうございます。 (原左都子)2008-07-10 19:35:04
私自身はネット社会の経験が乏しいのですが、今回のカズさんのコメントを拝見して、やはりネット社会とかかわる人間次第でその世界はどんな風にも解釈、展開できるのだと感じることはできます。
推測のみで勝手で失礼なことを申し上げますが、おそらくカズさんはすっかり大人でいらっしゃるので、現実社会もネット社会もオールマイティに渡っていらっしゃるのだと感じます。
秋葉原の容疑者の場合、事情が大きく異なったのかもしれません。彼の身近に誰かひとりでも彼の存在を“忘れ去らずに”いることを伝えられたならば、結果は違ったのかもしれないですね。
出会いと別れが人生そのもの (こまねちちゃん)2008-07-10 21:38:51
原さん、こんばんは。
リアルな人付き合いには、たいてい別れが訪れますよね。
リアルな付き合いしか経験していない私のような人間には、匿名性の高いネットでの出会いと別れは、無責任で淡白なものに感じられます。
リアルでの学生時代からの友人とは、今でも親交を深めていますが、これは個人情報どころか、お互い生身の自分をさらけ出して付き合ってきた結果だと思っています。
仰るように、ネット上で無視されたり中傷されて犯罪を犯すようになる人たちは、現実世界における出会いと別れの経験に乏しく、友人から忘れられてもへこたれずに新たな出会いを探す勇気が無いのかもしれませんね。
大人でも中毒になりやすいネットですが、子供の頃はスキンシップが人格形成上大切ですから、ネットに長時間費やすのは問題です。
やはり、現実社会での人との出会いを大切にすることから、別れも含めて全ては始まるような気がします。
Unknown (環)2008-07-10 22:12:17
リアルとネット、私は、結局どちらもその人自身でしか存在できないのではないかと思っています。
リアルで人との関わりから逃げていると、ネット上は、逃げやすいという点ではとても住みやすいでしょう。反面、きちんと人と向き合える人には出会いの場が広がるというメリットもありますね。
ネットの存在そのものは、○でも×でもない気がします。
話が少しずれましたが……。
「忘れ去られる恐怖」は、自分も相手のことを都合よく忘れよう(逃げよう)としていることからくるのかも知れない、そんなことを考えます。
こまねちちゃん、生身の人間は暖かい… (原)2008-07-10 22:16:02
こまねちちゃん、ありがとうございます。
私もまったく同意見です。
私も今、こうやってネット上でブログを綴っていますが、できれば生身の人と会って語り合いたいのが本音です。今自分が置かれている立場上、独身時代のようには自由に羽ばたけませんのでこういう手段をとっていますが、ペンを置いて無性にリアルで語り合いたい思いによく駆られます。
相手が生身ですと、予想だにしないような事態にも直面します。突然ぶつかり合ったり喧嘩したり…。でも、そういう経験が人間を育てると私も思います。
その究極が“別れ”です。この“別れ”だって人間を大きく育ててくれます。とことんすったもんだして付き合った結果の別れは、必ず次のステップにつながります。
人間って本当に愛おしい存在ですよね。
若い世代の人達にこそ、そんな生身の人間とぶつかり合ってすったもんだして付き合って欲しいと思います。
上の返答コメントは原左都子が書きました。
わかってください (こまねちちゃん)2008-07-10 23:09:23
因幡晃さんのヒット曲です。
なぜか浮かんできました(^^)
では、また。
人に忘れられても (ドラ猫)2008-07-11 01:06:31
自分が忘れなければ、それで済む事だけなのですが。
環さん、自分自身での存在でありたいと思います。 (原左都子)2008-07-11 07:46:53
環さん、私どものブログによくお越し下さいました。コメントをありがとうございます。
環さんのコメントを拝見し思ったのですが、私はもしかしたら欲張りな人間かもしれません。
私の場合、ネットの利用はこのブログだけなのですが(メールは用件の連絡にしか使用していませんので)、ブログに核心に触れたコメントを頂きますと、その方に是非お会いしたくなります。ネットの世界を脱出して直接相対してお話(議論)させていただきたくなります。文字による意見交換のみではなく、その方の人となりを知りたくなります。現実的にはそうやすやすとお会いできませんので、ネット上でのお付き合いの範囲は超えられないのですが。
環さんのおっしゃる、リアルであれネットであれその人でしか存在できない、その通りなのだと感じます。
それでも、やはり私にとりましてはネットは少々物足りない世界です。文字だけではなく、生身の姿形のある“人”に相対したいです。
また、是非お立ち寄り下さいますように。
ドラ猫さん、子ども達には忘れていない事を伝えてあげたいです。 (原左都子)2008-07-11 07:57:55
私も既に年寄りですので、“忘れ去られる”ということ事態にはさほど敏感ではありません。
むしろ、年配者の果たす役割は、未成年者等のまだ未熟な存在の子ども達に“忘れていない”すなわち、その存在を認めていることを伝えることだと思います。
今の時代、大人自体がネット社会をさまよいその余裕を忘れてしまっているような懸念もあります。
Unknown (ろぷ)2008-07-11 12:37:53
なんていうか。
語るだけの自分の中身がないくせに、ただ単に「語りたい」と思う人間がとても多いような気がします。
自分のなかに主張したい確乎としたものをもっていないくせに、ただ単に主張するという行為のみをほしがっている。話題の事件の犯人を見ていると、僕はそんなふうに思えるんです。
そこに内容がなければ、どんな言語やツールで叫んでみても、だれの心も打たないし交流なんて起こりようがありません。そして、興味を抱かせる内容というのは、「コレを書いたらどう思うかな? じゃあこうしてみよう」という想像力から生まれるものなんですよね。
相手のことをきちんと想像できるひとは、まわりから忘れ去られるということはありません。それは会話ができるから。
ホント、よく言われることですが、
ここでも想像力の欠如が一因にありそうですね。
小学校から英語教育うんぬんいわれていますが、まず想像力をどうにか教えないと、こういう事件は続きそうですよね。
ろぷさん、それでも自分の思いを言葉にして語ることは大切です。 (原左都子)2008-07-11 13:19:44
ろぷさん、私どものブログによくお越し下さいました。初コメントありがとうございます。
ろぷさんの素直な気持ちをこのブログにぶつけて下さってうれしく思います。
確かに私も含めて語りたいことは沢山あるけれど、拙い言葉でしか伝えられない人達も多いかと思います。
それでも、人間は自分の思いを言葉にして人に伝えていく事はとても大切な事だと思います。
秋葉原事件の容疑者も誰かを相手にそういう行動が少しでもできたならば、このような残虐な犯罪を犯すには至らなかったのかもしれません。
確かにブログは公開性が使命ですので、ろぷさんがおっしゃるように、ブログを公開している皆さんは大なり小なり自己主張がしたくて開設しているのでしょうね。
私は皆さんが書かれているブログをよく訪問させていただくのですが、その趣旨や文章力にかかわりなく、訴える力のあるブログをしばしば発見し、感動を頂いております。
そして、記事にコメントを頂いてさらに意見交換(会話)をしていけるブログという世界を、私は肯定的に捉えて楽しんでおります。
記事本文で書きました様に、本当は姿形のある生身の相手の温もりを感じながら語り合うのがもっと好きなんですけどね。
ろぷさん、よろしければまたお越し下さいね。
コンテンツとイマージネーション (ガイア)2008-07-11 20:13:14
原さんのこのエッセイに多くの方がコメントを寄せられています。顔も見知らぬ方々同士ですが、そこにはコミュニケーションが成立していると考えます。
生身の人間同士のコミュニケーションが望ましいのですが、コミュニケーションを成立させる為に必要なのはそのコンテンツ、内容の濃さ、それにイマージネーションだと考えます。
遅ればせながら、私もコメントを投稿させていただきます。
朝日新聞コラムの「忘れ去られる恐怖」の要約を読みますと、この内容は、私が前回のコメントで指摘した「機能の外在化」と「共同体の崩壊」(コミュ二ティの崩壊)と重なる部分が多いのではないかと思います。ここでは「協働体」という言葉が使われていますが・・・。
さてコミュニケーションですが、これを成立させるには当然、情報の送り手と受け手が要ります。ネット上での真の人間同士コミュ二ケーションは築けるか否か、これに関しては様々な論議があろうかと思いますが、要はコンテンツとイマージネーションの問題であり、私は可能だと考えます。
生身の人間同士のコミュニケーションが望ましいでしょう。しかし、例えば、コミュニケーションを拡大解釈すれば、私たちは文学作品を通してその作家とコミュニケーションをする事が出来ます。残された偉大な芸術作品を通して過去の芸術家とコミュニケーションする事も出来ます。遺された遺物・遺構を通して死者とコミュニケーションをする事も出来ます。更には異文化を理解する事で、異なった文化を持つ人々とのコミュニケーションも可能であり、ここに異文化コミュニケーションが成立します。拡大解釈すれば、異種間コミュニケーションも可能でしょう。コミュニケーションに可能性と限界があるものの、それらの根源にあるものは、究極的には人間のイマージネーション、つまり想像力です。これが一番大切だと思うのです。人間の人間たる所以だと考えます。
私のコメントが原さんのこのエッセイへのコメントとして整合性があるか否か、一寸自信がありませんが思いつくままに記しました。
ガイアさん、コミュニティの出発点は家庭であり、親子の絆かと考えます。 (原左都子)2008-07-12 08:16:04
当ブログの最新の3記事が不思議と関連しています。
昭和30年代頃の話題が出て、ガイアさんからも既に数本のコメントをいただいております。
コミュニケーションにも多様性があるのでしょうね。ガイアさんがおっしゃるように、様々な対象と様々な手段によりコミュニケーションをとることが可能です。
一応本記事では人間同士のコミュニケーションについて、特にリアル世界とバーチャル世界でのその違いについて取り上げました。
これに範囲を絞りますと、記事に書きました通り、リアル世界のコミュニケーションこそ大切にしたいというのがあくまでも私見です。
この思いは私にとりましてはやはり根強いのです。私のネット経験はブログのみなのですが、これはこれで有意義です。ただ、これ以上の(あくまで自己の範囲内の)発展性は望めないのかという不安定感とでもいうべき観念が常に脳裏によぎっています。
ブログはひとつの趣味、書き続ける事が第一義である、と位置づけて割り切ればよいのでしょう…。
で、リアル世界でのコミュニティですが、その出発点は家庭であり、親子関係だと私は考えます。子どもは親から生を受け人として成長していく訳ですが、その過程で人としての存在を親から家族からどれ程認めてもらえるかが、その後の人間関係の鍵になると思います。
親の立場としては、子どもの存在を認めていくこと、そのような環境作りをしていくことが使命でしょう。その親自体が子どもの前で不安定な(あるいは安定を演じられず地で生きてしまう)存在であるのが今の時代の病理の根源かもしれません。
長くなるので、この辺にします。
(以上、本エッセイ集2008.07公開バックナンバーとコメント欄を再掲載したもの。)
2021.03時点の私見に入ろう。
上記バックナンバーを公開して後、13年程の年月が流れている。
本文中に、私は次の記載をしている。
「私も既に年寄りですので、“忘れ去られる”ということ事態にはさほど敏感ではありません。」
これを記した当時の私は、50代前半期だった。
娘がまだ中学生の頃だ。
現在に比すとまだまだリアルの人間関係が息づいていた時代だ。 腹心の友もいたし、50過ぎて着手した仕事関係や娘を通しての人付き合いも好む好まざるにかかわらず日々こなしていた。
その頃から私は、“忘れ去られる”という事態にさほど敏感では無かったのだと、今更ながら気づかされる。
あの頃から13年が経過した今となっては、まさに“忘れ去られてばかり”の我が人生… と言って過言でなかろう。😪
冒頭引用文中にある、「“死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の『月下の一群』に収められた画家マリー・ローランサンの詩『鎮静剤』の一節…」。
そのような感傷に浸れるハートを温存しておきたいものだと、多少の空虚感を持って思いつつ…
人間関係を切り捨て、また切り捨ててるのも、「終活」の一つなのだろうとの結論に至りそうだ。
(なんてキザぶってみたって、実は未だに“夢見る少女”のごとくのハートも我が心に健在しているなあ…)😍 😋