春風が花粉を運んでくる季節が訪れてしまった。この時期がつらい人は多いことと察するが、私もそのひとりである。病院へは家族の付き添い以外は行かない、薬は飲まない主義の私は5月の連休が終わる頃までくしゃみと鼻水と目の痒さとそれによる睡眠不足との戦いである。ティッシュの箱が下手をすると一日一箱なくなる。化粧は剥げるし、鼻の皮は剥けてヒリヒリするし散々な目にあう。
前書きはさておき、実はこの記事は花粉症とは何ら関係のない“遊び心”がテーマである。
本ブログの記事本文やコメントの返答の中で何箇所か“遊び心”について触れているのだが、私は一見真面目そうに見えて(???)その実“遊び心”の旺盛な人間なのである。わかりやすく表現すると“ちょい悪”であるかもしれない。若かりし頃からこの“遊び心”をとても大切に生きてきている人間なのだ。 春風が吹かずとも、年中遊び心満載である。
中学生の頃、既にこの“遊び心”があった。小さい頃から真面目人間のレッテルを貼られていた私であるが、第二次反抗期を過ぎた頃からこの“遊び心”が表出し始めていた。
例えば、授業中にちょっといたずらをしたくなる。今なら机の下で携帯でこっそりメール交換でもするのであろうが、当時は携帯はない替わりにこっそり手紙を回すという手段があった。これが大好きで率先して仲間に加わっていた。先生は私がそんなことに積極的に加担しているとは露も知らず、申し訳ないことに周りの友人ばかりが叱られていた。(ごめんなさい…)
ある時には、授業に遅れることを私から積極的に仲間にそそのかしたこともある。この時には当然ながら遅れた全員が廊下に立たされたのであるが、先生は真面目で通っている私が仲間にそそのかされたと勘違いし、私に同情してくれたものだ。(そうじゃなかったのよ、先生。私が主犯だったの。仲間のみんな、ほんとにごめんなさい。)
だが子どもが“遊び心”を発揮するのは心が開放されている証拠であると私は思うのだ。大学受験を目指して心が閉鎖的であった高校時代には“遊び心”が表出する機会は一切なく、ほとほとつまらない高校時代であった。
さて大人になってから、しかも一人暮らしを始めて何ら“足かせ”がなくなった後は“遊び心”のオンパレードである。(誤解のないように言っておくが、仕事、学業、大事な人間関係等々、自分の主たる生活要素をすべて完璧にこなした上での話ですよ。)
私はこの“遊び心”のお陰で長~い独身時代を心底堪能した。実に充実した独身時代であった。(当ブログの“酒”“雑記”カテゴリー等のバックナンバーをとくとご欄下さい。)
“遊び心”にも自己責任が伴うべきである。中学生の頃はまだ私も人間が未熟で、結果として“遊び心”の罪を仲間になすり付けることになってしまったようで申し訳なかったと思う。
自立した大人であるならば、自己管理力と周囲の信頼の下“遊び心”を発揮するべきである。自己管理力と信頼のバックグラウンドもなく“遊び心”を実行に移す人がいるならば、それは単なる“遊び人”あるいは“馬鹿”に過ぎない。
例えば、“不倫”を例にとってみよう。(突拍子もない例で不謹慎であるのは承知だが…) 不倫をするにも当然ながら自己責任の下行うべきである。マナーが必要だ。大手を振ってしてはいけない。後ろめたさを頭の片隅に忘れずに、隠れてこそこそとやるべき事柄である。最低限、周囲の人間を決して不幸にしてはいけない。これがこなせるキャパシティも配慮もなく安易に深みにはまる人は不倫をする資格はない。
花粉症で鼻水タラタラで不倫も色気もあったものではないが、暖かい春風の中、少し“遊び心”を楽しんでみましょうか。 ハックショ~ン!!
前書きはさておき、実はこの記事は花粉症とは何ら関係のない“遊び心”がテーマである。
本ブログの記事本文やコメントの返答の中で何箇所か“遊び心”について触れているのだが、私は一見真面目そうに見えて(???)その実“遊び心”の旺盛な人間なのである。わかりやすく表現すると“ちょい悪”であるかもしれない。若かりし頃からこの“遊び心”をとても大切に生きてきている人間なのだ。 春風が吹かずとも、年中遊び心満載である。
中学生の頃、既にこの“遊び心”があった。小さい頃から真面目人間のレッテルを貼られていた私であるが、第二次反抗期を過ぎた頃からこの“遊び心”が表出し始めていた。
例えば、授業中にちょっといたずらをしたくなる。今なら机の下で携帯でこっそりメール交換でもするのであろうが、当時は携帯はない替わりにこっそり手紙を回すという手段があった。これが大好きで率先して仲間に加わっていた。先生は私がそんなことに積極的に加担しているとは露も知らず、申し訳ないことに周りの友人ばかりが叱られていた。(ごめんなさい…)
ある時には、授業に遅れることを私から積極的に仲間にそそのかしたこともある。この時には当然ながら遅れた全員が廊下に立たされたのであるが、先生は真面目で通っている私が仲間にそそのかされたと勘違いし、私に同情してくれたものだ。(そうじゃなかったのよ、先生。私が主犯だったの。仲間のみんな、ほんとにごめんなさい。)
だが子どもが“遊び心”を発揮するのは心が開放されている証拠であると私は思うのだ。大学受験を目指して心が閉鎖的であった高校時代には“遊び心”が表出する機会は一切なく、ほとほとつまらない高校時代であった。
さて大人になってから、しかも一人暮らしを始めて何ら“足かせ”がなくなった後は“遊び心”のオンパレードである。(誤解のないように言っておくが、仕事、学業、大事な人間関係等々、自分の主たる生活要素をすべて完璧にこなした上での話ですよ。)
私はこの“遊び心”のお陰で長~い独身時代を心底堪能した。実に充実した独身時代であった。(当ブログの“酒”“雑記”カテゴリー等のバックナンバーをとくとご欄下さい。)
“遊び心”にも自己責任が伴うべきである。中学生の頃はまだ私も人間が未熟で、結果として“遊び心”の罪を仲間になすり付けることになってしまったようで申し訳なかったと思う。
自立した大人であるならば、自己管理力と周囲の信頼の下“遊び心”を発揮するべきである。自己管理力と信頼のバックグラウンドもなく“遊び心”を実行に移す人がいるならば、それは単なる“遊び人”あるいは“馬鹿”に過ぎない。
例えば、“不倫”を例にとってみよう。(突拍子もない例で不謹慎であるのは承知だが…) 不倫をするにも当然ながら自己責任の下行うべきである。マナーが必要だ。大手を振ってしてはいけない。後ろめたさを頭の片隅に忘れずに、隠れてこそこそとやるべき事柄である。最低限、周囲の人間を決して不幸にしてはいけない。これがこなせるキャパシティも配慮もなく安易に深みにはまる人は不倫をする資格はない。
花粉症で鼻水タラタラで不倫も色気もあったものではないが、暖かい春風の中、少し“遊び心”を楽しんでみましょうか。 ハックショ~ン!!