原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

新人が「金の卵」だった時代は郷愁物語なれど…

2010年05月28日 | 仕事・就職
 報道によれば、居酒屋チェーン大手企業に大学新卒で入社した若者の、入社わずか4ヵ月後の急死を「過労死」と認めた判決が5月25日に京都地裁において下された。
 「月80時間の時間外労働をこなさなければ賃金を減額する」ことを正当化するがごとくの“殺人的給与体系”の下での死因を地裁は「過労死」と判断し、経営者側に損害賠償責任を求めた判決である。
 大学を卒業し晴れて社会人となった直後わずか4ヶ月にして「過労死」で命を落とさざるを得なかった若者とその遺族の無念を慮ると、何ともいたたまれない思いである。


 一部の別報道によると今春の大卒者の就職率は91%台とのことで、これは過去の就職率統計のワースト2に位置するとのことである。
 日々の巷の報道を見聞する限り、原左都子の実感としてはもっと多くの新卒者を含めた若者層が就職難にあえいでいる感覚があるのだが、数字上の大卒者就職率が9割を超過しているとは少々意外な統計結果である。 (統計結果とは所詮、統計手段やその結果集計の手法に左右されるものなのであろう。)


 そうしたところ、上記新卒就職率統計結果と現実世界におけるギャップ感を裏付けるとも捉えられる新聞記事を発見した。

 朝日新聞5月24日の記事によると、新卒者採用側の「新卒切り」が横行しているとの報道である。 早速、以下に記事内容を要約して紹介しよう。
 4月の入社時期の前後、内定学生や新入社員が雇用側から理不尽な要求をされ、内定辞退や退職を迫られる「新卒切り」とでもいうべきケースが目立っている。 今春京都市の私大大学院を卒業して某コンサルタント会社に就職した25歳のある男性は、就業時間より早めの15分前に出社しているにもかかわらず「他の人はもっと早く来ている。意欲が足りない」と叱責された。その後も電話対応や退社時間をとがめられ「落ちこぼれ」「分をわきまえろ」と怒鳴られ続け、反省文を書かされた挙句上司から会議室に呼び出されて“退職届”用紙を差し出され、ぼうぜんとしたまま“自己都合退職”扱いとしてサインした。入社後9日目の出来事である。この男性は退社後、「無理やり書かされた退職願は無効」として労働審判を求めて東京地裁に申し立てたそうである。  某NPO法人には「この業界に向いていない」「協調性がない」等の理由で解雇通知や退職勧奨を受けた新人からの相談が複数寄せられているらしい。  その他にも、内定学生が入社前に内定先で労働を強要されたり、入社前の資格取得を入社条件とするケースも少なくはない。 上記の内定前の労働強要で内定辞退した女子学生の採用元の某企業は「ゆとり世代の学生は甘いところがあり、厳しく接するのは教育」とコメントしているとのことである。


 私論に入ろう。

 新卒者が「金の卵」と“表面上”もてはやされた時代は当の昔に終焉している。
 「金の卵」とは、第二次世界大戦後の“もはや戦後は終わった”と叫ばれた時代を経て我が国が高度経済成長を遂げるべく邁進しようとしていた昭和30年代終わり頃の“流行語”である。 当時国の高度経済成長を支えるため集団就職で地方から上京してくる中卒者や高卒者を、世間(おそらく経営者側)が「金の卵」と名付け表向きに重宝したのである。
 その頃の中卒、高卒者の労働条件とは如何ほどだったのであろうかと推測するに、おそらく「金の卵」との輝かしい表向きのネーミングとは裏腹に過酷な労働条件を課せられたものと考察する。
 話が変わるが、今現在目覚ましい経済発展を遂げている中国上海におけるIT産業を下部で支える若き末端労働者が、その労働条件の過酷さが原因(?)で相次いで自殺しているという痛ましい報道もある。 この事例など、我が国の高度経済成長期の「金の卵」が課せられた過酷な労働に繋がる思いがする。

 かつての我が国における貧しいけれども経済発展意欲に燃えていた時代に「金の卵」に課せられた過酷な労働と、 バブル崩壊後の長引く経済不況下にある現在の新卒者の雇用側からの“虐待”被害とは、当然ながらその趣旨が大きく異なる。
 この世界的経済不況が長引いている現状における我が国の新卒者の「内定切り」「新卒切り」とは、採用者側にとっては人経費削減を目指したいが故の“新卒者いじめ”による退職勧告に他ならないのであろう。
 行政指導により新人を一定人数採用する事をお上からノルマとして課せられてしまっているが故に、採用者側としてはある程度の人数の新人採用を表向きの数字上公開せざるを得ない。 人件費予算外の採用に関して少し以前は早期の「内定切り」で凌いでいたが、それを世間と行政からつつかれた今となっては、有効な手段は採用直前後の「新卒切り」しかない。 それを現在、職場において実行しているというお粗末な実態なのであろう。


 最後に「内定切り」「新卒切り」をやむなくされた当事者である新卒者側に、原左都子から少し提言をさせていただこう。

 おそらく、その職場に採用された新卒者全員が「新卒切り」の被害に遭遇している訳ではないのであろうと推測する。 入社直前直後に“切捨てられる”運命にある新卒者とは、もしかしたら、その職場に多種多様な意味合いで元々“適応力のない人材”であったのかもしれない。 決してそれは当該新卒者が他者に比して劣っているという意味合いではなく、職場との単なる“ミスマッチ”なのではなかろうか。
 そうであったとするならば話は簡単である。 自分にマッチする仕事、職場を今後発見すればいいのである。
 ただし、これから社会人になるまだ未熟な新卒者にとって、自分にマッチする仕事、職場を発見することは容易なことではない。 そうすると、とりあえずどこでもいいからまずは目先の就職先をゲットするという手段に出ることとなるのであろう。
 ところが、せっかくゲットした就職先から「内定切り」「新卒切り」に遭ったり、最悪の場合「過労死」や「自殺」で若者が殺される程に過酷な現在の就職事情…

 それでもあえて、原左都子おばさんはこれから仕事を探す若者に提言したい。
 求職者とは、自分なりの何らかの“強み”を身に付けてから仕事探しに臨むべきと。 
それは何だっていい。 もしもそれが自分が目指す分野の専門力であるならば理想的であろうが、専門力に自信がなければ体力でもいいし、協調性でも人のよさでも何でもいい。 職場から「資格を取れ」と言われる前に自分に有利な資格を取っておくのもいい。 
 それらすべての努力を怠って「運」だけを頼りにしたり、「縁故」を利用して求職してくる新人が存在するとするならば、私が採用者であっても申し訳ないが切り落とすかもしれないなあ… 

 そうは言えども新卒者の「過労死」「自殺」を回避すべきなのは採用者側の責任であることには間違いない事実なのだが。
 まったくもって、困った雇用関係の世の中だ…     
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都会のど真ん中で美声を披露するウグイス

2010年05月25日 | 雑記
 ♪ ホーーー ホケキョ ♪♪

 ゴールデンウィークが終わった頃のある朝、ベランダで洗濯物を干している私の耳に聴こえてきたのがこの素晴らしい“音色”である。
 (さては近くの小学校の“物真似自慢”児童が得意の喉を鳴らしつつ登校してるのかな? あるいは、近隣に住む往年の江戸家猫八師匠のごとくの声帯模写芸能の専門家が朝の練習に励んでいるのだろうか??)
 長年都心に暮らす者としては、こういう音声を聴くとそういう発想しか湧いてこないのが実情ではなかろうか。


 そうしたところ、折りしも5月21日の朝日新聞「声」欄に同様の投稿を発見した。
 東京に住む会社員男性が仕事で長崎の離島にある小さな町を訪れた際に、緑が広がるのどかな風景の中ウグイスの鳴き声がずっと響いていたそうだ。 その男性もウグイスとは本当に 「ホーホケキョ」 と鳴くのだと改めて感心しつつ、自分だけ楽しむのがもったいなくて東京の妻へ携帯でその鳴き声を送信したらしい。 妻は喜んでくれると思っていたところ「どうせ、オモチャかなんかでしょ」との返答であったためがっかりであったとのことである。 妻曰く、鳴き声があまりにも上手過ぎる……
 (以下、省略。)

 まさにこの投稿者の奥方がおっしゃる通り、ウグイスの鳴き声とは聴き慣れない者にとっては“上手過ぎる!”ことにまずは驚かされるのである。

 
 冒頭の話に戻って、ベランダで洗濯物を干していた私はその後半時間程ウグイスの鳴き声“らしき”音に魅了されつつその音源を捜して周囲を見渡したのだ。
 誰かの物真似か声帯模写としては、その鳴き声は余りにも長時間一定の方向から一定の発信力を持って続いている。
 これは“本物”のウグイスが鳴いているに違いない!
 そう確信して周囲を探索した結果、我が家から数十メートル離れた竹薮の雑木地帯で本物のウグイスが鳴いていると私は結論付けたのである。 (参考のため我が家は都心に位置しているとは言え、ベランダに面した南側一帯が閑静な低層住宅地であるため緑が多く、普段より四季を問わず多種の鳥が空を行き交っている地域である。) 


 その後も何度か“本物のウグイス”の鳴き声を楽しみつつベランダで洗濯物を干す私である。
 一昨日より2日程続いた悪天候の後、久々に晴れた今朝もウグイスの鳴き声を数十メートル離れた雑木地帯ではないもっと我が家に近い地点の別方向から耳にした。 どうやらこの地域は都心にしてウグイスの繁殖地であるようだ。(今年のみに限った現象なのかもしれないが。)
 本日聴いたウグイスのさえずりは、我が家から距離が近いこともあってずい分と明瞭なサウンドで響いてくる。

 とにもかくにもウグイスのさえずりとは穢れなくピュアで澄み渡っていて、人間の聴覚に何とも心地よい。
 古きは「古今集」の和歌にも詠われ、多くの音楽にも引用され、そして日本の子どもなら誰しも知らない子はいないウグイスの鳴き声。 こんな素晴らしい自然の音声を都心にして間近に享受できる喜びを堪能する原左都子の今年の初夏である。


 私だけが鳥類にして類稀なピュアで済んだ音色のさえずりを堪能していては申し訳ない思いもあって、ウグイスはなぜ鳴くのか等ウグイスの生態を少しネット上で調べてみることにした。

 ウグイスとはほぼ全国に生息している“留鳥”(“渡り鳥”などのように季節により移動する部類ではない鳥のこと。ただし、寒冷地のウグイスは暖地へ移動するようだ。)であり、全国の森林や農耕地そして市街地でも生息しているとのことである。 それ故に私が住む都心に生息していても不思議ではなかった訳である。
 どうやら、ウグイスを「自治体指定の鳥」とする地方公共団体も北は北海道から南は九州宮崎まで全国各地に多く存在するようだ。 東京都大田区もその一自治体であるように、ウグイスとは日本全国で昔から愛されている鳥なのである。 (それにしても、田舎出身の私がウグイスの生の鳴き声を間近に聴いたのは、今回が我が人生において初めてのことであるのが不思議なくらいだなあ。)

 
 ♪ホーー ホケキョ ♪♪ のいとも美しい音色を発しているのは動物世界には例外のない“雄”である。 そして雄が何のためにその美声を発しているのかと言うと、生物界における“種の保存の原則”になくてはならない「生殖」「繁殖」目的であるのもこれまた例外ではない。
 その美しい音色で雌を呼び込み“巣作り”をすると同時に、敵である他の雄を寄せ付けない“縄張り”や“威嚇”の効果も発揮しているのである。
 発情期のウグイスの雄には脳から男性ホルモンが分泌され、それが精巣に達して喉のさえずりに繋がりあの美声を発するしくみとなっているそうなのだ。

 人間の男性も、時代を超えて語り継がれているウグイスの美声に相当するようなピュアな芸術性で女性にアピールしたらどうなのよ、と言いたくなるほどの麗しき雄ウグイスのさえずり力であるなあ~~。
 ♪ホーー  ホケキョ ♪♪ 
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子どもの「楽しい学び」の提案

2010年05月22日 | 教育・学校
 先週の日曜日(5月16日付)の新聞に 「子どもたちが“楽しく学ぶ”にはどうすればいいの」 と題する某学習塾の一面広告があった。

 この広告の上段に小学4年生を対象とした「勉強が楽しいか」との設問の国際調査回答結果が掲載されているのだが、日本人の子どもが“勉強が楽しい”と思う割合は「算数」が34%、「理科」が57%と、両者共に国際平均値を下回っているようである。
 紙面下段にはこの調査結果に対する当該学習塾の見解及び「楽しい学び」の提供が記載されているのだが、それによって生徒募集に繋げようとの思惑の広告である。 


 上記学習塾の見解については、この記事においては保留とさせていただこう。
 そして、教職経験があり、さらに我が子幼少の頃より「お抱え家庭教師」として君臨し子どもの学習の面倒を身近に見てきた原左都子なりの「楽しい学び」の提案を試みることにしよう。

 「楽しい学び」の提案をする以前の課題として、まず子どもの学習における「楽しさ」の解釈から議論を始める必要があろう。 
 いや、もっと根本的な命題として、「学習とは楽しくあらねばならないのか?」 との疑念さえもが私の頭をもたげてしまうのだ。
 と言うのも、私自身が高校までの学校の勉強を「楽しい」と思ったことが皆無と言えるからである。 そんな私でも大学(及び大学院)での学問は大いに充実していたことに関してはバックナンバーに於いて再三述べているのに加え、学問・研究カテゴリーの記事も何本か綴って公開させていただいている。

 いけしゃあしゃあと言わせていただくと、義務教育期間において私は学業成績優秀な児童、生徒であった。   教科間での多少のバラつきはあったものの、全般的に常に学内トップクラスの成績をキープし続けていた。 そんな私でも勉強を「楽しい」と思ったことは皆無なのである。
 ただ、学習におけるプラスの感覚は幼少の頃より必ずや我が内面に存在していた。 それは「楽しい」との感覚とはニュアンスが異なる種の感情である。 「達成感」「成功観」と表現するべきであろうか、要するに“学習後”の我が脳裏へのフィードバック感覚としての快感が存在したのである。 これが自己の内面から湧き出てくるものであれ、成績や席次という他者から結果として表示されるものであれ、年端もいかない子どもの頃の私にとっては大いに次ステップの学習意欲をそそられたものであることは事実だ。

 私の場合、物心ついた頃から母がフルタイムで仕事をしていたこともあり、家庭学習に関しては100%自主性のみに任されていた。 (田舎暮らしだったこともあって周囲に塾など一つも存在すらしないし、家庭教師のお世話になったことなども一切ない。) それでも何故に私が一人で健気に学習を続行し得たのかと言うと、それは私の生来の勤勉で律儀(?)で負けず嫌いな性質に加えて、上記の「達成感」「成功観」感情に支えられていたからに他ならないと自己分析するのである。

 ただ、私のように親が放っておいても“自主学習派”を貫く子どもとは至って少数派であろうと分析するのだ。 それは我が過去の教員経験、及び我が子を観察していて実感させられる思いである。
 たとえば我が子の場合は、生まれ持っての若干の特殊事情がある。この特殊要因を抜きに考察しても、生命体の生来の性質や特性とは個々により大きく異なるのを実感させられる日々である。
 生まれ持っての“自主学習派”とは程遠い個性を持つ子どもを捉まえて 「なんであんたは勉強しないの! よその子はやってるのに!」 と怒鳴りつける事ほど逆効果はない。 我が子の“自主学習派”ではない個性を早期に見抜いた私は、幼少の頃よりリビングルームに学習机を置き母自ら「お抱え家庭教師」として日々学習に付き合ったという訳である。

 
 教える立場からの考察として、子どもが幼少の頃は確かに“学び”において“楽しさ”も見出し易いものである。 と言うよりも幼少時には子どもが“楽しめる”ことに主眼を置いて教育がなされるべきなのは教育の原理においても当然の事である。
 ただ学習内容の進展と共に、どうしても“楽しさ”を超越した子ども本人の“努力”が要請されてくるものである。 教える側としてはこの時点こそが“踏ん張り処”であるのだ。

 ここで少しだけ上記広告主である某学習塾の見解を紹介させていただくと、「知識重視ではなく、新しい発見を提案することで子どもの興味をそそる」との記載がある。
 文言のみ読ませていただいた限りではごもっともの見解であられるのだが、一方で子どもの学習のさらなる進展を目指すためには新しい知識の習得は避けては通れないものである。 (おそらくこの学習塾の見解は「理科」を大いに対象として記載されたものであろうが。)

 やはり、子どもの学習には「楽しさ」のみではない「苦難を乗り越える努力」も不可欠であることは否めない事実なのである。
 教育者側がこれを如何に“自主学習派”ではなく自分自身で学習による「達成感」や「成功観」を得にくい個性を持つ子どもに乗り越えさせるか?
 これこそが本記事の神髄である。


 最後に原左都子の結論を述べよう。
 それは、教育者の子どもへの「共感力」であろう。

 我が子の「お抱え家庭教師」遍歴において私が最優先したのが、この「共感力」である。
 とにかく、子どもと一緒に同一課題に目を通し子どもの横で一緒に問題を解くのである。(もちろん子どものペースに合わせることが鉄則なのだが。) そうすることにより、子どもも頑張ろうとする意欲が育まれるのを実感してきている私である。 教育者が上の立場からあれこれ下手な指導をしているだけでは、決して「共感力」とは生じてくるものではない。 教育者も子どもと一緒に同一課題に取り組むパフォーマンスこそが、子どもの新たな課題に対する「苦難を乗り越える努力」を育てる事を実証してきている原左都子である。

 しかも、教育者と学習者である子どもとの「共感力」のコラボレーションの威力が、子どもの成長を経た後に子ども単独での学習習慣の創出にも繋がり、いずれは学習面において子ども一人で努力する土台が創り上げられることも我が子で実証済みである。
(ただし、これを成し遂げるには教育者側にこそ日々尋常ではない忍耐力が要求されるのだが。)


 子どもの「学ぶ楽しさ」を創出し得るのは、何も目新しいアイデアを展開することではなく、教育者側の弛まざる努力と子どもへの「共感力」であるとの原左都子の今回の提案である。
 教育者側の忍耐力の根源とは何かって??  それは子どもに対する「愛情」以外の何物でもないでしょうねえ~~
            
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父と母の感情の狭間であえぐ子ども…

2010年05月18日 | 人間関係
 子どもとは父母双方の影響力を大いに受けながら日々成長していくものであることを実感しつつ、我が子と接する毎日である。

 父母両人が存在するにもかかわらず、もしもある家庭内においてそのうちの片方の影響力が多大であり過ぎる環境で子どもが育ってしまったとしたら……
 子を持つ親としてそんな事態に思いを馳せる今週の朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談であった。


 それでは早速、朝日新聞5月15日別刷「be」“悩みのるつぼ”に寄せられた10代の女子高生からの 「父親が大嫌いです」 と題する相談を以下に要約して紹介しよう。

 10代の女子高生であるが、父の休日は食べる、寝る、テレビの繰り返しで、他のことは何ひとつやらない。 仕事は自営業だが、一日中テレビがついているようで仕事をちゃんとしているのか不審である。 父は50歳にして携帯依存症でもあり、夜遅くまで携帯をいじっている。 私は物心ついた時から父が嫌いで、母には「お父さんみたいにならないように」と育てられてきている。 父への感謝の気持ちがないどころか、老後の面倒をみる気もなく、のたれ死ねばいいと思っている。 母は父との結婚は失敗だと言っているし私も離婚して欲しいが、経済的なことを考えると無理だ。 父がいる休日はイライラして、死んで欲しい、殺したいという気持ちが強くなる。 虐待でもされれば訴えられるのにと思いつつ、休日は泣いて過ごしているがどうすればよいのか。


 私論に入ろう。

 家で休日を過ごす場に父親と居合わせただけでその父親を殺したいとまでの嫌悪感を抱いてしまう程に苦悩しているこの女子高校生を、同年代の娘を持つ母である原左都子としては、とにもかくにもその地獄から救い出したい思いである。

 女子高生の相談を読むに、相談者の父親はどうやら普段我が子である娘との接触がまるでなさそうである。 これ程に父親業放棄の現状では、娘から疎んじられてもやむを得ない状況下にあろう。 ところが娘から「殺したい」とまでの感情を抱かれてしまっているとなると、もはやこれは捨て置けない事態だ。
 ただ、この相談内容から少し救われる思いがするのは「虐待でもされれば(父を)訴えられるのに…」とのくだりである。 と言うことは、この父親は少なくとも今まで相談者である娘を虐待した経歴はなさそうである。(“ネグレクト”という意味での虐待は存在し得るのかもしれないが。)

 この種の相談の場合、相談者の母親の言動に関しても分析するべきであろう。
 そうした場合、大いに気に掛かる言動が母親側にも存在するのだ。 娘が物心ついた頃から早くも 「お父さんみたいにはならないように」 と吹聴しつつ娘を育て、娘に面と向かって 「この結婚は失敗だ」 と明言しているとのことである。
 
 ここで私事を少し述べると、我が母にも子育てにおいてその種の過ちを犯した部分が大いにあったことを私は記憶している。 少し前の時代のこの国において「家」概念が尊重されていた歴史が存在したのだが、我が母は私が幼き頃から嫁ぎ先の父の「家」の不備を挙げ連ねて、自分が結婚前に育った「家」こそが優位に立っていることを私に吹聴し続けていたのだ。
 幼き私はそれを“真に受けて”育ったとも言える。 “母方の家系が優位”だから、母の教えに従った方が私は得策である、等々と母から幼心に調教されたと表現しても過言ではない。
 母のその過ちに気付いたのは私が成人して独り立ちして以降の事であろうか。 それ程までに、片親側からの幼な子に対する“吹聴力”とは絶大なのである。
 上記の相談内容を振り返ると、相談者の母親が娘幼少の頃に発した「お父さんみたいにならないように」との発言と、我が母の“「家」の優位”が重複して辛い思いである…

 さらに相談者の母親の場合、娘に向かって「この結婚は失敗だ」とまで断言している様子だ。
 これはどう考察しても母側の落ち度である。
 相談者の父親が未だ50歳とのことは「家」制度のみで婚姻が縛られていた時代にやむなく結婚した訳でもあるまいに、何故にその妻が自分自身の結婚の失敗を年端も行かぬ娘に暴露して娘を苦しめるのか。 たとえ自分達の結婚が失敗であるとしても、それに関して何の責任もない娘へそれを吹聴する以前の問題として、夫婦間で話し合いを持ち「離婚」に踏み切るという選択肢も存在するであろうに…。 
 (相談者の相談内容から察して) 結局はこの相談者の母親である妻が(プー太郎気味の)自営業の夫に頼るしか経済的に生き延びられない状況にあるが故にそのプー太郎に依存しているのであれば、決して娘に「夫(娘の父)との結婚は失敗」などとホザける筋合いもない筈でもあろうに…。


 さて、今回の“悩みのるつぼ”の回答者は「原左都子エッセイ集」でおなじみの 評論家 岡田斗司夫氏であられる。 今回の岡田氏の回答内容は、原左都子の私論と接触する部分が多いのだ。
 岡田氏は解答欄で、 母はいつも「お父さんみたいにならないで」と言うが、娘に対しては「お母さんのようになってはダメ」と言うべきだ、と明言されている。 (以下は岡田氏の回答からの引用になるが) 本当に最悪の父ならなぜ母は離婚しないのか? それは自分の言い分を信じる娘がそこに存在するからだ。それを利用して、母とは日々自分のストレスを娘にぶつけてその犠牲の上に暮らしている。 人間は弱い。誰かの愚痴や文句を言わねば暮らしていけない。 母の不幸は家に閉じ込められ視野が狭いことだ。この悪の連鎖をあなたが切ってあげるとお母さんの世界も広がるが、それが難しいならば、あなただけでも逃げるといい。たった3人家族で2人が悪口を言い合っている家は地獄だ。


 現在の我が家もこの相談者家族と同様、父母と高校生の娘の3人家族である。
 しかも、実質上一家を牛耳っている母である私の存在観が極めて強い家庭である。 決して岡田氏が回答で述べられているがごとくの(夫婦)2人で悪口を言い合っている家庭ではないのだが、どう考察しても父親の存在感が軟弱と言えるよな~~ 

 でも、私は思うよ。 「原左都子エッセイ集」のバックナンバー「家を出て、親を捨てよう」でも既述しているが、子どもとは(今の時代においては男女を問わず)いずれは家庭から育ちゆく人材であるべきだ。 たとえ家庭内に如何なる歪んだ諸事情が存在しようが、その種の歪みとは子どもの自立を促す原動力にもなり得るものである。(私だって、それで単身東京に旅立って自立したとも言えるしね~~  
 そういう意味では、この相談女子高生も家庭内の不調和を自らのエネルギーに転化することにより(岡田氏も述べておられるように)今後自立の道を探れるといいね。
          
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総理公邸も “仕分け対象” にしたら?

2010年05月15日 | 時事論評
 首相官邸って、大都会東京の一等地永田町にこんなに広大な敷地を陣取って建っているんだ! 

 これは昨日(5月14日)の朝日新聞夕刊一面に掲載されていた首相官邸をめぐるニュースの航空写真を一見して抱いた私の感想である。

 この夕刊記事は 「官邸、高層ビルも悩みの種」 と題しているのだが、その場に首相官邸が存在することにより、周辺ビルは設計上の制限を受ける等の迷惑を被っている様子である。
 早速、このニュース内容から要約して紹介しよう。
 東京・永田町にある首相官邸を取り囲むように高層ビルが次々と建設され、官邸側が「安全確保」に頭を悩ませている。 ビルから官邸を見下ろせるため、政治の中枢がのぞかれかねず、要人への襲撃の恐れもある。そのため建設主に窓の向きなどを要望している。 片や、ビル側はこの要望を受けて官邸に面した側に窓を設けなかったり、ホテルの客室の窓をすべて官邸と反対向きにしたり、非常階段への侵入防止策をとったり、等々… 官邸をのぞきにくい構造にするよう工夫しているようだ。 ただ、官邸といえども民間のビルの構造を強制的には制限できず、「あくまでもお願いレベル」とのことである。
 (私論が交わるが)どうやら民間ビル建設主側は官邸事務所側からの要望により建設上の配慮を余儀なくされているにもかかわらず、詳細についてはノーコメントとのことで苦しい立場に置かれているようである。


 上記朝日新聞記事における「首相官邸」とは、「総理大臣官邸」とそれに隣接する「総理大臣公邸」を合わせた総称として用いられていることをここで明記しておこう。

 そのうち前者の「総理大臣官邸」に関しては、内閣総理大臣が執務をする場としての意味合いのみならず、行政府である内閣の閣議が開催される場所であり国政において要の機能を担っている場である。
 2002年に新設された官邸には総理や官房長官の執務室、レセプションルームや貴賓室、1階には記者会見室の施設もあり、屋上にはヘリポートも設置されているらしい。
 過去において、「五・一五事件」や「ニ・ニ六事件」がこの官邸において繰り広げられた歴史を慮れば、官邸事務所が周囲の建物に警戒して建設制限を内々に強要するのもある程度やむを得ないのかもしれない。


 一方、官邸に隣接している「総理大臣公邸」に関しては如何なものであろうか?

 セレブの鳩山首相も現在入居しているという(略して)「総理公邸」であるが、歴代の総理全員がこの「総理公邸」に居住した訳ではない。
 小泉純一郎氏が総理だった時代の2005年に「総理公邸」が新館に建て替えられて以降は、全員がこの公邸に居住しているようではある。

 それまでの旧館に至っては、歴代総理の過半数が「総理公邸」には入居していない実態のようだ。
 その最たる事例として、セレブ鳩山由紀夫現首相の祖父にあたる鳩山一郎元総理など、自宅を「音羽御殿」と称して当時ここを政治の舞台としていた様子である。 (東京都文京区に位置する「音羽御殿」は、現在「鳩山会館」と称して入場料を課して一般公開されている。)

 「総理公邸」旧館に住んだ(住まざるを得なかった)歴代首相の家族の談話が、これまた“言いたい放題”であるのも興味深い。
 将軍細川家18代当主であり総理大臣でもあった細川護煕氏のご夫人など、「(公邸は)どの部屋も薄暗く、家族が集まれる場所もなく、台所は65年前のもの」であり、公邸を下見した時は「ショックだった」との言及であるようだ…
 こんな談話もある。 「たとえパトカー先導といえども都心の交通混雑は侮り難い。一刻一秒を争う緊急事態が発生しているときに総理の車が渋滞にはまったのでは、危機管理上の大問題なので、総理の「通勤」は避けるべきだとの意見は以前からあった。」 (ここで私論になるが、だから国会議事堂近くに総理公邸が不可欠との論理で都心の一等地に「総理公邸」を存在させているという訳なのだろうか??)
 - 以上、ウィキペディアより「総理公邸」に関する“逸話”の一部を紹介 -


 「首相官邸」のうち「総理大臣官邸」に関しては、国政に関して重要な機能を果たしている建造物であると考察できるため、国会議事堂に程近い東京永田町に存在する意義もあるのかもしれない。
 ただし、現在に至っては過去の歴史のごとくの致命的な官邸襲撃事件が発生していない事態を鑑みて、自由経済の下で成り立っている周囲の民間ビルに多大な負担をかけない程度の「安全確保」に留めるべきであろう。(この不況下において都心の一等地でそのような行政指導を続けることは、国家財政の首を絞めることに直結するものと警告したい思いである。)

 一方「総理大臣公邸」に関しては、もはや“無用の長物”と断言してもよいのではなかろうか。
 確かに、国家の首脳の警護をなるべく容易にするため、総理公邸は国政の要の地に置いた方が得策という考えも成り立つのであろうが、上記のごとく公邸を一等地に置くことによる周辺ビルへの設計制限等の様々な問題点も内在している現在である。

 さらに我が国の近い未来においては相次ぐ政権交代で国政が混乱を極める事態が予測され、総理大臣が今後ころころと変わることになるやも知れない。
 実際、小泉首相時代に新設された公邸は、その後住人が“入れ替わり立ち代わり”している現状である。 このメンテナンス・リフォーム費用や引越し費用の公費負担も馬鹿にならないと感じるのが庶民感覚でもある。

 ここは「総理公邸」は新政権お得意の”事業仕分け”における廃止対象として排除し、今後の総選挙で総理となられる方には自宅から通ってもらっては如何なものか。 そうすれば、国政とは無関係の総理のお身内の公邸暮らしの不満を募ることもなく、そのプライバシーも尊重できるのではあるまいか。

 今後は総理本人の警備費用のみを国家財政から歳出するのが、東京の一等地に「総理公邸」を置くよりも断然得策かと本気で考える原左都子であるのだが…。 (総理が自宅から永田町に通う電車賃と、それにお供する複数のガードマン費用と、総理の自宅を警護するガードマン費用の歳出で済むでしょ。 これは永田町に「総理公邸」を置いている現状に比して、格段に国家財政の削減可能なことに間違いなし!!)
 あるいは、今後どうしても永田町の「総理公邸」に住みたい首相に関しては、それ相応の「家賃」を国庫に支払ってもらうのが国民との整合性において妥当なのかもしれないよね。
          
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