原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「私」は誰が創るのか?

2008年08月31日 | 自己実現
 いよいよ子どもの夏休みの最終日。私の宿題の手伝いも大詰めだ。
 昨日は数学のドリルの手伝いをした。連立方程式に一次関数、平面図形に立体図形、合同に相似……、昔は私も得意としていた数学である。後10歳いや5歳でも若ければもう少しは働いたであろう私の頭も、そろそろ空洞化して蜘蛛の巣がはりめぐらされようとしている模様だ。老けつつある頭を無理やり振り絞っていると、胃痛が起きてきそうである。


 さて、今回の記事も(中学生の)子どもの国語の評論文課題ドリルから引用しよう。 
 今回取り上げるのは、養老孟司氏著評論文「だれが自分を創るのか」である。


 では早速、養老氏のエッセイを以下に要約してみよう。

 自分とは、日本の社会では「世間的に作られる自分」である。それを以前は「らしさ」といった。たとえば「女らしい」などであるが、それは封建的な見方だと言われたのはある意味で正しい。「らしさ」とはすなわち社会の産物だからである。
 では、自然の本性と「らしさ」を区別できるかといったら無理であろう。「作られた自分」もまた自分である。むしろそれがいわゆる自分、「ふつうの自分」でありそれは世間の中におかれた自分である。日本人は普通、世間にどっぷり漬かって暮らす。
 システムはつねに安定性を持つ。そのシステムの安定性に「同じ」という意識のはたらきを重ねると「作られた自分」ができる。それは実際にはたえず変化していくのだが、その変化は大変小さいとみなされるため、我々は毎日別人になるわけではない。長い年月を経たり、外部環境の変化があれば「人は変わる」。課長になったら態度がデカくなったりする。
 「ふつうの自分」が世間的に作られたものだということは、年配の人にはよくお分かりのはずだ。人間の社会的役割とは多かれ少なかれその人そのものになってしまう。たとえば、社長は社長らしく、平社員は平らしいのである。「ふつうの自分」は自己の内部で閉じているのではない。世間に開いている。その世間が不安定化すれば、自分も不安定になる。それが現代日本で起こっていることであろう。

 以上が、養老孟司氏のエッセイの要約である。

 この文章をよく読むと養老氏の言いたい事はわかる気はするが、中学生向けの長文読解問題とするには難解かつ的を射ていないのではなかろうか。大人の私が一読して、何を肯定し何を否定し、何を趣旨としているのかが捉えにくい文章である。


 それでは、私なりにこの評論文を分析しつつ私論を導くことにしよう。 

 私論の結論をいきなり述べると、「私」は「私」自身が創りたいものである。

 養老氏は、この評論文の中で社会環境の中での「自分」を述べるにあたり、一例として職業を引き合いに出している。まず、この辺からして私には違和感がある。現実的に現在職業らしきものを持っていない私には職業という社会環境はない。過去に職業経験はあるものの、それはあくまでも過ぎ去りし過去の話にしか過ぎない。
 そして「女らしい」例にしても、恋愛をしたり出産をしたりという具体的な場面において確かにこの私も「女さしさ」を発揮するが、私は日常的に「女らしい」と他者から言われることも稀であるし(たまには言われたいものだなあ…)、自分自身でも女であることをやたらめったら意識しつつ日々を過ごしている訳でもない。
 そんな私にとっては、自分の自然の本性と「らしさ」は日常生活において一線を画しており、区別のできる事象なのである。
 養老氏は、「ふつうの自分」が世間的に作られたものだということが“年配”の人にはよくおわかりのはずである、と述べている。この場合の“年配”者にはおそらく私はまだ属さないとは思うが、“年配”とされている方々が、本当にそのように捉えていらっしゃるのであろうか。すなわち社長は社長らしく、のごとく「ふつうの自分」を捉えているのかも疑問である。今のご年配の方々は、養老氏の思考よりもずっと進化しているように、私自身の経験から察するのだが。 公的場面においては役割分担上、たとえば社長さんは社長を演ずるかもしれない。が、私的立場では、良識ある方々は自分の立場をわきまえているものである。少なくとも私の周囲のご年配の方々は、私的場面でご自身の社会的地位を振りかざす方は一人も存在しない。

 養老氏がこの評論文の趣旨とされたのは、おそらくエッセイの最後の部分であろう。すなわち、現在の社会は不安定化しているが故に、世間的に作られる「自分」自身も不安定化せざるを得ない。それが現代日本で起こっている大きな問題点であろう、とご指摘されたかったものと捉えられる。

 私も、現代日本で起こっている社会的混乱ともいえる不確実性には辟易とさせられる部分が大きく、心を痛める場面ももちろんある。
 だが、一方でこんな不確実性の高い世の中にあってなお、「世間」には頼らずに確固とした自己を築ける能力があるならば、むしろ役割分担が明確化していた一時代前よりも現在は「私」を創り易いのではないか、というようなプラス部分も大きいと私は感じるのである。


 どのような時代であれ「私」は職業や性別等の「世間的に作られる自分」とは一線を画した存在でありたい。そのような真の「私」を、「私」自身が創り上げようとする強さと自信を持ちつつ生きたいものである。
   
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人間は「明るく」あるべきか?

2008年08月29日 | 人間関係
 自宅での昼食時間に、NHKの天気予報とニュースを見る流れで連続テレビ小説「瞳」を見ているのだが、このドラマに最近「境野涼子さん」という役名の中1の少女が登場している。
 この「境野さん」の持つ雰囲気が、我が家の中学生の娘に瓜二つなのである。とても他人とは思えない私は「境野さん」の母になった心境で、毎日行く末を見守っている。

 「境野さん」は聡明でいかにも育ちのよさそうな華奢で可愛らしい雰囲気の少女である。ところが、寡黙で引っ込み思案で自己表現が下手なところがあるため、周囲から“暗い”イメージを持たれている、という設定である。
 この“暗い”「境野さん」を何とか“明るく”しようと(私に言わせてもらうと“余計な”)お節介をブラウン管の中で周囲が焼いている最中なのである。
 主人公の「瞳」はヒップホップダンスを習っているのだが、中学校のダンス校友会で「境野さん」ら女子中学生のダンス指導をすることになる。 そのダンス指導を通じて「境野さん」は少しずつ“明るく”なっていくというような、よくある陳腐なパターンのドラマの流れである。

 ここで、どうしても私は「待った!」をかけたいのだ。
 「境野さん」は“明るく”ならなければいけなのか? そもそも「境野さん」は“暗い”のか??  私の目には当初登場した時消え入りそうな小さい声で「(愛読書は)ドストエフスキー…」と答えた時のそのままで、「境野さん」は十分過ぎる位いいお嬢さんであったのだが…。

 「境野さん」風の我が子を持つ親としては、軽はずみなドラマ造りは勘弁願いたいものである。
 学校等の集団内において、個性を尊重するどころか、小さい頃から「境野さん」同様に寡黙さや自己表現の下手さを一方的に指摘され続けている娘を持つ親としては、他者の性格や特質に関する軽はずみでひとりよがりの判断や誤解のなきよう、周囲にもう少し冷静な思考を望みたいところである。


 では、少し分析してみよう。

 まず“明るい”とは一体何であるのか。
 結論を先に言うと、これは他者の価値基準による主観的な虚像である。
 “明るい”とはすなわち、受け手としての自分に対して笑顔を振りまいて欲しい、楽しくさせて欲しい、あるいは気分が高揚するような情報を与えて欲しい。少し前進して、できれば楽しいひと時を共有したい。そういう個人的欲求を満たしてくれるような相手の性質を“明るい”と呼ぶのであろう。
 では、“暗い”とは何なのか。
 それは上記の“明るい”の逆なのであろう。すなわち、あくまで受身である相手方にとって、そのような影響力をもたらさない性質を指すのではなかろうか。
 このように、人間の性質を表現するとされている“明るい”“暗い”という価値基準は、あくまでも複数の人間集団の中での受身の観点からの主観的な表現でしかないのである。

 そうなると当然ながら好みの問題もかかわってくる。価値観が多様化している現在、皆が皆“明るさ”を好むとも思われない。
 “暗い”という言葉はいかにもマイナーな表現であり一種の差別感も読み取れるため好まないが、例えば、人間関係において“落ち着き”だとか“静けさ”を好む人種も増えているのではなかろうか。私など、まさにそうだ。だから、テレビのバラエティ番組等の低俗でくだらない造られた“明るさ”を毛嫌いしているのだ。

 大した意味もないのに大声を出して笑ってみたり、わざとらしい作り笑いをしてみたり、“明るく”あることに悲壮感さえ漂っているような場面にすら出くわすことが多い時代である。なぜそのように、人間集団において“明るく”あることが義務化されてしまったのであろうか。人間関係の希薄化がもたらしている、心の歪み、ひずみ現象の一端であるのかもしれない。


 人間は自然体が一番よい。持って生まれた性質や特質等の“自分らしさ”を大切に育んでいきたいものである。
 「境野さん」も我が娘も、そのままでありのままで十分に素敵な女の子だよ! 
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無痛化する社会

2008年08月27日 | 人間関係
 子どもの夏休みがあと数日を残すのみとなり、私の夏休みの宿題の手伝いもラストスパートの時期を迎えている。

 (中学生の)子どもの国語の宿題のひとつである「評論文読解」のドリルを手伝っていて、興味深い評論文を見つけた。
 森岡正博氏による「無痛化する社会のゆくえ」と題するエッセイなのであるが、折りしも、私も同様の社会の“無痛化”現象を憂えていたところであり、一時子どもの宿題の手伝いであることを忘れて読み入った。


 以下に、この森岡氏のエッセイを要約してみよう。
 
 いまこの部屋には空調が効いていて快適に会議ができるが、50年前には猛暑の中で熱射病にかかったかもしれない。そういう肉体的な苦しみやつらさがあった。この苦しみやつらさを消すにはテクノロジーを発展させればよいという発想で、現実にそのような技術開発をしてきた。そもそも文明の進歩とは“無痛化”を進めることと考えることもできる。
 正確に言えば、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが社会の中に張りめぐらされていること、これを私は“無痛化”という言葉で呼ぶ。
 この“無痛化”は将来の“無痛化”をも予測しあらかじめ手を打つという特徴もある。現代の科学技術や医療技術はそのような社会をサポートする方向にどんどん進んでいる。
 この“無痛化”現象を、単に文明の進歩として賞賛していいのか? そうではなく現代哲学が正面から立ち向かって深く掘り下げるべき問題である。
 私(森岡氏)は、“無痛化”は人間から「よろこび」を失わせていると結論づける。社会の中で人間関係の中で、人生の中で体験する苦しみからどんどん逃れていくと快適さ、安楽さが残り、欲しい刺激が手に入れられる。するとどうなるのか。「気持ちがいいがよろこびがない、刺激が多いけれども満たされない」、という状態になる。

 以上は森岡氏の評論文の要約である。


 少し以前の話になるが、ブログ関連のとある場で、若い世代の方が書いた文面に対し、私は少し批判的な反応をさせていただいたことがある。そうしたところ、間髪を容れずにご本人から「自分に対するアクセスは今後一切しないように。書き込んだ文章は即刻削除して欲しい。」という趣旨の抗議文が私の元に届いた。これに対し私は「今後一切(ご本人に対し)アクセスをしないことは承諾するが、(私が)書き込んだ文章が趣旨に沿っていない訳でもないのに、削除を強制するのは言論統制にあたり越権行為であるため拒否する。」旨の返答をした。
 (人物像もまったく存じ上げない若い世代の人を捕まえて厳しすぎる指摘だったかもしれないが、たかがネット上の世界であれ法的ルールには世代を問わず従うべきことを理解していただきたく思い、私としては心を鬼にしての対応だった。)
 
 この例に限らず例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。
 誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。


 人間関係に的を絞って、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。

 既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
 他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力がなくなってしまっている時代なのであろう。

 ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。

 その場しのぎの、“痛み”を知らない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。


 “痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。 
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ラ・シルフィード(全幕)

2008年08月25日 | 芸術
(写真は、小林紀子バレエシアター第90回公演「ラ・シルフィード(全幕)他」のパンフレットより転載)

 昨日(8月24日)、夏休み中の娘と二人で東京五反田のゆうぽうとホールへ小林紀子バレエシアター第90回公演「ラ・シルフィード(全幕)他」を観に行った。
 この小林紀子バレエシアターは、昨年まで娘が併設のバレエアカデミーでバレエレッスンをお世話になっていた関係で、以前より親子で定期公演を観賞させていただいている。

 いきなり余談になるが、今回のバレエ公演に私はメガネを忘れていってしまった。両眼で0,7位の視力のため日常生活上さほど支障がなく普段メガネをかけないためだ。
 バレエの観賞とは様々な視点からでき、人それぞれ好みがあると思われる。例えばダンサーの表情や踊りの細かい動きを堪能したい場合は、前方の座席でしらみ潰しのごとく観賞することになるであろう。一方で、舞台の全体像を(オーケストラも含めて)一望したい場合は2階席の前列辺りがお勧めではなかろうか。両方を味わいたい場合、1階席の真ん中辺りがよいであろうか。もちろん劇場にもよるが。
 我が家の場合、大抵1階前列の座席を予約するのであるが、今回メガネを忘れていった私はどうしてもダンサーの表情までは見取れない。やむを得ず表情観察は諦め、踊りと全体像の把握に集中することにした。


 さて話を公演に移すが、「ラ・シルフィード全幕」の前にケネス・マクミラン氏振付による小品3作が上演された。この中の1作に、現在新国立劇場バレエ団の次代の有望株として期待されている小野絢子氏がジュリエット役で登場した。
 現在、バレエ界でもダンサーの高身長化が急激に進んでいる中、小野氏は比較的小柄なダンサーである。新国立劇場11月公演「アラジン」の主役を射止め「小柄なだけに、きれいにまとめず、伸びやかに踊りたい」との豊富を語っておられたが(朝日新聞記事より引用)、今回のジュリエット役でも小柄ながらも情感深くそして伸びやかな印象だった。
 小林紀子バレエシアター公演のひとつの特徴として、ダイナミックなリフトが挙げられるのではなかろうか。(参考のため、リフトとは男性ダンサーが女性ダンサーを持ち上げての踊りであるが。)このマクミラン振付3作においても緻密かつ豪快でアクロバティックなリフトが繰り広げられた。


 さて、いよいよ「ラ・シルフィード(全幕)」の話に入ろう。

 「ラ・シルフィード」に関しては、私は以前NHKの教育テレビでパリオペラ座の公演を録画で観たことがある。まだ若年のマチュー・ガニオ氏がジェームス役を好演していたのが印象的であった。劇場で観賞するのは今回が初めてだったため、大いに期待して出かけた。
 今回の「ラ・シルフィード」は振付・演出がデンマーク出身のヨハン・コボー氏、主役のシルフに小林紀子バレエシアター・プリンシパルの島添亮子氏、同じくジェームスにアメリカンバレエシアター・プリンシパルのデヴィット・ホールバーグ氏というキャスティングであった。
 私は以前より島添亮子氏のファンである。どちらかと言えば小柄なダンサーなのだが、舞台での存在感はいつも大きい。優美にして繊細な表現力を得意とされているのではないかと感じる私は、島添氏のシルフ役に大いに期待していた。

 シルフは森の妖精である。背中に羽を持っている。シルフを愛してしまったジェームスがシルフを抱きしめようとするのだが、その度にシルフは腕をすり抜けてしまう。魔法のベールを使えばシルフに触れることができると知ったジェームスはシルフの体にそのベールを巻きつけ愛おしく抱きしめる…。
 ジェームスに抱きしめられたシルフの羽が背中からちぎれ落ち、そしてシルフは死んでいく…。そして、ジェームスはすべてをなくしてしまう…。

 このような悲しい結末を迎えるラブストーリーを、島添氏がダンサーとして如何に演じるかとても楽しみだった。
 期待をはるかに超える島添氏の演技力であった。

 今回メガネを忘れた私にとって、残念ながら顔の表情は見えないのだが、指先までつま先まで神経が行き届いた繊細な身体表現で、島添氏は見事に愛のはかなさや切なさや運命の惨さを表現し抜いていた。

 やっぱり、バレエ観賞はやめられない。 “ブラボー!!” 
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ご近所とのお付き合い

2008年08月23日 | 人間関係
 先日、お隣が引越しをした。

 我が家は集合住宅なのだが、新築分譲マンションとして6年程前に全戸が一斉入居して以来、お隣には入居時に挨拶に伺ったきりまったくお付き合いがなかった。


 我が家はこれまでに住居を幾度も買換え何度も転居を繰り返しているのだが、転居する毎に当然ながら近隣の世帯が若返る。若い世代の方々が結婚、出産等に伴って新居を購入するためであろう。 
 そして近隣の世帯の世代が若返るのと平行して、近所付き合いを敬遠する傾向にあるようだ。

 かくいう私も、近隣との濃厚なお付き合いは基本的には回避したいと考えている方である。ご近所というのは距離が近い分何かと厄介な存在である。関係がうまくいっているうちはどのようなお付き合いであれ問題はないのだが、少しこじれはじめると距離的に近いが故に逃げ場がなくなってしまう。お互いの平和のために、初めからあっさりとお付き合いするのが一番と考えている。

 それで、私は近隣とは挨拶程度のお付き合いを心がけているのであるが、今やこの挨拶すら嫌うご家庭も多い。 
 現在の住居に入居した際、私は一応の礼儀として向こう3軒両隣に加えて上下階の住居へご挨拶に伺ったのであるが、この入居の挨拶ですら拒否するご家庭があった。「そういうことは一切なしにしませんか。」と、挨拶の付き合いさえ迷惑である事をきっぱりと表明するのだ。私も相手の意向を尊重して「わかりました。」と言い引き下がったのであるが、そうは言われても、その後通路やエレベーターでどうしても顔を合わせることはある。まさか、いい大人が知らん顔もできないので挨拶だけはさせていただくのであるが、この一言の挨拶すら見るからにご迷惑な様子だ。

 さて、先日引っ越したお隣の話に戻るが、このお隣は入居時の挨拶には快く応じてくれた。だが、その後一切のおつきあいはなかった。小さい子どもさんが2人いるご家庭でたまに玄関前の通路で親子で遊んでいるのに出くわす。そういった場合、私は年の功で挨拶に加えて「いいお天気ですね。」「大きくなられましたね。」等のプラス一言をついつい加えてしまうのだ。これが嫌がられてしまう。(放っておいて欲しいのに…)との表情で一切返答がない。もちろん、こちらとしてもプライバシーの侵害にならぬよう、個人情報には触れぬようにと細心の注意を払い言葉を選んでいるつもりなのであるが、どうも何を言っても余計な一言であるようなのだ。
 そんなこんなで、お隣とは偶然会った時の一言のご挨拶のみのお付き合いであったのだが、引越し時の挨拶もまったくないまま転居して行った。

 このように現在の住居ではご近所付き合いが一切なく、すっきりしていて後腐れがないとも言える。


 ご近所というのは基本的に選択できないため、当たり外れは避けられない。この私も過去において何度か近隣とのトラブルを経験している。

 子どもが赤ちゃんの頃住んでいた集合住宅の下階に住む、私より若い世代の主婦からクレームがきたことがある。子どもの足音等の騒音がうるさいとのことだ。普段より音に神経質な私は重々気をつけていたつもりではあるのだが、一応お詫びは申し上げた。その上で、こちらにも生活があるためどこまでその騒音を抑えられるかという話し合いをさせていただき、一応の合意はした。ところが、やはりどうしても我が子の出す音がうるさいと何度も訴えてくるのだ。こうなると我が家にとっては“針のむしろ”だ。子どもの健全な発育が阻害されてしまう。 ある時は夜中の12時に我が家が寝静まった時にやってきて、たたき起こされ騒音を訴えるのだ。少し異常性を感じた私は、第三者も加えて更なる話し合いをさせていただいたところ、その女性が10年来“不妊症”で悩み抜き、子どもがいる家庭が羨ましくて心を痛め、我が家を目の敵にしていたことが判明した。その後、まもなく転居して行ったようだ。
 
 我が家は何度も転居を繰り返しているため既に悟っているのだが、どこに住んでも大なり小なりのトラブルはあるものだ。現在の住居でも上階の騒音に悩まされている。お付き合いが一切無いが故に対策が取りにくく、泣き寝入りの現状である。


 ご近所関係といえば一昔前までは人間社会のコミュニティの基本であり、小さな子どもにとっては初めて体験する小社会であり、子どもの人格形成の一端を担っていたものである。現在でも地方の田舎へ行くと、未だにこのご近所コミュニティが機能している場所も多い。
 時代が変遷し、人間関係の希薄化と共に、特に都会においてはご近所コミュニティはすっかり姿を消している。人間関係における一種の合理化現象とも言え、そこには利点もなくはない。ただ、子どもが幼い頃から自然に人間関係を育み、健全に成長する場がひとつ失われている事は事実であろう。
 
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