(写真は、1990年頃撮影した原左都子が30代後半頃の写真。 過去に於いて当該gooブログ左欄上部のプロフィール写真として掲載していた時期があるため、ご記憶の方々もいらっしゃるだろう。 左欄フォトチャンネルにても公開しています。)
80年代後半バブル期と言えば、我が人生に於いて一番“華”
の煌びやかな時代
だったものだ。
当時未だ独身だった私は仕事に学業に超多忙な時期ではあったが、実に自由奔放かつ充実した日々を送っていた。
それでは、2013.06.06公開の上記表題バックナンバーを、以下に再掲載させていただこう。
自民党政権が実行しているいわゆる「アベノミクス」経済政策を“バブル”と解釈するか否かに関しては、評価の分かれるところであろう。
これに関する原左都子の私論は、2013年5月のバックナンバー「イージー・マネーで世を撹乱した“イージー・アベノミクス”」との表題にて既に公開している。
少し復習させていただこう。
「イージー・マネー」とは日本語にすると「楽に儲かるカネ」の意味合いがある。あるいは、「不正に儲けたカネ」「悪銭」「あぶく銭」「泡銭」等々…の意味合いもあるようだ……。
日銀黒田総裁は少し前にメディア上の記者会見に応答して、「今回の金融緩和政策は決して“バブル経済”の再来ではない!」と言い切っていた事を私はメディア画面を通して記憶している。
私に言わせてもらうと、「イージー・マネー」を最前線に呼び込む経済政策など“バブル”でしかあり得えないにもかかわらず、何故国民相手に「イージー・マネー」の投入を煽ったのか?? これこそが、今後の「アベノミクス」経済政策の限界を示す指標と私は捉える。
「アベノミクス」は、日本国内に於けるほんの一部の富裕層(これとて所詮庶民の範疇であり大してリッチでない層と私は捉えるが)を煽る事による“階級制度”を末端世界で築きたいのか? 今後益々多くの国民を更に貧困層に落とし入れ不幸にしないためにも、「イージー・マネー政策」は即刻辞めにするべきだ。 バブル銭にしか頼れない財務・経済政策など、原左都子に言わせてもらうと「イージー・アベノミクス」としか表現できないよ。 (以上、本エッセイ集 バックナンバーより私論部分を引用。)
このアベノミクスが引き起こしている株価乱高下現象を受けて、朝日新聞オピニオンページに興味深い記事が掲載されていた。
現在のアベノミクス経済状況を“バブル”と捉えるか? この現況下において20年前のバブル期を反省する人、あるいは早めに株や土地に手を出そうとする人等々、経験者が本音を語っている。 以下に要約して紹介しよう。
まず、「踊った人」の例から。
ジュリアナ東京が開店した1991年にちょうど20歳だったという女性荒木氏は、そのお立ち台で羽根扇を振りながら下々の人を見下ろし、何かの教祖になった気になって踊っていたらしい。 会場の熱気の中みんながトランス状態で、欲とか虚栄心とか人間のドロドロしたものが一つの大きな「気」になってそこに存在していた、と荒木氏は言う。 バブルに気付かずお金をばかばか使う残党がいて、今振り返るとおっかしいんじゃねえの、とも思うそうだ。 それでも、荒木氏自身は当時コンパニオンもして、会期が終わったらブランド衣装も全部もらえたし、打ち上げは船上パーティ。 「節度」という言葉を忘れているような雰囲気があったと思うとも語っている。
原左都子の私事と私論に入ろう。
バブル期以前の70年代に、上記荒木氏と同様“ディスコ狂”とも言える青春時代を踊り狂って過ごした私だが、その時代背景が全く異なる。
1991年と言えば、私は既に30代後半。 学問に驀進して大学院を修了しちょうど「修士」を取得した頃である。
趣味として音楽もダンスもずっと愛好していたが、ジュリアナ東京を訪れる機会は一度たりとてなかった。 影像で見るあの場は下劣で低俗で“馬鹿が集まる場”とのイメージしか抱けず、あえて避けて通ったとも言える。
コンパニオン(パーコン)もアルバイトの一環として経験した私だが、確かに“バブル期”だからこその職種だったことだろう。 私の場合、会期後の「打ち上げ」になど出席している時間がもったいなくて一切参加していないが、お陰で短時間で高給が稼げ学業に励む時間が確保できた事に感謝している。 今時“コンパニオン”なる言葉自体が死語化しているとも捉えている。
次に「こりごりな人」の例であるが。 48年生まれの末井氏は朝日新聞紙面で以下のように語っている。
小豆の先物取引や金、不動産にギャンブル、バブル期はいろんなものに手を出した。 ただただお金を増やす事が快感で、減ると落ち込む、それだけだった。 不動産は元より、しまいに郊外の栗林まで買ったため、結局大暴落して3億円の借金が残った。 これを競馬の大勝負で返そうと本気で考える程に、正常な思考が出来なくなっていた。 その後銀行と話し合って借金の一部をチャラにしてもらったが、今もまだ4千万円程をちょぼちょぼ返している。 といういきさつで、現在はアベノミクスに乗って一発当てようとの発想はない。
再び原左都子の私事と私論に入ろう。
こういう奴、一番迷惑だよなあ。
“バブル期”に少しばかりの小金を持っていたこの手の軽薄野郎どもが大量発生し、我が物顔で“イージーマネー”を世にバラ撒いた80年代後半の時代である。 その後バブル崩壊と共に大損失を計上した挙句の果てに、自分らの借金を銀行等との癒着でチャラになどしたからこそ、その後の不況期が長引いていることを肝に銘じさせるべきだよ。
軽薄志向のあんたらがチャラにした借金をその後我々庶民が血税の形で肩代わりし続けている事実に関して、現政権こそが今一度省みるべきであるし、その手の奴らには一生懺悔しながら生きるべく指導する責任があるというものだ。
私など、バブル期直前にそれまでの定職だった医学専門職を退き自らの意思で学業に励む選択をしたがために、80年代後半のバブル期とは実に厳しい時代であった。 ただ、その時代の苦労の程が現在の我が人格を創り上げてくれたと実感出来る、貴重な“華の時代”の印象も強い。
一番苦労させられたのは、バブル期直前に購入した自宅住居である不動産物件のローンが高金利だった事だ。 当時の我が家の住宅ローンはなんと!8%
で借入れた記憶がある。 それでも、私はこのローンを独身のうちにその後7年間で単独自力完済した。
朝日新聞記事3例目は1934年生まれの男性による 「再び(バブルを)期待する人」 とのテーマだが。 原左都子の私論としてはこの題目のみを一見して判断しても到底受け入れ難いため、割愛する事にしよう。
80年代後半の“経済バブル時期”に、単なる偶然ではあるが私自身がちょうど次なる自己実現意欲に燃えていた事を摩訶不思議にすら感じる現在だ。
もしも、当時私が勤務していた医学関連企業の勤務を続行していたならば、もしかしたらバブルの波に乗りその後“東証一部上場”を果している当該企業で相当の活躍ぶりを発揮していたのだろうか??
ところが、やはりそうではないであろうと私は結論付ける。
当時の私には私なりの確固たる夢が描けていた。
一民間企業との営利組織内で我が人生を犠牲にし続けるよりも、まだまだ30歳手前の私には、とにもかくにも更なる学業を全うしたい!との次なる人生に繋がる明確な目標が燦然と存在したのだ。
その我が夢を叶えてくれたのも、当時の時代が“経済バブル期”だったからこそと感謝しつつ、今回のエッセイを締めくくる事としよう。
(以上、本エッセイ集より2013年6月のバックナンバーを再掲載したもの。
2019年8月現在の我が私観を語ろう。
上記記載の私が所属していた医学関係企業(当時、社員数2000名規模の会社だったが)を退職せんとする時に、複数の上司がそれを引き留めてくれたものだ。
例えば、副社長。 退職直前期にこの副社長の指令により一つの仕事を単独で任され、それを私が立派に貫徹した印象が強かったのだろう。
少人数で実施された我が送別会にわざわざ副社長が出席して私に問うには、「貴方は我が社を退社して再び大学へ入学すると言うが、一体何処の分野を専攻する気なんだ??」
私応えて「経営学です。」 (当初の目的はそうだった。 入学後、分野が異なる「哲学」や「法学」に浮気をしまくった挙句、結果としては「経営法学」に落ち着いたのだが…
)
即座に副社長が返答して、「そんなのボクが教えてやるよ。(参考だが、この副社長は大手都市銀行頭取経験者だが、我が社に引き抜かれ副社長を任されていた。) 貴女は当社に残るべきだ。 医学をそのレベルまで積み上げていながら、何で今更「経営学」になど鞍替えする必要があんるんだ! 馬鹿な事を考えていないで医学を続けなさい!」
多少酒も入っていたのだろうがこの副社長のお言葉こそが、我が未来に向けた大きな激励ともなり最高の“贈る言葉”だったと私は判断している。
実際私は私なりに、医学(大方が「免疫学」だが)をその時代に追いつけるべく当該企業にてやり遂げた実感があった。 だからこそ、次なる目標である学問へとスムーズに転換可能だったと振り返る。
バブル経済とは話題がずれたが。
人の人生とは、時の経済情勢とはかかわりなく“浮き沈み”するのが世の常ではなかろうか?
そうではなく時の経済情勢(特にバブル経済)に翻弄される人生というものがあるならば、それは必ずや後に崩壊時期が訪れよう。
今現在就職が好況と浮かれている若き世代の人々も多い事だろう。
それは良しとしても、もしもそれが“バブル”だったのなら…
なる観点も見失うことなく、特に若き皆様には自らの専門を更に磨かんと精進して欲しいものだ。