原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

虐待被害児保護施設における虐待連鎖の悲劇

2010年11月30日 | 時事論評
 子供が(養父母等も含めた)親から虐待され死に至ったり、あるいは一命を取り留め保護される報道が昨今途絶えることがない現状は、皆さんもご承知の通りである。


 不幸中の幸いの事例として虐待被害児が公的機関に保護された報道に接した場合、我々一般市民は「鬼畜のごときの親とやっと離れることができ、これでこの子は命拾いした…」と一応安堵するものである。

 そんな中、元教育関係者でもある原左都子ももちろん被害児が保護されたことに安堵する一方、その後の虐待被害児の心身状態の回復や更正後の社会適応の程が大いに気掛かりなのである。
 と言うのも、メディア報道の情報発信の“偏り”により虐待事件そのもののニュースはいつも大々的に取り扱われ発信されているにもかかわらず、上記のような虐待被害児保護後の“その後”に関する情報がほとんど見当たらない現状であるからだ。 


 ここで今回の記事の趣旨から少しズレさせていただくことにしよう。
 この種のメディアの事件事象の取り扱い上の“偏り”は何も子供虐待事件に限った事ではないことについては、「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにおいて再三取り上げている。
 例えば学校におけるいじめがらみの某自殺事件にしても、事件後学校が責任問題をうやむやにしている事実こそをもっとメディアがつつくことに期待していたにもかかわらず、女児自殺後2週間も放ったらかし状態だった。 学校側の責任こそがずっと気になってしょうがなかった私がブログで取り上げた後に、遅ればせながらやっと学校側がいじめの実態を認めたとの報道を目にした。
 あるいは某女性国会議員の卵子提供体外受精妊娠事例の場合、私など、産む親である国会議員側の子供が欲しい身勝手な論理など二の次でよいから、産まれて来る体外受精児である子供の将来に渡る人権が保障されるのか否かに関する情報こそが今後欲しい思いをバックナンバーで訴えている。
 (プライバシー保護等の法的制約もあり、報道機関としても事件事象発生後の情報収集が困難であるのかもしれない。 それでも世の発展のためには、メディアは“金”につながるスクープのみを追っかけそれを国民の娯楽対象として“面白おかしく”報道するばかりではなく、総合的視野を持って世に真に役立つ情報を発信して欲しいものである。)


 中断が長引いてしまい恐縮だが、 そうしたところ11月27日朝日新聞夕刊において、珍しくも“虐待被害児保護後の実態”に関する調査結果の記事が掲載されているのを発見した。

 社会面の目立たない位置に小さく存在していた当該記事の内容を、以下に要約して紹介しよう。
 「児童相談所一時保護所研究会」(民間団体とのことらしいが)の調査により、虐待を受けた子供を緊急保護する一時保護所で、ほかの入所児童・生徒に暴力を振るった経験がある子供が3割に上っていることが分かった。 本来ケアされるべき施設で子供のストレスが溜まり「二次被害」が顕著になっている。 今回の調査は、全国124箇所の一時保護所にいる小学4年生以上を対象として実施され、そのうち43箇所(回答率35%)251人からの回答を得た結果の公表である。 その内容としては「(一時保護所内で)友達に暴力をよく(あるいは少し)振るった」り、「友達が傷つくような悪口を言ったり」とのことだ。 一時保護所とは、虐待や家出などの18歳未満の子供を緊急に保護する場であるが、1日あたりの保護人数は1475人と10年前の2,1倍であり、退所後の受け皿(がない事)も深刻で児童生徒の平均滞在日数は28日となっている。


 私論に移るが、これは原左都子が恐れていた通りの調査結果であると言える。
 まさに「虐待は連鎖する」悲劇が、虐待被害児等一時保護所において子供達の間で早くも展開されている実態を目の当たりにした思いである。

 子供虐待事件に関しては、地域住民よりの通報にもかかわらず地元児童相談所の対応が後手後手に回った挙句、児童の命が救えない現状を批判的に捉えている私である。
 ところが、やっと保護した後の児童達を預かっても一時保護所で児童間における“虐待連鎖”が早々と展開される悲惨な現状を心得ている施設担当者が、もしかして親元にいる方がまだまし、との判断を暗黙のうちに下しているのか…  とさえ推測してしまうような今回の記事内容である。

 この子供の虐待を取り巻く、まるで「地獄絵図」のごとくの現状をどう救えばよいのだろう。
 虐待被害児一時保護所の現実をこの記事によって垣間見てしまった私とて、頭を抱え込んでしまう課題である。
 一時保護所の職員数を増員して児童のケア、管理を強化しよう、と言ったところで、地方自治体とて経費削減に躍起である。 まさか、財政難にあえぐ国政がこの分野に予算増強するはずもない。
 それならば民間活力があるじゃないか! との結論に達しそうだ。 就職難にあえぐ若年層を高齢者福祉介護同様、虐待いじめ等子供が受ける被害をめぐる福祉救済分野に積極的に投入する手立てはありそうだ。 ただこれも、結局は国や地方自治体の今後の前向きな取り組みと大幅な資金援助が必要条件となろう。


 それにしても、就職難そしてそれ故の生活難にあえぐ今の世代の親達が元々の“虐待素質”加えて、もしも貧乏逆境のストレスがきっかけで家庭内において可愛いはずの我が子を虐待しているとすれば、上記の民間活力の提案とは“不幸と幸との堂々巡り”であるだけで根本的な解決策とはなり得ない気もするのだ。

 「虐待は連鎖する」ことは、親子がこの世に存在する限りその宿命として既に立証されているとも言える辛くて困難な命題でもある。
 それ故にそれを完全に撲滅するためには、その加害者に成り得るべく自覚がある人には「産まないという選択肢もある」との思い切ったメッセージを、原左都子はバックナンバーにおいて展開している。

 国政、自治体をはじめ(少額の子供手当てや医療手当てをバラ撒いてくれる以外は)誰も生まれてくる我が子を助けてくれるはずもない現状において尚、あえて子供を産み、その我が子をどうしても虐待してしまう自分が止められないから周囲の誰か助けて!! と絶叫する人種に対し、正直言って今のところ「産むな!」以外の適切なアドバイスがどうしても出来ない未熟者の私である…
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2回聴いたら飽きる歌

2010年11月27日 | 音楽
 元々音楽好きでジャンルを問わず大抵の音楽を受け入れられる原左都子にして、2度聴いて「もうええわ」と飽き飽きする歌に出くわすことがある。


 つい最近もこの手の歌に出くわした。
 実名を挙げて申し訳ないのだが、その歌とはシンガーソングライター植村花菜氏が弾き語りする 「トイレの神様」 という今年音楽賞を総なめにしているアレである。 植村氏はこの歌のヒットにより、今年のNHK紅白歌合戦にも出場が決定しているらしい。

 その歌詞の内容を少しかいつまんで紹介しよう。
 <小さい頃からおばあちゃんが大好きだった私は、おばあちゃんと五目並べをしたりしてよく遊んでいた。そのおばあちゃんがトイレ掃除を嫌がる私に「トイレにはトイレの女神様がいるから綺麗にすると自分もべっぴんになれるよ」とよく言っていた。私が大きくなるにつれおばあちゃんと疎遠となっていった。おばあちゃんが病気になってやっと私は病院で寝ているおばあちゃんの所へ行ったのだが、そんな私におばあちゃんは「もう帰れ」と冷たく言う。あくる日おばあちゃんは息を引き取った。私は今ではトイレ掃除が大好きだ。>
 (原左都子の記憶のみに頼って書きましたので、ニュアンスが異なりましたらお詫び致します。)

 どうもこの歌は若い世代に好んで受け入れられている故に、今年ヒットしているようだ。

 ところが、海千山千で図太く生きている 原左都子 の評価は若者とは異なる。
 そもそもこの種の“自己陶酔”系の歌とは、曲想や歌詞、そして歌唱力等総合力において相当の説得力がないと万人の心に響き渡らないものだ。

 この植村氏の場合、歌唱力はある。 ところがせっかくの歌唱力の割には残念ながら楽曲自体の説得力が弱いと原左都子はみるのだ。 そのアンバランス感故に“熱唱”を端で聞いている方が恥ずかしい感覚すら抱かされて、妙に居心地が悪い。
 植村氏ご本人の亡くなったおばあちゃんに対する思いを綴った歌であることは分かるが、歌詞がありきたりパターンのストーリー展開の域を超えていないが故に特段インパクトがないにもかかわらず、オーケストラをバックに長時間“朗々”と歌っているところに聴く側に“気恥ずかしさ”をもたらす要因があると分析するのだ。
 メロディーラインも一度聴いたら憶えてしまう程シンプル過ぎるところが物足りなく感じられ、もう少し工夫が欲しかったものである。
 この手の歌はさらりと手短に何気なく流して歌った方が、むしろインパクトがあるのかもしれない。


 同様の理由で“2度聴いて飽きた”歌として、数年前にヒットした 「千の風になって」 が挙げられる。
 「千の風…」の場合、秋川雅史氏が歌ったからよかった。 元々クラシックオペラ系のイケメン秋川氏がクラシック調に仕上げて、あくまでも“舞台物”として完成させ披露したからこそ絵になり、そのお陰であの歌は生命力を得てヒットしたと私は分析する。 故に、この歌を存在感のある秋川氏がご自身の持ち歌として今後舞台で歌い続ける分には何ら違和感はないどころか、一つの総合芸術作品としてまた拝見したいものである。

 「千の風…」を私が聴き飽きるのは、やはりその歌詞に原因があるのかもしれない。 生命体とは死んだら「無」に戻るべきとの“死生観”に基づいて生きている私にとって、この歌詞は多少鬱陶しく感じられる。 この歌詞に描かれているように(特に身近な)死んだ人に風になられていつまでも空を吹き渡られたのでは、生きて新しい人生を切り開こうとしている人間にとってはたまったものではない。
 


 大きく話が飛ぶが、聴くのも歌わされるのも嫌なのが学校の「校歌」ではなかろうか?
 特に私の場合、一番辛い時期だった高校の校歌は(持ち前の抜群の記憶力にもかかわらず??)どういう訳かまったく憶えていない。
 中学生の頃ブラスバンド部だった私は、歌った校歌よりも卒入学式や運動会の度にフルート演奏した伴奏の校歌の旋律の方をよく憶えている。

 そんな私が未だに印象的なのが小学校の校歌である。 私が入学した小学校は在校中に統廃合対象となり今は存在しないのだが、その校歌のみは鮮明に覚えているのだ。
 既にこの世から消え去ったその伝統ある歌詞を、私の幼き日の記憶を元に再現してここで紹介しよう。 (これを憶えているのは私のみかもしれないが、もしもこの小学校の歴代出身者でご記憶の方がおられるならば是非共ご連絡いただきたいものである。)

    ♪ ○○(地名)の浦に 年経て 寄る波も同じところに
      かえるなり かえるなり   ゆかし郷土に
      輝ける  ○○校(小学校の名前)         ♪

 こんな由緒正しき校歌が、統廃合と共に以下のごとく軽薄短小化されてしまった…。
 
    ♪ みんな元気で頑張ろう 我らの力 ○○小学校  ♪

 まったく「勘弁してよ」である。 こんな陳腐な歌詞など小学生とてアホ臭くて歌ってられないというものだ。

 30代にして自らの意志で修士修了まで6年間学問に励んだ大学の校歌は、自分から好んで歌ったものだ。   この校歌のサビの部分の歌詞が、何とも身の程知らずで凄いのだ!
  西條八十作詞、古関裕而作曲 我が出身大学校歌のサビの部分の歌詞を以下に紹介しよう。

    ♪ あ~~ ○○大(大学名)の 俊英(しゅんえ~~い♪) 我ら~ ♪
 ここまで“いけしゃーしゃー”と自分を讃えりゃ、ストレスもぶっ飛んですっきりするというものだ。


 たかが歌、されど歌、…… 
 出来れば自分のお気に入りの歌をいつも口ずさんでいたいと思いつつ、上記 “俊英(しゅんえ~~い♪)校歌 を我が子幼き頃より幾度も披露し一緒に合唱させている原左都子である♪  
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子供の学習における電子辞書使用の是非

2010年11月25日 | 教育・学校
 少し以前まで、子供の学習に電子辞書を使用することに関してその“弊害”が語られていたように記憶している。
 その後これ程までに電子辞書が普及した今、学習現場においてその使用の是非につき議論されることは既になくなったのだろうか?


 ここで我が家の実態を語ると、娘が高2になっている現在、学習に電子辞書を使用 「している」 。
 早くから電子辞書に飛びついた訳ではなく、小学生の頃はもちろん書籍の辞書を使用させていた。 中学生に進級した時、身内の推奨で多機能満載の電子辞書を買い与えたのだが、子ども本人がおそらくキーボード操作文字入力が面倒等電子辞書に使い慣れないことと、学校指定の書籍辞書を購入したこともあり、しばらくその電子辞書は専ら私専用となっていた。
 娘が高校に進学して以降は、パソコン学習を通してキーボード文字入力にもすっかり慣れたのか、毎日電子辞書を通学鞄に入れて登校している様子を見ると、今や教科を問わず電子辞書に頼る学習形態を採っているようだ。


 原左都子自身は、もちろんのこと電子辞書愛用派である。 一旦これに慣れると、もう書籍辞書を書棚から引っ張り出す行為自体が面倒な思いだ。 私の電子辞書には掲載されていない「医学」や「六法」関連等を調べるためたまに書籍事典を取り出してみるが、(何でこんなに文字が小さいの??)と、今さらながら自分の老眼の進み具合に愕然とさせられるのみである…。

 ただ、そんな私も書籍辞書の利点は過去における学習において把握できているため、我が子にはたまには書籍辞書を紐解いてみるよう指南している。
 辞書に限らず書籍の最大のメリットとは、その“一覧性”にあるであろう。 情報を得たい該当項目のみならず周辺情報までが同時に一覧できるのが書籍の最大の特徴と捉える。
 片や、パソコンや携帯そして電子辞書は、二次元ディスプレイの制約によりこの“一覧”がどうしても叶わない。 パソコンの場合、画面を重ねていくことは可能であるが、複数項目を並べて一覧する事は不能であることに、どうしてもまどろっこしさを感じざるを得ない私なのだ。 
 (もしかしたら、時代は私の想像以上に進化していて“一覧機能”のあるデータ処理装置が既に開発されているのだろうか? 3Dテレビはここでは置いといても、例えば新機能携帯電話の中には、本のごとくページをめくれる機種もあることは承知しているのだが…。 ただ、それでもあの狭い画面で複数のページを同時に見ることは不可能なんでしょ??)


 話が変わるが、我が娘幼少の頃より“お抱え家庭教師”として君臨している私は、現在娘の大学受験勉強の一部を陰でこっそり手伝っている。 既に自主学習力が十分身に付いている娘の主体性を尊重して、しばらく娘の学習に関しては疑問質問に答えるのみだった“サリバン先生”である原左都子が、娘の大学受験勉強のフォローを再び始めることに相成ったのには事情があるのだ。
 我が娘が芸術系大学進学を目指していることについては既に公開しているが、芸術系を目指す場合、その実技力の習得に相当の時間を要するのである。 日々美大予備校からの帰りが夜9時になる娘が、帰宅して後深夜まで学校の宿題に取り組む姿を目の当たりにして忍びない思いの私は、昼間学科受験勉強の補助をすることを申し出たのである。 (読者の皆さん、これを過保護だとどうか責めないで下さいね。 何分娘が多少の事情を抱えていることを承知の上で“世を真っ当に渡らせよう!”との鬼母である原左都子の指導の下で、幼少の頃より何事にも並々ならぬ努力を重ねている娘の頑張りを私なりに応援してやりたいのだ。 そして、親としてはやはり子どもの健康維持を最優先することが先決問題でもあるし…)

 私が娘に申し出たフォローとは、受験英語長文読解の“単語調べ”である。
 自分で単語を調べてこそ英語力が付くことも、当然ながら我が人生において幾度も大学受験や大学院受験等を繰り返した原左都子とて重々承知の上なのであるが、我が娘は何分持って生まれた事情故に何をこなすにもスローペースで、結果として人より“絶対時間が少ない”ことをご理解願えたら幸いである。

 ここで活躍するのが電子辞書である。 
 当然ながら私が若かりし時代にはこんな長物はなく、専ら書籍辞書に頼っていたものだ。 英単語調べとは正直言って“しんどい”作業だった。 私の過去の度重なる受験勉強において一番時間を要したのが英単語辞書調べであったと言っても過言ではない。 もちろん、「出る単」(森一郎著「受験に出る英単語」)等で英単語を学習、記憶する作業も平行しているのだが、実際の英文長文読解学習においては分からない単語を一語一語丹念に辞書で調べるしか方法がなかったものだ。

 その点、電子辞書の威力とは凄い!のだ。
 あっという間に単語調べが片付いてしまう。 (ディスプレイの文字も大きくて年寄りにも親切だしね!)
 同単語の動詞形、形容詞形、副詞形等関連単語もディスプレイの上下に表示されているし、ある程度の一覧学習も可能なのかもしれない。
 ただし、もしかしたらそれは過去において英単語を何度もマスターしている私が電子辞書を使っている故にこれ程簡単に感じるだけの話なのだろうか…?


 それでも、私が昼間娘のために電子辞書を用いて手作りしておいた「英単語帳」に頼って、今まで多少敬遠していた英語長文読解に積極的に取り組んでいる我が娘である。
 この「手作り英単語帳」を用いて、親子単語合戦をしたりして楽しんでいる我が親子でもある。 当然ながら今は私が大勝しているのだが、そのうち娘が逆転してくれることに期待しつつ本日も娘の長文読解課題の英単語を電子辞書で調べた私だ。

 そんな我が家の場合は、子供の学習に電子辞書を使用することは「是」であると結論付けたい原左都子である。 
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ピアノ騒音、どう対処していますか?

2010年11月23日 | 音楽
 近頃のピアノは大きさがコンパクトになっているにもかかわらず、音色がいいらしいことを新聞一面広告で発見した。
 その新聞広告によると、国内楽器メーカー ヤマハ の新開発アップライトピアノは高さが113cmとのことらしい。 私が認識している旧来のピアノの高さはおそらく140~150cm程ではないかと思うのだが、アコースティックピアノにして音質を向上させ、尚かつ大きさ面における技術革新は目覚ましいものがあるのを実感する。
 さて、その価格は??  残念ながら広告には記載がないため価格は不明である。


 幼少の頃より音楽好きの私であるにもかかわらず、(親の不覚の致すところにより)ピアノを習い損ねている。 
 中学校でブラスバンド部に所属していた時、周囲の部員達のほどんどがピアノを経験していた。 その部員達が幼少の頃よりのピアノを通しての音楽経験に基づきブラスバンド部においてさらなる楽器に挑戦していることを悟った私は、 (音楽の出発点はピアノであるのに、何でうちの親は自分の娘が音楽の才能が豊かな??ことに気付かず、私にピアノを習わせるという発想が湧かなかったのだろう?)と、一種“恨み”にも似た感情を抱いたものである。
 その“恨み感情”をいつ頃だったか、親にぶつけた事がある。 
 そうしたところ、「申し訳なかった。あなたが今からピアノを習うのは手遅れだろうしその時間も取れないだろうから、必ずやあなたが将来産む子どものピアノ費用は我々が負担する。」 との親からの“降服条件”を取り付けていた私である。


 時が流れるのは早いものだ。 高齢出産の私が産んだ子どもがピアノ適齢期に達するまでには数十年の年月が流れているはずなのに、上記の約束のみは私と親との間でキラキラと輝き続けていたのである。

 相変わらず音楽好きな私は、我が子が2歳時点で既にヤマハ音楽教室の門戸をたたいている。 だが、2歳でピアノを習うのは時期尚早とのヤマハの説明に合意し、とりあえずは「音のゆうえんち」と称した小集団で親子共々音楽を楽しみながら遊ぶ教室を経験している。
 我が子が4歳になった時点で、いよいよヤマハでピアノ個人レッスンをすることに相成った。


 さて肝心のピアノであるが、実は我が身内が幼少の頃よりピアノを習っていてそのピアノが何十年も経過した今、身内の実家に燦然と存在していたのである! それに目敏く“つばをつけた”私は、義母に早くも交渉したのだ。 「あの…、もしよろしければあのピアノを我が娘にお譲りいただけませんか?」
 それに応えた義母曰く 「こんな“おんぼろピアノ”でよかったら喜んで差し上げるけど、今時もっといいピアノがいくらでも売ってるでしょ??」

 ここで、この“おんぼろピアノ”について私の分かる範囲で解説しよう。 
 実はこのピアノは“ETERNA“とのブランドの、今はなき国内メーカーが制作した希少なピアノだったのである。 そのメーカーは昭和44年にヤマハに経営吸収されたものの、今現在尚その音色のすばらしさが一部のピアノファンの間で高い評価を得ているとの話も見聞する。
 何故にこの種の希少価値ピアノを我が身内の実家が購入に至ったのかというと、たまたま身内の実家が経営するアパートに某交響楽団の楽員が住んでいたらしく、身内がその楽員にピアノを習い、その人物が推奨するピアノが“ETERNA”であったためにそれを購入したとのいきさつらしいのだ。

 そんな“希少価値”のピアノを身内の実家から無償にてゲットしたものの、集合住宅である我が家に設置したことが“不幸の始まり”だったのだ。
 そのピアノの音色がすばらしいばかりに (いえいえ決してそうではなく我が子の奏でるピアノ音が雑音の範疇を超えていないから故に)、 周辺住居への騒音迷惑は相当のものだったようだ。 その実態に素早く気付いた私は、頭を悩ませた挙句、ピアノを買い換える決断をしたのだ。
 そして、当時流行っていたサイレントピアノ(これとて当時数十万円程の出費だったのだが)を購入する計画を立て、我が親に約束通りの資金援助をしてもらったのである。 ところがその当時“ETERNA”ピアノという代物が世に名立たる希少価値を誇っていいることを私も身内もまったく心得ず、何と!引き取り費用として5万円程を出費して撤去してもらったのである…。
 しかももっと不幸なことに、我が子がその後まもなくピアノを辞める結果となったのだ…   (やめるならば、“ETERNA”ピアノをそのまま我が家に温存しておけばよかったのに… と思ってみても後の祭りである。 今となっては我がリビングの片隅に、滅多に弾かれることのないサイレントピアノと私が若かりし頃に購入した時代物の“電子オルガン”が寒々と存在しているのみである…)


 そんな我が家であるが、さらに不幸なことに、実は現在の集合住宅において下層の住民の“ピアノ騒音”に悩まされている実情なのだ。 
 我が家の場合、過去におけるピアノ騒音の“加害者”としての教訓が活きていることもあり、娘がピアノを辞めた暁には私の趣味の“電子オルガン”もヘッドホン利用でずっと我慢してきている。
 現在の集合住宅の管理組合を通して我が家以外の住民の皆さんからも再三騒音等につき配慮を促しているにもかかわらず、どうしてもピアノを弾き続ける下層住民が存在するのが実情である。

 大都会の集合住宅における“騒音被害(加害)者”の例外ではないことを私も日々心得え続けているが、この種の騒音に対し、集合住宅にお住まいの皆さんはどのように対処されているのだろうか?
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“年の差恋愛”の行き着く先は?

2010年11月20日 | 恋愛・男女関係
 先月、病院の待合室で手に取った週刊誌 AERAの記事の中に“年の差恋愛”が取り上げられていた。

 “年の差恋愛”と聞くと、多くの皆さんは高齢男性と若い女性との恋愛か? あるいは、近年流行りの40代前後の女性が10数歳年下の男性をゲットする話かな? 等々、想像されることであろう。

 今回の記事の内容はそうではないのだ!
 なんと、50代以上の女性が我が子や孫よりも若い20代の男性(男の子と言うべきか)と付き合っている記事なのである。
 「そんなのありえない話だ。面白おかしい作り話だよ。」と疑ってかかるのが大方の反応であろう。

 ところが、原左都子の感想は(やっぱり、今これが流行っているんだ…)だった。
 と言うのも、私の身近にこの“年の差恋愛”に近い話が実在するのだ。


 ここで、私の身近に発生したこの種の事例を少し紹介することにしよう。

 私と同年代の知人女性が、昼間ショッピング中に20代後半の男の子に声を掛けられたのだと言う。
 「あの…、ボクの好みなんですけど、よかったらお茶に付き合ってもらえませんか?」と名刺を手渡されたそうだ。  (そんな訳はないぞ、これはセールスか何かで年寄りを騙そうとしてるぞ。きっと背後に悪徳組織が控えているに違いない。)と警戒しつつ、名刺の職業に興味を持ってお茶に付き合ったと言うのだ。 そして、相手の男の子の名刺に記されている職業等について尋ねたり、いろいろとたわいない会話をしたらしい。
 帰り際に「これからホテルへ行きませんか?」と誘われ仰天し、「今日出会ったばかりでホテルへ行く訳がないでしょ!」と説教をしたら、「じゃあ、また今度ランチでも一緒して下さい」と言われたらしい。 その後メール交換しつつ、昼間会ってお茶やランチ、カラオケを楽しむのだが、どうしても彼の要求は「ホテル」に行き着くらしいのだ。 「若い子がセックスしたい気持ちは分かるけど、セックスとは“愛”があってこそ官能感が味わえるものなのよ。 それに私ほどの年齢になると、セックスが何にも勝る快楽ではありえないのも正直なところよ。」  このセックス感の食い違いに加えて、当初は世代間ギャップが物珍しく新鮮だった彼との会話も、デートを重ねることにそのギャップが鬱陶しくなり、2人の関係は自然消滅したのだと言う。
 その後この男の子はセックスさえしてくれれば誰でもいいレベルの相手をゲットしたのだろうか? (風俗利用の場合高額出費になるが、街でお気軽女性をゲットすればホテル代のみで済むからね~。今時の若き肉食女性はナンパになんか乗ってくれないが、年寄り女性なら喜んでついて来るし~~、と目論んでいたのかもしれないよね。)
 あるいはこの男の子の目的が“金”等その他にあったのかについては、早々付き合いを切り上げたため不明だそうだ。 


 そうこうしているうちに、やはり同様の相談を朝日新聞紙面で発見した。

 朝日新聞11月13日付“悩みのるつぼ”の相談は、70歳主婦による「30代の彼と別れられません」であった。 相談内容を少しかいつまんで以下に紹介しよう。
 今から遡ること10年前に、行きつけの美容院の当時20代半ばだった美容師男性と知り合った。 本気で好きになり、その彼に年間300万円にも及ぶ贈り物をしつつ付き合いが続いている。 彼には彼女が2人ほどいて、自分がいくら頼んでも部屋には連れて行ってもらえず、体の関係はキスまででそれ以上はない。 私にはすばらしい夫がいて何も他に求めることはない。 彼の美容院には1時間半ほどかけて週1回通っている。電話しても出ないし、買い物ばかり行きたがる彼に対し不満だらけなのに別れられない。 やはりこんな彼とは別れたいと思っているが、どうすればいいか?


 ここで私論になるが、上記“悩みのるつぼ”の事例の場合、若き美容師男性の付き合いの目的が「金」であることは明白な事実であろう。 それに重々気付きつつも70歳の女性が一方通行の恋愛に苦悩する姿が見て取れる相談内容であり、その10年の月日が痛々しくもある。

 今回の相談回答者は社会学者の上野千鶴子氏であられるが、「ペットだと思えば腹も立ちません」と題する回答が私論と一致するため、以下にその一部を紹介しよう。
 あなたは70代、お相手は30代、この年齢差で異性のペットを飼えるお金が年間300万円もあるなんて羨ましい。少々維持費がかかるペットと思えばいいでしょう。 そもそもペットとは見て楽しみ、そばにおいて喜ぶ以上に何の役にも立たないものだ。夫との間にトラブルも起きずその彼との関係が暮らしのうるおいになっているなら、その関係をやめる理由は何一つないはずだ。 にもかかわらず、あなたは今苦しんでおられる、こんな関係はやめた方がよいと。 それはあなたが相手に対し見返りを要求したいからに他ならない。 で、あなたは彼から何の見返りを要求したいのでしょう? セックス? 愛情? ペットの飼い主であるための条件は抑制と寛容、すなわち支配者の徳であり、それが持てないならば飼い主の資格はない。


 まさに上野千鶴子氏のおっしゃる通りである。
 男であれ女であれ人生経験を積んだ人間が、世の秩序、道理に背いてまでも“若き世代の肉体”を欲するならば、それはそれなりの覚悟を要するものだ。 たとえ金力で若者をなびかせようとて、その種の不自然な男女関係が長続きするはずもないのは誰が考えても自明の理である。 にもかかわらず金力によって若者をなびかせた場合、それは「ペット」の域を超えていないと早期に悟って付き合いを続行する以外に身の置き所はないであろう。

 一方で現在の若い世代の男性とは、過去において若き女性が男の経済力に依存した「援助交際」のごとくの他力本願の歴史をそのまま模倣し、軟弱化していることを目の当たりにさせられる思いである。
 そこで、若き世代の男子にも忠告申し上げたい。 自己の性欲の発散を実現するためには、年配女性の“お気軽さ”や“金力”に頼らず、同世代の女性と健全な出会いをして対等な付き合いをするべく少しは努力しなさい、と。


 それ以前の問題として、今時の更年期以降の年配女性とは“若き男性”の体を求め彷徨っているのだろうか? 
 見かけのみは新開発化粧品やエステ等で一生懸命若返りを試みつつも、内面では自らの今後の生き様を見据えられず、みすぼらしくも性的欲求不満を溜め込んだまま年老いているのが現実なのか??
 それが事実とするならば、この日本社会の水面下では過去における男尊女卑の歴史を女性が取り違えて模倣し、虚しく彷徨うばかりに落ちぶれているとしか表現しようがない現実である。
               
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