原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

突然下腹を急降下する“下り龍”と貴方はどう闘っていますか?

2016年11月28日 | 医学・医療・介護
 おそらく高齢期に差し掛かった以降の人達は、便通の乱れと闘う日が増えている事と察する。

 子供の頃から慢性的に便秘気味で「下痢」とはほとんど縁がなかった私が、特段の理由が見当たらないのに「便秘」と「下痢」を繰り返すようになったのは今から5年程前、50代後半の頃からだ。

 特に午前中家で過ごしている日に「下痢」に見舞われる日が多くなった。 回復が早い時は朝の10時頃までに症状が収まるのだが、遅い時には午後2頃まで下痢症状が続いた。
 ただ私の場合不思議なのは、出掛けねばならない予定がある日には下痢症状が必ずやその時間までに収まる事だ。 これを自己診断するに、むしろ予定が無い時ほど症状が重いとなると、何らかの私なりの特異的なストレス等精神的要因が大きく作用していると結論付けている。

 それにしても、既に5年。 ほぼ毎朝「便秘」か「下痢」を繰り返す日々だ。
 2年程前にそれを郷里の母に話したところ、「直ぐに病院へ行って看てもらうべきだ。 年齢的に大腸癌も考えられるよ」と脅される始末……  (これを人から言われるのが嫌だから病院へ行かないのに…)

 そんな私も、母に言われたからという訳ではないが、2年程前に腰痛が激しくなった時に一度近くの医院を訪れて、ついでに便通の乱れに関して医師に相談した事がある。
 この医院は現在の住居地に引越して以来14年程の間に、3度程私の意思で訪れ診察を受けている。
 当該医院を経営するお医者さん、私より少し年上とお見受けしているが、私の評価では“出来る人”なのだ。  とにかく、病気の診断をすると言うよりも、患者の特質を見抜く能力に長けていて、患者が欲する回答を出してくれるのが素晴らしい!  私の場合、決して自分から医学経験があることを伝えた訳でもないのに、どうも医師はそれを嗅ぎ取っている様子だ。 しかも我が検査嫌い・投薬嫌いをとっくの昔からお見通しで、「出して欲しい薬があれば出しますが。」などと提案して下さる。
 その時の診察時の医師の回答とは、何らの検査もせずして「便通の乱れは年齢的な要因によるものでしょう。 下痢は食生活を気を付ける等で改善したらどうですか? 片や便秘で便が出ないのは辛いでしょうから便秘薬のみ処方しておきましょうか?」との事でそうして頂いた。


 さて、話題を変えよう。
 
 2016.11.26 朝日新聞別刷「be」 “between” 今回のテーマは 「便通の乱れが気になりますか?」だった。 
 (私見だが、おーー、そうか。 やはり便通の乱れを起こしている国民は私に限らず数多いのだな~。 などと妙に安堵する私だ。)

 その調査結果を以下に紹介すると。
 「はい」が39%。  (意外と少ないではないか…、と落胆する私… )
 ただし、やはり50代以降にそれを発症している人々が 31%と多い様子だ。

 この記事内に紹介されている「電車が生き地獄と化す」 なる実例が我が身とダブり、恐怖心を抱かされる。  早速以下にそれを紹介しよう。
 ドラックストアで買物をする時、某女性(57歳)は大人用の紙オムツの前で立ち止まり、「今度、遠出するから買っとかなくちゃ」。  それが必要なのは彼女自身。 履いていないとトイレの無い電車に乗れないからだ。 下腹を急降下する便意が起きても、履いていれば被害を最小限に食い止められる。 そう自己暗示をかければパニックに陥らずに済むという。
 某メーカーで働く女性(54歳)は、通勤電車は何があろうとトイレ付車両に乗り、そこで差し迫った「大きな用事」を済ませるのが日課だという。 苦痛なのは毎朝会社に辿り着くまでにその用事が繰り返し切羽詰まることだ。 「原因は仕事の重圧。 私がミスを犯すと社内全体のスケジュールを狂わせてしまう。でも会社は辞められないから下痢と付き合うしかない」
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)


 実は私も、娘小6の時に家族で北海道旅行を実行した際、バス乗車中に下腹を急降下する“下り龍”に襲われた経験がある。  おそらく私が50歳時、未だ現在のように日々便通の乱れに悩んでいない頃の話だ。

 レンタカーでも借りれば良かったのだろうが(何分亭主に遠出運転をさせると寝込むし、私も運転嫌いのため)、当該旅行は私の大の苦手の「団体バス旅行」におんぶした。
 これが大変! 旅程も4日目になると我が集団嫌いが既に爆発しそうな程のストレス満杯状態だった。
 4日目は早朝から小樽を訪れ、その後美瑛や富良野を訪れる旅程だ。 既に早朝バスに乗る前から集団行動ストレスによる下痢を発症していた私だが、当日夜には東京へ帰宅する最終日のため、団体バスに乗り込まねばそれが叶わない。 今思えば「オムツ」でも持参すればよかったものの、それさえ無かった時代背景だ。 
 やむを得ずバスに乗り込んだものの、既に乗車時点から「下り龍」が我が下腹を急降下する。
 小樽に到着するまで30分程だっただろうか? 我慢強い私があれ程までの苦しみに耐えたのは最初で最後だったかもしれない。 しかも到着後「体調不良のため、次なるバスの出発時まで団体行動から逸脱したい」と訴えるのも苦しんでいる私本人だし(亭主はこういう場面では元々役に立たないキャラ)、それに対するツアーコンダクター氏の回答にも愕然とさせられた。 何と彼女は「困りますね。これから集団写真撮影なのに!」
 (まずはツアー客の体調こそを気遣うべきなのに)と呆れ果てた私は、小樽でのバス集合場所・時間を確認した後、即刻近くのホテルのトイレに駆け込んだ。
 まあ少し救われたのは、その後の小樽での個人行動中に亭主と娘が下痢をしている私に優しく対応してくれた事だ。 要するに“役には立たないが優しい”家族に支えられ、我が家が現在まで成り立っている事実を付け加えておこう。


 突然、下腹を襲う「下り龍」被害に遭うとの経験は、誰しも少なくないのではなかろうか?

 特に現役世代で社会にて活躍している方々のそのご苦労の程を察し、懸念する。
 もしも都会の満員電車内でその被害に遭う事も十分に想像可能だ。 都会の場合、通勤時間帯の大混雑を思い起こしただけで、救いようの無さに愕然とさせられる。

 ただ、現在は「大人用オムツ」なる便利な商品が販売されている時代だ。
 上記朝日新聞内に紹介されている女性が、それに頼れば確かに“自己暗示”効果が発揮されると発言している通り、水面下でその種の商品を有効利用するとの方策も取れよう。
 
 とにもかくにも現在の過酷な社会情勢に耐えねばならない現役世代の方々こそが、便通の乱れなどに翻弄されず積極的に適切な対策をとり、その厳しい現状から脱出して欲しいものだ。

健常者と障害者との線引きが困難な時代

2016年11月26日 | 時事論評
 昨日11月25日朝日新聞夕刊一面トップ記事は、「やまゆり園の対応『不十分』」 だった。

 冒頭より、当該記事の一部を要約して紹介しよう。
 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が殺害された事件を受け、神奈川県が設置した第三者委員会が25日、知事宛に報告書を提出した。
 利用者に危害が及ぶ恐れを事件前に認識しながら県に報告しないなど、対応が不十分だったと結論付けた。


 少し前のネット情報に、衆院議員・野田聖子氏が語る「障害児の息子がくれたもの」と題する記事内にも、当該事件に関する野田氏のコメントが公開されていたため、次にその内容のごく一部を紹介しよう。
 
 障害をかかえる息子、真輝くんを育てる野田聖子さん。 日々子育てをしながら、また相模原事件を受け、何を思ったか。 母親として国会議員として今の社会に伝えたいことを聞いた。
 今年7月、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員、植松聖容疑者(26)が入所者19人を殺害する事件があった。 容疑者は逮捕後の取り調べでも一貫して「障害者は不要な存在」と主張し、ネットではその主張に共感する書き込みも見られる。
 野田氏曰く、「私はこの事件に驚きませんでした。こういう事件がいつか起きるんじゃないかという思いがずっとありましたから。」 「(息子の)真輝が生まれてから、障害者を嫌悪する社会の空気をずいぶん吸い込んできたので、今回の事件は、単に用意されていた導火線に火が付いただけなんだと感じたんです。」
 「最初に感じたのは息子に対し『かわいそう』って言われたとき。 自然に出てくる言葉で悪意はないんだけど、かわいそうという言葉は上から目線だし、言われた瞬間、排除される感じがした。 そこには障害者に対する不要感が漂っている。 悪気がないだけ社会のスタンダードなんだと感じました。」
 「障害者=不幸、と思っている人は多い。」「社会には、障害者は役立たずで国に負荷をかけている、と考える人がいますが、息子が今後どう社会に貢献するかわからないじゃないですか。」
 植松容疑者も「障害者は生きていてもしょうがない」と話した事に関して、
 「いつか起きると思っていた」「医療が発達してこれまで助からなかった赤ちゃんも助かるようになり、医療的ケア児は増えていたんだけど、肝心の社会基盤を支える法律の中で存在が認められていなかった。だから問題が次々起きた。」 
 そして、「“健常”っていう言葉をなくしたい。健常者の定義なんてないでしょ。健常と障害の境目なんてどこにあるのか誰にもわからないし、健常者って正直、幻だと思います。 年を取れば誰もが障害者になる可能性があるんですから。」 
 (以上ネット情報 ※AERA 2016年11月7日号  より一部を引用したもの。)


 ここで参考だが、原左都子は衆院議員野田氏が50歳との高齢にして自然分娩とはかけ離れた手段にて子どもを産もうと志し、それを実行した事実を肯定的に捉えていない立場である事を明言しておく。
 2010.11.09バックナンバー「野田聖子さん、生まれて来る子どもの人権に思いが及んでいますか?」 と題する我がエッセイには、今尚多くのアクセスが届いている。

 その上で、上記に紹介した野田氏の談話内容には同意する私だ。
 と言うよりも、私自身も我が子を育てる過程で野田氏が経験したのと同類の感情を抱いた立場だ。

 バックナンバーでも我が娘に関するその事例を複数紹介して来ている。
 その中で、今思い出す事例を反復するなら……

 我が娘の場合、一見普通の子に見えるため、野田氏とは対極の苦労があった。
 「かわいそう」と言われるどころか、「この子は普通の子ですよ。お母さんが勘違いしているだけです」と地元教委の指導者から言われてしまえば、もはや学校等公共機関内での我が子の成長・発展が見込めない。 元々、医学・教育学経験がある母の私がサリバンとして精進するべく志していた我が家に於いては、今になって思えばむしろ公的機関からさほどの害を受けずに済んだ事を喜ぶべきかもしれない。

 相模原事件に関しては、この世の障害者に対する認識の未成熟さを思うと、野田氏同様にいつかは必然的に起るであろうと私も予想していたとも言えよう。

 「“健常”っていう言葉をなくしたい。健常者の定義なんてないでしょ。健常と障害の境目なんてどこにあるのか誰にもわからないし…」なる野田氏の発言には、100%同感の私だ。
 我が子が小学校低学年時代に学校で“いじめ”に遭った時に、それを最初に実感させられた。
 いじめ被害児の母であるサリバンの私が即刻学校に我が子が受けたいじめを訴え出て、それに学校側もすぐさま対応してくれ何とかその状況から逃れる事が叶ったのだが…
 その時に被害者の立場で感じたのは、加害者(要するにいじめた側の子供)こそが大きな問題を抱えているとの事実だ。  例えば、加害者児童の親が離再婚を繰り返していたり、宗教活動に精を出して不在だったり…  その状況下に育っている幼き児童が、健常に暮らせる訳もないだろう。 そのストレスの鉾先を“弱き存在の”我が娘にぶつけたのだろう。

 話題が大幅にズレるが、医学関係者である私は、医療検査目的の結果診断に於いて、昔は「正常値」「異常値」なる表現が普通に使用されていた事実にも大いなる反発心を抱いていた。
 そもそも、医学検査に於いて何が診断されると医療界は勘違いしておごっているのか?! 人体(他の生命体もすべて含めて)とはそもそも不可思議な存在だ。 数値のみの上下限を勝手な尺度で測り、「あなたは正常」 「あなたは異常だから再検査!」と単純に線引きするその行為が、どれだけ善良な庶民を不安に陥れている事だろう。


 最後に、私論でまとめよう。

 相模原事件に関して再度言うならば、一体誰が「真の」障害者であるのかを私が結論付けるまでもなかろう。
 確かに、植松容疑者と同様の思想を持つ市民が少なくない事実を私も脳裏で捉えている。 ただし、それを実行に移すのか、単に思想として抱くのかの間には明らかな隔たりがあろう事実もわきまえている。 
 植松容疑者の場合、それを実際この世で実行に移してしまったとの事実を鑑みるに、そもそも何らかの精神異常DNA素質を抱えているのであろうし、悲しいかな、これぞ典型的な「障害者」であると結論付けられそうだ。

 そうなると、「真正障害者」対策を如何に施すかが今後の我が国や自治体の課題となろう。

 議論が飛ぶことは承知だが、我が娘幼き頃に娘に対して“いじめ”を施した加害者児童達のフォローを周囲の大人達がおろそかにしたり誤った対応を取ると、その児童達が将来的に危険性を伴った「真正障害者」に成り下がる恐れが否めないのではないのかと、想像したりもする。
 
 原左都子の結論としては、障害者対策よりも国家や自治体が優先して実施するべきは、「障害者排除思想」撲滅対策ではあるまいか。

旅行中は電子機器やネットから離れてはどうか?

2016年11月24日 | 時事論評
 一人の若者が、旅行中にかけがえのない命を失った……

 コロンビアにて持参していた電子機器を強奪され、それを取り返すべく犯人を追いかけたところ銃で撃たれたとの報道だ。


 以下に、「コロンビア邦人殺人事件 被害者は一橋大学学生(22)と判明 」と題するネット情報を要約引用させていただこう。

 11月19日に南米コロンビアのメデジンで邦人男性が殺害される事件が発生した。 その後、現地警察の捜査でパスポートの情報などから被害者が千葉県船橋に住む一橋大学の学生で井崎亮さん(22)であることが判明した。
 井崎さんは大学4年になった時に大学を休業し、世界一周の旅に出ていた。 来年の2月には日本に戻ってくる予定で、大学の友人は帰国した際に合う約束をしていたという。 事件現場となったメデジンには事件当日に訪れたばかりだった。
 メデジンを訪れた時に井崎さんは電子機器を持って歩いており、その時に後ろから来た男から電子機器を強奪されたため、井崎さんは犯人を追いかけた。 男ともみ合いとなった際に別の男から銃で撃たれ死亡した。 現地警察では2人組の犯行とみて捜査をしている。
 井崎さんの訃報を知らされた家族は現地に向かっている。
 井崎さんが最後に更新したブログにはメキシコの首都・メキシコシティーを訪れた様子が書き込まれており、ブログの最後にはこれからコロンビアに向かうことが綴られ「次はコロンビアへ!ついに南米上陸です!楽しみ!」と旅行を楽しんでいる様子が記載されていた。
 過去メデジンは大規模麻薬組織の拠点として世界最悪の治安と言われていた。 しかし近年では大きく改善され1991年に人口10万人当たり266件殺人事件が発生していたが、2015年には20件と激減していた。 外国人が殺害されたのは今年に入り4人目という。
 楽しみにしていた南米大陸で最悪な事件が起きてしまった。 井崎さんのご冥福をお祈りします。
 (以上、ネット情報を引用紹介したもの。)


 ここから、原左都子の私事に入ろう。

 私も、どちらかというと“旅行好き”な人種に分類されるのであろう。
 そんな私だが、旅行を実施するに当たり私なりの「旅」に関する鉄則が2つある。

 その一つは、“一つの旅を3度楽しむ”という事だ。 如何なる鉄則か、以下に紹介しよう。

 まずは、立案・計画。
 旅とは、基本的に「個人旅行」の形で実施するべきというのが我がポリシーだ。 そのためには、旅に関する事前の立案・計画・調査作業が欠かせない。
 この作業がこれまた楽しみでもある。 来るべく出発の日まで、この作業により既に想像上旅に出たかのような感覚に陥る事が可能となる。
 私の場合、本格的な個人旅行に出たのは独身時代30歳過ぎて以降だ。 その後、婚姻・出産の後に家族旅行を実施するに当たっても、ずっと私が旅の立案・計画作業を担当して来た。 家族のツアーコンダクターである私は十分に周知の上で旅に出たのだが、果たして事前作業に一切加わっていない家族は旅を如何に楽しんだのかどうか??

 2つ目として、旅本番を楽しむのは言うまでもない。

 旅を楽しむ3つ目とは、帰宅した後の作業だ。
 私の場合、当該「原左都子エッセイ集」がその役割を果たしてくれている。
 旅先で撮影した写真を閲覧しつつ、今回の旅を如何にエッセイとしてまとめるかが旅行後の私の課題となる。
 オピニオンエッセイ公開を主軸としている我がエッセイ集の場合、単に「行って来ました。見て来ました。」のみではない、自己の思想やポリシーを必ずや「旅行記」に盛り込みたい。 そのためには、旅道中の観察力やメモ書き作業も欠かせない作業だ。 ただそれ程苦労せずして、いずれの旅行に関しても我が脳裏に「感激」「反感」「不可思議」等の思い出が刻み込まれているものだ。
 それらの感情を表出しつつ「旅行記」を綴る時間も、私にとってかけがえのない「旅」の一部だ。
 昨日も Popular Entries に 1月に実行したイタリア旅行記の一つ「ローマ・テルミニ駅編」がエントリーしていた。 おそらくこれを閲覧して下さる方々とは、実際にテルミニ駅を利用したいがために閲覧されたものと推測する。 本日自分でこのエッセイを読み返して、テルミニ駅を利用したあの日の我が感情が鮮明に蘇った。  これぞ、4度目の旅の楽しみとも言えよう。


 我が旅に関する次なる鉄則とは。
 
 それは、いつも旅に出る直前に当該エッセイ集にて公開している通り、旅道中に決して電子機器類を携帯しないという事実だ。
 いや、さすがに国際情勢の治安が急激に悪化した現在に於いて、本年1月にイタリア旅行に出る際には「国際通話可能携帯電話」は持参した。 ただ、これはあくまでも“緊急時対応対策”であり、ただの一度も発信する事は無かった。  8月の台湾旅行とて同様だ。(ホテルのバスタブで後頭部強打した時には、もしかしたら緊急連絡を要するかと懸念したが、それも結果として自力で乗り越えた。

 何故、旅行の際に私が電子機器を持参しないかと言えば、(特に国内旅行の場合)私にとって重要でない発信着信が過去に数多くあった事実が鬱陶しかった故だ。 (その後、ネットから携帯に着信しない設定に切り替えて長年が経過している。)
 この私も、ご覧の通り「原左都子エッセイ集」をネット上に公開している身だ。 確かに公開初期は反応が来る事自体が嬉しい時期もあった。 ところが、既に10年近くの年月に渡りそれを公開している身としては、「旅行中くらい、我がエッセイ集から解放されたい」と思うのが正直なところなのだ。
 旅行から帰宅した後にそれを確認すれば済むし、帰宅後ゆっくりと「旅行記」を公開しつつ、相変わらず読者の皆様がご訪問下さる事実に触れるだけで私にとっては十分嬉しい事だ。

 例えば商用旅行の場合、国内外を問わず電子機器を携帯するのは不可欠なのだろう。
 そうではなさそうなのに、電子機器を持参している旅人を多く見かける時代であるし、旅行中の映像が数多く公開されている現状でもある。
 別に報道でもあるまいし、素人が実況中継をする必要もないだろうに… などと私など感じてしまう…

 要するに、自分の旅行を電子機器を通じてネット上で公開したい人種とは、自分が今まさに実行している旅程を誰でもよいから受け入れて欲しいし、かつその反応を要求しているのだろう。


 最後に、冒頭の大学生コロンビアにて強奪殺害事件に戻ろう。

 このエッセイを綴る前に、当該大学生が旅行中に公開したらしき写真やそれに対するネット上の反応の一部を垣間見た。
 殺害された旅行者が旅先で撮影したと思しき写真と共に、ネット上で種々雑多な反応コメント(と言うより“チョイ書き”と表現するべきか……)が渦巻いていた。
 到底、被害者である大学生を熟知した上で述べたコメントではない事を想像すると辛い想いを抱く……

 私は、決して当該大学生が旅行に出た事実を否定する訳ではない。
 それ自体は素晴らしい事だ。
 ただ、単身で長期間世界旅行に出るに際して、もう少し丹念な計画・下調べをして欲しかった思いもする。
 どうしても旅行中に電子機器にてネット上に発信したいのであれば、特に治安情勢が危ぶまれる国に於いては、ホテル自室内に留める等の自己防衛の認識が欲しかったものだ…
 
 本エッセイの最後に、不運にもコロンビアにて強奪被害に直面した当該大学生のご冥福をお祈りする。

介護施設に住む義母が起こした漏水事件  -その後-

2016年11月22日 | 医学・医療・介護
 2016.11.7 に公開したバックナンバー「介護施設に住む義母が起こした漏水事件」 には、現在までに少なからずのアクセスとご心配を頂戴している。
 特にご心配を頂戴した皆様には、遅ればせながらこの場で御礼を申し上げます。

 少し日数が経過した現在、その事件の処理が如何になされたかについて報告させて頂こう。


 その前に、義母が引き起こした漏水事件を再度以下に要約して紹介しよう。
 11月6日午前中、義母が住む高齢者有料介護施設のケアマネジャー氏より電話が入った。
 施設からわざわざ電話を頂く時とは、大抵ろくでもない事件や事故が義母の身の回りに発生していると予想出来る。
 今度は何を引き起こしたのかと、恐る恐る電話口に出ると……   義母担当のケアマネジャー氏曰く、
 「昨夜、お義母様が施設の自室内で漏水事件を起こしました。 どうした事か、義母様は真夜中に洗面台にて洗濯をされたようです。(参考だが、この施設では掃除・洗濯は全面的に施設スタッフが実施してくれているが、個人の自由として小物類を自分で洗濯する事を認めているとのことだ。) その途中で水道栓を開いたままベッドで寝たようです。 何分耳が聞こえにくいお母様のこと、おそらくそのまま寝入った事でしょう。  施設の夜間勤務スタッフがその事態を察知したのは、下階に住む複数の入居者様より“上から水が垂れている”なる苦情が届いた事によります。 早速下階の入居者の部屋に駆けつけ、漏水が起こっているのは上階だと察知したところ、まさにお義母様の部屋が漏水を起こしている源と発見しました。  洗面台にて洗濯中の洗濯物が排水溝を塞ぎ、お義母様の室内は水浸し状態でした。 それに気付いたスタッフがお義母様を起こしたところビックリされ、その後は自分の犯した事件に落胆されています。  その後の処理は本日に至ってスタッフにて何とか原状復帰しました。  今回保証人様にお電話しましたのは、お義母様の認知力がこれ程までに低下しているとの事実を報告するべきと考えた故です。」
 いやはや、義母の認知力が低下し始めて以降、施設内で様々な“事件・事故”を引き起こしている事態は保証人として重々承知しているが、これ程の(もしかしたら膨大な損害賠償を要する!?)事件は初めて!?と私はおののいた。
 その思いを正直に電話を頂いたケアマネジャー氏に伝えた。 「私自身もマンション等の集合住宅で発生する“漏水事故”の実態に関してある程度承知しているつもりです。 今回義母が引き起こした漏水に関して、本当にケアスタッフさん達が後処理をして下さった事で済む話でしょうか? もしも今後施設設備に関して今回の漏水事故にて不都合があるようでしたら、保証人として必ずやその賠償責任を果たしますのでご連絡下さい。」 
 その後、義母が住む施設のケアマネジャー氏より連絡が無いのをよしとするべきか……
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 さて、事故が発生した2日後に義母から我が家に電話が入った。 (亭主が電話に出たため、詳細は不明なものの…)
 漏水被害に遭った下階の複数の部屋の内、一番被害が大きかった真下の居住者男性が大層ご立腹との事で、義母は施設長氏に連れられてその部屋へ謝罪に向かったらしい。 その場で当該居住者男性から厳しく叱咤を受けた義母だが、困った事には、義母は既に昨夜漏水事故を起こした記憶が曖昧な(?)様子だ。
 事件発生から2日も経過せずして、義母の一番の痛手は下階の男性から突然叱咤された事実にすり替わってしまったようだ。 自分が加害者である事実が抜け去り、下階の男性が怒っていて怖いから貴方達(保証人である亭主と私)に謝りに来て欲しい、との電話の要件だったと亭主が言う。
 更に亭主が話すには、「自室で洗濯をするのはやめて、スタッフさんに全部お願いした方がよい。」と義母にアドバイスしたところ、義母から「えっ? なんで?? どうして自分で洗濯しちゃいけないの?」と返されたとの事だ。 この事実から判断しても、義母の脳裏からはすっかり自身が漏水事故の加害者であるとの認知が消えたと判断出来よう。

 その後我々保証人は話合い、義母の要望に沿って下階の男性に謝罪に行くことを決定していた。

 ところが午後になり、またもや義母から電話が入って亭主に告げた話によれば…
 義母が言うには、保証人である我々が謝罪に行くと施設長に告げたところ、施設長氏より「昨日、漏水事故に関して〇さん(義母のこと)と共に被害者の部屋へ謝罪に行った事で、この事件を一件落着させた。 それは昨日話した通りだ。 今更保証人様に謝罪に来ていただくと事件をぶり返す事になるから遠慮申し上げたい」 
 どうも、義母は(特に偉い立場の)男性が苦手な様子だが、はたまたこの男性施設長の“厳しい”お言葉が脅威だった様子だ。 恐る恐る義母が亭主に告げた内容とは、「施設長が貴方達は来なくていいと言うから、明日は来ないでね」……


 ここからは私の推測だが、おそらく施設長氏は認知症入居者同士のトラブルに関して、既に法的責任能力を失っている加害者・被害者双方の責任を問う事を回避せんと行動・処理したものと理解した。
 特に我が義母が入居している施設の場合、幸いな事に大手損保会社が経営主体のため、そのような処理はお手の物なのだろう。
 
 あれから2週間以上経過した現在に至るまで、一向に施設側から義母が起こした漏水事件に関する「損害賠償責任」を問うべく連絡が我々保証人宛に無い事を安堵している。


 それはよしとしても、認知症高齢者の保証人を担当する立場として、やはり認知力を日々低下させる義母の今後の行動(特に失態)を懸念するのは必然だ。

 認知症状とは、実に不可思議でもある。
 認知症高齢者を周囲が大事にしてあげるほど、根拠なく自分は大丈夫と認識出来るものなのだろうか?
 それが虐げられた場合、認知症者は希望を失うとの事実は認識しているものの…
 実力に見合わない評価をされて、それで自身の老化した脳裏がそれを受け付けるのか? 
 もしも、私が将来認知症に見舞われたならば、周囲から蔑まれ死に至った方がよほどマシな気もする…


 例えば義母は漏水事件とのとんでもない事件を引き起こしておきながら、明日の我が娘の誕生日祝い会には是非参加したいと、ルンルン楽しみにしているのだ。
 それを実行するには、保証人としてはこれまた大変な作業である。 認知症状及び耳の聞こえの悪さを兼ね備えている義母は、一人でタクシーに乗車不能の身だ。 それを施設まで迎えに行き、義母と同行せねばならない苦労の程も分かってもらえない。
 それでも、義母のせめてもの楽しみに同調するべきだろう。

 娘のサリバン業を既に23年間実行しその実績を積み重ね、娘の予想以上の成長と共に達成感を得ている私だ。
 片や、我が最高最大に可愛い娘と、認知症に陥っている義母の扱いを所詮同列に出来ない苦しみに、いつまで耐えれば私は開放感が抱けるのだろう?

一貫してセピア色作風の画家 カリエールをご存知ですか?

2016年11月20日 | 芸術
 (写真は、昨日訪れた損保ジャパン日本興亜美術館にて本日まで開催されている 「カリエール展」 のチラシを転載したもの。)


 表題に関してだが、実は私自身は昨日(11月19日) 「没後110年 カリエール展 セピア色の、想い(パンセ)。」 を訪れるまで、カリエールとの画家の存在を露知らなかった。

 そもそも私は美術に関してはズブの素人だ。  それどころか、小中高の図工・美術の授業はどちらかというと嫌いな科目だった。

 そんな私が何故50歳を過ぎて美術鑑賞の趣味を持ったのかと言えば、それは娘の恩恵に他ならない。
 幼い頃より「色」に特異的に興味を持ったらしき娘の言動に気付いた私は、小学生になって以降娘を造形教室へ通わせ自由気ままに造形や絵画に取り組むチャンスを与えた。 その後中学生になった後、同じ恩師の下で油絵に取り組ませた。
 その娘が中一の時に「美術方面へ進みたい」との意向をチラつかせた。 その娘が高校生になる春に「美大受験を狙うか否か?」を確認したところ、そうしたいとの希望だ。 早速、夜間美大予備校へ通わせる段取りとなるのは必然的だった。
 (ところが高校3年生になる直前の春に、娘が泣きながら「美大受験を断念する…」とサリバン母の私に告げた衝撃的な事件については、既にバックナンバーにて幾度も公開している。)
 結局、娘は進路を大きく方向転換し異なる分野の大学学部へ入学し、そしてまた、大学卒業後は更に異分野業界企業へ就職した事実も公開済みだ。)


 話題を我が美術趣味に戻そう。
 娘のサリバン先生を務めている私が、娘が美術方面に進みたいと言い出した段階でその分野を少しでも学習せんとの努力をしない訳もない。  未だ亭主も現役世代だった事が幸運して、私は昼間、美術鑑賞をする事によりサリバンとして美術に関する知識を少しでも深めたいと考えたのだ。
 早速、「ぐるっとパス」なる、美術館・博物館等共通入場券&割引券を買い求めた。 この代金が¥2,000-也! 有効期限の2ヶ月間内に、対象美術館等(東京版の場合、およそ70カ所程の著名施設)を網羅可能なチケットだ。
 このパスを何度買い、利用した事であろう。 
 元々美術の趣味が無い私だが、特に平日の混んでいない美術館や博物館の“あの独特の落ち着いた雰囲気”に魅了され始めた。 これが癖になり、サリバン業を一時忘れて束の間の芸術空間を楽しんだ。 特にカフェがある美術館など、何とも言えず乙なものだった。 あるいはミュージアムショップを散策するのも楽しみで、何時も必ず自分用のお土産品を購入した。 それらは現在も我がコレクション(と言う程高価なものは一つも購入していないが)として、ひととき眺めては自己満足に浸っている。


 やっと話題を「カリエール展」に戻そう。

 いやはや、まさに今回のカリエール展の触れ込み通り、何ともまあ、美術展会場は画家カリエール氏による「セピア色の想い(パンセ)」で溢れている!

 過去にゴッホの大作「ひまわり」を巨額で購入した損保美術館(元・安田美術館)(正式名称ではない事をお詫びします。)は国内外に著名であろう。  未だに当該美術館最後の常設展示室に燦然と輝く「ひまわり」だ。

 その空間へ辿り着くまでの長き展示室は、カリエールの世界だった。
 展示されている作品すべてが「セピア色」で埋め尽くされていた事実に、愕然(と言っては失礼だが)とさせられた私だ。 「セピア色」と表現すれば日本人の我々には聞こえがよかろうが、ウィキペディア情報によると“褐色に靄がかかった”色で作品すべてが完成されているのだ。

 こんな美術展は未だかつて観賞したことがない。
 人生を掛けて絵を描き続けた画家は数多いだろうが、それぞれその時代変遷と共に“画風”が移り行くものだ。
 ところが、殊、カリエール氏に関しては、一生かけて描いた代表作の作風すべてが「セピア色」なのだ!
 (余談だが、我が娘にも油絵を少し嗜ませたから分かるのだが、カリエールさんは褐色絵具代にカネがかかっただろうなあ… 


 最後に、画家カリエール氏に関するウィキペディア情報のごく一部を紹介しておこう。

 ウジェーヌ・カリエール(Eugène Carrière、1849年1月16日 - 1906年3月27日)はフランスの画家。褐色の靄がかかったような独特の絵画手法で知られる。 彫刻家のロダンとも親交が深かった。
 19世紀後半パリでは、印象派が勃興し時代の一大潮流を築いていた一方で、それを乗り越えようとする一つの芸術運動として、象徴主義が生まれた。 外界の現実よりも観念の世界に志向するこの潮流に独自の立場から加わったのがカリエールである。 カリエールはもともと多彩な芸術家で絵画にとどまらず、挿絵や彫刻も手がけた。 絵に関していえば、彼の初期の絵画は色彩が豊かなものであった。 しかし最終的には母子像や著名人の肖像画を靄のかかったような茶褐色の画面に明暗を強調して描く、神秘的で独特な絵画を制作するようになった。
 1898年には、画塾「アカデミー・カリエール」を創設する(後にこのアカデミーからは、マティスやドランといった有名な画家を輩出している)。 またカリエールはパリ万国博覧会のポスターやヴィクトル・ユゴーの挿絵を描き、サロン・ドートンヌの創設に関わるなど精力的に活動している。 しかし、1905年に2度目の喉頭癌の手術を受けてからは、ほとんど声も出せず、衰弱も激しくなり、翌年1906年3月26日に死去した。


 最後に、原左都子の素人私観だが……

 へえ、そうだったんだ。 
 実は私は素人なりにアンリ・マチスも好むのだが、“色の魔術師”と言われたマチスがカリエール氏創設のアカデミーから排出された画家だったとは、何とも不思議な感覚だ。

 カリエール氏が画家としての生涯を歩む過程で 「セピア色の、想い(パンセ)。」に辿り着いたその心境の程は、到底私には計り知れないなあ。