原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「あの人は“いい人”ですよ」   と言われても……

2014年03月31日 | 時事論評
 本エッセイ集2007.12.16「左都子の市民講座」カテゴリー バックナンバーに、「近代市民法の基本原理とその修正(その2)」と題するエッセイ(というよりも「講座」と表現するべき)がある。

 冒頭より、その内容の前半部分のみを以下に紹介させていただこう。

 
 前回の「近代市民法の基本原理とその修正(その1)」においては、近代市民法とは何か? 及び その基本原理のひとつである“所有権絶対の原則とその修正”について既述しました。
 今回(その2)は、基本原理の二つ目“契約自由の原則とその修正”について解説しましょう。

 ○契約自由の原則とその修正

   契約とは何か?
    売買契約を例に説明してみよう。

         商品を売りたい
     売主     →     買主
             ←
         商品を買いたい

    通常、両者は利害対立関係にある。(あなたの得は私の損)

    このような、方向の異なる複数の意思が“合致”することにより成立する
    法律行為を “契約” という。

    法律上の契約には上記の“売買契約”の他、“賃貸借契約”“婚姻契約”
    (判例上、“婚姻予約”という用語が使用されている。) “雇用契約”
     等がある。

   「身分から契約へ」
     アンシャンレジウムの時代
      人の権利、義務は人の“身分”から発生していた。
       (※アンシャンレジウムとは
          1789年のフランス革命前の絶対王政を中心とする
          封建的な旧体制のこと)
     市民社会
      人の権利、義務は個々人の“自由な意思”により発生する。

    近代市民法の根本理念  = “自由と平等” であるならば
               ↓
    個人の経済活動は自由に行われるべき
         = “自由放任主義”  “自由競争”
               ↓
        契約自由の原則
          ①契約締結の自由
          ②契約相手方選択の自由
          ③契約内容の自由
          ④契約方式の自由

    しかし…
     経済的強者は経済的弱者に対し、その権力を利用して自分にとって
     有利な契約を結ぶようになった。
      例: 企業 対 労働者 の雇用契約
          労働者は、低賃金、長時間労働等、不利な条件で雇用契約を
          締結しなければならない場合が多い。(今なお…)
               ↓
     契約自由の原則も、“経済的弱者の保護”“公共の福祉”の観点から
     一定の制限を受ける。
      例: 労働基準法第13条
          この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約
          は、その部分については無効とする。…

 (以上は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの前半部分を紹介したもの。 ご興味がございましたら、是非後半部分もバックナンバーをご検索下さいますように。)


 さて、今回のエッセイ本題に入ろう。

 上記のように法学の心得(「経営法学修士」を取得しているが)のある私にして、実は今現在、現実世界に於いて、某契約の相手方との間に下手をすると賠償責任訴訟を起こされるにまで発展しかねない深刻なトラブルを抱えるはめとなっている。
 (現在トラブル真っ只中につき、その内容を公開することは我が良心に基づいて差し控えるが)、もしも最悪の事態、多額の損害賠償支払いに応じねばならない絶対的危機が我が身に迫っている。

 そんな我が身に恐怖の追い打ちをかけるのが、契約者両人の調停をせねばならない立場のはずの仲介業者が契約相手方の支援に回っている事態である。
 これに関して、私は契約締結時点で薄々ではあるが既に(契約相手方と仲介業者がもしかしたら知り合いではなかろうか??)なる不安材料を察知していた。
 その後時を経ずして契約相手方より仲介業者を通じ、契約に関して不具合箇所があるとのクレーム連絡が我が手元に入った。 法学心得がある私はすぐさま不具合に関する詳細の聞き取り把握の後、とりあえずの補償を実行すると同時に、今後の対応策に関して契約相手方と一応の同意に達した。

 ところがその対応策に関して、またもや仲介業者よりクレームが入ったのだ。
 仲介業者曰く、「貴方の対応は間違っているから契約相手方の意向に沿うように。 あの人(契約相手方)はいい人ですよ。」

 私も実際一度だけ、今回のトラブルに際して契約相手方と直接面談している。 確かに「いい人」には間違いないであろう。私も一見そのような印象を抱いた。 決して特段「悪人」ではない事は海千山千の私も承知している。
 ただ私の懸念点は、契約相手方がどこまでの“法的観点をもって”今回のクレームを仲介業者へ訴えているのかとの事だ。(それを望むのは無理に等しいとの感覚だが…) しかも嘆かわしい事には、仲介業者の法的観点も実に疑わしい。 今時信じ難い事には、すべてが“どんぶり勘定”の上「(契約相手方である)あの人はいい人ですよ。」との素人もどきの反応が仲介業者から返ってきた時点で、私の堪忍袋の緒が完全に切れた。

 「申し訳ないですが今後は仲介業者である貴社を通さず、私が個人的に契約相手に直接現行法制度に基づき対応します。 もしかしたら私が外見上ギャルにでも見えたから“こいつは騙せる”とでも企んで契約相手方とグルになったのですか??  残念ながら私は契約相手方よりずっと年寄りですし、法律経験も積んでいますよ!」 
 仲介業者に契約仲介料を支払っているのは我が身であり(将来ややもすると賠償金を受取りホクホクする側の立場ではないのに)、こうでも結論付けねば私の気が済まないのだ!

 それでも現在義母の保証人を務めている身として、(元実業家である)義母が婚姻以来ずっと私に告げてくれる“教え”が脳裏に響く思いだ。
 その“教え”とは、「お金でケリがつく事など簡単よ」なる名言である。
 確かにそうだと感じる。 これがもし私がストーカー被害にでも遭って明日は命を落とす事態ではないことをせめてもの幸運と捉えよう。 


 それにしてもだ。

 自分にとって見知らぬに等しい相手の事を 「あの人はいい人ですよ」 と他者から“易々と”押し付けられても辟易とするばかりである。  法的場面に限らず日常生活に於いても、人物評価など自分自身の価値観で判断の上、今後お付合いに値するか否かの決断を下したいものだ。 

 しかも、これが法律上の利害対立関係にある両者の「契約締結仲介業務」を司っている業者から発せられた言葉であるとするならば、そんな業者は法的観点から今すぐ排除されるべきではなかろうか。
 “排除”は言い過ぎとしても、その種の契約仲介業務を生業としている業者には、早急に適切な指導を実施するべく行政に機能して欲しいものでもある。 

人生は “一発勝負!” の連続

2014年03月30日 | 自己実現
 少し前の朝日新聞朝刊「声」欄に、入学者選抜(あるいは就職志望者選抜)に於ける“一発勝負”試験を擁護・賞賛する趣旨の男性読者よりのオピニオンが取り上げられていた。

 残念ながらスクラップを保存し忘れているため、原左都子の記憶に頼り(かつ内容を勝手に私なりにアレンジしつつ)上記投書を紹介しよう。

 現在、大学等の入学試験に於いて受験者に一発勝負試験を課す事を避け、受験者を長期的あるいは多角的視点から評価しようとの選抜施策が拡大しているようだ。
 ところが、人が歩む現実の世の中とは“一発勝負”こそが避けて通れない道程ではなかろうか?
 その最たるものの例が、オリンピックである。 五輪代表選手達はたった10秒、ごく一瞬の本番のために命がけで日々壮絶な努力と苦悩の下練習に励み、その成果を大舞台で最大限発揮するべく4年に一度の五輪に挑んでいる。
 私(投書者)自身、過去に於いて入学・就職様々な“一発勝負”試験を経験してきた。 その結果届いた通知は「合格」のみならず「不合格」の場合ももちろんあった。 「不合格」通知が届くと誰しも一瞬辛いものだが、それがその後の成功を掴み取る礎となる事もあり得る。
 “一発勝負”こそが人生の関門に於ける有効的な選抜方式であり、それに耐えて関門を潜り抜ける能力を有する者こそが真の勝利者ではなかろうか。 
 (以上は、朝日新聞「声」欄投書より原左都子が勝手にアレンジして紹介したもの。)


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 上記朝日新聞投稿者のご意見にほぼ賛同する私だ。
 特に大学入学者選抜に関し、政権をはじめとする世の中が“一発勝負”を回避しようとしている風潮を批判するエッセイを、本エッセイ集2013.11.21バックナンバー 「“人物本位入試”が掲げる人物善悪の基準って何??」に於いて展開しているため、以下にその一部を紹介しよう。

 (昨年)11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。    (中略)
 (政府が言うところの)「人物本位入試」とやらが実際に大学入試現場で実施されることの大いなる弊害の程を検証していこう。
 朝日新聞(昨年)11月6日文化面記事「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」なる記事の一部を要約して紹介しよう。
 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。
 そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。 氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。 氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 フーコーは一方で、権力からの強制が強まったとして、それを意に介さずのらりくらりと跳ね返す力もまた人間に備わっていると考えていたという。
 原左都子の私論だが、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??  この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう??? 上記のフーコーを手始めとして過去の哲学者達の教えを少しは学び直した後に、政権担当者が大学入試改革案を再び持ち出しても遅くはなかろう。
 人間の個性とは実に多様だ。 そして、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?
 大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。  それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。  それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 さらに、原左都子の私事及び私論に入らせていただこう。

 私自身も朝日新聞投書者氏同様、世代的に学校も就職もすべて“一発勝負”試験のみしか経験していない。 そしてこれまた投書者同様に、結果として「合格」通知のみならず「不合格」通知をも受け取っている身である。 ただ人生経験を経るにつれ、たとえ「不採用」通知が届いたとて採用者側の力量(キャパなさと言うべきか??)の程を思いやれる心情にもなるものだ。
 
 確かに、未だ人格を築き上げている人生途上のうら若き世代相手の入試や就職採用試験に際し“一発勝負”判定とは、する側もされる側も厳しい現実なのかもしれない。

 それでも、私も今尚人生とは“一発勝負の連続体”に他ならない感覚を抱きつつこの世を生き延びているのだ。
 「ここでしくじったら信頼を失う」なる緊迫した場面に直面する事態は、この原左都子とて日々数多い。
 例えば、義母の財産管理を一任されている立場で私が税務申告で失敗したならば、今後義母の保証人の立場を失うであろう。
 あるいは、自己所有賃貸借物件の補修工事に於いて賃借人である入居者氏より同意が得られなかった場合、多額の賠償責任を追うであろう事態も、現在の私にとって“一発勝負”責任を負わされている際どい立場である。


 だからこそ、たとえ大学入試(就職試験)“一発勝負”選抜に合格出来なかった程度の事で「若者よ、弱音を吐くな!」と言いたい思いでもある。

 むしろ、人生とは日々“一発勝負”の連続であることを年齢を重ねる毎に実感させられる思いだ。
 
 長期的視野や多角的視野で自分を評価してくれ、だと?!?
 そんな弱音を吐いている間に世の中とはどんどん変遷するし、この先もっとあなた方の居場所がなくなりそうだよ。

 世の国家政策が如何に移り行こうと、個々人がこの世を生き抜く最後の砦として日々“一発勝負”可能な強靭な精神力とそれを支えるバックグラウンド能力を培おうではないか。

「お・も・て・な・し」 にもてあそばれ…

2014年03月27日 | 人間関係
 「おもてなし」 なる言葉自体に関しては、私は元々嫌いではなかった。

 ところが、昨年(2013年)9月アルゼンチン ブエノスアイレスにて実施された「2020東京五輪開催決定」発表場面での安倍首相を筆頭とする日本五輪開催委員達の馬鹿騒ぎ以降、私にとっては聞くだけで「反吐が出そう」な程に“気持ち悪い”言葉と成り下がってしまったのだ… 

 「おもてなし」には本来、「お客様を歓待すること。お客様の世話をすること。」等の意味合いがあろう。 そして、当時東京五輪招致委員だった某タレント女性は、東京五輪に世界の皆様がお越し下さる事を歓迎するとの意味合いで、ブエノスアイレス会場にて「お・も・て・な・し」なるプレゼンテーションを繰り広げたのであろう。

 ところが、あのプレゼンテーションの仕方が私にとっては実に“気持ち悪かった”のだ。 素直に「おもてなしをしたい」と英語で言えば済むものを、手振りを付けて「お・も・て・な・し」なるへんちくりんなパフォーマンスを世界中へ公開した事実こそが、実に不快な場面として我が脳裏に刻みつけられる事となったのだ。
 しかもその後年末に至って、あの「お・も・て・な・し」が流行語大賞にノミネートされた事態には辟易とさせられ、我が“気持ち悪さ”に拍車がかかったものだ。
 (恐らくあのパフォーマンスを喜んだのは日本国内2020東京五輪開催賛同者のみであり、全世界の皆さんにとっては単に日本に住むハーフ女性が何かやっているのみで訳が分からない内容だったことであろう。


 今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞3月23日付コラム 「おもてなしが止まらない」なる記事を見たことによる。
 イラストレーターであられる女性氏が現在コラムを担当しておられるようだが、そのイラスト内に記載されている文章に同意する私だ。
 そのイラスト内文章とは、「もてなすのも もてなされるのも むずかしいものです」


 ここで原左都子の私事に入らせていただくが、「おもてなし」に於ける上記イラストレーター氏がおっしゃる通りの現実を私自身もよく味わっている。

 そもそも人をもてなす事が苦手な私であり、それを実行する事がほとんどない。
 片や「もてなされる」場面に際しては、意外と図々しくも足繁く出かけるタイプかもしれない。 
 いや、ただ、「もてなされる」身も様々な意味合いで結構大変なものだ。 「おもてなし」主体者側の歓待趣旨に添うべく行動せねばならないのが基本であろう。 ご招待下さった側が訪問客に何を求めているのかを探りつつその要望に合致した「もてなされぶり」を披露して、「よき会合だった」事を伝えて場を去る義務が招待された側にあるのは当然だ。

 実はつい最近、昨年癌闘病の末壮絶死を遂げた義理姉の配偶者である一人暮らしのご亭主宅に、我々一家がお邪魔する事と相成った。 そもそも訪問を辞退するべきとも考えつつ、本人が「是非お越し下さい」との事でお茶をご馳走になる目的で短時間のみお邪魔した。 
 義理姉の死後9か月程が経過していることが幸いしているのか、ご亭主は随分と落ち着いた態度で我々を歓待して下さるのだ。 元々陶芸が趣味である人物なのだが、最近作成した作品の数々を観賞させてもらったりと有意義な時間を共有できた思いだ。 特に私と娘には「女性が訪問下さったのは久しぶりです」と本音を少し覗かせてくれた事に、せっかくのおもてなしに応えてよかったとの思いで帰宅路に着いたものである。 
 

 そして昨日など、原左都子が訪問客を“もてなす”べく立場に回ったのだ。

 その訪問客とは、我が所有賃貸借物件改修工事依頼に際し契約事務的要件で訪れてくれる担当者に他ならなかった。 
 その担当者氏のために、私は「お茶」を振る舞うか否か大いに迷った。 と言うのも今現在の社会的慣行として、そういう場面に於いては「お茶等の振る舞いを辞退する」事業所が常識となっているためだ。
 そんな中、私はその担当者に「お茶」を出すことを決行した。 と言うのも、この担当者氏には時間によらずこちらから幾度となく携帯電話に連絡する等の手段で既に大いにご迷惑をかけていたためだ。
 さてさて、初対面で我が家にやってきた男性担当者が何ともまあ若き“イケメン”ではないか! (不謹慎は承知の上で、この事態に感激する程に我が身が年老いていることを実感させられるというものだが。
 しかもこの男性担当者は、私がおもてなしした「お茶」を快く飲んでくれたのだ! 
 それだけでも感激なのに、契約終結の帰り際「ご質問等ございましたらいつでも私の携帯にご連絡下さい」との事だ。 すかさず、「じゃあ、そうさせて頂きます!」との我が返答に「お待ちしております。」との回答で我が家を去っていかれた。
 いや~~。 こんな爽やかな青年にはいくらでも工事費用を差し出したい思いだ。 (単なる冗談ですけどね。
 

 最後に、原左都子の私論結論に入ろう。

 「おもてなし」とは、する側、される側共々実に困難な概念と心得る。
 
 本日放映されたNHKドラマ「ごちそうさん」に於いても、「おもてなし」が命題だったと認識している。
 今週末で終わりゆく「ごちそうさん」が如何なる結末を導くのか注視していたところ、本日は米軍GHQ幹部へのめ以子の「おもてなし」により両者が“戦争とは愚かなもの”との結論合意に達したと私は理解した。

 今現在我が国が果たすべき「おもてなし」とは、その時代よりもずっと進化を遂げているべくはずだ。

 「お・も・て・な・し」 なる、大袈裟なパフォーマンスを国際場面で展開するよりも、もっと身近な人間関係に於いて個々が有意義な関係を築ける“真のおもてなし”を実行しつつ、人間関係を紡いで行くべきだろう。

「原左都子って何者?」 なるご質問にお答えします。

2014年03月24日 | お知らせ
 2007年9月に「原左都子エッセイ集」を開設以降エッセイ本数が1000本を突破している現在、読者の皆様がネット上で本エッセイ集をご訪問下さるきっかけとなる「検索キーワード」も多岐に渡り、多様化している現状のようだ。

 それら検索ワードのうち、例えば 「原左都子」「左都子」「原左都子エッセイ集」 あるいは「原 エッセイ」等々は、おそらく私が発信している個別のエッセイ内容よりも、“著者である原左都子自身”に(プラスマイナス両側面より)ご興味を頂戴してネット検索されているものと解釈させて頂いている。


 そんな中、昨日の編集画面にて、今回の表題に掲げた 「原左都子って何者?」 なる検索ワードを複数発見したのだ。

 それ自体は一応何となくうれしい反面、これが 「原左都子って何様?」 だったなら多少怖かったかも… とビビった私でもある。 
 (参考のため国語辞典上は“何者”と“何様”の意味あいにおいて大差はないようだが、どうやら現世における言葉遣いの慣行・常識によれば“何様”表現には人を蔑むニュアンスがあると私は解釈している。)


 せっかくネット検索にて頂戴した 「原左都子って何者?」 なる読者の方々のご質問に回答しようと志すのが、本エッセイの趣旨である。

 とりあえず手っ取り早く「原左都子」の経歴をお知りになりたい方へお勧めするのは、当該エッセイ集「お知らせ」カテゴリー 2012.10.10 バックナンバー 「原左都子プロフィール」 にて公開しているエッセイをお読み下さる事が最速であろう。

 ただ上記のプロフィールとは、あくまでも「原左都子エッセイ集」を公開している(ペンネーム 原左都子)の立場から、ごく一部の過去経歴を公開した内容に過ぎない。
 (これ程個人情報が悪用される現代に至っては、それ以上の情報公開による「危険性」こそ回避するべきと結論付けた結果であるが。)


 「原左都子エッセイ集」著者である「原左都子」“本体の人となり”をご理解いただくためには、1000本を超過する全エッセイをくまなくお読み下さるに限る。 
 ただ、特に新規読者の皆様にはそのお時間が取れない現実ともお察しする。


 そこでほんの少しであるが、「原左都子」本体である“私自身”の日常を少し紹介しよう。

 つい最近人が大勢集まる会合に出席する機会があったのだが、どうやら私は“周囲を和ませ明るくさせる”キャラと評価されてしまうようだ。 「あなたには初めてお会いした気がしない」 「お友達が多いでしょ!」 「見た目の明るさよりも、あなたはきっとご自身が明るい方ですよね」等々のプラス評価が我が身に降り注いで返って来る。

 それ自体は嬉しい。  ただ、実はそれら評価とは180度異なる人格の持ち主と私自身は自己分析しているのだ。 
 その思いを少しだけ訴えた。 「私は友達は少ない方ですよ」 「見た目ばかり繕っているのは自分自身の外見的趣味でしかありません」 「確かに私にも明るい側面はありますが…」
 その後私として続けたかったのは、「でもこういう会合に於いては第一に場を読むべきですよね。 面識が少ない者同志の関係に於いて周囲環境を意識せずして人間関係など成り立たないでしょう? 私はそれを実行しているのみですが…。」 そんなこと、言える訳もないしねえ…。

 現在の時代背景とはこれが現実であろう。
 
 そんな場に際して、特に年長者や(誤解を恐れず言わせて頂くならば)学識経験者とは有名無名にかかわらず、自分が言いたい事をありのまま無責任に発信できる訳などないのが現実ではなかろうか!?
 
 だからこそ私は複数の人間が集まる場では、真っ先に周囲への配慮に回る習慣が身に付いてしまっているのだ。 恐らく今後も現実世界に於いては、ひとまず自己を抑えてその役割を果たすべくの我が人生が続くのであろう。


 そんな我が人生背景において、オアシスの存在でもあるのが「原左都子エッセイ集」と位置付けられるのかもしれない。

 ここでは、「言いたい放題」言わせて欲しい思いだ。
 それでブログが炎上して読者を失っていいとの覚悟の上だ。

 それこそが 「原左都子って何者?」 なる私からの回答なのかもしれない。


 私本人が本名で生きている現実世界における人間対応は、私にとっても厳しく辛い。
 それでも生身の人間同士で自己を抑えつつ周囲に配慮して他者と付き合っていくことこそが、今後の我が有意義な人生につながるものと本名の私は信じ、そう行動している。

内税?外税? いずれにせよ消費税率8%負担はつらいよ

2014年03月21日 | 時事論評
 4月から消費税率が8%まで引き上げられるに際して喜んでいるのは、安倍首相及び政権幹部のみではなかろうか?

 昨日3月20日、2014年度予算は20日の参院本会議にて自民公明両党などの賛成多数で可決、成立した。 予算の年度内成立は3年ぶりとのことだ。
 一般会計の総額は95兆8823億円で、当初予算としては過去最大となる。 政府は2月に成立した13年度補正予算(5兆4654億円)と合わせて切れ目なく予算を執行し、4月の消費税率引き上げ後の景気の落ち込みを最小限にしたい考えであるらしい。  
 安倍首相は20日の記者会見で、「戦後3番目に早い成立で、景気回復を確かなものとするうえで弾みになる。 デフレ脱却は国家的な事業で、国会として強い意志を示していただいた。 明確な目標を定めて早期の(予算)執行を確保していく」と述べた。
 (以上、ネット情報より一部を引用。)


 昨夜18時過ぎからテレビにても放映された、上記安倍首相の記者会見を私も見聞した。
 昨年9月のアルゼンチン ブエノスアイレスでの 「2020東京五輪開催決定」 時程の馬鹿騒ぎではなかったものの、当時と匹敵するかのように満面に(一見不気味な)笑みを浮かべた安倍首相がアップでテレビ画面に映し出された時には、原左都子の背中に寒気と冷気が走った…。

 「ほ~~ら、国民のみんなよ、よ~~く考えてみてごらん。 新年度予算を早期に可決成立させることが出来るのは自分が率いる自民党政党だけだぞ~!  大企業だって僕がアベノミクス経済政策を提示し株価吊り上げや数値上の円安操作政策で頑張らせたお陰で、今年は大幅なベースアップが叶ったじゃないか。  そのうち底辺を彷徨っている庶民の皆にもその“おこぼれ”が多少あるだろうから、4月からの消費税増税政策に素直に従ってそれを国家予算に還元しろよな。 そうしてくれたならば、増税分のほんのちょっとは社会保障の名目でお前らにも多少の金額をバラ撒いてやっていいぞ~。  ただねえ、首相の僕(安倍氏)が思うにはやっばり日本とは大企業あっての国だし、今後近隣諸国に打ち勝てる国にしたいんだ。 だからこそ、僕は今、日本を戦争が出来る国にしようと一生懸命『憲法改正案』を出しているんだよ。 底辺の国民たちはそんな僕の思いが分かっているのかねえ!  そのためには原発も稼働するべきだし、公共事業にも莫大な国家予算がかかるから、やっぱり庶民への支援は後回し、って事かなあ~。 でも庶民の皆が有り金はたいて一生懸命買い物して消費税8%をしっかり支払ってくれるならば、社会保障にその“はした金”を使ってもいいよ、って事かなあ~~~」
 以上は、原左都子が昨夕の安倍首相記者会見をテレビで見聞して、私の耳に聞こえた内容をデフォルメして伝えたものだ。 

 
 安倍政権が政権脱却直後より強引に展開している政策の数々に対し、大いなる抵抗感及び反発感を抱いている私には、昨日予算案成立後の安倍首相の記者会見内容も上記のごとく聞こえてきたとの話である。


 それにしても、消費税8%は来るべく4月1日より国民誰しもに容赦なく実施される。

 これに関して現在巷の商店では早くも既に「外税」対策をとっている場面に出くわす事が多い。 
 原左都子の解釈としては、「外税表示」を採用することにより、(安倍政権による消費税8%増税を未だ認識していない)一般市民相手に「値上げ」と誤解される事態を回避しようとしていると認識する。 「4月から商品価格が上がるのはあくまでも“安倍政権が消費税アップを予算決議した結果”ですよ!」と小売業者が「外税」表示により切実に訴えたいものと理解している。


 原左都子個人的な感覚としては、どうせ消費税が4月からアップするのならば、この機会に「商品そのものの価格」と「消費税額」を分けて両者を詳細に表示する事を望みたい。
 それにより、自分が本来買い求めたい商品の代価と、国家及び地方自治体へ支払うべく「消費税」を分別して計上する事が叶うであろう。

 安倍政権としても、今回の消費税アップに伴う社会保障に関して少しは視野に入れている事を認識している。

 その保障をもう少し多岐に渡り綿密かつ詳細に実施する事を原左都子は提案したいのだ。
 支払った「消費税額」を日々の帳簿(あるいは家計簿)に記載することにより、税務申告時にその金額を「費用項目」あるいは所得金額よりの「所得から差し引かれる金額」の一部として申告可能な項目に位置付けられないだろうか。  
 そのような税務法上の「消費税対策」が叶うのならば、4月よりの8%消費税増税に多少は抵抗力を低くできそうな思いだ。


 それにしたって既に年金生活に入っている我が家など、「内税」であろうが「外税」であろうが、4月以降は消費活動が大幅に滞るであろうことが目に見える有様だ。 おそらく我が家は元々金銭感覚鋭い私の意向で、一家内の消費活動を最小限にとどめるべく家族を指導・統括するであろう。

 消費者を自覚している庶民のどこの誰が、今回安倍政権が閣議決定した新年度予算決定を喜ぶのだろうか。 
 国内ほとんどの庶民が4月消費税アップの暁に“原左都子的緊迫家計政策”を実施した場合、国内消費が急激に冷え込み、安倍政権今後の危うい事態が想像できてしまうのだが…

少子化対策として政権が真っ先に着手するべき事柄

2014年03月19日 | 時事論評
 先だっての3月17日埼玉県富士見市に於いて発生した、男性ベビーシッターが母親から預かった幼き2歳男児が遺体にて発見されたとのニュース報道に、衝撃を受けた市民の方々が多い事と察する。


 日本の政府が少子化対策に取組み始めて既に20年に及ぼうとしているが、合計特殊出生率は思うような回復をみない。 
 そこで安倍内閣は、昨年(2013年)6月「少子化対策」に関し4年ぶりとなる「骨太の方針」(正式名称:経済財政運営と改革の基本方針)を閣議決定し、女性の活躍促進や少子化危機突破に向けた方針を盛り込んだ。
 これらの対策を実質上まとめてきた森雅子少子化対策担当大臣に対して、某国内機関が多岐にわたって全貌が見えにくい対策について取材したところ、 森大臣曰く「安倍政権による少子化対策とは骨太の方針に入ったとが特徴であり、その方針とは「(少子化対策を)着実に実行する」との意味だそうだ。
 (以上、ネット情報の一部を原左都子が多少アレンジして紹介したもの。)


 上記の安倍政権「少子化対策における『骨太の方針』」はその後我が国の少子化対策に於いて功を奏しているであろうか?  真なる「女性の活躍促進」に繋がっているのだろうか??

 確かに国内一部の自治体では、公立保育所の受入れ可能乳幼児数枠を増加させるべく努力しているとの報道を見聞する。 加えて「保育士」の賃金アップ指針を導入する等々の政策により、乳幼児受入れ体制の質の向上確保も予定されているとの情報も目にする。

 上記「少子化対策」に関する国や自治体からの“一見明るい”ニュース報道の陰で、冒頭の3月17日に発生したベビーシッター事件に対し、厚労省は以下のコメントを発しているようだ。
 厚労省曰く、ベビーシッターに必要な公的資格はなく利用者も把握していない。
 行政のチェックが届かない中、ネット上にはベビーシッターを探す人とその成り手が情報交換するサイトが複数あり、必要に迫られた親らが利用している。
 (以上、朝日新聞3月18日記事より引用。)


 私論だが、厚労省はネット情報で上記の巷の親達の事態を認識していながら、何故早急に手立てを打たないのかと憤るばかりだ。
 一体誰のため、何のための「骨太の方針」少子化対策なのか!? 

 ネット上の胡散臭いベビーシッターに可愛い我が子の一時保育を依存せねばならない切羽詰まった親の実情を政権は如何に理解しているのか! 
 数値上の数や量のみ整えるとの実態のない「少子化対策」にばかり依存して現実を見ないからこのような事件が起こるのだ。


 ここで私事に入るが、私も一女を持つ母親である。

 私の場合、我が子が多少の事情を抱えてこの世に生を受けたとの特例性もあろうが、特に我が子幼き頃には「誰でもいいからベビーシッターを依頼して一時何処かへ避難したい!」なる妄想が我が脳裏に付きまとうことを経験している。 
 今となってはそんな切羽詰まった感情を如何に処理し得たのかの記憶が薄れているのだが、おそらく当時はまだまだ現実世界での人間関係が充実していた時代背景であり、我が友人達を自宅に招くことによりその苦しい時代を潜り抜けたのではないかと振り返る。

 更には、我が子が小学校の児童となった以降にも、この場面は「ベビーシッター」に依存したい、なるシチュエーションを経験している。
 当時は未だネットなき時代背景だったが、我が調査力により「子供を習い事教室まで送迎してくれるサービス」を新聞上で発見した。 当時仕事を持っていた私は、「これは使える!」と実感したものだ。 結果としては、娘の希望等により自分の仕事時間を短縮する事によりそのサービス利用を回避したのだが…


 要するに冒頭に記した「ベビーシッターによる幼児死体遺棄事件」とは、私も過去に経験しようと志した民間業者によるベビーシッター派遣サービスの発展型(劣化型?)で起こってしまった幼児死亡との残虐な事件だったのではあるまいか??

 これに関して、それを利用した親側からの経験に関する朝日新聞3月18日記事を以下に紹介しよう。
 ネット上で気軽に見つけられるベビーシッターを頼りにする親は少なくない。
 例えば6歳男児がいる家庭では、子供がインフルエンザに罹った時に初めてネット上でシッターを見つけ預けた。 普段は公立保育園を利用しているが、感染症発症の場合(公立保育所では)5日間登園出来ないため預け先を探す必要性に迫られた。 その時サイト掲示板の存在を知り、メール上のやり取りを信頼して預かってもらえた。 子どもを預けた女性曰く「近くに頼れる親戚もおらず、八方ふさがりの現状だった。知らない人を頼るのは不安だが、良心に賭けるしかしかたないとまで覚悟して預けた」


 「原左都子エッセイ集」2011年11月26日バックナンバーに「足が腐った男」なるエッセイがある。
 どういう訳か公開から2年以上を経過した今尚、当該バックナンバーが我がエッセイ集に於いて「スタンダードナンバー」とも位置付けられる程の数多くの閲覧を日々頂戴している。

 上記バックナンバー 「足が腐った男」より結論部分の一部を以下に再び紹介しよう。

 国や自治体等の役所においては、市民自らが役所に出向いて申請書を提出する“能力”を保有している(ある程度恵まれた)“弱者”に対しては、例えば「生活保護」対象とする等手厚く支援している有様である。 
 片や、上記のごとく電車内で“腐った足”を晒して眠りこけている人種が役所にその種の申請書を提出しているとは到底考えられない現状だ。  
 私に言わせてもらうと、この種の“真正弱者”こそを国や自治体は最優先して救うべきではないのか??
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 それは、安倍政権に於ける「少子化対策」に於いても同様ではあるまいか??
 
 「少子化対策」に於いて「骨太」意見を表立って差し出せる能力ある市民のみを「女性の活躍促進」対策として前面に出しその救済対象とするのではなく、安倍総理及び森雅子大臣には是非共今回の悲惨な事件を脳裏に刻んで欲しい思いだ。

 これ程混乱した我が国の現世に於いて子供を産もうとの勇気ある女性達とは、貴方達政治家が抱いているイメージよりもずっと多様性がある事実を認識して欲しい思いだ。
 貴方達政治家が認識している事実より遥かに「貧困」を経験されている家庭にも“赤ちゃん”が誕生してよいであろうし、その赤ちゃんの成長を原左都子とて願いたい。

 更には、何故現世の女性が子どもを産むことを欲するのかあるいは欲しないのかの選択に関して、政権政治家達の真なる分析・認識が及んだ暁に、やっとこの国の「少子化対策」が生命を宿すのではないかと私は信じている。

著名学者とは常に“堅物人間”を演じねばならないのか?

2014年03月17日 | 時事論評
 朝日新聞土曜日別刷「be」に毎週掲載されている「悩みのるつぼ」のファンである原左都子にとって、意表を突かれる報道をネット上で目にした。

 その報道とは、何でも「悩みのるつぼ」の一回答者であられる社会学者 上野千鶴子氏が担当した過去の同コラム相談回答内容に“不適切な部分”があるとの理由により、山梨市は予定していた上野氏講演会中止決断を下す事態と相成った、なる内容だ。


 ここで原左都子の脳裏に一番最初に思い浮かんだのは、朝日新聞「悩みのるつぼ」コーナーとは、そもそも世の物議を醸し社会問題に発展するがごとくの切迫した議論対象となるべき“物々しい”コラムなのであろうか? との違和感である。

 確かに相談者が未熟な年少者である場合は、回答者はその回答内容に慎重さを要求される要素はあろう。 その種の相談も時折見かけることがある事を私も心得ている。
 ところが「悩みのるつぼ」相談内容の大半とは、いい年こいた大人が“身勝手な自身の過ちを暴露”している実態との感覚が否めない側面もあるのだ。

 そもそも朝日新聞「be」自体が本誌から隔離した“別刷”との場を土曜日に設け、読者の娯楽対象としているものと私は解釈している。
 それ故に「悩みのるつぼ」に於いてもその回答内容とは“娯楽性”があって当然許されるだろうし、もっと発展思考で発言するならば、世の多様性に適応した回答こそが読者の興味や共感を導くものと私は理解している。


 さて先ほどネット情報を検索したところ、今回の山梨市の公演中止判断に対して上野千鶴子氏ご本人が発表されたと思しき情報を入手した。
 その内容の一部を以下に紹介しよう。

 「過去の発言」のやり玉にあげられているのが「悩みのるつぼ」の回答。 「(性的欲求不満のはけ口を)熟女にお願いしなさい」 という回答のどこが問題なのでしょうか。 「依頼」であって「強制」ではありませんし、「相手のいやがることはぜったいにしないこと」 それに「避妊の準備も忘れずに」と書いてあります。 淫行条例に違反するという指摘もありましたが、中学生に性交を禁じる法律はありません。成人が児童(18歳未満)に「みだらな行為」をすることは禁止されていますが、中学生が大人に「お願い」するのを禁じることはできないでしょう。 15歳といえば昔なら元服の年齢。妻を娶ることもできました。この回答を問題視する人達はまさか「結婚まで童貞を守りなさい」とは言わないでしょうね?
 (上野氏著書である)『セクシィギャルの大研究』『スカートの下の劇場』をきちんと読んでみてください。いずれも実証研究にもとづいた、そうは見えないけれど学術書です。『セクシィギャルの大研究』はCM写真の記号論的研究、『スカートの下の劇場』は下着の歴史研究です。いずれのタイトルにも「セックス」も「パンティ」も入っていません。仮に入っていたからといって何が問題なのでしょう?まさか性を論じることがタブーだというのではないでしょうね? 性を論じる人物は、それだけで講師として不適任だと?
 というわけでうえのは「過去の発言」について、天にも地にも恥じるところはありません。しかも以上の「過去の発言」のいずれも今回のテーマである「介護」には無関係です。それを理由に「中止」を決定するのは言いがかりとしか思えません。
 (以上、上野千鶴子氏ご本人の発言と思しきネット情報から一部を引用。)


 上記上野千鶴子氏よりのネット上の「反論」と思しき“挑戦状”を真摯に受け止めたのか、本日3月17日に、山梨県山梨市が社会学者上野氏講演会 「ひとりでも最期まで在宅で」を中止するとした問題に関し、市が中止を撤回し講演会を予定通り明日3月18日に開催することが分かった、との報道だ。

 山梨市によると、中止が報じられた14日以降市民から開催を求める意見が相次いだことから、市の担当者が市長に翻意を促し、一転開催が決まった。 担当者が16日夜、上野さんに電話で伝えた。その際、「介護以外の話をしない」ことを上野さんに確認し、同意を得たという。


 今回の上野氏関連“事件”に関して原左都子が多少懸念するのは、朝日新聞「悩みのるつぼ」への相談者が若齢の15歳少年であった事だ。 
 人生経験をさほど積んでいないと推測可能な少年に対して、「性的ストレスのはけ口として熟女に依存しよう」との上野千鶴子氏の回答は、衝撃が余りにも大き過ぎるのではないかと推測する。 もっと別の観点からの回答も可能だったような思いもある。
 

 ただ、現世とは平均的人種の価値観を超え凄まじいまでに人々が“多様化”しているのが現実でもあろう。

 今回、社会学者であられる上野千鶴子氏が山梨市にて講演する議題とは 「ひとりでも最期まで在宅で」 との内容のようだ。
 高齢化が急激に進んでいる現在の世の中にあっては、種々多様な高齢者が存在してよいに決まっているではないか!
 この原左都子とて今後ますます高齢域に達する状況下で我が身を取り巻くすべての“しがらみ”から解放された暁には、今一度独り身で“青春”を楽しみたい所存だ。

 そんな風に、今後の高齢者とは更なる多様性を追及しつつ年老いて行くべくこの世の実態と私は捉えている。

 その現実に即した場合、上野千鶴子氏が明日(18日)山梨市で行う高齢者相手の講演会に於いても、その講演内容を開催者側が限定するのではなく、上野氏の自由闊達気ままな発言を展開する事こそが高齢に差し掛かっている人々の真の刺戟となるのではあるまいか。

要らないのに捨てられないジレンマ

2014年03月16日 | その他オピニオン
 おそらく何処のご家庭にも、「要らないのに捨てられない“モノ”や“ヒト”」が少なからず散在していることであろう。

 いえいえ、大変失礼申し上げました。
 “ヒト”に関する考察は別の機会に回すとして、今回のエッセイでは「要らないのに捨てられない“モノ”」を分析対象とさせていただこう。


 私事を語れば、我が家にも「要らないのに捨てられないモノ」をあちらこちらに放置したり収納したりの実態だ。
 
 今現時点で周囲(参考のため私は当該エッセイをリビングルームの一角に机を置いて綴っているが)を見渡してみても、古くなって使用していないパソコンやプリンター、エッセイを綴るために参照した膨大な量のスクラップ等資料や文献、今となっては一切視聴しないDVDやCD、古くなった絵画や美術品をはじめホコリを被ったまま放置されている室内装飾品、現在では家族の誰もが紐解くことのない本棚内の年代物学術書籍や文学本の数々、極めつけはリビングルーム内面積を一番占領しているピアノとエレクトーン……

 台所に視野を移すと、料理嫌いで名高い私が一切使用する気もないのに場所ばかりとっている食器や調理器具、そして賞味期限切れの缶詰等保存食品が保存棚に蔓延り…

 押し入れや収納庫内は、正直言って「要らないモノ」だらけの実態だ。

 私の場合、決してこれらを怠慢気質で放置している訳ではない。 むしろ綺麗好き、整理整頓好きの私であるが故に、定期的に各部屋を覗き、廃棄処分対象物を分別する作業を実施して廃棄処分を行っている。


 ところが、どうしても「要らないモノ」を廃棄処分出来ない心理が私なりにあるのだ。
 それはそのモノに対する“思い入れ感情”こそが主たる要因である。

 例えば、我が娘が幼き頃より少女時代に制作した拙い美術作品等々がその最たる“モノ”だ。 既に成人している娘に確認し「廃棄処分していい」との承諾を得ているものにもかかわらず、親の心理としてはどうしても捨てられない。
 あるいは本棚にある学術書などは私(及び亭主)が現役時代に学問及び科学研究とかかわった人生の歴史を物語る書物群であり、私としては痴呆症寸前に至るまで保存しておきたい思い入れが強い。
 料理嫌いで名高い私として一番捨てていいのは台所や収納庫内の食器や調理器具なのだが、これに関しては我が娘が将来的にこれらを使用する事も視野に入れ、高価なものに限定して一応保管することにしている。

 そんな原左都子であるが、実はつい先だって我が家のクローゼット内に保管していた“洋服及び服飾品類”を大々的に処分する事と相成った。

 深刻な豪雪被害の傷跡を未だ残している日本列島であるが、私が住む東京地方では日によっては春らしい日和が訪れる季節に移ろいでいる。
 春を迎えるに先立ち、我が家のクローゼット内不要洋服類を「古着屋」に売ってはどうかなる提案を我が娘にしたところ、娘が快く応じてくれた。
 我がタンス内と娘のクローゼット内から“要らない洋服及び服飾品類”の中でも新品やさほど着用していない物品をかき集め、全部で30点ほどに達した。

 それを古着屋に売りに行くとの手段に出た結果、如何程のフィードバックがあったかに関して以下に提示しよう。

 購入後全く使用する機会がなく保存してあった物品に関しては、ある程度の引取り価格設定がなされたようだ。 それにしてもそのフィードバック価格とは商品定価の3%に満たない低額である。
 いわんや一度でも着用した衣類に関しては、すべて「1円」ないし「0円」との引取り価格だった。
 更にはたとえブランド物であれ、現在まったく流行っていない物品に関しては やはり「1円」評価であるようだ。
 加えて過去に一時流行ったブランド品であれ、一度洗濯が施された物品とは「0円」の価値であるらしい。

 要するに、「今現在流行っていて、尚且つそれがブランド未使用品ならある程度の高価格で買い取る」とのポリシーを「古着屋」は持っているものと私は解釈した。
 それ以外の物品に関しても店舗内で再販売(あるいは店が責任持って廃棄処分)するけれども、買い取り価格は 「1円か0円」 との結論である。


 たとえそうだとしても、娘と二人で古着30着との重い荷物を「古着屋」まで運んで正解だった、との感覚を今も抱いている。
 これを「古着屋」で再販売してもらった方が、自宅から不要物として捨て去るよりも誰かに「再利用」されることとなるとのかすかな希望が繋げるからだ。

 そこで“モノ”に関して、要らないのに捨てられないジレンマに陥っている皆さんに提言申し上げたい。

 着用しないが自分で廃棄処分し難い洋服等に関しては、古着屋やバザーを活用するなり、自治体の古布回収システムを利用しては如何だろうか。
 それをゴミとして捨て去るよりも社会にリサイクルできそうな微々たる貢献感が得られるという事だ。

STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した

2014年03月12日 | 学問・研究
 「何だか胡散臭いなあ…」

 これは、1か月少し前に理化学研究所研究員 小保方晴子氏より科学誌「ネイチャー」上に発表されたSTAP細胞に関する論文内容が、世紀の大発見のごとく大々的にメディア上で取り上げられた直後に抱いた原左都子の疑惑感である。

 当時の小保方氏会見によると、(STAP細胞が)「簡単に出来た」、「偶然出来た」 …… 

 科学の発明や発見には、確かに偶然性がつきものではあろう。 ただ、その偶然性の根拠こそを徹底的に検証し得た後に初めて、「発見」とはこの世に日の目を見ることが許されるのではなかろうか??
 ところが小保方氏の論文の場合、その検証が一切なされない間に、論文内容のみが世界中を“大手を振って”独り歩きしてしまっている印象を受けた。


 だからこそ、私は「原左都子エッセイ集」2014.2.3バックナンバー 「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」 内で、以下の記述をしている。

 つい先だって、理化学研究所の研究員であられる小保方晴子氏(30歳)が、マウス動物実験に於いて新型万能細胞であるSTAP細胞の作成に成功した事実が世界中で報道された。
現時点では未だマウス動物実験結果に過ぎない段階の「STAP細胞」に関する私見を公開することは差し控え、この実験の成果が一段階進捗した時点で、元医学関係者である原左都子の私論を公開したいと考えている。
 (以上、「原左都子エッセイ集」より一部を引用。)


 上記の我がバックナンバー内容の通り、未だ動物実験段階の域を超えていない医学基礎研究成果が世界的トピックスになる事自体に、違和感を抱かされる。
 一昨年ノーベル医学賞を受賞された、山中教授の「iPS細胞」研究も同様に、再生医療分野に於いては未だ初期段階だった。 この事実に関しても、私はバックナンバーで異論を唱えている。 (特に科学分野の)ノーベル賞とは既に世界に貢献した研究や成果に対して与えられるべき賞ではなかろうか、と。 今後の臨床医学への発展性が未知数の「iPS細胞」研究に世界に名だたる賞を与えるのは時期尚早!、との私論を展開している。

 ましてや、今回の小保方氏によるSTAP細胞研究論文内容に関しては各方面から次の指摘がある。
 「画像の使い回しがある」「海外の研究者と同様の記述がある」「公開されたSTAP細胞作成法の手順書に符号しない点がある」等々… 
 論文発表時の常識を覆す初歩的段階の疑惑が各方面から提示される事態など、科学研究論文発表に於いては許し難き不祥事であり、言語道断だ。


 ここで改めて、メディア上で発表されている“小保方氏STAP細胞”疑惑に関する情報の一部を以下に紹介しよう。

 理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダー(30)らが発表した新万能細胞「STAP細胞」の論文の画像に不自然な点が指摘されている問題で、共同研究者の若山照彦山梨大教授は3月10日、同大で取材に応じ「STAP細胞が分化したという証拠がない」と述べた。
 若山教授は「間違いがあったかどうか、論文の将来のためにも1回取り下げて、厳しい審査にかけた方がいい」と話した。小保方氏らには同日午後、論文の取り下げを勧めるメールを送ったという。
 若山教授はホームページでもコメントを発表し、小保方氏らから提供されたSTAP細胞を公的な第三者機関に提供し、分析を依頼する考えを示した。

 理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーらが1月末、「人工多能性幹細胞(iPS細胞)より簡単にできる」と発表したSTAP(スタップ)細胞。 論文に疑惑が浮上してから約1カ月後の3月11日、初めて記者会見した理研の加賀屋悟広報室長は「誤解を生んだことは反省している。そんなに簡単にできない」と陳謝した。
 小保方氏らは、マウスの細胞を弱酸性液に浸したり、細いガラス管に何回も通したりする簡単な操作でSTAP細胞ができると発表。3~4種類の遺伝子を導入して作るiPS細胞に比べ、早く効率良くできるとアピールし、国内外で大きな注目を集めた。
 一方、iPS細胞の開発者でノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥京都大教授は2月10日、異例の記者会見を開き、理研の発表にはiPS細胞の最新の研究成果が反映されておらず、誤解があると訴えた。
 これに対し、理研の加賀屋室長はSTAP細胞論文の日本語発表資料について「iPS細胞と比較した所は科学的に不十分な点があった」と述べた。その上で「STAP細胞は再現実験が行われているが、なかなかできていないのが現実。刺激(を与える作製法)としては簡単に見えるが、そんなに簡単にできるものではない」と認めた。 
 (以上、ネット情報より2例を引用。)


 朝日新聞3月11日報道によると、小保方晴子氏自身は「様々な指摘を真摯に受け止める」と説明しているらしい。

 これに多少救われる思いの原左都子だ。
 まさかまさか、小保方氏がメディア上で「美人リケジョ」などと一時騒がれた事にうつつを抜かす程の単細胞・低能人種ではなかったことに、ひとまず安心の私である。

 
 それにしても…

 科学分野の基礎研究者たる者達よ。 
 貴方達が現在行っている研究成果がこの世の未来を揺り動かす程の影響力がある事実を認識し、その影響に対する使命感を持って研究に臨んで欲しい思いだ。

 確かに今の時代、世界規模での競争が科学基礎研究分野にも蔓延り激化している現実を私も把握している。

 そうだとして、何故論文発表の時期をそれ程までに急ぐのだろう。
 その原動力とは、貴方の名誉欲に端を発しているのか?
 あるいは、世界に先駆けて「特許」を取得して経済力を得ることにより、今後の身の繁栄に繋げたいのか?? 
 はたまた、自分こそが「美人リケジョ」として狭い世間で名を売りたいのか???

 そんな取るに足りない事象よりも、宇宙規模での科学の発展こそが人類をはじめとする地球の進化を望める観点を、深い思慮を持って基礎科学研究者達に抱いて欲しい思いだ。

悪口を言われる事とは自身に存在感がある証拠

2014年03月10日 | 人間関係
 原左都子のこれまでの人生を思い返してみるに、他人に“陰で”悪口を言われた経験はない(あるいは、覚えていないと言った方が正確か?)ような気がする。

 いえいえ、現在の私はこのようにネット上でブログなどを公開している関係で、特に「原左都子エッセイ集」開設初期段階に於いては、「悪口」(というよりも「誹謗中傷」と表現するべきか?)が届くことを少なからず経験している。
 ただ私の場合、“陰で”コソコソとそれを実行する読者とはほんの一握りであり、ほとんどが直接私にその思いをぶつけてくれることが幸いしているとも言える。
 要するにそれらは決して私に対する「悪口」や「誹謗中傷」ではなく、「議論」と解釈するべきだろう。 それ故に、現在に至っても我がエッセイ集宛に頂戴した「議論事項」に関しては、必ずや個別にご返答申し上げる事を実行している。


 このように陰で「悪口」を言われた記憶がない私であるが、我が今までの人生に於いて他者から面と向かって 「あなたが嫌いだ!」 と直言された経験は何度かある。
 それら“直言”に関しては今尚我が脳裏に鮮明な記憶があるため、以下にその経験の一つを記そう。 (本エッセイ集バックナンバーでも紹介しているので、ご記憶の読者の方々が存在することを承知しつつ…)

 我が第二次反抗期、小学6年生頃の出来事である。
 当時より既に大いなる“天邪鬼批判気質”を内に秘めていた私は、早くも学級担任先生批判を展開した。 その批判の手段とは国語の時間に課せられた作文内なのだが、私は「学級担任とは“えこひいき”をするべきでない」なる表題の作文を仕上げて提出した。
 作文提出直後に私は担任から教室内全生徒の面前で“吊し上げ”措置を食らったのに加えて、一男子生徒より「お前が嫌いだ!」なる直訴を受ける事態と相成った。  男子生徒曰く、「クラスの皆が仲良くしようとしているのに、何でお前だけが反発ばかりしているのだ! お前のような奴がクラスにいるのは迷惑だし、先生が可愛そうだよ!」   この一男子生徒よりの暴言に、私は敢えて反論はしなかった。 幼き頭で“自分の論理こそが正しい!”と信じていたから黙って耐えた。
 その後の教室内では、特に目立った動きはなかった。 クラスの誰かがどちらかに迎合するでもなく卒業式の日を迎えた。  ただ大人であるはずの担任だけは、私に対する“憎しみ”の思いが卒業後も募っていたようだが… 


 本日このエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞3月8日別刷「be」 “悩みのるつぼ”を見たことによる。

 中学3年生15歳女子による相談内容とは、「人から悪口を言われたくない」とのことだ。

 その内容を紹介する以前に原左都子が疑ったのは、この少女は本当に周囲から「悪口を言われているのか?」との真相部分である。
 
 ご本人の投書曰く、「昔は今よりも静かで人付き合いも悪く、周囲からの印象もよくなかったかもしれない」 「小学4年の時に転校したのを機に努めて明るくしユーモアをもって話すことができるようになった」 「それでも他人からあることないこと悪く言われる」……  春から高校生だし、今後は他人から悪口を言われない高校生活を謳歌したい……

 ここで原左都子が上記女子中学生を評価するならば、“感受性が強く周囲の反応を推し量れる頭脳も持ち合わせているが、反面、繊細過ぎるが故に自分自身の総合評価が出来ていないのかな?” 加えて“例えば親からの評価はどう処理しているのだろう? 未だ中学生段階では、女子生徒の総合評価において親の判断も必要と結論付けるが…” ……


 ここで、今回の朝日新聞“悩みのるつぼ”回答者であられる 評論家 岡田斗司夫氏よりの回答内容の一部を以下に紹介しよう。

 悪口は、それ自体は悪意のない場合が多い。 でも参加してくれない人がいたら自分たちがやっていることが急に薄汚くみっともないことに思える。 無いはずの「悪意」まであるような気がする。 
 ためしに私(岡田斗司夫氏)の名前をネットで検索してみてください。 誉めてくれる件数の10倍、悪口があふれています。
 (以上、朝日新聞3月8日 「悩みのるつぼ」 岡田斗司夫氏回答より一部を引用。)


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 まずは“悩みのるつぼ”回答者であられる評論家 岡田斗司夫先生に一言申し上げたい事がある。

 貴方は今現在、著名人の立場であられるはずだ。 にもかかわらず、ネット上で自分に対する庶民からの「悪口」が氾濫しているとの記述を朝日新聞紙上で公開されている事実に違和感を抱く私だ。 著名人を自覚している人々の常識に於いて、その発言は控えるべきではあるまいか? 
 もしかしたら、岡田斗司夫氏とは繊細な心をお持ちの方とも推測申し上げるが、少なくとも著名人の貴方に押し寄せる庶民からの反応を「悪口」と表現する事とは、あなたのファンを排除するべく行為ではなかろうか??
 重ねて私論だが、報道メジャー朝日新聞紙上との恵まれた場面で、岡田氏のプライベート感情を露出する必然性などなかったものと捉えるのだが如何だろうか。 もしかしたら岡田氏とは、私のような庶民からのこの種の提言すら、ご自身への「悪口」と判断して排除されるのであろうか??

 
 片や、“悩みのるつぼ”相談者である15歳中学生にも私から一言提言したい思いだ。

 貴女は、小さい頃より現在に至るまで周囲の皆に陰で悪口を言われてきたと勘違いした道程を歩んだようだ。
 どうだろう。 もしも貴女が今まで一度も周囲から「悪口」を“直言”された経験がないのならば、今後は取るに足りない周囲の反応を気にするより、自身の将来性こそを見つめてはどうだろうか?

 この私など幼き頃に“お前が嫌いだ!”との「悪口」を周囲から“直言”されたことがきっかけで我が“天邪鬼気質”を再確認して、この世を力強く生き延びているとも表現可能だ。 そんな批判精神旺盛な自分を肯定できることを武器として、今後も年老いていくつもりだよ! 

絵むすび(朝日新聞2014.3.8編)

2014年03月09日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞2014年3月8日別刷「be」に掲載された パズル 「絵むすび」 に原左都子が解答したもの。)



 今回の朝日新聞「絵むすび」は、レベル4にしては簡単でしたね。

 チャチャッと、3分程度で解答出来てしまいました。 



 本日これから、東京有楽町 東京国際フォーラムで開催中の「アートフェア東京2014」(本日3月9日が最終日です。)を観賞しに出かけますので、今回の「絵むすび」は解答の公開のみにさせていただきます。 

 

身内高齢者達を“あの世”に送った後も一人で飯を食える女でありたい

2014年03月08日 | 時事論評
 本日(3月8日)先ほどNHKテレビで放映された 連続ドラマ「ごちそうさん」内で、主人公め以子の義理姉 和枝が、め以子に向かって発したセリフが現在の我が身とピタリとダブる思いだ。

 「女とはなあ、家族皆を一人ずつ(あの世に)見送ってまた見送って、その後我が身だけ残された後に(この世で)一人でご飯を食べつつ生き残る宿命を背負ってるんや。 あんたも若気の至りで“一人でご飯を食べるのが寂しい”などと言うとらんと、ちょっとは一人でご飯を食べれるようになりや。」
 (原左都子の記憶のみに頼り綴っておりますので、ドラマ内セリフと多少異なっているであろう事をお詫び申し上げます。)


 冒頭から原左都子の私論に入ろう。

 まさに和枝さんがおっしゃる通りの宿命を、女性は背負って生まれてきていると実感させられる今日この頃の私だ。

 そんな私にとっても、め以子の軟弱さはふがいないし鬱陶しい。 
 と言うよりも、この場面のドラマシナリオ自体が不自然との実感を抱かされる。
 何故、“いけず”の義理姉と一緒に食事をしたいとの発想がめ以子側から出るのか?  今までの習慣でめ以子が家族と共に食卓を囲んで来たことはずっとドラマを見てきた私も知っているが、何も好き好んで自分を敬遠しようとしている相手(和枝)と本気で食事を一緒にしたい訳などあり得ないだろうに…。
 もしも私が和枝の立場であるとて、め以子と一緒に食事をする事など断じて御免蒙りたい思いだ。


 ここで私事を語るが、私は過去に於いて40歳近くまでの約17年間に及ぶ単独独身生活を貫いてきている。
 その間、気心知れた彼氏や友人や職場の上司や仲間と一緒に外食(そのほとんが飲み会なのだが…)をする機会を数多く経験している。

 そんな私が一番苦手だったのが、彼氏からの我が家にて食卓を囲みたいとの嘆願だった。
 それを訴える相手には必ずや断固としてお断りした。  一緒に食事をしてもいいけれど、何故我が家でそれを実行せねばならないのか?  外で二人で食事をすれば十分だし、あるいは貴方の家ででもいいでしょ??  なる我が正直な希望に沿ってくれる相手も結構存在して、私は彼氏の家でよく食事をしたものだ。 その際も私と同様に多忙な相手の立場を思いやり、必ずや何某かの食材や酒を買い求めて彼氏の自宅を訪ねたものだ。

 我が若かりし時代のノスタルジーを語ろうが、らちが明かない事など承知の上での話題だが…。


 悲しいことに現自民党安倍政権とは憲法解釈等により、極論を言うならば、我が国を「戦争が出来る国」に仕立て上げようとしている事実に、その政権運営実態から推し量る国民が少なくない事であろう。

 現在放映中のNHKドラマ「ごちそうさん」とは、後半に於いて昭和戦時中に庶民が国家から理不尽や不自由を強いられた時代背景を描くことにより、現在政権を担っている安倍政権へ“ささやかな抵抗”を試みようとの趣旨と受け取っているのは原左都子だけだろうか??

 戦争の過ちや理不尽さを、それにより家族を失う悲しみや憎しみを表現することで、主人公め以子をはじめとする登場人物を通して実に繊細に描写しているドラマと解釈して、私は「ごちそうさん」を高評価している。


 話題が変わるが、一昨日、私は保証人を担当している親族の一人である義理母を伴った旅行から帰宅した。
 人生の終盤にさしかかっている(?)義母から、「人生最高の旅行だった!」との感想を頂戴したことが何よりの私の喜びとも実感している今現在だ。
 同時にいつ訪ねても私に“悪態”を突き続ける、同じく人生終盤の我が実母が郷里で一人暮らしであることにも思いが及ぶ。

 そんな私は、近い未来に親族皆を“あの世”へ見送った後にも“一人でご飯を食べる”事など容易な事として今は認識している。
 次世代を力強く生き抜かねばならない我が娘に、我が老後の支援など一切頼りたくない思いが強靭だ!
 加えて、集団嫌いな私がまかり間違っても将来「ケアマンション」で集団生活など出来る訳もない。(これ程までに国家の年金事業がダメージを受けている現実を鑑みた場合、私にはその金力もないだろうし…)

 ドラマ「ごちそうさん」の和枝さんがおっしゃる通り、女である私は身内皆をあの世に送った後の老後も“一人飯”を堪能し続けるであろうし、そうして生き延びるしか選択肢がない現実を今から切実に実感させられる思いでもある。

頼ってくれる人がいる幸せ

2014年03月03日 | 人間関係
 どうやら原左都子とは、人からの“信頼・人望が厚い”人間であるようだ。

 いえいえ、それは親族内に限った話である事を最初にお断りしておこう。


 先週航空機便にて旅に出た私だが、その第一目的とは我が郷里の実母を訪ねることにあった。

 そして立て続けに明日から再び旅行に出発するが、今回は義母を引き連れての親孝行目的旅である。

 両方の母共々、娘(あるいは嫁)の私の存在など二の次、“可愛い孫”の成長した姿こそを一見したいであろうとの私の配慮から、今回は娘の大学春期休暇を利用しての間髪入れずのハード旅程となってしまった。 
 と言うのも、可愛い孫の姿を見てこそ両母共に心底心が安らぐ事など重々承知の上である。
 娘(あるいは嫁)である私が果たす役割とは、両母に成長した孫の姿を見せつつ、「要支援」の身の二人の現状を医学的及び人道的観点から観察し、今後ご両人が死に至るまで充実した人生が歩めるよう最大限の支援を実行する事に他ならないのだ。


 幸いなことに、80代前半に至っている二人の母共々、心身共に比較的元気に推移しているようだ。

 実母に関しては実娘の私に対する我がままからか、たった2日間の滞在にもかかわらず悪態を突いてくるのはいつもの事だ。 それでも孫である我が娘に対しては一歩退いて、成長を祝う視線に安堵させられる。
 実母の場合、米国に長女(私にとって実姉に当たるが)もいる。 ところが、この実姉に老後の支援を頼ろうとの考えが一切ないようだ。 母曰く、「長女は米国暮らしだから易々と日本に戻れない」との理由のようだが、私に言わせてもらうと、航空機便が世界規模で目覚ましいまでの進化を遂げている今現在、私が住む東京と米国西海岸の距離差は母の思惑程大きくないはずだ。
 なのに何故実母は私を“終(つい)の後見人”にしたいのか?  それは、実母にとっては姉よりも私の方が“扱い易い”からに他ならない事ぐらい認識できている。 それでも、それは我が“人徳”と捉えることにより、実母の期待に応えつつ母の最終章を私が見守り切りたい思いでもある。

 もっと有り難いのは、義母もまた“終(つい)の後見人”の位置付けとして私を頼ってくれている事実だ。
 義母の場合は、それまで面倒を看てくれていた義理姉を昨年6月に壮絶な癌闘病の後に亡くすとの、突然の不運に見舞われた。
 そこで義母の後見人を名目上引き継いだのが長男である我が亭主だ。 ところが義母が提案した事実とは、“実質的に”面倒を看て欲しいのは息子である長男よりも、嫁の私との事だ。
 これにも大いにガッテン!の私であったし、それこそが義母が老けていない証拠と受け取った。 何と言っても、高齢者を総合的に看る能力とは女性の方が長けていると私も感じる。
 加えて義母の場合、ある程度の財産を所有していることが一番の判断材料となったと判断する。 財産管理をその学術的背景(参考のため私は「経営法学修士」を取得しているのに加えて、税理士試験税法3科目免除申請も通過している)のある私に一任したいと言ってくれたことこそが、私のプライドを呼び起こす原動力ともなった。

 先週実母が住む田舎へ出発直前日に、私は義母の「青色申告」を滞りなく済ませた。 
 それを義母に電話にて報告した際、どれ程義母が安堵し喜んでくれた事か!


 親孝行とはこういう風にしていくことが、原左都子なりの特性や人生経験に応じた生き様なのであろう。

 そんな私を頼ってくれる高齢者が身内に複数存在する事実こそが、我が今後の“幸せ”を紡ぎ続けてくれることと信じ、明日から再び旅に出ます。

航空機座席の運・不運どうにかならないものか!

2014年03月01日 | 旅行記・グルメ
 昨夜旅行から帰宅した原左都子だが、復路航空機便座席でとんでもない「不運」に見舞われ、せっかくの旅行が台無しとなってしまい腹立たしいやら落胆させられるやらの後味の悪さである。


 そこで今回は、マイナーな内容の旅行記を読者の皆様に公開し恐縮だが、昨日私が航空便復路で味わわされた機内座席の「不運」に関して論評させて頂く事とする。

 そもそも航空機に限らず、劇場であれ映画館であれ居酒屋であれ、はたまた学校教室の席順であれ、予約したり案内されたりくじ引きで決まったりの自分の座席に関する「不運」とはつきものだ。 ろくでもない輩やグループの前後左右座席の“外れくじ”を引かされた時の無念に関しては、誰しも経験があるであろう。
 人為的なミスによるものでない限り、たとえ“外れくじ”を引かされたとて、その「無念」のはけ口が何処にもなく、ストレスを自身の内部に溜め込み胃を痛めつつ時を過ごすしか方策がとれないものだ。


 旅行に際し航空便を頻繁に利用する私だが、大抵の場合はネット検索により早期に自分自身で航空機座席を予約する。
 その際の最大の留意点とは、当然ながら他の旅行客に邪魔されずに快適に過ごせそうな座席を如何にセレクトするかである。 ところが座席予約の際の情報とは限られているのに加えて、結果として満席になる場合は当然ながら何処の席を予約したとて「不運」は避けられない運命にある。 それは致し方ない事として私も耐え忍ぶ事が可能だ。
 
 昨日帰宅した旅行に際しては(敢えて実名を挙げさせてもらうが)ANA便を利用したため、同じ目的地を往復するJAL便よりも空席が多いことを私はあらかじめ周知していた。
 今回は娘との二人旅のため、3席並列の座席を通路側から2席予約しておけば、空席が多いANA便でまさかその横の窓側席を敢えて予約する人物はいないだろうと予測していた。

 往路に関してはこれが大正解で、3席の空間を二人で独占でき娘と水入らずの片道旅程が叶った。


 ところが、どうしたことか!?!
 復路便では、信じられない「不運」が降りかかる運命となったのだ! 

 帰路の空港に到着すると、案の定我々親子が乗り込むANA便の搭乗者数が少ないようだ。 「これはまた、3席並列座席を独占できそうだね!」と娘と共に喜びつつ飛行機に乗り込んだ。
 やはり搭乗者が少ない様子で、座席に着いてすぐに「まもなく離陸」案内がアナウンスされた。

 その時である。
 離陸間際に搭乗してきた男性客の座席が我々の横の窓側席だったようだ。  女性客室乗務員に「お席はこちらです」と案内されつつ、なんと前後左右に空席が目立つ機内で何故か我々の横の窓側座席に入り込もうとするではないか!?
 
 その時、私の脳裏に様々な思いが過った。  空席が目立つ機内シチュエーションに於いて、何故、客室乗務員は「よろしければこちらのお席はどうですか?」と別空席を男性に勧めないのか??
 もしかしてこの男性自らが座席を予約したとして、この客は如何なるルートで座席を予約したのか? もしかしたら人に囲まれたい性質の人間なのか??  まさか予約画面で隣席が女性2人だからその隣席を希望する、なる個人情報を得られないことに期待したいが、ANAでは例えばVIP客にはその種の特権でも与えているのか???
 あるいは現地空港予約の際にANA担当者が“意地悪観点”から、機内空席が余りあるにもかかわらずあえてその男性に我々母娘の横の席を指定したのか????


 原左都子のANA疑惑は行きつくところを知らない。
 ANA機内に於いて搭乗客が少なく空いているにもかかわらず、味わわされた航空機座席に関する「不運」を今尚根に持ち続けている。

 もちろん我々母娘の方から、ANA客室乗務員へ“座席変更”願いを持ち出す事など周知の上だ。
 ただ不運な事には、上述のごとく搭乗客が少ないが故すぐさま離陸体制に入ってしまったのだ。 その状況下でまさか非常識に“座席変更”など言い出せる訳がない。
 それに加え、たかが1時間程度の飛行距離において、離陸体制が解除された後に至って“座席変更”など嘆願する乗客も皆無であろう。
 結果として、周囲の乗客が3席分の座席を独占してゆったりしている機内風景を見るにつけ、「何で我々は空いている航空機内でこんな窮屈な空旅を課せられなきゃならないの!?!」なる理不尽とも言えるANAから課せられた行脚に耐え忍ばされたのが事実だ。 (帰宅から1日経過した今現在もANAには“恨みつらみ”の感覚が消え去らない。
 (しかも、その窓際席男性の「チック神経症状」とも捉えられる“鼻すすり”大音声が1時間の飛行時間真横の席から絶え間なく繰り返された事実にも、元医学関係者の私としては耐えがたい屈辱を味わわされ辟易としたのだが…)


 最後に、原左都子からの航空機会社への提案で締めくくろう。

 近年は日本国内のみならず、世界各国大小規模にかかわらず航空機各社も「空席」を出来るだけ最小限に留めるべく経営努力をしている様を実感している。

 それでも、機内で空席が出てしまった場合の対策をもっと吟味してはどうなのか?
 たかが国内零細便一般席座席に関しても、杓子定規ではなく臨機応変な対応を実行出来ないものなのだろうか??

 今回我々親子が昨日ANAで経験したような、「周囲の乗客は空席たっぷりの機内でゆったり寛いでいるのに、何故我々親子のみが3席との狭い空間で他人と同席せねばならないのか」なる“不公平感”のみは即刻解消して欲しい思いだ。

 その際、一番に採るべく対応策とは、客室乗務員の再教育であろう。
 現在では航空機業界に於いて客室乗務員のパート化が急激に進んでいるようだ。 たとえパート乗務員であろうが、機内空席状態を一瞬に見定め、すべての顧客に不公平なくより快適な空旅が叶うようなシステム作りを(特にANAには)早急に願いたい思いを持って、今回このエッセイを綴った次第だ。