本エッセイ集2007.12.16「左都子の市民講座」カテゴリー バックナンバーに、「近代市民法の基本原理とその修正(その2)」と題するエッセイ(というよりも「講座」と表現するべき)がある。
冒頭より、その内容の前半部分のみを以下に紹介させていただこう。
前回の「近代市民法の基本原理とその修正(その1)」においては、近代市民法とは何か? 及び その基本原理のひとつである“所有権絶対の原則とその修正”について既述しました。
今回(その2)は、基本原理の二つ目“契約自由の原則とその修正”について解説しましょう。
○契約自由の原則とその修正
契約とは何か?
売買契約を例に説明してみよう。
商品を売りたい
売主 → 買主
←
商品を買いたい
通常、両者は利害対立関係にある。(あなたの得は私の損)
このような、方向の異なる複数の意思が“合致”することにより成立する
法律行為を “契約” という。
法律上の契約には上記の“売買契約”の他、“賃貸借契約”“婚姻契約”
(判例上、“婚姻予約”という用語が使用されている。) “雇用契約”
等がある。
「身分から契約へ」
アンシャンレジウムの時代
人の権利、義務は人の“身分”から発生していた。
(※アンシャンレジウムとは
1789年のフランス革命前の絶対王政を中心とする
封建的な旧体制のこと)
市民社会
人の権利、義務は個々人の“自由な意思”により発生する。
近代市民法の根本理念 = “自由と平等” であるならば
↓
個人の経済活動は自由に行われるべき
= “自由放任主義” “自由競争”
↓
契約自由の原則
①契約締結の自由
②契約相手方選択の自由
③契約内容の自由
④契約方式の自由
しかし…
経済的強者は経済的弱者に対し、その権力を利用して自分にとって
有利な契約を結ぶようになった。
例: 企業 対 労働者 の雇用契約
労働者は、低賃金、長時間労働等、不利な条件で雇用契約を
締結しなければならない場合が多い。(今なお…)
↓
契約自由の原則も、“経済的弱者の保護”“公共の福祉”の観点から
一定の制限を受ける。
例: 労働基準法第13条
この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約
は、その部分については無効とする。…
(以上は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの前半部分を紹介したもの。 ご興味がございましたら、是非後半部分もバックナンバーをご検索下さいますように。)
さて、今回のエッセイ本題に入ろう。
上記のように法学の心得(「経営法学修士」を取得しているが)のある私にして、実は今現在、現実世界に於いて、某契約の相手方との間に下手をすると賠償責任訴訟を起こされるにまで発展しかねない深刻なトラブルを抱えるはめとなっている。
(現在トラブル真っ只中につき、その内容を公開することは我が良心に基づいて差し控えるが)、もしも最悪の事態、多額の損害賠償支払いに応じねばならない絶対的危機が我が身に迫っている。
そんな我が身に恐怖の追い打ちをかけるのが、契約者両人の調停をせねばならない立場のはずの仲介業者が契約相手方の支援に回っている事態である。
これに関して、私は契約締結時点で薄々ではあるが既に(契約相手方と仲介業者がもしかしたら知り合いではなかろうか??)なる不安材料を察知していた。
その後時を経ずして契約相手方より仲介業者を通じ、契約に関して不具合箇所があるとのクレーム連絡が我が手元に入った。 法学心得がある私はすぐさま不具合に関する詳細の聞き取り把握の後、とりあえずの補償を実行すると同時に、今後の対応策に関して契約相手方と一応の同意に達した。
ところがその対応策に関して、またもや仲介業者よりクレームが入ったのだ。
仲介業者曰く、「貴方の対応は間違っているから契約相手方の意向に沿うように。 あの人(契約相手方)はいい人ですよ。」
私も実際一度だけ、今回のトラブルに際して契約相手方と直接面談している。 確かに「いい人」には間違いないであろう。私も一見そのような印象を抱いた。 決して特段「悪人」ではない事は海千山千の私も承知している。
ただ私の懸念点は、契約相手方がどこまでの“法的観点をもって”今回のクレームを仲介業者へ訴えているのかとの事だ。(それを望むのは無理に等しいとの感覚だが…) しかも嘆かわしい事には、仲介業者の法的観点も実に疑わしい。 今時信じ難い事には、すべてが“どんぶり勘定”の上「(契約相手方である)あの人はいい人ですよ。」との素人もどきの反応が仲介業者から返ってきた時点で、私の堪忍袋の緒が完全に切れた。
「申し訳ないですが今後は仲介業者である貴社を通さず、私が個人的に契約相手に直接現行法制度に基づき対応します。 もしかしたら私が外見上ギャルにでも見えたから“こいつは騙せる”とでも企んで契約相手方とグルになったのですか?? 残念ながら私は契約相手方よりずっと年寄りですし、法律経験も積んでいますよ!」
仲介業者に契約仲介料を支払っているのは我が身であり(将来ややもすると賠償金を受取りホクホクする側の立場ではないのに)、こうでも結論付けねば私の気が済まないのだ!
それでも現在義母の保証人を務めている身として、(元実業家である)義母が婚姻以来ずっと私に告げてくれる“教え”が脳裏に響く思いだ。
その“教え”とは、「お金でケリがつく事など簡単よ」なる名言である。
確かにそうだと感じる。 これがもし私がストーカー被害にでも遭って明日は命を落とす事態ではないことをせめてもの幸運と捉えよう。
それにしてもだ。
自分にとって見知らぬに等しい相手の事を 「あの人はいい人ですよ」 と他者から“易々と”押し付けられても辟易とするばかりである。 法的場面に限らず日常生活に於いても、人物評価など自分自身の価値観で判断の上、今後お付合いに値するか否かの決断を下したいものだ。
しかも、これが法律上の利害対立関係にある両者の「契約締結仲介業務」を司っている業者から発せられた言葉であるとするならば、そんな業者は法的観点から今すぐ排除されるべきではなかろうか。
“排除”は言い過ぎとしても、その種の契約仲介業務を生業としている業者には、早急に適切な指導を実施するべく行政に機能して欲しいものでもある。
冒頭より、その内容の前半部分のみを以下に紹介させていただこう。
前回の「近代市民法の基本原理とその修正(その1)」においては、近代市民法とは何か? 及び その基本原理のひとつである“所有権絶対の原則とその修正”について既述しました。
今回(その2)は、基本原理の二つ目“契約自由の原則とその修正”について解説しましょう。
○契約自由の原則とその修正
契約とは何か?
売買契約を例に説明してみよう。
商品を売りたい
売主 → 買主
←
商品を買いたい
通常、両者は利害対立関係にある。(あなたの得は私の損)
このような、方向の異なる複数の意思が“合致”することにより成立する
法律行為を “契約” という。
法律上の契約には上記の“売買契約”の他、“賃貸借契約”“婚姻契約”
(判例上、“婚姻予約”という用語が使用されている。) “雇用契約”
等がある。
「身分から契約へ」
アンシャンレジウムの時代
人の権利、義務は人の“身分”から発生していた。
(※アンシャンレジウムとは
1789年のフランス革命前の絶対王政を中心とする
封建的な旧体制のこと)
市民社会
人の権利、義務は個々人の“自由な意思”により発生する。
近代市民法の根本理念 = “自由と平等” であるならば
↓
個人の経済活動は自由に行われるべき
= “自由放任主義” “自由競争”
↓
契約自由の原則
①契約締結の自由
②契約相手方選択の自由
③契約内容の自由
④契約方式の自由
しかし…
経済的強者は経済的弱者に対し、その権力を利用して自分にとって
有利な契約を結ぶようになった。
例: 企業 対 労働者 の雇用契約
労働者は、低賃金、長時間労働等、不利な条件で雇用契約を
締結しなければならない場合が多い。(今なお…)
↓
契約自由の原則も、“経済的弱者の保護”“公共の福祉”の観点から
一定の制限を受ける。
例: 労働基準法第13条
この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約
は、その部分については無効とする。…
(以上は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの前半部分を紹介したもの。 ご興味がございましたら、是非後半部分もバックナンバーをご検索下さいますように。)
さて、今回のエッセイ本題に入ろう。
上記のように法学の心得(「経営法学修士」を取得しているが)のある私にして、実は今現在、現実世界に於いて、某契約の相手方との間に下手をすると賠償責任訴訟を起こされるにまで発展しかねない深刻なトラブルを抱えるはめとなっている。
(現在トラブル真っ只中につき、その内容を公開することは我が良心に基づいて差し控えるが)、もしも最悪の事態、多額の損害賠償支払いに応じねばならない絶対的危機が我が身に迫っている。
そんな我が身に恐怖の追い打ちをかけるのが、契約者両人の調停をせねばならない立場のはずの仲介業者が契約相手方の支援に回っている事態である。
これに関して、私は契約締結時点で薄々ではあるが既に(契約相手方と仲介業者がもしかしたら知り合いではなかろうか??)なる不安材料を察知していた。
その後時を経ずして契約相手方より仲介業者を通じ、契約に関して不具合箇所があるとのクレーム連絡が我が手元に入った。 法学心得がある私はすぐさま不具合に関する詳細の聞き取り把握の後、とりあえずの補償を実行すると同時に、今後の対応策に関して契約相手方と一応の同意に達した。
ところがその対応策に関して、またもや仲介業者よりクレームが入ったのだ。
仲介業者曰く、「貴方の対応は間違っているから契約相手方の意向に沿うように。 あの人(契約相手方)はいい人ですよ。」
私も実際一度だけ、今回のトラブルに際して契約相手方と直接面談している。 確かに「いい人」には間違いないであろう。私も一見そのような印象を抱いた。 決して特段「悪人」ではない事は海千山千の私も承知している。
ただ私の懸念点は、契約相手方がどこまでの“法的観点をもって”今回のクレームを仲介業者へ訴えているのかとの事だ。(それを望むのは無理に等しいとの感覚だが…) しかも嘆かわしい事には、仲介業者の法的観点も実に疑わしい。 今時信じ難い事には、すべてが“どんぶり勘定”の上「(契約相手方である)あの人はいい人ですよ。」との素人もどきの反応が仲介業者から返ってきた時点で、私の堪忍袋の緒が完全に切れた。
「申し訳ないですが今後は仲介業者である貴社を通さず、私が個人的に契約相手に直接現行法制度に基づき対応します。 もしかしたら私が外見上ギャルにでも見えたから“こいつは騙せる”とでも企んで契約相手方とグルになったのですか?? 残念ながら私は契約相手方よりずっと年寄りですし、法律経験も積んでいますよ!」
仲介業者に契約仲介料を支払っているのは我が身であり(将来ややもすると賠償金を受取りホクホクする側の立場ではないのに)、こうでも結論付けねば私の気が済まないのだ!
それでも現在義母の保証人を務めている身として、(元実業家である)義母が婚姻以来ずっと私に告げてくれる“教え”が脳裏に響く思いだ。
その“教え”とは、「お金でケリがつく事など簡単よ」なる名言である。
確かにそうだと感じる。 これがもし私がストーカー被害にでも遭って明日は命を落とす事態ではないことをせめてもの幸運と捉えよう。
それにしてもだ。
自分にとって見知らぬに等しい相手の事を 「あの人はいい人ですよ」 と他者から“易々と”押し付けられても辟易とするばかりである。 法的場面に限らず日常生活に於いても、人物評価など自分自身の価値観で判断の上、今後お付合いに値するか否かの決断を下したいものだ。
しかも、これが法律上の利害対立関係にある両者の「契約締結仲介業務」を司っている業者から発せられた言葉であるとするならば、そんな業者は法的観点から今すぐ排除されるべきではなかろうか。
“排除”は言い過ぎとしても、その種の契約仲介業務を生業としている業者には、早急に適切な指導を実施するべく行政に機能して欲しいものでもある。