原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「あの人は“いい人”ですよ」   と言われても……

2014年03月31日 | 時事論評
 本エッセイ集2007.12.16「左都子の市民講座」カテゴリー バックナンバーに、「近代市民法の基本原理とその修正(その2)」と題するエッセイ(というよりも「講座」と表現するべき)がある。

 冒頭より、その内容の前半部分のみを以下に紹介させていただこう。

 
 前回の「近代市民法の基本原理とその修正(その1)」においては、近代市民法とは何か? 及び その基本原理のひとつである“所有権絶対の原則とその修正”について既述しました。
 今回(その2)は、基本原理の二つ目“契約自由の原則とその修正”について解説しましょう。

 ○契約自由の原則とその修正

   契約とは何か?
    売買契約を例に説明してみよう。

         商品を売りたい
     売主     →     買主
             ←
         商品を買いたい

    通常、両者は利害対立関係にある。(あなたの得は私の損)

    このような、方向の異なる複数の意思が“合致”することにより成立する
    法律行為を “契約” という。

    法律上の契約には上記の“売買契約”の他、“賃貸借契約”“婚姻契約”
    (判例上、“婚姻予約”という用語が使用されている。) “雇用契約”
     等がある。

   「身分から契約へ」
     アンシャンレジウムの時代
      人の権利、義務は人の“身分”から発生していた。
       (※アンシャンレジウムとは
          1789年のフランス革命前の絶対王政を中心とする
          封建的な旧体制のこと)
     市民社会
      人の権利、義務は個々人の“自由な意思”により発生する。

    近代市民法の根本理念  = “自由と平等” であるならば
               ↓
    個人の経済活動は自由に行われるべき
         = “自由放任主義”  “自由競争”
               ↓
        契約自由の原則
          ①契約締結の自由
          ②契約相手方選択の自由
          ③契約内容の自由
          ④契約方式の自由

    しかし…
     経済的強者は経済的弱者に対し、その権力を利用して自分にとって
     有利な契約を結ぶようになった。
      例: 企業 対 労働者 の雇用契約
          労働者は、低賃金、長時間労働等、不利な条件で雇用契約を
          締結しなければならない場合が多い。(今なお…)
               ↓
     契約自由の原則も、“経済的弱者の保護”“公共の福祉”の観点から
     一定の制限を受ける。
      例: 労働基準法第13条
          この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約
          は、その部分については無効とする。…

 (以上は、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの前半部分を紹介したもの。 ご興味がございましたら、是非後半部分もバックナンバーをご検索下さいますように。)


 さて、今回のエッセイ本題に入ろう。

 上記のように法学の心得(「経営法学修士」を取得しているが)のある私にして、実は今現在、現実世界に於いて、某契約の相手方との間に下手をすると賠償責任訴訟を起こされるにまで発展しかねない深刻なトラブルを抱えるはめとなっている。
 (現在トラブル真っ只中につき、その内容を公開することは我が良心に基づいて差し控えるが)、もしも最悪の事態、多額の損害賠償支払いに応じねばならない絶対的危機が我が身に迫っている。

 そんな我が身に恐怖の追い打ちをかけるのが、契約者両人の調停をせねばならない立場のはずの仲介業者が契約相手方の支援に回っている事態である。
 これに関して、私は契約締結時点で薄々ではあるが既に(契約相手方と仲介業者がもしかしたら知り合いではなかろうか??)なる不安材料を察知していた。
 その後時を経ずして契約相手方より仲介業者を通じ、契約に関して不具合箇所があるとのクレーム連絡が我が手元に入った。 法学心得がある私はすぐさま不具合に関する詳細の聞き取り把握の後、とりあえずの補償を実行すると同時に、今後の対応策に関して契約相手方と一応の同意に達した。

 ところがその対応策に関して、またもや仲介業者よりクレームが入ったのだ。
 仲介業者曰く、「貴方の対応は間違っているから契約相手方の意向に沿うように。 あの人(契約相手方)はいい人ですよ。」

 私も実際一度だけ、今回のトラブルに際して契約相手方と直接面談している。 確かに「いい人」には間違いないであろう。私も一見そのような印象を抱いた。 決して特段「悪人」ではない事は海千山千の私も承知している。
 ただ私の懸念点は、契約相手方がどこまでの“法的観点をもって”今回のクレームを仲介業者へ訴えているのかとの事だ。(それを望むのは無理に等しいとの感覚だが…) しかも嘆かわしい事には、仲介業者の法的観点も実に疑わしい。 今時信じ難い事には、すべてが“どんぶり勘定”の上「(契約相手方である)あの人はいい人ですよ。」との素人もどきの反応が仲介業者から返ってきた時点で、私の堪忍袋の緒が完全に切れた。

 「申し訳ないですが今後は仲介業者である貴社を通さず、私が個人的に契約相手に直接現行法制度に基づき対応します。 もしかしたら私が外見上ギャルにでも見えたから“こいつは騙せる”とでも企んで契約相手方とグルになったのですか??  残念ながら私は契約相手方よりずっと年寄りですし、法律経験も積んでいますよ!」 
 仲介業者に契約仲介料を支払っているのは我が身であり(将来ややもすると賠償金を受取りホクホクする側の立場ではないのに)、こうでも結論付けねば私の気が済まないのだ!

 それでも現在義母の保証人を務めている身として、(元実業家である)義母が婚姻以来ずっと私に告げてくれる“教え”が脳裏に響く思いだ。
 その“教え”とは、「お金でケリがつく事など簡単よ」なる名言である。
 確かにそうだと感じる。 これがもし私がストーカー被害にでも遭って明日は命を落とす事態ではないことをせめてもの幸運と捉えよう。 


 それにしてもだ。

 自分にとって見知らぬに等しい相手の事を 「あの人はいい人ですよ」 と他者から“易々と”押し付けられても辟易とするばかりである。  法的場面に限らず日常生活に於いても、人物評価など自分自身の価値観で判断の上、今後お付合いに値するか否かの決断を下したいものだ。 

 しかも、これが法律上の利害対立関係にある両者の「契約締結仲介業務」を司っている業者から発せられた言葉であるとするならば、そんな業者は法的観点から今すぐ排除されるべきではなかろうか。
 “排除”は言い過ぎとしても、その種の契約仲介業務を生業としている業者には、早急に適切な指導を実施するべく行政に機能して欲しいものでもある。 

人生は “一発勝負!” の連続

2014年03月30日 | 自己実現
 少し前の朝日新聞朝刊「声」欄に、入学者選抜(あるいは就職志望者選抜)に於ける“一発勝負”試験を擁護・賞賛する趣旨の男性読者よりのオピニオンが取り上げられていた。

 残念ながらスクラップを保存し忘れているため、原左都子の記憶に頼り(かつ内容を勝手に私なりにアレンジしつつ)上記投書を紹介しよう。

 現在、大学等の入学試験に於いて受験者に一発勝負試験を課す事を避け、受験者を長期的あるいは多角的視点から評価しようとの選抜施策が拡大しているようだ。
 ところが、人が歩む現実の世の中とは“一発勝負”こそが避けて通れない道程ではなかろうか?
 その最たるものの例が、オリンピックである。 五輪代表選手達はたった10秒、ごく一瞬の本番のために命がけで日々壮絶な努力と苦悩の下練習に励み、その成果を大舞台で最大限発揮するべく4年に一度の五輪に挑んでいる。
 私(投書者)自身、過去に於いて入学・就職様々な“一発勝負”試験を経験してきた。 その結果届いた通知は「合格」のみならず「不合格」の場合ももちろんあった。 「不合格」通知が届くと誰しも一瞬辛いものだが、それがその後の成功を掴み取る礎となる事もあり得る。
 “一発勝負”こそが人生の関門に於ける有効的な選抜方式であり、それに耐えて関門を潜り抜ける能力を有する者こそが真の勝利者ではなかろうか。 
 (以上は、朝日新聞「声」欄投書より原左都子が勝手にアレンジして紹介したもの。)


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 上記朝日新聞投稿者のご意見にほぼ賛同する私だ。
 特に大学入学者選抜に関し、政権をはじめとする世の中が“一発勝負”を回避しようとしている風潮を批判するエッセイを、本エッセイ集2013.11.21バックナンバー 「“人物本位入試”が掲げる人物善悪の基準って何??」に於いて展開しているため、以下にその一部を紹介しよう。

 (昨年)11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。    (中略)
 (政府が言うところの)「人物本位入試」とやらが実際に大学入試現場で実施されることの大いなる弊害の程を検証していこう。
 朝日新聞(昨年)11月6日文化面記事「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」なる記事の一部を要約して紹介しよう。
 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。
 そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。 氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。 氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 フーコーは一方で、権力からの強制が強まったとして、それを意に介さずのらりくらりと跳ね返す力もまた人間に備わっていると考えていたという。
 原左都子の私論だが、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??  この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう??? 上記のフーコーを手始めとして過去の哲学者達の教えを少しは学び直した後に、政権担当者が大学入試改革案を再び持ち出しても遅くはなかろう。
 人間の個性とは実に多様だ。 そして、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?
 大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。  それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。  それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 さらに、原左都子の私事及び私論に入らせていただこう。

 私自身も朝日新聞投書者氏同様、世代的に学校も就職もすべて“一発勝負”試験のみしか経験していない。 そしてこれまた投書者同様に、結果として「合格」通知のみならず「不合格」通知をも受け取っている身である。 ただ人生経験を経るにつれ、たとえ「不採用」通知が届いたとて採用者側の力量(キャパなさと言うべきか??)の程を思いやれる心情にもなるものだ。
 
 確かに、未だ人格を築き上げている人生途上のうら若き世代相手の入試や就職採用試験に際し“一発勝負”判定とは、する側もされる側も厳しい現実なのかもしれない。

 それでも、私も今尚人生とは“一発勝負の連続体”に他ならない感覚を抱きつつこの世を生き延びているのだ。
 「ここでしくじったら信頼を失う」なる緊迫した場面に直面する事態は、この原左都子とて日々数多い。
 例えば、義母の財産管理を一任されている立場で私が税務申告で失敗したならば、今後義母の保証人の立場を失うであろう。
 あるいは、自己所有賃貸借物件の補修工事に於いて賃借人である入居者氏より同意が得られなかった場合、多額の賠償責任を追うであろう事態も、現在の私にとって“一発勝負”責任を負わされている際どい立場である。


 だからこそ、たとえ大学入試(就職試験)“一発勝負”選抜に合格出来なかった程度の事で「若者よ、弱音を吐くな!」と言いたい思いでもある。

 むしろ、人生とは日々“一発勝負”の連続であることを年齢を重ねる毎に実感させられる思いだ。
 
 長期的視野や多角的視野で自分を評価してくれ、だと?!?
 そんな弱音を吐いている間に世の中とはどんどん変遷するし、この先もっとあなた方の居場所がなくなりそうだよ。

 世の国家政策が如何に移り行こうと、個々人がこの世を生き抜く最後の砦として日々“一発勝負”可能な強靭な精神力とそれを支えるバックグラウンド能力を培おうではないか。

「お・も・て・な・し」 にもてあそばれ…

2014年03月27日 | 人間関係
 「おもてなし」 なる言葉自体に関しては、私は元々嫌いではなかった。

 ところが、昨年(2013年)9月アルゼンチン ブエノスアイレスにて実施された「2020東京五輪開催決定」発表場面での安倍首相を筆頭とする日本五輪開催委員達の馬鹿騒ぎ以降、私にとっては聞くだけで「反吐が出そう」な程に“気持ち悪い”言葉と成り下がってしまったのだ… 

 「おもてなし」には本来、「お客様を歓待すること。お客様の世話をすること。」等の意味合いがあろう。 そして、当時東京五輪招致委員だった某タレント女性は、東京五輪に世界の皆様がお越し下さる事を歓迎するとの意味合いで、ブエノスアイレス会場にて「お・も・て・な・し」なるプレゼンテーションを繰り広げたのであろう。

 ところが、あのプレゼンテーションの仕方が私にとっては実に“気持ち悪かった”のだ。 素直に「おもてなしをしたい」と英語で言えば済むものを、手振りを付けて「お・も・て・な・し」なるへんちくりんなパフォーマンスを世界中へ公開した事実こそが、実に不快な場面として我が脳裏に刻みつけられる事となったのだ。
 しかもその後年末に至って、あの「お・も・て・な・し」が流行語大賞にノミネートされた事態には辟易とさせられ、我が“気持ち悪さ”に拍車がかかったものだ。
 (恐らくあのパフォーマンスを喜んだのは日本国内2020東京五輪開催賛同者のみであり、全世界の皆さんにとっては単に日本に住むハーフ女性が何かやっているのみで訳が分からない内容だったことであろう。


 今回このエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞3月23日付コラム 「おもてなしが止まらない」なる記事を見たことによる。
 イラストレーターであられる女性氏が現在コラムを担当しておられるようだが、そのイラスト内に記載されている文章に同意する私だ。
 そのイラスト内文章とは、「もてなすのも もてなされるのも むずかしいものです」


 ここで原左都子の私事に入らせていただくが、「おもてなし」に於ける上記イラストレーター氏がおっしゃる通りの現実を私自身もよく味わっている。

 そもそも人をもてなす事が苦手な私であり、それを実行する事がほとんどない。
 片や「もてなされる」場面に際しては、意外と図々しくも足繁く出かけるタイプかもしれない。 
 いや、ただ、「もてなされる」身も様々な意味合いで結構大変なものだ。 「おもてなし」主体者側の歓待趣旨に添うべく行動せねばならないのが基本であろう。 ご招待下さった側が訪問客に何を求めているのかを探りつつその要望に合致した「もてなされぶり」を披露して、「よき会合だった」事を伝えて場を去る義務が招待された側にあるのは当然だ。

 実はつい最近、昨年癌闘病の末壮絶死を遂げた義理姉の配偶者である一人暮らしのご亭主宅に、我々一家がお邪魔する事と相成った。 そもそも訪問を辞退するべきとも考えつつ、本人が「是非お越し下さい」との事でお茶をご馳走になる目的で短時間のみお邪魔した。 
 義理姉の死後9か月程が経過していることが幸いしているのか、ご亭主は随分と落ち着いた態度で我々を歓待して下さるのだ。 元々陶芸が趣味である人物なのだが、最近作成した作品の数々を観賞させてもらったりと有意義な時間を共有できた思いだ。 特に私と娘には「女性が訪問下さったのは久しぶりです」と本音を少し覗かせてくれた事に、せっかくのおもてなしに応えてよかったとの思いで帰宅路に着いたものである。 
 

 そして昨日など、原左都子が訪問客を“もてなす”べく立場に回ったのだ。

 その訪問客とは、我が所有賃貸借物件改修工事依頼に際し契約事務的要件で訪れてくれる担当者に他ならなかった。 
 その担当者氏のために、私は「お茶」を振る舞うか否か大いに迷った。 と言うのも今現在の社会的慣行として、そういう場面に於いては「お茶等の振る舞いを辞退する」事業所が常識となっているためだ。
 そんな中、私はその担当者に「お茶」を出すことを決行した。 と言うのも、この担当者氏には時間によらずこちらから幾度となく携帯電話に連絡する等の手段で既に大いにご迷惑をかけていたためだ。
 さてさて、初対面で我が家にやってきた男性担当者が何ともまあ若き“イケメン”ではないか! (不謹慎は承知の上で、この事態に感激する程に我が身が年老いていることを実感させられるというものだが。
 しかもこの男性担当者は、私がおもてなしした「お茶」を快く飲んでくれたのだ! 
 それだけでも感激なのに、契約終結の帰り際「ご質問等ございましたらいつでも私の携帯にご連絡下さい」との事だ。 すかさず、「じゃあ、そうさせて頂きます!」との我が返答に「お待ちしております。」との回答で我が家を去っていかれた。
 いや~~。 こんな爽やかな青年にはいくらでも工事費用を差し出したい思いだ。 (単なる冗談ですけどね。
 

 最後に、原左都子の私論結論に入ろう。

 「おもてなし」とは、する側、される側共々実に困難な概念と心得る。
 
 本日放映されたNHKドラマ「ごちそうさん」に於いても、「おもてなし」が命題だったと認識している。
 今週末で終わりゆく「ごちそうさん」が如何なる結末を導くのか注視していたところ、本日は米軍GHQ幹部へのめ以子の「おもてなし」により両者が“戦争とは愚かなもの”との結論合意に達したと私は理解した。

 今現在我が国が果たすべき「おもてなし」とは、その時代よりもずっと進化を遂げているべくはずだ。

 「お・も・て・な・し」 なる、大袈裟なパフォーマンスを国際場面で展開するよりも、もっと身近な人間関係に於いて個々が有意義な関係を築ける“真のおもてなし”を実行しつつ、人間関係を紡いで行くべきだろう。

「原左都子って何者?」 なるご質問にお答えします。

2014年03月24日 | お知らせ
 2007年9月に「原左都子エッセイ集」を開設以降エッセイ本数が1000本を突破している現在、読者の皆様がネット上で本エッセイ集をご訪問下さるきっかけとなる「検索キーワード」も多岐に渡り、多様化している現状のようだ。

 それら検索ワードのうち、例えば 「原左都子」「左都子」「原左都子エッセイ集」 あるいは「原 エッセイ」等々は、おそらく私が発信している個別のエッセイ内容よりも、“著者である原左都子自身”に(プラスマイナス両側面より)ご興味を頂戴してネット検索されているものと解釈させて頂いている。


 そんな中、昨日の編集画面にて、今回の表題に掲げた 「原左都子って何者?」 なる検索ワードを複数発見したのだ。

 それ自体は一応何となくうれしい反面、これが 「原左都子って何様?」 だったなら多少怖かったかも… とビビった私でもある。 
 (参考のため国語辞典上は“何者”と“何様”の意味あいにおいて大差はないようだが、どうやら現世における言葉遣いの慣行・常識によれば“何様”表現には人を蔑むニュアンスがあると私は解釈している。)


 せっかくネット検索にて頂戴した 「原左都子って何者?」 なる読者の方々のご質問に回答しようと志すのが、本エッセイの趣旨である。

 とりあえず手っ取り早く「原左都子」の経歴をお知りになりたい方へお勧めするのは、当該エッセイ集「お知らせ」カテゴリー 2012.10.10 バックナンバー 「原左都子プロフィール」 にて公開しているエッセイをお読み下さる事が最速であろう。

 ただ上記のプロフィールとは、あくまでも「原左都子エッセイ集」を公開している(ペンネーム 原左都子)の立場から、ごく一部の過去経歴を公開した内容に過ぎない。
 (これ程個人情報が悪用される現代に至っては、それ以上の情報公開による「危険性」こそ回避するべきと結論付けた結果であるが。)


 「原左都子エッセイ集」著者である「原左都子」“本体の人となり”をご理解いただくためには、1000本を超過する全エッセイをくまなくお読み下さるに限る。 
 ただ、特に新規読者の皆様にはそのお時間が取れない現実ともお察しする。


 そこでほんの少しであるが、「原左都子」本体である“私自身”の日常を少し紹介しよう。

 つい最近人が大勢集まる会合に出席する機会があったのだが、どうやら私は“周囲を和ませ明るくさせる”キャラと評価されてしまうようだ。 「あなたには初めてお会いした気がしない」 「お友達が多いでしょ!」 「見た目の明るさよりも、あなたはきっとご自身が明るい方ですよね」等々のプラス評価が我が身に降り注いで返って来る。

 それ自体は嬉しい。  ただ、実はそれら評価とは180度異なる人格の持ち主と私自身は自己分析しているのだ。 
 その思いを少しだけ訴えた。 「私は友達は少ない方ですよ」 「見た目ばかり繕っているのは自分自身の外見的趣味でしかありません」 「確かに私にも明るい側面はありますが…」
 その後私として続けたかったのは、「でもこういう会合に於いては第一に場を読むべきですよね。 面識が少ない者同志の関係に於いて周囲環境を意識せずして人間関係など成り立たないでしょう? 私はそれを実行しているのみですが…。」 そんなこと、言える訳もないしねえ…。

 現在の時代背景とはこれが現実であろう。
 
 そんな場に際して、特に年長者や(誤解を恐れず言わせて頂くならば)学識経験者とは有名無名にかかわらず、自分が言いたい事をありのまま無責任に発信できる訳などないのが現実ではなかろうか!?
 
 だからこそ私は複数の人間が集まる場では、真っ先に周囲への配慮に回る習慣が身に付いてしまっているのだ。 恐らく今後も現実世界に於いては、ひとまず自己を抑えてその役割を果たすべくの我が人生が続くのであろう。


 そんな我が人生背景において、オアシスの存在でもあるのが「原左都子エッセイ集」と位置付けられるのかもしれない。

 ここでは、「言いたい放題」言わせて欲しい思いだ。
 それでブログが炎上して読者を失っていいとの覚悟の上だ。

 それこそが 「原左都子って何者?」 なる私からの回答なのかもしれない。


 私本人が本名で生きている現実世界における人間対応は、私にとっても厳しく辛い。
 それでも生身の人間同士で自己を抑えつつ周囲に配慮して他者と付き合っていくことこそが、今後の我が有意義な人生につながるものと本名の私は信じ、そう行動している。

内税?外税? いずれにせよ消費税率8%負担はつらいよ

2014年03月21日 | 時事論評
 4月から消費税率が8%まで引き上げられるに際して喜んでいるのは、安倍首相及び政権幹部のみではなかろうか?

 昨日3月20日、2014年度予算は20日の参院本会議にて自民公明両党などの賛成多数で可決、成立した。 予算の年度内成立は3年ぶりとのことだ。
 一般会計の総額は95兆8823億円で、当初予算としては過去最大となる。 政府は2月に成立した13年度補正予算(5兆4654億円)と合わせて切れ目なく予算を執行し、4月の消費税率引き上げ後の景気の落ち込みを最小限にしたい考えであるらしい。  
 安倍首相は20日の記者会見で、「戦後3番目に早い成立で、景気回復を確かなものとするうえで弾みになる。 デフレ脱却は国家的な事業で、国会として強い意志を示していただいた。 明確な目標を定めて早期の(予算)執行を確保していく」と述べた。
 (以上、ネット情報より一部を引用。)


 昨夜18時過ぎからテレビにても放映された、上記安倍首相の記者会見を私も見聞した。
 昨年9月のアルゼンチン ブエノスアイレスでの 「2020東京五輪開催決定」 時程の馬鹿騒ぎではなかったものの、当時と匹敵するかのように満面に(一見不気味な)笑みを浮かべた安倍首相がアップでテレビ画面に映し出された時には、原左都子の背中に寒気と冷気が走った…。

 「ほ~~ら、国民のみんなよ、よ~~く考えてみてごらん。 新年度予算を早期に可決成立させることが出来るのは自分が率いる自民党政党だけだぞ~!  大企業だって僕がアベノミクス経済政策を提示し株価吊り上げや数値上の円安操作政策で頑張らせたお陰で、今年は大幅なベースアップが叶ったじゃないか。  そのうち底辺を彷徨っている庶民の皆にもその“おこぼれ”が多少あるだろうから、4月からの消費税増税政策に素直に従ってそれを国家予算に還元しろよな。 そうしてくれたならば、増税分のほんのちょっとは社会保障の名目でお前らにも多少の金額をバラ撒いてやっていいぞ~。  ただねえ、首相の僕(安倍氏)が思うにはやっばり日本とは大企業あっての国だし、今後近隣諸国に打ち勝てる国にしたいんだ。 だからこそ、僕は今、日本を戦争が出来る国にしようと一生懸命『憲法改正案』を出しているんだよ。 底辺の国民たちはそんな僕の思いが分かっているのかねえ!  そのためには原発も稼働するべきだし、公共事業にも莫大な国家予算がかかるから、やっぱり庶民への支援は後回し、って事かなあ~。 でも庶民の皆が有り金はたいて一生懸命買い物して消費税8%をしっかり支払ってくれるならば、社会保障にその“はした金”を使ってもいいよ、って事かなあ~~~」
 以上は、原左都子が昨夕の安倍首相記者会見をテレビで見聞して、私の耳に聞こえた内容をデフォルメして伝えたものだ。 

 
 安倍政権が政権脱却直後より強引に展開している政策の数々に対し、大いなる抵抗感及び反発感を抱いている私には、昨日予算案成立後の安倍首相の記者会見内容も上記のごとく聞こえてきたとの話である。


 それにしても、消費税8%は来るべく4月1日より国民誰しもに容赦なく実施される。

 これに関して現在巷の商店では早くも既に「外税」対策をとっている場面に出くわす事が多い。 
 原左都子の解釈としては、「外税表示」を採用することにより、(安倍政権による消費税8%増税を未だ認識していない)一般市民相手に「値上げ」と誤解される事態を回避しようとしていると認識する。 「4月から商品価格が上がるのはあくまでも“安倍政権が消費税アップを予算決議した結果”ですよ!」と小売業者が「外税」表示により切実に訴えたいものと理解している。


 原左都子個人的な感覚としては、どうせ消費税が4月からアップするのならば、この機会に「商品そのものの価格」と「消費税額」を分けて両者を詳細に表示する事を望みたい。
 それにより、自分が本来買い求めたい商品の代価と、国家及び地方自治体へ支払うべく「消費税」を分別して計上する事が叶うであろう。

 安倍政権としても、今回の消費税アップに伴う社会保障に関して少しは視野に入れている事を認識している。

 その保障をもう少し多岐に渡り綿密かつ詳細に実施する事を原左都子は提案したいのだ。
 支払った「消費税額」を日々の帳簿(あるいは家計簿)に記載することにより、税務申告時にその金額を「費用項目」あるいは所得金額よりの「所得から差し引かれる金額」の一部として申告可能な項目に位置付けられないだろうか。  
 そのような税務法上の「消費税対策」が叶うのならば、4月よりの8%消費税増税に多少は抵抗力を低くできそうな思いだ。


 それにしたって既に年金生活に入っている我が家など、「内税」であろうが「外税」であろうが、4月以降は消費活動が大幅に滞るであろうことが目に見える有様だ。 おそらく我が家は元々金銭感覚鋭い私の意向で、一家内の消費活動を最小限にとどめるべく家族を指導・統括するであろう。

 消費者を自覚している庶民のどこの誰が、今回安倍政権が閣議決定した新年度予算決定を喜ぶのだろうか。 
 国内ほとんどの庶民が4月消費税アップの暁に“原左都子的緊迫家計政策”を実施した場合、国内消費が急激に冷え込み、安倍政権今後の危うい事態が想像できてしまうのだが…