原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人は癌闘病の末、死に至る運命を背負う事もある…

2013年06月29日 | 医学・医療・介護
 昨日(6月28日)午前3時、我が義理姉が癌闘病の末に命を閉じた。
 享年 63歳 の若さだった。


 義理姉が突然入院したとの情報が身内に届いたのは、昨年末12月の事だ。
 この時点での我が痛切な思いを「原左都子エッセイ集」2012年12月バックナンバー 「『余命告知』という家族に課せられる重責」 と題する記事に於いて綴っているため、その一部を要約して今一度反復させていただこう。

 義理姉が突然入院したとの情報が身内に届いた。 
 身内曰く、「十二指腸潰瘍らしいが…」  私も過去に十二指腸潰瘍を患った経験があるが、それにしてもそれが理由で突如入院とは相当潰瘍が悪化しているのであろうか??
 その翌日、身内、義母及び義理姉の息子が病院へ出向き詳細を確認することと相成った。 その情報によると、姉が医院を受診した当初のきっかけは貧血症状だったようだ。 腹部の痛み等の症状は特段なかったとのことでもある。 医院にて諸検査の後、急きょ入院を指示され大病院にて諸検査と相成った。 それと平行して貧血の程度が重度のため即刻輸血が施されたとのこと。 さしあたっての各種検査の結果としては、貧血は消化器系からの下血によるもの、そして膵臓に腫瘍があるとのことでもある。 マイクロスコープによる胃腸検査の結果、特段胃腸に異常は見当たらないようだ…。 近いうちに膵臓の腫瘍を摘出する手術実施予定との事だ。
 その話を身内から聞かされた元医学関係者の私の脳裏には、一瞬にして暗雲が立ち込めた…。
 輸血が必要な程の大量下血!?! さしあたり胃腸の異常が見当たらないとの事は、その下血は膵臓の腫瘍に由来していると考えるべきだ。 だとすると、その腫瘍は既に相当悪化していると判断可能だ。 手術で摘出できるとよいが…  私の診断では義理姉は「膵臓癌」に間違いない。 
 その後まもなく、義理姉は手術を受けた。 手術の結果、義理姉は私の診断通り「膵臓癌」だったのだが、その悪化度合いが私の予想よりはるかに進行していた!  医師の説明によると、癌が大きく動脈を傷つけるため手術によっては摘出不能、今後抗癌剤投与で様子をみるとの事だ。(後に抗癌剤投与は義理姉の意思により拒否したのだが) 
 そして医師より付け加えられたのは、義理姉の「余命は長くて1年、短ければ3か月」…
 私が知る限りでは義理姉は早期に父母から生前贈与された財産をフル活用し、贅沢三昧の暮らしぶりのようだ。 常にブランド物で身を包み、社交ダンスを趣味として、海外旅行にも頻繁に出かけていた様子だ。 親しい友人達とランチにディナーの日々グルメ三昧だったとの話も義母より多少見聞している。
 そんな義理姉に親族は如何なる「余命告知」をするべきなのか??
 (以上、「原左都子エッセイ集」昨年12月バックナンバーより一部を要約引用)


 その直後、義理姉は2度目の手術を受けた。 それは膵臓癌が大き過ぎて十二指腸を圧迫し、食物がそこを通過不能なため十二指腸を切除するとの内容だったようだ。
 それと同時に、義理姉は自分自身で膵臓癌を察知して自ら医師に余命を問うたらしい。(その場面には残念ながら私は立ち会っていないのだが) その結果、義理姉は果敢にも自分の「余命」を受け入れ、余命期間はホスピスで過ごしたいとの自らの意思を表明した。 それと同時に「抗癌剤投与」も拒否したとのいきさつである。

 まもなくホスピスに移って後、義理姉はごく近しい親族を除き、(私も含めて)すべての人物との面会を拒絶した。 (その時点で既に義理姉は元の容貌をすっかり失い“痩せこけて”いたとの身内の談話だ。)
 その後の義理姉闘病情報は我が身内に頼らざるを得ないのだが、義理姉は自らの余命を知りつつも比較的冷静なホスピス生活を送ったようだ。
 
 そして今年5月に入り、義理姉は「死は自宅で迎えたい」との最後の意志表明をした。
 その意向に従い義理姉は5月中旬頃に自宅に戻った。 その時点でホスピスにおいて体中に繋がれていたチューブをすべて外し、自宅で「死」を待つ段階に入ったとのことだ。
 後は経口水分摂取のみで命を繋ぐ事と相成る。 当該時点での医師診断は「余命2,3日」……
 ところが義理姉は担当医師の“後2,3日持つかどうか…”の最終段階余命宣告に反発するかのごとく、経口水分摂取のみで命を繋げる日々が続くのだ!

 生命最終段階において類稀な生命力を発揮する義理姉に対し、我が身内が私に言った言葉に大いなる感銘を受けた。 「姉は自分が老後に住む家を現在建築中だ。(既に義理姉の息子に生前贈与済みだが)自分が建設施工依頼したその家の出来栄えを是非一見してから死にたい意向が強いようだ。」  義理姉建設住居は11月完成予定だが、それを是非共一見して欲しいと私も同感した。


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 現在の医学に於いて治療不能な疾患は未だに数多く存在する事実は、元医学関係者である原左都子としては当然ながら想定内である。
 加えて、真面目に健康診断を受けている人を救えない現在の医療世界であることも重々承知している。

 義理姉は普段からまめに医院・病院へ通い、欠かさず健康診断を受けていた部類の人物である。 そうであるのに何故、末期の膵臓癌を健康診断過程において摘発不能だったのか!?!
 と怒ったところで虚しいばかりであることすら、元医学関係者として理解出来てしまえるところが実に辛い…… 
 現段階での医療の発展とは既に遺伝子分野(はたまた再生医療)へと移ろった。 それによりある程度の遺伝子診断が可能とは言え、それも確率診断の域を超えていないことは愚か、臨床場面ではまだまだほんの少しの病態に関してしか解明されていないのが実情だ。

 何故、義理姉は現在の医学において治療が未知数で死を運命付けられた「膵臓癌」になど罹患してしまったのだろう。 
 それは持って生まれた遺伝子要因が大きいのかとも考察しつつ、今後我が命を如何に繋げるべきかとの命題を突きつけられた思いでもある。


 明後日7月1日、膵臓癌に罹患したばかりに短命を余儀なくされた義理姉の葬儀が施される。
 既に葬儀会場に花を手向けた。
 粛々と、最後のお別れをしてこよう……

東大は学生の自由と主体性こそを尊重せよ

2013年06月27日 | 教育・学校

 今回のエッセイは、「原左都子エッセイ集」に於いて前回公開した記事 「『東大秋入学』“当面見送り”措置発表は予想通り」 の続編の形ともなろうか。


 6月24日に記した上記のエッセイの結論部分のみを、今一度以下に要約して紹介させていただこう。
 東大は2011年より「秋入学」実施決断に関して国及び国民全体を巻き込み右往左往した挙句、今月中旬に当該制度導入を見送ったとのメディア報道である。 それによれば、東京大学は6~8月に学生が授業に縛られないようにして「海外留学」等を促す狙いで、2015年末までに4学期制を導入する方針を固めたとの事だ。 現在東大では7月まで授業があるため、6~8月に多い海外大学のサマープログラムに学生が参加しにくいと指摘していたが、この案によると当該期間に海外大学への留学がし易くなる。
 原左都子の私論だが、東大が目指す学生の「海外留学」のレベルの低さに驚かされる。その程度の短期留学ならこの私とて40年前に既に経験済みであるが、私に限らずこのレベルの留学ならば全国各地の数多くの大学生が経験済みであろう。  私はてっきり、有能・優秀な東大生達を本格的に海外大学へ何年間か留学させ、各学問分野で将来ノーベル賞受賞レベルの研究成果を上げる事を目的としていると理解していたのだが、とんだ拍子抜けの話だ。
 しかもこんな貧相な留学改革のために、これまた東大が「4学期制」などへ移行するとの結論のようだ。 東大学長浜田氏は少し腰を落ち着けて、身近に存在する現役学生や受験生達の混乱の程は元より、今後の学生達の真の成長の程を考慮しては如何なものか。
 (以上、「原左都子エッセイ集」前回の記事より結論部分を要約引用)


 冒頭より、上記結論部分に記載されている東大の一方針 「海外大学のサマープログラムへの東大生留学推進」 に関する原左都子の私論を述べさせていただこう。

 “天下”の東大が何故「サマープログラム」などとの海外大学が主催する“既製プログラム”に学生を“受身の形”で参加させたいのであろうか?

 私自身の40年前の留学経験から述べるが、そんな他力本願留学に参加したところで団体参加している日本人学生同士で仲良くなるのが関の山だ。 私の場合元々集団行動が苦手なため個人行動場面が多かったのだが、その時に知り合う現地の人々との会話こそが英語力の強化に繋がったと考察する。
 私事を続けると、集団行動が苦手な私はその後も海外へ出向く場合は(地域にもよるが)出来得る限り個人旅行を欲してきている。 要するに航空券と宿のみ予約するフリーツアーを予約するのだ。 これぞ旅の真骨頂と私は感じ、それを堪能しているし今後もそうしたいと欲している。
 今時は簡単にネット検索で、いくらでも自分が欲する個人旅行が選択可能な時代である。
 東大学長も何も海外大学の既製プログラムに学生を参加させる事になど固執せずとて、冒険心旺盛な東大生は既に個人旅行を自らの意思で企てて諸外国へ旅立っているものと私は想像するのだが。


 「原左都子エッセイ集」において前回のエッセイを公開した後に、朝日新聞6月21日“教育”ページに於いて、 「変われるか、東大」 なる記事を発見した。
 これによると東大学長はじめ幹部達は、大学内部でも大いなる意識改革欲をもって教育検討委員会を設け学内教育改革を目指しているとの事だ。

 4月頃の朝日新聞記事で、1,2年次の教養学部学生には全員強制で「英語論文」提出課題を課しているとの報道にも触れていた私だが、それ位の関門を通過させるのは至って当然との感覚も抱いていた。
 何分、“天下”の東大である。 社会に進出する最初の時点からあらゆる方面より(論拠不明に)東大生が優遇される立場にあるのならば、学生時代より厳しい学内学力指導により、世間から“さすがに東大生”と絶賛されるべく学問力をもって全学生を卒業させる使命を東大は担っているはずである。

 ところが、上記朝日新聞記事を見て愕然とした私だ。
 現在の東大生の実態とは、「個としての主体性を発揮しようとしない」「自分の関心より、高得点が望める授業の履修を優先させる傾向がある」「批判的思考、国際感覚に乏しく、英語力が低い」……

 しかもその原因を東大側が作り出しているとの、東大幹部の報告である。
 (東大学内詳細を私が述べたところで庶民には何の利益も無いため割愛するが)、要するに東大では、学生の学内進学に関しても卒業に関しても「点数制」が幅を利かせていたとの論理のようだ。 これを学内で実施するためには教える側の教授陣もそのシステムに従わねばならず、「学問・研究」如何よりも、学生に点数や単位を取得させるために躍起になっていたとの何とも“みすぼらしい”有様のようだ… 

 上記現状に危機感を持っている東大幹部は、「学生をしっかりと学ばせる仕組みの確立」「カリキュラムの柔軟化」「教員の教育力向上活動の推進」等、取り組むべき「アクションリスト」を改革案として盛り込んだらしい。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 私が思うに、現役東大教授陣とて現在その中核はおそらく私よりも下の世代が担っていることであろう。
 もしかしたらバブル期の頃その世代が安穏と学問に励んだ流れで、就職もいとも簡単に東大教授陣として採用されてしまったが故に、今尚世間知らずの「頭でっかち」状態なのではあるまいか??

 片や現在入学在籍している学生達もバブル期世代に世を渡ってきた親に育てられ、「偏差値」こそが最大の武器と信じ込み、「点数主義」を貫いている東大システムに安穏と我が身をまかせているとも考察可能だ。


 そんな東大生に、今現在他力本願「海外サマープログラム」になど参加させたところで、日本人参加他大学学生と仲良しになることすら困難なのではあるまいか?  「点数主義」を貫いている東大カリキュラムの狭い世界にぞっこん浸かり、おそらく自分は小中高時代より「偏差値が高いんだぞ!」「お前ら庶民大学生とは別格なんだぞ」との歪んだ特権思想を増強させるのが関の山ではなかろうか? 

 いや、海外留学を東大幹部が東大生に煽る事自体は、学生の将来に向けて有意義な経験を積むきっかけとなろう。 
 その場合は表題のごとく心を鬼にして学生の自由と自主性を尊重し、出来得る限り「個人」での留学や旅行を奨励するべきだ。 
 東大生ともなれば、おそらく受験英語力は十分達成しているであろう。 少しばかりの期間海外に出るにはそれで必要十分と私は判断する。(原左都子とて海外旅行は受験時の英語力のみに一生頼り続けているのが現実だが、今に至って尚それで何とかなるものだ。)
 後は学生本人の人間性と持ち味、及びコミュニケーション能力次第である。 これこそを東大生にかかわらず若い世代には是非共学習して欲しい思いだ。

 活躍の場が国内国外の如何に係らず、“人との関係力”こそが学問力の一つの重要なパートと位置付けている原左都子の私論である。

「東大秋入学」“当面見送り”措置発表は予想通り

2013年06月24日 | 時事論評
 “天下”の「東大」が、秋入学制度導入を声高らかに掲げたのは2011年の事である。

 国内著名大学を筆頭に小中高校を含む学校全般は元より、国政や経済産業界までをも巻き込み、日本社会全体のシステムをも追随させようとの“大騒ぎ”をしでかした記憶は、原左都子にとって鮮明だ。

  
 当時そのニュースをメディアを通じて一見した原左都子は、「東大」の身の程知らずの思い上がり“非常識”ぶりに辟易とさせられ、早速当エッセイ集を通してすぐさま反論を展開した。

 2012年1月「原左都子エッセイ集」バックナンバー 「『秋入学』が本当にグローバルなのか??」 と題するエッセイに於いて私論を展開しているため、その一部を以下に反復させていただこう。

 学校の「9月新年度制」への移行に関しては、何もこんな時に突然東大が言い出さずとて、ずっと以前より教育界に存在していた議論である。 その趣旨とは、欧米諸国の学校と足並みを揃えようとの意図であったと原左都子は認識している。 
 早ければ5年後にすべての学部を「秋入学」制へ移行したい東大の趣旨とは、海外からの東大への留学生、及び東大生の海外への留学に対応するのが第一義との報道である。 東大の言い分を以下に紹介すると、日本の大学生の海外への留学は近年減る傾向にあるが、東大が卒業生に取ったアンケートでは3人に1人が海外留学を希望しているにもかかわらず、実際に留学した学生は1割未満。 それは就活や留年の心配が大きかった故であるため「秋入学」によりこれを解消して留学を増やし国際感覚を育みたい、との事のようだ。 はたまた、東大の世界レベルでの大学ランキングが低い事も今回の秋入学制度提唱の大きな理由らしい。
 原左都子の私論だが、そんな低レベルの見栄、体裁理由で日本の“一大学”に過ぎない東大が突然提唱した「9月新年度制」との大幅な社会システムの移行に、何故国家を上げさせてまで多くの国民を巻き込まねばならないのか。  東大さん、現在東京大学の世界ランキングが低いのは貴方達の“自己責任範疇の問題”に過ぎないでしょ? 今後もう少し東大内でこそ学力アップの自助努力をしてみてはどうなのよ??
 少し私事を語ると、原左都子が1990年前後の頃に進学した公立大学・大学院にもアジア地域からの留学生が数多く存在した。 おそらく政府の国際交流の目的意図が強いと解釈していた私だが、とにかく日本人の学生数が少ない我が大学院に於いて、それよりも多いと思しきアジア諸国の留学生がキャンパスに多数存在していたものだ。 ところが当時より一部の日本人学生達の水面下で囁かれていた事実がある。 「彼ら留学生は日本語のみは流暢だが学問レベルの程がどうも疑わしい。 単に国際親善目的で政府及び大学が留学生として特待しているだけの存在ならば、大学研究室現場でそれに付き合わされる教官も迷惑だろうし、我々の学問にも影響を及ぼすよね……」
 片や、東大から諸外国へ留学したい意思ある学生の中には、もちろん本気で世界最高レベルの科学や学問を志し今後世界の最先端を目指している学生も一部存在することであろう。 それには送り出す側も迎える側も是非共学問力を持って答えるべきだ。  それが東大に限った話ではないのは当然の事でもある。
 ただ今回の東大からの提案である「秋入学」は、やはりその真価を世間に問う時期を誤ったものと原左都子は判断せざるを得ない。 たかが短期間、ちょっとばかし英語が出来る東大生を外国に送り込んだとて、何の能力の育成が可能と言うのだろう?? 大学の配慮の如何に先行して、自身に確固たる実力がある若者は自らのパワーで諸外国に羽ばたいている現状と私は捉えているのだが。
 参考ではあるが、諸外国の企業はいつ何時でも有能な職員を採用しているようで、日本のような「4月新卒者一斉採用」という“一種特異的慣習”など無いという話だ。 このような本来の“実力主義”が日本で模倣できてこそ、東大も含めた日本の学校もやっと 「9月新年度制」 に真に移行できると私は結論付ける。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2012年1月バックナンバーより引用)


 上記東大の“大騒ぎ”より半年程経過した頃、「東大秋入学」提唱者である学長浜田氏は、一旦自らのお騒がせに関して“及び腰”と相成った。
 その時点に於ける原左都子の見解を、2012年7月バックナンバー 「大学『秋入学』今更及び腰の腰砕け」 と題して東大学長批判私論を綴っているため、以下にその一部を紹介しよう。
 「秋入学」言いだしっぺの東大内ですら学内にも異論があり意見をまとめ切れていないらしい。 旧帝大や慶応等全国11大学に協議を呼びかけ全面移行への課題を検討するべく協議会は、発足後1回しか開催されておらず議論はまったく進んでいない…  東大からお声が掛かった11大学のスタンスもまちまち、京都大学は「検討していない」としているとの報道だ。
 私論だが、これがもしも民間企業のプロジェクト事業であったならば、事業提案・主導者の浜田氏は即「左遷」、最悪の場合「首」となること間違いない。 「一大プロジェクト」の発足発表により世間を大いに巻き込み騒がせておきながら、現在までプロジェクト会議をたったの1度しか開催していない現状…  事業提案・主導者こそが強い意思と綿密な計画性をもって本気で動かない限り、一大プロジェクトの成就など見込めないのが世の現実であろう。
 片や一般社会に目をやると、今回の東大よりの「秋入学」提案により一番の迷惑を被っているのは、その全面移行の過渡期に大学を受験する生徒達であろう。 「秋入学」が実行されるとなると、その移行準備まで背負って立たされる受験生及び保護者の苦悩・負担とは如何なものか。 今後東大総長氏がどうしても「秋入学」制移行を目指したい意向であるならば、その制度樹立のためには政界、経済界、教育界等日本国中のシステムすべてを巻き込まねばならないことを再度重々視野に入れつつ、綿密な計画性と事前調査・準備の下に制度導入を図り直すべきである。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2012年7月バックナンバーより引用)


 そうこう右往左往した結果、何と今年(2013年)6月中旬に、東大は「秋入学」制度導入を見送ったとのメディア報道だ。

 朝日新聞6月16日一面記事より、その詳細報道の一部を以下に要約して紹介しよう。
 東京大学は、2015年度末までに4学期制を導入する方針を固めた。 6~8月に学生が授業に縛られないようにして「海外留学」等を促す狙い。 東大では現在7月まで授業があるため、6~8月に多い海外大学のサマープログラムに参加しにくいと指摘されていたが、この案によると当該期間に海外大学への留学がし易くなる。

 ん????    ちょっと待ってよ。
 東大が狙っていた学生の「海外留学」って、そのレベルだったの!?! 

 それならばこの原左都子とて今から40年程前の過去に於いて経験しているよ、米国カリフォルニア大学バークレー本校への「夏季エクステンション留学」を。  たかが1~3ヶ月間程度の海外大学サマープログラムに参加することなど、その後も国内数多くの学生が既に経験済みであろう。
 東大が打ち立てた「秋入学」とはそんなチンケな趣旨ではなく、優秀な学生達を本格的に海外大学へ何年間か留学させ、各学問分野で将来ノーベル賞受賞レベルの研究成果を上げる事と私は理解していたのだが……???

 ところがこんな貧相な留学改革のために、これまた東大が「4学期制」などへ移行するとの結論のようだ。
 東大とは縁のない原左都子にとって今後共に東大が如何なる改革を実行しても一切の弊害は直接ないのだが、現役東大生及び今後東大入学を志している受験生にとっては迷惑この上ない話なのではなかろうか?

 東大学長浜田氏は少し腰を落ち着けて、身近に存在する現役学生や受験生達の混乱の程は元より、今後の学生達の真の成長の程を考慮しては如何なものか。

息子いないからなあ…

2013年06月21日 | 人間関係
 「息子に片思い?」  「息子に失恋??」  

 母親が実の息子に対してこの手の感情を抱くのだという。 

 原左都子にとってはピンと来ない話題だ。 なんせ残念ながら、私には息子いないからなあ……


 朝日新聞5月23日付生活面特集 「息子に『失恋』 母の傷心」 なる記事に全国から共感、否定の反響が数多く届いたとのことだ。
 上記特集には私も少し目を通した。 ただ、成長して親元から離れていく息子に対して一部の母親が抱く、揺れ動く心のひだ程度の一時の勘違い感情であろうと軽く受け止め、深入りしなかった。

 そうしたところ、6月12日の生活欄において当該記事に反響が続々届いているとの事で、再び「『息子に失恋』あなたは?」なる特集が公開された。
 これは母親の一時の勘違い感情ではなく、実の息子に対する深刻な恋愛問題なのか?? と思い直して特集を読んでみた。 以下に記事の一部を要約して紹介しよう。
 
 まずは共感派の反響から。
 息子の親離れを「失恋」のように感じる自分は普通じゃない… との記者氏の体験に対し、44歳の母親も同様の体験を語っている。 小さい頃には息子が発する「僕はずーっとママが好きだよ」等々数々の甘い言葉に酔いしれたのに、中学生になると態度が冷たくなり部屋にこもって泣いた。 夕飯後自室に直行する息子に、毎日が「失恋気分」。
 58歳の母親は、息子大学生の頃自分の「思い」を伝えたそうだ。「お母さんはあなたのことが好きなの。好きで好きでたまらないの!」息子の顔から血の気が引き、しばらく目を背けられる日が続く。 
 53歳の母親は、スリムでマッチョの大学生息子への「片思い」を楽しんでいるらしい。 料理に対する息子の「うまっ!」には踊り出したくなるほど。 
 息子に対する長い「失恋」を乗り越えたのは58歳の母親。 つらい時期は息子15歳の頃から10年も続いた。 その間息子が自室にこもり口をきかなくなったが、最近結婚し家族をもって息子の顔に笑顔が戻った。今では息子の妻に感謝。

 一方、否定派の反響は…。
 娘と息子がいる49歳母親は、「いくら素敵な男性でもお母様が「息子に失恋(片思い)」と思うような方とは、娘に付き合って欲しくない。結婚後もいろいろ干渉されそう…。」
 2歳年下の弟がいる47歳女性の場合、母親の関心が常に弟に向いていたらしい。 高校生の頃、その母親から「息子は特別、異性なのよ~」と言われ、母親の女の部分を見てショックを受けたと言う。息子溺愛もいいが、娘がいる場合はご注意を、との忠告だ。
  
 専門家であられる心理カウンセラー氏のご意見は…。
 幼少期より自立心に富み自己主張が強い男の子の場合、母親は『小さな恋人』のように思いにくい。 聞き分けがよく、親の意向にぴったりはまるような『いい子』に対し、母親は親密度が高まるのではないか。
 (以上、朝日新聞6月12日生活面特集より一部を要約引用。)


 原左都子の私論に入りたいところだが、やはり私には息子がいないため何とも実感が湧かない今回のエッセイテーマである。

 ただ私には高校教員経験があるため、もしかしたら(あくまでも“もしかしたら”の範疇だが)上記母親達が実の息子に対して抱いた感情と類似する思いを、男子生徒に対して感じた経験はあるかもしれない。
 ここで顰蹙は承知の上で、教員当時の我が男子生徒に対する感情の一例をほんの少しだけ記述させていただこう。
 高校生ともなると私よりずっと高身長の体格が立派な男子も多いし、当時30代後半の私にとっても一見したところ(あくまでも生態的単純思考範囲内の話だが)「恋愛対象」となるべく男子がより取り見取りで存在した。  
 そんな中、私の好みは一般女子高生が好む男子(いわゆるモテ男子)とは大いに異なっていた。 それはおそらく既にある程度人生経験を積んでいた我が“母性本能”に由来していると推測するのだが、授業を受け持っているクラス内であまり目立たないタイプの“可愛い系”かつ“寡黙系”男子の存在が大いに気になったものだ。
 いえいえ、彼らには絶対手出しなどしませんよ。 えこ贔屓も絶対にしませんでした。それは事実だ。(何故ならば、当時独身の私には年齢相応の彼氏が途絶える事など皆無だったもので……) それでも、我が好みの男子(あちこちの教室に複数存在した)が所属するクラスへ授業に出向きその姿を見るのは、教員として一時の心のオアシスだったものだ。(やっぱり顰蹙話題かなあ…

 おそらく、母親が実の息子に抱く「恋愛感情」と、私が教員経験時代に抱いた一部の好み男子生徒への感情とはまったく異質のものと考察する。
 母親の場合、実の息子との共同生活期間が長年に及んでいる。 子どもである息子の生育歴や人格をすべて知り抜いた上での「恋愛感情」なのであろう。
 だからこそ、やはり息子を持った経験のない私には分析しにくいテーマである。


 それを承知の上で、娘を持つ母親としての私論を最後に述べよう。

 上記専門家心理カウンセラー氏のご意見の信憑性の程が多少気になる原左都子だ。
 氏は、「幼少期より自立心に富み自己主張が強い男の子の場合、母親は『小さな恋人』のように思いにくい。 聞き分けがよく親の意向にぴったりはまるような『いい子』に対し、母親は親密度が高まるのではないか。」と結論付けられている。
 男児を含めて子ども達とはそれ程“ステレオタイプ”に育つ存在であろうか??

 原左都子はそうではないと結論付けたい。
 誤解を怖れず結論を述べると、実の息子に対して“本気で”「恋愛感情」を抱いてしまう母親とは、先天的にその素質(早い話が異常なまでの「男好き」資質)を持って生まれて来ているのではなかろうか?  
 息子が持って生まれた資質や親の育て方の如何にかかわらず、その種のDNAを生来持っている母親こそが、息子への「恋愛感情」を抱いてしまうのかとも推測する。

 ただ上記朝日新聞特集に寄せられた反響の場合、一見「恋愛感情」と錯覚した母親達の息子に対する愛情に何らの偏りや歪みはなく、すべてが実の息子に対する親としての「常識」範囲内での愛情表現であると私は結論付ける。

客室乗務員こそ“私服”でいいんじゃないの?

2013年06月19日 | 時事論評
 最近、我が家の近くに位置する大手スーパーマーケット女子従業員が私服勤務となったようだ。

 それまでは巷のスーパー女子店員によくあるごとく、地味系色合いのベストとタイトスカートのスーツ、そしてやはり地味系薄色のブラウスにローヒールサンダルのいでたちだった。
 そもそも昼間スーパーの店員をしている女性達とは、そのほとんどが主婦のパートであろう。 (大変失礼ながら)“美しい”などとの言葉とは程遠いその女性達の外見スタイルこそが巷のスーパーマーケットの象徴とも言え、一般市民が食料品や生活必需品を買い求める中核的機能を果たす大規模店舗にして必要十分の制服とも表現できよう。

 ところがある日スーパーを訪れたところ、衣料・寝具雑貨売り場フロアーの女子店員の皆さんが制服を着用していない。
 よく観察すると、顧客に交じって首から名札をぶら下げている私服女性が店員氏達と認識した。 私服とは言えどもまさか絢爛豪華に着飾っている訳ではなく、皆さん、ジーパンにTシャツそしてスニーカー姿だ。  その動きを見ていると明らかに顧客とは異質だ。 軽装私服スタイルで快活に売り場内を移動しつつ、今までよりもずっと活気付いて勤務しているような印象を私は受けた。

 その後も度々スーパーを訪れるのだが、やはり私服女子店員の皆さんの働く姿が快活なのだ。  おそらく上記地味系スーツ姿よりも、軽装私服の方が実際格段に動き易いのであろう。
 そして(これは私の推測だが)、店舗側としてもスーパーで販売している普段着を店員氏達に(従業員特典安価で)購入してもらえるメリットもあろう。 今まで必要経費だった制服代金及びそのクリーニング代金も発生せず、経営者側にとっては一石二鳥の経費節減対策ではなかろうか?


 ここで一旦、原左都子の私事に入ろう。

 私は元々「集団・組織嫌い」体質であるのに加え、思春期頃より今に至るまでファッションにはこだわり抜いている人種でもあるため、基本的に“制服嫌い”だ。
 「原左都子エッセイ集」2013年3月バックナンバー 「セーラー服を脱ぎ捨てよう!」 に於いてもその辺の我が思いを綴り公開しているため、今一度エッセイ内容の一部を以下に反復させていただこう。
  中学校卒業以降「制服」を嫌い続けている我が人生だ。
  ただ、どうなんだろう??  先だって発表された今年の大学生就職率が80%少しに留まっている現在、「制服」がある企業への就職が叶いそれを着用することだけでも若年層にとってとりあえず“ハッピー”なのだろうか??  若者世代には少し発想を変えて欲しい思いだ。 「セーラー服(制服)などとっとと脱ぎ捨てて」本気でこの世に飛び立たねば、自分が真に欲する仕事になど巡り会えないのではなかろうか??  先進国の企業組織において「制服」を強制している国とは、(特殊作業を行う職種を除外すると)この日本だけではあるまいか?  「制服」が自分のプライドを保ってくれる時代など当の昔に過ぎ去っている。 それを重々認識し、若き世代には自分の意思と能力で自由に社会へ飛び立って欲しいものだ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用)


 話題を表題に移すが、私が子どもの頃に一般女子があこがれるナンバー1の職種とは「スチュワーデス」だったものだ。
 それ程に当時の航空機客室乗務員とは、一見(あくまでも“一見”に過ぎないのが辛いところだが)、“美しさ”と“聡明さ”の象徴だったような記憶がある。  そんな庶民女子の憧れを一番煽ったのが、まさに航空機会社が採用している「制服」だったのではなかろうか??

 朝日新聞6月15日夕刊一面に、客室乗務員の制服に関する記事があった。
 「空飛ぶ制服 機能美モード」と題するその記事を以下に要約して紹介しよう。
 日本の空を飛ぶ客室乗務員の制服がJAL・ANA共に一新される。 そのスタイルは働く女性達の姿を映しながら時代に合わせて変化を遂げてきた。 機能性とファッション性を追究しつつ、クリーニング代を抑えたりエプロンを無くしたりするコスト削減も狙う趣旨だ。 JAL10代目新制服のコンセプトは「親しみやすさ」「動き易さ」そして、「経費節減」である。 片やエールフランスは有名デザイナー氏の制服を採用する等、常に最新モードを取り入れて来ている。 当該航空会社の制服採用において今も昔も変化がないのはエプロンがない事。「客室乗務員はお客様を招いてもてなす主人。だからエプロンはしない」これこそがエールフランスのモットーである。
 (以上、朝日新聞記事より一部を引用)

 一旦原左都子の私論に入るが、確かに日本の航空会社がずっと採用し続けてきた女性客室乗務員の「エプロン」の解釈が分かりにくい。
 現在少なくない男性客室乗務員が「エプロン」をしている場面を見たためしもない。
わずか1時間程の国内線においてたかが1杯の飲み物を出す時にも、女性乗務員は「エプロン」姿で登場する。 顧客の一体誰が、女性乗務員に「エプロン姿」に変身する事を望んでいるのか??  それを問い続けている我がエアフライト人生とも言える。
 このエプロン姿、天邪鬼の私に表現させてもらうと「卑猥感」すら漂うのだ… 結局、誰がエプロン姿を女性乗務員に課し続けたのかと言えば、航空会社で女性乗務員を採用している男性親分どもではないのか??
 それは冗談であることに期待して、JALの10代目制服採用により一体何が変化するのかと言えば、会社側のコスト削減効果しか望めないような気もする。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 国内、海外と航空機を利用して旅に出る機会が多い私である。
 そんな私が近年経験した航空会社の女子乗務員の制服の中で一番絶賛したいのは「大韓航空」である。 当該会社国際線の場合、制服に先立ってまず、女性乗務員が例外なく美人であるのに加えて170cm以上のスリム高身長なのだ! (単に我が趣味に過ぎないが)これ自体が素晴らしい。 ここまで女性乗務員の美的要因を揃えられてこそ成り立つ「制服美」であろう。

 他の航空会社は、そもそもここまでの「美女」を揃えられていない現実だ。 現在世界各国の航空会社はコスト削減観点から“契約社員”に依存している現状であろう。 そんな多様な客室乗務員に「制服」着用を強制したところで、顧客の印象は「でこぼこ・ちぐはぐ集団」でしかあり得ない。

 ここは発想を大幅に転換し、思い切って客室乗務員の制服を全廃して私服勤務にしてはどうか?
 胸や首から「名札」でも吊り下げていれば、顧客とて乗務員と判断可能だ。 しかもスニーカーでも履いてくれた方が、有事危機の際に救助態勢も取り易いのかとのメリットも思い浮かぶのだが……