原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

文科省は序列化がお好き

2009年01月30日 | 教育・学校
 「全国学力調査」に引き続き、今度は子どもの「体力」の都道府県別合計点の序列化結果の公表である。
 文部科学省は、先だっての1月21日に「全国体力・運動能力・運動習慣調査」の結果を、都道府県別合計点を序列化するという形で発表した。


 「全国学力調査」においては既に結果の公開のあり方が議論を呼んでいるが、こういう子どもの学力や体力等の能力に関する都道府県別序列化は、一体いつ頃から何を目的として行われているのであろうか? 
 おそらく、文科省としては都道府県を序列化することにより自治体間の競争をあおり、各自治体の教育委員会の尻を叩いて切磋琢磨させることを狙いとしているのであろう。

 今回の「体力」の序列結果発表を受けて、各都道府県では早くも一喜一憂の反応が出ているようだ。
 例えば、学力調査同様に今回の体力調査においても全国平均を大きく下回った大阪府の橋下知事などは、さっそくこの序列化結果に反応して「学力も体力も低い大阪はどうすんねん。」と定例会見で語ったらしい。(橋下さん、あなたっていつも言動が少し単純過ぎませんか? 都道府県の長たるもの、もう少し腰を落ち着けて物事を考察しましょうよ。)


 私論に入るが、そもそも“都道府県”というカテゴリー分類に如何なる意味合いがあるというのか。
 各自治体の教育委員会がこの文科省の結果公表を受けて切磋琢磨し、よりよい公教育を提供してくれる分には望ましいことなのであろう。そういう意味では、自治体の教委や学校現場への結果の公開にはある程度の意義はあろう。

 一方で、マスメディアを通して一般社会へまでもこのような都道府県別序列化データを公表することに、私はさほどの意義が見出せないのだ。 自分の出身県や居住県が序列の下位に位置していようが、私個人にとっては特段何らかの支障がある訳でもなく、また上位の都道府県が羨ましいという感情も全く抱かない。
 なぜならば、人間の個性が多様であるのと同様に、都道府県の個性もバラエティに富んでいて当然であるからだ。ある県は都会であったり、一方で自然が豊かで海山に囲まれた県もあれば、寒暖等の自然環境の格差も地域により激しいのが実情だ。それぞれの土地に生を受けた子供達一人ひとりが自己の持つ潜在能力と様々な環境要因を融合させつつ、豊かな個性を育んでいくのであろう。
 そういった摂理に、そもそも「序列化」などという概念は相容れないのは自明の理である。

 例えば北海道など、今回の「体力」の調査結果は下位に位置している。「冬が長くて外が使える期間が限られていることも背景にあるのではないか」と道教委は説明しているが、一理ある話であろう。
 それぞれに異なる環境で育った子供達の「体力」を単純に数値に置き換えて「序列化」する事にさほどの意味がないことは、誰が考えても明白である。


 近年は世の中が何でもかんでもランキングの時代ではあるが、子どもの教育においてそもそも「序列化」は相容れない、と本ブログの“教育・学校カテゴリー”において私は主張し続けてきている。
 偏差値による子ども個々人の学業成績の序列化、進学実績による学校の序列化、そして国による子どもの学力や体力の都道府県の序列化…。 何故にこの国はこれ程までに序列化を好むのか。
 若かりし頃に偏差値教育にドップリと漬かりその“数値”の恩恵のみに甘んじて世間知らずのまま大人になり、その後の人生と言えば世襲と縁故に頼ってきた人種が、揚句の果てに国の指導者たる政治家や役人になっているのもその悪因の一つではないのか。


 最後に、今回の文科省の子どもの体力調査結果の公表に関する有識者の批判意見を紹介しよう。(朝日新聞記事より要約して抜粋)
 生活様式が多様化している現在の子供達の体力について、単純に合計点やその平均点を出すことに何の意味があるのか。今回の結果公表は自治体や学校の過度の競争につながることも懸念され、受験の暗記勉強のようで運動を楽しむことにならない。運動を通じて友達とのふれあいを楽しめるような環境を整えることが必要だ。

 肩書きのみは立派だけれどキャパシティの小さい大人どもが、自己の愚かな考えに基づいて、未来ある子どもの教育に偏差値や序列化等の取るに足りない概念をこれ見よがしに持ち出して、教委や学校現場に小手先だけの対応をさせ、子どもの豊かな可能性を潰し続けることはもういい加減勘弁して欲しいものである。
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チョコ、欲しいですか?

2009年01月28日 | 人間関係
 世の男性の方々、バレンタインデーにはやっぱりチョコレートが届くことを期待されていますか?


 日本において、2月14日のバレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈るという奇妙な習慣が根付いてもう半世紀が経つ。
 この私も、中高そして学生時代の若かりし頃には、お目当ての相手にこっそりとチョコレートを贈ったものだ。 社会人になってからは、交際中の男性に手渡す事はあっても、いわゆる“義理チョコ”に関しては渡す意義が見出せず、周囲の女性達がいくら騒いでいようが私は我関せずで一切渡した事がなかった。


 そんな私も、ある職場で大量の義理チョコを配ったことがある。30歳代での再びの学生時代のアルバイト先での話なのだが、この職場では毎年アルバイト女性が職場の男性全員に義理チョコを配るのが“定例行事”となっていたのだ。
 ところが、これが大変なのだ。と言うのも、当日出勤するアルバイト女性2名に対し男性が30名程いる。しかも、必ず女性一人ひとり各々が男性全員に配るという代々の“掟”まであるのだ。当時4名のアルバイト女性が2人ずつ交代出勤していたのであるが、この“経済的負担”を回避するために皆で2月14日の出勤をなすり合った結果、新入りの私が2月14日出勤となり、この“定例行事”の担当となってしまったのだ。
 さて、前日に勤務を終了して帰宅しようとする私に、男性職員の方々が、「○○ちゃん(私の名前)、明日何の日か忘れてないよね♪」「○○ちゃん、期待してるよ!」等々、異口同音に“義理チョコ”を促すのだ。こうもあっけらかんとチョコを要求されると、もう憎めない。
 とは言え、チョコ30個の支出は苦学生には痛い。結局100円のチョコを30個買い込み、ラッピングを自分でして、一人ひとりの特徴を捉えつつ日頃のお礼を書いたメッセージカードを付け、見栄えだけはよくしたチョコを用意した。もう一人のアルバイト女性など、合計の支出が1万円を超えたと言ってぼやいていたものだ。
 さて、次の日この“義理チョコ”を職場で配る訳だが、反応が上々である。やはり、一人ひとりにメッセージを付けたのがミソだったようだが、皆さんから懇切丁寧にお礼を言ってもらえ、その後、職場での私の受けがそれまで以上によくなった。
 そして、驚いたのは3月14日のホワイトデーである。山ほどのお返しのプレゼントが届いたのだ。これが凄い! 真っ赤な薔薇の花束、ピーターラビットのオルゴール、ブランドのボールペンや小物入れやハンカチ、ステーショナリーセット、それにキャンディボックスにクッキーの詰め合わせ…… 加えてメッセージカードや、中には便箋2枚に渡る手紙をくれた人もいた。更には、デートの誘いもあった。 両手に抱えきれないほどのプレゼントを抱えて私は帰宅した。

 “海老で鯛を釣る”とはまさにこのことである。


 それにしても、2月14日は男性にとっては落ち着かない一日なのではなかろうか。本命にしろ義理にしろ、“残酷”とも言えるこの日を、男性の皆さんはどのような心境で過ごすのであろう。
 
 1月23日朝日新聞夕刊の「悩みのレッスン」に“チョコがもらえない”と題する中学生男子からの“悩み”の相談が取り上げられていた。
 この相談を読むと何とも可愛らしいと言うのか、年季の入った私などには微笑ましくもある。
 少し紹介すると、「僕は生まれてこの方、バレンタインデーに母と祖母以外からチョコレートをもらったことがありません。親は、あんたがチョコをちょうだい、と言って回るから女子に引かれるのだ、と言うので去年からはクールに構えたのにやっぱり1個ももらえません。女子の友達もいるのに、なぜか“この人”と思ってもらえないのです。何が足りないのでしょうか。」

 このブログの筆者の原左都子おばさんは、君のその素直で開けっぴろげなキャラがとても気に入ったよ。君は愛すべき少年だね。ちっとも心配要らないよ。 あと何年かたったらきっと君にもチョコが届くはずだよ。
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偉大なる哲学者の遺産

2009年01月26日 | 学問・研究
 ウィトゲンシュタインと言えば、20世紀を代表する哲学者の一人である。

 私は残念ながらウィトゲンシュタインの著作を一冊も紐解いておらず、その業績に未だ触れずにいる。そんな私ではあるが、哲学者ウィトゲンシュタインの名前は私の脳裏に鮮明に刻み込まれている。

 それには理由がある。
 30歳代での再びの学生時代に、私は当時の自分の専門ではなかった哲学にはまり、卒業認定単位とは関係なく哲学の授業を何本もはしごしたのだが、その中で一番没頭したのが「科学哲学」であった。
 この「科学哲学」の授業に大いにインパクトを受けた私は、担当講師(他大学の教授でいらっしゃったが、我が大学には講師で来られていた)の先生を密かに尊敬申し上げた。そして、この先生の追っかけをして「科学哲学」を2年に渡って2度(単位取得後の再受講は原則禁止のため2度目は“隠れ受講”だったのだが)と、同先生による「自然科学概論」を受講したのである。
 (私が最初に「科学哲学」にはまったのは、おそらく元々理系で医学関係の職業経験があったというバックグラウンドも大きいと思われるが。)
 
 この先生をここではA先生としておこう。 このA先生というのが、とにかく“哲学者”そのものでいらっしゃるのだ。浮世離れしているというのか、冗談のひとつも出ないどころか、無駄口の一切ない授業で口を開けば哲学なのである。そのためか学生には滅法不人気のようで、大教室にいつも受講生が10名程しかいない。 最初の頃は訳がわからないまま授業に出ていた私であるが、そのうちA先生の哲学の世界にどんどんと引きずり込まれていった。
 
 このA先生の授業が、これまた唐突だ。いきなり英文の哲学論文のコピーを受講生に配布する。そして、前方に座っている私に「じゃあ、あなた、ちょっと訳して下さい。」と来るのだ。哲学専門用語はてんで分からないし、辞書も持ち合わせていない。四苦八苦しながらしどろもどろ日本語に訳していると、専門用語に関しては先生が手伝って下さりながら、私は何とかプラトンに関する論文を訳した記憶がある。 こういう授業の唐突さも不人気で、さらにだんだんと受講者が減っていき、結局最後まで残ったのは私を含めて3、4人だったように思う…。 学生の人気におんぶしたがる大学教員も多い中で、A先生はそういうことには我関せずで、相変わらず哲学者でいらっしゃる。これがまた魅力的なのだ。

 なぜ、ウィトゲンシュタインの名が私の脳裏から離れないのか。 それは、上記のごとくご自身が哲学者でいらっしゃるA先生が授業中におっしゃった一言によるものだ。
 「古代より現代まで世界中に多くの偉大な哲学者が存在するが、その中でも私が特に影響を受け、偉大と考える哲学者は“プラトン”と“ウィトゲンシュタイン”です。」と明言されたのである。
 後に私が、我が子の名前をプラトンから引用するに至るほどプラトンにはまり、また一昨年の夏にプラトンが創設したアカデメイアを訪れるためにギリシャまで旅立ったのは、A先生の影響力に他ならない。


 一方で、ウィトゲンシュタインもいつかは紐解きたいと思いつつ、未だ実現していない。
 そうしたところ、先だっての1月18日(日)の朝日新聞日曜版別刷り「奇想遺産」のコラムにウィトゲンシュタインが取り上げられていて、久々にA先生のことを思い出した、といういきさつである。

 この朝日新聞記事に目を通すと、偉大な哲学者ウィトゲンシュタインの横顔を垣間見る事ができ興味深い。
 “ウィトゲンシュタイン・ハウス 大哲学者癒した「建築療法」”と題する記事の一部を以下に要約してみよう。

 ウィトゲンシュタインの人生は2期にわかれる。極限まで論理の抽象化を進めて、数学のようにかわいてスカスカな印象を与える『論理哲学論考』は、哲学の歴史を変えた本と今では言われる。しかし、時代の先を行き過ぎて誰からも理解されない。
 厳密な彼が建築デザインしたウィトゲンシュタイン・ハウスは物の寸法からディテールまで異様なほどに整理されている。彼は2年間この家の設計と工事に没頭することにより人間が変わった。後期は普遍的な厳密さより、多様なコミュニケーションを大切にする人間的なものとなった。箱庭を作って患者をなおし、いやすという箱庭療法というメリットがあるが、これは大哲学者の「建築療法」であった。大哲学者ともなると箱庭療法の結果さえ、歴史に残った。

 以上の朝日新聞の記事を読むと、私が尊敬申し上げるA先生は、もしかしたら前期のウィトゲンシュタインの影響を大きく受けているのではないかと、私には見受けられる。何やら、前期のウィトゲンシュタインとA先生に共通点があるように感じられるためだ。 そして私も、哲学の本髄とは極限まで論理の抽象化を進めることにあるようにも感じる。


 いや~~、それにしても、ウィトゲンシュタインといいA先生といい、真に偉大な学者というのは一見変人のように見えても、必ずや後世に影響力という遺産を残せる普遍の存在であるものだ。 


<P.S.> 本文では「遺産」などという言葉を使用しましたが、A先生に関しましては、私とさほど年齢が変わらない現役の大学教授でいらっしゃり、先程ネットで検索しましたところ、Wikipediaにも掲載されている日本の「科学哲学」の権威でいらっしゃいます。
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博士の行く末

2009年01月23日 | 仕事・就職
 朝日新聞1月18日付朝刊「あしたを考える」のページの '新学歴社会' の今回の記事は“就職漂流 博士の末は”と題して、博士の学位取得者の就職難について取り上げていた。

 「修士」はともかく、「博士」の学位を取得すると就職の受け皿がないという話をよく耳にする近頃であるが、この記事を読むと、博士の方々の就職難の実態が気の毒にさえ思えてくる。


 それでは、早速この朝日新聞の記事を以下に要約してみよう。

 塾の講師、図書館の棚卸し、学校の警備員…、いったいいくつの職業を経験しただろうか。10年余り、年収100万~150万で暮らした。大学の教員には100回以上応募したが、なしのつぶて…、と嘆く博士取得者。 大学教員の公募に何度応募しても採用されず、非常勤講師を4大学で掛け持ちして年収140万、という博士もいる。研究者への道は狭き門で、年齢的に企業への就職も難しく、退くことも進むこともできないでいる博士号取得者は多い。
 学歴社会の頂点であるはずの「博士」のその後は明るくない。就職率は約6割に過ぎず、非常勤講師等の不安定な立場にある人の割合が大きく、フリーターをする博士の比率も高い現状のようだ。

 朝日新聞記事の要約が続くが、かつては「末は博士か大臣か」と並び称された博士が、なぜこのような実態になったのか。
 最大の理由は、国が企業等多方面で活躍できる高い専門知識・能力を備えた人材を育てる目的で、91年から10年間かけて大学院生を倍増化する計画を推進し、「入り口」で博士の数を増やしたためである。 
 ところが、「出口」の就職先が広がらない。期待されていた企業への就職者数も予想に反して受け皿が狭い。「専門能力は高いが、他の分野の知識や能力が不足している人材が多い」というのが企業の言い分であるようだ。 また、採用しても待遇面で博士を優遇しない企業も多いのが実態でもあるようだ。
 文科省も多少はこの失策の責任を認め、ミスマッチ解消に乗り出しているらしい。「企業は博士が要らないから採用しないのではなく、(大学側が)博士の中身を変えるべきだ」と某国立大学学長は話す。
 対応策として、博士を「増産」してきた政策そのものの転換を求める声が出てきている。「博士は今の半分でいい。国が戦略を立てて分野を選んで減らせば、国力の低下につながらない」と主張する有識者がいる。 一方で、ノーベル物理学賞受賞者の野依良治氏は「グローバルな知識基盤社会に日本が生き残るためには、十分な質を持つ博士が今以上に必要だ」と反論している。

 現在の日本の「博士」数は国際的にみれば圧倒的に少ない。「就職できない人がいるから減らすというのは、間違った考えだ」と言い切る有識者もいる。「人材育成能力に欠けている大学に最大の責任があり、大学が変わるべき。それができないならば博士を減らすしかない。大学の意識改革が問われている」
 との某国立大学教授の見解で、この朝日新聞の記事は締めくくられている。


 私事で恐縮だが、我が家にも「博士」が1名いる。そのため、私はこの朝日新聞記事を興味深く読んだ訳である。
 我が家の博士は“理学博士”なのであるが、自分自身の研究者としての意思と希望を優先するために、やはり“真っ当な”就職までには難儀した人物であるらしい。(“らしい”と表現するのは、私はこの人物が親掛かりを離れて自力での生活が安定して以降に知り合っているためである。) 我が家の博士の場合、学位取得後、理系の博士に多い“ポスドク”(ポストドクター = 任期付きの博士研究員)を2大学に於いて経験している。その間に科学誌“ネイチャー”に研究論文を発表した後、30歳代半ばになってやっと日本の某企業の研究所に就職を決めたとのことである。
 それでも、我が家の「博士」の場合はその頃の時代背景にも助けられ、遅ればせながらも就職先にありつけて、その後は一応安定収入を得つつ現在に至っているため、まだしも恵まれている方なのであろう。


 さて、本論に戻ろう。

 「博士」の“数”だけ増やせばいいと安易に考えた文科省の政策は、やはり失策だったのではなかろうか。そして、その責任を教育現場の大学になすりつけて済むと言う話でもないであろう。 今後は大学の意識改革の下に、研究分野の専門能力のみならず、この厳しい経済社会で真に活躍できる総合的な能力をも兼ね備えた人材の育成に取り組んで欲しいものである。

 そして、「博士」等の学位取得を目指そうとする人々やその保護者の皆様にも提言申し上げたいのだが、学位を取ればどうにかなる時代など、とうの昔に終焉している。どのような分野であれ、確かな実力があってこそ渡っていける世の中である。それを肝に銘じて精進していただきたいものでもある。 
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何が目的?

2009年01月21日 | お金
 その答は、やはり「お金」なのであろう。


 3週間程前から私の携帯電話に迷惑メールの着信が続いている。トータルで1日約20通程、毎日昼夜を問わず送信されて来る。

 その内容は意味不明なのであるが、おそらく出会い系サイトであろうと推測している。
 それにしても文面の趣旨が捉えにくい。例えば、「君の情報が掲示板に書き込みされてるよ」「外科医(弁護士等、ある程度社会的地位を匂わせるような職種をいつも書いてくる)の誰それだが、あなたを希望している」「交際を前提で前金で支払う」「市役所でお金を渡す」「お金には困ってないの?」「サイトはもうやめたらどうか」「住所知ってるから家までいくよ」「すぐ近くまで引っ越したよ」「まだ連絡くれないからこちらの連絡先を書いておいたよ」等々、メール毎に文面が異なるのだが、必ず送信元サイトの連絡先を添付してくる。

 もちろん、完全無視で即刻削除している。

 受信拒否も検討したのだが、携帯メールって受信拒否するためにウェブに接続しなきゃいけないのね? なんで、これしきのことがハード内で出来ないの? 固定電話の場合、着信拒否はハードの設定で簡単にできるし、そもそも私は電話帳登録番号の着信にしか電話に出ない事にしてるしね。 なんで、迷惑メールを受信拒否するために通信料を支払わなきゃいけないシステムになってるのよ? 今時、迷惑メールなんて世に氾濫してるであろうに、これじゃあ携帯電話会社はぼろ儲けで、この迷惑メールは電話会社の差し金、あるいはグルかと勘ぐりたくもなるぞ。
 加えて、送信者は送信元のアドレスを随時変更しつつ送信してきている様子だ。おそらく受信拒否されることは重々想定内で、アドレスを変えつつ執拗にメールを送り続ける魂胆なのであろう。受信拒否したところで、いたちごっこになりそうだ。
 こうなれば、根競べだ。(それにしても、着信音がブーブーとうるさいなあ。いい加減にしてくれよな!


 私の場合、携帯電話を普段ほとんど使用していない。従って、携帯メールアドレスの公開先のすべてを明確に把握できている。一体、どこから個人情報が漏れたのであろうか?

 それにしても、たとえ出会い系サイトであれ、メールを送信するターゲットを事前にマーケティング調査でもして少しは絞り込んだらどうなのかとも思う。 私のような人間に何百本メールを寄こしても、出会い系サイトを利用して人と出会う訳もない。人との出会いとは人として生きていく上ですばらしい出来事ではあるが、出会うべき手段を自分で選択して、出会うべく相手と出会いたいといつも考えている。
 おそらく、メールを手当たり次第に送信することは、一番容易で金も頭脳も必要とせず、誰にでもできるいとも簡単な商法なのであろう。そこで、何らかの手段で偶然入手したメールアドレスに、めくらめっぽう迷惑メールを送信し続けているのだと察する。
 (で、こういう迷惑メールになびいてアクセスしている人っているの??)

 おそらく、国民の多くの善意の庶民が既に大いに迷惑を被っているこの種の悪徳商法が、どういう訳か野放しにされている社会の実態である。世の指導者達は一体どういう魂胆で、誰と如何なる利害関係があってこういう現状を見逃しているのであろうか??


 なぜ今の時代は、このように無秩序で荒廃した社会にどんどん成り下がってしまうのか。
 通信科学技術の急激な進展、それに伴う匿名性社会の一般化、人間関係の希薄化現象、さらには昨年来の世界的経済不況が人の心の乾きに追い討ちをかける世の中を作り上げてしまっている。

 今後このような迷惑メールは増加の一途を辿り、人の心はますます乾燥していくのであろうか。
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