原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

生活保護者量産社会脱却策の一提案

2012年10月29日 | 時事論評
 「原左都子エッセイ集」に於いて、生活保護者関連エッセイを公開するのはこれが三度目となる。

 先だっての10月22日、財務省は来年度予算で生活保護費削減を求める方針を打ち出した。
 この財務省案によると、現在の支給制度に於いては物価が下がり続けるデフレを反映していないとして、支給額のうち生活扶助費部分を4%程引き下げる、とのことだ。
 加えて、家賃の相場が下がっているとして住宅扶助費の引き下げも提案している。 また、医療扶助費に関しては、「医療費無料」が受給者を増やす原因になっていると指摘し、一部自己負担とするよう提案したようだ。
 さらには不正受給を減らすねらいで受給希望者の審査を厳しくすると同時に、受給者に働く意欲を持たせるため「就労インセンティブ制度」も取り入れるよう求めたとのことだ。(朝日新聞10月23日記事より一部引用)
 私論としては、財務省は何故この方針をもっと早期に提案しなかったのか不可解だ…。

 上記朝日新聞記事の続きを紹介しよう。
 この財務省の方針に対して、厚労省は生活保護費を削減し過ぎると最低限度の生活ができなくなると難色を示していて、政府内の調整は難航する可能性があるとのことだ。
 厚労省の背部に位置する某団体の言い分とは、生活保護者の多くは高齢者や障害者、母子家庭であるため、医療費の一部負担により最低生活費を割り込み命の危険にもかかわる。 政府は社会保障の充実と言っておいて、一番弱い人の生活保護を切ろうとしている」と批判しているようだ。 (この種の政府直結“天下り団体”組織も無駄な税金を食い潰すべく今尚ネックな存在だよねえ……)


 ここで一旦原左都子の私事に入ろう。

 月に14万円(この数値こそが現在生活保護者が毎月受け取っているほぼ全国平均額と、何処かで見聞したことがあるが)も貰えりゃ、十分に“文化的最低限度の生活”が可能ではなかろうかと自らの経験から考察する。
 と言うのも、私も30代の独身時代(特に二度目の大学入学直後)には、まさにこの程度の生活費で日々やり繰りした経験があるからだ。
 私の場合は30歳にて購入した自己所有の不動産資産、及び20台に稼いで貯め込んだある程度まとまった預貯金資産が背後に存在したことは事実であり、その辺の資産状況が生活保護者とは大きく食い違うことであろう。 それでも、当時月々返済していた住宅ローン費用も含めて、14万円程度の収入額で公立大学の学費(あの頃はまだまだ安かったなあ~)も自己負担しつつ十分に文化的に煌びやかな生活を送っていたものだ。

 一旦この場で私論の一結論を展開させていただくに、 「お金の使い方」ひとつ取り上げても自分が持って産まれた資質やその後培って来た学識経験等の教養力が、生活を営む上でのキーポイントとなるという話ではあるまいか? 
 その一分野の事象として、どうやら生活保護受給者とは病気をしやすく安易に医療機関を頼っておられる様子だ。 これに関して言えば、医療に関するバックグラウンドがありある程度自己診断可能な私など、現在に至って尚月々の医療費など微々たるものである。


 我がエッセイ集少し前のバックンナンバーに於いて、(少し先の将来にその有効性が現れる対策に過ぎないかもしれないが)生活保護費削減のための第一方策とは 「学校教育充実改革」ではなかろうかとの記述をしている。
 (要するに早い話が、今後日本を生きていく子ども達をちゃんと育てよう!との提案である。)

 今回のエッセイではこれに関する私論を展開することを趣旨としているのだが、その前に「原左都子エッセイ集」2007年9月のバックナンバーである 「『横並び教育』の所産」 と題する記事を以下にその一部を要約して紹介しよう。

 バブル経済崩壊後の長引く不況の中、若者のフリーターやニート、そして引きこもりが増加の一途を辿っている。 これら若者の組織や社会からの逸脱の諸現象は、現在の学校の「横並び教育」の所産であるように私は思えてならない。
 近世において欧米等諸国が“民主主義”を市民が流血の末に勝ち取ったのと比較して、我が国の場合それを敗戦により米国から与えられたという経緯があるためか、どうもこの国は今もって「人権」に対する意識が低く、かつ「自由」や「平等」の解釈を履き違えているのではないかとの感が否めない。
 私は“もはや戦後ではない”と言われた時代にこの世に生を受けた。 そんな私の小学生時代(1960年代)の学校教育は、時代背景的に決して「横並び教育」ではなかった。 私の印象では“学業成績第一主義”であったように記憶している。これも大いに歪んだ教育ではあるのだが、子どもにとってある意味での“わかりやすさ”はあったように思う。例えば学級委員等クラスを統率する生徒や、学芸会や音楽会等での中心人物は担任教員の一任で成績順に決められていた。
 現在の公立小学校を保護者の立場から垣間見ると、何事にも当番制、輪番制が取り入れられ生徒全員に“一見”「平等」な機会を与えているような錯覚に陥る。加えて、学級委員や学芸会、音楽会等の出演者決定には“立候補”制が取り入れられていて、あたかも「平等」に加えて自主性をも演出しているつもりであるのは理解できる。 しかし、実はこの“立候補”制にも大きな落とし穴があり、その実態は単なる「横並び」でしかなく立候補のフォロー(少なくとも立候補には責任が伴うことを指導し、立候補した子ども達にその責務を全うするべく努力させるべきである。)がまったくなされておらず、何年経ってもいつも同じ子ども達が立候補し、毎年同じパフォーマンスが繰り返されるのだ。 これはまさに違った形での“横並び”でしかない。
 「横並び」が平等だと勘違いしている公教育で育った子ども達は気の毒だ。その子ども達が学校を卒業(中退でもいいが。)し、一旦社会に進出すると(大変失礼な言い方ではあるが公務員になる以外は?)そこには厳しい競争社会の現実が待ち構えている。 その現実社会へスムーズに移行しきれずあえぐ若者が多いのではなかろうか。
 決して「横並び」イコール平等ではない。 個人の能力や個性に応じた平等こそが真の平等であると私は考える。 今の学校では「横並び」を平等と勘違いし(あるいは、指導が容易なためあえて「横並び」を選択し)、現実社会の厳しさから逃避している。 このような学校教育の勘違いや現実逃避が子どもの人格形成に悪影響を与え、ひいては社会の退廃を招いているのではないかと私は常々推し量っている。
 偏差値や歪んだ受験競争等、人為的な序列化や競争は当然ながら否定されるべきである。が、健全な社会には必然的に競争は存在し、自然に序列化がなされ淘汰されていくものと私は考える。
 「横並び」を平等と勘違いした現状の学校教育の下では、自然発生的な競争にさえ耐えられない人材ばかりを育成してしまうのではないかと、私は懸念するのだ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年バックナンバーより一部を引用)


 上記教育関連エッセイを綴った後既に5年以上の月日が流れているが、現在の公教育現場はその頃から少しは変貌を遂げ前進しているのであろうか??

 断っておくが、原左都子は元教育者の立場からもあくまでも「弱者保護」観点を貫いているつもりだ。 
 学校現場が勘違い教育を施し続ける事により、無責任にも “元々弱者” を “更なる弱者” に仕立て上げて社会に送り出してはならない事など歴然である。

 特にベルリンの壁崩壊後、全世界規模で政治経済分野は“資本主義化”の流れにある故に、学校に於ける「偏差値」等馬鹿げた“人為競争”は今後も自粛するべきであるのは当然だ。 子どもが一旦社会に出たならば皆が“自然競争”に打ち勝っていく厳しい課題を突きつけられるはめとなる。 それに学校教育が対応できない現実こそが諸悪の根源であろう。

 「社会的弱者」を排出し続ける学校教育の弊害  イコール 「生活保護者」を量産し続ける現実社会と捉える原左都子である。

 今後は目先の偏差値等“人為競争”から脱却せんとの広い視野と見識をもって、真の“自然競争”に打ち勝てる人材を育て上げるべく学校教育は機能して欲しいものだ。

子ども中心生活など直ぐに過ぎ去るものよ

2012年10月27日 | 自己実現
 冒頭から私事で恐縮だが、晩婚高齢出産にてこの世に生まれ出た我が子が来月19歳の誕生日を迎える。
 現役推薦合格ゲットによりこの春大学生になり現在1年次後期授業に入っている娘は、既に専門分野の初歩段階資格検定試験にも一発合格し、順調な学生生活を送っている。
 学業のみならず、日々トータルコーディネートにこだわり精一杯のお洒落をして出かける姿を見るにつけ、よくぞここまで成長を遂げたものと親として感慨無量の境地である。

 お陰で我が子出生直後より開始した「お抱え家庭教師」家業も一つの大きな山を越した実感が大きく、定年退職後“濡れ落ち葉”状態の身内 (我が亭主の場合飯“メシ”を食卓の上に出して置きさえすれば、後は私の自主性を尊重してくれるため比較的扱い易いのだが) を除いて、私らしい生き方が徐々に取り戻せそうな感覚がある今日この頃だ。


 このような記事を綴ろうと思ったきっかけは、少し古くなるが朝日新聞10月13日付「悩みのるつぼ」のスクラップを見直した事による。

 当エッセイ集に於いて久々の「悩みのるつぼ」の登場であるが、早速41歳会社員女性による『私が送りたかった人生なのか』と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 現在41歳の会社員、幼児1人の母だが、最近私はこんな人生を送りたかったのかという後悔に似た気持ちがある。 37歳で出産以来、自分の思い通りに行かないと強く感じている。 それまではやりたいようにやれたし、いざやる気になれば何でもできると思っていた。 しかし子ども中心の生活に変わり、自分のやりたいことを我慢し仕事も短縮している状態だ。これが子ども18歳まで続くのかと思うと、本当に自分が送りたかった人生なのかと思ってしまう。 私は西洋文化圏の国で生活基盤を作り世界を感じながら働きたかったし、欧米圏で3年弱大学生・大学院生だった時は生き生きと生活していた。 でも、節目で安易な方へ流れてしまった。 自分の夢に近づくため何かした方がいいのか、でも守るものが増えて思い切った行動が出来ず行き詰まりを感じている。 若い娘の悩みのようで恥ずかしいが、信念を持って人生を生きている上野先生にご助言をお願いしたい。


 相談者ご指名の社会学者・上野千鶴子先生が素晴らしい回答を述べておられるのだが、それは後回しにさせていただいて、ここで原左都子の感想及び私論を先に記させていただこう。

 高齢出産で子どもを産んだ事に関して、どうやら相談者と私との共通項がありそうだ。
 ところが私が19年程前に高齢出産した頃とは異なり、現在は女性の高齢出産者人口が急激に上昇している時代背景ではなかろうか。 おそらく相談者の周囲にも同様の母子が少なからず存在するであろうし、社会的にもそれを容認して支援する体制が整いつつあるのではないかと私は推測する。
 相談者と同様の悩みを持つ母親達はもはや例外的ではなく、その悩みに関して情報交換可能な場も数多いのではなかろうかとも考える。

 相談内容で気に掛かる第一点は、「37歳出産前にはやりたいことがやれたし、いざやる気になれば何でもできると思った」、との記述がある点だ。
 それならば、何故37年間のうちにそれを実行しなかったのか、と私は問いたい。
 いやいや、この相談者の場合結婚は早かったのかもしれない。 そうした場合、同居している配偶者の影響力も受けるであろうから、相談者個人の行動に制約があって当然だろう。
 私の場合はそれを考慮し、結婚などよりも自分の野望を第一に叶えたいからこそ主体的に独身を貫いたのだが、この点において相談者とは生活基盤が根本的に異なっているのかもしれない。

 もう一点気になる事(と言うよりも、これは原左都子にとっては羨ましい事象であるが)とは、この相談者が産んだ子どもさんは相談内容から計算するに現在4歳のはずだ。 おそらく何らの障壁もなく無事に成長されているのであろう。
 出産時のトラブルにより多少の事情を持って産まれ出た我が子が4歳の時など、我が「お抱え家庭教師」家業最悪期だったものだ。 さしあたって娘を無事に小学校へ入学させるべく日々病院通い、研究所通い、教育相談、娘の成長にプラスになるであろう習い事通い等々…… 東奔西走していた頃だ。 自分の夢へったくれなどに思いが行く余裕もなかった時代である。
 それでも私はその合間に自分が過去に培った医学専門力を活かそうとも考え、娘が幼稚園及び小学校低学年の頃、娘の帰宅時間まで某独立行政法人研究所(いわゆる“理研”だが)で医学基礎研究のアルバイトをしたりの試行錯誤もした。 ところが娘が学校で幾度もいじめに遭えば、それに対処するのが母親としての最優先課題であろう。 何をさて置いても娘を守る行動に出た結果、我が家は転居までして私は職を退いたものだ。 
 娘が立派に成長を遂げてくれつつある現在に至っては、実に懐かしい思い出として語れるのだが…

 さらにもう一点相談者の軟弱点を指摘するならば、この方、今に至って尚何故西洋文化圏で生活したいのかの確固としたポリシーが相談内容から感じ取れないのだ。
 欧米圏で3年弱大学及び大学院に通ったと言うが、その短期間で何を修得したのであろう?  それはともかく、そこで生き生きできたとの実感が得られたのならばそのままその地で(相談者が言うところの)“節目”を迎えて現地の男性と共同生活に入ってもよかったのではあるまいか? その種の行動こそが、相談女性が描く夢と理想に一番近かったのではなかろうか、などと私は推測するのだが…

 結局、この女性が今回「悩みのるつぼ」に相談を投稿したのは、数年前よりこの相談コーナー特有の“自分の社会的優位性を認めて欲しい”との切実な心理状態に他ならないのではあるまいか???
 こんな現代人が抱えている“歪んだ欲求不満”に答を出さねばならない回答者氏の苦悩を慮ったりもする。


 最後に今回の回答者であられる(原左都子も30年程前からファンである)社会学者・上野千鶴子氏の回答を端折って紹介しよう。

 困りましたね。アラフォーでこんなに「夢見る夢子ちゃん」状態では。 今の生活がイヤだからリセットしたいだけとしか聞こえません。 今現在の結婚生活もあなたの「夢」じゃなかったんですか? 大丈夫です。こんなにワリの合わない気分がするのは子どもが小さいころだけ。 「子ども中心の生活」なんてすぐに終わります。 あなたは子どもをひっかかえて海外生活することも可能だったはずなのに、いったいあなたは外国で何をしたいんですか? 学生生活ならお客様で済みますが、そこで暮らしを立てるなら死にものぐるいのはずです。 結局あなたの言う外国とは「ここではない場所」を意味しているんでしょう。 年齢をとって子どもを産む良い点とは、キャリアや気持ちの上で余裕が持て子育てを楽しめる事です。 せっかく持てたチャンスを楽しまなくちゃソンじゃありませんか。 (以下略)

 上野千鶴子氏のご回答に同意申し上げる事が出来るべく、現在我が子が順調に成長してくれている事を実にうれしく思う私だ。 

ネット上一媒体の「ブログ」も冬の時代到来か?

2012年10月25日 | 時事論評
 本日、とある用件で知人にメールにて連絡を取ろうとしたところ、「メールを届けられない」とのメッセージが英文にて返って来た。
 そう言えば、この知人とは1年以上連絡を取っていなかった事に気がついた私だが、おそらくメールアドレスを変更したのであろう。

 それならば電話にて連絡しようか?と考えたものの、元々電話番号を確認していない事にも気付いた。 
 今時個人情報保護観点もあり、私ならずとも、よほどの懇親の仲でもない限り連絡先詳細を伝え合わず、とりあえずメールアドレスを教えるとの人間関係が世に急増しているのではあるまいか?
 加えて私の場合、懇親の仲以外の方々には重要用件がある場合を除きこちらからマメに連絡を取るタイプの人間ではない。 
 当該人物とは現実世界で知り合ったのだが、連絡手段をメールというネットのみに頼っていた事を多少反省しつつ、時候挨拶メールでも送信して、もう少し定期的に連絡を取る努力をしておくべきだったかと考えたりもする。 この人物ならではの専門情報を得たかったのだがその目的が果せず終いなのに加えて、今後一生に及び縁がなくなったのは残念だ…。
 ネット繋がりのはかなさを少し思い知らされる出来事だった。


 話が変わるが、10月に入ってから新たに放送されているNHK連続テレビ小説「純と愛」に於いて、先週、愛(いとし)役の男優が興味深いセリフを発していた。
 この愛(いとし)君とは、心に大きなトラウマを抱え人間の顔をまともに見れないとの役柄設定なのだが、新たな就業先を考慮するに当たり“人間の顔を見なくて済む職種”を主人公純と共に模索するシーンがあった。 
 「パソコンに向かう仕事なら人の顔を見なくて済むじゃん!」との純のアドバイスに対して、応えた愛君の返答と同様の思いを抱いている私だ。
 愛君曰く、「パソコンの仕事は既に経験済みだが、ネット世界の中身とは世界中の何千万人もの人々の“悪意”が渦巻いている世界だ。 それを見るのは現実世界の人の顔を見るのと同様につらい。」 (記憶のみに頼っているため、セリフ内容が正確でない場合お詫びします。)

 私自身も幾度となく本エッセイ集内で述べているが、現在私はネット上の活動を最小範囲に留めている。
 それは5年程前に当「原左都子エッセイ集」をネット上に公開後1年半程が経過した頃より、ネット世界に違和感を抱き始めたからに他ならない。
 当初は不特定多数の見知らぬ読者の方々に恵まれつつ順風満帆のスタートラインを切った本エッセイ集であるが、アクセス数が増大するにつれ望まない反応が増殖し始めるのはネット世界の常であろう。
 ネット上とは言えども、自分がお付き合いする相手の“分別作業”は自己責任に於いて実行するべきと考えた私は、とりあえず我がエッセイ集の「コメント受付基準」を設定し、さらにその後「コメント欄閉鎖」に踏み切った。  加えて、ネットコミュニティへの参加を最小限に留め、“コミュニティ内友達申請制度”に関しては基本的に参加しない意向を決定した。
 その措置が正解だったからこそ、私は今尚このように「原左都子エッセイ集」をネット上に公開し続けられていると判断している。

 先だっての朝日新聞に於いて、歌手の今陽子氏が 世界規模で幅を利かせているネットコミュニティ Facebook (どうやら経営難らしく多額の経常損失を計上中のようだが)を褒め称える内容の記事を発見した。
 今陽子氏曰く、「私のような“年配者”こそがこのようなネットコミュニティを楽しむべきだと思う。 私がフェイスブックに登録して以降、世代を問わず様々な反応が届くがそれが今現在大いなる刺激になっている。 特に年配者の方々に、このようなネットコミュニティを楽しむことを奨励したい」云々…
 原左都子が推測するに、著名人であられる今陽子氏の場合、背後にフェイスブックの管理人がおられるのではなかろうか?? そのバックの人物が今氏に見せる画面を選別している可能性があるように推測するのだが、どうだろう?  あるいは、今氏にとってフェイスブックがネットコミュニティ初体験だったのかもしれない。 おそらく芸能人として多忙であられる今氏がネットに没頭できるはずもなく、何らかの機会でフェイスブックに登録してみたら思わぬ多くの反応が飛び込んで来て感激するとの、ネット初期体験段階なのかもしれない……
 
 今一度、原左都子の私論を述べると、ネット上の見知らぬ相手からのプラス反応に感激できる賞味期限とは1年、長くて1年半程度ではなかろうか?

 いえいえ、これはそもそも現実世界で如何なる人間関係を築きつつ生きてきたかにより大いに左右される話であろう。
 私の場合は、やはり面と向かっての人間関係に今後共重きを置きたい。 ネット上で高評価されたり、後進より何らかの指導を煽られる事ももちろん嬉しく、それにお応えしたい思いも山々だが、相手の顔が見えないお付き合いには限界を感じざるを得ない。


 ところで(私は断じてファンではないし、どうでもよい話なのだが)、AKB48のメンバー・前田敦子氏(21歳)が、2009年3月から開設したAmebaブログでのブログ更新を終了すると発表した、とのネットニュースの報道である。
 その記事の締めくくりに、本人が「さぁ急ではありますが、このブログで最後になります;」と、ブログの終了をさらりと報告したとのことだ。
 ところがこの宣言はあくまで表向きのものらしく、その本性とは「このままブログを辞める、とは違いますよ; 新しいサイトができるまでまっててください! すぐに会いましょうー!!」とブログ移籍を匂わせるコメントを残しているらしい。

 またまた話が変わるが、先だっての10月22日に私が「原左都子エッセイ集」を5年前より登録していた edita とのネットブログコミュニティがそのサービスを全面終了した。 その去り際の素晴らしさを私は評価するものの、どうやらこちらも上記AKB48の一メンバー同様に、新たなサービスを打ち上げる風のコメントを残している…

 そうだよなあ。 芸能人にしろ、ネット上の営利組織にしろ、その最終目的は「営利」に決まっている。
 そうした場合、現状のネット上の個人ブログ展開(たとえ著名人と言えども)、あるいはそれを“鴨”とした営利組織がさほどの収益が望めない時代背景となっていると私は推測するのだ。


 最後に私論を展開しよう。

 上記の様々なネット上の現在の事情を鑑みた場合、その現実に“人の悪意”故の限界が表出する時代と相成っているのではではあるまいか?

 例えば“つぶやき”を売りとしているネットコミュニティについて述べると、 私は一切の“書き込み”経験がない一方、見知らぬ複数の相手に「原左都子エッセイ集」に関する誹謗中傷を書き込まれた経験がある。(その書き込みが現在尚ネット上に公開されているようだが…)  誰でも安易に“つぶやき”を書き込めるネット組織が検察の捜査を受けた結果その活動を多少自粛しているとも見聞している。

 上記の今陽子氏がおっしゃるように、確かに“お年寄り”にとってはネット世界とは現実世界では叶わない、世代を超えた交流が可能なミラクル世界であるのかもしれない。
 それを一時のミラクルと解釈するのではなく、せっかく出会えた相手とできるだけ長くかつ美しい人間関係をネット上で存続させる「努力」こそが欠かせないのではなかろうか?

 それ程“年寄り”ではない私も、ネット上で知り合い私の意思(及び“好み”)で“分別”した読者の方々との関係こそは大事に育みたいと思いつつ、既に5年来のお付き合いをして下さっている方々が少数ながら存在することに感謝申し上げる次第だ。

日本政府こそ“フクシマの影響”に本気で対処せよ

2012年10月22日 | 時事論評
(写真は、朝日新聞10月17日 「腕4本『フクシマの影響』」 記事より転写したもの)

 先だって仏国営テレビが、サッカー日本代表GK川島永嗣選手に腕が4本ある上記の合成写真と共に、司会者が「フクシマの影響」と発言した“事件”を皆さんもご存知であろう。


 冒頭から私論を述べるが、原左都子はこの“事件”に関して、仏国営テレビの放送内容を“ある観点より”好意的に捉えている。
 
 私がこの“事件”関連のニュースに最初に接したのは、NHK昼のニュースに於いてだった。
 確かに私も当初は、仏テレビが川島選手の腕4本の合成写真までわざわざ作成して「フクシマの影響」を語った事に多少の違和感を抱いた。
 ところが順を追いつつ仏テレビのニュース内容を把握するに、要は、川島選手の対フランス代表チーム試合における素晴らしい活躍ぶりを褒め称える趣旨と理解したのだ。 私はこのサッカー試合自体を見ていないが、川島選手の手が4本ある合成写真まで作成する程の“超人的なシュート防衛力”試合だったと重々把握できた。 
 しかも、司会者は「日本のGKはとてもすばらしかった」と褒め称えている。 これは娯楽番組のようだが、フランスが敵対チームGKの超人的な活躍をこのように取り上げる事は(川島選手ご本人が如何なる感想を持たれたかは存じないが)、日本サッカーチームにとって決してマイナスではないとの感覚を抱くのだ。

 ところがニュースの続きを紹介すると、このテレビ内容に日本政府が食ってかかったと言うではないか。
 まずは、在仏大使館がテレビ局に対し「放射能の被害を懸念する被災者の心情を害した」として抗議したらしい。 
 引き続き、民主党政権の藤村官房長官も16日の記者会見に於いて「福島原発事故に関し不適切な表現があった」と不快感を表明したとのことだ。 この直後に在仏大使館は、「被災した方々の気持ちを傷つけ復興に向けた努力を阻害するもの」との書簡を仏国営テレビ局へ送りつけたらしい。


 再び私論に入るが、私は「2011.3.11 フクシマの悲劇」は世界規模で永遠に忘れ去ってはならない地球上の大惨劇と捉えている。

 その意味でも、(合成写真を作られた川島選手ご本人には少し申し訳ないかもしれないが)フランスという我が国から遠く離れた国に於いて、このように3.11に我が国に勃発したレベル7放射能汚染事故を振り返る内容のテレビ放映が流れた事実は、今後の福島復興にプラスに機能すると捉えるのだ。 チェルノブイリもそうだが、それに匹敵する程の大事故だった福島原発事故の惨劇を世界人民が忘れ去らないためには、世界中のメディアが福島原発事故を幾度となく繰り返し取り上げてくれるのが一番の方策と私は考える。
 
 にもかかわらず、日本政府が何故即刻仏国営テレビに対して不快感を表明し、激しく批判したのだろう。  それは政府こそが福島原発事故をうやむやにしようと企み、矛盾に満ち満ちた「脱原発政策」を現在虎視眈々と進めているからに他ならない。


 本日(10月22日)の朝日新聞報道によると、野田内閣支持率は過去最低の18%にまで落ち込んでいるとの事だ。
 当然の成り行きであろう。
 今回の本エッセイ集テーマである「原発」に関しても、大震災勃発まもなくの時期に民主党政権は「原発ゼロ」を掲げていたはずだ。 それが大震災から1年も経過しないうちに、何故政権は事実上原発再稼働を容認するまでに政策転換してしまったのか??

 東日本大震災当時官房長官に任命されていた(現経済産業相)枝野氏だけは、とことんこの政策に反発するのかと私は個人的に期待していた。
 ところが「2030年代の原発ゼロ」を目指していたはずの枝野氏は9月中にもその方針書を作るはずだったのに、「新エネルギー基本計画」作成委員達から“方針があいまい”との理由で異論が出て、議論が進まない有様だ… 
 (民主党政権閣僚内で唯一原左都子が信頼している枝野さん、もっとしっかりしてよ!と言いたい思いだが、民主党政権自体に終末観が漂っている現在、既に救いようがないのかしらねえ…。) 

 片や、惨状の福島原発現場に目を向ければ、今現在尚何十ミリシーベルトとの高放射能を放出し続けている危険な状態だ。  これを何故今現在日本のメディアがもっと大々的に国民に伝えないのかに関しても不可解な思いの私だ。 
 メディアが現在伝えている情報とは、(市民が楽しそうな風景と共に)やれ福島県内では今秋は運動会が行われただの、(漁民の活気付いた影像を前面に出して)漁港では海産物が水揚げされただのの影像ばかりだ。
 なんで、日本のメディアとはこれ程までに軟弱なのよ…


 今一度、元医学関係者でもある原左都子が警告するが、放射能の影響とは人の目には見えないのに加えて、忘れ去った未来に被災の程が表向きに到来するのが特徴である。(一例として、チェルノブイリ事故後の実態を皆さんに参照して欲しいものだが。)

 自己の利益にがんじがらめになっている政治家達にその救済を求めても、何らのフィードバックがないのが現実であることは歴然としている。
 ここは科学者等見識者に頑張って欲しいと思っても、もしかしたらその分野の人々も「賞」をもらうことに躍起になっているのかもしれないしねえ…
 それでは市民活動に活気付いている市民達にその行方を委ねようとて、それらの人々も日々の生活に精一杯なのではあるまいか?

 ここはもう、自分自身で我が身を守るしかないような気がする。

 それにしても原左都子が一つだけ願うのは、国の責任として、福島原発及び瓦礫処理施設は元より、現在稼働している全国の原子炉の放射能排出量の正確なデータを今後何十年に及んで日本国中に日々報道し続けて欲しいということだ。

 これが庶民にとって我が身を守るための一番の指針となるのではなかろうか。

誤認逮捕の悲劇と人間の悪意の性(さが)

2012年10月20日 | 時事論評
 「原左都子エッセイ集」をネット上に公開後しばらく経過した頃その世界に違和感を抱き、現在はネット上の活動を最小範囲に留めている私だが、最近とみにパソコンに向かう事に嫌気がさしている…
 
 そんな折一昨日エッセイ執筆中、パソコンに不具合が生じ修復に手間取るトラブルが発生した。 
 文字入力機能に異常を来たしている様子だ。 (凄まじいばかりの猛スピードでキーボードをぶち殴るがごとく叩き打つ私の場合、エッセイ執筆中のトラブルは普段から数多いのだが…) 
 もしもパソコンハード(特にキーボード)が根源的にぶっ壊れている場合の損失を鑑みてみたところ、さしあたって私の場合メールが届かない程度の不都合しかないことが判明した。 それにしても、とにかく今執筆中の「原左都子エッセイ集」のみは執筆意欲が盛り上がっている今この時間にどうしても完成させたい。

 初期画面に戻してみたり、はたまたログオフしてみたりの試行錯誤を繰り返すのだが、文字入力の異常は回復しない。
 (もういいや、これを好機にいっそパソコンを廃棄処分にしてしばらくネット世界から縁を切ろう!)などとの考えが我が脳裏に本気で浮かんだりもした。
 それと同時に本エッセイ集の数年来の一読者の方(メカに強く私がパソコン扱いに困惑した時の師匠でもあられる方なのだが)より、少し前に“パソコンの復旧術”をご伝授いただいたことを思い出した。
 その手法にて我がパソコンは見事に蘇ったとのいきさつで、現在尚私は我がパソコンに向かう事が叶っている。


 それにしても現在は世界規模かつ目まぐるしいスピードで、ネットを取り巻く事件が多発、かつ悪質化している現状だ。

 日本人ハッカー(未だ真犯人は特定されていないようだが)がもたらしたパソコン遠隔操作によるネット上への犯罪予告事件に於いて、警視庁が4名の誤認逮捕者を出すとの醜態を晒した事件を、皆さん既に重々ご承知のことであろう。

 この事件に関して、遅ればせながら先だって警視庁長官は「誤認逮捕」を認め謝罪した模様だ。
 「誤認逮捕」された4名の“被害者”の横顔を、朝日新聞記事より引用(カッコ内は刑事手続き)して紹介しよう。
 東京の19歳男子大学生(保護観察処分が確定)、大阪の43歳アニメ演出家男性(起訴後、釈放)、福岡の28歳無職男性(処分保留で釈放)、三重の28歳無職男性(処分保留で釈放)。
 この被疑者4名の皆さん全員が、警視庁による逮捕後弁護人を通して犯行を否定しているにもかかわらず、その後の取調べにより(おそらく従来通りの“強引な取調べ”及び“十分な実況検証”なきままに)「自白」を迫られ、それに従ってしまった現状のようだ。
 中でも我がメディア情報よりの記憶によると、上記19歳の男子大学生など「大学生活がうまく行かずむしゃくしゃして犯行に及んだ」などとの警視庁側の意向に従った「自白」を強要されている始末だ…。


 人間が内面に潜ませている「悪意」の“性(さが)”とは実に恐ろしい存在である事を再認識させられる事件である。

 現在に至っては世界規模で多発しているネット上のハッカー被害に関して、さほどの調査及び検証の努力もせず、安易に表面的パソコンデータのみを“法的証拠物件”として上記被疑者達を逮捕・起訴するに及んだ警視庁の「悪意」の程は計り知れないものがある。
 その職種のプロとしてこの世を生きている限り、時代に乗り遅れるとの失態により“誤認逮捕者”を複数出した事実など許されるはずもない。 しかも、今回はその謝罪が実に遅かった。 これはまさしく警視庁側の「悪意」と表現するべきであり、誤認逮捕者の皆さんに謝罪して済ませられる話の域を超えている。

 そして「真犯人」とやらの日本人らしき方。
 あなたの“悪意”の程を指摘せねばならないのは当然の事であろう。
 もしかしたら、絶対に自分は警視庁に捕まらない自信があって「真犯人」を名乗り犯行声明を多数の報道組織に送りつけているのであろうか?
 ところが残念な事に、おそらくあなたは上記の“誤認逮捕”を反省した警視庁より近いうちに検挙されるであろうと私は推測する。 何故ならば、国家組織も大失態が国民に表沙汰になった直後は、短期間だけ頑張る気になるようだからねえ。 (その後はまたいつもの官公庁組織の“お役所仕事”に戻ってしまい失策を繰り返すのは見え見えだけど…

 とにもかくにも、この事件に於いて「誤認逮捕」された被害者の皆さんが、なるべく早い時期に今後の人生を取り戻されることを祈りたい思いだ。


 最後に、原左都子の私論に入ろう。

 冒頭でも記した通り、私がネットに係っていると言ったところでそれは当「原左都子エッセイ集」に関してのみである。 それ故に、この私が上記のようなネットハッカー被害に今後遭遇する危険性は低いと見ている。

 それにしても、どうしたことなのだろう。
 自分がかかわり合った事がなければ何処のどなたかも知らないネット上の相手に、「誤認逮捕」被害をもたらしたい「真犯人」の思想とは如何なるものなのか? (一部の憶測として、今回の事件の「真犯人」と「誤認逮捕者」が共犯との見方もあるようだが…???) 
 もちろん、現世には“愉快犯”なる犯罪者も大勢存在する事は重々承知しているが…。

 私としては、個々が抱えているコンプレックスや鬱憤の打開策として、まずその原点を探る作業から始めて欲しい思いが強い。
 その作業を指導するのは教育の役割であろうが、国家自治体教育がその使命を果せない現状に於いて、やはり自分自身でその作業を実行するしかないであろう。

 少なくとも自分の怒りや悲しみをぶちまける相手とは、見ず知らずのネット上の対象者ではなく、自身の身近に存在する近親者であって欲しいものだが…