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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

偏差値教育の所産

2008年05月31日 | 教育・学校
 今の時代、何でもかんでもランキング。 これ一体どうなってるの? 

 あらゆる事象の成果をその実績の詳細を見ずして数値化し序列を付けて、そのランキングの数値のみに一喜一憂するこの嘆かわしい国民性に、一体全体誰が成り下がらせたのか?


 このブログの世界とてそうだ。

 まずは毎日ブログ作成画面を開くと自動的に集計されているアクセス数。まあこれに関しては、ブロガー個人にとってどれ位の読者の方々が自分のブログを覗いてくれているのかを把握する目安となるため、私も日々チェックはしている。

 それからランキングだ。自分のブログへのアクセス数が全体の何位になっているかの単純アクセス数によるランキングである。
 このアクセス数ランキングがブロガーのコミュニティにもあるのだ。まさか登録すると自分のブログをアクセス数や読者からの支持数で自動的にランク付けされるとは露知らず、より広い読者層への公開を目指しこの私もブロガーコミュニティにブログを登録しているのではあるが、この勝手なランキングには辟易としている。
 ブログとは元々日記から発展したホームページである。ネット上で公開されている以上公開性をその使命とはするものの、本来たかだか個人的な日記である。そのような性格のブログにランキングなる考え方が本来相容れるはずもないため、こんなものが存在するとは私は開設以前には想像だにしていなかった。
 ブログとは当然ながらその個性は多様、それぞれのブログが取り扱っている分野や手法、趣旨はすべて異なる。そんな種々雑多、十人十色のブログを単なるアクセス数やブログ個々の読者の支持数でランク付けすることに何の意味があるというのか。
 ブログをテレビの娯楽番組のようにひとつの娯楽の世界と考え、このランキングを人気投票程度に捉えて目くじら立てずに楽しんでいればよいのか? もしそうだとすると、そういう趣旨で綴っていないブログにとっては、何でもかんでも一緒くたにされて勝手にランク付けされ、あなたは何位だと一方的に押し付けられても迷惑千万な話としか言いようがない。


 前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。

 何でもかんでも数値でランク付けしたがるこの国民性は、私は学校における偏差値偏重教育の所産であるように思えてならない。
 偏差値による学校のランキング、学校教育における成績の席次評価、テストにおける点数重視、すべて数値による教育成果のランク付けであるが、これが現在の学校教育の実態である。

 数値にばかり惑わされ一喜一憂してしまうと、実態が捉えられなくなり、またその後の発展が望めなくなる。
 例えば、学校のテストの点数について考えてみよう。大抵の親や教員は子どもの学力をテストの点数で捉えてそれで終わりにしているという失敗をしでかしてはいないか? これには大きな落とし穴がある。当然ながらその中身の把握が肝心だ。失っている点数部分の分析こそが子どものさらなる学力向上につながる。今の教育において、点数にばかりこだわりこの作業をし忘れている弊害は大きいのではあるまいか。
 学校の席次に関しても、例えば100人中10位くらいに入っていればいいだろうと安易に考えていると、実は1位から10位までに大きな学力の開きがあり、10位と100位の学力差が僅差だったりすることもある。やはり個々の学習理解度の中身の把握が肝心だ。
 偏差値も同様だ。偏差値による学校のランク付けはいまや一般的であるが、同じ学校内での成績上位者と下位者との学力の開きはどこの学校でも大きいのが実情であろう。生徒個々の学力の把握、対策への取り組みは侮れない。


 とは言えども、今の世の中は既にあらゆる分野においてランク付けが蔓延り、数値偏重を不本意ながら強要されてしまう。
 こんな歪んだ軽薄な環境の中で確かな実力を育んでいくには、数値に惑わされることなく自分を見失わず客観視し、事象の実態を分析、把握し、精進を続けることだ。

 ランキング上位に君臨できると人間の本性としては心地よいものではある。だがそのようなまやかしの心地よさに酔っている場合ではない。
 最後にものを言うのはやはり“確かな実力”であろう。 
 
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貨幣愛は歪みか?

2008年05月29日 | お金
 5月26日(月)朝日新聞夕刊のコラム「窓」において、論説委員が記した「貨幣愛のゆがみ」と題する論説記事が掲載されていた。

 今回の論説記事を何度か読み返してみたのであるが、如何なる所得層の読者を対象として書かれた記事であるのか捉えにくいのだ。 どう考察しても一般庶民の読者を対象には書かれていないように私は判断する。
 まさか、なけなしの所得の中からやっとこさ一部を捻出して、ちまちまと預貯金に回している一般庶民を批判することを趣旨とした記事ではないと信じたい。


 まずは早速、この論説記事の内容を以下に要約してみよう。

 日本では、それぞれの家計が持つ金融資産の総額が昨年末で1545兆円、うち現金預金は784兆円にもなる。これは世界でも突出して多い。
 お金はあるに越したことはない。貨幣は富の効用を合理的に計算する重宝な尺度である。しかし問題も多い。このものさしが歪んでいるのは、他人の事や世の中の事より自分にかかわる事を大きめに測ってしまう点だ。将来を見通すときも、生身の個人の利己心が増幅されてしまう。
 預金は「なにもしない」という逃げ道も提供する。預けてさえいれば元本は減らず、利息も付く。しかも使い道を決める難しい判断も避けられる。こんな貨幣への愛に流され過ぎると人間社会が時間をかけて進める営みの大切さを見落としてしまう。例えば、環境保護や少子化対策への投資だ。個人が自分のことに「合理的」になればなるほど、こうした投資が抑えられ事態は深刻になる。
 行き過ぎた打算にはブレーキをかけるべきだ。貨幣愛が人々の思考や行動にもたらす歪みを正す知恵と想像力が求められる。
 
 以上が、朝日新聞論説記事の要約である。


 では、私論に入ろう。

 まず、上記記事の中に記載されている家計における現金預金額総額784兆円を国民一人当たりの金額に計算すると、約650万円程になる。これは日本の総人口を1億2千万人として単純に割り算した値である。4人家族だと一家の現金預金額は約2600万円という計算になる。もちろん、もっと多額の現金預金を貯め込んでいるご家庭もあろう。
 ところが、この金額を国民総数で平均した金額と各家庭の実態とを比較して一喜一憂することにはほとんど意味がないことは皆さん既にご承知であろう。なぜならば、各家庭間の所得格差は激しく、ごく一握りの超富裕層が巨額の現金預金を保有していることにより、全体の平均値を押し上げてしまうからである。

 この論説が、上記のごく一握りの超富裕層を対象として書かれた記事であるのならば私もある程度納得できる。余剰資金を社会福祉等の投資に回さず、自己の利益のためだけに預金に回すのは歪んだ貨幣愛だとする論説者の見解にも一理はある。
 ただ、そもそも経済とは貨幣が循環して成り立っているものである。 預金に回された貨幣とて経済活動の原資となり循環し、政権による歪みは大きいがゆくゆくは経済発展や社会福祉にもつながるべきものである。 家計における預金行為が“「なにもしない」という逃げ”であるとか、“個人が自分のことに合理的になった結果”であるとか、極めつけは“行き過ぎた打算”であるという論説はどのような発想から来るのか私には理解しかねるのだ。

 そもそも預金(タンス預金も含めて)とは、一般庶民にとっては金融資産の中ではローリスクローリターンの一番安全な資金の運用法である。
 一般庶民に貨幣愛もへったくれもあったものではない。万が一の疾病や傷害に備えるため、マイホーム購入資金の一部に充てるため、あるいは子どもの教育費のため、はたまた年金も満足にもらえない老後の生活資金のために、なけなしの所得の中から精一杯捻出して預金に回しているのが実態であろう。


 この朝日新聞の記事は2点において過ちをしでかしている。その一点は経済活動における貨幣の循環性を無視している点である。そしてもう一点は朝日新聞一般読者の視点を見失っている点である。
 朝日新聞が一般紙として生き残りたいのであれば、論説委員さん、もっと一般庶民の実生活に配慮した経済論説をされてはいかがか。
 
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足を洗おう!

2008年05月27日 | その他オピニオン
 最初に断っておくが、今回の「足を洗おう!」は決して“悪い行いをやめて真っ当に生きよう”などとお節介を焼くことを趣旨とした記事ではない。私は他人へのお節介の趣味は元々あまりない方である。
 今回の記事は純粋に足を水で洗う話について綴ったものである。

 本日の東京地方の予想最高気温は27度、二日連続の夏日である。場所によっては30度を超える地域もあるようだ。こんな暑い日には冷たい水で足を洗うと気持ちがよいであろう。


 さて、人にはそれぞれ様々な生活習慣があることと思う。

 私は基本的に几帳面な性格の人間であるため、自分が自分に課した日々のルーチンワークがおそらく人より多いのではないかと思うのだが、その中のひとつに帰宅直後に“足を洗う”という習慣があるのだ。この場合の足とは靴を履いている部分のことである。(まさか、ふとももまでも洗いませんよ…)
 帰宅後、手洗い、うがいをする人はおそらく多いと思う。私も当然ながらそれもこなす。その上で必ず足も洗うのだ。夏の暑い日はもちろん冬の凍てつくように寒い日にも洗って靴下を履きかえる。
 女性の場合ストッキングをはいたりすることもあるため、素足になるのは結構面倒だ。それにもめげず、帰宅後何をさておいても素足になって足を洗う。

 私にとってこの風変わりな習慣は、物心が付いた幼い頃から既に身に備わっていた。私の父親(既に他界)が極度の綺麗好きであったため、汚れた足で室内を歩く事を嫌ったのだ。そのため一家でこの習慣を励行していたという訳である。
 小さい頃は、庭の水道で洗ってきれいなサンダルに履き替えてから家に入った。娘時代以降は、人目のある庭で妙齢の娘が足を洗っている姿はどう考えても怪しい世界であろうため、帰宅後風呂場へ直行してシャワーで洗うのだが、その方式で現在も続行中である。


 それではここで、帰宅後すぐに足を洗うことの効用について考えてみよう。
 もちろん、洗わないより洗った方が自分自身の足の清潔は保てるであろう。 一方、私の父親が趣旨としていた室内の清潔についてはどうであろうか。足が土や埃等で相当汚れていた場合は当然効用はある。また、洗った直後も効果はあろう。ただ、時間の経過と共に体内の老廃物等が汗になって足からも出てくるし、室内を歩いているうちに汚れを足が吸着もする。足を洗った事により室内の清潔を長時間保ち続ける事が可能とは考えられない。
 そんなことは少し論理的に考察すればすぐわかることなのに、なぜ父は家族全員に帰宅後すぐ足を洗う事を強要したのか。それは自分の心の平静を保つためである。 要するに家族皆が帰宅直後に足を洗う事の第一の効用は、父親のひとりよがりの安心感の確保にあったのだ。
 実はそのことに私は小さい頃から気付いていて、父は自分勝手だと内心反発しつつ洗っていた。活動的な子どもにとって帰宅後いちいち足を洗うことは大変面倒な作業なのだ。
 
 ところが習慣とは恐ろしいもので、年月が経過すると今度は自分がそれを実践しないと落ち着かなくなる。そうこうして、一人暮らしを始めてからも、家庭を持ってからも私はこの習慣を続行している訳である。
 大袈裟に言うと、一人の独裁政治や独裁宗教が築いた社会的規範や慣習がその善悪の如何にかかわらず長年に渡り人民に受け継がれていくことと共通している現象である。

 父親似でやはり綺麗好きな私ではあるが、家族にはこの習慣を一切強要していない。自分ひとりで黙々と実践するのみである。その効用がひとりよがりであることを十分理解できているからである。
 とは言え、遺伝や環境の力は恐ろしいものである。我が子が長年に渡り毎日帰宅後必ず手を洗い、うがいを励行している。 その習慣を子どもに奨励はしたが決して強要していない私は、つい最近その理由を子どもに尋ねてみた。「何で毎日、手を洗ってうがいをしてるの?」

 中学生の娘曰く「単なる気休めなの。」  我が子ながらご立派である。


 暑い日に、くだらない話に最後までお付き合い下さいまして恐縮です。
 皆さんの一風変わった生活習慣等、教えていただけましたらうれしく思います。 
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傘を返して欲しい…

2008年05月25日 | 恋愛・男女関係
 出逢いにはいつも別れが付きまとう。
 どうせ別れるのならきれいに後腐れなく別れたいものであるが、なかなかそうはいかないのが別れというものの特質でもある。

 こんな雨が降り続く週末の日曜日には、私の脳裏にひとつの風変わりな“別れ”の記憶がよみがえる。
 今日は、そんな若気の至りの別れを少し綴ってみよう。


 彼との出逢いは六本木のディスコだった。未成年者お断りの、入り口で身分証明書を提示して入場する少しアダルト系の比較的落ち着いたディスコだ。
 混雑度もそこそこで全体が見回せる。 ロン毛で鼻の下にヒゲを生やした少しニヒルな独特の雰囲気の彼は目立っていて、私も既にその存在を把握していた。
 ディスコで声をかけられる(当時は大抵男性が女性に声をかけたものだが。)のは、自分の座席かダンスホールで踊っている最中というのが多いパターンだ。が、今回は違った。何がしかの用で私が通路をひとりで歩いている時、そのニヒルな彼に引き止められたのだ。存在を把握していた男性に声をかけられるとは、意外とラッキーな展開である。と言うのも、当時はこういう場では女性はまだまだ受身の立場なため(少なくとも私は。)、意に沿わない男性に声をかけられた場合の対応が面倒なのだ。そういう場合もちろんお断りするのだが、しつこく付きまとわれる場合もあって迷惑する場合もあるからだ。
 しばらく通路で二人で立ち話をしたのだが、この場では通行人の邪魔だし、一緒に飲もうということになり彼のグループが私のテーブルまで移動してきた。こちらは女性2人、あちらは男性が3人程だったと思う。
 私の友人も含め他のメンバーのことは記憶がないのだが、とにかく私とそのニヒルな彼はすっかり意気投合し、飲みながらあれやこれやと語り合った。そして、また会う約束をした。

 彼は美容師であった。フリーのカリスマ美容師を目指し当時原宿の美容院で修行中の身だった。片や当時の私は医学関係の専門職サラリーマン。そんな異文化コミュニケーションが若くて無邪気な私には何とも新鮮で刺激的だった。
 彼にはエスニックの趣味があり、メキシコ料理を好んで食べていた。それで、デートの時にはいつも彼の行きつけのメキシコ料理店へ行く。それまで辛口の食べ物を好まなかった私も、テキーラやマルガリータを飲みながら彼と一緒に唐辛子等の香辛料の効いたトルティーヤやタコスをヒーヒー言いながら食べたものである。
 エスニック調の皮革品を好む彼の鞄を二人で選ぶために、原宿の彼の職場の近くのショップを探索したりもした。
 そして、デートの締めくくりはいつも私鉄沿線にある彼の部屋で飲むのだが、オリエンタルなムードが漂う独特な雰囲気の彼の部屋が私はとてもお気に入りだった。バリ島が好きな彼の部屋はバリ島の民芸品であるバティックやシルバー製品などで装飾され、私が訪ねるといつもインドのお香をたいてくれた。そしていつも二人のお気に入りの音楽を聴いた。


 ただ、私の頭の片隅には彼との関係は長くは続かないであろうとの不安定感がいつも蔓延っていた。お互いに自立心旺盛でお互いに自分の夢を描いていて、お互いに自己主張が強過ぎるのだ。
 いつかは別れが来る、その別れは意外と早いかもしれないという不安定感が、返って二人の関係を加速させていたのかもしれない。

 そして何ヶ月か経過し、表向きの付き合いの楽しさと脳裏をかすめる不安定感とのギャップはさらに深まっていた。
 ある日、もう潮時かと悟った私の方から別れ話を持ち出す決意をした。彼の脳裏にも同様の考えはあったはずだ。だが、唐突に私の方から具体的な別れ話を持ち出された彼は動揺した。負けん気の強い彼は別れを認める。それも私は計算済みであった。そして、二人は別れることになり私は彼の部屋を出ようとした。
 その時、彼が言う。 「傘を返して欲しい…」 と。
 
 雨の日に彼の部屋から帰る時に借りていた安ビニール傘をまだ返していなかったのだ。「わかった。今度届けに来る。」そう言って私は去った。

 後日、私は彼の留守中を狙って彼の部屋を訪れ、鍵のかかった玄関先のドア付近にビニール傘を届けた。傘には再度お別れの手紙を綴って巻き込んでおいた…。
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個人情報漏洩と悪徳商法

2008年05月23日 | その他オピニオン
 先日、私の携帯電話の通話の呼び出し音が鳴る。嫌な予感がする。なぜならば、私は携帯電話はメール機能以外はほとんど使用していないに等しく、滅多な事で通話呼び出し音が鳴るはずがないからだ。

 とりあえずそのまま放置して様子を見た。留守録が作動し、発信者は何がしかを録音している様子だ。

 録音が終わった様子なので、さて聞いてみよう。

 案の定である。
 聞いたこともない化粧品会社の担当者の●●と名乗る女性からの電話で「先日お客様が申し込まれた無料サンプルを○○運送便にて発送したが、届きましたでしょうか。万が一届いていない場合は会社の方までご連絡下さいますように。」との録音である。そのような無料サンプルの申し込みは一切していない。寝耳に水の電話である。
 何かの手違いか、誰かのいたずらか、はたまた、間違い電話か??? 少し気味が悪い。
 ははあ、少し読めてきたぞ。これは新手の悪徳商法に違いない。これだけ“振り込め詐欺”等が横行し警戒している人々が多い時代に、顧客をうまく勧誘するかあるいは商品を強引に売りつける新手口であろうと推測した。
 仮にこのような電話を受け取った場合、通常「いいえ、そのような無料サンプルの申し込みはしていませんが。」と応対する。するとすかさず「では、お送り致しますので、ご氏名、ご住所等をお教え下さい、等々…。」と返してくるのであろう。後は執拗な押し売りとなるのがお見通しである。 
 とにかく、電話に出ず留守録対応にしたのは大正解で、この種の電話は無視を押し通すに限る。


 いずれにしても、私の携帯電話番号という個人情報がどこかから漏洩していることは間違いない。
 私の場合、冒頭で書いた通り携帯通話はほとんど使用していないため、携帯電話番号をやたら滅多ら公開してもいない。そのため個人情報の公開先が自分で特定できるのだ。
 そこで私の携帯電話番号の公開先を思い出しつつ、誰が私の個人情報を漏らしたのか、その利害関係等をあれこれと詮索してみた。(もしも痛くない腹を探られた方がこの記事をお読みいただいておりましたら、この場で失礼をお詫び申し上げます。)

 一番疑わしきはネット通販会社等の商品売買取引関係である。ショッピングの初期登録時に種々の個人情報を登録するシステムとなっている。こちらとしては個人情報保護の観点から、最低限の情報の入力にとどめたいのであるが、大抵は必須項目と称して種々の個人情報を入力しないと先に進めない登録システムとなっている。おそらくここで入力した携帯電話番号が何らかの理由により外部に漏洩している可能性が高い。表向きにはどこの通販会社も個人情報を目的外に使用しないことを明記しているのだが、個人情報の裏取引等がなされている危険性は否定できないのではなかろうか。

 
 話が変わるが、近年0120発信によるセールス電話が横行している。大手電信会社等の比較的知名度の高い企業がこの手口を使い家庭に電話をしてくる。0120発信の電話には私は一切出ないのであるが、しつこく何度も何度もかけてきて呼び出し音がうるさいため、着信拒否の手段を取ることになる。
 顧客にとって真にメリットを享受できる商品を紹介したいのなら、これ程広告手段が多様化した今の時代に他の宣伝媒体はいくらでもあろうに、何故に家庭にセールス電話をかけてよこすのか。電話というのはオペレーターの人件費だけで済む割には個別対応であるため売買契約の成約率が高くコストパフォーマンスが高いのであろうか。
 バックナンバー記事「今時電話使っているの?」で既述したが、突然の電話とは暴力に近いものがある。加えて一体個人情報をどこで入手したのか計りかねるが、本人が目的外の使用を同意していない個人情報を勝手にセールスに使用するのは個人情報の濫用にあたることを、発信者は肝に銘じるべきである。


 いずれにしても、個人情報とは公開してしまうと必ずや漏洩するものであると認識した上で、個々人が慎重に対応していくしか防衛策はないようである。
  
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