今の時代、何でもかんでもランキング。 これ一体どうなってるの?
あらゆる事象の成果をその実績の詳細を見ずして数値化し序列を付けて、そのランキングの数値のみに一喜一憂するこの嘆かわしい国民性に、一体全体誰が成り下がらせたのか?
このブログの世界とてそうだ。
まずは毎日ブログ作成画面を開くと自動的に集計されているアクセス数。まあこれに関しては、ブロガー個人にとってどれ位の読者の方々が自分のブログを覗いてくれているのかを把握する目安となるため、私も日々チェックはしている。
それからランキングだ。自分のブログへのアクセス数が全体の何位になっているかの単純アクセス数によるランキングである。
このアクセス数ランキングがブロガーのコミュニティにもあるのだ。まさか登録すると自分のブログをアクセス数や読者からの支持数で自動的にランク付けされるとは露知らず、より広い読者層への公開を目指しこの私もブロガーコミュニティにブログを登録しているのではあるが、この勝手なランキングには辟易としている。
ブログとは元々日記から発展したホームページである。ネット上で公開されている以上公開性をその使命とはするものの、本来たかだか個人的な日記である。そのような性格のブログにランキングなる考え方が本来相容れるはずもないため、こんなものが存在するとは私は開設以前には想像だにしていなかった。
ブログとは当然ながらその個性は多様、それぞれのブログが取り扱っている分野や手法、趣旨はすべて異なる。そんな種々雑多、十人十色のブログを単なるアクセス数やブログ個々の読者の支持数でランク付けすることに何の意味があるというのか。
ブログをテレビの娯楽番組のようにひとつの娯楽の世界と考え、このランキングを人気投票程度に捉えて目くじら立てずに楽しんでいればよいのか? もしそうだとすると、そういう趣旨で綴っていないブログにとっては、何でもかんでも一緒くたにされて勝手にランク付けされ、あなたは何位だと一方的に押し付けられても迷惑千万な話としか言いようがない。
前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。
何でもかんでも数値でランク付けしたがるこの国民性は、私は学校における偏差値偏重教育の所産であるように思えてならない。
偏差値による学校のランキング、学校教育における成績の席次評価、テストにおける点数重視、すべて数値による教育成果のランク付けであるが、これが現在の学校教育の実態である。
数値にばかり惑わされ一喜一憂してしまうと、実態が捉えられなくなり、またその後の発展が望めなくなる。
例えば、学校のテストの点数について考えてみよう。大抵の親や教員は子どもの学力をテストの点数で捉えてそれで終わりにしているという失敗をしでかしてはいないか? これには大きな落とし穴がある。当然ながらその中身の把握が肝心だ。失っている点数部分の分析こそが子どものさらなる学力向上につながる。今の教育において、点数にばかりこだわりこの作業をし忘れている弊害は大きいのではあるまいか。
学校の席次に関しても、例えば100人中10位くらいに入っていればいいだろうと安易に考えていると、実は1位から10位までに大きな学力の開きがあり、10位と100位の学力差が僅差だったりすることもある。やはり個々の学習理解度の中身の把握が肝心だ。
偏差値も同様だ。偏差値による学校のランク付けはいまや一般的であるが、同じ学校内での成績上位者と下位者との学力の開きはどこの学校でも大きいのが実情であろう。生徒個々の学力の把握、対策への取り組みは侮れない。
とは言えども、今の世の中は既にあらゆる分野においてランク付けが蔓延り、数値偏重を不本意ながら強要されてしまう。
こんな歪んだ軽薄な環境の中で確かな実力を育んでいくには、数値に惑わされることなく自分を見失わず客観視し、事象の実態を分析、把握し、精進を続けることだ。
ランキング上位に君臨できると人間の本性としては心地よいものではある。だがそのようなまやかしの心地よさに酔っている場合ではない。
最後にものを言うのはやはり“確かな実力”であろう。
あらゆる事象の成果をその実績の詳細を見ずして数値化し序列を付けて、そのランキングの数値のみに一喜一憂するこの嘆かわしい国民性に、一体全体誰が成り下がらせたのか?
このブログの世界とてそうだ。
まずは毎日ブログ作成画面を開くと自動的に集計されているアクセス数。まあこれに関しては、ブロガー個人にとってどれ位の読者の方々が自分のブログを覗いてくれているのかを把握する目安となるため、私も日々チェックはしている。
それからランキングだ。自分のブログへのアクセス数が全体の何位になっているかの単純アクセス数によるランキングである。
このアクセス数ランキングがブロガーのコミュニティにもあるのだ。まさか登録すると自分のブログをアクセス数や読者からの支持数で自動的にランク付けされるとは露知らず、より広い読者層への公開を目指しこの私もブロガーコミュニティにブログを登録しているのではあるが、この勝手なランキングには辟易としている。
ブログとは元々日記から発展したホームページである。ネット上で公開されている以上公開性をその使命とはするものの、本来たかだか個人的な日記である。そのような性格のブログにランキングなる考え方が本来相容れるはずもないため、こんなものが存在するとは私は開設以前には想像だにしていなかった。
ブログとは当然ながらその個性は多様、それぞれのブログが取り扱っている分野や手法、趣旨はすべて異なる。そんな種々雑多、十人十色のブログを単なるアクセス数やブログ個々の読者の支持数でランク付けすることに何の意味があるというのか。
ブログをテレビの娯楽番組のようにひとつの娯楽の世界と考え、このランキングを人気投票程度に捉えて目くじら立てずに楽しんでいればよいのか? もしそうだとすると、そういう趣旨で綴っていないブログにとっては、何でもかんでも一緒くたにされて勝手にランク付けされ、あなたは何位だと一方的に押し付けられても迷惑千万な話としか言いようがない。
前置きが長くなってしまったが、本題に入ろう。
何でもかんでも数値でランク付けしたがるこの国民性は、私は学校における偏差値偏重教育の所産であるように思えてならない。
偏差値による学校のランキング、学校教育における成績の席次評価、テストにおける点数重視、すべて数値による教育成果のランク付けであるが、これが現在の学校教育の実態である。
数値にばかり惑わされ一喜一憂してしまうと、実態が捉えられなくなり、またその後の発展が望めなくなる。
例えば、学校のテストの点数について考えてみよう。大抵の親や教員は子どもの学力をテストの点数で捉えてそれで終わりにしているという失敗をしでかしてはいないか? これには大きな落とし穴がある。当然ながらその中身の把握が肝心だ。失っている点数部分の分析こそが子どものさらなる学力向上につながる。今の教育において、点数にばかりこだわりこの作業をし忘れている弊害は大きいのではあるまいか。
学校の席次に関しても、例えば100人中10位くらいに入っていればいいだろうと安易に考えていると、実は1位から10位までに大きな学力の開きがあり、10位と100位の学力差が僅差だったりすることもある。やはり個々の学習理解度の中身の把握が肝心だ。
偏差値も同様だ。偏差値による学校のランク付けはいまや一般的であるが、同じ学校内での成績上位者と下位者との学力の開きはどこの学校でも大きいのが実情であろう。生徒個々の学力の把握、対策への取り組みは侮れない。
とは言えども、今の世の中は既にあらゆる分野においてランク付けが蔓延り、数値偏重を不本意ながら強要されてしまう。
こんな歪んだ軽薄な環境の中で確かな実力を育んでいくには、数値に惑わされることなく自分を見失わず客観視し、事象の実態を分析、把握し、精進を続けることだ。
ランキング上位に君臨できると人間の本性としては心地よいものではある。だがそのようなまやかしの心地よさに酔っている場合ではない。
最後にものを言うのはやはり“確かな実力”であろう。