原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子ども達は何を根拠に職業選択をするのだろう?

2012年01月30日 | 自己実現
 これ程までに政治家の威厳や存在価値がなくなっている今この時期に 「政治家になりたい」 と言う高校生が存在する事実に触れ、少なからず驚かされた私だ。

 事の発端は、当「原左都子エッセイ集」でお馴染みの朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”である。  このコーナーの1月28日の相談が、17歳高校2年女子による 「政治家になり事件を防ぎたい」 だったのだ。

 早速、上記相談を以下に要約して紹介しよう。
 高校2年の女子だが、唐突ではあるがなぜ殺人事件など存在するのだろう。 先日も某マホービン企業の元副社長氏が強盗殺人の被害者となった事件があった。あまりにも痛まし過ぎ、涙が溢れる。 この被害者氏は若い頃には一生懸命勉強したであろうし、晩年には寄付等により社会貢献にも力を注いでいる。 私など足元にも及ばぬ尊敬できる立派な方だったと思う。 このような事件に接する度、私は怒り悲しみ虚無感に襲われる。  ところで私は将来の職業として政治家を志している。 そんな私に今回のような事件を減らすために何が出来るのか、具体的にお聞きしたい。 例えば私は、単身暮らしのお年寄りが存在する等の高齢化社会の事情や、年金問題など社会保障制度をどうするのか等の問題が浮かぶ。 それらは全て政治の力をもってすればある程度対処できるのか、ご助言をお願いしたい。 
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談内容を要約)


 とりあえず原左都子の私論に入ろう。

 “とりあえず”と表現するのは、この投稿を何度読み返しても、この女子高校生が一体何を相談したかったのかが私には論理的に伝わって来ないのだ。
 いや、相手はたかが17歳の高校生である。  将来政治家になりたいとの夢を持つ事自体はもちろん自由であるし、強盗殺人事件報道に触れて怒り悲しみ虚無感に襲われるのも私とて同様であるから、その気持ちも分かる。
 
 今一度上記相談内容を私なりに整理すると、相談女子高校生が「政治家」を志したのはこの事件報道に接するずっと以前の事だったようだ。 その志望根拠に関しては一切書かれていないため、何故この女子高校生の将来の夢が「政治家」であるのかは不明である。
 その一方で、女子高校生は強盗殺人事件の被害者が“立派”な人物であったことに心を痛め、高齢化社会問題等の社会保障制度問題とは政治の力を持ってすれば対処できるのか?と問うている。
 う~~~ん、やはり申し訳ないが原左都子にはこの17歳少女の論理は理解し難いなあ…… 

 現在高校2年生にして政治家を目指しているという事は、大学の進路希望はおそらく「政経学部」や「法学部」といったところであろう。  政治家になるための最低条件として、まず相当の学力がないことにはその道を成就できないと私は捉える。 そのため、おそらくこの少女は自分の志望大学学部を目指して現在受験勉強に励んでいることであろう。  (いえいえ、今時はタレント議員も多い現状だから、政治家になるためにはその手の“脇道”を考慮するとの手立てもあろうか??

 再度老婆心ながら原左都子個人的には、この女子高校生の相談内容が“論理性に欠けて”幼稚であることがどうしても気に掛かる。 これで、政治家になるべく目指す大学学部に入学可能なのだろうか、と…。 
 いくら現在現役の政治家達が“体たらく”状態であるとはいえ、彼ら(彼女ら)は“一応”名立たる大学学部を卒業している現状だ。  (例えば、国会答弁の場で官僚が用意した原稿を読むしか能の無い、徹底して“官僚主導”を貫く野田総理とて早稲田大学政経学部出身のようだ。 この野田氏が示す通り、他人が書いた原稿を読むにもある程度の学力や論理性は必須なのであるぞ。 )

 繰り返すが、この17歳の少女が「政治家」を夢見ていること自体に関しては原左都子は異論はない。
 だが、既に少女が17歳ともなっている現状において今現在努力するべきこととは、政治家になるために最低限必要な学力や資質を身につける事ではあるまいか?
 若い時期に見聞した強盗殺人事件に心を痛める経験ももちろん不可欠である。 そんな心の痛みや虚無感を抱いて自己の心情を磨きつつ、一方で今現在は自分がやるべき学問に精進して欲しいものだ。
 「政治家」とはそれが国家であれ地方自治体であれ、国民や市民の“指導者”として君臨することを使命とした職業なのだ。 そんな“指導者”が国民市民の目線から「馬鹿」な存在であっては絶対に通用し得ない“極限に厳しい職業”であることを今一度自覚した上で、若者よ、自分の夢を叶えようかね…。


 ところで、今回の朝日新聞“悩みのるつぼ”の回答者は 評論家の岡田斗司夫氏 であられた。
 この岡田氏から過去において「原左都子エッセイ集」へコメントを頂戴している。(いつまでもこの事実を虎視眈々と利用させていただき申し訳ない話だが…

 今回の“悩みのるつぼ”の岡田斗司夫氏の回答が素晴らしく、この原左都子も感銘させていただいたのだ。
 そこで、このエッセイの最後に 「あなたが目指すべきは“民間政治家”」 と題する岡田氏の回答を紹介して締めくくることにしよう。

 政治家の存在意義はもう終わっている。 過去150年間日本では“最優秀の人材が政治家や官僚になるべき”と考え実行して来たが、この試みは完全に失敗だった。 頭のよい政治家は「最優秀な犯罪者」に成り下がっている。 
 政治家など僕やあなたのような「二流」程度の普通の人で十分だ。 では、相談高校生のような人は何を目指すべきか? 答えは「民間政治家」である。 日本国民全員を幸せにしなくて構わない。自分の目が届くたった数百人や数千人を助けてあげればよい。 1億人を幸せにしようと思った政治家が喧嘩ばかりをした結果、皆が放ったらかしになる。
 本当に世のためを目指すならば「民間政治家」こそがオススメだ。
 (以上、岡田斗司夫氏の回答より要約引用。)

 
 今回の我がエッセイの表題である 「子ども達は何を根拠に職業選択をするのだろう?」 の理想像とは、既に過ぎ去った150年前にその答があったのかもしれない。
 ところが、市民の想像を絶する程に時代が大きく変遷してしまっている。 150年前の理想論を持ち出して今の子ども達に夢を持たせようとしたところで、この世は行き詰るばかりであろう。
 
 そんな時代に於いて、今時の若者の悩み相談に応えて岡田氏が提案される「民間政治家」を目指そうとの回答に私も賛同申し上げたい。

 ただ原左都子として願わくば、何処の道を志そうとも若者にはやはり勉学に励み続けて欲しいものだ。
 「民間政治家」を目指すに当たっても、学力とは必ずや物を言うはずだからである。

福島の18歳以下子ども達の医療費を是非共無料に!

2012年01月28日 | 医学・医療・介護
 少し前の報道になるが1月19日付朝日新聞一面トップ記事で、福島県民の食事によるセシウム摂取量の調査が行われた旨のニュースを目にした。
 この種の調査とは福島原発事故発生後もっと早期に行われるべきと苛ついていた原左都子であるが、遅ればせながらも調査が実施されその結果が全国に公表されたことをひとまず評価したい。

 早速、上記の朝日新聞記事を以下に紹介しよう。
 家庭で一日の食事に含まれる放射性セシウム量について、福島、関東、西日本の53家族を対象に朝日新聞社と京都大学研究室が共同で調査を行った。 その結果西日本ではセシウムがほとんど検出されず関東では少量だったのに対し、福島では4ベクレルを超える量が検出された。 この調査は昨年12月4日時点に行った。 各地域に住む家庭から協力を得て普段通りの食材を使用し、一人が食したセシウム量を検出調査した結果である。


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 もしもこの調査が昨年3月15日の福島原発メルトダウン水素爆発直後に行われていたとしたら、一体どれ程の高値が検出されたのだろう? 
 事故直後の調査は不可能だったとしても、少なくとも昨夏頃までには放射能が人体に及ぼす影響の調査を“政府”こそが指揮を執って実施して欲しかったものである。

 上記朝日新聞記事には某放射能防護学専門家氏よりのコメントも掲載されていたのだが、それによると、12月4日時点に於ける(調査対象となった家庭が摂取した実態に基づく)福島県民のセシウム摂取量は自然放射能よりもはるかに低い量である、との論評だ。

 ところがこのコメントの“安全宣言”を高放射能被爆地の国民が鵜呑みにしてはならないことは、皆さんもお気付きであろう。 
 放射能汚染が人体に及ぼす影響とは人体への“積算量”で評価するべきなのだ。
 原発事故発生より9ヶ月も経過した後のセシウム量調査結果のみを取り上げて福島県民の健康状態を論評するのではなく、あくまでも原発事故発生直後よりの積算量をもって福島県民をはじめとする放射能被爆者の皆さんの今後の健康対策を語るべきであろう。

 そうした場合原左都子としては、原発事故直後早い時期に体内に大量に蓄積したであろうセシウムが今後人体に及ぼす影響こそを懸念したいのである… 


 福島県に住む子ども達の「定期検診」に関しては、今後も政府が責任をもって実施していく旨の報道は以前見聞している。

 その一方で元医学関係者の原左都子として誠に申し訳ないことに、福島県に住む子ども達の「医療費」に関しては如何なる扱いになっているのかにつきまったく把握していなかった事は、大いなる落ち度であった。
 本日(1月28日)NHK昼のニュースのトップ項目として、福島県に住む18歳以下の子ども達の医療費が“無料にならない”報道に遅ればせながら触れ、この事態に初めて接した始末である…

 何故 “福島県に住む18歳以下の子ども達の医療費を無料に出来ないのか” に関する政府の言い分を、今回のNHKニュースと共にネット情報も参考にしつつ以下に紹介しよう。 

 平野復興担当大臣は28日福島県の佐藤知事と会談し、福島原発事故を受け福島県が要望している県内の18歳以下の子どもの医療費の無料化について 「福島県だけを国費で無料にすれば医療制度全体の根幹に関わる」 として、実施を見送る方針を伝えた。
 これに対し、佐藤知事は「極めて残念だ。子どもを育てやすい環境をつくるため、県の事業として子どもの医療費の無料化を前向きに検討したい。国も将来的な課題として受けとめてほしい」と述べた。
 さらに平野復興担当大臣は、「医療保険制度は一定の負担を国民にしてもらうのが基本で、国費を入れて無料化にするところまでは踏み込めなかった」と述べた、 とのことである…。


 再び、原左都子の私論に入ろう。
 政府及び平野復興担当大臣に私からお願いがある。

 国の医療保険制度により強制されている保険料は私個人的にはずっと今後も支払い続けるから、どうか福島及び高度放射能被爆地に住む子ども達の命を保障するために「医療費」を是非共無料にして欲しいのだ。

 と原左都子が宣言するのには、私なりの理由がある。
 本エッセイ集のバックナンバー 「私は病院へ行かない」 「私は健診を受けない」等々に於いて公開している通り、原左都子とは自らの死生観に基づき基本的に医療機関に依存しない方針で人生を歩んでいる人間である。(詳細はバックナンバーを参照下さい。)
 いえいえ、この私も“医学的措置を施さねば生命にかかわる”病気にかかったと自己診断した場合は医療機関のお世話になる。(例えば過去に癌を患った時には医療機関を訪れた。)  それ以外の命にかかわらず自然治癒するであろう体調不良や不意の事故に関しては、元医学関係者である私の自己診断により、医療機関や薬剤に依存する事は極力避けて我が人生を歩み続けている。  これには個人的DNA事情もある。 どうも私は血縁の先代から受け継いだ体質として、みだりに医療措置を施さずとてほぼ支障なく生き延びられそうな生命力を授かっているようなのだ。
 (私の場合そういった一種恵まれた特異的事情もある故に、決して読者の皆様は原左都子を模倣することなく適時に医療機関に頼られますように…)

 上記の事情故に、私の場合は月々医療保険料こそ納めようがその還元がほとんどない“掛け捨て状態”である。 
 もしも私のような“自己診断可能人種”が増殖したならば、平野大臣がおっしゃるところの国家の医療保険負担増も軽減されるのではなかろうか?  そのためには国民に対する「予防医学」及び「自己診断」教育強化が今後不可欠となるであろう。

 ところがこの問題とは、国民側の努力及び政府側からの教育論理のみでは元々成り立たない話であるところが困難なのだ。
 悲しい事に、政府と医療機関そして製薬業界との癒着問題が根強く存在する我が国の医療事情は否めない事実であろう。

 今現在全国民に強制している「予防接種」制度とてその一端である。 
 これを受けたがために、その副作用により生命を絶つ子どもが少数ながら後を絶たない。 それでも尚政府が国民の個体差を承知しつつも「予防接種」を国民すべての子供達に一斉に強制し続けるのは、業界との癒着故としか考えられない。
 これを国民の「予防医学」教育の後に“任意”とするだけでも、巨額の国家医療歳費が大幅に節減可能と私は目算している。

 それから、学校集団検診に関しても異議を呈したい原左都子である。
 我が子の健康状態など母である私こそが一番把握していると思うのは、私が元医学関係者であるから故なのか?  そうではないとしても、保護者に医学の心得がある家庭のみでも「一斉強制健診」を“任意”に変更してもらえないものかと、我が子が集団生活に入った直後からずっと頭を悩ませてきたものだ。
 学校健診により毎年毎年大量の「受診勧告書」を手渡され、医師の診断書を学校に提出する義務を負わされる。 やむを得ず病院を訪れたとて、我が子が抱えている事情など一切知りもしない医師がちょっとだけ診察して、無駄な検査や(私の判断で)飲ませもしない薬剤を負荷され続ける…。 (無駄の範疇ならばまだしも許せるが)新たな疾患を呼び起こす恐れもある医療措置にどれ程抵抗感を感じ耐えてきたことか…

  
 政府と医療機関及び製薬会社との癒着を、民主党政権がマニフェスト通り政治主導力を発揮して金輪際廃止する決断さえしたならば、今後の大いなる医療費の無駄が省けるはずだった。  その結果、医療保険歳費負担が大幅に軽減することは間違いない事実だったはずである…。

 癒着撤廃により浮いた歳費を“人災”である福島原発事故による高放射能被爆被害を免れない地域の人々、特に18歳以下の今後我が国を支えていく若い世代の医療費に転化すれば済むだけの話と原左都子は心得る。

 平野復興大臣は人が良さそうな印象だけはあるのだが、何故それが実行不能なのか?
 それは野田氏という官僚の意のままに言動するしか能のないトップが、何故か3代目として民主党に君臨し続けてるから故であろうなあ… 

「秋入学」が本当にグローバルなのか??

2012年01月25日 | 時事論評
 学校の「9月新年度制」への移行に関しては、何もこんな時に突然東大が言い出さずとて、ずっと以前より教育界に存在していた議論である。

 以前より展開されていたこの議論の趣旨とは、欧米諸国の学校と足並みを揃えようとの意図であったと原左都子は認識している。


 早ければ5年後にすべての学部を「秋入学」制へ移行したい東大の趣旨とは、海外からの東大への留学生、及び東大生の海外への留学に対応するのが第一義との報道である。

 ただし、東大だけが5年後に「秋入学」制へ移行したところで社会全体の整合性が成り立つ訳がない事はさすがに東大も認識している様子で、政界や産業界、他大学をも含めて社会全体を巻き込んだ議論に発展させるべく魂胆で現在東大は動いているようだ。 
 (そして落ちぶれつつある民主党政権幹部も、東大の「秋入学」への意向に賛同しているとの報道も耳にする…


 ここで一旦、原左都子の私論を述べさせていただこう。

 東大さんよ、あんたはこの期に及んで相変わらず“日本国家のオピニオンリーダー気質”が抜けないようだなあ。 その根拠不明の“妙な自信”は一体何に基づいているの??? と言いたくもなるというものだ。

 世を見渡すと世界規模で政治経済危機状態、そして昨年国内に勃発した大震災も発生後もうすぐ1年を迎えようとしている今尚その復興がままならない状況下にある。 
 野田政権は背後の官僚に指示されるがままに、その根拠の詳細を国民に提示することもなく“消費税を是非共上げねばならない!!”と虚しく息巻く始末だし… 
 そんな政権がこれ程混乱状況の最中に東大の「秋入学」に賛同したところで、今国民がそれになびくとでも思っているのだろうか……
 (消費税増税議論の行く末に関しては、今後の国会に於ける野党からの合理的反論に期待したいものであるぞ。


 このように世界も国内も大混乱状態の時期に、何故東大は 「秋入学」 などという(原左都子に言わせてもらうと)“二の次”でいい議論を持ち出して世間を騒がせたかったのだろうか??

 東大の言い分を以下に紹介しよう。
 日本の大学生の海外への留学は近年減る傾向にあるが、東大が卒業生に取ったアンケートでは3人に1人が海外留学を希望していたと答えたにもかかわらず、実際に留学した学生は1割未満である。 それは就活や留年の心配が大きかった故であるため、「秋入学」によりこれを解消して留学を増やし国際感覚を育みたい、との事である。 
 (原左都子の私論としては以下は東大の“言い訳的補足”でしかないと判断するのだが)、海外からの留学生も減少の一途である。 これは中韓などの主要大学に遅れを取るものだ。 世界大学ランキングで東大の格付けは高くない。 東大が世界に選ばれる大学になりたいとの狙いもある。

 再び、原左都子の私論に戻ろう。

 そんなくだらない見栄、体裁の理由で日本の“一大学”に過ぎない東大が突然提唱した「9月新年度制」を、倒壊寸前の民主党政権が賛同しているからと言って、大幅な社会システムの移行をこの世界的政治経済危機の時期に強制され更に混乱させられる事態など避けたいものであるよねえ、国民の皆さん。

 東大さん、現在東京大学の世界ランキングが低いのは貴方達の“自己責任範疇の問題”に過ぎないでしょ? 
 現在国立大学も独立法人として機能していると私は認識しているのだが、その範囲内で国民に迷惑をかけることなく、今後もう少し自助努力してみてはどうなのよ??


 ここで少し私事を語ることにしよう。
 
 原左都子は1990年前後の頃、30代にして再び日本の首都圏に位置する公立大学及び大学院に通学した経験がある。
 1970年代に我が郷里の過疎地の大学では経験し得なかった事象を、バブル期である90年前後の上記の大学に於いて経験できたのだ。

 それは如何なる事象であるかと言うと、海外からの留学生の存在である。 (ただし、当時のその留学生とはアジア方面からに限定されていたのであるが…)  おそらく政府の国際交流の目的意図が強いのであろうと当時解釈していた私だが、とにかく日本人の学生数が少ない我が大学院に於いて、それよりも多いと思しきアジア諸国の留学生がキャンパスに多数存在していたものだ。 そのお陰で、日本語が流暢なアジア諸外国の留学生との交流も楽しめた私である。 
 ところが当時より一部の日本人学生達の水面下で囁かれていた事実がある。 「彼らは日本語は流暢だが学問レベルの程はどうなのだろう?  我々と同質程度に修士を取得できる専門学力があって留学してきているのだろうか? そうではなくて単に国際親善目的で政府及び大学が留学生として特待しているだけの存在なのではなかろうか?  そうだとすれば大学研究室現場でそれに付き合わされる教官も大変だろうし、我々の学問にも影響を及ぼすよね……」

 いえいえ、“天下”の東大の留学生とは今後世界で活躍するべく人材を集結させている事であろう!?? 
 そうではなくて原左都子の過去の経験通り、やはり政府が国際交流の目的で単に日本語力のみがある留学生を日本国内の国公立大学に配置する事により、学問界に於ける日本の威厳を形のみ保とうとしているだけの話なのではなかろうか??

 東大から諸外国へ留学したい意思ある学生の中には、もちろん本気で世界最高レベルの科学や学問を志し今後世界の最先端を目指している学生も存在することであろう。
 それには送り出す側も迎える側も是非学問力を持って答えるべきだ。  それが東大に限った話ではないのは当然の事でもある。


 ただ今回の東大からの提案である「秋入学」は、やはりその真価を世間に問う時期を誤ったものと原左都子は判断せざるを得ない。

 「秋入学」を実行する事とは、現在の東大が認識しているがごとく政界、経済界、教育界等の日本国中のシステムすべてを巻き込まねば成り立つすべもなく、現在の国内情勢はその状況に程遠いところにあろう。

 そして東大が学生を送り込みたい諸外国(米欧州アジアその他の地域)の大学とて、今現在は混乱状態なのではあるまいか?
 そんな所にちょっとばかし英語が出来る学生を送り込んだとて、何の能力の育成が可能と言うのだろう?

 ここはもう少し大学等の教育組織としては、世界が落ち着く事を見定めるべきではなかろうか?
 何も日本の教育界が今現在無理やり「9月新年度制」になど移行せずとも、自身に確固たる実力がある若者は自らのパワーで諸外国に羽ばたいている現状と私は捉えているのだが。
 諸外国からも、そんな実力派の若者が我が国で新天地を開いている場面にも出くわすしねえ。


 学校の新年度など、申し訳ないがいつ始まろうが原左都子にとってさほどの困惑もないのが事実と言うものよ。
 本エッセイの最後に紹介すると、諸外国の企業はいつ何時でも有能な職員を採用しているようで、日本のような「4月新卒者一斉採用」という“一種特異的慣習”など無いという話でもあるぞ。
 
 この本来の“実力主義”が日本で模倣できてこそ、東大も含めた日本の学校もやっと 「9月新年度制」 に真に移行できるということじゃないのかなあ。  

友達の友達は友達であるべきか?

2012年01月23日 | 人間関係
 ♪ 友だちの友だちは友だちだ   その友だちの友だちも皆友だちだ ♪♪

 皆さんも、こういう歌詞の歌を子どもの頃口ずさんだ経験がおありであろう。


 そうではないんじゃないかな??  と生まれ持って天邪鬼気質の原左都子は、既に第二次反抗期である小学校高学年の頃より疑問視していた。
 もちろんそういう場合もあってよかろうが、それは友達対象となる人物像により左右されて当然である。  自分が友として付き合う相手とは、個々人が自らの自由意志で選択したりされたりして成り立つべきものだからである。
 ところが人の人生とは “友達の友達は友達” であるべき事を、暗黙の内に他者から強制される場面が多々ある現状ではなかろうか?


 さて、朝日新聞1月21日付別刷「be」コラム“結婚未満”の今回の表題は 「友だちと私のどっちが大事なの?」 だった。
 このコラムとは、結婚を控えている若者達の様々な心の葛藤の事例を取り上げて毎週紹介するのが趣旨のようだ。
 今回の記事に関しては、原左都子にとっては結婚問題というよりも“友達問題”を取り上げたものとして興味深いものがあった。

 早速、上記のコラム「友達と私のどっちが大事なの?」を以下に要約して紹介しよう。
 31歳のユウナは33歳のタイチと付き合って10年になるのに、結婚に踏み出せないでいる。 千葉で生まれたタイチは祖父母が建てた3世代同居の家で育ち、大学までずっと家から出たことがない。 現在は東京の勤務先まで片道2時間かけて通っている。ユウナとは大学時代に知り合い、「家族と友達がいるからここに住む」と言う。 一方のユウナは商社マンの父の国内外の転勤に伴い故郷と呼べる場所がない。 両親は今も海外滞在のため東京で一人暮らし、友達は世界中にいるためフェイスブックで連絡を取り合っている。 そんなユウナは、家族と暮らし地元の友達と仲良くするタイチを最初の頃は「家族も地元の友達も大事にしてステキな人だな」と思っていた。 ところが、10年経ってそんな日々に違和感を覚えるようになった。 昔タイチの事を好きだった女性との付き合いまでも強要され「あいつとは保育園から30年の付き合いで深い絆があるのに、ユウナはなんで俺の友達と付き合えないの?」と不機嫌になるタイチ…  タイチはユウナとの結婚を考えているというが、千葉の実家の敷地に別棟を建ててユウナと暮らすと言う。 「千葉からじゃ、私の職場に通えない」というユウナに対し、タイチは「わがままだ」と一蹴する。 結婚しても毎日友達に会って暮らすというタイチに「友達と私のどっちが大事なの?」と聞くと「何言ってるんだよ、僕の友達はユウナの友達だろ」と言う。「それは違う」とユウナは思ってしまう。
 (以上、朝日新聞コラム「結婚未満」より引用要約。)


 早速、原左都子の私論に入ろう。

 私がユウナならば、おそらくタイチとは1ヶ月できっぱりと別れていただろうなあ。
 多忙な独身時代を送っていた私にとっては、まずタイチのお友達と“遊んでいる”時間など到底なかったものだ。 
 いえいえ、この私も彼氏の友達と共に時間を過ごしたことは何度かある。 だがそれは自分やあちらの仕事関連の相談会合だったり、あるいは私の方から希望して参加した飲み会だったりと、決してユウナのように彼氏からその友達との付き合いを強要される趣旨の類のものではあり得なかった。
 本エッセイ集のバックナンバーで綴っているが、ある時私は当時付き合っていた彼氏のアマチュアロックバンド仲間達と、一時のみロックバンドを結成し練習をした事がある。 その時、何とも言えない気まずい雰囲気だった事は今でも忘れないのだが、“にわか仕立ての寄り合いグループ”とはこれ程までに居心地が悪いものかと実感させられたものである。(特に、たとえアマチュアとは言え“ロッカー”とは自己主張が強い輩ばかりだしね~~)  そんな“事件”があったがために、私の内面で彼氏に対する印象すら悪化してしまったのだ。 それさえなければこの彼氏とはもう少し付き合いが続いたような気がしないでもないが、その後まもなく私の方から別れを告げた… 

 特に若い時代は“我がまま一辺倒”に人生を突き進んでいた原左都子の私事をここで語っても、らちが明かないことは自覚している。

 それにしても、ユウナは人が良すぎるのではあるまいか?
 ただ、10年間もの長きに渡ってタイチの地元の友達との付き合いを強要され続けそれにユウナが従ってきた背景には、ユウナ自身の“一種寂しい”事情もあったのかもしれない…。  若くして両親は外国暮らし、友達は世界中にいるとはいえネット上の付き合いに限定されている現在、ユウナにとって生身の人間との付き合いがあるタイチの存在は心の支えだったのかもしれない。

 そうだとしても、やはり友達の友達が即座に“自らの友達”として機能するべくはずなどないのだ。 
 10年もの長きに渡って付き合ってきて共に30代になっているユウナの心情を、タイチはどれ程理解できているのだろうか?


 最後に私事を紹介させていただこう。

 この私は日本の一過疎地であるド田舎出身者だ。 今から遡る事30数年前にそのド田舎の家族親戚そして友達等々の人間関係をすべて切り捨て単身で上京し、昔ながらの一種慣習的関係が一切ない環境地である大都会東京で生を営み続けている。
 元々潜在的自立心が旺盛だった(と後に分析する)原左都子故の特質なのかもしれないが、私は今現在もこの状態が一種“快感”ですらある。 
 こんなバックグラウンドを誇っている事を自負しているからこそ、私はこの地で今尚自己実現人生を歩めているのであろう。

 昨年のこの国の世相を反映したとの漢字である “絆” という言葉を分析するに、何度も言うが“絆”とは自分自身で主体的に築けてこそ初めてその字が生きた意味を持つはずである。 

 そうした場合、いきなり「友達の友達」がすなわち自分の「友達」であるはずがないのだ。

 人の個性とは元々多様性があるものだ。 
 個々人が自分自身の個性にもっとこだわりつつ、そんな存在の自分にとって真の意味で未来を築いていける相手と「友達」になりたいものである。

今時 “売らんかな” の本の出版にはうんざり…

2012年01月21日 | 時事論評
 1月13日付朝日新聞朝刊記事の目立たない場所に、ごく小さなスペースで フィギュアスケーター浅田真央氏 関連の記事が掲載されているのを発見した。

 その記事のタイトルは 「浅田選手のエッセー出版中止」 となっていた。

 原左都子は、浅田真央氏がフィギュアスケート界デビュー以来世界トップの実力を維持している事はもちろん、芸術性が要求されるフィギュアの世界で実に優雅かつ美しいスレンダー体型をずっと保持し続けている事も理由に、数年来の真央ファンである。
 昨年暮れにはカナダでのグランプリファイナル出場直前にお母上危篤のため大会出場を断念し帰国を余儀なくされた報道を受け、様々な意味合いで実に残念な思いに駆られた。  お母上の死去後日数を経ずして真央氏は世界選手権大会に出場し、ご自身はその出来栄えに不本意の様子ながらも優勝を勝ち取った時には心静かに祝福申し上げたものだ。


 さて、その浅田真央氏がエッセーを出版する段取りだったこと自体を私はまったく把握していなかった。
 しかも、その真央氏のエッセーが出版中止?!???
 
 ご覧のように「原左都子エッセイ集」を日々綴りネット上に公開している私が、この種の記事に飛びつかない訳はない。

 早速冒頭の朝日新聞記事を以下に要約して紹介しよう。
 本の出版元であるポプラ社は1月12日、浅田真央選手の初エッセー「大丈夫、きっと明日はできる」(2月8日発売予定)の出版を中止すると発表した。 同社によると、宣伝用ポスターで「ママ、ほんとうにありがとう」という言葉を使ったところ浅田選手が不快感を示したという。  浅田選手のブログによると、「競技生活を通してのメッセージブログとして1年かけて制作を進めていたものでしたが、本の宣伝、告知について私の思いと異なるもので進められていた」と説明している。


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 上記朝日新聞記事を読んだ直後に、浅田真央氏がエッセーにかけた思いと、出版元であるポプラ社の販売促進方針との間に決定的な食い違いがあることを見抜いた私である。
 
 私が推測するに、おそらくポプラ社が日頃出版物販売促進のため相手にしている著者候補者とは、少しだけ、あるいは過去に多少名の売れた類の人物群なのではあるまいか?  その種の少しだけ世間に名が売れている人種を捕まえて「自社の営業力で絶対に売ってみせます!」と豪語すれば、今時どのような手段でもいいからとにかく本を出版することにより更なる“売名行為”に臨みたい輩など、この世に吐いて捨てる程存在することであろう。

 ところがポプラ社なる出版業社が今回マーケティングを大幅に誤った根本理念とは、相手が浅田真央氏という“世界に名立たるアスリート”だった事ではあるまいか?
 原左都子に言わせてもらうと、(真央氏が若い世代の女性だからと甘く見て)世界レベルで成功を収めている人物に向かっていつもながらの安直なマーケティング手法を吹きかけたところで本人がそう易々と首を縦に振る訳もなかった、という論理なのではなかろうか?

 話が変わるが私の記憶によると、1970年代頃歌手であった山口百恵氏が他者プロデュース(代筆?)による「蒼い時」なるベストセラーを発表している。  そんなもの一切読む気もなく素通りしてきた私であるが、山口百恵氏とは単に一国に於ける一時の流行歌手に過ぎない存在だったと言えよう。 
 まさかこの当の昔に過ぎ去った“サクセスストーリー伝説”をポプラ社が今回模倣したとは想像したくもないが、この世界的経済危機時代に実力のみで世界に名を轟かせている 浅田真央氏 を、過去の幻の書籍売上実績と一緒くたにする過ちなど出版社は決して犯してはならないのだ!
 
 今回の浅田真央氏エッセー出版中止事件関連ニュースをネット上で検索してみても、朝日新聞報道以上のさほどの背景事情は得られず、何処のメディア情報も真央氏とポプラ社の見解の食い違いを記述しているのみである。
 その中には本出版時の“契約手続”の視点から出版元のポプラ社側を弁護するべく見解も存在するが、原左都子に言わせてもらうと有能な著者あってこそ出版社とは存在可能なのであり、この種の議論は本末転倒の範疇としか捉えられない。


 ここで私事に移るが、原左都子も過去において某出版社から「本」出版を促されそれに乗ってみようかと志した時期があった。

 実は、現在米国在住の我が実姉は過去に日本国内に於いて“とある方面”で少しばかり有名人だったのだが、その事実を日本国内の某出版社に“利用”され、本の「自費出版」話に乗せられてしまったのである…。  一冊で辞めておけばよいものを二冊目までも出版させられ、その損失額たるや400万円也!!  (現在米国で裕福に暮らしているからこそ成り立った自費出版との事情であるし、本人がそれで自己満足できるのならばそれでいいという範疇の話に過ぎないのだが…)
 既にこの種の本出版による大損失談を実姉から直に見聞いていた私としては、少しだけ知名度があるからといって出版社側から本の出版を持ち込まれようがそんな勧誘に乗れる訳などない!! (今の私には我が経済観念的にも400万円の損失など出せる訳もありゃしないしねえ…)


 いえいえ、この話は決して経済観念範疇の議論で終わらせてはならないのだ。

 浅田真央氏が今回、ポプラ社との本出版の契約を販売直前になって破棄した痛烈な思いが原左都子には大いに通じる。
 浅田真央氏はお母上の死去を精神面で既に乗り越えられたからこそ、世界選手権に挑んだと私は解釈している。
 そんな偉大な存在の真央氏を捕まえて、今さらポプラ社が言うところの陳腐な表現である「ママほんとうにありがとう」へったくれもないであろうに…。  (もちろん真央氏の心理的内面は他者が想像を絶する悲しみの思いで溢れていることであろうが…。)

 それでも世界のトップに君臨し続ける事を志すフィギュアスケータ-浅田真央氏のファンとしては、その悲しみを乗り越え打ち勝とうと頑張っている姿に共感しつつ、今後も真央氏本来のフィギュアスケーターとしての華々しい活躍を応援し続けることこそが使命ではなかろうか。

 出版社側からの“売らんかな”を前面に押し出した本出版勧誘に際しては、真央選手が現役引退した暁にいくらでも実行すれば十分と考えるし、今回の真央氏ご本人の販売直前契約破棄に大いに拍手の私である。