原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子コレクション -マクドナルドの景品編-

2017年10月30日 | 雑記
 (写真は、左都子の“娘”がコレクションしているマクドナルド景品の一部を拝借して撮影したもの。 写真のコレクションは、娘が社会人となった後1年半程の期間にコレクションした景品群。)


 子供さんがいらっしゃる方々は、一度は子供を連れてハンバーガーチェーン大手マクドナルドへ、ハンバーガーやフライドポテトそしてシェイク等を食べに行った経験がある事でしょう。

 原左都子とて、その例外ではない。


 話が過去に遡るが、私が上京した1970年代後半時期に、既にマクドナルドは日本でもメジャーなファストフード店だった記憶がある。 
 この私も20代前半期の若き頃には、マクドナルドへハンバーガーを食べに行ったものだ。

 その後、マクドナルドとは疎遠となった。
 独身貴族の身にして、“ジャンクフード”分野の代表格であろうハンバーガーなど食べずして、美味しい酒と共にグルメ三昧の日々をバブル期終焉前の40歳近くまで堪能した。
 

 さて子どもが生まれると、特に昼食に於いて食生活環境が大きく変化するのではなかろうか?
 昼時に子どもが好みそうな店舗へ連れて行き、外食するようになるのは皆さんも同様であっただろうか。

 我が娘のお気に入りが、まさにマクドナルドだった。
 チーズバーガーにフライドポテト、そしてシェイクを注文すると喜んで食していた。 娘幼少の頃より(子どもだましの)上記写真類「おまけ」の景品がついて来て、それも娘にとっては楽しみだったようだ。

 我が記憶によると、この“子どもだまし”景品が年月の経過とともにバージョンアップした感がある。
 娘のマクドナルド好きはその後も続き、何かの機会に店舗へ出向いて景品をゲットし続けた様子だ。


 そんな娘が無事に大学を卒業し社会人となった暁にも、やはり昼飯の一候補としてマクドナルド店舗を選択する機会が少なくない様子だ。
 それを嗅ぎ付けた娘の職場の先輩男性T氏が、酒の会にて「〇さん(娘の事)がジャンクフードに浸かっていることをどうにかしよう!」と提案し始めてくれたらしい。 
 いやいや、その種の反応が職場内で出る事自体がサリバン親の私としては嬉しいものだ。 娘も同様の様子で、その話題をプラス情報として私に伝えてくれた。

 「ご心配頂き、ありがとうございます。」とまずは娘の職場先輩T氏に御礼を申し上げたい。 その上で「娘の場合、大丈夫です。このままマクドナルドへ行かせてやって下さいませ。」とも伝えたい気もした。

 
 ジャンクフードに関する私見を少しだけ述べるならば…
 ジャックフードをジャンクフードとして捉える人種程、「信じるものは救われる」類の人物なのであろうと想像出来る。 これはジャンクフードではない!と信じ込んでそれを食している食品こそが真性ジャンクフードだったような事件も、現在多数発生している食社会の現状だし…

 とにもかくにも、誰しも楽しくかつ美味しく食事が出来ることが一番だろう。
 我が娘の未熟な選択肢として今尚マクドナルドを昼飯処として好んでいるとしても、サリバンの私としてはそれで何の不都合もない。
 娘が社会人2年目となっている今尚、マクドナルド昼飯が娘の健康状態を疎外していない事実を元医学関係者である私が日々確認済みだ。


 それに加えて、職場の昼休み時間帯にマクドナルドを訪れる事により娘の景品コレクションの幅が広がる楽しみもあるのならば、それに越したことはないだろう。

 絶対、大丈夫! 
 娘は娘なりに昼食としてマクドルドを食しつつ、今後も社会人として下手なりにも頑張ってくれる事とサリバン母が信じられるからこその、今回の「娘コレクション」の公開だ!

同類婚は幸せか?

2017年10月28日 | 人間関係
 表題でいうところの「同類」とは、“学業経験、経済力”分野を指す。


 ここのところずっと衆院選関連のエッセイが続いていたが、そろそろ話題を変えよう。
 安倍首相が突如として身勝手に「解散総選挙」を宣言する少し前に、以下のネット情報を目にした。 
 早速、要約して紹介しよう。

 労働政策研究・研修機構は9月14日、「第4回子育て世帯全国調査」を発表した。
 調査は、子育て世帯の生活状況を把握し、必要な公的支援のあり方を検討するために行われ、2011年、2012年、2014年に続き、今回で4回目となる。 2016年11月~12月に、18歳未満の子どもがいる4000世帯を無作為抽出し、2159世帯から回答を得た。
 中卒同士のカップルは調査開始以来初めて1%を割り込む。
 子育て世帯の平均税込年収は約683万円で、2014年時より約27万円増加した。 平均年収は2011年の第1回目調査時点(約597万円)から毎年増加している。 税込収入が300万円未満の低収入世帯は、調査以来もっとも低い8.6%だった。 母親の正社員率も前回調査時より約3ポイント上昇して24.6%になっていて、雇用環境の改善が功を奏していると考えられる。
 しかし、収入が増加しても消費の拡大には繋がっていない。 食費や光熱費等に支出する家計費の月額平均は、いずれも前回調査より減少した。 子育て世帯全体では前より1万6000円減って26万5000円、ふたり親世帯では1万9000円減って27万5000円、ひとり親世帯は4000円減って18万円だった。
 代わりに、平均貯蓄率はふたり親世帯で4.5%、ひとり親世帯で3%上昇している。 収入が増えても財布の紐を緩ませず、堅実な生活を送る子育て世帯が多いようだ。
 結婚と学歴の関係を見ると、高学歴同士ならびに低学歴同士のいわゆる「同類婚」は、日本の高学歴層でも増えていると分かった。 夫婦の最終学歴を「中学校」「高校」「短大・高専他」「大学・大学院」の4つに分類して比較すると、夫婦ともに「大学・大学院」を卒業している高学歴カップルは17.9%で、初回調査時の12.9%より5ポイント増加した。
 両親共に中卒もしくは高卒のカップルは、初回調査時よりいずれも減少しており、中卒同士のカップルは0.7%と初めて1%を切った。
 世帯収入が高いほど妻の幸福度は高くなる傾向について。
 高所得の男性の妻ほど無業率が高くなる傾向は、高収入男性と高収入女性の同類婚が増えた影響を受け、近年見られなくなっている。 初回調査時の2011年は、夫の所得が上位25%の層の妻は、その半分が専業主婦だったが、今回の調査では同層の無業率は31.1%まで低下していた。
 調査では女性に「この1年を振り返って、あなたは幸せでしたか」という質問を投げかけ、「とても幸せ」を10点、「とても不幸」を0点として評価してもらい、幸福度を測定した。 全体の56%が8点以上を付け、強い幸福状態にあると自認していたが、収入階級別に見ると収入が上がるほど幸福度が高まる傾向にあり、「貧困層」と「中高収入層以上」では、24.2ポイントもの差が開いていた。
 仕事と就業を両立するために拡充してほしい支援策は、「児童手当の増額」、「乳幼児医療助成期間の延長」など、金銭的支援が最も多く支持された。このほか、休日保育・延長保育や病時・病後児保育制度の充実、保育所の増設など、保育サービスの充実を望む声も多く挙がっていた。
 (以上、ネット情報より一部を要約引用したもの。)


 私見に入ろう。

 私自身が既に「子育て世代」を通り過ぎ「年金受取世代」の高齢域に差し掛かっているため、このデータを目にしても既に“我が事”ではなく、客観的視野で観察する立場に移ろいだと言えよう。

 そのように“他人事”感覚で上記データを分析すると、我が子育て時代(1990年代前半より2010年前半期)よりも、今現在の現役子育て夫婦がずっと「進化」を遂げているような感を“一見”抱かされる。
 例えば―
 「母親の正社員率も前回調査時より約3ポイント上昇して24.6%になっていて、雇用環境の改善が功を奏していると考えられる」
 「平均貯蓄率はふたり親世帯で4.5%、ひとり親世帯で3%上昇している」
 「夫婦ともに「大学・大学院」を卒業している高学歴カップルは17.9%で、初回調査時の12.9%より5ポイント増加した」
 「高収入男性と高収入女性の同類婚が増えた影響を受け、高所得の男性の妻ほど無業率が高くなる傾向は近年見られなくなっている」
 「妻の幸福度に関しては、収入階級別に見ると収入が上がるほど幸福度が高まる傾向にある」
 等の記載が、子育て世代の「進化」を表現していると考察出来そうだ。

 その反面、上記情報内に記載されている通り、現在の子育て世代が抱えざるを得ないマイナス要因も多そうだ。
 「収入が増加しても消費の拡大には繋がっていない。 食費や光熱費等に支出する家計費の月額平均は、いずれも前回調査より減少した」
 「収入階級別に見ると収入が上がるほど幸福度が高まる傾向にあり、“貧困層”と“中高収入層以上”では、24.2ポイントもの差が開いていた」
 「仕事と就業を両立するために拡充してほしい支援策は、「児童手当の増額」、「乳幼児医療助成期間の延長」など、金銭的支援が最も多く支持された。 休日保育・延長保育や病時・病後児保育制度の充実、保育所の増設など、保育サービスの充実を望む声も多く挙がっていた」

 要するに(この調査がいうところの)「中高収入層以上」「貧困層」共々、子育て中のご夫婦とは学歴、経済力等の(調査側の安易なかつ勝手な)分類にかかわらず、同様の支援策を国政や自治体に求めているとのことだろう。


 原左都子の私論でまとめよう。

 今回のエッセイでは、ネット情報に従い「同類」の分類を「学歴・経済力」に絞り込んだ形式となってしまったが。  世には、もっと学歴・経済力共々多様なジャンルかつバラエティ豊富な子育て世代が存在することに間違いないだろう。
 今回紹介した「労働政策研究・研修機構」なる組織の実体も調査せずして、我がエッセイ集にてそこから発信された情報を安易に取り上げた事をお詫びしておこう。
 
 その上で、私自身が「同類婚」(我が家の場合、亭主が大学院博士課程、私が大学院修士課程修了の身だが)を晩婚にして“見合い結婚”との形式を通し敢えて選択した事実は認めるとして。 
 思いもよらず、その後高齢出産にて若干不具合がある子を授かるとの厳しい子育て時代も経験した身にして、子育て中は「同類婚」の事実が我が身を救い、実際問題解決力を奏したと結論付けられる気がする。 
 
 さてさて、「同類婚は幸せか?」なる表題の答えだが。 
 それに未熟な私が応えずとも、 家族それぞれ千差万別との回答が既に用意されていよう。

一人として勝者が出なかった10.22衆院選の顛末

2017年10月26日 | 時事論評
 冒頭から、2017.10.25付朝日新聞朝刊一面記事 「問う 選択のあとで【上】 無競争 政党政治の危機」より一部を要約して紹介しよう。

 政党とは何か。深く考えさせられた選挙だった。 民進党、そして希望の党の顛末を言い募っても仕方ない。 ただ、この20数年の政治の混迷が極まった、その象徴のようだ。
 投開票の2日前、東京錦糸町に希望の党小池代表とと民進党の前原代表の2人が聴衆に同じフレーズで訴えた。 「AまたはBという選択ができる流れが必要だ」「AでなければB、BでなければAという緊張感を」と。
 有権者にAかBか選択を迫る選挙にしたいという趣旨のようだが、2人が唱えた「安倍政治」を止めることと、政権をいまの野党が担うことは、必ずしもイコールではない。 安倍晋三に不満があるが、いきなり野党に政権を任せようとは思わない。 政権選択というのなら、消極的ながら自公政権に託すしかないーー。そう考えた有権者が多かったのではないか。 結果として、不支持率の高い首相が圧倒的議席を得て続投になった。
 二大政党制、政権選択という「幻想」をいつまで追い求めるのか。 小池・前原両氏の失敗は問うている。 小選挙区制に無理に合わせようとしても、政党の地力が伴わなければ政権は取れず、取っても失敗する。 この20年余の歩みである。
 安倍政権の5年間に不満や疑問を持つ国民は多い。 強い野党が出現し、緊張感のある国会論議によって政権をチェックし、暴走を止める。 その実績を積み重ねてこそ、幻想が現実へと変わり、「次の政権」の選択肢たりうる。 議席を伸ばした立憲民主党も、すぐに自民党に代わる政権政党になれるわけではないし、すぐに目指すべきでもない。 
 まして野党が政権を助ける補完勢力に堕すのなら、先はない。 維新が議席数を減らし、希望が苦戦したのは、有権者がそうしたにおいをかぎとったからではないか。
 自民党内でも党内野党の存在が薄れ、自由に論議する活力が失われて久しい。 石破茂氏が選挙で「国民がおかしいと思うことをきちんと言える政党に」と訴えていたが、「ポスト安倍」候補たちが沈黙したままでは、議論無き「無競争の政治」が続く。 政党政治の危機である。
 (以上、朝日新聞政治部次長氏が記した記事を要約引用したもの。) 


 私見に入ろう。

 10月22日の衆院選投開票後、私が一番悔しく無念なのは、上記朝日新聞記事内にも記されている文面中の以下のくだりだ。
 「安倍晋三に不満があるが、いきなり野党に政権を任せようとは思わない。 政権選択というのなら消極的ながら自公政権に託すしかないーー。 そう考えた有権者が多かったのではないか。 結果として、不支持率の高い首相が圧倒的議席を得て続投になった。」 との部分である。 
 安倍晋三に不満を持つ国民が多数にもかかわらず、何故その安倍氏が率いる自民党に票を入れるとの行動に出るのか!?! その自己矛盾の程は一体如何なる思想的背景に基づいているのか??
 私は選挙前に我がエッセイ集にて再三再四訴えて来た。 自分自身でよ~~く考えて「少しはマシと思える党に貴重な一票を入れよう!」と。
 それが安倍晋三率いる「自民党」になる、なる発想の程が私にはまったく理解不能だ。

 もちろん、我が国において戦後長年に渡り自民党政権が続いた時代は私も心得ている。
 過去に我が過疎地で経験しているが、特に高齢者程個々人に何の思想もなく、まさに“地元の政党の地力”や世襲により「自民党」が勝利する図式となっていた。 (今回の衆院選でも我が過疎地小選挙区当選者は自民党現職のようだが。)
 あるいは、自民党は現在に至って公共事業の癒着恩恵でゼネコン等々に巨大なコネを持っているとの話も聞く。それらの大企業と政党間での“票強制”の実体も甚だしい現実であろう。 

 ただ私が推測するに、上記「地権慣れ合い」や「癒着」と何らの関係もない国民さえもが自民党に投票した形跡もあるような気がするのだ。
 それも理解出来る気がする。 要するに、それら「地権」や「癒着」の下で育ってきた国民達が、これぞ一番の選択と信じて疑っていない歴史が我が国に未だ蔓延っている現実ではなかろうか?? ( 私としては、これぞ我が国に於ける「恐怖伝説」と位置付けたい程だが。)


 もう一点私がバッシングしたいのは、自民党内でも「反安倍」の動きがあるのに何故有能な自民党議員達がそれを行動に移さないのか、との点だ。

 確かにこの5年間、自民党政権内での「党内野党」が何の実力も発揮していない。 と言うよりも、「党内野党」組織すら安倍独裁下で皆無状態だったのだろうか。
 ここに来て、少しばかり石破茂氏がその動きを見せているものの。 今回の選挙では石破氏も慎重論を唱え続けた。

 何故、自民党内がこれ程までに安倍晋三に迎合しているのかと言えば、その答えも簡単だ。 要するに、自身の議員生命が繋げるからに決まっている。
 それ程までに、国会議員との職業とは高収入にして美味しいのだろう。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 我が意としては実に不本意ながらも、今回またもや安倍晋三氏操る自民党政権が大勝してしまった。
 その全責任は投票行動をした国民にあるのはもちろんなのだが、国民の大多数が弱者故にその選択をせざるを得ないのであろう現実を鑑みると、何も言えないのも本音だ。
 
 そうだとして上記朝日新聞記事内に記載がある通り、私としては今回議席を伸ばした野党「立憲民主党」の“力強い野党力”に是非とも期待申し上げたい!
 まさに緊張感ある国会論議により、安倍政権の暴走を止める役割を担う野党第一党「立憲民主党」の今後の活躍の程を、しかと見守りたいものだ。

今回の衆院選で問われる軍事力行使に関する政治姿勢

2017年10月21日 | 時事論評
 冒頭より、2017.10.18朝日新聞夕刊 文芸・批評ページ「時事小言」 国際政治学者 藤原帰一氏による「この衆院選で問われているもの 『保守VS.革新」崩れても」 の記述の一部を、以下に要約して紹介しよう。


 そもそも今回の衆院選の意味が分からない。
 任期満了の解散ではない。 北朝鮮や税制についてもこれまでに日本政府のとってきた政策と異なる選択を問いかけるわけではない。 現政権への信任を問う選挙、それもいま解散すれば勝てそうだから衆院を解散した選挙である。
 新たに結成された希望の党もよくわからない。 現政権との違いはあるが、どこまでこの政党が「12のゼロ」にコミットしているのか心もとない。
 各党の主張を見る中で浮かび上がるのが、憲法への姿勢である。
 自民党 「憲法改正の原案を国会で提案・発議」
 希望の党 「憲法9条を含め憲法改正論議をすすめる」
 立憲民主党 「安保法制を前提とした憲法9条の改悪に反対」
 公明党 「平和安全法制」を認める点で立憲民主党と異なるが、憲法9条1項2項を堅持する点においては自民・希望とやや違いがある。
 憲法改正を支持する国会議員が、「安保法制は憲法の枠の中で安保条約との整合性を求め、紛争地域における平和構築への貢献も可能とするはずのものであるが、安保法制だけでは不十分、憲法改正が必要だ」と主張するのを聞いたこともある。
 国際政治を専門とする私(藤原氏ご自身)は、国際関係において軍事力の果たす役割は存在すると考える。 同盟と抑圧、さらに平和構築を軍事力抜きに考えることはできない。
 だが、憲法改正を求める政治家の主張は、平和主義の硬直を拒むあまり、軍事力の効果を過信しているのではないか。 攻撃すると脅せば相手が引っ込むとは限らない。 紛争における軍事力の効果を過大視すれば紛争を誘発し、拡大しかねない。
 憲法9条を擁護する政治家は、およそ二種類に分かれる。 第一は、憲法9条に基づく平和国家をつくる視点から、国際関係における軍事的関与を否定し日米同盟にも反対する立場。 もう一つは、国際関係において軍事力の果たす役割があることは認識し、日米同盟にも賛成するが、日本は軍事行動に慎重な政策を貫くべきであり、憲法はその慎重な姿勢を保つために重要な役割を果たしているという考えである。 前者が憲法の理想を支持しているとすれば、後者は憲法が権力に加える制約に期待するものである。   
 吉田茂首相の時代に生まれた、経済成長を優先する保守政党と護憲平和を求める野党諸党が織りなす戦後政治の構図は、現代世界と大きく異なる。 憲法を根拠に国際紛争への関与を拒むことは現実的でも正当でもない。 憲法9条に基づく平和国家という構想の中に国際危機への対応を読み込むことは私(藤原氏)は出来ない。 国際紛争から目をそらした日本だけの平和を求める意味も少ないだろう。 だが、保守対革新という構図の背景に、保守革新を通じて軍事力の行使には慎重な態度を共有する基本的な了解があったことは無視してはならない。
 そして、現在の国際関係ほど軍事力の行使に慎重な姿勢が必要な状況は少ない。 北朝鮮でもイラクでも戦争の可能性がかつてなく高まり、危機を戦争にエスカレートさせない判断力が必要だからだ。 合同練習によって抑止力を誇示したところで北朝鮮の行動を変えることは難しく、西側から先制攻撃を加えるリスクも高い。 軍事力の限界を知る人でなければ、この状況における外交を担うことはできない。 
 保守か革新か、安保か憲法かという伝統的な図式はすでに後退している。 軍事力の行使に慎重を求めるという戦後日本政治の基本的合意を壊してよいのか。 
 この選挙で問われているのはその点である。
 (以上、朝日新聞「時事小言」国際政治学 藤原帰一氏の記述を、原左都子が要約して紹介したもの。)


 原左都子の私見に入ろう。

 9月末頃に突然「衆院解散総選挙」を発表した当初、その張本人である安倍首相は突如として「消費税を10%に上げてその増税分を国民の皆さんの社会保障に充てる」、と今回の選挙の主柱らしき(私に言わせてもらえば、国債額膨大にして完全論理破綻の)声明を出した。 
 即座に野党がそれに反発し始めると、安倍首相は今度は論点を北朝鮮問題にすり替え、やたらに拉致被害者を表に出す作戦に出た後、決して消費税増税に触れなくなった。
 そして希望の党が自滅し始めた暁には、まんまと自公与党“棚ぼた”勝利を確信した様子で、今では既に安倍政権続投に向け平然と余裕を扱(こ)いている有様だ。

 そんな安倍首相から、アカデミックなレベルの「憲法論」を聞いたためしが一度も無い。
 ただただ改憲・安保法制定を自分勝手に強直に国民に押し付け、(他の主要国首長が誰一人として全面的に迎合しない)米国のトランプ大統領に迎合しつつ、「北朝鮮には断固として制裁を加え続ける!」とトランプ氏に従い明言し続けている。

 上記の藤原氏記述に賛同する私の視点からだが、安倍首相は何故、素人もどきに(大変失礼だが知能指数の程が疑われそうな)非アカデミックな発言を国民に平然と投げ続けるのだろう?
 一国の首相であるならば、時には過去の政治を振り返り先人政治家達の偉業の程を確認しその知恵を拝借したり、あるいは現役政治学者とまみえてその学術力を自身の政治活動の参考にする等々の努力をするべきだろうに…。


 最後に私論だが。

 この私は、既に「期日前投票」を済ませた。
 以前より当エッセイ集にて公開しているが、上記憲法・安保論議も含めた総合評価で私は枝野氏率いる「立憲民主党」へ貴重な一票を投じてきた。
 枝野氏の「憲法・安保」観に関しては、先週放送されたBSプライムニュースにて2時間たっぷり枝野氏の現時点での思考・政策の程を聞き、同意させて頂いている。

 明日(10月22日)選挙に行かれる国民の皆様にお願いしたい。
 今回の衆院選挙の最大論点は、上に藤原氏が記されている通り「軍事力の行使に慎重を求めるという戦後日本政治の基本合意を壊してよいのか?」であろうと私も考える。
 ただその文言が多少難しいと感じる場合であれ、とにかく棄権せず、ご自身が“一番マシ”と思える党や人物に貴重な一票を投じて欲しいものだ。 

 巨大台風ねえ。 どこまでも混乱する今回の衆院選だこと……。 

自殺生徒を出した公立中学校は教員採用体制を再構築せよ

2017年10月19日 | 教育・学校
 高校教員経験がある私だが、教師時代にただの一度として生徒を叱った(怒った)事がない。
 そうはせず、あくまでも下手なりにも「指導・教育」をした事はあるかもしれない。

 このような表現を用いるのには、私なりの理由がある。 
 生徒を“感情的に叱る(怒る)”のが仕事と履き違えているらしき教員は、確かに周囲に山ほど存在した。 その行為こそが教員として正当な指導・教育との、教員間での暗黙の了解もあった。
 それが出来ないのは教員として失格、なる“叱らない教員”バッシングの姿勢すら感じさせられる機会も幾度か経験している。
 
 もしかしたら、私の場合は “叱れない教員” だったのかもしれない。
 それを嗅ぎ付けた上位教員より、その旨指摘された事もある。「叱る時に叱ってくれないと他のクラスにまで迷惑が及ぶ、ナンタラカンタラ…」  とりあえず「申し訳ございません」と頭を下げて、その場をやり過ごした記憶があるが、(私の場合生徒間で人気教員だったとのプラス面の印象が大きいのか??)その後しつこくそれを繰り返される事はなかった。 (“怒らない”教員も学校運営に不可欠と、当該上位教員は悟る力量があったのだろう。)

 ある時、教室の生徒の一人が「先生、本当は怒っているでしょ?」と授業中に言い始めた。 これに追随した生徒達が「そうだよ。本当は先生は怒っているよ!」と同意し始めるではないか。
 この生徒達の発言には理由がある。 私は教員着任後比較的早期に「私は、怒らない人格です、ナンタラカンタラ…」と自己紹介内で明言していたのだ。
 何故そうなのか。 教員としての私なりの確固たるポリシーがあった故だ。
 そのポリシーとは、まずは相手が高校生との年代に達している事実だ。 相手は既に自我が芽生え主体的に物事を考えられる年代に達しているはずだ。 そのように人間として対等であるはずの相手を掴まえて、教員経歴が浅い人間が偉そうに“上から目線”で怒れるはずもなかろう。
 実際、私よりも“大人”と感じる生徒達に心理面で助けられる日々だった。 その状況に感謝こそしても、まさかこちらから「こらー、この馬鹿!!」とどこかの国会議員のような怒声を生徒に浴びせ掛ける必然性が一切無かったのだ。

 では、どうして生徒間から「先生、本当は怒っているでしょ?」なる質問が出てしまうのか?
 これぞ、現在の公教育が抱えている “病理” と結論付けられるのではあるまいか?
 生徒皆が幼稚園時代より高校に至るまで、教室内に響き渡る教員らの心無い罵声に耐え抜いてきた事実を物語る現象だったと、悲しいかな推測する。
 
 
 さて、話題を表題に戻そう。

 まずは、先程見たネット情報の一部を以下に要約して紹介しよう。

 福井県池田町の町立池田中学校で3月、2年生の男子生徒=当時(14)が男性担任と女性副担任から厳しい叱責を受け続け自殺した問題で、担任が家庭訪問をした際、生徒の祖母が「テレビで言っているようなこと(自殺)にはならないようにしてほしい」と話していたことが10月19日、町教育委員会が設置した調査委員会の報告書から分かった。  報告書によると、家庭訪問は2月21日に2回行われ、担任が生徒と祖母、母親と面談した。
 生徒はこの日学校へ行くのを嫌がり、母親に「宿題の件で副担任から怒られ、『やる気のない者は出さなくてもいい』と言われた。何を言っても言い訳と決め付ける。担任にも未提出物について強く怒られた」と説明した。
 母親が学校に電話すると、担任は3時間目に家庭を訪問し家にいた生徒と祖母と面談した。 祖母はその席で、「教師ならその子その子の性格や気持ちを考慮して対処してほしい。傷つきやすい子だから気をつけて」と述べ、自殺などへの注意も促した。
 同日夜、再び訪問した担任は母親に、「副担任は僕がちゃんと見る。二人きりにならないよう注意する。今度の件は上に報告してしっかり対応していく」と約束した。 しかし担任は副担任に特に話をせず、校長と教頭には副担任の指導が生徒の気持ちをくんでいない面があると報告したが、二人から特段の指示はなかったという。 

 
 一旦、私見及び私事に入ろう。

 上記ネット情報を読む限り、中2男子生徒の家族の方々は学校側と誠実に対応出来ていると判断する。
 特に祖母である人物が、「自殺にならないようにしてほしい」「教師なら生徒個々の性格や気持ちを考慮して対応して欲しい」なる嘆願まで担任に伝えている事実は見逃せない。
 それにもかかわらず担任が中途半端な態度しかとれず、生徒を自殺に追いやったと読み取れる。

 ここで再び私事だが。 我が過疎地の義務教育現場も惨憺たる有様であるとの話題を、定年まで過疎地の公務員として勤めた実母より聞く機会がある。  その話によれば、公立学校教員採用など、特に過疎地の過疎地域ほど現在でも“コネ・金銭対応”が事実のようだ。

 そんなものだろうと想像はしていたが、(以下は我が想像に基づく範囲内での記述だが)もしかしたら、上記自殺生徒を出した福井県の中学校も、教員を“コネ採用”に頼っていないだろうか??


 最後に私論でまとめよう。

 “コネ採用”ほど不透明な採用方式は無いだろう。
 特に小中学校義務教育課程の教員採用を決して甘く見てはならない。
 私の感覚によれば、小中学校のお勉強など教員資格さえ取得していれば教育内容は誰でも教えられるのではなかろうか? と大いに勘違いしている古き体制の過疎地教委連中が多い現状ではあるまいか??
 今現在の小中学校の教科内容は、おそらく貴方達教委高齢者の想像を超えて劇的に進化しているだろうに…。

 加えて、現在の小中学校にて一番に配慮・教育するべきは、まさに集団内の人間関係であるはずだ。
 今回の男子生徒自殺は、学校内の“いじめ”によるものではなかったものの。
 もっと基本的な厳しい課題である “教員対生徒” の人間関係に於いて引き起こされた悲惨な事件だ。
 この事件の全責任は、全面的に生徒にかかわった教員達及び学校・教委に帰属する事実には間違いない!

 事件が発生した福井県のみならず、どうか全国各自治体が同様の事件を再度引き起こさないためにも、少なくとも“コネ採用”は終焉する等、今後の教員採用体制の見直しから着手し直して欲しいものだ。