先だって、ある美術家の個展に足を運ばせていただいた。
現在、抽象画を中心に描いている美術家でいらっしゃるのだが、今回の個展では、紬織の独特の風合いや色合いを活かして画布に用いる等、和と洋の融合を試みられた作品や、また、具象と抽象が交錯したようなCGによる作品等を拝見した。
この美術家氏は、ブログを通してネットでもCG作品を公開していらっしゃる。氏はこのネットでの作品公開においてユニークな試みをされている。
そのCG作品創作のひとつの特徴は、氏がめざす完成形に至るまでの過程形とでも表現させていただいてよいのか、ひとつのテーマにつき、まさに“移ろいゆく抽象の世界”の幾枚もの作品を発表されているという点である。しかも、これがいよいよ完成形かと思いきや、さらに移ろいゆきどんどん別世界へといざなう展開もあるのだ。
さらに氏のユニークな取り組みのもう一点は、ネット上の対話による創作活動である。ネットで公開した作品に対し、ネットでの観賞者より様々な感想が入る。その鑑賞者の感想が氏にとってさらなる創作のイメージとなり、抽象の世界はどんどん移ろいゆくのである。
私は美術に関してはズブの素人ながら、図々しくも何度か氏の作品に関する感想コメントを入れさせていただいた。そうしたところ、こんなド素人の感想をも、次なる展開のイメージとして作品に取り入れて下さったことがあるのだ。
私は素人考えながら、どちらかというと具象画よりも抽象画を好む。まずは、作品を購入する場合に、抽象画の方が場を選ばないというのか素人にも部屋に合わせやすいように思えるからだ。 それに、抽象画というのは観賞側の感覚次第で如何なる解釈も可能であり、押し付けがましくない点が好みである。もちろん、具象画とて様々な解釈が可能なのではあろうが、抽象画の方がよりフリーな想像の世界へ旅立てるように感じる。
話は変わるが、この個展の美術家氏より美術の世界における“具象と抽象”のお話を伺ったのだが、その時どういう訳か、私の脳裏にはプラトンが「洞窟の比喩」の中で説いた“可視的世界”と“可知的世界”が浮かんだ。
プラトンの「イデア論」に関しては当ブログの学問・研究カテゴリーの記事で既に取り上げているので参照いただきたいのだが、以下に「洞窟の比喩」について私なりの解釈で簡単に説明してみる。
洞窟の中に光が差し込む入り口とは反対側の奥の暗い壁に向かって人間が存在している。人間の背後には火が燃えていて奥の壁にはその火の輝きで操り人形の影絵が投影されている。人間はこの影絵を見て暮らしている。ここは“可視的世界”である。洞窟の入り口の外には明るい“可知的世界”が広がっている。しかし、人間は背後で燃えている火が眩しくて後ろを向きたがらない。 このように、通常の人間とは常にeikasiaの状態に陥っている存在である。(eikasiaとは、実物に対するその影、という意味である。)
私達は何かの影を見たら、その影の元にあるものがこの影を投げていると考える。だが、確信はない。それで、私達は振り向いてその影の正体を確認する。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの影だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその影の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。
美術の世界における“具象と抽象”。人の好みは様々であろう。私には残念ながら美術の心得もセンスもなく、ただただ観賞させていただいて楽しむしか能がない人間なのであるが、その創造の世界は人を魅了し、別世界へといざなってくれる。すばらしい作品に出会えると、まさに“イデア”が見えたような気さえする。
美術、音楽、etc… 芸術とは本当にすばらしい人間の業である。
5月の連休に入ったことですし、行楽もいいのですが、こんな機会に芸術や学問の世界にゆっくりとトリップするのもまた味なものですね。
(本文中で取り上げさせていただいた美術家氏のブログへは、左下のBOOKMARK「貴祥庵」から入れます。)
現在、抽象画を中心に描いている美術家でいらっしゃるのだが、今回の個展では、紬織の独特の風合いや色合いを活かして画布に用いる等、和と洋の融合を試みられた作品や、また、具象と抽象が交錯したようなCGによる作品等を拝見した。
この美術家氏は、ブログを通してネットでもCG作品を公開していらっしゃる。氏はこのネットでの作品公開においてユニークな試みをされている。
そのCG作品創作のひとつの特徴は、氏がめざす完成形に至るまでの過程形とでも表現させていただいてよいのか、ひとつのテーマにつき、まさに“移ろいゆく抽象の世界”の幾枚もの作品を発表されているという点である。しかも、これがいよいよ完成形かと思いきや、さらに移ろいゆきどんどん別世界へといざなう展開もあるのだ。
さらに氏のユニークな取り組みのもう一点は、ネット上の対話による創作活動である。ネットで公開した作品に対し、ネットでの観賞者より様々な感想が入る。その鑑賞者の感想が氏にとってさらなる創作のイメージとなり、抽象の世界はどんどん移ろいゆくのである。
私は美術に関してはズブの素人ながら、図々しくも何度か氏の作品に関する感想コメントを入れさせていただいた。そうしたところ、こんなド素人の感想をも、次なる展開のイメージとして作品に取り入れて下さったことがあるのだ。
私は素人考えながら、どちらかというと具象画よりも抽象画を好む。まずは、作品を購入する場合に、抽象画の方が場を選ばないというのか素人にも部屋に合わせやすいように思えるからだ。 それに、抽象画というのは観賞側の感覚次第で如何なる解釈も可能であり、押し付けがましくない点が好みである。もちろん、具象画とて様々な解釈が可能なのではあろうが、抽象画の方がよりフリーな想像の世界へ旅立てるように感じる。
話は変わるが、この個展の美術家氏より美術の世界における“具象と抽象”のお話を伺ったのだが、その時どういう訳か、私の脳裏にはプラトンが「洞窟の比喩」の中で説いた“可視的世界”と“可知的世界”が浮かんだ。
プラトンの「イデア論」に関しては当ブログの学問・研究カテゴリーの記事で既に取り上げているので参照いただきたいのだが、以下に「洞窟の比喩」について私なりの解釈で簡単に説明してみる。
洞窟の中に光が差し込む入り口とは反対側の奥の暗い壁に向かって人間が存在している。人間の背後には火が燃えていて奥の壁にはその火の輝きで操り人形の影絵が投影されている。人間はこの影絵を見て暮らしている。ここは“可視的世界”である。洞窟の入り口の外には明るい“可知的世界”が広がっている。しかし、人間は背後で燃えている火が眩しくて後ろを向きたがらない。 このように、通常の人間とは常にeikasiaの状態に陥っている存在である。(eikasiaとは、実物に対するその影、という意味である。)
私達は何かの影を見たら、その影の元にあるものがこの影を投げていると考える。だが、確信はない。それで、私達は振り向いてその影の正体を確認する。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの影だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその影の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。
美術の世界における“具象と抽象”。人の好みは様々であろう。私には残念ながら美術の心得もセンスもなく、ただただ観賞させていただいて楽しむしか能がない人間なのであるが、その創造の世界は人を魅了し、別世界へといざなってくれる。すばらしい作品に出会えると、まさに“イデア”が見えたような気さえする。
美術、音楽、etc… 芸術とは本当にすばらしい人間の業である。
5月の連休に入ったことですし、行楽もいいのですが、こんな機会に芸術や学問の世界にゆっくりとトリップするのもまた味なものですね。
(本文中で取り上げさせていただいた美術家氏のブログへは、左下のBOOKMARK「貴祥庵」から入れます。)