原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

移ろいゆく抽象の世界

2008年04月29日 | 芸術
 先だって、ある美術家の個展に足を運ばせていただいた。
 現在、抽象画を中心に描いている美術家でいらっしゃるのだが、今回の個展では、紬織の独特の風合いや色合いを活かして画布に用いる等、和と洋の融合を試みられた作品や、また、具象と抽象が交錯したようなCGによる作品等を拝見した。

 この美術家氏は、ブログを通してネットでもCG作品を公開していらっしゃる。氏はこのネットでの作品公開においてユニークな試みをされている。
 そのCG作品創作のひとつの特徴は、氏がめざす完成形に至るまでの過程形とでも表現させていただいてよいのか、ひとつのテーマにつき、まさに“移ろいゆく抽象の世界”の幾枚もの作品を発表されているという点である。しかも、これがいよいよ完成形かと思いきや、さらに移ろいゆきどんどん別世界へといざなう展開もあるのだ。
 さらに氏のユニークな取り組みのもう一点は、ネット上の対話による創作活動である。ネットで公開した作品に対し、ネットでの観賞者より様々な感想が入る。その鑑賞者の感想が氏にとってさらなる創作のイメージとなり、抽象の世界はどんどん移ろいゆくのである。
 私は美術に関してはズブの素人ながら、図々しくも何度か氏の作品に関する感想コメントを入れさせていただいた。そうしたところ、こんなド素人の感想をも、次なる展開のイメージとして作品に取り入れて下さったことがあるのだ。

 私は素人考えながら、どちらかというと具象画よりも抽象画を好む。まずは、作品を購入する場合に、抽象画の方が場を選ばないというのか素人にも部屋に合わせやすいように思えるからだ。 それに、抽象画というのは観賞側の感覚次第で如何なる解釈も可能であり、押し付けがましくない点が好みである。もちろん、具象画とて様々な解釈が可能なのではあろうが、抽象画の方がよりフリーな想像の世界へ旅立てるように感じる。


 話は変わるが、この個展の美術家氏より美術の世界における“具象と抽象”のお話を伺ったのだが、その時どういう訳か、私の脳裏にはプラトンが「洞窟の比喩」の中で説いた“可視的世界”と“可知的世界”が浮かんだ。

 プラトンの「イデア論」に関しては当ブログの学問・研究カテゴリーの記事で既に取り上げているので参照いただきたいのだが、以下に「洞窟の比喩」について私なりの解釈で簡単に説明してみる。
 洞窟の中に光が差し込む入り口とは反対側の奥の暗い壁に向かって人間が存在している。人間の背後には火が燃えていて奥の壁にはその火の輝きで操り人形の影絵が投影されている。人間はこの影絵を見て暮らしている。ここは“可視的世界”である。洞窟の入り口の外には明るい“可知的世界”が広がっている。しかし、人間は背後で燃えている火が眩しくて後ろを向きたがらない。 このように、通常の人間とは常にeikasiaの状態に陥っている存在である。(eikasiaとは、実物に対するその影、という意味である。)

 私達は何かの影を見たら、その影の元にあるものがこの影を投げていると考える。だが、確信はない。それで、私達は振り向いてその影の正体を確認する。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの影だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその影の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。 


 美術の世界における“具象と抽象”。人の好みは様々であろう。私には残念ながら美術の心得もセンスもなく、ただただ観賞させていただいて楽しむしか能がない人間なのであるが、その創造の世界は人を魅了し、別世界へといざなってくれる。すばらしい作品に出会えると、まさに“イデア”が見えたような気さえする。
 美術、音楽、etc…    芸術とは本当にすばらしい人間の業である。

 
 5月の連休に入ったことですし、行楽もいいのですが、こんな機会に芸術や学問の世界にゆっくりとトリップするのもまた味なものですね。
  

(本文中で取り上げさせていただいた美術家氏のブログへは、左下のBOOKMARK「貴祥庵」から入れます。)
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学問は虚無からの脱出

2008年04月26日 | 学問・研究
 大学での教職免許取得課程の「教育原論」の授業において、「何のために勉強するのか」をテーマに小論文を書いた(書かされた)ことがある。
 この時既に私は30歳代前半。しばらくの職業経験を経た後、自らの意思で学業を修めるために再び入学した大学の授業でのことである。

 この小論文において、私は当時の持論を展開した。
「勉強すること、すなわち科学の探究とは“何かのため”にしなければいけないことなのか。私は純粋に学問を志し、再びこの年齢になって若者達といっしょに今、ここで学業に取り組んでいる。それはとても楽しく有意義なことである。勉強とは決して何かのためにすることではなく、人間が生きていくことそのものであると私は考える。」
 この私の小論文は「教育原論」担当教官に高く評価され、受講学生全員にコピーして配布された。


 さて話が変わるが、昨日(4月25日)の朝日新聞夕刊の連続コラム「悩みのレッスン」において、高校生の「勉強は役立つの」との相談に対し、私がファンである創作家の明川哲也氏が回答していた。

 まず、高校生の相談内容を要約しよう。
 私は進学校に通う受験生であるが、私には舞台役者になる夢がある。この夢が出来てから、勉強をする意味を見失い苦しんでいる。大学には行きたいけれど、それは単に4年間の猶予が欲しいだけだ。自分では勉強も芸の肥やしと言い聞かせるのだが本当のところはわからない。勉強って根性をつけること以外に将来何かに役立つのか?

 以下は、これに対する明川氏の回答の要約である。
 役者はスパークだ。心に火花がなければ何も伝わらない。あなたが役者の人生を選ぼうとすることは、むき出しの生をつかむこと、すなわち虚無との対決だ。今、意味がないと思える勉強にあなたの生は戸惑い、忍び寄る虚無に恐怖を感じている。それは理解できる。 ほぼすべての若者の対決は「生 vs 虚無」の構図にある。まず虚しさを知ることで、これに一度は敗北することが戦いの始まりだ。まさにそれが自主的に生き始めたあなたのような人に与えられた試練となる。 虚しさはあなたに選択と創作を強要する。スパークできる教科を思い切り楽しんで勉強すればいい。意味が感じられない教科は教科書をとっておき、いつか浸れば必ず花火を見せてくれる。 そしてその時、あらゆる学問は人類が虚無に引きずり込まれないために打ち上げた花火だったと気付く。人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさだったのだと。これを知った役者の花火はでかい。 
 

 私は明川哲也氏のファンであるため、氏に関しては当ブログのバックナンバーの記事で何度か取り上げている。
 その中で既に述べているのだが、なぜ私が明川氏のファンであるかというと、僭越ながら私の思考回路や価値観が氏と似ているように感じることがひとつの理由である。(私の単なる勘違いでしたら失礼をお詫び申し上げます。)

 今回のこの回答も我が意を得たりの思いなのである。まさに、明川氏の述べておられる通りである。
 
 勉強の意義を見出せないでいる若者をつかまえて、ただ「勉強しなさい」と連呼するのは無意味である。これは浅はかな大人がよくやる失敗である。しかも、この相談者の高校生は既に自分の夢が描けるほど生きる事に前向きであり、自主性を身につけ始めた上で、勉強の意義について悩んでいる。今の混沌とした、若者が目標の定めにくいこんな時代に、それだけでもすばらしいことであると私も考える。
 そんな若者にまずは「虚無」を認識させ、それに一度は敗北する事がスタートであることをアドバイスする明川氏はやはりすばらしい。

 学問とは人類が「虚無」に引きずり込まれないために打ち上げた花火であり、人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさである。
 そんな明川氏の考えに同感する私は、今後も学ぶ楽しさを満喫しながら人生を送りたいと考える。
   
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旅立ちの日の情景

2008年04月24日 | 雑記
 時候的には少しずれたが、何十年も経過した今なお私の脳裏に浮かぶ忘れえぬ情景がある。

 それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。


 東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。(私の父は造園の趣味があったため軽トラを所有していて、それを私の引越しに利用することにしたのだ。)
 出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積み込みに難儀した。そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。
 さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。
 もう出発しなければフェリーの時間もある。どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
 やっと母が玄関から少し顔を出した。その顔を見て、母の姿が見えなかった理由がわかった。泣きはらした顔をしているのだ。定年まで公務員としての仕事を全うし70歳代後半の今なお気丈な母なのだが、普段は決して人前では涙を見せないそんな気丈な母が、私の出発準備を終えた後、影で泣きはらしていたのだ。旅立ちの時に、私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。それでも、私が旅立つ姿を一目見たくて玄関から少しだけ顔を覗かせたのであろう。
 あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。それでも、今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。
 父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。

 フェリー乗り場には、祖父母と叔父一家が見送りに来てくれていた。当時はまだビデオカメラなどない時代だったのだが、祖父に8ミリ映像を写す趣味があったため、8ミリカメラでデッキから私が手を振り船が岸壁を離れる様子を撮影してくれていた。お陰で、帰省するとこの映像を見せてもらい当時を懐かしんだものである。

 フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。

 父がしばらく滞在して、私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。

 そして父が田舎に帰る日がやって来た。どうしても父との別れがつらい。心細い。朝から泣けてしょうがない。後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に頼むのだが、父には仕事もある。 実は私の東京行きを直前まで反対した父であった。そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
 後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはないらしい。部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生において忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。
 そんな父ももう既に他界している。

 こうして私の東京での初めての自立生活がスタートしたのだが、父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。この東京で強く生きていかねば、とその日の午後早速出かけることにした。ターミナル駅まで電車に乗って出かけ買い物をしたことを憶えている。


 あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。
 今年の母の日には、どんな親孝行をしようか。
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喋りの洪水は暴力行為

2008年04月22日 | 人間関係
 あなたは、話し上手? それとも聞き上手?

 朝日新聞夕刊「こころ」のページに先週から「悩みのレッスン」という連続コラムが新設された。これは若者の悩み事の相談に見識者が回答するQ&Aの形式をとったコラムである。
 先週4月18日(金)の相談は「心を開けない」と題して、周囲の人に対して自己表現がうまくできない高校生からの相談に対し、作家のあさのあつこ氏が回答していた。

 以下にあさの氏の回答を要約する。
 あなたはちゃんと自分の思いを表現できていて見事なほどだ。こんな的確な文章が書ける人がどうして「自分を表現できない」と悩むのか。おしゃべりが苦手なのであれば、聞き役に回ってみたらどうか。周りの人の話に耳を傾けて共感したらうなずいてみる、それも感情表現だ。(中略) 他者に心を開け放つことは簡単ではない。開け放てる相手に、巡り合ってこそできる。変わらなくてもいい自分に気付こう。自分を好きになることが心を開く第一歩になるはず。

 このあさの氏の回答に私もほぼ賛同する。この相談者の高校生が書いた相談文は見事なまでに自分の思いを表現できているのだ。 
 おそらく口述が下手なのであろう。その背景には心を開ける相手にまだ巡り合えていないという事情があるのだと私も考える。誰だって心を開いている相手とは楽しくおしゃべりができるものだ。逆に顔も見たくない奴とはそもそも話をしようとも思わない。自分を変える必要など何もない。まずは心を開ける相手と巡り合うことが先決問題であろう。

 あさの氏の回答で一箇所気になるのは、口下手な人間は聞き役に回らなければいけないのか、という点である。
 とかく最近は一方的に自己主張をしたがる人間が多い。複数の人間が集まって談話するような場面でも、場の雰囲気が読めずに自分のことばかり話す人は少なくない。そういう人に限って話がひとりよがりで面白くないものだ。自分を客観視できていない証拠である。それでもやむを得ず回りは聞いている振りをしているということに、しゃべっている本人は最後まで気付かない。まさに喋りの洪水だ。3名以上いる場合は、この難儀な聞き役も休み休みできるのでまだましだが、1対1の時は悲惨だ。この言葉の洪水が常時暴力的に押し寄せてくる。 私は人が良すぎるのか、はたまた理性がはたらき過ぎて場をわきまえ過ぎるのか(?)よくこの目に合うのだ。 相手はこちらの苦悩がわかっていない。とことん喋ってスッキリしているようで、また会って話そうね、とうれしそうに別れていく。(単細胞のあんたが一人でくっちゃべっただけだろうに…) こちらは無駄な時間を費やしたことを悔やみ胃痛とストレスを抱えつつ、金輪際こういう奴の聞き役はご免被るぞ、と決意しつつ帰路に着く。
 もちろん、こういう相手というのはそもそもこちらは心を開いていない相手である。心を開いている仲良し相手なら、とにかく話していて面白い。そういうツーカーの相手とはどちらかが話し役でどちらかが聞き役という役割分担など一切ない。自然と会話のキャッチボールがうまくいっていて、充実した時間が過ぎていく。初対面でこういう相手に巡り合えることもある。思考回路や価値観等に共通項があって、いわゆる“相性”がいいのであろう。

 この相談者の高校生も、もしかしたら私と同じような経験をして同じような考えを抱いているのかもしれない。ただ未成年であるしまだまだ人生経験が浅くて、今のところ心を開ける相手に巡り合えていないだけなのであろう。十分な自己表現力を内に秘めているのだから何も自分を変える必要はないし、ましてや無理をしてまで心を開いていない相手の“聞き役”をしてさらなるストレスを溜め込む必要などさらさらないと、私ならばアドバイスしてあげたい。
 

 確かに思う存分喋ると爽快感が得られる。そして“喋る”という行為はストレス発散の優れた方法のひとつとして一般的に推奨されてもいる。
 ところが、“喋り”とは“聞き役”という相手の人間なくして成立し得ない行為でもある。“喋り”も度を過ぎれば言葉の洪水となりそれが“聞き役”に限りないストレスをもたらす“暴力行為”であることを肝に銘じ、場を読み自分を客観視しつつ“喋って”いただきたいものである。
 
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人間って若返らなきゃいけないの?

2008年04月19日 | 医学・医療・介護
 「もし、あなたが若返れるとすると何歳位に戻りたいか?」この種の質問をよく投げかけられる。
 これに対する私の答は、一貫して「その必要はなし」である。 若返りたいなどという発想は私には一切ない。

 昔から“才色兼備”という言葉があるように、才能と美貌を兼ね備えていられるならばそんなにすばらしいことはない。
 ところが近年、この“美しさ”の基準が画一化しているような現象によく出くわす。(当ブログの“その他オピニオン”カテゴリー「美の呪縛」において、この現象に関するオピニオンを既に述べておりますのでご参照下さい。)

 この私とて美しくありたいとは常に考え、そうあるべく行動しているつもりではある。(結果の如何はともかく…)

 その美しさの基準の画一化現象のひとつとして、表題の“若返り”があげられる。“アンチエイジング”などと体裁のいい言葉で語られて美化され、運動生理学、栄養学、美容外科、等多分野においてもっともらしく“研究”され、マスメディアやメーカーが利潤追求のためにこの“アンチエイジング”を世間にあおっているようであるが、早い話がその実態は“若返り”である。


 その中で、今回は美容整形を取り上げてみよう。

 これはどうしたことか。近年の芸能界では30代後半以降の女性タレントは皆、しわ伸ばし整形をして不自然なテカテカ顔をしている。私よりもずっと年上のお婆ちゃん女優ですら見るからに故意にひっぱったテカテカの不気味な顔をマスメディアで披露している。

 このしわ伸ばし整形のひとつとして「ボトックス注射」という方法がある。これはしわの部分にボツリヌス菌の毒素を注射することによりしわを目立たなくする方法であるのだが、ボツリヌス菌といえば食中毒の原因となるグラム陽性嫌気性細菌だ。生物兵器としての研究開発が試みられた事もある程殺傷能力の強い細菌である。このボツリヌス菌の神経毒で末梢神経を麻痺させることによりしわをとるのが「ボトックス注射」であるが、末梢神経は再生力があるため、しわなし顔を維持し続けるには定期的にこの注射を繰り返す必要があるという。
 一応安全性は確保されているということだが、毒素を体内に注入して抹消神経を麻痺させてまでしわをとりたいと考える女性(男性も?)の神経とはどれ程太いのであろうか?

 また、皮膚を切り取って引っ張るという方法もあるらしい。この方法による場合もテカテカ顔を維持し続けるためには定期的に繰り返す必要があるということなのだが、度々繰り返していると耳の位置が後方にずれてくるらしい。(美容院の待ち時間に読んだ女性週刊誌情報のため、その信憑性は不明であるが。)    それで、何だかエイリアンのような不気味な顔つきなのか???!!


 このように涙ぐましい努力をしてまで“若返ろう”とする女性(男性も?)達は一体どんな価値観を持ち、何を目指そうとしているのか。
 おそらくその思想の根底には “若さ=美しさ”という等式が成り立っているのであろう。 その理論は一見正しい。単純に比較した場合“つるつるすべすべ”の方が“しわだらけ”よりも美しいと感じる人が圧倒的多数であろう。
 だが、もう少し深い思慮があれば、それがまさに単純な評価でしかないことに気付きそうなものなのだが…。

 本来の人間同士の付き合いとは全人格的な関係であり、それが人間関係の醍醐味であると私は実感し、その喜びを享受しながら今まで生きてきている。

 外見だけを繕いたい人達というのは、それまでの人生において、もしかしたら人間としての全人格的付き合いの経験に乏しく、単に表面的な事柄で評価されてしまうという偏った経験しかしてきていないのかもしれない。そんな薄っぺらな人生経験に基づく貧弱な発想が、美容整形という突拍子もない行動へと駆り立てるのではなかろうか。

 繰り返すが、この私とて“美しく”ありたい。この思いは私の思想の根底に常に根強く存在する。“美しさ”の本来の意味合いを再認識しつつ、顔にボツリヌス菌など注入せずに、今後共私らしい美学を貫いていきたいものである。 
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