原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

移ろいゆく抽象の世界

2008年04月29日 | 芸術
 先だって、ある美術家の個展に足を運ばせていただいた。
 現在、抽象画を中心に描いている美術家でいらっしゃるのだが、今回の個展では、紬織の独特の風合いや色合いを活かして画布に用いる等、和と洋の融合を試みられた作品や、また、具象と抽象が交錯したようなCGによる作品等を拝見した。

 この美術家氏は、ブログを通してネットでもCG作品を公開していらっしゃる。氏はこのネットでの作品公開においてユニークな試みをされている。
 そのCG作品創作のひとつの特徴は、氏がめざす完成形に至るまでの過程形とでも表現させていただいてよいのか、ひとつのテーマにつき、まさに“移ろいゆく抽象の世界”の幾枚もの作品を発表されているという点である。しかも、これがいよいよ完成形かと思いきや、さらに移ろいゆきどんどん別世界へといざなう展開もあるのだ。
 さらに氏のユニークな取り組みのもう一点は、ネット上の対話による創作活動である。ネットで公開した作品に対し、ネットでの観賞者より様々な感想が入る。その鑑賞者の感想が氏にとってさらなる創作のイメージとなり、抽象の世界はどんどん移ろいゆくのである。
 私は美術に関してはズブの素人ながら、図々しくも何度か氏の作品に関する感想コメントを入れさせていただいた。そうしたところ、こんなド素人の感想をも、次なる展開のイメージとして作品に取り入れて下さったことがあるのだ。

 私は素人考えながら、どちらかというと具象画よりも抽象画を好む。まずは、作品を購入する場合に、抽象画の方が場を選ばないというのか素人にも部屋に合わせやすいように思えるからだ。 それに、抽象画というのは観賞側の感覚次第で如何なる解釈も可能であり、押し付けがましくない点が好みである。もちろん、具象画とて様々な解釈が可能なのではあろうが、抽象画の方がよりフリーな想像の世界へ旅立てるように感じる。


 話は変わるが、この個展の美術家氏より美術の世界における“具象と抽象”のお話を伺ったのだが、その時どういう訳か、私の脳裏にはプラトンが「洞窟の比喩」の中で説いた“可視的世界”と“可知的世界”が浮かんだ。

 プラトンの「イデア論」に関しては当ブログの学問・研究カテゴリーの記事で既に取り上げているので参照いただきたいのだが、以下に「洞窟の比喩」について私なりの解釈で簡単に説明してみる。
 洞窟の中に光が差し込む入り口とは反対側の奥の暗い壁に向かって人間が存在している。人間の背後には火が燃えていて奥の壁にはその火の輝きで操り人形の影絵が投影されている。人間はこの影絵を見て暮らしている。ここは“可視的世界”である。洞窟の入り口の外には明るい“可知的世界”が広がっている。しかし、人間は背後で燃えている火が眩しくて後ろを向きたがらない。 このように、通常の人間とは常にeikasiaの状態に陥っている存在である。(eikasiaとは、実物に対するその影、という意味である。)

 私達は何かの影を見たら、その影の元にあるものがこの影を投げていると考える。だが、確信はない。それで、私達は振り向いてその影の正体を確認する。プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの影だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその影の人生に満足しきっている。一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。プラトンはそう語っている。 


 美術の世界における“具象と抽象”。人の好みは様々であろう。私には残念ながら美術の心得もセンスもなく、ただただ観賞させていただいて楽しむしか能がない人間なのであるが、その創造の世界は人を魅了し、別世界へといざなってくれる。すばらしい作品に出会えると、まさに“イデア”が見えたような気さえする。
 美術、音楽、etc…    芸術とは本当にすばらしい人間の業である。

 
 5月の連休に入ったことですし、行楽もいいのですが、こんな機会に芸術や学問の世界にゆっくりとトリップするのもまた味なものですね。
  

(本文中で取り上げさせていただいた美術家氏のブログへは、左下のBOOKMARK「貴祥庵」から入れます。)
Comments (6)

学問は虚無からの脱出

2008年04月26日 | 学問・研究
 大学での教職免許取得課程の「教育原論」の授業において、「何のために勉強するのか」をテーマに小論文を書いた(書かされた)ことがある。
 この時既に私は30歳代前半。しばらくの職業経験を経た後、自らの意思で学業を修めるために再び入学した大学の授業でのことである。

 この小論文において、私は当時の持論を展開した。
「勉強すること、すなわち科学の探究とは“何かのため”にしなければいけないことなのか。私は純粋に学問を志し、再びこの年齢になって若者達といっしょに今、ここで学業に取り組んでいる。それはとても楽しく有意義なことである。勉強とは決して何かのためにすることではなく、人間が生きていくことそのものであると私は考える。」
 この私の小論文は「教育原論」担当教官に高く評価され、受講学生全員にコピーして配布された。


 さて話が変わるが、昨日(4月25日)の朝日新聞夕刊の連続コラム「悩みのレッスン」において、高校生の「勉強は役立つの」との相談に対し、私がファンである創作家の明川哲也氏が回答していた。

 まず、高校生の相談内容を要約しよう。
 私は進学校に通う受験生であるが、私には舞台役者になる夢がある。この夢が出来てから、勉強をする意味を見失い苦しんでいる。大学には行きたいけれど、それは単に4年間の猶予が欲しいだけだ。自分では勉強も芸の肥やしと言い聞かせるのだが本当のところはわからない。勉強って根性をつけること以外に将来何かに役立つのか?

 以下は、これに対する明川氏の回答の要約である。
 役者はスパークだ。心に火花がなければ何も伝わらない。あなたが役者の人生を選ぼうとすることは、むき出しの生をつかむこと、すなわち虚無との対決だ。今、意味がないと思える勉強にあなたの生は戸惑い、忍び寄る虚無に恐怖を感じている。それは理解できる。 ほぼすべての若者の対決は「生 vs 虚無」の構図にある。まず虚しさを知ることで、これに一度は敗北することが戦いの始まりだ。まさにそれが自主的に生き始めたあなたのような人に与えられた試練となる。 虚しさはあなたに選択と創作を強要する。スパークできる教科を思い切り楽しんで勉強すればいい。意味が感じられない教科は教科書をとっておき、いつか浸れば必ず花火を見せてくれる。 そしてその時、あらゆる学問は人類が虚無に引きずり込まれないために打ち上げた花火だったと気付く。人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさだったのだと。これを知った役者の花火はでかい。 
 

 私は明川哲也氏のファンであるため、氏に関しては当ブログのバックナンバーの記事で何度か取り上げている。
 その中で既に述べているのだが、なぜ私が明川氏のファンであるかというと、僭越ながら私の思考回路や価値観が氏と似ているように感じることがひとつの理由である。(私の単なる勘違いでしたら失礼をお詫び申し上げます。)

 今回のこの回答も我が意を得たりの思いなのである。まさに、明川氏の述べておられる通りである。
 
 勉強の意義を見出せないでいる若者をつかまえて、ただ「勉強しなさい」と連呼するのは無意味である。これは浅はかな大人がよくやる失敗である。しかも、この相談者の高校生は既に自分の夢が描けるほど生きる事に前向きであり、自主性を身につけ始めた上で、勉強の意義について悩んでいる。今の混沌とした、若者が目標の定めにくいこんな時代に、それだけでもすばらしいことであると私も考える。
 そんな若者にまずは「虚無」を認識させ、それに一度は敗北する事がスタートであることをアドバイスする明川氏はやはりすばらしい。

 学問とは人類が「虚無」に引きずり込まれないために打ち上げた花火であり、人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさである。
 そんな明川氏の考えに同感する私は、今後も学ぶ楽しさを満喫しながら人生を送りたいと考える。
   
Comments (4)

旅立ちの日の情景

2008年04月24日 | 雑記
 時候的には少しずれたが、何十年も経過した今なお私の脳裏に浮かぶ忘れえぬ情景がある。

 それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。


 東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。(私の父は造園の趣味があったため軽トラを所有していて、それを私の引越しに利用することにしたのだ。)
 出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積み込みに難儀した。そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。
 さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。
 もう出発しなければフェリーの時間もある。どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
 やっと母が玄関から少し顔を出した。その顔を見て、母の姿が見えなかった理由がわかった。泣きはらした顔をしているのだ。定年まで公務員としての仕事を全うし70歳代後半の今なお気丈な母なのだが、普段は決して人前では涙を見せないそんな気丈な母が、私の出発準備を終えた後、影で泣きはらしていたのだ。旅立ちの時に、私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。それでも、私が旅立つ姿を一目見たくて玄関から少しだけ顔を覗かせたのであろう。
 あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。それでも、今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。
 父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。

 フェリー乗り場には、祖父母と叔父一家が見送りに来てくれていた。当時はまだビデオカメラなどない時代だったのだが、祖父に8ミリ映像を写す趣味があったため、8ミリカメラでデッキから私が手を振り船が岸壁を離れる様子を撮影してくれていた。お陰で、帰省するとこの映像を見せてもらい当時を懐かしんだものである。

 フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。

 父がしばらく滞在して、私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。

 そして父が田舎に帰る日がやって来た。どうしても父との別れがつらい。心細い。朝から泣けてしょうがない。後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に頼むのだが、父には仕事もある。 実は私の東京行きを直前まで反対した父であった。そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
 後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはないらしい。部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生において忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。
 そんな父ももう既に他界している。

 こうして私の東京での初めての自立生活がスタートしたのだが、父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。この東京で強く生きていかねば、とその日の午後早速出かけることにした。ターミナル駅まで電車に乗って出かけ買い物をしたことを憶えている。


 あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。
 今年の母の日には、どんな親孝行をしようか。
Comments (6)

喋りの洪水は暴力行為

2008年04月22日 | 人間関係
 あなたは、話し上手? それとも聞き上手?

 朝日新聞夕刊「こころ」のページに先週から「悩みのレッスン」という連続コラムが新設された。これは若者の悩み事の相談に見識者が回答するQ&Aの形式をとったコラムである。
 先週4月18日(金)の相談は「心を開けない」と題して、周囲の人に対して自己表現がうまくできない高校生からの相談に対し、作家のあさのあつこ氏が回答していた。

 以下にあさの氏の回答を要約する。
 あなたはちゃんと自分の思いを表現できていて見事なほどだ。こんな的確な文章が書ける人がどうして「自分を表現できない」と悩むのか。おしゃべりが苦手なのであれば、聞き役に回ってみたらどうか。周りの人の話に耳を傾けて共感したらうなずいてみる、それも感情表現だ。(中略) 他者に心を開け放つことは簡単ではない。開け放てる相手に、巡り合ってこそできる。変わらなくてもいい自分に気付こう。自分を好きになることが心を開く第一歩になるはず。

 このあさの氏の回答に私もほぼ賛同する。この相談者の高校生が書いた相談文は見事なまでに自分の思いを表現できているのだ。 
 おそらく口述が下手なのであろう。その背景には心を開ける相手にまだ巡り合えていないという事情があるのだと私も考える。誰だって心を開いている相手とは楽しくおしゃべりができるものだ。逆に顔も見たくない奴とはそもそも話をしようとも思わない。自分を変える必要など何もない。まずは心を開ける相手と巡り合うことが先決問題であろう。

 あさの氏の回答で一箇所気になるのは、口下手な人間は聞き役に回らなければいけないのか、という点である。
 とかく最近は一方的に自己主張をしたがる人間が多い。複数の人間が集まって談話するような場面でも、場の雰囲気が読めずに自分のことばかり話す人は少なくない。そういう人に限って話がひとりよがりで面白くないものだ。自分を客観視できていない証拠である。それでもやむを得ず回りは聞いている振りをしているということに、しゃべっている本人は最後まで気付かない。まさに喋りの洪水だ。3名以上いる場合は、この難儀な聞き役も休み休みできるのでまだましだが、1対1の時は悲惨だ。この言葉の洪水が常時暴力的に押し寄せてくる。 私は人が良すぎるのか、はたまた理性がはたらき過ぎて場をわきまえ過ぎるのか(?)よくこの目に合うのだ。 相手はこちらの苦悩がわかっていない。とことん喋ってスッキリしているようで、また会って話そうね、とうれしそうに別れていく。(単細胞のあんたが一人でくっちゃべっただけだろうに…) こちらは無駄な時間を費やしたことを悔やみ胃痛とストレスを抱えつつ、金輪際こういう奴の聞き役はご免被るぞ、と決意しつつ帰路に着く。
 もちろん、こういう相手というのはそもそもこちらは心を開いていない相手である。心を開いている仲良し相手なら、とにかく話していて面白い。そういうツーカーの相手とはどちらかが話し役でどちらかが聞き役という役割分担など一切ない。自然と会話のキャッチボールがうまくいっていて、充実した時間が過ぎていく。初対面でこういう相手に巡り合えることもある。思考回路や価値観等に共通項があって、いわゆる“相性”がいいのであろう。

 この相談者の高校生も、もしかしたら私と同じような経験をして同じような考えを抱いているのかもしれない。ただ未成年であるしまだまだ人生経験が浅くて、今のところ心を開ける相手に巡り合えていないだけなのであろう。十分な自己表現力を内に秘めているのだから何も自分を変える必要はないし、ましてや無理をしてまで心を開いていない相手の“聞き役”をしてさらなるストレスを溜め込む必要などさらさらないと、私ならばアドバイスしてあげたい。
 

 確かに思う存分喋ると爽快感が得られる。そして“喋る”という行為はストレス発散の優れた方法のひとつとして一般的に推奨されてもいる。
 ところが、“喋り”とは“聞き役”という相手の人間なくして成立し得ない行為でもある。“喋り”も度を過ぎれば言葉の洪水となりそれが“聞き役”に限りないストレスをもたらす“暴力行為”であることを肝に銘じ、場を読み自分を客観視しつつ“喋って”いただきたいものである。
 
Comments (17)

人間って若返らなきゃいけないの?

2008年04月19日 | 健康・医療・介護
 「もし、あなたが若返れるとすると何歳位に戻りたいか?」この種の質問をよく投げかけられる。
 これに対する私の答は、一貫して「その必要はなし」である。 若返りたいなどという発想は私には一切ない。

 昔から“才色兼備”という言葉があるように、才能と美貌を兼ね備えていられるならばそんなにすばらしいことはない。
 ところが近年、この“美しさ”の基準が画一化しているような現象によく出くわす。(当ブログの“その他オピニオン”カテゴリー「美の呪縛」において、この現象に関するオピニオンを既に述べておりますのでご参照下さい。)

 この私とて美しくありたいとは常に考え、そうあるべく行動しているつもりではある。(結果の如何はともかく…)

 その美しさの基準の画一化現象のひとつとして、表題の“若返り”があげられる。“アンチエイジング”などと体裁のいい言葉で語られて美化され、運動生理学、栄養学、美容外科、等多分野においてもっともらしく“研究”され、マスメディアやメーカーが利潤追求のためにこの“アンチエイジング”を世間にあおっているようであるが、早い話がその実態は“若返り”である。


 その中で、今回は美容整形を取り上げてみよう。

 これはどうしたことか。近年の芸能界では30代後半以降の女性タレントは皆、しわ伸ばし整形をして不自然なテカテカ顔をしている。私よりもずっと年上のお婆ちゃん女優ですら見るからに故意にひっぱったテカテカの不気味な顔をマスメディアで披露している。

 このしわ伸ばし整形のひとつとして「ボトックス注射」という方法がある。これはしわの部分にボツリヌス菌の毒素を注射することによりしわを目立たなくする方法であるのだが、ボツリヌス菌といえば食中毒の原因となるグラム陽性嫌気性細菌だ。生物兵器としての研究開発が試みられた事もある程殺傷能力の強い細菌である。このボツリヌス菌の神経毒で末梢神経を麻痺させることによりしわをとるのが「ボトックス注射」であるが、末梢神経は再生力があるため、しわなし顔を維持し続けるには定期的にこの注射を繰り返す必要があるという。
 一応安全性は確保されているということだが、毒素を体内に注入して抹消神経を麻痺させてまでしわをとりたいと考える女性(男性も?)の神経とはどれ程太いのであろうか?

 また、皮膚を切り取って引っ張るという方法もあるらしい。この方法による場合もテカテカ顔を維持し続けるためには定期的に繰り返す必要があるということなのだが、度々繰り返していると耳の位置が後方にずれてくるらしい。(美容院の待ち時間に読んだ女性週刊誌情報のため、その信憑性は不明であるが。)    それで、何だかエイリアンのような不気味な顔つきなのか???!!


 このように涙ぐましい努力をしてまで“若返ろう”とする女性(男性も?)達は一体どんな価値観を持ち、何を目指そうとしているのか。
 おそらくその思想の根底には “若さ=美しさ”という等式が成り立っているのであろう。 その理論は一見正しい。単純に比較した場合“つるつるすべすべ”の方が“しわだらけ”よりも美しいと感じる人が圧倒的多数であろう。
 だが、もう少し深い思慮があれば、それがまさに単純な評価でしかないことに気付きそうなものなのだが…。

 本来の人間同士の付き合いとは全人格的な関係であり、それが人間関係の醍醐味であると私は実感し、その喜びを享受しながら今まで生きてきている。

 外見だけを繕いたい人達というのは、それまでの人生において、もしかしたら人間としての全人格的付き合いの経験に乏しく、単に表面的な事柄で評価されてしまうという偏った経験しかしてきていないのかもしれない。そんな薄っぺらな人生経験に基づく貧弱な発想が、美容整形という突拍子もない行動へと駆り立てるのではなかろうか。

 繰り返すが、この私とて“美しく”ありたい。この思いは私の思想の根底に常に根強く存在する。“美しさ”の本来の意味合いを再認識しつつ、顔にボツリヌス菌など注入せずに、今後共私らしい美学を貫いていきたいものである。 
Comments (8)

元超エリート教授の性癖

2008年04月17日 | 時事論評
 昨日4月16日、東京高裁において、電車内で女子高生に痴漢行為をしたとして東京都迷惑防止条例違反の罪に問われていた元W大学大学院教授、植草一秀被告の控訴審判決公判が開かれた。

 植草被告の弁護側は一審判決を「予断や偏見で判断された」と批判し、「被害者の右後ろにいた被告が犯人と間違われた、真犯人は被害者の後ろにいた別の人物」であるとして無罪を主張していた。
 一方、検察側は「被害者らの証言は信用でき一審判決に誤りはない」と控訴棄却を求めていた。

 昨日の二審の裁判長は懲役4ヶ月の実刑とした一審東京地裁判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した。
 一審は「被告を犯人だとする被害者や目撃者の証言は信用性が高い」などとして弁護側の無罪主張を退け、その上で「規範意識に相当問題があり、再犯の恐れも否定できない。被告の社会内での更正は期待できない。」と実刑判決を言い渡していた。

 植草被告は平成18年9月13日、京浜急行車内で、制服姿の女子高生のスカート内に手を入れるなどの痴漢行為をした、とのことである。

 
 私事であるが、私もここ1年内に電車の中で2度痴漢に遭っている。(私がこの年齢になってもまだ痴漢に遭うということは、加害者は女であれば誰でもターゲットにし得るのか、とあきれ果てるばかりなのだが…。)私の痴漢被害の内容が2度共、この事件の被害者と同様背後から臀部を撫で回すという手口であった。車内が混雑していても、被害者である女性はどの位置関係の人物が加害者であるのかの察しが不思議とつくものなのだ。 触っている手を鷲づかみにして「痴漢です!」とでも叫べばよいのであろうが、さすがに自分の年齢を考慮し睨みつけるだけに控えたが…。 それにしても被害にあった二度共、加害者の目つきが尋常ではなく不気味だったのには今でもゾッとする…。
 ましてや、まだ未成年の高校生であるこの事件の被害少女の恐怖心は察して余りある。被害少女がどう対処してよいかわからないまま加害者の痴漢行為に怯えながら躊躇している間に、加害者の痴漢の手口はどんどんエスカレートし長時間に渡り痴漢行為を続けていたらしい。
 
 植草被告が過去にもエスカレーターでの手鏡事件を起こしていることは、既に皆さん周知の事実であろう。


 さてこの植草被告であるが、輝かしい経歴の持ち主の超エリートである。
 東大経済学部を卒業後、民間のシンクタンクを経て大蔵省の研究官を経験の後、京都大学助教授の時代にはマスメディアにも経済学者の肩書きで頻繁に登場し、経済問題につき論説していた。この頃の植草被告を私もマスメディアでよく見かける機会があり、「おお、なかなかイケメンの経済学者だなあ」という感想を抱いたため印象が深いのである。
 その後、W大学大学院教授の時に“エスカレーター手鏡”事件を起こした際には仰天させられたものである。

 今回の二審の実刑判決に対し、植草被告は会見を開き「不当判決に対し闘い抜く」ことを表明しているとのことであるが、これは客観的に判断して、二審の控訴棄却判決が支持されるのではなかろうか。


 超エリート、しかもイケメン… 、 何もそんな身を滅ぼす程の危険を犯さずとて抜群の頭の良さを活かしつつうまく立ち回れば、どう考えても女に不自由することなく、一生公然と好き放題女性を堪能できるのではないか、と私は考えてしまい、経済界での惜しい人材を失ったとしか思えないのだが…(浅はかで不謹慎な発想を何卒お許し下さい。)
 何ゆえに、このようなすぐバレるのが見え見えの突拍子もない性犯罪行為に見識者たる者が突っ走って自滅しようとするのか。 性癖で片付けてしまうには不可解過ぎるアンビリーバブルな事件である。   
Comments (10)

過度の演出が鼻につく

2008年04月15日 | その他オピニオン
 私はテレビをほとんど見ない。現在、毎日必ず見るのはNHKのニュースと天気予報、それに夜寝る直前にJ-comチャンネルを15分程照明代わりにつける程度だ。
 昔から見なかった訳ではない。親がNHKばかり見ていた影響で子どもの頃からNHKの番組は好んで見るものも多かった。 どんどん低俗なバラエティものの番組が増えるのと平行してテレビから離れ始め、そして近年はNHKの番組にも嫌気がさしてニュースと天気予報以外はスイッチを入れなくなった。

 昔はNHKのドキュメンタリーものの番組や、ドラマとクイズ番組は民放も含めて結構好きで見ていた。
 ドラマに関しては近年では「チャングムの誓い」と「ライフ」(本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー「ライフ寸評」を参照下さい。)を毎週見た。ちょうど寝る前に照明代わりにテレビのスイッチを入れたところ、たまたま放映されていたのが面白くて引き込まれ、そのまま毎週感情移入して見続けた。このように、私がドラマを見るきっかけは“偶然”である。おそらくこれからも偶然感情移入できるドラマに巡り会えれば見るであろう。
 クイズ番組は出題のテンポが速く即答型の「クイズタイムショック」(田宮二郎が司会の頃は最高だったなあ)や現在放映中の「ネプリーグ」の漢字問題や5ボンバーが大の好みで、メラメラ闘志を燃やしながら食い入るように見る。今でも時間があれば見ている。
 一方、ドキュメンタリーに関しては新聞のテレビ欄でチェックして計画的に見ていた。一昔前までは様々なドキュメンタリー番組に感動したものだ。


 さて、本題に入るがこのドキュメンタリーものを近年すっかり見なくなってしまった。これには明確な理由がある。過度の演出が鼻に付いて嫌味ったらしく感じるようになってしまったのだ。
 ドキュメンタリーとは、本来ならば虚構を用いず記録に基づいて制作される番組のはずである。昔はその通り、淡々と記録された事実を伝える番組が多かったように思う。ところが時代の趨勢なのか、近年のドキュメンタリーは“やらせ”に近い程の演出がなされている番組ばかりになってしまい、制作者の意図が見え見えなのだ。これには閉口させられる。
 
 この現象の背景は一体何なのか。
 報道とは本来、事実を正確に伝えるべき使命を担っているはずである。淡々とナレーションだけで記録映像を流してくれればよいものを、近年のドキュメンタリーは必ず司会者と解説者、それにゲストまでが出演して論評が入るのだ。これがうっとうしい。
しかも、ナレーションにまで制作者の価値判断が伴っていて耳障りである。

 例えば、近年高視聴率を記録した人気ドキュメンタリーのひとつとしてNHKの「プロジェクトX」という番組があった。中島みゆきの「風の中の昴…♪」で番組は始まる。初っ端から既にドラマ仕立てだ。そして二人のアナウンサーによる司会に加え解説者が登場する。そして、俳優田口トモロヲによるナレーションが特徴的な番組であった。
 私も最初の頃はこの「プロジェクトX」を比較的好んで見ていた。ところが回を重ねるにつれ、胡散臭さを感じ始めてしまったのだ。とにかく演出がくどい。毎回取り上げる人物のヒーロー仕立ての程があまりにも度を過ぎている。田口トモロヲ氏のあの特徴的なナレーションが週を追う毎に耳障りとなり、そして見るのをやめた。

 ドキュメンタリー番組に限らず、近年ニュースでさえ様々な演出が施されうっとうしさがある。昔のニュースと言えば局のアナウンサーがニュース原稿を棒読みしているだけであった。本来のニュースとはそうあるべきでそれで十分なのだ。下手なコメンテーターも、騒がしい現場のレポーターも要らない。映像をそのまま流してアナウンサーが淡々と事実のみを伝えてくれれば十分である。


 このようなテレビ番組の低俗化現象のひとつの理由として、視聴率の低下が挙げられると思われる。一昔前はテレビの番組制作側のスタッフもいわゆるエリートだったのであろう。ところが、視聴率が低下した今、マスメディアにおけるテレビの位置づけ自体影が薄くなってきている。現在は番組制作を下請けに頼っている時代であるようだ。

 そういう現実を把握した上での話だが、主たる情報の入手先をテレビに頼っている人々は今なお多いのではなかろうか。テレビ番組制作者の方々、テレビを見てる奴等は皆馬鹿だという前提で番組制作をするのはもうそろそろ終わりにしませんか。ますますテレビ離れが加速し、自滅の一途を辿りますよ。
 
Comments (6)

癌をいつまでも売り物にするな

2008年04月13日 | 健康・医療・介護
 私が過去において癌を経験し一時期闘病生活を余儀なくされたことに関しては、既に本ブログの健康・医療カテゴリーのバックナンバー「癌は突然やってくる」において公開済みである。

 術後12年が経過した今、再発転移もなく私はこの通りごく普通に生きている。
ただ、癌及び周辺組織の摘出手術及びその部位をカバーするための植皮手術による手術跡は一生の置き土産として私の体に刻み付けられ、共に人生を歩み続けているのであるが。

 私の癌は体の表面に出現したため、癌の成長すなわち癌細胞の増殖が自分で手に取るように把握できていた。そのため、癌細胞の増殖スピードが急速化してから摘出手術までの期間が短く周辺組織への転移が回避できたため、大事には至らなかったお陰で予後が良好であると思われる。


 私は病気をはじめ自分や家族の“弱点”や“ハンディ”を売り物にすることを元々毛嫌いしている人間である。そのため、自分の過去の癌闘病に関しても上記のごとく、本ブログにおいて一度公開した以外は一切公表していない。

 世間を見渡すと、何とまあ、自分や家族の癌をはじめ難病克服や闘病に関する書籍やブログの多いことか。もちろん表現の自由が保障されていることだし、自己責任の範囲内で公開する分には誰からも非難される筋合いもないのであろうが。

 私が癌闘病中にある信頼できる知人から、癌闘病を綴った一冊の書籍を届けていただいたことがある。大変失礼ではあったが、私はその書籍をパラパラとページをめくっただけで、読む意思がないことを明確にお伝えしお返し申し上げた。理由は上記のごとくその種の自伝を売り物にすることを毛嫌いしていたこと、また、私は元々医学分野の仕事に従事していたために自分の癌について冷静沈着に客観的に把握できていたこと、加えて、死生観や病気に対する考え方、また置かれている立場等は人それぞれであり他者の闘病の様子が私にとって参考になりにくいと判断したためである。

 そんな私が最も毛嫌いするのは、有名人の癌をはじめ難病罹患等のマスメディアの情報である。確かに、社会で活躍中の著名人が癌に罹患したとなればニュースにはなり得るであろう。この私でも「へえ、そうなんだ。」ぐらいには受け止める。
 ところが辟易とするのは、本人自身がもう元気に復帰して通常に活躍しているにもかかわらず、いつまでもいつまでも癌闘病の過去を書籍出版等の形で売り物にすることなのだ。
 その心理がわからなくもない。生死にかかわる修羅場をくぐってきた過去は自分にとってはひとつの勲章である。その類稀な経験が今の自分の人格の一部を創り上げていると言っても過言ではないであろう。それを公表して自慢したい感覚は少しは理解できるのだが、他者の視点から見ると単なる手前味噌に過ぎず、みっともなささえ私は感じる。 有名人の場合、知名度を利用して金儲けのためにそれを売り物にしようという魂胆がみえみえだ。

 私も癌を克服した身であるから言いたいのだが、元気になったのならそれでいいではないか。癌をいつまでも売り物にするのはみっともないからやめよう。
 
Comments (12)

大学全入時代への懸念

2008年04月10日 | 教育・学校
 少子化傾向に伴い、大学全入時代の到来が目前となっている。
 大学と名が付きゃどこでもいい、いかなる学部でもいいと言うならば、希望さえすれば全員が大学に入れる時代の到来である。ただし、現実的にはそういう極端な志願者は少数派であり(?)、通常は入学者の希望等があるため、一部の大学では受験者が溢れ、また一部の大学では入学定員を満たせないという偏り現象は今後も存在し続けるのであろうが。


 先だっての朝日新聞朝刊の記事によると、この大学全入時代を目前にして大学入試問題も易しくなっている傾向にあるらしい。 そして、大学側のテキストも中学、高校レベルのものが多くなっていると言う。
 以前より小耳に挟んではいるが、聞き捨てならない話である。学問を修めるべき学び舎である大学で中高レベルの授業??? これは、とんでもない現状だ。

 この記事によると、例えばある書店が大学の英語教育用に出版したテキストは英検3級レベルであるらしい。英検3級と言うと、中学生レベルの英語力を試す検定だ。我が家の子どもですら中2で既に英検3級は合格し、中3になった現在は英検準2級にチャレンジ中である。(通学している学校の方針で高校卒業までに英検準1級取得を目指して頑張っているのだが。) この出版社は大学向けにより易しい判のテキストも用意していて、歴史ある有名大学も含め全国で延べ190大学でこの易しい判テキストが採用されているらしい。今や、大学1年生の多くが英検3級レベルであり、準2級~1級レベルの学生が半数以上を占めるという大学は非常に少ないということだ。
 これは今後大学進学を目指す子どもを持つ親の立場からも、嘆かわしい話である。 と言うことは、我が子が大学に進学したら皆といっしょに英検3級レベルの復習をもう一度やらされるということか? そんなことでは、大学で自ら目指す本来の学問を学ぼうとする意欲が消え失せるではないか。


 一方このような現状に対応するべく、塾業界が大学事業部設置に乗り出している。学科テストのない推薦入試などで早く合格を決めた学生を対象に大学入学前教育を請け負う体制作りに着手している。
 また、ある塾業界大手企業は大学に対する補習支援サービスを始めたということだ。工業系大学向けの「化学」や経済系学部の「数学」など、大学教授たちが「履修不足」と感じる分野の補習テキストを開発し、講師派遣とセットで大学に提供サービスをするという。
 う~ん……。 私は基本的に塾を否定的に捉える見解に立っている人間である。(本ブログ“教育・学校カテゴリー”バックナンバー「塾の教育力のレベル」を参照下さい。) だが、この問題に関しては、塾に活躍してもらうより他に手段はないようにも思える。 少なくとも、大学とはそもそも中高レベルの補習教育をする機関ではない。大学の存在使命とは、学問、科学の発展に寄与するというところにある。大学がそのような本来の存在使命を果たすためには、さしあたって中高レベルの学力しかない多くの学生の支援を外部の塾業界に頼るのも有効な手段とも思える。
 いくら現状の公教育に教育力がないと言えども、塾業界が義務教育過程である小中学校にみだりに進出することは、結果としてますます法的に義務教育と定められている公教育が自ら努力し発展するべき力を封じるものであり、私はあくまでも本末転倒であると考える。
だが、塾業界が上記のように大学支援という形で進出するのであれば、自由競争の範囲内との解釈も可能であるかもしれない。

 
 この嘆かわしい事態の根源は、現状の中高教育に元々あるのであろう。近年の子どもの学力低下傾向が叫ばれて久しいが、中高の教育レベルがそれ程低いという実態を再認識させられるばかりである。
 そして、大学が自らの生き残りのために、学問を修める能力もない学生を安易に受け入れてしまうところにも大きな病理がある。
 さらに原点に戻れば、この問題は、この国のポリシーなき教育行政が創り上げてしまった“成れの果て”なのであろう。

 日本の学問、科学の未来が末恐ろしい大学全入時代はすぐそこまで、いやもう既にやって来ている。 

 
Comments (10)

嫌な飲み会は行かぬが一番

2008年04月08日 | 
 4月に入り、新入生や新人を迎えた大学や職場では新人歓迎会が催されていることであろう。

 先週の4月4日の朝日新聞声欄に、新入生歓迎会を皮切りにサークルや学科の友人との飲み会の多さに辟易としているという趣旨の、「お酒なしでも交流できぬか」と題する大学生からの投書があった。
 この投書を以下に要約してみよう。
 飲み会のほとんどが飲み放題で意識がなくなるまで飲んだり、「一気」コールで盛り上がったり、朝までハシゴ…。大学生は未成年者も多いのに当たり前のように飲んでいる。自分は全く飲めないのに、勧められたりして飲まざるを得ない状況になってしまうことも多く苦痛である。金銭的にも痛い。しかし、断れば付き合いが悪いと思われるのでなるべく行っている。社会人も含めて酒なしでは深い交流関係が持てないのは寂しいことだ。
 
 この大学生の投書を読んだ私見の結論を端的に述べよう。 嫌な飲み会に行く必要などまったくない。進んでパスしよう。
 

 本ブログの“酒”カテゴリーのバックナンバーで再三述べてきているので読者の皆さんは既にご存知であろうが、私は自称“飲兵衛”を宣言する程の相当の飲兵衛である。
 行きましたよ、行きました。自慢じゃないけど娘18の頃から(ごめんなさい、見逃して下さい。)新入生歓迎会、新人歓迎会、ありとあらゆる飲み会に顔を出しては、駆けつけ三杯から始まり朝になるまでハシゴ…、率先して主体的にとことん飲んだくれましたよ。

 そんな私にも、この投書者の大学生とはまったく逆の立場から嫌な飲み会というものがある。
 既にバックナンバー「飲兵衛はつらい?!」においても述べているが、私のような飲兵衛にとっては、自分のペースで飲めない飲み会というものほどつらいものはない。自分を押し殺して、飲むスピードをゆっくり目に、飲む量を少なめに周りに合わせなければいけない飲み会というのがたまにあるのだが、これは飲兵衛にとっては究極のストレスが溜まる飲み方である。
 大勢で飲む場合は大抵飲めない人から順に帰っていって、会が進むにつれ自然淘汰され、“飲んだくれ”仲間だけが残るので、結構最後まで楽しめる。 ところが、さほど親しくない少人数の飲み会においては、上記のような“究極ストレス飲み会”となることが少なくない。過去において何度か経験があるのだが、これは本当につらい。 今となってはそれを十二分に悟っているため、その種の飲み会は口実をつけて必ずお断りすることに決めていて、まかり間違っても参加しない。

 そしてもう一点、この大学生の投書で気になるのは「飲み会」の位置づけである。
 失礼ながら、大学生と言うとまだまだ人生経験が浅い人達の集まりであるため、飲み会を断れば付き合いが悪いと思われる、という貧弱な発想もやむを得ないのかもしれない。
 だが、「飲み会」というのは元々信頼関係がある者同士で設けるべき会であり、「飲み会」によって深い交流関係を作るという性質のものではない、と私は捉えている。「飲み会」とは酒を飲んで一定時間皆で馬鹿になることを楽しむ会なのだ。そのように醜態をとことんさらす全人格的付き合いである会合において、見知らぬ人や付き合いの浅い人と場を共有するのは元々極めて危険である。信頼関係があるからこそ皆で馬鹿になり切れ、美味しい酒が楽しめるというところが「飲み会」の使命であるのだ。

 そういう意味ではこの投書者のおっしゃるように、まずはお酒のない別の場で人と人との深い交流関係をもち、人間同士の信頼関係を築くことが先決問題であろう。

 下戸であれ、飲兵衛であれ、嫌な飲み会には行かぬが一番である。
Comments (10)

三越に再び春は来るか

2008年04月06日 | 時事論評
 我が身内は東京日本橋の生まれで、幼少時代を日本橋で過ごしている。近所のお店というと百貨店の三越日本橋本店であったらしく、買い物と言えば日常的に三越本店を利用していたそうで、三越本店の思い出が今なお深いと言う。

 私が現在デパートを利用する機会と言えば、料理の手抜きのためにデパ地下の惣菜売り場をあさり歩く程度で、普段は滅多に訪れない。

 近年のデパートは昔とはすっかり様変わりしている。テナントが多くなっているようで、あの“ユニクロ”でさえ出店している。全体的に薄利多売傾向となり、人員も削減されほとんどが外部委託されている様子で、店員の対応もそっけない。レジではスーパーのような順番待ち方式が採用されているのも、すっかり見慣れた風景となった。全体的に経営の効率化が急速に進められ、昔ながらのデパートならではの高級感や徹底したサービス等の風情がなくなりつつある様子だ。


 話がそれるが、入学式シーズンにもちなみ、デパートでのうれしいハプニングをひとつ披露してみよう。
 ちょうど2年前の今頃の季節の話になるが、我が子の中学校の入学式がまもない頃のことである。学校指定のローファー靴がどうしても我が子の足に合わない。無理して1日試し履きをさせてみたら、かかとの豆が裂けて両足共血だらけである。これじゃあどうしようもないと判断し、デパート(東京池袋西口の東武デパート)へサイズの合う同種のローファーを探しに出かけた。親切な担当者(正職員と思われる。)があちこち当たってくれたが、取り寄せでないと入手できず、しかもその日程が入学式に間に合わない。そこで担当者がおっしゃるには、「インソールで調整してみましょう。入学式までに是非そのローファーを持参して下さい。」 お言葉に甘え、後日当該ローファーを持参し親子で再び靴売り場のその担当者を訪ねた。その担当者は私達親子のことをきちんと憶えていて下さり、インソールの専門家(?)を早速呼び、二人であれやこれやと持参した靴に合わせて下さる。ところが、子どもの靴にちょうど合うインソールが販売されていないのだ。そうしたところ、インソール専門家(?)が大人用のインソールをはさみで切り始めたのだ。そして2枚のインソールを組み合わせ重ねて子どもの足にピッタリ合うように靴の中を仕立て直してくれたのである。さすがのプロ技だ。その腕前に驚くと同時に、デパートならではのサービス精神に直面することとなった。しかも、サンプルのインソールを利用したので代金も不要と言う。子どもの足のサイズ測定から始まり、仕上がりまでの約1時間、2人の担当者が一銭のもうけにもならない仕事にかかりきってくれたのである。そして、入学式に間に合って良かったことを二人して家族のように喜んで下さったのだ。最後は、これからも靴に困ったらいつでも来て下さい、とおっしゃって見送って下さる。親としては涙が出るほどうれしいサービスであった。 デパートのサービス精神が、子どもにとって最高の入学祝いとなった出来事である。(池袋東武デパート靴売り場のご担当のお二人には、遅ればせながらこの場で改めて御礼申し上げます。あれ以来、我が子は足に合う靴を履くことが体の成長にとって重要であることが身にしみて理解できたようです。靴の履き心地に関心を持つ子どもに成長しております。)


 話を表題の三越に戻すが、報道によると、この4月1日に三越と伊勢丹が経営統合し持ち株会社「三越伊勢丹ホールディングス」が誕生した。連結売上高国内最大級のホールディングスの誕生である。ファッションに強い伊勢丹のノウハウを移植して三越が軌道回復を目指す目論みである。営業実績においては伊勢丹に勢いがあり、三越は低迷気味であるため、統合後の営業は伊勢丹幹部が握る、とのことであるが。
 この三越伊勢丹ホールディングスの誕生で、百貨店業界は4強時代に入るらしい。今後は地方の百貨店もこの4強の傘下に入り、百貨店業界の再編、系列化は一層加速すると言う。

 個人的にはデパートはほとんど利用しない人種であるため、関係ないと言えば関係ない話なのだが、消え去りつつある古き良き時代のデパートのサービス精神にも価値はあったような気もするのだが…。
  
Comments (4)

年は取ったが頭は負けん!

2008年04月04日 | 健康・医療・介護
 “年は取ったが頭は負けん”、このタイトルがすっかり気に入っちゃいましたので、朝日新聞記事より丸ごと拝借しました。朝日新聞さん、無断転載をどうかお許し下さいませ。


 さて、3月31日(月)朝日新聞朝刊科学面に同タイトルの記事が掲載された。
 これによると、お年寄りは体力勝負だと若手に負けるが、脳のはたらきは若手に負けていない、そんな事実が京都大学の桜井芳雄教授(心理学)によるネズミの実験でわかったとのことである。

 以下に記事の内容を要約する。
 実験対象は、人間でいえば30~40歳にあたる若手ネズミと80歳くらいの高齢ネズミ。実験内容は“体力”と“脳のはたらき”の「若手」と「高齢」両者間の比較である。
 体力勝負の実験においては両者の体力差は歴然で、明らかに「若手」優位の結果となった。
 一方、脳の実験にはこの研究室独自開発の装置を使用し、脳の記憶をつかさどる海馬に細い針を刺し、脳が何かを思い出すなどして脳神経の信号が検知されたらエサが出る仕組みを利用した。その結果、「高齢」は最初の10分間は1分間に3個しかエサが取れなかったが、エサを出す方法を脳が学習し40分後には1分間に9個のエサを取れるようになった。「若手」も最初の10分間は平均3個で、40分後には同11個という結果となった。脳実験の結論としては、両者の脳のはたらきぶりには体力差ほど大きな差はなかった。
 桜井教授曰く、「お年寄りがリハビリで体力を回復させることは、脳の力を十分に引き出せるようにするという意味でも大変重要だ。」
 

 例えば、脳梗塞で倒れ半身不随になった後、リハビリにより社会復帰できるまでに回復した事例は今や少数ではなく、医学分野においてリハビリの有効性は既に実証されてきている。

 特別な病気をした後のリハビリの有効性に限らず、普段より頭を使えば使うほど脳が活性化されることは周知の事実である。
 私事で恐縮だが、私の半生は日々勉学の積み重ねである。30歳代半ばで修士を取得し、その後も高校教員として教材研究に勤しみ、出産後は我が子のお抱え家庭教師として君臨しつつ税理士試験勉強にも励み、そして現在はほぼ1日置きにブログでオピニオンを綴る日々である。おそらく、平均的一般人よりも頭を酷使してきている人種であろうと思う。頭を使う事が長年の日課となっており、頭が使えない状況になると禁断症状が出てきて落ち着かない気分にさえなる。そんな私でも、頭の老化を実感する今日この頃である。もっと冴えた頭脳が欲しい、維持し続けたいとの願いが常にある。

 加齢と共にどんどんガタがくる体と、しわだらけでよれよれになっていく外見…。気に入らないけれど受け入れざるを得ない。今後更なる加齢と共にますますそのスピードが加速していくことであろう。
 だが、頭だけはいつまでもクリアでいたいものだ。やはり、人間肝心かなめは脳のはたらきである。たとえ、外見の醜さに若い世代から“ババア”と呼ばれ後ろ指をさされようとも、脳のはたらきさえしっかりしていれば世の中相手が誰であれ対等に渡っていける。

 もちろん、脳のはたらきを支えているのは体全体であるため、体を鍛えバランス良く栄養、休養を取り体力を維持することも肝要である。
 「年は取ったが頭は負けん!」この勢いを失わず、脳の活性化に日々精進したいものである。
   
Comments (6)

学校が嫌いで何が悪い

2008年04月02日 | 教育・学校
 いきなり結論から書くが、学校が嫌いな君、大丈夫だよ、安心して。学校なんか嫌いなくらいの人間でないと、将来大物にはなれないよ。 学校に迎合する必要など何もないんだよ。学校が嫌いだという気持ちを今は大切にして。

 先だって、小学校の卒業式での挨拶で学校が嫌いである旨表明した小6の男の子が、卒業式当日に自殺に追い込まれてしまった。何とも痛ましい事件である。
 事件の詳細は把握していないのだが、周りの大人は卒業式の後、この少年に何を言い、何をしたのか。何とか自殺を食い止めてあげられる理解者は周りにひとりとしていなかったのか。 誰だって嫌いなものは嫌いだ。ましてや、まだ小学生の子どもが素直に嫌いなものを嫌いだと言って何が悪いのか。本当に腹立たしくてやるせない事件である。今はただ、命をかけて学校が嫌いであること表明した君の冥福を祈るばかりである。
 

 4月と言えば新しい年度のスタート月であり、学校や職場では新人を向かえ、新たな1年が始まる月である。
 学校嫌いや職場嫌いの人間にとっては、この時期は何とも憂鬱な季節である。

 かく言う私も、学校嫌い、職場嫌いの部類である。 私の場合は、基本的に組織に所属することが苦手な人間である。 組織の何が嫌なのかというと、そもそも集団行動、共同作業が性に合わない。 私は基本的に一匹狼タイプの人間だ。物事を独力で成し遂げたい思いが強い。そういう人間にとって集団や組織からの管理、干渉は足かせでしかない。

 義務教育過程に在籍する子どもを持つ親の立場からも、この4月は憂鬱な季節だ。子ども本人にとってはクラス替えのメンバーが一番の関心事のようだが、親にとっての一番の関心事は子どもの新担任である。担任如何で1年間の明暗が大きく分かれるのだ。
 運悪く担任に恵まれないと、保護者としては1年間が苦労の連続である。我が子の場合、大体3年に一度は“はずれくじ”を引いてくる。この人格でよくまあ教員になったなあ、よくまあ首にならないなあ、という担任に3年に一度は当たってしまう。要するに3人に一人はそういう教員が平気な顔をして教育現場にはびこっているというのが学校の実態なのであろう。 私の年齢になると大抵の教員は私より年下であり、これがまた扱いに難儀する。人生の先輩としての包容力がこちらに要求されるのだ。何分、子どもを人質にとられている身でもあり、担任をあやす、という無駄な労力が1年間の負荷としてのしかかってくる。家庭での子どものフォローも大変な仕事だ。担任の言動を子どもを通じて見聞きしては、子どもの健全な成長のための軌道修正の負担も増える。
 逆に担任が信頼できる人格者である場合は、親としては1年間心底楽をさせてもらえるものである。
 子どもが中学生になっている今はこの負担も軽減されているが、幼稚園と小学校在校中は苦労したものだ。我が子の場合、学校等の集団や組織が嫌いなタイプの子でないのだが、担任はじめ教員のせいで学校嫌いになることを避けるために、親は苦労するものだ。


 話を子どもの学校嫌いに戻そう。

 本当は皆にとって楽しく、有意義な学校であることが一番望ましい。でも、その実現までにはまだまだ時間がかかる。 

 学校が嫌いな君、それでも勉強はしようね。たとえ学校が嫌いでも勉強は大事だ。その後の人生につながる。例えば、大学とは学問を修める機関だ。ここは今までの高校までの学校とはまったく異質の学び舎であり、自分でカリキュラムを組んで自分が学びたいだけ学べる場である。大人になっていくとそんな楽しみもある。だから今、勉強はしておこう。

 学校が嫌いな君、それでいいよ。学校が嫌いな自分を責める必要など何もない。学校が嫌いである自分を認めよう。どうしても学校へ行くことが辛いのなら“不登校”という選択肢だってある。(当ブログの教育・学校カテゴリーの「不登校という選択肢」を参照下さい。)
 学校へ通う期間なんてまだまだ人間としての成長過程で未熟な時期であるし、後で考えたら自分の人生において取るに足りない一時に過ぎないのだ。 
Comments (4)