原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

謝罪会見はもう終わりにしよう

2007年12月31日 | 時事論評
 昨夜のNHKの「ニュースハイライト」を見ていて(正確には聞いていて)思ったのだが、この国はいつから“頭を下げりゃ済む”と勘違いし始めたのであろうか。
 謝罪会見のオンパレードである。年金問題、食品内容物及び消費期限偽造問題、前次官の汚職問題、薬害C型肝炎訴訟問題…。

 そもそもこの国には、つい最近まで“謝らない”国民性がはびこっていたように私は認識している。政治家を筆頭に、どんな悪戯をはたらいても決して自分の非を認めず、秘書や贈賄側等に責任をなすりつけるのが得意技だったと私は記憶しているのだが。
 それが裏を返したように、ご覧のごとく謝罪会見の数々である。あの頭を下げるパフォーマンスにより、事件は一件落着したと国民をはぐらかせるとでもたくらんでいるのであろうか。 あるいは、マスメディアがあの謝罪会見を仕立てているのであろうか。

 謝罪会見で頭を下げるパフォーマンスをしている面々は、“謝罪”の正確な意味をご存じないものと見受けられる。“謝罪”とは、頭を下げりゃいいということでは決してない。自分の不正や非を認めその責任を取ることなのである。

 国がからんでいる事件、不祥事にこの謝罪会見後の問題未解決が多い。お手盛り立法に諸悪の根源があるのではなかろうか。自分達にとって都合の良いような立法しかなされておらず、立法の監視機関も機能していない現状なのであろう。

 自分の非を認めず謝らないで他人に責任をなすりつけるのも困りものだが、謝罪会見のパフォーマンスで事件が終結したかのごとく見せかけて責任逃れをするのは、考えようによってはより悪質であり、私は許し難いのである。
 今後は、真に非を認め自分の行為の責任を取れる国民性の育成に期待したいものである。また国民も謝罪会見ごときに騙されることなく、常に事件、不祥事後の責任の取り方に監視の目を光らせているべきである。
 


 さて話がガラリと変わるが、大晦日の今日私も皆さんに頭を下げよう。と言っても謝罪会見ではなく、皆さんにお礼を申し上げたいのだ。
 本ブログ「原左都子エッセイ集」を開設したのは2007年9月6日、台風で荒れ狂う夜のことだった。綿密な計画の下ブログを開設した訳ではなく、どちらかと言うと突然思いついたような気まぐれに近かった。インターネットをいじっていて偶然にもgooで無料でブログを開設できることを発見したのだ。(gooにも感謝申し上げます。)よくわからないままアクセスし、その場の勢いで開設してしまったような感じだ。
 既に当ブログのバックナンバーでも述べているが、高齢のため自分自身が納得できる就業は困難、そのためとりあえず自分のバックグラウンドを活かして税理士試験にチャレンジしているのであるがこれも中途挫折気味、学問研究に励み続けたい夢も中途半端…、このブログはそんな迷える子羊状態の私のひとつの逃避行動の位置づけと、自分ではとらえている。
 そのように意志薄弱状態で始めた当ブログであるが、4ヶ月近くが経過した現在、多くのすばらしい読者に恵まれている。1日も欠かさず毎日別便でコメントを下さる方もいる。ご多忙にもかかわらず、まめにコメント欄にコメントを書き込んで下さる方々もいる。(はるこ先生はじめ皆様、いつもありがとうございます。)原左都子へのたくさんのメッセージもいただいている。このブログが結ぶ縁で私は多くのすばらしい方々と出逢えることができた。私にとってはこれは今年の一番大きな収穫であり、宝物である。
 ブログとは通り過ぎて行くもの、いつまで続けられるか不安感を抱いた頃もあった。まだその思いは頭の片隅に少しある。そんな中、皆さんの暖かい応援に支えられつつ、「原左都子エッセイ集」も私といっしょに年を越すことができそうなことを1年の終わりに感謝申し上げたい。
 皆さんありがとうございました。来年も変わらぬ応援をよろしくお願い申し上げます。
  
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子どもが誇りを持てる命名をしよう!

2007年12月29日 | その他オピニオン
 12月21日の朝日新聞朝刊「声」欄に、19歳の女性からの「誇りを持てる名前を付けて」と題する投書があった。

 以下に、この女性の「声」欄の投書内容を要約する。

 先日当「声」欄に、「子の名前には変換容易な字を」との投書があった。私(投書者)の名前は容易にワープロ変換できない。かつ、私の名前を初めて見た人は誰一人読めない。読み間違え、打ち間違えは日常茶飯事である。自分の名前を間違えられるのは嫌だが、逆に言うと珍しい名前であるため褒めてもらえることもある。小学生の頃はこの名前をからかわれたりして嫌いだったが、今では自分の名前が大好きで誇りに思っている。名付けてくれた親に感謝している。名前は一生一緒に付き合っていくものだ。そのようなものに、ワープロ変換を考慮するのはいかがなものか。仮に私の名前がワープロ変換が容易な事を理由に付けられたとしたら残念である。そんな事とは関係なく、子ども自身が誇りを持てる名前を付けて欲しいと思う。
(以上、「声」欄より要約)


 私にとっては身につまされる投書内容である。

 当ブログのバックナンバーで、度々我が子の名前で苦労していることについて触れているが、名付け親の私としては我が子の名前の件で世間からの誤解により苦労させられる度に、子どもに迷惑をかけていることを痛感してきているためである。

 既にバックナンバーをお読みいただいている読者の方々には繰り返しになるが、我が家の子どもの名前は古代ギリシャ語から引用している。原語の持つ意味合いを尊重したいがために、十分に吟味した末にあえてカタカナで命名したといういきさつがある。元々万人が周知の原語ではないことは推し量っていた。ただ、親の理念や生き方、これから子どもが歩むであろう道程等を総合的に予想、判断し、親として最高の名前を子どもに授けることができたと私は信じて疑っていなかった。
 ところが命名後子どもを世に送り出すや否や、まったく予期せぬ世間からの反応が待ち受けていたのである。 当然ながら「ギリシャ哲学からですね。」「プラトンからの引用ですね。」という類の世間のリアクションがあるものと私は期待していたのであるが、予想に大きく反して子どもの名前の原語の知名度が世間では低かったのである。 私など海千山千で世間ずれしているつもりでいたのだが、人間とは自分の認識とは裏腹に偏った世界で生きているものだということを、子どもを産んで初めて思い知らされるはめになるのである。
 子どもの名前の由来の原語を知る人が1%に満たなかったのだ。100人のうち99人がカタカナの名前を見て「外国人ですか?」と怪訝そうに尋ねて来るのである。名付け親としてはそのように尋ねられる都度、愕然として途方にくれるしかない。
 この世間の誤解に困り果てたあげく、不本意ながらも、子どもの幼稚園入園を期に名前の読みはそのままに“ひらがな”表記を通称として使用することとした。そしてそのまま現在に至っている。

 子どもの中学進学を機会に、通称の“ひらがな”への戸籍名の改名も検討した。
 ちなみに、戸籍名の改名は、混乱を招く、不便である、長年通称を使用している等の理由がある場合、家庭裁判所の許可(審判)を受ければ比較的簡単に行える。我が家の場合この条件を満たしているため、改名はすぐにでも可能である。
 だが一家で協議した結果、改名は踏みとどまった。その第一の理由は、世間の反応や使い勝手の悪さよりも、やはり命名に込めた思いを優先したかったからである。 それに、一部ではあるが、“カタカナ”の方がカッコイイ、あるいは国際社会では“カタカナ”名が映える、はたまた、大人になったら“ひらがな”よりも“カタカナ”名の方がふさわしい、等のカタカナ賛同意見もあるからだ。
 
 上記「声」欄の投書者も述べていらっしゃるが、命名とは誰のためにするのか、それは子どものためであろう。
 奇名、珍名(この言葉こそが奇妙な言葉であると私は思う。人の名前はすべてすばらしい筈だ。)を付ける事に否定的な見解は今なお多い。でも、ちょっと待って欲しい。人の名前とは記号や番号ではないのだ。「命名」という言葉が表現しているように、人の名前には親の愛や思いが込められているのだ、すなわち命が宿っているのだ。ワープロで変換しにくいとか、聞き慣れないとか、外国人のようだとか、そういった周囲の勝手な判断で親が子に授けた命ある名前を否定的にとらえ非難するのはいかがなものか。
 変な名前を付けられた子どもが可愛そうだという意見もある。これに関しても、余計なお世話としか言いようがない。家庭環境にもよるであろうが、親が命名に自信を持ち、命名に見合った家庭環境の下で子を育てると、子は自ずと自分の名前を肯定的に捉えるべく成長していくものである。
 万が一の場合、逃げ道もある。子どもが成長し、子どもが自分自身の考え、判断で改名したければ、私はそれをとがめるつもりは毛頭ない。
 
 親が子どもの命名に誇りを持って育てていけば、必ずや子どもも自分の名前に誇りをもってくれるものと私は信じている。
 どうか世間の皆さん、狭い見識で他人の子どもの名前を非難なさらないよう切にお願い申し上げたいものである。
  
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海外帰国生特別選抜枠の存在の是非

2007年12月27日 | 教育・学校
 中高、大学の入学者選抜において、大抵の学校には「海外帰国生特別選抜枠」がある。「海外帰国生特別選抜」とはすなわち、保護者の転勤等の事情により諸外国に滞在し、その国の教育機関に一定年数以上在籍して帰国した生徒、学生に対して一般選抜外に特別選抜枠を設けて優遇し、選考を実施する制度である。
 この優遇制度の存在が世間で議論の対象となる機会はほとんどなく、当たり前の制度として昔から平然と存在し続けているのであるが、皆さんはこの制度に関して如何なるお考えをお持ちであろうか。

 この優遇制度の存在理由として、相異なる二通りの考え方ができるかと推論する。

 そのひとつは、海外帰国生はハンディを背負っている、すなわち入学者選抜における弱者であるとする考え方である。
 諸外国の教育制度は我が国のそれとは相当異質のものであろう。そういった異質の教育を受けて帰国した生徒、学生に、一般生徒、学生と同じ土俵で一般入試にチャレンジさせるのは酷であるため、特別選抜枠を設けて学科試験を免除し保護しよう、とする考え方である。

 もうひとつは、上記とは正反対の考え方である。すなわち、海外帰国生は海外滞在経験により滞在国の言語に秀でている、また、家庭環境においても経済的、生育環境的に比較的恵まれた家庭で育った生徒、学生が多い等、入学者選抜における強者である。そのため、学校側がこぞって海外帰国生を確保したいともくろみ、特別選抜枠を設けて優遇しているという考え方である。

 実情はどうであろうか。学校側に当制度の存在理由について確認した経験はなく推測の域を超えていないが、おそらく上記の両側面が存在理由として成り立つのではなかろうか。

 さてここより私論になるが、この「海外帰国生特別選抜枠」は今や時代錯誤の制度ではなかろうかと私は考えている。
 海外帰国生の存在が数的に少なかった2,30年位前までの時代は、この制度の存在意義はもしかしたらあったかもしれない。ところが、これだけ国際化が進展している今の時代、海外帰国生は私の周りを見渡しただけでも星の数程存在する。現に我が甥も現在米国在住の小学生である。(ただし私の甥一家は米国永住の予定であり、帰国の意思はまったくないのであるが。) 滞在年数にもよるが、2,3年間の短期滞在の場合、帰国後、一般入試に十分耐え得るのではなかろうか。 しかも、聞くところによれば、大抵の海外転勤家庭は事業所所定の宿舎に住み、子どもは日本人学校に通い、日本人教師の指導の下、日本とほぼ同様の教育を日本語で受けるらしい。滞在国の言語に触れる機会がほとんどないまま帰国した生徒、学生を、特別枠を設けてさらに保護する必要性があるのかどうか。
 こんな話も聞く。日本における厳しい受験戦争に勝ち抜くのは大変だから、「海外帰国生特別選抜」をまんまと利用して(いわゆる)一流校へ入学することをたくらみ、父親の単身赴任で済むところをわざわざ子どもも2年間だけ海外転勤に連れて行く、というような話も…。これでは誰が考えても制度の趣旨が本末転倒であろう。

 海外帰国生の優遇よりもこの国が優先するべきは、在日外国人(特に発展途上国出身)の子ども達に対する教育の充実ではなかろうか。意思の高い在日外国人の子ども達が満足な教育が受けられるべく教育の途が開かれることにこそ、今後私は期待したいものである。
   
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くるみ割り人形(全幕)

2007年12月25日 | 芸術
 我が家の年末恒例の行事は、バレエ公演「くるみ割り人形(全幕)」を観ることだ。今年は、昨日(12月24日)のクリスマスイブに五反田ゆうぽうとホールへ松山バレエ団の「くるみ割り人形(全幕)」を観に出かけた。

 「くるみ割り人形」は、まずチャイコフスキーの音楽がすばらしい。バレエ観賞の趣味がなくともこの音楽を聴いたことのない人はまず存在しないであろう。「序曲」「行進曲」「ロシアの踊り」「足笛の踊り」「花のワルツ」「金平糖の精の踊り」… 全幕に渡り、名曲の数々である。
 我が家の場合、子どもが小学生の時にバレエ教室でこの「くるみ割り人形(全幕)」に子ども役で出演したことがあり、私もそのリハーサル等の付き添いで何度もお供したため、私も子どもも全幕全曲マスターしている。音楽をマスターした上でのバレエ観賞は数倍楽しめるものだ。

 さて、この時期はあちこちの国内外バレエ団が「くるみ割り人形」を公演しており、毎年いろいろなバレエ団の「くるみ割り人形」を観賞しているのだが、私の好みは松山バレエ団の「くるみ割り人形」だ。当ブログのバックナンバー「バレエを観に行こう!」でも既述しているが、松山バレエ団の「くるみ割り人形」は、出演者総数が飛び抜けて多く、絢爛豪華でとにかく楽しい。子ども達もたくさん出演しているのだが、そこだけ浮いておらず、全体の中にうまく溶け込んでいる。

 松山バレエ団といえばまず森下洋子さんを思い浮かべる。数年前に森下洋子さんのクララを拝見した。元々きゃしゃで小柄でいらっしゃる森下さんであるが、舞台上の森下さんはご年齢が想像できない可愛らしさであり、美しく輝いていらっしゃったのが印象的である。
 昨日は山川晶子さんのクララを拝見した。大抵クララ役は小柄な方が多いのだが、山川さんは今まで観た中で一番長身のクララであった。が、少女役の山川さんのクララも長身でも少しも違和感がなく全体的に美しいクララであった。
 今回は2階席からの観賞であったが、2階席の良さは舞台の全体像が見渡せることである。特に五反田ゆうぽうとホールの場合舞台の奥行きが深いのであるが、出演者総数が多く(常に50名以上のダンサーが所狭しと踊っている。)、舞台全体をフルに活用し舞台後方まで細かい演出をしている松山バレエ団の場合、2階席からの観賞の方が全体を堪能できて楽しめるように思う。
 もう一点、松山バレエ団の特徴は場面入れ替えの手際がよく、場面が変わる事を観客に気付かれない間に場面が大きく入れ変わっていることである。どういう風にこの離れ業をやってのけているのかと言うと、ダンサーが自ら踊りながら小道具を運んできたり持ち去ったりしているのである。2階席からだとこの動きがよく観察できるのであるが、この演出やダンサー達の手際の良さを見て感心するのもひとつの趣である。
 「くるみ割り人形」の中で私の一番のお気に入りは、第一幕最後の「雪の精の踊り」である。(素人好みですみませんが、コールドバレエが好きなんです。)総勢約30名が、一糸乱れぬ踊りを繰り広げるのが圧巻である。ダンサー層の厚い松山バレエ団の場合、踊りが揃っているのは当然のこと、コールド全員の身長、手足の長さ細さ、顔の小ささまですべてぴたりと揃っているのである。相当の内部オーディションをしているものと察する。
 また、松山バレエ団の場合、第二幕の「ジゴーニュおばさんとピエロ」も特徴的で見せ場である。ジゴーニュおばさんの大きなスカートの中から子どものピエロが20人程出てきて踊るのであるが、今年はこのピエロ役の子どもも厳選したと思われる。ただ可愛らしいのみでなく演技力、技術力も伴っており、今回観客からの拍手が一番大きい場面だったようだ。
 そして、今回大きく演出を変えていたのは、クララが夢から覚める前、くるみ割り人形の王子と別れる直前の場面で二人のしっとりとした愛のグラン・パドドウの踊りを設けていたことだ。これにより、今回の「くるみ割り人形」は単なる少女クララのクリスマスの夜の夢の世界の範囲を超えて男女の出会いと別れの切なさも描かれ、クライマックスへの感動へとつながった。原作にはないこの演出は大成功だったのではないかと私は感じる。

  
 


 さて、「くるみ割り人形(全幕)」を観終わると、いよいよ今年も終わりだ。
 
 新年には、「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」を聴く(大トリの“ラデツキー行進曲”を聴かないと我が家では一年が始まらない。)ことが毎年元旦の楽しみである。(テレビで、だけどね。 いつかはウィーンまで聴きに行きたいものだ…。)

続編 13歳年下の彼 

2007年12月23日 | 恋愛・男女関係
もっと聞くんだけどね、C子。
その13歳年下の彼との関係はうまくいってる?


「もちろんよ。うまくいってるよ。」

「だけどさ、彼は若いわけでしょ。彼がC子じゃなくって、もっと若い女の子と付き合いたいとか結婚したいとかは言わないの?」

「そういう話はしないのよ、普段は滅多にね。 でも、自分の年齢相応の女性との結婚願望は彼にもあるんじゃないかな。」

「そうだよね。絶対あるよね。 C子は、そういうことはどう思ってるの?」

「彼にそういう願望があってもちっとも不思議ではないし、むしろ、私にとっては張り合いになるよ。 でもそうなるとこのまま私が彼を独占し続けるわけにはいかないよね。そうした場合、彼とどういう関係を続けていくかが私にとっての今後の課題だよね。」

「よく分かってて偉いと思うけど、それでC子はその彼とこれからどうしたいの?」

「もちろん、この関係を続けていきたいよ。でも、彼には彼の生き方や未来があるだろうから、それを尊重したいとも思ってるよ。」

「じゃあ、その彼が急に彼女ができたとか他の女性と結婚するとか言い始めてもC子はそれでいいってわけね?」

「そういうことになるかな。でも彼の幸せを祈りたいから、彼がとんでもなく変な奴とどうこうしようとするならばやっぱり止めるかな。 そういう時に彼が自然と私に相談してくれるような関係を築いていたいかな。理想論だけどね。」

「C子、そうゆう判断ってとっても難しいんじゃないかと私は思うのだけど…」

「たぶん、彼がそんな急展開な事を言い出さないような関係を、今まで二人で築いてきていると私は確信してるんだけど…」

「でも年齢差って、C子の想像の範囲を超えててそんな甘くもないんじゃないのかな?」

「そうだけど、彼は紳士だし頭もいい人だから、きっとその辺のことは重々承知の上で私と付き合ってくれてると私は信じてるよ。」

「ふうん、そうなんだ。 じゃあ、これからもC子がその彼とうまくいくことを祈ってるよ。  メリー クリスマス!!」

       
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