原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ホリエが後進に残した功罪

2008年07月29日 | 時事論評
 ホリエの存在は、確かにインパクトはあった。
 だが私は、あの若造のやることなすこと全てが鼻につき、嫌悪感を抱き続けていた。
 
 ㈱ライブドアの連結決算を粉飾したなどとして、金融商品取引法(元・証券取引法)違反の罪に問われた元ライブドア社長の堀江貴文被告に対し、一審判決に引き続きこの度二審においても実刑判決が下された。

 以下に、朝日新聞7月25日(金)朝刊の記事に基づいてこの判決につき抜粋し、要約する。

 堀江元社長は控訴審で「故意はなかった」などとして無罪を主張した。しかし、判決は「(堀江元社長の)指示・了承がなければ各犯行の実行はあり得ず、果たした役割は重要だった」とホリエを非難し一審同様に実刑が相当とした。
 これに対し、ホリエ側の弁護団は粉飾決算額が少ないことを理由に執行猶予が相当と訴えた。
 しかし二審判決は、ライブドアのような“成長仮想型”は粉飾金額によらず犯行結果が大きいこと、また、今回の粉飾行為が監査法人や会計士まで巻き込み、巧妙な仕組みを構築している点を指摘し、その悪質性を暴くものとなった。

 これに対し、ホリエ側は反省の色は全くない。
 今尚、東京都港区の六本木ヒルズを自宅とするホリエは「悪い事をやったとは思っていないし、なぜ悪いと言われるのか理解できない。」と話し、即日上告手続きを取っている。社名こそLDHと変更したものの、引き続き事業再建への意欲を高めている様子である。

 上記の通り、ホリエは二審実刑判決が下った今尚、自分は何も悪いことをやっていないと主張する。確かに法的(金融商品取引法上)に考察すれば、際どい判決であるのかもしれない。
 事実、ホリエを支持する世論も多い実態をもちろん私は承知している。


 そんな経済界を取り巻く新しい価値観を認識した上で、以下に私論を展開することにしよう。

 ホリエには明らかに何かが欠けている。
 マスメディアを通じてずっとホリエを観察していると、大変失礼ではあるのだが、“千と千尋…”のブタの姿になって子どもを放ったらかしてご馳走を食いあさる千尋の両親を私は連想してしまう。(あの両親も子を持つ親として醜さの象徴であると私は捉えているのだが…)
 要するにホリエは私の目から見ると経済界における“醜いブタ”でしかないのだ。

 ホリエとは皆さんもご存知のように途中までは“一応”エリートコースをたどっている人物ではある。東大(なぜか文学部宗教学科)に入学し中退しているのだが、在学中に自ら事業を立ち上げている。
 その後はプロ野球球団買収、ニッポン放送買収、総選挙立候補と、結果としてすべて敗退しているものの、とにかく世間を騒がせ人目を引く行動を好む人物である。
  

 ホリエが生きていく意味は何にあるのだろう。
 未だ35歳。人間は年齢では語れないのかもしれない。それでも、私自身の経験による考察では、まだまだ今後大きく人生が展開していく年齢である。まだまだ世間から世界から様々な事を学び吸収し自己を創り上げていく時期である。
 人生80年の時代に、たかだか30年前後の人生経験に基づく価値判断を元に、すべてが“想定内”と豪語し、どうしてそんなくだらない“こまっしゃくれた”人生を急ぎ、小さい天下を取りたいのか?? 

 ホリエの価値観は金であり名声でしかありえない。そこには何ら“文化”や“美学”が感じられないのだ。学問や科学や芸術の香りが一切ない。私の目から見るととんでもなくつまらない。

 金儲けを否定する訳では決してない。ただ、金儲けには必ず人間としての喜びや幸せや達成感が表裏一体として伴っているものであると私は年老いても信じ続けたいのだ。そのような裏付けのないお金の価値は低く、結果として社会から排除されていく運命にあるのではなかろうか。


 いずれにしても、ホリエ氏はまだまだ若い。
 頭の良い人物でもある。
 今後の更正に、私は心底期待申し上げたい。
Comments (14)

不動産賃貸の将来性

2008年07月28日 | 仕事・就職
 一昨日、私が所有する不動産賃貸物件の賃借人退室時の室内確認にオーナーとして立ち会った。

 私が長い独身時代に単独で居住用不動産物件を購入し、独身のうちに短期間で住宅ローンを全額返済したこと、及びその不動産を現在賃貸物件として活用していることに関しては、本ブログのバックナンバーで既述している。(お金カテゴリー「住宅ローンの早返し」及び、仕事・就職カテゴリーの「不動産賃貸の落とし穴」を参照下さい。)


 さて、近年は不動産賃貸借における賃借人の法的立場が強まり、相対的にオーナーの法的立場が弱まっているのだが、この現象にますます拍車がかかっていることを感じざるを得ない。

 以前は、賃借人の退出時の室内の原状回復において、その費用のほとんどを賃借人が負担していたようだ。
 現在では、賃借人の入居年数にもよるのだが、短期間の入居の場合、賃借人の費用負担は原則として部屋のクリーニング費用のみである。その他諸々、例えば壁や天井のクロスの張替え、畳替えや襖張替え、白木部分の洗浄塗装、水周りのパッキンやコーティング等の回復等々の費用はすべてオーナー負担となる。(正確に言うと、入居年数により費用負担割合が決められていてそれに応じて双方で折半するのだが、この費用負担を一切拒否する賃借人が多い。その場合、法的訴訟に発展することもあるが、これに更なる費用が発生するし手続きも面倒なためギブアップしてやむを得ずオーナーが全額負担することになるのはよくある話だ。)


 そのような不動産賃貸借におけるオーナー側の法的立場の弱みにつけ込んで、不動産仲介業者やリフォーム業者が商業主義に走り、不必要なまでの室内の原状回復、リフォームをオーナーに強要しているのではないかと、退室点検に立ち会った私は感じるのである。

 例えば、今回の場合賃借人の入居期間がたったの10ヶ月であったため、室内の痛み等がほとんどなく、一見して綺麗なのだ。素人目にはリフォーム等の必要は一切ないと感じるのだが、仲介業者とリフォーム業者が重箱の隅をつつくがごとくの細かい瑕疵を指摘してくる。例えば、クロスのほんの少しの捲れや画鋲の後、それから家具の重みによる絨毯の跡形等々…。それらを目立たなくする修繕をしてほぼ完璧な原状回復をした後に、次期の賃借人募集に備えるのが現在の常識であると言うのだ。
 拒否してもよいのであろうが、仲介業者には賃借人募集を依頼している関係もあり、異議を唱えるとオーナーとして印象が悪い。結局は業者の指示に従わざるを得ない運びとなるのだ。

 今は、入居者の移動も激しい時代である。今回のようにたった10ヶ月で賃借人に出て行かれ、その都度このような原状回復の修繕を繰り返していたのでは、零細オーナーとしては“商売上がったり”である。
 今や礼金もほとんど取れない。仲介手数料もオーナー負担の場合が多い。部屋のエアコンや照明器具等はオーナーが完備しなければならないし、居住中の給湯器等設備備品の修理、交換費用もかかる。月々の物件の管理費や固定資産税等の費用も恒常的に発生している。確定申告の手間も大変である。


 独身時代に単独で購入して独力でローンも完済し、我が独身時代のサクセスストーリーの象徴のような物件である。そのように私にとっては思い入れが強い不動産物件であるため今尚手放せないでいるのだが、そろそろ発想の転換をして手放し、現金預金の形で保有するべきか。
 大いに悩める私である。 
Comments (4)

ヤットサ~、ヤットサ~

2008年07月26日 | 音楽
 “ヤットサ~、ヤットサ~” これが何の掛け声だかご存知であろうか?

 答えは、徳島の阿波踊りである。女踊りの女性が踊りの途中でかける掛け声である。

 徳島の阿波踊りは毎年8月12日~15日までの4日間、徳島市内数箇所の演舞場及び市内の至る所で繰り広げられる。この4日間、徳島市内は踊り子と観光客でごった返し、道を歩くのもままならない程である。
 これに先立ち、徳島県内各地でも阿波踊りが繰り広げられる。中でも鳴門の阿波踊りは8月9日~11日の3日間開催されるが、徳島市程の混雑もなく演舞場の桟敷券も入手し易く比較的落ち着いて見物する事が出来るため、隠れた人気がある。


 さて、私は物心がついた頃からこの阿波踊りが大好きである。
 阿波踊りの魅力は何と言っても“お囃子”が生演奏であることだと私は感じる。各連(“連”とは踊りの一団体のこと)に必ず生演奏の“お囃子”が付くのだが、私は元々音楽好きであるためか、あの打楽器中心のビートの効いた“よしこの”のリズムがはらわたに染み渡る。それにあのノリのよい踊りに魅了される。

 “踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン…”と歌われている通り、実際に踊ってみるとこれまた楽しい。

 私は高校生の時に2年続きで阿波踊りを実際に踊った経験がある。母の仕事の関係で「鳴門大橋架けよう連」という素人の連で女踊りを踊った。
 一応、プロの踊り子の指導の下前もって何日か練習をするのだが、これがなかなか難しい。ご存知ない方は、阿波踊りって適当に手を振って足を運べばよいとお思いかもしれないが、なんのなんの、正当な踊り方をマスターするのは至難の業である。
 という訳で素人連の踊り子は皆下手なのであるが、とにかく下手なりに私も踊った。女踊りは揃っていることが肝心であるため身長順に並ぶことになり、身長が高い私は最前列で踊ることになった。女踊りは腕を上げたまま演舞場を出るまで下ろせないのだが、後で半端ではない筋肉痛が襲ってきたものだ。今となってはいい思い出である。


 阿波踊りを見る場合は、是非とも有名連の踊りを見ていただきたいものである。
素人連とは格段の差のプロの踊りを堪能していただきたい。
 「阿呆連」「えびす連」「のんき連」「蜂須賀連」「阿波扇連」…… 有名連は数多いが、私が個人的に好むのは女踊りが美しい連である。
 「うずき連」は女性の踊り子の体型まで揃っていておそらく皆さん170cm以上身長があり全員がスリム体型である。「新橋連」や「笹連」は美人揃いであるのが特徴だ。
 有名連の場合、いずれも踊り子になるためには厳しい選抜を通過しなければならないと見聞している。

 近年の阿波踊りの特長は“お囃子”や踊り方の自由度が高まっている点である。
 中でも、“お囃子”を打楽器だけで構成し、8ビートではなく16ビートで踊りを繰り広げる連も存在するのだが、なかなかの迫力で私は個人的には好みである。
 この自由度の高まりに対し、伝統的な阿波踊りを継承していく立場からの批判もあり、論争が繰り広げられているとも見聞する。伝統の継承と時代の進化との狭間で揺れ動く阿波踊りでもある。


 もし機会がありましたら、是非徳島へ行かれて本場の阿波踊りを堪能されてはいかがでしょうか。 “ヤットサ~、ヤットサ~”
Comments (12)

五番札所地蔵寺に眠る父

2008年07月21日 | 旅行・グルメ
(写真は四国八十八か所第五番札所地蔵寺の五百羅漢)

 私の父は60代の若さで急性心筋梗塞で突然死した。来年10回忌を迎える。
 (参考ではあるが、私の父の男兄弟4人のうち後2人も急性心筋梗塞で40代、50代の若さで突然死している。その中で唯一生き残っている末弟も50代の時急性心筋梗塞で倒れたのだが、倒れた後の措置が良かったようで九死に一生を得たといういきさつがある。世にも稀なバリバリの突然死家系である。 この私も危ないかも……)

 突然死とはその名の通り昨日まで元気にしていた人間に突然不意打ちに死が訪れる出来事であるため、その後の葬儀や後々の始末が一般の死亡以上にあたふたするものである。
 そんな中、普段より気丈な母は、ひとりで思索しひとりで意思決定して父を永代供養にすることに即決した。なぜならば娘二人が遠隔地(姉は米国、私は東京)を永住の地としているため、地元に後々墓を守っていく跡継ぎがいないからである。

 そういう経緯があって、私の父は四国八十八か所第五番札所の地蔵寺に眠っている。(いや、“千の風”になったのかもしれないが…)
 母が八十八か所の札所寺を選択した理由は、たとえ娘2人が滅多に訪ねて来なくとも、お遍路さんが四季を問わず巡礼に訪れるため、あの世で寂しい思いをしなくて済むと判断したためである。そして、母自身も既に同じ地蔵寺に永代供養の申し込み手続きを自主的に済ませ、母が他界した折には私がそこに位牌を持ち込むだけで済むように万全の手はずを整えている。あくまでも最後まで娘達の世話にはならない、娘達の手を煩わせないことを信条としている子孝行な母である。(参考のため、現在田舎で一人暮らしの母は既に“後期高齢者”であるが、まだギアチェンジの車を乗り回す元気者である。)


 明日(7月22日)より1年半ぶりに故郷へ帰省し、この地蔵寺を訪れる予定なのだが、それに先立ちこの第五番札所地蔵寺について本記事で紹介することにしよう。

 四国八十八か所巡礼の旅は今やひとつのブームと化しており、全国から観光客が四季を問わずひっきりなしに訪れているようだ。
 この巡礼の旅の流行現象に便乗し、札所寺の中には観光客目当ての商業主義に流れる寺もあると見聞する昨今である。
 そんな中、五番札所地蔵寺は商業主義には一切流されず、広大な境内にひっそりと佇み、静かに巡礼のお遍路さんを迎えている。

 この寺は弘仁12年に嵯峨天皇の勅願により弘法大師が開創したおよそ1200年の歴史のある真言宗の古刹である。
 そしてこの寺の最大の特徴は、日本一の規模を誇る奥之院の「五百羅漢」を有している事である。(写真参照)
 羅漢とは釈迦の子孫であり、仏教修行して阿羅漢果という人間として最高の位を得た人であるそうだ。その羅漢を五百人集めたのが「五百羅漢」であり、その姿は喜怒哀楽の表情を浮かべた人間味のある仏であるとのことだ。
 地蔵寺の「五百羅漢」の創建は安永4年であるが、大正年間に焼失し、現在あるのはその後に復興したものである。
 
 地蔵寺を訪れるといつもこの「五百羅漢」に立ち寄るのだが、これがなかなかの趣である。写真は明るく撮られているが実際は堂内は昼間でも暗くそして何分巡礼者が少ないお寺であるためか、いつ訪ねても広い堂内が“貸切”状態なのだ。そのためゆったりと観賞できるのであるが、母などは「一人で見るのは昼間でも怖い」と言う。確かに、羅漢一人ひとりの表情やしぐさが特徴的で少しユーモラスなのであるが、そのユーモラスさからむしろ威厳や畏敬の念を感じさせられるような“怖さ”をかもし出しているとも言える。

 拝観料も200円と手頃なので、四国八十八箇所巡礼の際には一度訪ねられてはいかがか。 樹齢800年を超える「たらちね銀杏」をはじめとして、阿讃山脈を背景に木々が生い茂り緑が美しい“癒し系”の寺である。


 それでは、私は明日から郷里へ向けて旅立ちます。  
 数日後、またこのブログ上で皆様にお目にかかれることを楽しみにさせていただきます。
 頂戴しましたコメント等に関しましては帰宅後必ず返答申し上げますので、少しの間お待ち下さいますように。
Comments (4)

ノンフィクションの限界

2008年07月19日 | その他オピニオン
 たかがブログ、されどブログ……

 この書き出しで開設した本ブログも11ヶ月目に入り、記事本数は160本を超えている。

 ブログとはこのようにネット上で公開されるHPである。すなわち“公開性”をその使命として背負っている。 我がブログもこの“公開性”を常に意識しつつ綴っている。
 
 では、ブログにおける公開性とは何であるのか。
 それは、社会性であり、公共性であると考える。 不特定多数の人々が閲覧、訪問する可能性のあるブログは、たとえその内容が個人的日記、記録であれ、ある程度の社会性、公共性を伴っているべきであると私は常々考えている。
 たまに、自分が綴りたいから綴っているだけで人が読むことは想定していない、とおっしゃるブロガーもいるようだが、そういう趣旨の純粋な日記である場合、自分のパソコンの文書作成のページにでも綴れば済みそうなものだ。が、あえてブログという形式を選択しているのは、潜在的に“公開”を意識しているものと受け取れる。その場合、やはりある程度の社会性、公共性を意識するべきかと私は考える。

 ただ、ブログは“報道”ではない。あくまでも個人的な趣味の範囲の読み物(書き物)である。“報道”と“単なる読み物”との違いは、社会性、公共性の強さ、すなわち負っている社会的責任の差にあると捉えらることができる。
 “報道”をその業務内容とし営業収益をあげているマスメディアに報道内容の誤りがあっては決して許されない。消費者に正確な情報を提供し続ける使命をマスメディアは常に担っている。

 一方、ブログはどうか?
 ブログとは一般市民が営利目的ではなく、たかだか個人の趣味で綴る単なる読み物である。(アフィリエイト目的のブログも多いが、それはブログとしては分野がまったく異質である。) 単なる読み物であれども、ブログの公開性を鑑みると個人の責任において情報の正確さに配慮がなされるべきではある。が、個人が持てる能力の範囲内での正確さの確保には限界もあれば、ブログに完全無欠の正確性を要求する読者も少数であろう。


 私のブログの趣旨は種々の社会問題に対する自己のオピニオンの公開にある。そして、公開したオピニオンに対して読者の皆さんからコメントを頂戴し、コメント欄で記事のテーマ毎に読者の方々と共に更なる議論を展開していくという形式を取らせていただいている。

 このように当ブログでは自己のオピニオンをエッセイという形で綴っている訳であるが、元を正せば、エッセイとはノンフィクション分野の読み物というのがその定義である。さらにノンフィクションとは虚構を交えずに事実のみを伝えるのが本来のあるべき姿なのだが、私のブログにおいては、あえて事実(特に人物像に関して)の一部をデフォルメして自己の主張を強調する等の操作を意識的に行なう事が間々ある。この操作は、記事のストーリー性の確保や読み物としての面白さ等、記事のバージョンアップを狙う目的で意図的に行なう場合もある。

 このような当ブログの意識的、意図的操作に関して、読者の方々よりご意見を頂戴することがしばしばある。事実を歪曲して伝えているのではないか、オピニオンが極端である、等々の…。 その場合、自己のブログの方針を説明申し上げ、ご理解を頂戴している。
 実は、この種の意見をいただく事は、当エッセイの著者である私としてはうれしい一面でもある。なぜならば、この種のご意見の根底には当ブログを単なる読み物を超えた一種“報道”的な存在として捉えて下さったり、ある意味で“普遍性”を見出して下さっているようなニュアンスが感じられるからである。(私の単なる勘違いか? そうだよね……。 失礼致しました…)

 またある時は知り合いの読者の方から、記事の中で批判の対象として登場している人物は自分ではないか、とのご質問や苦情を頂戴することもある。
 これに関しては、まったく“No.”である。当ブログの趣旨は社会問題等に関するオピニオンの公開であり、個人攻撃については一切その範疇としていないからである。オピニオンを述べるにあたり、事例として個人の話を持ち出すことはあるが、この個人とて上記の通り一部をデフォルメしている。モデルとなる人物が実際に存在する場合が多々あるのは事実だが、記事のオピニオン展開上取り扱い易いように相当アレンジさせていただいたり、その人物の一面のみをピックアップさせていただいている。
 という訳で、私のブログの場合、実在する人物の全人格的存在がオピニオンの対象となることはあり得ない。人は皆魅力的な存在であり、例えば私のブログでオピニオンの対象として登場していただいた人物が、現実生活上では実は好意を持たせていただいていたり、尊敬させていただいている人物であったりもする。

 この現実とブログ上でのミスマッチ現象は、ノンフィクションのエッセイという立場を取る場合は特に、文章表現の世界の限界とも言えるのではなかろうか。


 要するに、ブログとは“公開性”をその使命としているため、社会性や公共性をある程度意識しつつ綴るべき書き物(読み物)ではあるが、マスメディアのような“報道”とはまったく異質の存在であり、ブロガー個人の自由度がその魅力なのではないかと私は考えるのだ。
 当ブログはノンフィクション分野のエッセイであるのだが、そこには一部フィクション要素も含まれていることをお含み置き下さった上で楽しんでいただけたなら、また一味違う側面も発見していただけるのかもしれない。
  これからも   ! !   
Comments (14)