原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

降り積もる 雪・雪・雪 また雪よ……

2011年01月31日 | 時事論評
 北国の皆様、豪雪お見舞い申し上げます。   


 今回の記事の表題は、歌手の新沼謙治氏が透き通った声で情感豊かに歌う 「津軽恋女」 から一節を引用したものである。

 夏の北海道を訪れたことはあるものの、南国生まれで東京暮らしが長い原左都子にとって、毎冬雪が降り積もる厳寒の北国は未知の世界だ。
 そんな私がこの歌を聴くと雪の風情に浸ることができ、雪国ならではの静寂感や厳しさ等の情緒深い世界に引き込まれる思いなのである。


 早くも私事であるが、何せ原左都子が生まれた南国地方での子供時代など雪が5cm程でも積もろうものならそれは記録的な出来事であり、小学校は授業を取り止めて全校生徒に校庭で雪だるまを作らせたり雪合戦をさせたりして、南の地方では珍しい雪と戯れる学習を実施したものである。 (これが寒くて冷たくて、実は苦痛だった私なのだが…)
 それから、東京で雪が降るのも一冬のうちに数える程の出来事である。 それ故に(国民の皆さんは既にニュース等で見聞されていることであろうが)東京でたかが10cmの積雪があっても、交通機関は乱れるわ学校は休校するわ、はたまた老いも若きも道路で転んで救急車で運ばれるわ、で大騒動の始末である。
 北国にお住まいの皆さんはこの都会での醜態をおそらく“せせら笑われる”ことであろう。 だが、これぞ雪を経験しない地方の実態であるから故に、雪経験の乏しい地域に住む住民の一人として原左都子は北国の皆様を心より尊敬申し上げるのである。
 (参考のため、今冬は東京都心部にはまだ雪が降っていません。)


 そんなことを言っていられる場合ではなく、今年の北国の豪雪は実に凄まじい。
 連日メディアで報道される豪雪情報や、雪下ろし作業等で少なからずの方々が命を落とされたニュースを見聞して、自然災害とは言えこの過酷な状況がどうにかならないものかと気をもむ日々である。

 本日(1月31日)のNHK昼のニュースでも、昨夜から続いている記録的豪雪被害が伝えられた。
 場所は福井県であった(?)と記憶しているが、一夜の内に1メートル程積もった新雪の雪かきに精を出す住民の様子が影像で流れた。 何処の家屋でも、玄関先の通路を確保するため、また屋根に登って家の倒壊を防ぐため、そして車が押しつぶされないよう車と同じ位の高さまで積もった雪・雪・雪の“雪かき”また“雪かき”の様子だ。
 その雪の量たるや、南国生まれの原左都子の想像を絶するものである。
 (道路脇に積み上げられた雪の山は冬の間さらに増え続けるのであろうか? 春になって雪解け時を迎えた頃、あの雪の塊が洪水と化して地域住民に二次災害をもたらさないのだろうか?  東京という都会に住む我が身としては冬場も毎日晴天でいい思いをして申し訳ないのに加えて、あの雪解け水を水源としていただいている恩恵で夏も水不足に悩まずに済んでいるのであろう。 等々、如何なる方面から考察しても日々雪国の人達には頭を下げて暮らすべきだ……。)
 豪雪ニュースを見聞しつつ、様々な思いが頭を過ぎる原左都子である。


 豪雪地帯の住民の方々にとっては“雪かき”とは毎冬の日課であり、ある程度の雪対策には慣れておられるのであろう。 
 ところが、今冬の豪雪はとにかく尋常ではない。

 現在開催中の通常国会においても先週末、政権与党は野党より今冬の豪雪対策の遅れを指摘されていた。
 この年末年始に短時間の豪雪のため道路上で車が立ち往生し長時間に渡り人が車内で身動きできない異常事態が発生した時点で、国や地方自治体は素早く対応策を練る必要があった。にもかかわらずその対応が遅れた結果、その後も北国地方の各地で同様の事態が発生し続けている。

 これを受けて、やっと国交省は「基幹国道閉鎖」に乗り出したようだ。
 朝日新聞1月28日朝刊記事によると、短時間に大雪が降った場合、物流を支える直軸国道であっても除雪を急いで車の立ち往生を防ぐため、国が早めに通行止めにすることにしたようだ。
 記事によると国交省は、年末年始の豪雪時に鳥取県や福島県の国道において通行止め判断の遅れから被害が拡大した反省から、今までは豪雪時でも通行止めとはせず除雪作業を進めていた地域の直轄国道においても早めの封鎖を決断したとのことである。

 北国の豪雪事情には疎い原左都子であるが、確かに道路(特に自治体を超えて国土を結んでいる国道)とは物流の要であろう。 その道路が豪雪等の事情により通行不能となる事態とは、人のライフラインにかかわる危機とも言える。 そんな危機を毎冬乗り越えつつ豪雪と力強く闘いながら生活を営んでおられる北国の住民の方々を再度尊敬申し上げたい思いである。

 一方で、もしも今後ますます温暖化現象と平行して地球上の異常気象に拍車がかかるような場合、如何に対応していけばよいのであろうか?
 環境省が“温暖化対策”だの“エコ”だのと叫んで国民に対し“訳のわからんエコポイント”なるものを贈呈したところで、一体全体地球の温暖化対策上幾ばくかのプラス要因があるのかと考察するに、その結果の程が見えず虚しいままである。


 原左都子は豪雪地帯の苦悩や困難をメディアを通じて知るしか手立てがない地方に住む人間である。  それでも、この国に豪雪地帯があってその地方で厳しい冬を乗り越えるべく一生懸命“生”を営んでいる人々がいることだけは、いつも認識していたい思いである。
 
 新沼謙治氏が歌う「津軽恋女」をあくまでも“他人事”として感傷に浸りつつぬくぬくと聴いている原左都子であることをお詫びすると同時に、豪雪地方に住む方々が時には“雪かき”を休んでこの曲を少しは余裕を持って聴ける冬の日の到来を待ちたいものである。  
Comments (4)

イレッサ犠牲者切捨てが「癌患者全体の利益」なのか?

2011年01月29日 | 時事論評
 先だっての1月24日に召集された第177回通常国会であるが、野党側の鋭い質問に応える菅総理をはじめとする与党閣僚の答弁の“摑みどころのない不明瞭さ”に、原左都子としては欲求不満を募らされる日々である。

 国会答弁も“言葉のあや”の世界とでも表現するべきか、与党側の答弁は野党側の質疑に対し論点をはぐらかし逃げてばかりで、答弁として何ら機能していない感覚を抱かされるのだ。

 昨日(1月28日)午後1時過ぎからテレビで見聞した自民党参院議員(元地方自治体の市長であられる方のようだが、失礼ながらお名前をメモし忘れていることをお詫び致します)氏は、国と地方自治体との関係における政権の一連の失策を取り上げておられた。
 この質疑内容が実によくまとまっていて説得性があり的を射たものであったため、原左都子も一国民として唸ったのも束の間、それに応える菅総理には愕然とさせられたものである。 何を応えたのかも記憶に残らないような、要するに政権与党のマニフェストや日頃の政策を何とかごまかして正当化するに過ぎない安直な内容だったのだ。


 答弁が“不明瞭”であるうちはまだしも、昨日(1月28日)の菅総理の答弁の中に、明らかに「誤り」と判断出来る許し難い発言があった。

 それは昨日、 みんなの党 の川田龍平氏が「イレッサ訴訟」に関して国の責任を迫ったことに応えた際に発した菅氏の言葉である。
 菅総理応えて曰く、 「イレッサ訴訟問題に関しては、『癌患者全体の利益』を考慮して解決していくべきと考えています。」
 菅氏のこの発言は、元医学関係者である原左都子にとって、どうしても聞き捨てならないのだ。


 イレッサ訴訟に関しては「原左都子エッセイ集」の読者の方々は既にご存知であろうが、ここで参考のために、万人に分かり易く解説されている新聞記事を以下に引用することによりその経緯を簡単に説明することにしよう。

 ある治療や薬を施してそれで良くなる人もいれば、症状があまり改善しない人もいる。むしろ悪くなる場合もある。医師や医療従事者は経験的に知っている。
 従来型の抗癌剤は癌細胞だけでなく正常細胞にも作用する。重い副作用が出てくる可能性が高い。製薬会社や薬事行政の担当者なら常識だろう。
 だが世間の常識はどうか。「癌」のことなど知りたくないと考えている人も少なくない。万が一、病気になれば「治る薬」を求める。副作用の説明を受けてもまさか自分がそうなるとは考えない。 薬の危険性についても国は国民にもっと知らせるべきだと専門家は言う。しかしこの溝はなかなか埋まってこない。
 肺がん治療薬「イレッサ」で深刻な副作用を受けた患者と副作用によって死亡した患者の遺族計15人が、国と輸入販売会社のアストラゼネカ(大阪市)に損害賠償を求めた訴訟で、東京、大阪両地裁が和解勧告したのは今月7日だった。  国がイレッサの輸入を承認した2002年7月5日の時点で、副作用で致死的な間質性肺炎が起き得ることについて国や企業は十分に注意喚起していなかった。そのため国などは患者や遺族を救済する責任があると裁判所は判断した。
 これに対し、国は安全対策に誤りはなかったとして和解を拒否した。 
 しかし、話を少々広げすぎではと感じる。あくまでイレッサの承認過程と使用方法の問題である。800人以上の副作用死を防ぐ事前の手だてはなかったか。
 イレッサは新時代の治療薬と前評判が高かったために、優先審査制度を使って通常1年余りかかる審査を5カ月余りでパスした。  だが、市販直後から間質性肺炎を含む肺障害の報告が相次ぎ、3カ月後に重大な副作用として「警告」が出された。 イレッサが有効な場合も逆効果の場合もあった。当初から慎重に使っておけば副作用死は減らせたのではないか。
 素人から見れば、判断は性急で安全が十分考慮されたと思えない。裁判所が国などに責任ありとしたのもうなずける。
 国は承認の誤りは認めないが、抗がん剤による副作用被害の救済制度などを検討するという。だが求められているのは国の率直な反省だ。昨年4月には薬害肝炎の検証と再発防止に関する分厚い報告書も出た。過去の教訓をもっと生かしていかないと悲劇は繰り返される。
 (以上、西日本新聞1月29日朝刊記事の一部掲載)


 原左都子の私論に移ろう。

 上記のごとく長い新聞記事の引用とならざるを得ないのは、医学・医療分野とは人の命がかかわる領域であるが故に専門性が高く、一般市民には一見して分かりにい分野であるからに他ならない。
 そういう意味では上記の西日本新聞記事は素人にも分かり易く的確に書かれており、これをお読みいただけると、通常国会において菅総理が明言した “イレッサ犠牲者との和解に踏み込まないこと イコール 「癌患者全体の利益」” 発言が、医学を心得ない素人もどき者からの不適切発言であることがお分かりいただけることであろう。


 結論から言うと、医学分野においては 「全体の利益」 なる言葉はまったく通用し得ないのである。

 それは教育分野においても同様であるが、人の人格的個性が様々であるように、人が持って生まれた身体の個性、すなわち体の形態や機能とは実に多様であるのだ。
 ある癌患者にとっては“イレッサ”が有効だったことであろう。 ところがある人にとってはこれにより死に至ることが実際に少なからずあったからこそ訴訟に至っているのである。

 この現象を、決して国の指導者たる者が“統計学的”に片付ける過ちを犯してはならない。
 統計上死者が少数で済んだならば「全体の利益」を考慮して少数派である犠牲者を捨て置くという発想ではなく、医学も国政も自らの過ちを認め被害者である少数に丁寧に対応してこそ、今後国が進化発展していくというものではないのか!? 
 菅総理が昨日の国会答弁でイレッサ問題に関して明言した 「癌患者全体の利益を考慮すべき」 の発言の背景にある思想とは、まさに人間個々の個性を心得ない我が身息災な国益論に基づく“全体の利益思想”に他ならないのだ。  それは極論としては、恐ろしいことに日本の過去において戦争を肯定した思想と一致すると捉える私は、背筋が寒くなる思いである。

 一国の総理が旧態依然と「癌患者の全体の利益」を唱える前に、国政全般に渡る国民個々の心身共の個性を尊重する観点に立ってこそ薬害問題や医療過誤問題の再発防止に繋がり、今後この国の国民も活気付くのではあるまいか。

 そのためには現在国家財源食い潰しのネックとなっている民主党票取り目的の“カネのバラ撒き政策”を本気で早急に廃止することも視野に入れつつ、貴重な血税により運営されている国会に於いては、野党の建設的な質疑にも少しは耳を傾けて政権閣僚は真摯に応えるべきとアドバイスしたいのである。  
Comments (8)

音楽を連れて歩けば 心も踊る♪

2011年01月27日 | 音楽
 (写真は、昨日私が買い求めた デジタルミュージックプレイヤー ソニーのウォークマン)


 昨日(1月26日)家電量販店へ上記写真のウォークマンを買いに出かけた私は、陳列されている商品の数々を見て“ここまで小型化されているんだ!”と感嘆したものだ。
 (参考のため、写真の商品は大きさが約75mm×35mm、重さが45gと、何と卵一個よりも軽いのだ!)

 音楽好きな私は、ソニーがウォークマンを発売した当初よりその恩恵に与かっている。
 時は30年程前の頃であろうか、未だ音楽がデジタル化されていない時代で当時発売されていたウォークマンは「カセットテープ」対応機種だった。 私の場合、相当小型化されて以降に買い求めたのだが、ほぼカセットテープと同じ大きさのコンパクトタイプで“巻き戻し”や“早送り”機能も付いていたように記憶している。
 当時、30代にして学業と仕事を同時進行の超多忙な花の独身時代であったのだが、大学から仕事場へ向かう移動時や夜遅く仕事から帰宅する電車の中で、時には眠りながら束の間の音楽鑑賞を堪能したものである。

 音楽がデジタル世界へと移り行くのと平行して、CD型のウォークマンが発売された。 これも購入したく考えた原左都子であるが、CDの大きさにマッチした機種となるとコンパクトが特徴のウォークマンとてどうしてもカセットよりも大きくならざるを得なかったのであろう。 カセット型ならば女性のハンドバッグに納まるが、CDタイプのウォークマンはそうはいかない。
 時を同じくして、電車内でウォークマン族が発する“カシャカシャ音”が迷惑行為として社会に認識され始めた頃でもあった。
 結局、種々の理由で CDウォークマン 購入は断念し、音楽好きな原左都子にして“音楽を持ち歩く”時代は過ぎ去っていたのである。

 2、3年前(もっと前か??)に “i Pot" と称するデジタルミュージックプレイヤーが米国Apple社から発売された頃から、再び音楽を持ち歩くことに関して興味を持った私である。
 ところが電池から火が吹く等の事故が続出する等のアクシデントもあったと記憶しつつ、虎視眈々と値下りを待っていた私でもある。

 もうそろそろ買い時かと心得て昨日家電量販店(ヤマダ電機です。)に行ってみると、原左都子の読みは的中であったと言えるであろう。
 どういう訳か、売り場には “i Pot" 製品は蔭も形もなく、陳列されているのはソニーのウォークマンのみなのだ。 その裏の事情は心得ない私であるが、とにかく上に記した通り予想以上にコンパクト化された製品に感嘆して即時購入と相成ったのである。

 ところが、今時の家電量販店とは“儲かり過ぎているのか?” 店員の対応がそっけないのだ。
 購入に当たり確認しておきたい事があって店員を探したのだが近くには誰一人いないため、(今書き入れ時であろう)テレビ売り場まで店員を捕まえに行った私である。 そして私がその店員に尋ねて曰く「これは音楽が聴けますよね」  そんな私をせせら笑いつつ店員が応えるには 「これだけでは音楽は聴けませんよ。」……  (あんた、客を逃がしたいのか? メカ音痴に見える私だってそれ位のことは分かって尋ねているんだよ!)と内心多少ムカつきつつも 「パソコン等の媒体から音楽を録音することは分かるのですが、その際の接続コードは商品に附属されていますか? イヤホーンも付いていますか? そして電池充電はどういった仕組みなのでしょうか??」と尋ねた私である。 それに店員はやっとまともに応えて曰く 「電池の充電はパソコンから行えます。機種に直接充電したい場合は別に充電器も販売しています」  (最初から、そう言えよな~)と後味の悪さを引きずりつつも、機種本体と充電器を購入するに至った私である。


 ここで若くもない私が何故に“デジタルミュージックプレイヤー”を欲していたのかに関して、少し解説することにしよう。

 その第一の理由は、原左都子が無類の音楽好きであるからに他ならない。
 音楽好きな人間が音楽を聴くと脳神経細胞から神経伝達物質であるドーパミンが分泌されることに関しては、基礎医学分野においても科学的に証明されつつあるようだ。
 日々の生活の中で落ち込むような時があろうと、音楽を通して心身が活性化される事を我が人生において幾度となく経験してきている私にとって、音楽はなくてはならない要素である。
 特に都会における現在の住宅事情のごとく家庭内で音楽を大音量で嗜む事が困難な時代にあっては、イヤホーンを通じての音楽鑑賞は有意義なものである。

 そして、バックミュージックと共にダンスを楽しみたい原左都子にとっては、デジタルミュージックプレイヤーはどうしても欠かせないツールであったと言える。
 夜な夜な“ダンスエクササイズ”を原左都子が実施している事に関してはバックナンバーでも披露しているが、今まではパソコンに長めのイヤホーンを繋いで踊っていたためターンが出来ないとか、あるいはコードに手をひっかけることが多発していたのだ。 昨日購入した超小型ウォークマンの場合、服のポケットに軽々収納できるため、ダンスの動きが自由自在なのである!! 


 明日訪れるスポーツジムにも、私はこの 超小型ウォークマン を持参するつもりである。
 ランニングマシーンに乗る時でも、きっと音楽をバックに走ると脳神経細胞からのドーパミンの分泌量が倍増することに間違いないと信じる原左都子である!

 まさに、音楽様様の我が人生なのだ♪♪ 
Comments (4)

今日も涙、明日も涙の我が人生 ??

2011年01月24日 | その他オピニオン
 いえ、決して原左都子の人生が辛く悲しくて日々泣いて暮らしている訳ではありません。

 それにしても、実際泣かない日は皆無であると言える我が人生なのだ。
 何故に私が毎日泣いて暮らしているのかというと、それは感激派で「涙もろい」せいである。


 そんな私は、朝日新聞1月22日別刷“between”の今回のテーマ 「最近泣いたことある?」 を一見して、 (えっ?、人って毎日涙流すのが当たり前じゃないの?) との意外な感覚を抱いたものである。

 この朝日新聞読者アンケート記事“between”の今回の回答は、「はい」が77%、「いいえ」が23% との結果である。
 最近泣いた人の中では、その回数が1回~2、3回が過半数であり、私のように毎日泣いて暮らしている人種はやはり少数派であるようだ。
 そして、泣いた理由としては原左都子同様に「感動した」との回答が最多であり、次点には「悲しい」が位置し、3位が「感情移入した」、4位が「悔しい」、5位「うれしい」、以下「怒った」「痛い」と続く。


 私事になるが、原左都子の場合「悲しく」て泣く事は今となっては皆無である。 と言うよりも「悲しい」との感情を抱かない精神構造を自ら創り上げてきたとも分析できよう。 「悲しい」という感情とは一種受身の心理状態であるように感じるのだが、精神面において受身発想を排除したい意識が強い人間であるのかもしれない。
 身内が亡くなった時など通常は「悲しく」て泣くのであろう。 確かに私も身内や近親者の葬儀の時には涙を流すのだが、これが純粋に「悲しい」感情から来ている涙なのかと考察してみるに、もっとより複雑な涙のように感じるのだ。 単に悲しいのみならず、故人との生前の出来事を思い起こした感慨深さや、あるいは“死”という現象に対する未知の不思議さに対する摑みどころのない感情等々が入り乱れた涙であると分析する。

 次に「怒る」事とは人間の成長にとってプラスの感情であると捉えつつ、ご覧のように「原左都子エッセイ集」においていつも世の不条理や理不尽さに対する「怒り」の感情をメッセージに転化している私である。
 「怒り」の発散手段を見出している私は、今となっては「怒って」泣くこともほとんど無いと言える。

 一方、「悔しく」て泣く事は多い。 「感動」や「感情移入」以外のマイナー感情で私が涙するのは、ほとんどがこの「悔しい」時である。
 これが多発するのが夜中に見る“夢”の中に於いてなのだ。 どういう訳か若かりし頃より今に至るまで「悔しい」夢がよく出現する私なのであるが、当の昔に過ぎ去った出来事が夢の中でフラッシュバックして、未だに「悔しさ」に悶えつつ布団の中で泣きじゃくることが多い原左都子である…。  


 この読者アンケート記事である“between”では 「大人が人前で泣くのは恥ずかしいこと?」とのアンケート結果も同時に掲載している。
 「はい」回答が34%、「いいえ」回答が66%と、以外や以外、人前で泣く事を容認する派が多数を占めている。

 いくら涙もろい原左都子とは言えども、大の大人が人前で涙することは避けるべきと判断している。 そのため、私が涙を流すのは専ら家庭内においてである。 では身内なら甘えていいのか?に関しても意見は分かれるであろうが、「感動」や「感情移入」の涙に関しては「甘えてよい」との結論を導いている身勝手な私である。 (反面、「悲しい」や「怒った」等の理由による涙は、たとえ身内と言えども決して見せてはならないと肝に銘じている私である。)
 そのため、我が娘など私が「感動」したり「感情移入」して泣く姿を幼き頃よりずっと見て育っている。 (参考のため、我が娘は産まれ持った事情によりややその種の“心のひだ”が育ちにくいのかと思われるふしもあったのだが、幼き頃より親である私が感激して泣く姿をみて、間接的に「感動」の意味を感じ取りつつ自分の感性を育てているようにも考察できるのである。)


 原左都子が“涙もろい”ことに関しては、「原左都子エッセイ集」バリバリ開設当初の2007年9月9日のバックナンバー 「涙もろさと感性との相関関係」 においても述べている。
 その記事においては、“涙もろい”こと イコール 感性が豊かであるとも言えないのではないかとの私論を展開しているのだが、今読み返してみると自分ながら興味深いものがあるのだ。 その内容を以下に少し紹介することにしよう。

 <<  ところで、原左都子の涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。恐らくホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう。とは重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず醜態をさらすこととなる。
 数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。研究成果の発表、ディスカッションという科学的な会合でのスピーチで涙などとはまったく無縁の場であるのに、とんだ場違いで穴があったら入りたい心境であった。 私の涙で会場全体がワークショップらしからぬ異様な雰囲気になってしまい、スピーチの最後を締めくくる学会長も話す言葉に困惑しておられた。私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあり、それがスピーチ時に涙となって漏出してしまったと分析しているのではあるが、今思い返してみても何ともみっともない限りの醜態である。
 さてここで、この“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。通常涙もろい人は感受性が強く感性が豊かであることには間違いはないと思われる。ところが私の場合、プレ更年期以降は例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックしたりして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。 別の観点から考えると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。 >> 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部引用)


 上記朝日新聞“between”の記事内には、その道の専門家と称する大学教授によるコメントも掲載されている。  「泣く事はストレスに対する一種の防御機能であるため、泣く事によりストレスが緩和される。 …  涙は我慢するとストレスになるため、他人の迷惑にならないなら大いに泣きましょう。」

 片や、泣く事に対して批判的な読者からは、 「幼い時に母から人前で泣いてはいけないと厳しくしつけられた」 「時には歯を食いしばって我慢することも必要」 そして「メディアのわざと泣かせる演出が嫌い。感動を強要されている気がする」等々の意見もあるようだ。
 「幼い頃に泣く事を制御された」ご意見に関しては、原左都子も幼き頃、父親から同様の身勝手な仕打ちを受けた人間である。 その種の抑制が及ぼす子供の健全な精神発達の阻害の反省から、私は決して我が子に同じ過ちを繰り返してはいない。
 「“メディア”の泣かせることの演出」に関しては重々それを認識しつつも、その演出力が合格点をクリアしている場合は、泣いて(あげる)原左都子でもある。 どうしてもその演出がアホらしい場合は、失笑を誘われるだけで泣けもしないというものである。


 まあ、皆さん、場をわきまえつつも、泣きたい時には大いに泣こうではありませんか!!
            
Comments (4)

あなたは 「熟年離婚」 に踏み切れますか?

2011年01月22日 | 恋愛・男女関係
 本日(1月22日)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談を読んで、ついに我が亭主が配偶者である原左都子の“落ち度”を公に訴えるべく新聞投書行動に出たか!?? と一瞬焦った私である。


 冗談はさておき、普段亭主の話題をほとんど出さない「原左都子エッセイ集」であるのだが、それはある側面から考察すると我が夫婦関係が比較的良好である証拠とも言えるであろう。
 はたまた別の見方をすれば、それは家庭内における“独裁者”ともいえる立場の原左都子の独りよがりの感想に過ぎず、あちらは日々大いなるストレスを溜め込んでいるとも想像できるのである。

 
 それでは早速上記“悩みのるつぼ”に寄せられた60代無職男性による 「口汚い妻にうんざりです」 の相談内容を、以下に要約して紹介しよう。
 妻も私も70歳手前であり、3人の子どもは独立している。 結婚前、妻を口数が少ない理知的な女性と思い結婚を決意した。 ところが結婚後、性格がひどく強く妥協を知らない頑固な人間だと分かった。 やがて長女が産まれた後妻は母としては模範的であるが、私とは衝突するばかりで私は離婚に同意した。 長女は私が引き取り、“離婚”とは言えども妻が直ぐに戻ってくると読んでいた反面、いざ妻がいなくなると自分の我がままでこうなったと反省し結局復縁した。 その後さらに2人の子供に恵まれたが、相変わらず妻の口汚いののしりに悩まされたが子どもが独立するまでと耐えた。 今は妻と2人きりの生活だが、もう10年以上家庭内別居状態である。相変わらず口汚い妻を殺したくなる時もある。 家庭内暴力は女性が被害者とされているようだが、私のような男もいる。 今後、このような妻とはどのように婚姻を続けていけばよいのか?  


 この相談を読んだ直後の原左都子の私論を述べよう。
 結婚・離婚・復縁後70歳手前にして尚、それ程までに妻のことを受け入れ難いと言うならば、妻側とても、そんな夫はこちらこそ願い下げたいと言うものだ。  今すぐにでも「とっとと離婚すればいいじゃん!」 それのみである。

 それはそうとして、何だかこの相談に書かれている「妻」とは確かに私に似ているのだ。
 原左都子が理知的であるかどうかはともかく、決して元々口数が多い人種ではないと自己診断している。 (私の場合は若い頃よりいつ何時も“客観性”を重点に置いているため、集団内や複数の人間と会合する場合など、とりあえずは多角的視野で周囲の状況判断をしたいがためにいきなり自分から多言を吐くことは皆無である。)
 そのため、特にさほど親しくない人々の評価によると「おとなしい」などと言ってもらえることも昨今問わず少なからずあるのだ。 つい先だっても高校時代の同窓会に出席したところ、私のことを“おとなしい人だと思っていたのに何だこの変わりようは??”などと感じた男性も存在したようだ。
 ところが人間とは誰しも、元々多面性を内在させている生き物である。
 人間とは相手の多面性を洞察できるキャパを備えるべく努力するべきであり、決して相手の“上っ面”に惑わされて安直な判断を下してはならないのだ。 自分の相手を見る目の薄っぺらさを棚に上げて、相手の人格が歪んでいるとか、あるいは変わったなどとの安直な結論を導かれたものでは評価される側としてはたまったものではない。 

 
 話を“悩みのるつぼ”の相談に戻して、この夫婦は子どもを一人設けた時点で一度離婚しているのだ。
 ところが復縁を申し出たのは、妻に嫌気がさした相談者本人である夫の方である。 その時には、この夫は自分の我がままも認めた上で元妻に復縁を迫ったとのことである。 そして復縁後さらに2人の子どもを設けた程の夫婦仲ならば、年老いた今となってはもうそろそろ妻のプラス面での持ち味も認めたらどうかと、同じく妻の立場の原左都子として言いたくなるというものだ。
 にもかかわらず、70歳が近い今にして尚妻への不平不満が夫の内面で渦巻いているとは、これはもはや夫である相談者本人の責任範囲の問題であろう。 こんな“キャパ貧”亭主をいつまでも抱え続けねばならないとすると、妻側としてもとことん嫌気がさすというものである。


 ここで、今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる 作家・車谷長吉氏 による 「人形を抱いて寝られますか」 と題する回答内容の一部を、再び原左都子の私論を交えつつお伝えすることにしよう。
 どうやら、車谷氏が48歳にして晩婚に至った結婚生活は今に至って尚円満であられるようだ。
 車谷氏の長い独身時代の夜には、夏目漱石氏「三四郎」の登場人物からとった“美禰子”と名付けた「木目込み人形」を日々抱いて寝た時代もあられたとのことである。 その後、高齢にして婚姻が叶った奥方と今尚仲睦まじく人生を歩まれている車谷氏の“つめの垢”でも煎じて飲ませていただきたい思いの原左都子でもある。

 車谷氏同様に晩婚にて婚姻に至った原左都子の場合、独身時代に「木目込み人形」を抱いて寝た経験もなければ、婚姻後も夫婦が仲睦まじい訳ではなく“円満”などとは表現しかねる関係の家庭である。
 それはそうとして、夫婦仲が如何に老後もうまく機能するべきかに関して推し量った場合、それは子供の成長とは係わりのない、夫婦個々人の事象と結論付けられるのではなかろうか?


 今回表題とした「熟年離婚」に関しては、一時その現象が流行った時代もあったように記憶している。 国が世界的競争力を完全に失っているこの経済難の今時、熟年を迎えられているご夫婦の奥方も税法上や年金制度上その“取り分”が益々少なくなることを実感して、今は「熟年離婚」を断念してご亭主の老後を支えるべく精進されているのであろうか??

 それにしても70歳近い熟年層の亭主側の、我が妻を批判し続ける短絡的発想の馬鹿さ加減にも辟易とさせられる思いの原左都子である。 

 本当に切り捨てられた場合、実はどちらが惨めなのか、各ご家庭の熟年ご亭主はよく考えるべきなのだ。
Comments (6)