原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「EQ」なるものと大学合格ゲットとの相関関係

2011年05月30日 | 教育・学校
 一昨日(5月28日)と昨日(29日)の土日は台風の影響で雨足が強まる中、我が子の大学進学関連の所用で連日外出した原左都子である。


 一昨日は我が子が通う高校の進学保護者会に出席した。

 普段より情報収集力がある私にとって特段のトピックス的収穫はなかった中で、目新しい話題と言えば、慶應義塾大学が本年度入試からセンター試験利用方式を全面廃止するとの情報だった。 この廃止の理由が知りたい私であるが、残念ながらその説明は聞けないままだ。 高校教員経験者としては多少気になる今回の廃止措置である。
 慶應と言えば“一応”日本に名立たる私学である。(“一応”と表現するのは、何分原左都子は私学受験の経験すらなく私学とは無縁の人生を歩んでいるため、世間が言うところの早慶GMARCHナンタラ等私学の“地位”のレベルの程が実感として把握できないためである。)  大学を目指す若者の8割が受験するセンター試験の合格結果を公にする事とは、その地位の整合性を証明する大いなる手段となるはずであるのに何故廃止するのだろう??  それとも万人が受ける巷のセンター試験など、歴史と伝統を誇る慶應にとって相応しくないとでも判断したのであろうか??  あるいは慶應を含めた名立たる私学とは、未だに著名人及びその卒業生子女を優先入学させているのが現状のようだ。(例えばアナウンサーになった元“モーニング娘”の何某氏とかねえ~) それら慶應生が卒業後もそのレベルの程はともかく著名度のみで「慶応」の名を世間に知らしめてくれるのをいいことに、センター試験などくそ食らえとの魂胆なのだろうか?? 
 我が娘が来春慶応を目指そうという訳ではないため個人的にはどっちでもいいと言えばそうなのだが、今回の慶応大学のセンター試験全面廃止措置とは、歪んだエリート特権意識に基づいた思いあがり思想とも受け止められそうだ。
 我が国が歴史的大震災を経験して尚、“学問の府”であるべき大学の中に自己の利益を追求するがあまり、身の程知らずに視野の狭い大学が存在することに多少うんざりの原左都子である。


 そして昨日は、我が娘の第一志望大学のオープンキャンパスに足を運んだ。
 今年度初めて開催されたオープンキャンパスに於いて“全体説明会”を聞くのが一番の目的だった。 大卒生が大いなる就職難に瀕しているこの時代において、何処の大学も学生の就職率を売り物とするのが現在の大学説明会の特徴のようだ。
 やはり昨日娘に同行した大学でもこの“就職率”が一番の話題であった。 担当講師先生曰く「我が大学は学生の“内定先”ではなく“就職先”でものを言っています。 例えば同様に高校に於いては“大学進学実績”ではなく学生の“大学合格率”を提示して自校の大学進学実績としているようですが、これに誤魔化されないようにして下さい。」
 そう言われてみれば、その通りである。 昨日我が子在籍高校で聞いてきた今春卒業生の大学進学に関する実績とは、単に“大学合格実績”に他ならないのだ。 結局、学業成績上位に位置する一部の生徒が複数合格した大学を“高校全体の”実績としてまとめているに過ぎない。 まあこれに関しても、我が娘は高校が欲するようないわゆる“有名大学”への進学を志している訳ではないため、関係ないと言えばそういうことだろう。
 
 ただ上記に展開した大学進学関連の話題は原左都子にとってはすべて情報収集済み“想定内”範囲であり、大雨の中足を運んだ割には特段のインパクトはなかったと言える。


 そんな中、大学受験生を持つ保護者としてマイナス面で大いに気にかかったのは娘の高校教員の講話である。 その学年主任教員は進学保護者会の場で驚く事に「EQ」の話題を持ち出したのである。

 ここで「EQ」に関して少しだけ説明しよう。
 「EQ」とは( Emotional Intelligence Quotient)の略である。
 心の知能指数とも言われている「EQ」とは、自己や他者の感情を知覚しまた自分の感情をコントロールする技術を指すようだ。 比較的新しい概念であるのため、その定義は未だ明確でないのがその特徴である。 この「EQ」は従来の知能指数を示す「IQ」とは区別して用いられているのであるが、「EQ」に関して知能と知識の区別が曖昧であるとの問題点を含有しているとの専門家の指摘があるのも現状だ。
 世界規模で様々な科学者達がこの「EQ」に関する諸学説を述べてはいるものの、その統計学的研究及び結論にまでは到底及ばすして「EQ」概念が一般庶民の興味を引く話題であるため、我が国においてもマスメディアを中心に“面白おかしく”この「EQ」が取り上げられ一人歩きしている現状ということであろう。

 以上のように世界的に科学的研究実績が未だ確立していない“俗語”の範疇とも言える「EQ」概念を、高校の保護者会、それも大学受験を目前にした生徒保護者相手に持ち出す教員の学術センスの程は如何なるものなのだろうか??
 この教員の口から「EQ」の言葉が発せられた時点で唖然としてしまった私は、その講師先生の講話を真面目に聞いていないのであるが、もしかしたらAO、推薦入試においてこの「EQ」が重要だと言いたかったのかもしれない…。 

 まあ、それにしても昨日参加した大学のオープンキャンパス「全体説明会」の場においては、未だ学説としての地位を築いていない「EQ」なる言葉が一切発せられなかったことに一安心である。


 上記のごとく、ここにきて「大学センター試験」を全廃すると言い始めた慶応義塾大学の意図するものは何なのだろうか、原左都子には計り知れないものがある。(学習院大学も元々そうであったらしいのだが…) “一応”名立たる大学として長年その名を轟かせつつこの先進国に君臨している以上、その全廃理由を国民の前で明言して欲しいものである。

 大学の存在意義とは一体何であるのか今後さらに混沌としそうなこの世に於いて、来春には“学問の府”であるべく大学へ我が娘を送り出そうとしている私である。

 とにかく本人がやりたい事を最優先することを第一義として、「EQ」ならぬ本人持ち前の個性を最大限尊重しながら、大学入学後4年間本人が将来目指す分野の学問に精進することを視野に入れつつ、今は親として我が子を志望大学へ送り出すことに全力投球したいものである。
 もしも娘が早期にAOまたは推薦入試で合格をゲットしてくれた暁にも、大学センター試験は高校までに培ってきた一番分かり易い学習成果判定基準として我が娘に1月に受験させる所存の原左都子である。
 (最低限でも8割程度の得点を挙げて高校を卒業して欲しいものだぞ! 今後も「お抱え家庭教師」としてバックアップするから、頑張れ!!)
                         
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「ママ友」達よ 新時代をどう渡る?

2011年05月27日 | 人間関係
 朝日新聞5月20日のテレビ番組欄“記者レビュー”に於いて 「たかがママ友、でも…」 と題する記事を発見した。

 この朝日新聞“記者レビュー”との記事は、朝日新聞の一記者が気になったテレビ番組をピックアップして、それに対する短めのコメントを述べるコラム欄であるようだ。 
 参考のため、今回の記事の対象番組「名前をなくした女神」(フジ系火曜夜9時から放映中)を私は見ていないし、今後も見る意思はまったくない。
 それでも今回の朝日新聞記者によるこの番組に対するコラムは、読者、特に現役の「ママ友」達に何らかの影響を及ぼす発信力があると捉えるため、以下に要約して紹介することにしよう。

 主人公の侑子は悪気のかけらもない専業主婦だが、息子が通う幼稚園で母親達のバトルに巻き込まれていく。 周囲には売れっ子モデル母、神経質な夫に管理される母、夫の浮気を確信する母等々、様々な「ママ友」仲間がいる中で、売れっ子モデル母に憧れて無理な背伸びをして悪意のある嘘を重ねる一母に至っては呆れて言葉も出ない。
 しかしここにきて、それよりも違和感を感じるようになった母がいる。 それは主人公の侑子だ。 どう見ても不条理な目にあっているのに彼女は何の反撃もしない。 「ママ友なんて所詮子供が小さい時だけの付き合い」という侑子のセリフが折に触れ何度も出てくる。
 生まれも育ちも価値観も異なる「ママ友」達と一定の人間関係を築かねばならない心労は想像に難くないが、ただ侑子のごとく息をひそめて嵐が通り過ぎるのを待つことが賢明なのか? このドラマは一体どんな答を用意しているのだろう。
 (以上は、朝日新聞“記者プレビュー”より要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 私は本エッセイ集の2009年5月のバックナンバーに於いて、「ママ友付き合いの過酷な試練」 と題する“ママ友”関連の記事を既に綴り公開している。
 (「原左都子エッセイ集」は今現在記事本数が600本に近づいているが、必然的に記事のテーマがバックナンバーと交錯する事がある。 今回も上記2009年5月の我がバックナンバーの記事の趣旨を再度ピックアップしつつ、現時点での原左都子の見解も交えながら以下に私論を展開させていただくことをご容赦いただきたい。)

 以下は、2009年5月バックナンバー「ママ友付き合いの過酷な試練」の要約である。

 「ママ友」ねえ。
 この言葉自体に子どもを産む以前よりアレルギーがあるとも言える私であるが、一応子育てをしている私もそういう“苦難の時代”を経験してきている。
 高齢出産で子どもを設けた私であり、当時としては周囲のママ達より一回りも二周りも上の年代の私であるし、また長い独身時代に仕事や学業に励むことを生業としていた私にとっては、女性よりも男性の友人が圧倒的に多かったのが事実である。 そんな私はその特殊なバックグラウンド故に子供を産んだ後も「ママ友」と直接対峙する機会は少ないのではないかと“安易”に考えていた。
 子どもが高校生になっている今現在は、既に「ママ友」というべき相手との義務的付き合いは修了して正直なところ心より“清々”している私である。 だが、子どもが小学校卒業までの期間は、やはりこの私も「ママ友」付き合いの“鬱陶しさ”を避けては通れなかったものである。 その実態を我が子幼き頃から振り返ると、例えば“公園デビュー”、“習い事” “学校のPTA” それらの場面で「ママ友」との付き合いを望まずとて強要される機会は数多かったものである。
 「ママ友」付き合いとは、自分独り身で統治できる範疇を超えて、可愛い我が子がからむが故に難儀さを伴う人間関係である。そのため母親が苦悩に陥らざるを得ない事象であろう。 それを承知の上で、例えば何故に“公園デビュー”するのか“習い事”をさせるのか等々を親として再考する余裕を持つべきなのだ。 如何なる場にあっても親である母自身が友達を作るのはもちろん大いに好ましい事である。 そこで今一度初心に戻って子どもを育てるという観点から、母が一人格者の立場で付き合う価値がある相手か否かを自らが判断していけばよいことではあるまいか。
 友達関係とはあくまでも自然発生的に出来上がってくるものと私論は捉えている。 気がついたらどういう訳か親しくなっているというのが、友達という存在なのではなかろうか? 下手に故意に仕立て上げた人間関係というのは弊害が大きく、早期に脆く崩れ去る運命にあるものだ。 可愛い我が子のためらば尚さら「ママ友」付き合いは無理をせず、慎重に対処するべきと捉えて、私は子どもを育ててきているのだが…。
 

 上記の記事を綴った後2年が経過した今現在、我が子は高3生となり大学受験直前期に突入している。
 そんな状況下にあるつい先だって、娘の学級のPTA(要するに「ママ友」連中)から、子供の推薦入学を有利にゲットしようとの魂胆かどうかは計り知れないが、ママ達が担任の先生を誘って居酒屋で懇親会を開くからそれに参加せよ、云々の伝達文書が流れてきた。
 我が子は私学在学中なのだが、私学では「ママ友」連中が学校の教師達にこのような形で“迎合”しないと子供の大学推薦はゲット出来ないものなのだろうか!?? との大いなる疑義を抱かされる原左都子なのである。(なんせ幼稚園から大学院まで国公立しか知らない私である…) 確かに学校の教師達といえども“ママ連中”に「先生、一杯いかが~。ウッフ~ン」などと迎合されるとその気にもなりそうだよね~~。???
 だが、我が人生を自己の“実力”のみで渡ってきている原左都子としては、こんな場面で「ママ友」どもとつるんで教師に迎合している場合ではないのだ! 我が子が自分の実力を今後さらに充実させてくれることに期待しつつ、厳しい受験戦争を親子で乗り越えていきたいものである。


 話を朝日新聞“記者レビュー”の「ママ友」話題に戻そう。

 ドラマの主人公である侑子さんの思いが原左都子は分からないではない。 このドラマにおいて侑子さんとは、どうやら社会経験が乏しい若き専業主婦との設定であるようだ。 そうした場合においては、生まれも育ちも価値観も異なる”「ママ友」どもとの人間関係を今後築いていけるのかとの現状に瀕して、大いなる不安材料を感じてしまう侑子さんの心理状態は自然であろう。 そこで、ここは「ママ友なんて所詮子供が小さい時だけの付き合い」と割り切って息をひそめつつ子育て年月を過ごすという侑子さんの“解決策”は否定できないのではあるまいか。
 
 今一度、「ママ友」ねえ。
 我が子の高校卒業と共にもうすぐその種の自分が望まない“鬱陶しい”人間関係が完全終焉を迎えることにウキウキ、清々感が否めない原左都子である。
 正直言って、産んだ子供がたまたま同世代という理由のみで、何でこんなにも人生観も価値観も生き様も異なる相手達と時空間を共有せねばならなかったのかとのつまらない記憶の「ママ友」達は、我が脳裏からすぐさま消え去ることであろう。

 それにしても、時代は大きく変遷しているように私の目には映るのだ。
 大都会に暮らす我が家の近くを行き交う若い母親達が“つるんで”いる姿を見ないようになった。 よく言えば、今の世代の人達とは日本古来の自分が望まない“集団力学”などに左右されることなく、交友関係を創り上げているとも表現できるのではなかろうか?

 ドラマの侑子さんも何もくだらない「ママ友」関係のせいで、息をひそめて暮らすことなどないのだ。 自分にとって鬱陶しいのみで何らプラスにならない「ママ友」どもとの関係など思い切ってぶった斬って、母親として毅然とした方がむしろ子供とは健全に育つものであるとアドバイスしたいものだ。
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続編 「ザ・コーヴ」におけるドキュメンタリーのあるべき姿

2011年05月23日 | 時事論評
 昨日(5月22日)、私はNHK総合テレビ夜9時からの“NHKスペシャル”として放映された「クジラと生きる」と題するドキュメンタリー番組を見聞した。

 上記NHKスペシャル「クジラと生きる」の趣旨は、2010年に米国アカデミー賞を獲得したドキュメンタリー映画 「ザ・コーヴ」 において取り上げられたがために反捕鯨派にとって諸悪の根源のごとく世界中の“晒し刑”に遭ったともいえる和歌山県太地町において、現在尚捕鯨を生業として生きる漁民の切実な現状とその思いを綴ったものであった。
 
 大河ドラマを見終わった流れでテレビを付けていた私は、このNHKのドキュメンタリー番組に釘付けとなった。
 何故ならば、この話題は「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても取り上げているためである。


 ここで私が本エッセイ集2010年7月のバックナンバー 「『ザ・コーヴ』におけるドキュメンタリーのあるべき姿」 に於いて展開した私論を、今一度以下に要約させていただくことにしよう。 

 「ザ・コーヴ」とは2010年度アカデミー賞受賞直後より、世界中に物議を醸し続けている米国映画作品である。
 この映画作品をご存知ない方のために、ここでその内容をごく簡単に説明しよう。
 我が国の和歌山県太地町において昔から伝統漁業として鯨・イルカ漁が行われ、地元では学校給食にも捕獲調理された鯨やイルカが食されている現状であるらしい。 これに目をつけたイルカ保護団体がそれの残虐性にのみ焦点を絞り、太地町の許可を得ずに隠し撮りや捏造、恣意的な編集、漁民への挑発や俳優に演技をさせた“やらせ撮影”等々の手段によりイルカ漁の“悪魔性”を強調して制作したのがこの「ザ・コーヴ」であるとのことである。
 このアカデミー賞受賞作品である「ザ・コーヴ」を鑑賞した見識者の意見は分かれている。
 肯定派の中には、一つの映画作品としての“娯楽性”が優れている、という見解がある。 イルカ漁をする漁民は悪、これを残酷と捉えるイルカ保護団体こそが善、との図式がこの作品において明快であるため、観賞する側としてはこの単純性に一瞬惹き付けられる魅力があるらしい。 あるいは、映画全般を通しての“スリル感”が十分に描かれていて、映画作品としてアカデミー賞を受賞するのは理に叶っている、との見解もある。
 この映画を観た日本人には、中立派、慎重派が多いようだ。 現在の日本人の多くは鯨・イルカ漁の存在さえ知らない現状において、米国からこれを「日本の伝統文化だ」と押し付けられてもまずは困惑する、との見解がある。 あるいは、映画自体がよく出来ていて娯楽的に面白いあまりに、鑑賞者が制作側の主張のみを鵜呑みにしてしまう危険性を孕んでいる、という見解もある。 また、これはドキュメンタリー映画というよりもイルカ保護団体のプロパガンダ(宣伝)映画と位置づけるべきであろう、との見解も存在する。
 否定派の意見も紹介しよう。 地元太地町からは当然ながら、「嘘を事実のように表現された」ことに関する反発が大きい。 ただ、この映画がアカデミー賞を獲得したことにより「反イルカ = 反日本」の図式が成り立ってしまうのかと思いきや、世界の反応は思いのほかクールであることを実感させられる一面もあるようだ。
 朝日新聞2010年7月20日文化欄の記事によると、この映画を鑑賞した日本国民の反応は以外や以外冷静であるようだ。 その中で、この映画が“ドキュメンタリー”だったことに対する朝日新聞記者の憤りは大いに原左都子にも伝わる思いである。 映画であれ何であれ“ドキュメンタリー”と名付けて制作する以上、その表現には一切虚構を用いてはならず、制作側の客観性のある冷静沈着な取材や記録に基づき事実のみを伝える内容ではくてはならないはずである。 その意味で、この「ザ・コーヴ」はそもそも“ドキュメンタリー”との冠を付けてはならなかったのだ。 
 最後に原左都子の鯨イルカ等の捕獲漁に関する個人的見解を述べると、正直申し上げて“反対派”である。 我が国は既に一応先進国に位置している。その種の国では、食性において“世界標準”に従うべきではないかと感じるのだ。 世界の数多くの国々が嫌悪感を抱く食材をあえて食さずとて、“世界標準”の食材を国民に分配することにより国民の健康は十分に満たされる時代のはずである。 我が国においては歴史的に決して特殊な宗教が蔓延っている訳でもない。その観点からも生産者側、消費者側両面での“世界標準”の食糧指導は容易なはずである。
 それにしても、一国一地域の食性問題とこの映画「ザ・コーヴ」の存在意義はまったく異質の議論であり、この映画は娯楽部門でアカデミー賞にエントリーすればよかったとも捉えられると言いたいのが、原左都子の結論である。

        ~~~以上は「原左都子エッセイ集」バックナンバーよりの要約~~~


 昨日の“NHKスペシャル”は、朝日新聞テレビ番組欄でも「日本伝統の捕鯨に危機 反捕鯨との壮絶な闘い 漁師の怒り」の文言で紹介されている通り、あくまでも太地町において今尚鯨・イルカ漁を続行している“漁師氏達の側面”からNHKが取材編集したドキュメンタリー番組であった。
 それは承知の上で、原左都子にとっても大いにインパクトはあった。
 地元の伝統漁として遠い先祖よりずっと受け継いできた漁を守り抜き、その地に力強く生きている漁師氏やそのご家族の様子は重々伝わった。 これが例えば一般に食されている海産物であるのならば何の物議も醸さず、この地で漁業を営む人達は代々平和に暮らしていけたのであろう。

 私が一番印象に残ったのは、若き漁師氏の娘さんが通う中学校に於いて「太地町に於いて今後も鯨・イルカ漁を続行するべきか」との議論が交わされた場面である。 議論の中心存在の女子中学生は、どうやら“反対派”であるようだ。 それを黙って横で聞いている漁師の娘さん。 学校におけるその議論を家に持ち帰り、家族で今一度話し合う漁師一家…。 その切実な風景に涙せずにはいられなかった私である。

 一方原左都子が大いに気になったのは、海洋環境保護団体の一つである“シーシェパード (Sea Shepherd Conservation Society)” に関して、このドキュメンタリーに於いてNHKが放映した影像や音声に関してである。
 確かにこの団体が過激な言動を展開する場面を、普段ニュース報道等で見聞する機会は多い。
 だがもしも、今回のNHKの太地町に関する鯨漁番組に於いて、シーシェパードの“悪態”ばかりを強調して番組をしつらえたとするのなら、それは米国アカデミー賞受賞作「ザ・コーヴ」に於ける歪んだ表現と同レベルの話となると私は解釈するのだ。 これでは到底ドキュメンタリーとは言えず、単に日本国民に“お涙頂戴”を煽ったのみで、今後何らの解決策とは成り得ないのではなかろうか??
 上記のごとく食性における“世界標準”の観点から捕鯨・捕イルカに反対を貫く原左都子としては、正直言ってこの番組からそんな“偏ったNHKの意図的匂い”を感じ取ってしまった事は残念の極みである。
 やはりドキュメンタリー番組とは放映権を持つ団体の主観を交えずに放映してこそ、その番組に真の生命が宿るというものではあるまいか。

 ただ、和歌山県太地町において鯨・イルカ漁に励む漁師の皆さんが、今現在その漁に励むことにより日々の生を営んでいる姿はこのNHK番組を通して大いに伝わった。
 こんな善良な市民の皆さんが営む漁が「米国アカデミー賞」なるものを通して世界規模で大々的に取り上げられてしまった…。 そのせいで、世界中においてマイナスイメージで一躍著名になったからと言って、今尚この地が海洋保護団体から日々下劣な暴言を吐かれバッシングされて苦しむ現状を、決して我が国は捨て置く訳にはいかない事は明白である。

 今後和歌山県太地町の漁村が歩むべき道筋を国家や自治体が提案しつつ、その生活を保障していくのも大いなる役割なのではあるまいか。

 今は大震災対応で大変だろうが、是非とも国や自治体は日本の一漁村の善良な市民を世界規模のバッシングから防御するべく動くべきなのだ。
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今は“習う”より“励み”たい

2011年05月21日 | 自己実現
 「習い事」といえば昔は子供の専売特許だったものだが、今やむしろ大人、特に現役をリタイアしたり子育てを終了した年配者の方がこれに熱心なのではなかろうか。

 本日(5月21日)の朝日新聞別刷「be」RANKING のテーマも、「女性がリタイア後に楽しむ習い事」だった。
 この記事の調査結果(アンケートの対象年齢は不詳)によると、女性が習いたいことのベスト5は、「外国語」「ヨガ・ピラティス」「書道」「菜園作り」「生け花・フラワーアレンジメント」と続くようだ。 6位以下には「楽器」「絵画・イラスト」「料理」「陶芸」等々がランクインしている。


 ここで早速、原左都子自身が過去において経験した「習い事」の話題に移らせていただくことにしよう。

 私は小学生の頃に「書道」を習った。 熱血師範先生の下で6年間みっちり頑張った成果があるのか、今でも筆を持つと当時練習した“楷書”に関してはその基本の“ハネ”“トメ”等を手が自然と憶えている。 我が親としては元々“左利き”だった私に右手で硬筆を上手に書かせることを目的に習わせたようだ。 ところが「硬筆」と「毛筆」は元々別物のようで、肝心の硬筆は一向に上手にならなかった私である。 小学6年生の時に、書道の県大会特選に同じ学校から2名のみ入選して代表で授賞式に参加できた時には、子供心にも今まで「書道」を頑張って来た成果があったとの感覚が持てたものだ。
 同じく小学生の頃に一時期「そろばん」も習ったのだが、こちらは指導者が熱心なタイプではなかったせいか、さほどの上達心を持てずに短期間で辞めた。 ただその後も「そろばん」を使うことは結構好きで、独身時代は家計簿をつける時にはいつもそろばん使用だった。 30代に再入学した大学の簿記論の授業でも周囲の学生皆が電卓を使用する中、私一人そろばんで計算し通したものである。(そろばんとは数的論理性が高く“桁違い”のミスを防ぐ高度な計算器であると今尚認識している私である。)

 その後大人になってからは、多忙な仕事の合間に様々な趣味に取り組んだ私である。
 その多くは個人的あるいはグループ活動として、当時の我が医学関係の仕事とは異分野のあくまでも“趣味”の範疇で取り組んだ活動である。(例えば、ロックバンドのボーカル、ギター、ディスコダンス、カラオケ、はたまた 英会話や茶道等々…)
 そんな中、音楽好きな私がこれだけはある程度の技術力を確保したいと志したのが「ダンス」と「キーボード」であった。 
 私は20代前半に“ジャズダンス”を習うためにプロダンサーが主宰する都内の某スタジオを訪ねた。 年に2度公開公演を行っているこのスタジオの底辺クラスに所属させてもらったのだが、そのレッスンはそれはそれは厳しいものだった。 原左都子持ち前の高身長スリムな“ダンサー体型”のみは大いに評価され重宝してもらったものの、体の柔軟性が乏しい私は肝心のダンスの実力がまったくついていかず、結局たったの1年でギブアップと相成った…。
 片や「キーボード」に関しては、家庭でも演奏し易い“エレクトーン”の形でヤマハ音楽教室の個人指導を受けた。 こちらはメキメキと上達し、グレード6級まで取得したことに関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても披露している。 今尚、我が一趣味として娘も交え家庭内でエレクトーン演奏を楽しめるのはうれしい事である。


 話を現在に移すと、原左都子の場合は未だ子育て中の現役母親の身である。
 その種の事情が大きいのかもしれないが、今ここで何か新しい物事にチャレンジしようとの意欲が我が内面から湧き出てこないというのが実情である。
 それと共に、たとえ「習い事」に通ったとて、巷のそのレベルの程を推し量ると一抹の虚しさが漂ってしまうのである…。

 例えば今現在、私は健康維持目的でスポーツジムに通っている。  ジム入会当初はダンスの一種である「ヒップホップ」や「エアロビクス」クラスに参加して、メンバーの皆と一緒に踊ってみたりもした。 ところが、スポーツジムで実施しているこれらのプログラムとは“習う”という性質のものではなく単に“汗を流す”レベルの運動に過ぎないのだ。 これに物足りなさを感じた私は、結局この団体レッスンを辞めることと相成った。 その後はジムのフリースペースにて、我が過去のダンス歴を生かしつつウォークマンのイヤホンを耳に一人で自主的に踊っている有様なのである。

 この期に及んで“年配者”の皆さんと共に何らかの「習い事」に通う事とは、その分野が如何なるものであれ“場の同調性”を意識させられ気疲れする反面、得るものは少ないのかとの空虚感が漂ってしまうのだ。 よほどその分野に興味があれば別問題なのだろうが…。
 その一方である程度人生経験を積んできている者としては、指導者の先生にも気兼ねをせねばならない。 例えば原左都子程の年齢になると、巷の「習い事」の指導者達とは皆既に年下である。
 専門分野の実力の程は素晴らしいレベルであるとしても、人格面で懸念材料が見え隠れする指導者が存在することに関しては、我が子の「習い事」に散々付き合って来た原左都子としては既に重々把握している。 たとえ子供の「習い事」とてこんな人物に我が子を託す訳にはいかない!との判断の下、残念ながらその「習い事」をやめさせたり教室を替えた経験も数多い。 


 以上のように考察してくると、たかが「習い事」と言えども一筋縄にはいかないのである。
 いえいえ、その「習い事」が定年退職したり子供さんを立派に育てて現役をリタイアされた方々ご自身にとって今現在“生きがい”になっておられるならば、当然ながらそれを続行されるべきである。

 どうなのだろう。 今はまだ子育て中で日々心身共に張り詰めている状態の私の立場からは想像しにくいのだが、我が子に本気で自立された暁には、何でもいいから「習い事」に励みたいとの一種“寂しい時代”が訪れるのであろうか???

 原左都子としては今後さらに年齢を重ねていく中で、例えばこの「原左都子エッセイ集」のごとく自分自身がこれまで培ってきた所産や経験則を活かしつつ、今さら「習う」よりも(自己の内面をさらに深く掘り下げるべく)「励む」人生を歩みたいと欲するのだ。
 皆さんは如何であろうか?? 
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家電の便利さとは“不便”と背中合わせ

2011年05月19日 | 時事論評
 民間企業における節電対策の一環として、自動車業界は工場の休日を土、日から木、金曜日に移行するとの報道を、本日(5月19日)昼間のニュースで見聞した。

 産業界に於いては、一週間のうち木、金曜日の電力消費量が最大であるとのことだ。 民間企業を含めた一般的職場では現在土日を休業日と設定している所が多く、電力使用料が少ないこの両日に自動車工場を稼動させ、替わりに木、金を休業日と設定するとの報道である。
 近頃は人の生活パターンや価値観が多様化しているという背景もあり、休暇が必ずしも土日でなくともよい人達が増加しているのではなかろうか。
 自動車業界におけるこの種の節電のアイデアは、大震災そして福島第一原発事故後の慢性的な全国的電力不足の流れを受けた今、大いに評価に値する提案である。

 「原左都子エッセイ集」の前記事においても批判したが、「スーパークールビズ」などともっともらしく名付けてお上が短絡的に国民皆に同じ恰好をさせるべく前時代的な指導に走るより、上記のごとく産業界をはじめとする電力需要が莫大な組織機関が、大規模節電に向けて具体的に動くことに今後も期待したいものだ。


 それはそうとして、一般庶民の間においても“節電観念”が欠かせないことは当然である。

 原左都子の場合、元々“節電派”であることに関してはバックナンバーにおいて既述している。
 そして“倹約家”をも自称する私の場合、滅多やたらと家電を買い換えないことに関してもバックナンバーのコメント欄で暴露した。
 例えば我が家のリビング設置のエアコンは部品を取り替えつつ既に17年間使用しているが、未だ健在で台所等も含めた24畳の空間を力強く冷やし続けている。 我が家に1台しかない扇風機など私が上京の折に購入したもので、既に30余年活躍している。(手入れが行き届いているため一見新品同様なのだが、古い機種は火を噴く心配があるとの情報もあるのだが実際どうなのだろう?) 
 それからテレビに関しても、先だってやっと地デジ対応型に買い替えたといういきさつである。
 そのテレビを購入するため家電量販店に行って感じたことは、今の時代は省エネ、すなわち節電対応が売り物であるということだ。

 ところが、これに関して大いなる疑問符を投げかけたい原左都子である。
 と言うのも我が家でも故障してどうにも使い物にならない家電(冷蔵庫や洗濯機、電子レンジ等)に関しては当然買い換えているのだが、家電量販店が大々的に提示している程に新製品の節電効果がないような印象がある。 その証拠に月々の消費電力量にさほどの変化がないのだ。 (新型洗濯機の節水能力だけは“本物”だったようで、まめに洗濯機を回す我が家において水道料金が目に見えて減少したのは感激だった。

 しかもさらに煩わしいのは、“機能が進化して便利”との売り物の家電ほど、故障が多発することである。
 例えば電子レンジの場合、私としては“温める”原始的機能だけで十分であるのに他の余分な機能がついているばかりに故障を導いて買い替えと相成ったものである。
 洗濯機に関しては身内の希望により“乾燥機付”に買い換えたのだが、この“乾燥機能”が長時間を要して実際上使い物にならない。 電力消費が多大なこんな機能を使用するよりも、原左都子としては従来通り太陽光と自然風を利用したいものである。
 身内は自分の部屋のエアコンを昨年冬季に最新多機能型に買い換えたようだが、これもどうやら現実味がないとの話のようだ。 結局普段使用するのは冷暖房と除湿の基本機能のみのようである。 空気清浄機能を使うと冬場は寒いらしいし、何分ずぼらな我が身内がエアコンクリーニングを全自動で使用しようとすると騒音がうるさいらしいのだ。 それよりも何よりも、それに消費する電力が如何なるものかと気に掛かる私である。

 多少古くなるが、朝日新聞4月2日付け別刷「be」の RANKING 欄の記事は「暮らしを変えた生活家電」と題して、“便利好き”な日本人に歴代の家電の中で“便利”と思えた読者の回答結果をランキングしたものであった。
 その記事による1位から5位までを順に列挙すると、電子レンジ、エアコン、電気冷蔵庫、温水洗浄便座、全自動洗濯機、とのことのようだ。
 確かに電子レンジなど、その本来の“温め機能”は画期的な革命と言えるであろう。 家庭用エアコンが開発された時には、夏場は高温多湿の日本国民にとって実に感動物だった。 冷蔵庫も確固たる生活必需品である。 清潔好きな原左都子にとって温水洗浄便座も絶対はずせない。(ただし、これも基本機能のみで十分であるのだが…) 全自動洗濯機に関しては、上記のごとく個人的には乾燥機能は節電対策のためにも必要ないとするのが私論である。


 このように考察してくると、まさに家電における“便利さ”と“不便”とは背中合わせであるように感じる。
 もちろん人それぞれの生活習慣や価値観の差が大きいことは否めない。 日々仕事をはじめとする自らの業に追われ家事全般を家電に委ねて生きる人種にとっては、家電の進化とは必要不可欠なものなのであろう。
 片や、私のような“暇人”は自然の恵みを利用して生きていく時間が豊富である。 “暇人”を自負する私のような人種こそが、一底辺庶民として国家レベルの節電に率先して協力するべきなのは言うまでもない事であろう。
 
 節電対策として“工場の稼動曜日変更”との思い切った施策を打ち出した自動車業界を大いに評価すると共に、一庶民の原左都子も今まで通り私なりの節電に励んでいく所存である。
                           
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おじさん達は“スーパークール”に決められるか??

2011年05月16日 | 時事論評
 (写真は、朝日新聞5月11日夕刊に掲載された「スーパークールビズ」関連記事より転載)


 「クールビズ」なる造語がこの国に流行ったのは、今から6年前の2005年の初夏に遡る。 
 当時の自民党政権の下環境大臣に就任した小池百合子氏が、内閣総理大臣の小泉純一郎氏より「夏場の軽装による冷房の節約」をキャッチフレーズにするべくアドバイスされたようだ。 その小泉氏の意向に従い、ネクタイや上着をなるべく着用せず、夏季に28℃以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するよう小池氏が呼びかけたのが“元祖”「クールビズ」である。 (大変失礼ではあるが、当時環境大臣としての小池氏のネームバリューとは、この「クールビズ」でしかなかったような記憶が原左都子にはあるのだが…)

 環境省のこの呼びかけに対して、政治家や服飾繊維業界より大いなる反発が出た記憶もある。
 特にお年寄り議員の先生達など“軽装”で国民の前に現れたものなら、失礼ながら “単なるヨレヨレ爺さん” にしか国民の目には映らないであろう事は、それを見ずして想像がついたと言うものだ。 国民の前で表向きの威厳を保つため、「クールビズ」にはあくまでも抵抗して背広ネクタイ姿を通したお年寄り議員が当時存在したのが事実である。
 もっと気の毒なのは、服飾繊維業界だった。 2005年夏季にはネクタイの売上げが大幅に落ち込んだとの報道があったように記憶している。


 そして、話を2011年現在の「スーパークールビズ」に移そう。

 上記写真の朝日新聞記事に話を戻すと、夏の電力不足が心配される中、菅内閣の環境省がジーンズやアロハシャツ、サンダルでの勤務も認める節電対策を打ち出したとのことである。
 それを名付けて「スーパークールビズ」とのことのようだ。

 菅内閣環境省の“節電対策”に関しては異論はない。 
 と言うよりも、大震災発生後復興が進まず、福島第一原発事故も地震発生直後からメルトダウン状態だった事を東電は非公開にしていたことで、先々の計画的事故処理の見通しが付き難い振り出しに戻った状況にある。 さらには浜岡原発の運転も菅総理の指示で停止したとなると、国家機関こそが先陣を切って節電対策に励むべきなのは当然である。

 ところが、一国民の原左都子として呆れて“せせら笑い”たくもなるのが、上記朝日新聞の記事なのである。
 「スーパークールビズ」とはどの程度の服装ならば許容されるのか、との“おじさん達”からの困惑が世に溢れているとの事なのだ。  (ちょっと“おじさん達”、それ位のことは個々人の良識で判断したらどうなのよ!)と原左都子など言いたいところだが、どうも世の“おじさんビジネスマン”は背広ネクタイ姿が「制服」と化している現状にドップリ浸かり、お上から急に“自由服装”で出勤!と指示されたら困惑するのが実態であるようだ。
 そんな“困惑おじさん達”の困惑に応えたのが、上記の朝日新聞記事という事であろう。


 いや、でも、これも時と場合と職場、職種により如何なる服装で仕事場に通うかの判断が大きく異なってくるものと原左都子は判断する。

 私事で恐縮だが、私が20代前半に新卒で民間企業に入社した時など元々医学専門職社員としての採用であったため、入社当初の新人研修時を除いてむしろずっと軽装で会社に通ったものだ。 仕事場に着けば当然ながら仕事が要求する「仕事着」に着替えをする必要があったためである。

 30代後半に教員を経験した時には、確かに“教員らしい”恰好で学校に出向いたものだ。 ただし、この“教員らしい”恰好についても教員個々人の見解は分かれていたことを記憶している。 “ジャージ”がそれに相応しいとの信念でいつもジャージ姿の先生方からは、私が日頃スーツ(ちょっとボディコンミニスカスタイルで派手だったかもしれないけどね~)で教壇に立つ姿を「その恰好じゃ、非常時に生徒を救えないね~」などと嫌味たらしく非難されたりもしたものだ。 原左都子とてそんなことにはめげず、「相手が年端もいかない生徒とは言えども“寝巻きのようなジャージ姿”で教壇に立つ事こそが非常識だ!」、と反論 したこともある。 たとえ服装と言えどもお互いの信念とは相容れないことを実感だねえ……  (まあそれにしても、今現在たとえ公立学校と言えども、この先進国に於いて体育教員以外がジャージで教壇に立つ姿が皆無であろう事を望みたいのだが…。)

 そして数年前の事になるが、某独立行政法人研究所にアルバイトの身分で医学関連の仕事に出向いた時にも、この服装制限を上司から告げられていた。 “お洒落感覚”が鋭い私としては、仕事に出向く時とはいえある程度の融通範囲で自分のお洒落アピールは欠かせないのだ。 ところが身分がアルバイトであるため職場での着替えがなく上に白衣を羽織るだけだったため、さらに上司から注意を受けた私である。 「綺麗な恰好をして来ないよう言ったはずです!」 「いえ、決して綺麗ではなく別に汚れてもいい恰好をしていますが…」  どうも両者に認識の違いが生じる程に、この上司にとっては私の恰好が目障りだったようだ…。


 それにしても、この朝日新聞の記事はやはり極端と言えるのではなかろうか?
 「スーパークールビズ」とお国の環境省から突然言われたところで、何も全国紙である朝日新聞が「これならばOK!」「これはダメ!」なる記事をこんなところで展開せずともいいであろうに…
 基本的に、この先進国に於いて“人の恰好”などどうであってもいいはずなのだ。(女性の服装に関して厳格なイスラム教徒の国でもあるまいし……)

 そういう観点から考察すると、すべては個々人の判断で節電対策をするべきなのである。
 それぞれが特性ある職場に通っているのも国民それぞれであるからこそ、その特性に応じて自分で着ていく服を日々決定すれば済む話なのだ。

 そもそも大震災発生のこの期に及んで、何もお国が「スーパークールビズ」などとの旧政権より“受け売りの陳腐な造語”を持ち出さずとてよかったであろうに…。 お国のトップがこんなことだから、いつまでたってもこの国の国民に“自分自身で判断して意思決定できる”主体的能力が育たないのだ。
 国民一人ひとりの“節電感覚”や“お洒落感覚”を尊重出来る自由と柔軟性を保ちつつ、我が国の個々人が今後の復興のために仕事に全精力を注げる環境の国であって欲しいものである。
                     
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他人の子の“悪さ”をどう叱る?

2011年05月14日 | 教育・学校
 昨日(5月13日)、私は見知らぬ他人の子を叱った。


 「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて既述しているが、私が住む集合住宅は公立小学校のすぐ近くに位置している。 周辺は閑静な低層住宅地で一戸建て住居がほとんどという環境の中、我が集合住宅敷地内の駐車場やエントランス、通路空間等々共用持分施設が、公立小学校放課後の児童達にとって“恰好の溜まり場、遊び場”と化しているのだ。
 この住居に入居以来、小学校の下校時間である14時頃から夕方5時半頃(夏季は6時頃)まで、日々児童達の歓声が絶えない運命にある。
 共用施設で遊んでいる児童グループとは決まって男の子達である。 おそらく中学年から高学年程の男児が数名集まって、様々な“悪さ”を働いている。 時の経過と共に男の子達の一グループが成長して卒業していった後、また新たな年少グループが発生して“悪さ”が繰り返されているようだ。

 例えば“先々代”の男児グループは、動きが活発で“悪さ”の程が派手だったものだ。 このグループの主たる“悪さ”とはエレベーターを遊び道具とするため、住人がその時間帯にはエレベーターを使用できなくなる。
 この時初めて、私は他人の子相手に怒った!(叱ったというよりも感情的に“怒った”と表現した方が正確な程、内心怒り心頭だったものだ。) 「あなた達がエレベーターを遊び道具にすると、このマンションの住民はエレベーターを使えないということを分かってやってるの!!」 「……」 「人の迷惑を少しは考えて遊びなさい!」 小さい声で「はい」と返してくる子もいれば私を睨みつける子もいたが、その後しばらくして“エレベーター遊び”は終焉を迎えたものである。

 次世代男児グループは、専らエントランスで車座になってゲーム機を楽しんでいた。 どうも人の目を気にしている様子で、住人の通行の死角になる郵便ボックススペースでこれをやっているのだ。 この子供心が住人にとってかえって迷惑であることには思いが及ばないのかどうかは私の知ったところではない。 数日間、これを我慢していた私はついに怒りの声を挙げたのだ! 「あなた達がこのスペースに座り込んでゲームをしていると、住人は郵便物を取り出せないよね。 それが分かってここに座り込んでいるの??!」 この時男児達が無視を決め込んだのに一瞬たじろいだ私であるが、ここでいい大人が負ける訳にはいかない。 「分かったのかな!?」と繰り返す私に対して、一人の男の子から小声で「はい」との返答をもらったものの、結局児童グループは座り込んだままだった。 ただ、その後しばらく経過してこの現象にも遭遇することはなくなった。

 そしていよいよ“現役男児グループ”による昨日の“悪さ”について語ろう。
 以前より自転車で我が集合住宅に遊びに来る男児が多いようだ。 その自転車がいつもマンション敷地内のあちこちに無造作に置かれ邪魔であると共に景観を潰している。 これ自体が当物件購入時よりまさに“想定外”で至って迷惑なのだが、一番困惑するのは「ゴミ集積室」の入口前に自転車を置かれることである。 これに関してはマンション管理組合理事会よりも再三再四注意を促しているにもかかわらず、「ゴミ集積室」入口が位置的に自転車を置きやすい場であるためか児童達はやはりこの場所に駐輪するのだ。
 昨日ちょうど男子児童達が「ゴミ集積室」のすぐ近くに陣取ってゲームに励んでいたため、私は一声挙げる決断をした。 「この自転車はあなた達のだよね?」(男児グループからの返答なし) 「ここに自転車を置かれると住人がゴミを捨てられないのよ。」 (無言で自転車を片付け始める児童達…) 相手が子供であろうとせめて「すみません」位の言葉を発っせさせるべきと考えた私曰く「あなた達の行為が住人にとってほんとに迷惑なことが分かっているのかな!?」 やはり一人の児童からの小さい「はい」の声を聞ける(いい子だね~)のみだった。  さて、どうだろう。こいつらが小学校を卒業するまで我がマンションの共用施設では自転車の散乱放置が繰り返されるのだろうか? 


 原左都子とて、何も好き好んで近隣住民であろう男子児童達を叱っている訳ではない。むしろ出来ればこんな場面は避けたい思いが強い。
 と言うのも、今の時代においては下手をすると子供と言えども“刃物”を持っていたりするとの情報もある。 相手は小学生といえども体格が立派な子もいるし、そんな場面で華奢な私が打ち勝てるはずもないという“我が身息災”の危険性の観点が大きいものがあるのは事実だ。
 
 そして子供を叱った後にはいつも“後味の悪さ”が残り、その自己嫌悪にしばらく苦しめられるのも実に不快なものである。 しかも、子供(特に原左都子のように?感受性の強い子)とは、幼い日に“叱られた”経験が将来に渡ってトラウマとなるやもしれないのだ。 叱った相手が親等の保護者であるならば、家庭内においてそのフォローがいくらでも可能であろう。 ところが見知らぬ相手に突然叱られた場合の子どもが受ける後々の“トラウマ”を慮って余りある原左都子である。
 今の大都会においては人間関係の希薄化現象が蔓延している。 こんな環境下で他人の子供を叱る行為とは、ひと昔前とは大いにその意味が異なっている事に叱る側の大人は留意するべきとも心得ているのだ。


 ただし子供達を本気で叱ってやらないと、最悪の場合子供達が「死」に至る場面もあることを大人は是非共認識するべきである。

 広島市安佐南区の住宅街を流れる新安川で5月12日に発生した事故においては、翌日男児3人の死亡が確認された。 3人に目立った外傷はなく死因はいずれも水死であるとのことだ。 12日夕刻男児達が川に入るのを住民が目撃しており、同署は川に入り溺れたとみている。 当時の広島市では10日未明から12日夜まで雨が降り続き、10日夜~12日早朝にかけて大雨警報が発令されていた。 男児達発見時は普段20センチ程度の水深が最大約1メートルに達していたとのことである。
 この男児達が川に下りる姿を偶然目撃した女性が「滑るから危ない!」と声をかけたらしい。 それにもかかわらず男児達は川から出なかったとの報道である。

 同じく我が集合住宅に於いて“悪さ”を働く男児達に上記のごとく幾度となく声掛けをした経験がある原左都子としては、この現場に直面した女性が「危ない!」と声を掛けたにもかかわらず川を出ようとしない男児を目前にした時の思いが伝わるのだ。 
 「これ以上他人の私が何と注意しても、この子達は聞く耳を持たないのかな…」 と思わせられる程に、今の子供達とは見知らぬ大人のアドバイスを軽視するべく親に育てられているのが現実なのであろう。

 この子供達が置かれている現状を真っ先に誰が救えるのかと考察した場合、それは親を含めた保護者の日々の教育でしかあり得ないとの結論が導かれるのだろうか?? 
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フクシマが “幸運”と“富”の地 「福島 」に蘇る日

2011年05月11日 | 時事論評
 昨日(5月10日)より、福島第一原発から半径20km圏内の「警戒区域」からの避難生活を余儀なくされている住民の皆さんを対象とした“一時帰宅”が開始された。
 一世帯1名(自治体によっては2名まで)限定、たった2時間の滞在時間、持ち帰る荷物の量も限定、そして暑苦しい防護服着用の上、放射線量計やトランシーバーを持参させられての“ものものしい”一時帰宅である。
 たかが自分の家に帰るのに、厳しい条件と管理を課せられる対象世帯の皆さんの無念の程を思うと、いたたまれない気分だ。


 折りしも、昨日の朝日新聞夕刊文化欄のページに 作家・池澤夏樹氏による興味深いコラム記事を発見した。
 福島第一原発事故及びその後の国や東電の対応、そして今後の“反原発”動向のあり方等々について池澤氏が展開されたこのコラムエッセイの内容が、僭越ながらも原左都子の私論とほぼ一致しているのである。 この記事に大いに同感した私としては、本エッセイ集においてその内容を是非紹介申し上げたい思いなのだ。

 多少長くなるが、以下は池澤氏による「イデオロギーを捨てよう a×bについて再考する」と題する上記コラムの要約である。

 英語圏の友人から“フクシマ”の意味を聞かれた事がある。 「福」は「幸運」であり「富」でもある、すなわち good fortune と wealth だと答えた。 まったく逆の意味を負ってこの地名が世界に広まっている。福島の人々はさぞ無念だろう。
 地震と津波は天災だが、原発は事故すなわち人災だった。 天災に対しては我々は備えるが、事故は防ぐものだ。今回の原発事故は事前の準備も充分ではなく、どちらにも失敗した。 
 事故という現象は二つの項からなる。 確率aと規模b。 社会への事故の影響は a×b で表される。 自動車事故の場合aは大きいがbは(あくまで社会的には)小さい。 飛行機事故ではaは小さいがbは数百名になる。それでも社会は何とか耐えられるから民間航空は営利事業として成り立っている。
 原子力発電はどうだろう? 
 aに関しては無視し得るほど小さいと我々は告げられてきた。 しかしbが大き過ぎる。事故が起こった場合、その影響はあまりにも大きい。 原子炉とは重油や石炭を焚くボイラーとは原理が違う。原子炉とはいわば坂道に置かれた重い車である。 何段階ものブレーキが用意されているから大丈夫、何があっても暴走は起こらないと言われてきたが、今回それは起こった。
 原発紹介のパンフレットには、「固い」「密封」「頑丈な」「気密性の高い」「厚い」といくつもの形容句が並んでいる。 これは論証の文体ではなく、セールスの文体、広告のコピーである。 原発の安全性は自明ではなかった。このような文体で売り込まねばならない代物だった。
 事故が起こった後で、想定外とは言って欲しくない。起こり得る事態を想定するのは東電の責務だった。 原発の安全性に異議を唱える学者・研究者は少なくなかったが、それらの声を電力会社と官僚と歴代政権は押しつぶしてきた。厖大な広告費を使って安全をPRする一方でメディアを縛ってきた。 要するに、原発の現実とは裏付けを欠く思想、つまりイデオロギーだったのだ。 起こって欲しくないことは起こらないと信じ込み、力を持って反対派を弾圧し、数々の予兆を無視し、現場からの不安の声を聞き流した。 その結果が放射性物質ダダ漏れである。
 競争原理の働かない独占企業だから陥った陥穽だろう。大日本帝国とソビエト連邦も同じようにイデオロギーを信じて亡びた。
 幸い日本には世界で最上級の技術力がある。国民には理にかなった説明を受け入れる知力がある。 今ならば原子力を風力や太陽光などの自然エネルギーに置き替える先駆者となれる。 その気になれば日本の変化は早い。 

 (以上は、朝日新聞5月10日夕刊より 作家池澤夏樹氏によるコラム記事を要約したもの。)


 私論に入ろう。

 東日本大震災が3月11日に勃発し、それと同時に発生した福島第一原発事故に関して今まで原左都子が本エッセイ集において拙くも幾度となく主張し続けてきた原発事故に関する記述を、一瞬にして高尚なレベルでまとめて下さったとも言えるのが、上記の池澤氏のコラムである。

 まさに、原発の安全神話とは“イデオロギー”の範疇を超えていなかった。
 そこには何らの現実面での科学的裏付けはなかったのだ。 だからこそ、こうやって福島の地においてレベル7の放射能漏れ事故が発生し、日本のみならず世界をも混乱に陥れる惨劇と相成っているのである。

 “イデオロギー”も確かに時には素晴らしいのかもしれない。
 大日本帝国時代に於ける“主体的に生きることを何ら教育されていない底辺に位置した日本国民”は皆、お上から与えられたこの“イデオロギー”を頼りにそれを信じて行動することしか選択肢がなかった。 当時より天皇が大日本帝国憲法を通じて統治するこの国において、日本国民は昭和20年の太平洋戦争終戦時まで“天皇陛下万歳!”の掛け声の下一つになり、国力が貧弱であるにもかかわらず周囲のアジア諸国を植民地化する等の信じ難い過ちを繰り返しつつ、敗戦へと至ったのである。

 その後「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代より、時代は高度経済成長期へと移り行く。 その頃の日本と言えば時代が移り変わったとは言え、未だある種の“イデオロギー”に支配されている世の中だったと原左都子は記憶している。
 「(政治経済大国である)米国に追いつき追い越せ!」との国からのスローガンの下、その種の“イデオロギー”を通じて国民が一丸となって経済力を増強した時代である。 上記の池澤氏によるコラムの最後の部分にも記述があるがごとく、我が国が戦後わずか20年にして世界に名立たる経済大国に“成り上がれた”源とは、その頃国全体に漂っていた一種空虚な“イデオロギー”力によるものと原左都子は分析するのだ。

 その国力増強の一つの要が、原子力発電であると信じられたことも否めない事実であろう。
 1970年代より着手され始めた原発事業とは、池澤氏のコラム通り当初より“安全神話のイデオロギー”が高々と掲げられていた。 “原発反対派”の存在にもかかわらず、その種のグループが変人あるいは国賊のごとく蔑まれた時代の記憶が私にはある。 
 ところが“信じるものは救われない”ことが、今回の福島第一原発事故において重々証明されてしまったのだ。
 この事実を、何が何でもこの国の国民は今こそ受け止めねばならない。


 今後はお上から発せられる根拠なき“イデオロギー”に頼って右往左往しない確固たる国民性を、国民一人ひとりに築かせていく事こそが国家の真の役割なのではなかろうか。
 そういう意味では、先だっての菅首相による「浜岡原発停止」の勇断は改めて大いに評価できるのである。

 今や世界中の人民が承知の“世界標準”と成り下がる不名誉を背負わされた放射能汚染“レベル7” フクシマが、元通りの「幸運」と「富」の地福島として一日も早く蘇る日が訪れる事を祈りたいものである。
                            
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電力使用料と快適生活との相関関係

2011年05月09日 | 時事論評
 福島第一原発事故発生直後より東京電力管轄地域に於いて輪番制で実施されていた「計画停電」は、現在休止中であると私は認識している。
 それは、東電管轄地域内の電力需要供給関係が現在の電力供給量で成り立っていると理解してよいということなのであろう。

 大震災発生直後は、3月中旬と言えども原左都子が住む東京においてもまだ厳しい寒さが押し寄せる日もあり、節電に協力して暖房を入れていない公共施設や電車内が多少肌寒く感じる事もあった。 あるいは、日本の高度経済成長以降長年に渡り公共施設や店舗内の照明の明るさにすっかり慣らされていた身としては、当初薄暗い室内や店内に違和感を覚えたのも事実である。
 
 ところが福島第一原発事故発生より2ヶ月程が経過しようとしている現在、(季節が移り変わり快適な初夏の時候と相成った今では)完全密閉構造で空調のすべてを電力に頼っているビルでもない限り、冷暖房など何ら必要もない事に改めて気付かされるものである。 また照明の薄暗さにもすっかり慣れた、と言うよりも、これ位の照明度合いの方がむしろ人に優しく落ち着ける雰囲気さえ感じられる今となっては、従来のように無駄な電力を消費して、真昼間から室内を煌煌と照らす必要など何もなかったことを再認識させられるというものだ。

 おそらく営利目的で営業している巷の各種店舗に於いても、今回の原発事故のあおりで店内の照明を控えたり空調を切ったり若干弱めに設定したからと言って、それが理由で売上高が減少したということはないのではあるまいか? 


 一方、公共施設に於ける節電対策に関しては、市民から“弱者に配慮して欲しい”との見解も存在するようだ。
 例えば、首都圏の公共鉄道の駅のエスカレーターは(ターミナル駅等の大規模駅は例外として)混雑時を除き現在運転を休止している。 これがお年寄り等の弱者の皆さんには過酷であることには間違いない。 朝日新聞の「声」欄の投書においてもこの種のご意見を発見したのであるが、日頃東京メトロを利用している原左都子としてはそのお気持ちを重々察するのだ。
 上記投書によると、鉄道会社側の論理としてはエスカレーターは止めているが駅構内のエレベーターは動いているのだからそれを利用して欲しい、とのことのようだ。 だが、お年寄りが大都会の広大な駅構内でエレベーターがある場所を見つけるのも難儀であることは、大都会に住み日々鉄道を利用している原左都子は重々把握している。

 まだまだ若い(?)この私とて、東京メトロ地下鉄構内で“出口案内板”(A1、B2のごとくの表示)が節電のために消灯されているのに実は日々困惑している。 地下鉄とはこの“出口案内版”の誘導があってこそ、地下の暗闇の中で自分が出向く目的先を一瞬にして察知できるのである。 これが大震災以降消灯されているがために遠方からは見辛く、この原左都子ですらいちいち案内板の真下まで行って確認する作業を負荷されているのが事実である。
 節電も特に公共施設においては時と場合によるのであろうし、少なくとも弱者保護の観点は心得て欲しい事を実感させられるというものだ。 


 それはそうとして、家庭内における「節電」は大いにその意味が異なることであろう。

 朝日新聞一昨日(5月7日)別刷「be」“between”のテーマは、さすがにこの時期に相応しく「家庭で節電していますか?」であった。
 この朝日新聞の設問は、おそらく“大震災を受けた今現在、節電していますか?” との趣旨だったのであろう。

 この趣旨に対しての原左都子の回答とはきっぱり「No」である。 
 何故ならばこの私は、今回の大震災発生の如何にかかわらず元々徹底した“節電派”であるからに他ならない。  (ここでこっそり余談であるが、私の本名はこれにちなんだ名前を親から授かっているのだが、その名に相応しい moderate な人生を昔から今に至るまで日々歩み続けているのである!!) 
           ほんとかよ!??……       (ほんと、ほんと!!)

 それはともかく、上記朝日新聞記事における少数派である「No」の返答(すなわち大震災が発生したからという理由で突然家庭内で節電を始めた訳ではないとの回答)をした読者の多くは、やはり原左都子同様に“以前から電力使用料が多くない”との事であるようだ。
 すなわち日頃節電に心がけている市民とは、大震災が発生しようが原発事故が起ころうが特段慌てるでもなく、日頃より節度ある生活習慣を身に付けて日々の生活を営んでいるということだ。

 上記朝日新聞のアンケートに於ける“大震災をきっかけに節電をはじめた”との大多数の読者の回答のその理由のように、「電気供給不足により突然停電になったら困る」「被災者の不遇を思えば当たり前」「電気使用で原発の必要性が高まる」等々の思いは当然ながら原左都子にもある。
 だがこれらの事象とは「被災者の不遇を思えば当たり前」以外を除き、大震災が発生せずして元々電力不足の懸念材料だったはずだ。
 それに今回やっと気付き、国民に“節電観念”が育ったことは喜ばしい事象と解釈するべきであろう。


 日本国内の一般家庭各々が大震災発生以前に一体どれ程の電力を消費していたのかについては、原左都子の知るところではない。
 だが今回の大震災、ひいては福島第一原発事故発生に伴い東電供給地域の市民に多少なりとも“節電観念”が育成されたのならば、大震災の発生も無意味ではなかったということであろうか??
 
 ただ上記朝日新聞のアンケート結果によると、「復興」による家庭内電力使用量復旧を期待している国民も多い現状のようだ。
 同時に、先だっての菅首相による浜岡原発停止宣言に即して現地住民の間から聞こえてくる“原発運転続行”の声も完全無視する訳にはいかない、ということであろうか。

 それらを勘案した場合、この国において“未曾有”の大震災が発生したとは言え、一旦経済大国に成り上がってしまった以上、その後生まれた国民相手にそう易々と “恒常観念としての節電意識” を根付かせるのは難しいのかと、改めて考察する旧人類の原左都子でもある…。
                                
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浜岡原発原子炉停止の勇断

2011年05月07日 | 時事論評
 昨日(5月6日)の夕刻、テレビのニュースを見ようとしてスイッチを入れたところ、速報テロップにてビッグニュースが飛び込んで来て驚かされた。

 菅首相は、静岡県に立地する中部電力浜岡原発の安全対策が実施されるまで、当該原発のすべての原子炉を停止するとのことである。

 その後テレビで見聞したニュース報道によると、浜岡原発直下で発生すると想定される東海地震が、今後30年以内に87%の確率で起きる恐れがあるようだ。
 片や、浜岡原発は福島第一原発とほぼ同時期の1970年代に運転が開始され、その一部は現在再稼働を前提として安全点検中であったらしい。 
 
 もしかしたら今回の菅首相の浜岡原発原子炉停止の判断の背景には、民主党政権の大震災復興対策不備や遅れに対する世間や野党よりのバッシング、あるいは春の統一地方選挙において自民党に敗北したことによる党建て直しの魂胆もあろう。
 はたまた、福島第一原発事故による今後の放射能汚染収拾の予想の立ち難さや、巨額の賠償金負担等による経済危機下の政権運営に、首相である菅氏自身がほとほと疲れ果てているのかもしれない。

 それにしても上記のごとくの浜岡原発が現在置かれている諸事情を勘案した場合、原左都子は元々民主党支持派ではない立場にして、今回早期に浜岡原発運転停止の勇断を下した菅首相を評価申し上げたいのだ。
 
 
 タイムリーに「原左都子エッセイ集」の2本前のバックナンバー “「復興」も「自粛」も人それぞれのはずなのに…” との表題の記事のコメント欄において、原左都子よりの返答コメントとして我が「反原発思想」に基づく私論を述べさせていただいている。 
 以下にそれを要約して、今一度紹介することにしよう。

 日本は今後の復興のために長期に渡って巨額の資金が必要となる。 そのための経済負担を“被災していない国民”が担うべく、今から個々が経済力を強化しておくべきだ。 例えば東電利用地域では、電気料金値上げが真っ先に襲ってくるであろう。「原発反対派」とてこれを担わざるを得ない。
 国は「復興増税」も視野に入れているようである。 大震災の発生で経済危機状態に拍車がかかったとは言え、増税を余儀なくされる国民は仕事がないとは言っていられない程の負担を今後担うはめになろう。
 「もはや戦後ではない」と言われた頃に生を受けた私など、幼き頃、家電など何もない時代に裸電球ひとつで暮らした時代の記憶がある。 あの時代に戻ってそうせよ、と言われたらおそらくできる世代だ。
 そんな私にとっては、原発など本当に要らなかった。

 太平洋戦争以降最大とも言われる国民の危機状態をもたらした「東日本大震災」という大震災が今この時代に発生した歴史的事実を、国民皆が“似非自粛”ではなく「本気」で受け入れるべきだ。
 世間は「復興」と言うがそれは国を元に戻すという発想ではなく、新たな価値観の下、大震災発生後の経済力に見合った新たな国家を作ってくという発想をするべきではないかと私は考える。
 「原発」はもう本気で廃止しましょう、と言いたいのが私論である。 “未曾有”“未曾有”と言うけれど、それが起こるのが世の常というものだ。 起こった後で「想定外」という言葉を責任逃れ目的で巧みに持ち出すべきではない。 今回の「原発事故」という失敗は、今後のエネルギー資源確保事業において必ずや視野に入れられるべきである。
 そうすると(浜岡原発のごとく)「もっと高い防波堤を築けば済む」なる対応策が出されるようだが、こんな安直な発想ではまたゆくゆく“未曾有”の事態が生じることになるだけであろう。
 ここは、根本的な発想の転換をするべきだ。 これ程の大規模震災を経験した(一応)先進国である我が国の進むべき道を、国民皆が真剣に考えたいものである。
 そういう意味で、私自身も強くならねばならないと思う。

 (以上の文章は、「原左都子エッセイ集」バックナンバー コメント欄に返答コメントの形で原左都子自身が綴った記述です。)

 原左都子がこれを記した翌日夕刻に、上記のごとく菅首相のメッセージとして伝えられた浜岡原発原子炉停止のニュースに私が感嘆しない訳もないと言うものである。


 ただし、今回の菅氏による突然の「浜岡原発原子炉停止」発言のとばっちりを一番に受けるのは、当然ながら地元自治体の住民の皆さんであることには間違いない。

 浜岡原発原子炉停止に関する菅首相の表明から一夜明けた本日(7日)午前、原発が立地する地元自治体である静岡県御前崎市の石原茂雄市長は記者会見し、今回の原子炉停止の意向に従いつつも困惑を隠しきれない様子である。 「国策であれば、もう少し地元の意見を聞いてもらい反映してほしかった」と苦言も呈し、今後の地元経済についても、「雇用問題などで大変大きな影響が出てくることは間違いない」と苦渋をにじませておられるようだ。 一方で石原市長は、福島第一原発事故による地域住民の不安や混乱を慮った上で、原発停止後の再開可能性について「個人的には非常に厳しいと思う」との見通しを示しておられるとのことでもある。


 ここで原発問題を振り返ると、元々は国が国力発展のため政治力経済力を増強する目的で、1970年初頭からその根源であるエネルギー資源確保対策として打ち立てた国家政策の一環であろう。 そして今となっては、世界中の何処の先進国に於いても原子力発電なくして国が成り立たない現状を余儀なくされている、と言っても過言ではない状況であろう。

 だが悲しい事に原発建設の犠牲となる候補地とはその多くは人口が少ない“過疎地”であり、その地に建設され続けてきたことは否めない事実である。
 その代償とは、他の自治体よりも多い地方交付金が国より支給されるというだけの事であろう。

 それにしても太古の昔から“地震王国”である我が国に、何故1970年代当時の政権は、一番地震が発生し易い環太平洋地域に多くの原発を打ち立てたのであろうか?? 自民党政権は愚かにもその後も原発促進政策を続けてきたのが現実である。
 今は野党である自民党政権の過去におけるこの失策がもたらした今回の大震災による原発事故に対して、現政権である民主党の菅首相が今出来る限りの反発をしたのが、昨日の浜岡原発運転停止の勇断であったことには間違いない。

 ただしたとえそうだとしても、原左都子はさらに現菅政権に言いたいことがある。
 菅首相をはじめ現在の民主党議員達は、野党時代に原発建設を少しも阻止できないまま現実に至って政権を取ったのが事実というものではなかろうか?(それとも民主党とは元々原発建設に賛成だったのであろうか??)
 悲しくも「東日本大震災」という歴史的出来事をこの3月に経験した今現在の国家を担う民主党政権としては、せめても今後の原子力発電に対して今回の菅首相の突然の勇断のごとく、今後も警鐘を鳴らし続けていくのが今政権を担っている政党の役割と言うものではあるまいか。
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今後のコメント対応に関するお知らせ (改定版)

2011年05月05日 | 時事論評
 「原左都子エッセイ集」2010年3月16日付“お知らせ”カテゴリーバックナンバーにおいて、「今後のコメント対応に関するお知らせ」 と題する読者の皆様宛のお知らせ記事を綴らせていただいている。

 その全文を以下にコピーして今一度公開させていただくことにしよう。


         ~~~  以下はコピー ~~~ 
        
 日頃より「原左都子エッセイ集」をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
 2007年9月より現在まで2年半の期間に渡り「2000字」オピニオンエッセイを綴り公開し続け、記事本数は既に400本を超過しております。
 これもひとえに読者の皆様の日々のご訪問あってのことと、ここで改めて感謝申し上げます。

 「原左都子エッセイ集」の最大の特徴は、読者の皆様とのコメント欄における議論が充実していることと筆者自ら捉え、うれしく存じております。
 2年半前の開設以来、皆様より頂戴するコメントの一つひとつに対して、本文を綴るのと同等またはそれ以上の時間と労力を割き、真摯に精力的に返答をさせていただいて参りました。

 2年半が経過した今、正直なところこの作業に対しまして多少(あくまでも多少の範囲ですが)の疲労感と共に、ごく一部ではありますが頂くコメント内容に対する疑義が我が内面に生じていることが否めません。

 そこでこの度、今後のコメント対応に関しまして筆者である原左都子なりの“取り扱い基準”を設定させていただくことに相成りました次第です。

 「原左都子エッセイ集」のコメント欄での公開が相応しくないと筆者が判断させていただいたコメントに関しましては、今後は公開を控えさせていただきたく考えております。

 “「原左都子エッセイ集」のコメント欄での公開が相応しくないと判断する事例”と致しましては、
   ○ コメント内容の思想に極端な偏りがあると判断するもの
   ○ コメンテイターのプライバシー色が強い内容のもの
        (例えば、コメンテイターのご家族等の話題が前面に出されたもの、等々)
                              等が列挙できるかと考察致します。
 (これらの内容の記述に関しましては「原左都子エッセイ集」のコメント欄ではなく、ご自身のブログ等のホームページ上で “ご自身の責任の下” に公開されますようお願いしたく存じます。 ネット上でのさらなる展開を“ご自身の影響力”をもって個々人が楽しまれることをお勧め申し上げます。)

 お陰様で「原左都子エッセイ集」は開設以来多くのアクセスを頂戴し続けておりますが、ここのところさらにアクセス数が伸びつつあります。
 開設直後より力強く支えて下さっている常連愛読者の方々のみならず、不特定多数の皆様のご閲覧、ご訪問を頂戴しつつ成り立っている現状に相応しい“公開性”を、「原左都子エッセイ集」は今後共保持して参りたく考える所存です。
 今回のコメントに関する措置の趣旨をご理解いただけましたならば幸いと存じます。

 今後共、皆様のご閲覧、ご訪問、そしてコメントを心よりお待ち申し上げております!

      ~~~  以上は「原左都子エッセイ集」バックナンバーのコピー ~~~
 


 上記“お知らせ”記事を公開させていただいて以降1年少しが経過し記事本数が600本に近づいている今も、「原左都子エッセイ集」はネット上で何の営業活動もせずしてありがたくもアクセス数を増やしつつ現在に至っている。
 単なる小市民の一庶民にしか過ぎない原左都子が細々と綴るこのような拙いエッセイ集を、一体どこで見つけて下さってご訪問いただいているのかも心得ない私ではあるが、絶え間なくアクセス下さる方々が存在する事自体に心より感謝申し上げたい思いである。

 上記の“お知らせ”記事に於いて原左都子自身のコメント公開基準を設けることにより自ら一つのバリアーを設けて以降は、さすがにコメント本数は減少の傾向を辿り今に至っている。
 それでも尚、開設後間もない時期よりご訪問下さっている常連読者の方々等に支えられつつ、コメント欄に於ける議論が充実し続けていることが「原左都子エッセイ集」の特徴であることには変わりないと私は捉えている。

 一方、「原左都子エッセイ集」における長年のお付き合いにより既に“信頼関係”が築かれていると私が認識させていただいている読者以外の、“見知らぬ方々”からコメントを頂戴する機会がここのところ多くなっている。
 どのような経緯であれ、見知らぬ方々が我がエッセイ集をご訪問下さり、わざわざ貴重な時間を割いてコメントをいただけることにここで改めて感謝申し上げたい思いである。

 ただ残念ながら見知らぬ方々から頂くコメントの中には、「原左都子エッセイ集」をお読み下さった(あるいは途中まで端折り読みした)直後の感情をそのままコメント欄にぶちまけたのかと思しき“感情的なご意見”も混ざっているのが現状である。
 (感情的なコメントを受け取った立場としては、土足で自宅の中に侵入されていきなり殴りかかられたような感覚なのだが…。) 
 
 この種の暴力的とも表現できるコメントを一読させていただいた場合にいつも原左都子が憂慮するのは、現在の世の中の一般常識に関してである。
 この種の方々とは、現実社会においても普段から見知らぬ人相手に自分が今現在不愉快に感じた思いを、ダイレクトにぶつけているのであろうか??? と言うことなのだ。

 ところが、世間を見渡すと決してそうではない様相である。
 私が若年だった頃に比して、今の若い世代の人々とは現実世界ではむしろ“素直過ぎる”ような印象すら持つことを懸念する私なのである。
 そういった現代社会特有の“人間関係の希薄化現象”がもたらした負の所産として、彼らは自分が癒されるネット社会を彷徨っているのかと考察できなくもない。 
 そしてたまたま発見した「原左都子エッセイ集」のごとくの毒舌ブログに対し、極端な場合「こんな自分が知らないネット上の嫌味な奴など、叩きのめしてやろう!」との感情の下、自身の内面から湧き出る反発心をコメント欄に吐き出すことによりストレス解消したいのではあるまいか?? 

 もしそうだとすれば長年生きている原左都子としては、若年層のそんな思いをこのエッセイ集のコメント欄で受け止めてあげたい気もするのが“老婆心”というものである。
 (それ故に例えば前回の記事において、おそらく「原左都子エッセイ集」をネット上の何処かで一見したのであろう多くの方々より頂戴したフィギュア関連のコメントに関して、著者である私から貴重な時間を割いて真摯に返答コメントを書かせていただいたといういきさつである。)

 だがここで、現在は一庶民にしか過ぎない立場の原左都子として少し物申したい思いである。
 ネット世界の氾濫が常識化している時代において、相手の顔が見えないネット上ならば見知らぬ人相手に自分の感情を露出することを含めて何を言ってもいいと教育しているのは、一体何処の誰なのか?!!  せめて自分の感情を見知らぬ相手にぶちまける前に、名を名乗り、一呼吸おいて冒頭に挨拶文を書かせる等の教育はするべきであろう。

 それから、まったく見知らぬ方からいきなり「上から目線コメント」を頂くこともある。 お偉い方でいらっしゃるのだろうが、ちょっと良識を疑いたくもなるというものだ。 この手のコメントに限って内容がさほど大したことがなかったりして、返答において簡単に論破できてしまえるのは快感である。(不謹慎でスミマセン


 「原左都子エッセイ集」に於きましては、上記のごとく2010年に公開した“コメント公開基準”に従いまして従来通り皆様より頂戴するコメントを一旦受入れた上で、公開・非公開の判断をさせていただく所存でおります。
 コメントを下さる場合は、何卒上記の“コメント公開基準”を熟読し了承された上で記載いただけますよう切にお願い申し上げます。

 今後共、皆様のご訪問をお待ち申し上げております!
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「復興」も「自粛」も人それぞれのはずなのに…

2011年05月03日 | 時事論評
 今年のゴールデンウィークは、カレンダー上本日からの3連休を除き5月8日まで飛び石状態である。

 高校生の娘を持つ母親の身としては、1日朝寝坊をした翌日は早起きして弁当作りを余儀なくされる繰り返しで、連休中でゴロゴロ寛ぐ身内を横目に少しも休んだ気にはなれない。 
 まあ主婦の立場とは盆暮れ及び5月の連休は長期家族旅行にでも行かない限り、普段以上に家事に追われることを強要される宿命にあるのだけどね…

 娘の大学受験が目前に迫っている今、その結果が出せる来春までは長期旅行の予定など立てている場合ではない「お抱え家庭教師」の原左都子の今年の連休は、至って地味な日々である。

 そんな“地味な連休”前半に原左都子が見聞した「東日本大震災」関連諸報道等を通して揺れ動いた“心のひだ”を、今回の記事において思いつくままに列挙してみることにしよう。


 先週末にはフィギュア世界選手権大会をテレビにて観賞した。
 そもそも3月末に東京にて開催予定であったこの大会は、「東日本大震災」(特に「福島第一原発事故」がもたらした放射能汚染)の影響で1ヶ月遅れで場所もモスクワに移しての開催だった。

 男女シングルのみに関してこの大会を振り返ってみることにしよう。

 男子は小塚崇彦選手が銀メダルを取得した。 特にフリーにおいてノーミス演技を披露したことが小塚選手の銀メダルに繋がったことをとりあえず祝福しよう。
 原左都子個人的には、高橋大輔選手の力強い技術力そして情感溢れる演技力や、織田選手の流れるように美しい演技力に期待していた。 ところが、ビスがはずれるという信じ難いトラブルに巻き込まれた高橋選手がメダルを逃がしたのは残念であるが、それも自己責任の範囲であろう。
 小塚選手はフリーでは確かに頑張ったものの、手の動き等の繊細な表現力を含めた全体的な芸術性にまだまだ課題があろうことを私は感じた。 今回の小塚選手の銀メダルは大会組織からの“何らかのご褒美”だったのかとの印象を受けたのが、私の正直な感想である。

 片や、女子は安藤美姫選手が金メダルを獲得した。
 こちらも、ショート、フリー共にノーミスの演技ではあった。 ところが、今時3回転3回転の連続ジャンプさえ一度も飛べずして、世界大会で優勝を勝ち取れるのであろうか?との大いなる疑惑が湧き出ている原左都子だ。
 1年ぶりに国際大会の大舞台に復帰したキム・ヨナ選手の技術力、演技力はやはり“ダントツ世界一”だったと私は感じる。 ショート、フリー共々少々のミスをしたことが銀メダルの結果を導いたのであろうが、それにしても安藤選手の高得点は過去の世界大会に比して異例だったのではあるまいか?

 結局は、今回モスクワに場所を移して開催されたフィギュア世界選手権大会において「東日本大震災」“レクイエム感覚”が大会組織委員会に大いに蔓延り、日本代表ならば誰でもいいからメダルを授与するべく大会組織委員会が裏で打ち合わせをしていたのであるまいか??  それが証拠に、エキシビションでは「東日本大震災」を追悼するべく式典が繰り広げられた様子である。(私は見ていないのだが)

 今回の「フィギュア世界選手権大会」も含め、世界中が「東日本大震災」を追悼してくれることは原左都子としても一応ありがたくは思っている。
 ところが、これらの“他人事思想”に基づいた「国際政治関係維持目的」の影像を見て一緒に“お涙頂戴”して感情移入しているのは、実は“被災者ではない日本国民”がほとんどなのである。 

 被災地の現状とは、上記のような娯楽スポーツテレビ番組など見る暇も精神的余裕もなく時が流れているのが実情なのだ。


 話を現実に戻すと、本日(5月3日現在)の「東日本大震災」による死者・行方不明者の総数は2万数千人の規模である。
 被災者の多くの方々は大震災発生以降もうすぐ2ヶ月が経過しようとしている今尚、家族が生きていることを祈りつつ、日々がれきに埋もれた自宅周辺に足を運び声をかけ、そしてあちこちの避難所を巡り、自らの家族を探して彷徨っているのだ。

 上記の「フィギュア世界大会」のみならず海外から日本に届く数々の「復興」激励に“お涙頂戴”して喜んでいるのは、結局被災地現場に於ける過酷で悲惨な実態を知らない(あるいはそれを想像できない)地域に居住する国民だけなのではなかろうか??
 同時にテレビ報道を筆頭に各種メディアも“非被災者の軽薄な思考”から視聴率を得る事を頼って、そのような影像を流すのは如何なものだろう?


 「自粛」に関しても同様である。

 「自粛」「自粛」とうるさくメッセージを発信しているのは、結局は日本に於ける“被災していない地域”からのみだ。

 「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて私論を既に述べているが、今回の大震災に関しての「自粛」とは個人の意思の範囲で判断するべきと私は考えている。
 にもかかわらず、相変わらず「自粛」を指導しようとの意思がバレバレの著名人からのメッセージがあれば、はたまた非被災地の国民の間には「自粛」しなくていいとの“根拠なき責任逃れ発言”も横行している。

 そんな中、私論と同趣旨の“とある著名人”の記述を新聞にて発見した。
 被災地域ではない地域に暮らす著名人が何故に「自粛」「自粛」と騒いでいるのかと言うと、それは世間からの“バッシング”を回避したいからに過ぎない、との一文はその通りであろう。
 世間からの“バッシング”を恐れつつ「自粛」を演じて生きねばならない立場にある著名人が於かれている現実を原左都子も慮る反面、今回の「東日本大震災」が被った被害とは、一著名人が愚かな私欲や恐れを優先して済む問題ではない程に、その負担は今後自分に覆いかぶさってくることであろう。

 例えばの話、本日(5月3日)の朝日新聞朝刊記事によると、原発賠償金案は4兆円の巨額になるとの試算である。
 そりゃそうでしょう。 何の罪もない福島県民が現在被っている被害とはこの金額で保障されたとて償い切れないのは歴然である。
 この東電福島原発事故による賠償金の一部を、東電利用者である一般市民が担う案であるようだ。 東電を利用している地域では、どうやら今後電気料金が2割高になるとの試案である。

 こうなるとフクシマに住んでいない非被災者にして、国や東電に対して「誰が原発に賛成したのか!!?」「少なくとも、私は原発建設に反対だったよ!」とでも言いたくもなるというものでもあろう。


 そこで今回の記事の最後に、朝日新聞が大震災発生以降発信している、著名人からのメッセージを毎回取り上げたコラム「生きていくあなたへ」の4月24日の“私たちこそ頑張ろう”と題する記事を紹介しよう。
 
 “ソウル・フラワー・ユニオン”と名乗る音楽グループのボーカルである中川敬氏は上記記事に於いて以下のように述べておられる。(要約して一部のみ紹介しよう。)
 チェルノブイリ事故以降、反原発ライブを企画したりしたが、自分の中で「反原発」は当然になり過ぎてむしろちゃんと声を上げていなかったことを反省する。 そんな自分は被災した(朝日新聞のタイトルである)「生きていくあなたへ」簡単には言葉は出ない。この欄が「生きていく私たち」ならばしっくりくるけど…。 「被災していない私たち」こそ頑張らないとね。 次世代エネルギーなど新しい生き方が求められているのも我々自身。 ここから本当にこの国が変わらないと。

 大震災発生以降シリーズとして発信し続けている朝日新聞上記記事に於いて、原左都子が同意できたのは今回の中川敬氏の記事が初めてである。
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携帯ポイント制度で一番得しているのは誰??

2011年05月01日 | 時事論評
 あの Felica という奴。
 携帯にそのチップを搭載している機種において、その裏のマークをかざすだけでポイントが溜まるという“携帯ポイント制度”を皆さんも利用しておられるのであろうか?

 私は一切利用していないのだが、普段その利用を勧誘される機会は多い。

 つい先だっても家電量販店系列ディスカウント店で買い物をしたところ、レジ担当者に「携帯をかざすだけでポイントが溜まりますよ。この機会に是非登録して下さい!」と勧められた。
 以前にもカラオケ店等において登録を勧められ、一度入会を試みようとしたことがある事に関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて既述している。
 ところがその初期登録に手間暇かかるし、その通信費は自腹である。 所詮現金換算で一回10円20円程度にしかならないポイントを取得するのに、通信費自腹とは納得がいかない。
 しかももっと憂慮するべきは、その登録時に詳細の個人情報を提供するはめになることだ。

 「すみませんが私はパケット定額も利用しておりませんし、携帯キー操作に不慣れで登録に時間もかかるのでお断りします。」と一旦断ったものの、
 「いえ、今は登録が簡単になっていますし、店員がお手伝いしますから大丈夫ですよ」と言い終わらない間に、早速別の補助店員が私のところにやって来た。
 結局携帯をパケットに繋がれてしまい、「はい、ではお名前から指示通りに入力して下さい」と言う。 (もう、鬱陶しいなあ)と内心思いつつ、(全然登録が簡単になっていないじゃん!)とイラつき始める私である。 しかも改めて登録していると、提供する個人情報が以前よりも詳細に及んでいる気さえするのだ。 既婚、未婚の種別まで選択する段階で「こんな個人情報まで入力しなきゃいけないのですか!」と半ば憤慨しつつ問う私に「いえ、それは任意で結構です」とのことで、入力が終了したと思った私が決定キーをクリックすると、エラー発生である。
 「あっ、すみませんが、お客様が間違ったキーを押してしまったようですので、もう一度最初から登録し直して下さい」と言われた時には、原左都子の怒りは頂点に達していた。

 「これだから最初から登録しないと言っているじゃないですか! だいたい、微々たるポイントなんか要らないのに、何でこんな個人情報を登録させられなきゃいけないんですか! 通信料はこちらの負担だし!」 
 怒りの収まらない私に店員氏は「申し訳ございません…」と言ってすごすごと退散していった…


 「携帯ポイント制度」に限らず、カードによるポイント制度も含めて今やポイント制度は世に“普通”に蔓延っている。
 
 例えば自宅に程近いクリーニング店に行くと、アルバイトと思しき顔なじみの同年代女性店員氏が私を捕まえて 「いつも本当にお若いですね! とてもそのご年齢には見えませんよ。云々…」と言ってくれるのは正直うれしい。  ただ、この店員氏が何故に私の年齢を知っているのかについては原左都子としては重々お見通しである。
 要するにポイントカードを作成するに際して私が記入して提供した個人情報が、レジ画面に出力されるシステムなのだ。 それを一覧できる立場にある店員氏は本来ならば立場上その個人情報を顧客の前で公言してはならないはずであるが、自分が興味ある顧客の年齢に関してうかつにもついつい公言してしまうのであろう。

 あるいは、近くのスーパーマーケットに行ってもやはり同年代の女性店員氏より“妙な”挨拶をされることが多々ある私である。 大規模チェーンスーパーマーケットで不特定多数の顧客をターゲットとしている店舗であり、当然ながらすべての店員氏達と個人的な会話など交わした事は一度も無い。 にもかかわらずレジでの会計時に「いつもご来店ありがとうございます」などと挨拶された時には「こちらこそ」などと返しつつ、ポイントカードにより顧客の入店回数情報も得てマーケティングに利用しているのだろうか?と推測してしまう私である。
 店員が顧客に挨拶することとは商売の基本中の基本であり、今後も続けて欲しい思いではある。 ただ、ポイントカード入会時に情報提供した個人情報を“店舗に利用されている事”を顧客に感知されるような挨拶をするのは如何なものか、と言いたい私でもあるのだ。(しかも安さが売りのスーパーマーケットで「いつもありがとうございます」と言われても、何だか貧乏たらしくて肩身が狭い思いだよね…。  そうではなくて不特定多数の顧客の中で、とりわけ私の容姿が印象的で挨拶してくれているのならうれしいのだけど…


 次に考察するべきは、「携帯ポイント制度」に係わっている通信事業組織である。

 特に「携帯ポイント制度」においては、初期登録時に通信料が発生することが明白だ。この暴利をむさぼっているのは当然ながら携帯電話関連等の通信事業組織であることは否めない事実であろう。
 原左都子のような“年寄り”には当の昔から世に蔓延っている“政治経済界癒着絵図”が見え見えであり、そんな馬鹿げた事象には騙されない意思が強靭であるが、片や若い世代の人々はどうであろうか?

 携帯会社から「パケット定額」はお得ですよ!と勧められたら、若者をはじめとする社会的弱者とはそれを志向するのであろう。 さらにそれを利用した店舗から「携帯ポイント制度」に入会したらもっとお得ですよ”と勧められるがままにそれに加入してしまい、詳細な個人情報を提供しまくっているのが今の日本の世に生きる若者をはじめとする弱者の現実ではあるまいか??
                    
 「個人情報保護法」は既に法制化されて久しい。
 これに基づいているという契約約款を振りかざし、弱者である一般消費者相手にこれに「同意」しろという文章のみで目くらませをして、大手企業が大手を振って少額のポイントと引き換えに庶民の「個人情報」を自社のマーケティング等に利用してはならないことは歴然である。
 
 しかも Felica などという代物を携帯に搭載する事により、いとも簡単に大手企業が「個人情報」を入手できるようになった時代である。
 弱者相手のこの商法は如何なものか? 
 今さらながら問題提起をしたい原左都子であるのだ。
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