原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

この場合「邪魔!」の表現でよい。

2009年06月27日 | 教育・学校
 我が子の「公共道徳」の教育には、子どもが幼き頃より人一倍厳しい母親の私である。

 そんな私の視点で読んで“これはちょっと変だぞ”と感じる投書を、先だっての朝日新聞の「声」欄で発見したため、本日の記事ではその投書に対する「反論」意見を展開することにしよう。


 では早速、6月23日(火)の朝日新聞「声」欄に掲載された34歳主婦よりの投書“お母さん「邪魔」と言わないで”を以下に紹介しよう。
 小さい子連れの母親の後ろに自転車やスーパーのカートが近づいて来た時に、母親が自分の子どもに向かって「邪魔!」と短く言い放つ光景に何度も出合う。相手に迷惑をかけたくない、しつけをしていないと思われたくない、何より子どもが怪我をしないように、との気持ちからとっさの一言になっているのだと思う。しかし、子どもは状況を一瞬で理解できない。大好きな母親に「邪魔!」と言われこわ張った顔を見ると悲しくなる。邪魔と繰り返し言われて育った子どもは、それを手本にしてしまうかもしれない。「ちょっとよけてあげようね」などと優しく声をかけて欲しい。周りの人も、急ぎの場合でも舌打ちなどせず温かく見守ってあげて欲しい。母親が連れているのは日本の未来である。


 さて、私論に入ろう。

 何やら未来ある日本の子ども一同をかばったつもりのごとくの、投書者本人は「してやったり!」と自己満足しているのかとも捉えられる一見もっともらしい投書内容である。 
 ところが、この投書には一読して“一般人”である私に“不快感”を抱かせる部分が何箇所かあるのだ。


 その一つは「ちょっとよけてあげようね」のくだりである。

 公共の場において最優先されるべきは、“他者に対する配慮心”である。
 「ちょっとよけて“あげよう”」の表現は、親が身内である子どもに対して発する言葉としては公共性の観点から明らかに“誤り”である。 そのニュアンスを少々大袈裟に表現すると、(この場では我々親子が最優先して大切に扱われるのが当然で、その他大勢の人々は我々に配慮するべきなのだが、ここでは我々がよけて“あげて”他の人を通して“あげよう”か。)と私の耳には聞こえてくるのだ。

 このような公共の場で母親が我が子に対して発するべきなのは、身内である我が子に配慮する以前に“他者に配慮”した言葉であるのが常識だ。 その意味で、自分や我が子をへりくだったニュアンスの「邪魔!」を母親がとっさに子どもに発したのは、この場合“正しい”表現であったと言える。
 願わくば、投書者の主張するように子どもを驚かせないよう、母親はより“柔らかい表現”を選択することが望まれるのかもしれない。 だが、とっさの場合、母親が我が子に「邪魔!」と叫ぶのはある程度やむを得ない話である。 そのような場合でも、日頃より親子の信頼関係が成立しているならば、一瞬驚いたであろう子どももその母の言葉は内心承諾できるであろうし、またたとえ子どもが驚き泣き出したとしても、後にいくらでも挽回可能などころか(こういう場合は、今度からは他の人の邪魔にならないようにしようね)と母親としては子どもに再確認でき、むしろ教育的効果がもたらされるとも考察できる。


 この投書においてもう一点気になるのは、「しつけをしていないと思われたくない」の部分である。
 私が推測するに、この投書者は、自分が子どもに対して“しつけをしていない”と周囲から何度か指摘されているのではなかろうか。それに対して心にトラウマや世間に対する逆恨みの感情でも抱いているのではないかとすら心配してしまう。

 子どもの教育のうち特に「公共道徳」に関しては、親としては子どもが幼い頃から取り組んだ方が後々の効果が大きく、日常子どもに接する母親(もちろん父親も)の子育ての大きな一環であると私は捉えている。 この投書者の「しつけをしていないと周囲に思われたくない」との発想の背景には、子どものしつけを“義務”や“強制”として捉えている母親の心情が伺えてしまい、寂しささえ感じる私である。

 実際問題、公的場面で「公共道徳」の教育がなされていない親子に出くわす場面は数多い。
 電車の中で騒ぎ立てたり、座椅子に窓向きに座って周囲の迷惑お構いなく土足をバタつかせる子供達と、それを放置して携帯を操作し続けたり親同士で話に夢中になっている母親達。 あるいは、スーパーで子どもを好き放題遊ばせて我関せずに買い物をしている母親達。 はたまた、歩道で並列にベビーカートを押して話しながら歩き後続の歩行人に気付かない母親達やその子どもの一家。……
 事例を列挙すればきりがない程、子どもの「公共道徳」教育が家庭においてなおざりにされている現状に、皆さんも日常的に遭遇されていることであろう。


 子どもをもつ親の皆さん、我が子の「公共道徳」教育は親の役割です。周囲から「しつけをしていないと思われたくない」などとせせこましい事を言っている場合ではなく、親の責任において、子どもの「公共道徳」教育には小さい頃から積極的に着手しましょうよ。 
 ある時は他者への配慮を優先するがあまり、可愛い我が子に「邪魔!」と叱り倒したっていいと私は思いますよ。公共心が身に付きつつある子どもには、その親の思いは幼心にも必ず通じるものです。


 最後は自慢話で恐縮であるが、幼い頃より厳しく「公共道徳」教育を施してきている我が子など、高校生になっている今、礼儀正しく周囲への配慮心の客観性を身につけた何とも親孝行の子どもに育ってくれている。(それだけが取り得の子なんですけどね。) 


 P.S.
 日頃より「原左都子エッセイ集」へご訪問いただきまして、誠にありがとうございます。 
 大変勝手ではありますが、現在一時的に“コメント欄休止”の措置を取らせていただいております。 時期を見計らい、また必ずコメント欄を再開致しますので、今後共皆様の変わらぬご訪問をお待ち申し上げております。  
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街頭勧誘に引っかかる心理とは…

2009年06月25日 | その他オピニオン
 近頃、街頭でキャッチセールスを見かけなくなった。
 いや、自分がキャッチセールスのターゲット年齢を過ぎ去り、単に声をかけられなくなっただけの話か?? 

 そうでもなさそうだ。 先だっても、東京渋谷駅近くで「先祖の因縁が家族に出ていて、このままでは不幸になる」との姓名判断をされ、印鑑を売りつけられた年配女性の報道があった。

 朝日新聞6月20日(土)別刷「be」“between"の今回のテーマはこの「街頭勧誘」だったのであるが、現在の街頭勧誘の内容とは、エステや化粧品や布団のセールス、語学スクールや自己啓発セミナーや宗教関係への勧誘、占い、タレントなどのスカウト、……と多様化している様子である。


 この私も2、30歳代の頃街を出歩くと、必ずと言ってよいほど街頭勧誘(当時は“キャッチセールス”と呼ばれていたが)に掴まったものだ。その内容として多かったのはやはり上記朝日新聞記事とダブる部分もある。
 その時代から女性に対する街頭セールスというと、高額な化粧品のセールスが最多だったかもしれない。 そして英会話教材の販売というのもあった。 占いや宗教関係の勧誘は当時の私には経験がないが、これは迷惑極まりなく大きなお世話でしかない。
 タレントならぬ、写真モデルのスカウトというのをこの私も原宿で経験している。その話に多少興味を持った若かりし日の私は誘いに乗り、後日“書類選考”を経て原宿の写真スタジオへ出かけた。ミニスカートの衣裳を自ら2着持参し、プロスタイリストによる化粧、ヘアスタイルの手直しの後、実際にプロカメラマンによる撮影があって恐らく100枚程度の写真が撮影された。 あの写真はその後無断でどこかで使用されたのかどうかは不明であるが、世間知らずの娘だった当時の私にとっては結構楽しく興味深い経験であり、何ら実害もなく済んでいる。その後連絡がないままで幸いとも言えるが、今となってみれば若気の至りゆえに騙されてただで利用された範疇の出来事に分類されるのであろう。
 医学関係の市場調査の仕事でソープ街を歩く羽目になった時に“ソープ嬢”にしつこく勧誘され、腕を引っ張られて店の中まで連れて行かれそうになった際には、いっそ“ソープ嬢”にでもなろうかと一瞬思った話は、既に当ブログのバックナンバー「残暑の中の市場調査」でも記載している。

 10年ほど前の話になるが、まだ幼い我が子を連れて歩いていた時に大手の生命保険のセールスレディの仕事の勧誘を受けた。 これは実際にその生保会社のセールスレディをしている女性が自分の直属の部下を勧誘しているとの事だったのだが、それはそれは熱心に誘ってくる。その気がまったくない私は「セールス向きの人間ではありませんので。」等、きっぱりと断り続けるのだが、「毅然と拒否できる人は実はセールス向きなんですよ!」と相手もひるまない。 しばらく問答の末「気が変わったら連絡を下さい」と言われ名刺を渡されて別れたまま、当然ながら連絡はしていないのだが、あれは単に保険のセールスだったのだろうかと当時より思っている。


 このような記述をしてくると、(「原左都子」って実はキャッチセールスに引っかかり易い“尻軽女”なんじゃないの??”)との類の反応をいただきそうだ。
 
 ところがどっこい、それは完全に否定できる確固たる自信が若かりし頃より今に至るまでこの私にはあるのだ。
 (“尻軽女”の一面があることは否定しないしそれを楽しんできている私でもあるが)キャッチセールス側から声をかけられそれを私なりに利用して(セールス相手と問答の末、打ち負かすのは快感である)ほくそ笑んだ経験は多いものの、それにまんまと引っかかって損失を計上したためしなど今だかつて一度もない。

 上記の朝日新聞記事にも記載されているのだが、街頭勧誘に引っかかる人間とは失礼ながら“心にすき”があることは明白である。
 この記事の末尾に「棚ぼた夢見たところで…」と題するコラムニストの石原壮一郎氏による興味深い指摘があるので、それを以下に要約して紹介しよう。
 街頭勧誘に引っかかる人の心の動きは宝くじを買い続ける人の心理と似ている。変化のない平和な日常を送りつつも、誰もがめくるめくようなドラマが自分の人生に起こることを期待している。自分が特別な人だと思われたい“特別願望”や、自分だけ損したくないという“横並び願望”により、胡散臭いと思いつつも商品を買ってしまう……、  と石原氏は街頭勧誘の餌食になり易い人の心理を上記の記事において分析している。


 私論になるが、街頭勧誘に引っかかる心理には石原氏が指摘される一面ももちろんあろう。 我が若かりし頃に“写真モデル”に応募した上記の例などは、まさにその最たるものであることは我が若かりし当時より自己分析できている。

 ところが今の時代はより深刻で悲しいことに、現在の街頭勧誘とはどうやら庶民の“弱み”に付け込んでいる事例が大多数なのではなかろうか。 冒頭の印鑑販売の被害者とてその例外ではなさそうである。
 今の不況の渦中を生きることを余儀なくされている人々とは、“自分の人生にドラマが起こることを期待する”程の余裕など皆無であり、“自分だけ損をしたくない”横並び意識を持つゆとりさえ失っているのではないかと私は分析する。街頭勧誘を“胡散臭い”と疑いつつも美味しい話にすがってまで何とか生き延びたいと思う健気な人間の“純粋”な心理から、結果として勧誘に引っかかっているのではなかろうか。
 そういう意味では、ひと昔前の“キャッチセールス”と現在の「街頭勧誘」とではその趣旨が大きく変遷しているようにも感じるのだ。


 冒頭でも述べたが、近頃の私が“街頭でキャッチセールスを見かけなくなった”と感じるのは、今の私が現在の街頭勧誘にはまったく興味がなく無視に徹しているからに他ならない。
 善良な庶民の皆さん、身の安全のためには、とにもかくにも街頭を歩くときには薄っぺらな勧誘など無視するに限ることをお心得下さいますように。
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講義ノートは自叙伝の片割れ

2009年06月23日 | 自己実現
 若かりし頃より物欲がさほどない方であると自己分析している私には、物品の宝物など何一つないのであるが、そんな私にも我が生涯に渡り保存し続けたい大切な宝物がある。

 それは、30歳代に再び学んだ大学及び大学院の授業で自らとった「講義ノート」である。
 6年間の私の学問三昧の集大成であるその「講義ノート」の総量は、B5のルーズリーフに約3500枚、表裏のページ数にして7000頁を超える。文字数に換算すると500万字をはるかに超えるのであろうか。

 (参考のため、「原左都子エッセイ集」は現時点で記事本数300本を超えているが、一記事文字数の平均を2000字として計算すると総文字数が約60万。コメント返答も加えると倍数の120万。  とにもかくにも文字を綴る事を億劫としない我が習性を再認識である。)


 以前、本好きな友人が我が家にやって来た時、私の書棚の一段を占領している(背表紙に見出しをつけないまま保存してある)「講義ノート」のファイルの一群を発見するなり、その友人が私に尋ねるのだ。

 「この“膨大な資料”は一体何??」
 「ああ、それ、私の大学と大学院の講義ノートなのよ。」
 驚きつつページをめくる友人が、「これ、何かに活用できるかもしれないね!」と言ってくれる。

 友人に指摘されずとて、実は私はこの「講義ノート」を既に様々な場面で活用してきている。
 その内情を明かすと、まずはこの「原左都子エッセイ集」である。 本ブログの“左都子の市民講座”カテゴリー記事のほぼすべては我が「講義ノート」からの引用であるし、また“学問・研究”カテゴリーの記事の多くもこの「講義ノート」より引用している。 その他、外部組織に学術的な投書・投稿をする際や、子どもの学校の自由研究等の宿題を手伝う際にも、我が「講義ノート」を紐解くことは多い。(自分が記した“文献”を公開文書に引用する場合、“著作権侵害”にまで思いを馳せずに済むためその監修作業も至って楽である。もちろん、その中に他者の著述が混ざっている場合は、必ず“参考文献”として追記することは心得ているのであるが。)


 我が30歳代の学生時代に話を遡ると、私の授業の“聞き取り書き”の風景は学内でも有名だったようだ。 当人である私としては、いつも若い学生に配慮して最前列は避け2、3列目のなるべく端の座席に位置し、毎授業の内容をせっせか聞き取り書きしたものである。
 そんな私の席へ授業開始前に講師の先生が何度かやってきたことがある。「申し訳ないですが前回どこまで講義したのか確認したいので、ノートを見せて下さい」 それに驚く私が「汚いノートなのですが…」と萎縮していると、「いえいえ、大丈夫です。ありがとうございました」 ……
 試験前になると学生がわんさかやって来る。「すみません。ノートをコピーさせて下さい!」 最初はこの要望に快く応えていた私であるが、あまりにもその数が多かったり、貸し出したノートの返還が遅れたりする事態に直面したため、私なりにノートを貸し出す基準を設けたものである。 その基準とは“知り合い限定”である。 この私が設けた基準には、まだうら若く世間知らずの学生達に対する私なりの考えがあった。 ビジネス以外で他人の恩恵に授かりたいのであれば、少なくとも普段よりその人物に“お近づき”になっておく程度の努力はしておいた方が社会に出てからも役に立つのではないか、との私なりの教育的配慮である。

 (話の趣旨がずれるが、どういう訳か今の世の中“聞き取り書き”が出来ない人物が量産されているようだ。 これは小中高における「板書」(黒板のノートへの写し書き)の弊害であろうと以前より懸念していた私は、我が高校教員時代の授業において「板書」廃止に踏み切ったのである。 「板書」をする代わりに手間暇かけて授業ごとに自作のプリントを生徒に配布し、そこに生徒の能力を勘案して可能と私が判断する“聞き取り書き”を毎時間の授業において促す等の試行錯誤をしてきている。)


 本日の「原左都子エッセイ集」においてこのような記事を書くきっかけとなったのは、朝日新聞6月21日(日)の大学進学特集における一記事を目にしたからである。
 「東大合格生のノートはかならず美しい」と題する一女性の記事の内容は、大学に入る“前”の受験生に対して“ノートは目的意識を持って書くよう”示唆している。 ノートをとるにも目的意識を持った方が将来の目標達成につながると、今さらながら主張するその若き女性の思いは、私にも多少理解できる部分があるのだ。

 立場を変えて尚さらなのではあるが、今後大学を目指す若者には進学をゲットして“入学した暁にこそ”、大学で7000頁の「講義ノート」を取りたいと思える向学心を失うことなく学問に挑んで欲しいものである。

 その学問に対する意欲を学生に教授できる大学が今やどれほど存在するのか、嘆かわしい程に移ろいゆく世の凄まじい廃退ぶりに辟易としつつも、 大学の「講義ノート」を自分の人生の後期に垣間見ても興味深いと感じる程、学問の永遠普遍性とは人間が生き延びる上で大いなる後ろ盾になるものと信じる私である。
        
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某実学志向大学の経営破綻

2009年06月20日 | 時事論評
 「株式会社立」としては全国で初めて設立されたLEC東京リーガルマインド大学が、来年度の学生募集を停止することを決定した、との報道を一昨日(6月18日)の朝日新聞一面で目にした。


 この(略して)LEC大学が設立されたのは、2004年4月、わずか5年前の話である。
 その頃ちょうど税理士受験勉強のため某資格試験取得学校に通っていた私は、同業種の資格試験予備校であるLEC(東京リーガルマインド)も候補の一つとして検討し資料等を取り寄せていたため、それに付随してLEC大学の開校に関しても当時より把握していた。

 資格試験予備校が大学設立?? 一体何を教授するの? もしかして大学の名の下に学生に資格を取得させることに特化するつもりなのか?? それじゃあ、大学とは言わないだろ? それとも、今や大学と資格学校とのダブルスクールの学生が多いから、いっそ一本化しようとの魂胆か? 学生側も近い将来の就職を見据えると、職業と直結しない学問にちまちま励むよりも要領良く資格を取得して条件のよい就職をゲットすることが先決問題であるから、この手の大学に入ってとにかく目先の資格のみを取得しようとしているのか? そのような学生側の需要に応えるべく資格取得予備校が大学を併設しようとしているのか???
 当時、様々な憶測が私の脳裏をかすめたものである。


 ここで、大学の本来あるべき存在命題について振り返ってみよう。
 大学とは、学術研究及び教育の最高機関である。
 学校教育法第83条によると、「大学は、学術の中心として学生に対し広く知識を授けると共に、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的としている。」とある。要するに本来の大学教育の目的は、広範に渡る知識の獲得と諸分野の専門的な教育研究を行うことにより、拡大・深化した知見と柔軟な思考力を備えた知識人を育成することにあるのだ。

 ところがその実は、上記のごとく卒業後世に放り出される学生にとってはどうしても目先の就職に主眼を置かざるを得ない現実であることは否めない。
 そこで出現したのが、学問の教授には重点を置かず、将来の就職を意識した実学志向の大学である。LEC大学のみならず、この手の大学は今や全国に数多く存在するようだ。

 私事になるが、以下は高校生の我が子が通う大学受験予備校より得た情報である。
 悲しいかな現実社会における大学の就職実績の実態とは、大学と経済実業界との揺るぎない「パイプ」により成立しているというのが実情のようだ。 親として子どもの将来の就職の安泰を勘案する場合、“ここの大学”に入れておかないことにはどうしようもない、という大学間就職格差が燦然と存在する今の社会であるのだ。 その経済実業界との“パイプの太い”大学にさえ子どもを入学させておけば、後はたとえ学生本人が入学後程ほどにやり過ごしたとしても、“パイプのない”大学で優秀な成績を修めるよりも将来安泰だとの予備校の話である。
 この場合の“パイプの太い”大学とは、その多くはやはりいわゆる名立たる「有名大学」なのである。


 LEC大学に話を戻すと、その教授内容を私は把握していない。 ただ、先程ネットにて検索してみると、開校後現在までの5年間の卒業生がわずか235名。さらに資格取得を呼び物に開校した割には、卒業生が取得した資格とは「司法書士」(これはわずか1名のみ)、「日商簿記検定」「宅建取引主任者」等、何もそこの大学で取得せずとて比較的容易に取得できる種のものばかりである。これではやはり“お寒い”としか言いようがない。
 大変失礼ながら経営破綻するべくしてしたとも言える。 もしかしたら東京リーガルマインドがこの大学を立ち上げた趣旨とは、元々資格取得予備校LECの宣伝活動の一環としての経営戦略であったのかもしれない。 ネットによる授業等を主軸としていたこの大学の場合、今回の経営破綻による損失額は多大ではないと私は見る。


 少子化により大学全入時代を迎えている現在でもあるし、世界的経済危機の長期化により、いずこの大学も厳しい経営を余儀なくされていることであろう。
 元々教育理念の明確な私としては、大学とはやはり“学術研究及び教育の最高機関”であって欲しい思いは強い。我が子には(この母のごとく?)大学で「学問」の面白さを十分に享受して、奥深い人間性を構築しつつ充実した人生を送って欲しいものである。そのため、まかり間違っても我が娘をLEC大学のごとくの実学に特化した大学に進学させるつもりはない。
 その一方で我が子の将来の安泰を鑑みると、就職率の高い大学に入学させてその“パイプ”をまんまと利用し、我が子なりの就職をゲットさせた上で一人間として自立させ、(高齢出産のため年が大きく離れている)親(私のことだが)亡き後の長い生涯を力強く生き延びて欲しい思いも、親としては切実なものがある。


 話が我がプライベートの横道にずれてしまい恐縮であるが、国公立であれ、私立であれ、株式会社立であれ、今後まだまだ大学の経営破綻や経営統合が続出することが予想される。
 もはやこの厳しい不況の時代に、たった5年で経営破綻に陥るごとくの安直な大学の新設はないとは思うが、卒業生にとって自分が在学した母校が短期間で経営破綻して姿を消す事はあまりにも短絡的で無責任な事態であり、寂しく切ない現実なのではなかろうか。 
       
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ワンセグの意味は知らずとも…

2009年06月18日 | 時事論評
 常に社会情勢を見据え世の動向を把握していたいと考え、有用な情報を積極的に収集しつつ日々生きている私であるが、時流に乗り遅れてはならぬとの発想は、分野にもよるがほとんどない人間であると自己分析している。


 そんな私は、 “恥ずかしながら「ワンセグ」の意味がわからない”と以下のごとく述べられている落語家の林家正蔵氏と同類であるかもしれない。

 6月16日(火)朝日新聞夕刊のコラム“東京歳時記”において、林家氏が「便利な物は人を困らせる」と題して、上記のごとく「ワンセグ」の意味を知らないことについて述べておられる。
 この記事によると、林家氏は時流に遅れたくはないが、その一方でちゃんと自分流も持っていたいとのことである。
 その林家氏は、先だってテレビの仕事に関連した会議の中で“ワンセグ機能搭載カーナビ”の話題に直面したらしい。会議室のみんなから「へえ~」という驚きの声が上がる中、氏のみは恥ずかしながら「ワンセグ」を知らない。しかし流行に遅れると悔しい氏は、「へえ、ワンセグかあ…」とうなずいて話を合わせて何とかその場を乗り切った。 会議の後、心を許せるスタッフに「あのー、恥ずかしながらワンセグって何ですか?」と氏が聞くと、そのスタッフは目を丸くして驚きつつ「師匠、ワンセグですよ」  「ええ、何ですか?」  「師匠、携帯ワンセグですよ」  「は?」  「つまり、師匠。携帯とかでテレビが見られたり、とても便利なような物なんですけども」  「だからワンセグって何ですか?」  最後にスタッフ曰く「すいません、恥ずかしながら、私もわかりません」……
 便利なものって人を困らせるんだな、とあらためて感じ入った次第の林家氏による朝日新聞の上記の記事である。


 そうか、そうか。 「ワンセグ」って携帯とかでテレビが見られたりするとても便利な物なのだな。 この記事を読ませていただいて、初めて「ワンセグ」の意味を大まかに把握できた私である。
 それさえ知らなかった私より、林家氏は数段上級者でいらっしゃる。

 何分、携帯は基本的に“要らない主義”の私であるため、3年前までは周囲から“変わり者”と蔑まれようが持たずにやり過ごしてきたのだが、当時就いていた仕事の都合で強制的に携帯を持たされるはめになった。やむを得ず当時0円で契約できた“ジュニア携帯”を現在も愛用中である。 とにもかくにも我が愛娘との安全連絡のための携帯通話と家族間無料のCメールは外せないのだが、それ以外はEメールですら事務的野暮用以外はほとんど利用することのないまま現在に至っている。(携帯写真を時たま撮るけどね。)

 要するに、私にとっては“携帯”自体が有用ではないのである。この手の分野で時流に乗り遅れたくないとの発想が一切ない私にとっては「ワンセグ」が何であれどうでもいい話のため、それに関する情報が目や耳に入りにくいのだ。
 中には、そんな時代遅れの私をまるで“原始人”であるかのごとく“哀れんで”くれて、親切に説明して下さる人もいる。せっかくの好意を無にしても申し訳ないため聞く振りだけはするのだが、何分興味がないので話が右から左に抜けていく。「これで、大体わかったでしょ?」と言われても「ごめん、やっぱり興味ないわ」と答えるしかない。「絶対便利だから、次の携帯は多機能付きにした方がいい」と念を押されても「今度、買い換える時に考えるね」とごまかすしかない。

 それにしても、物に対する“便利さ”の価値基準も人それぞれであることを思い知らされる。
 携帯に関して言うと、携帯内に「テレビ」を装備して持ち歩くことがそれ程便利なことなのか? 携帯で「本」を読むことが便利なのか?(これに関しては、電車の中で本を読みたい場合などは役に立つかもしれない。でも、目に大きな負担がかかりそう…)。 携帯で「音楽」を聴く事に関しては音楽好きな私も多少納得できる。(だが今の時代、安全面で問題がある。昨年起きた秋葉原事件でも、携帯で音楽を聴いていて周辺状況の把握に遅れた通行人が刺されたという報道もあるようだ。)


 私はパソコンに関しても未だに何の知識もないし、知識を得ようともしていないズブの素人である。 普段はメールの利用と必要情報の検索と、後はこのようにブログを綴っているのみである。 それ故にパソコンの専門用語に関しても未だにまったく受け付けない体質のままである。カタカナの専門用語を並べ立てられても、携帯同様アレルギーが起きそうである。
 (現在、とてもうれしいことに当ブログへのアクセス数が急増している。それを何らかの形で私なりに有効利用したいと考え策略を練ったり、また知人よりそれに関する周辺情報を得たりもするのだが、ネット世界の不確実性や危険性も鑑みると二の足を踏んでばかりいる私でもある。)


 科学技術革新が進み“便利な物”が世に氾濫する現代社会に生を受けている現代人は、幸にも不幸にもこの現実を受け入れざるを得ない現状である。
 その時代を今まさに謳歌している人々(特に若者)にとっては、例えば「ワンセグ」は自分の生活上外すことのできない機能であるのかもしれない。

 しかし、そうではない人間が存在する事も事実なのである。ある人物にとって“便利”である物が他者にとってはさほど“便利”ではないことは、人類の太古からの歴史や宇宙の永遠にまで思いを馳せた場合、大いにあり得るのだ。

 話を大きくしても収拾がつかなくなるが、「ワンセグ」の意味を知らずとも皆と対等に共存しつつ、充実して生きられる人々が少なからず存在し得るこの世界でありたいよね。 
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