原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人は何を優先するべきか

2008年09月30日 | その他オピニオン
 先週末から不覚にも体調を崩している。この年齢になると多少体調を崩すことは特に珍しいことではないのだが、今回は歯痛を伴っていてこれがこたえる。今日は痛みが耳にまで及び、顔面にピリピリと神経痛も来る。

 こういう時には“何を優先するべきか”というと、ゆっくりと休養するべきなのであろうが、どうもじっとしていると痛みが増幅して身に沁みる。そのため普段通りに過ごし、この通りブログ記事の更新もしようとしている。
 しかもこんな日に限って「人は何を優先するべきか」などとテーマが難儀だ。臨機応変に軽めのテーマに変更すればよさそうなものであるが、頭が働かず別のテーマが浮かばないため、今回はこのテーマで強行する。


 朝日新聞9月26日(金)夕刊「悩みのレッスン」の今回の相談は女子高校生による“学校がつらい”ことに関する内容である。
 今回の回答者は哲学者の永井均氏であるが、“どうしても嫌ならやめよう”という趣旨であった。
 
 私も本ブログの教育・学校カテゴリーバックナンバー「不登校という選択肢」において詳細に綴っているのだが、学校がどうしても嫌なら不登校、登校拒否という選択肢もある、との永井氏の見解に準ずる立場を以前より貫いている。

 「不登校」のテーマに関しては既に上記の記事で私論を展開しているので、そちらを参照していただくことにしよう。
 今回の記事では、永井氏の回答内容を紹介し、「人は何を優先するべきか」の私論を展開してみたい。


 では、永井氏の回答を以下に要約する。
 われわれは皆子どもの頃からずっと、大人から人生の道徳的な捉え方を教えられて育つ。その基本は嫌なことでもすべきことがある、というものだ。これを教えないと例えば「お酒を飲んだら車の運転をしない」といった必要な社会規範が守られないからである。だが、守られねばならない規範など実はそんなに多くはない。なのに、教えられた道徳的な捉え方が癖になって、嫌でも頑張ることそれ自体に価値があると思い込んでしまいがちだ。頑張る根性が将来役立つこともあろうが、そんなものにそれ自体で価値がある訳ではない。どんな時も、今現在を楽しむことをないがしろにしてはならない。これは時に忘れがちな、道徳的な教えとは正反対の、人が「すべきこと」である。自他に甚大な損害を与えない限り、どうしても嫌になったら思い切ってやめる、というのはとてもよいことだ。

 (こう述べて、永井氏はこのコラムの回答者としての仕事に今回で自らピリオドを打たれた。
 この相談コーナーの特徴は、思春期の若者からの相談に対し直接的な回答は避け、同様に悩む若者達をはじめ一般読者に、直面している事態に対する解決策を自ら思考して見出せるような、物事のある程度普遍的な“考え方”を示唆するところにあると私は捉えている。
 この私も回答者諸氏の回答に同感し勉強させていただいているので、永井氏の今回の退陣は大変残念である。 )


 さて、人間は何を優先するべきか。

 社会規範の種類も様々ではあるが、自他共に甚大な損害を与える恐れのある事柄に対する規範に関しては皆が遵守するべきである。それは社会で生きる人間にとって最低限の約束事であろう。ただ永井氏が述べられているように、そういった社会規範は実は世の中にそう多くは存在しない。
 世間で“規範”とされている事柄には、価値観が分かれたり選択の余地があるものの方がずっと多い。そのような選択可能な“規範”に直面した時に、周囲に流されたり惑わされることなく、自分自身が何を優先するべきかを判断できる能力や柔軟な思考が人間には要求される。永井氏の言われるように“今現在を楽しむことをないがしろにしない”という観点も人間にとって大変重要な選択肢であろう。

 今日の私は休養よりもブログ更新の強行の方を優先して正解だ。記事作成に没頭した間、一時歯痛を忘れることができた。 
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人気(にんき)なんか要らない

2008年09月28日 | 自己実現
 朝日新聞9月26日(金)夕刊「be」eveningページに、今年60歳を迎えたミュージシャンSI氏の対談記事があった。
 私は普段特にSI氏に関心を寄せているという訳ではないのだが、この対談記事から、60歳にしてまだ失っていない“ツッパリ心”を伴った生き様に私自身との共通性を少し感じ取らせていただいた。

 そこで今回の記事ではこの対談を取り上げて、自分自身に置き換え考察してみることにする。


 SI氏曰く、「人気なんかいらねえよ。めんどくせえよ。売れて大物になっても、やりたいことをやる自由がなくなったらみっともねえだろ」「若いやつにウケたいなんて、ヤラしいことも考えたよ。でもそんな風に新しさを狙ってもいい曲はできなかった。そもそも人間の根源的な性格や愛情ってのは変わらないし。自分の得意なところ、つまり内省や反芻に戻ろうという気持ちにようやくなれた」「いつまでも大人げなく、わがままで。でも人の痛みのわかる表現者でいたいな」


 私の場合は芸能人でも政治家でも何でもない“ただの人”であるので、大衆から「人気」を得る必要は元々何らない。そこで、この「人気」を周囲からの“受け”や“ちやほや”されることに置き換えて考察してみよう。

 若かりし頃は、そういう願望が確かにあった。学校や職場という集団内において隅っこで目立たぬ存在であるよりも、自分の何らかの能力や特質等の持ち味が周囲に“受け”て認められ“ちやほや”されることにより、受動的に自分の存在を自分自身で確認したい願望があったことは否定できない。

 「人気」を得ることは、確かに一種の快感ではある。だか「人気」とは実は実体のない虚像とも捉えられる。肯定的な概念ではあるが、移ろいだりすぐに消え去るはかなさもある。例えば芸能人の場合、昨日はファンだった人に今日はもう飽きられている、ということはよくあることだ。
 そして通常は、年齢を重ね経験を積み上げて能力や特質等の自分の持ち味が確固たるものになってゆくにつれ、他者の評価は相対的に二の次でよくなるのが自然な成り行でもある。
 こうなってくると、「人気」とは「面倒臭い」ものになるというSI氏の談話は実感である。いつまでも、「人気」という虚像ともいえる快感に頼り過ぎることは「やりたいことをやる自由をなくすこと」に繋がり、自分を見失い、みっともない結果となろう。

 よく一世を風靡した芸能人が何十年かの年月を経てカムバックするのを見かける。新しい芸を磨きビッグになって再登場した事例は少なく、昔と同じ事をただ繰り返すのみのカムバックが多い。話題性だけはあり、一時「人気」を博するのだが、またすぐさま消え去っていく。
 カムバックには様々な事情はあろう。生計を立てるため、あるいはマスメディアの商業主義にただ利用されていたり。 そんな中で、一世風靡した頃の「人気」の快感が一種の中毒症状となっていて、それにただすがっているような心理も読み取れてしまう場合も多く、少し哀れさも漂うのが見ていて辛い。


 年齢を重ね人生経験を積み上げて来ても、SI氏のおっしゃるように人間の根源的な性格や愛情とは変わらないものである。むしろ様々な経験を重ね自分を磨いて来ると、「人気」などという主体性のない概念から解放され心がフリーになれるような気さえする。
 そして本来の自分に戻れて、いい意味で“我がまま”になれるような気もする。

 「人気」があってももちろんよいのだが、それを意識し過ぎず、今後共自分なりに“ツッパリ”つつ、人の痛みがわかる人生の表現者でいたいと私も思う。 
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すれ違いの恋

2008年09月26日 | 恋愛・男女関係
 30歳代半ばの独身時代の話であるが、某職場に研修のため2週間程お邪魔したことがある。

 私の研修のために何人かの職員が指導に当たってくれたのであるが、その中のひとりにT氏がいた。
 T氏は同年代の独身なのだが、見た目がマッチョ系のスポーツマンタイプでいかにも女性にモテそうな雰囲気の男性である。私としては研修をお世話になる立場でもあるし真面目に研修に励んでいたため、T氏に対して特別“下心”を抱くということではなかった。

 2週間の研修の終了時に、お世話になった職員の方々が居酒屋で私の「送別会」を催してくれた。T氏を含めて7、8名の職員の方々が出席してくれたのであるが、その中にM氏もいた。
 M氏は私の研修とは直接かかわりのない部署の職員であるため、少し見かける程度だった。中肉中背の男性で外見的には特に目立つタイプではない。M氏はT氏と親しいため、この「送別会」に便乗出席してくれたようだ。

 当然ながら、まずは研修で直接お世話になったT氏を含む職員の人たち何人かと盛り上がって話をしていた。
 会合も半ばを過ぎ、皆が席を立って自由に移動し始めた時、M氏が私の横にやってきた。そして私に語りかける。「あなたが準備室で勉強をしているのをよく見かけた。」と。そうなのだ。研修の空き時間に、某準備室が空いているのを発見してそこで一人でよく自習に励んでいた。その時にM氏が何度か通りかかったのを、私の方も透明硝子のドア越しに見たけたことがある。M氏は「その時のあなたのロングヘアが印象的だった。」とも言ってくれた。
 M氏との談話が続くのだが、このM氏が何とも味わい深い人物なのだ。私はどんどんM氏の世界に引き込まれて二人で語り合っていると、M氏から、思春期で感受性が強い高校生の時に母を亡くした話が出た。人生において何よりも辛い思い出であることを語るM氏の情感深さが決定打となって、この時私はM氏に対して一線を越えた感情を抱いてしまった。

 そして1次会はお開きとなり次は2次会なのであるが、私とT氏と職場長そしてM氏も参加した。職場長は年齢も立場も別格であるためちょっと隅に置いといて、当然のごとく後の独身3人で盛り上がった。この時に気付いたのだが、どうもT氏は私に感心を持っていたようなのだ。お酒の勢いも借りてずい分と積極的にモーションをかけてくる。私としてはT氏ではなくM氏ともっと語り合いたいのだが、直接お世話になったT氏を無視する訳にもいかない。

 2次会の終了時に、私とT氏、M氏の三人で近々また飲みに行く約束をした。

 その後もやはり、味わい深い人格の少し“はかなげ”なM氏の印象が私の脳裏から離れない。これはもはや恋愛感情である。早くM氏に会いたい思いばかりが募る。

 そして間もなく三人で再開したのだが、こうなると申し訳ないが私にとってはT氏は“お邪魔”な存在でしかない。
 ところが、やはりT氏が私に対して積極的なのだ。私としては何とかM氏とツーショットで話したいのだが、T氏のモーションに圧倒される。M氏もT氏の私に対する心情に気付いている様子で遠慮気味だ。これが仕事抜きで知り合った関係ならば、私としても自分の気持ちに素直にきっぱりとした態度がとれるのだが、何分T氏とは仕事上お世話になった間柄でもあり、私の方も中途半端な対応になってしまう…。

 そんな私にとって何とも中途半端で欲求不満が募る飲み会も3次会を経て、時は既に夜中である。朝の電車の始発まで最寄のT氏の家で3人で仮眠することになった。
 2DKの部屋の一室に男性2人、もう一室に私が寝ることになって横になっていると、T氏が部屋に入ってきて私の体を求めてくる。もう30代も半ばで恋愛経験も海千山千の私にとっては想定内とも言える出来事だった。
(私を求めて欲しいのはあなたじゃなくて、M氏なのに…)と本当に口に出して言えばよかった…。
 やはりお世話になった遠慮から言えずに、ただただ拒否した。ここでT氏に体を許す訳にはどうしてもいかない。拒否を押し通したのではあるが、二人ですったもんだしているのに、隣室のM氏が気付かない訳がない。

 M氏と一つ屋根の下で取り返しのつかない醜態を晒してしまった私はどうしても涙が止まらず、ひとり部屋で泣き続けた。
 電車の始発の時間になり、私はT氏に「帰ります」と一言だけ告げて、一人でひっそりと部屋を出た。M氏は最後まで寝ているふりをしてくれていた。
 始発電車に乗って乗客がまばらな中、私の目からは涙が止めどなく溢れ出る。

 一言M氏に私の思いを伝えたかった…。 すれ違いの切ない恋の思い出である。 
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先に笑う?後で笑う?

2008年09月24日 | お金
 どうやら、今の時代は風俗嬢も“財テク”をして将来に備えているらしい。

 日刊ゲンダイ9月20日の記事によると、例えば、六本木の高級キャバクラ嬢のSチャン(25歳)は「不景気が続きそうだし、今さらOLもできないし、年金も不安だから財テク。でも私バカだし面倒臭いから、取引は投資信託のETFオンリー…」だそうである。 一方、五反田のデリヘル嬢のMさん(30歳)は「都内の駅徒歩3分の中古マンションを1000万円で買って、半額を貯金で払い、残りは10年ローンで月の返済は5万円チョイ。家賃収入は9万円だから差し引きを年利換算すると約5%!美味しいでしょ。来年にはもう1件買って今の家賃収入を新しい物件のローン返済に回す。」そうである。

 おお、そうか、そうか、皆頑張ってるじゃん。


 人間、“先に笑う”タイプと“後で笑う”タイプに大きく二分されそうだ。これ、お金の使い方の話であるが、おそらく一生ずっと笑い続けられる人はごく少数であろう。

 かくいう私は、“後で笑う”タイプである。既に本ブログのお金カテゴリーバックナンバーで披露しているが、若かりし頃から外見や行動の派手さとは裏腹に、お金に関しては一貫して石橋をたたいて渡る堅実派である。

 上のキャバクラ嬢のSチャンのように、私も20歳代半ば頃から将来に備えてお金を貯めねば、という発想が確固としてあった。
 私のお金の増やし方のモットーは昔も今も「一攫千金」ではなく「着実に」である。加えて、当時はまだバブル期前で「財テク」という言葉がなかった時代でもあるし、預貯金が高金利だったため、ハイリスクハイリターン商品は避けて、元金保証の金融商品を狙って着実に増やす手段を私は選択した。

 そして30歳の時に、上のデリヘル嬢のMさん同様、私も築年数が新しい2DKの中古マンション物件を単独で購入した。ただし、これも「財テク」目的ではなく自己居住目的だったのだが。そしてやはり約半額を預貯金より支払い残金はローンを組み、結果として7年間でローンを完済した。現在、賃貸物件として運用中である。
 経験者の立場からMさんに関して少し考察すると、まずMさんの場合自宅の住居費はどうなっているのかと懸念する。自宅の住居費の家賃、あるいはローンを支払いつつの不動産物件の財テク運用はそう甘くはないのではないかと察する。しかも、賃貸運用は不確実性が高い。賃借人がずっと継続して入居してくれる保証もなければ、退出入時の修繕費等の臨時出費が大きい。資産家でもない個人が不動産物件を「財テク」目的で賃貸運用する場合、ローンは完済していることが必須条件かと、石橋を叩く私は考える。

  私の場合結婚願望がさほどなかったため、老後まで“一人暮らし”を前提に将来の資産設計を立てていた。
 そんな私は35歳の時に個人年金保険に加入した。ちょうど教員をしていた時期で、当時国内最高の保障額を誇っていた「教育公務員共済会」の個人年金保険に加入した。加入当時の試算で老後月々6万円程度の年金が手元に届くはずだった。公的年金と両方で、私の老後の一人暮らしを十分に遂行できる金額が届くはずだった。
 ところがバブル崩壊後の長引く不況の中、保険会社の相次ぐ経営破綻の一角で「教公保険」を扱っていた保険会社も経営破綻した。外資系保険会社が経営を引き継いだ後保障額が大幅見直しとなった。現時点の試算では、年金額は月々1万円に満たない。平均寿命を大幅に越してよほど長生きしなければ元が取れない。今解約しても大損なため、こんなわずかな年金を手にするために60歳まで保険料を支払い続けるしかない。これは私としては大失敗例である。保険などあてにせず、堅実に預貯金に回すべきだったと悔やまれる。


 結婚後、独り身でなくなってからは資産設計も私一人の思い通りにはいかない。
 住居の度重なる買換えによる大損失の計上(ざっと計算して4500万円也)等の失敗もあれば、ここにきて身内が体調を崩してくれたり、はたまた高齢出産の子どもの教育費が老後まで発生する。
 “後で笑う”にはまだまだ多難な道程になりそうだ…。  


P.S.
(既に一部の方より別便でコメントを頂戴しておりますが、我が家の場合、今後一家で食べていける経済力は一応ございますので、どうかご心配なきように…。お気遣いの程、誠にありがとうございます。)
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高い空からの視点

2008年09月22日 | その他オピニオン
 さて、今回は久しぶりに、私がファンであり尊敬申し上げている創作家の明川哲也氏にご登場いただこう。


 朝日新聞9月19日(金)夕刊こころのページ「悩みのレッスン」において、17歳の予備校生男性からの相談に対し、創作家の明川氏が“高い空からの視点ももって”と題して回答されていた。

 相談者の相談内容を簡単にまとめてみよう。
 秋葉原事件の犯人のように、自分もイライラが蓄積されていつかは「爆発」するのではないかと不安だ。現に親に乱暴な言葉でイライラをぶつける自分がいてそんな自分が嫌で、そうなると他人を見ても嫌な部分しか見えなくなる。こんな気持ちでいるのは僕だけなのか、皆がどう思っているのか知りたい。こんな気持ちを明かしたらけげんな目で見られるだけなのか。

 これに対する明川氏の回答“高い空からの視点をもって”を以下に要約する。
 ぼくがカラスの子だったら、嵐の夜は本当に怖いだろう。ひどく揺れる梢の巣で、いつ終わるとも知れぬ暴風に身を震わせる。あるいは終わらないかもしれないと思い、この世を恨むだろう。でもぼくは人間の子であるから、幸いにもそれが果てることを知っている。そう長い間悩むことではないことを知っている。
 人間の心は世界と同じ広さだ。その世界のすべてを見て歩くのがぼくらの人生で、心の旅なのだと思う。イラつく日々が続くこともあれば、飢餓感に襲われる日々もある。それも風景のひとつで、気長に旅を続けているとまた違った風景へと繋がっていくはずだ。砂漠と海、嵐と凪、ぼくらの心の正体は一色ではない。善でも悪でもない。矛盾でもない。ただ世界と同じ要素がそこにあるだけだ。一つの場所だけを心だと思わず、高い空からの視点ももって世界を旅して下さい。


 私論に入ろう。

 心を病む人々が激増している世の中である。 
 そんな中、今の私には頭さえボケない限り、おそらく今後一生心を病まない自信が少しだけある。それは決して私が感情の乏しい人間だからでも、心臓に毛が生えているからでもない。むしろどちらかと言えば感情の起伏が激しく、繊細なハートの持ち主である(??)と自己分析している。
 それなのになぜ心を病まない自信があるのかというと、明川氏がおっしゃる“高い空からの視点”が持てるからである。すなわち、ある程度の長さ大きさの時間的空間的スパンにおける自己の存在を客観視できる能力が既に備わっているからである。何らかの事情でたとえ今どん底に陥っているとしても、風景は常に移り行くことを経験則で学んできているのだ。
 それは決して昨日今日の短時間で学べたということではない。長い年月をかけて様々な経験をひとつひとつ積み重ねる事により、視点が徐々に高くなって行ったのである。

 それが証拠に私も若かりし頃にこの予備校生のような心理状態を経験している。私の場合は“イライラ”を自分自身の内面に向けてしまい、自分の体を攻撃した。
 今で言う“過食症”的症状を経験している。(当時はまだそういう言葉がない時代だった。)一度にパンを一斤食べてみたり、ポテトチップスを一気に3袋位食べたりして無意識のうちに自分の体を痛めつけることにより“イライラ”を解消した時期があった。毎日毎日それを繰り返していた。やはり17歳頃の大学受験のストレスが溜まっていた時期の話である。幸い受験の終了と共に症状は自然に消え去って行ったが。
 その後心がフリーになり、明川氏のおっしゃる人生という私にとっての世界の旅が本格的に始まる。


 この相談者の予備校生も既に自身を十分に客観視できているし、また周囲に対する配慮の心も伺える。何も心配はないどころか、おそらく予備校生という“半端”な時期を過ぎ去れば、自分らしい人生の旅が待ち構えていることであろう。

 人生における経験値が高い程、自らを見渡す視点も高くなるものだ。
 人生の旅人達よ、良い旅を。 
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