原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

不覚にも10/26知人と面会後自宅近くにて転倒、左膝がしら複雑骨折等で全治3か月の身です

2022年10月29日 | 雑記
 しばらくエッセイ執筆が叶わなかったのは、それが理由でした。
 ここ3日間、手術前検査等々で日々病院通いを余儀なくされていました。

 明後日の10月31日に入院。
 11月01日に手術予定です。


 強打した左膝がしらに針金3本を入れるとの手術のようですが。
 処置が上手くいき、後のリハビリにて歩行可能になれば退院できるとの医師先生の説明です。
 うまく行かない場合は、更なる長期入院になることも考え得ます。


 今回の転倒時に、顎を強打した関係で脳震盪を起こしていることもあり。
 一時記憶が飛んでいたこと。

 加えて2日目に自宅にて意識を失い転倒して、またもや救急搬送されたとの事情もあり、その原因も未だ不明のままの手術となります。
 (2度の転倒で、我が身体は打撲傷だらけでもあります…)

 更にはこれは私の診断ですが、おそらく右肋骨も骨折している様子です。
 これに関しては、明後日に病院受診後医師先生に伝える予定です。
 肋骨骨折は過去にも経験しており放置しておいても回復するのですが、今回は医師の判断に任せます。


 明日も自宅におりますので、骨折関係続編を記載できたらそうしたいのですが。

 不具合を抱えた身での入院前準備や入院手続き書類記入が盛沢山ある関係で、それが叶わない場合は、今後更にエッセイ執筆をお休みさせていただきます。


 皆様もくれぐれも、お怪我にご注意なさいますように。
 

70歳から好き勝手に生きる!

2022年10月25日 | 人間関係
 いえいえ、私め原左都子は未だ“70歳”には到達していない。

 ただ、その大台に向けてカウントダウンに入っていることは確かだ。

 そんな私は、今更こんなタイトルのエッセイを記さずとて。
 元々どちらかといえば“一匹狼タイプ”で、マイペースな人格ではあるものの。


 昨日2022.10.24付朝日新聞の広告欄に、某週刊誌による「ムダなストレスのせいで長生きできない  そんなものは全部捨、捨て去ってしまえ 70歳から好きかってに生きて寿命を延ばす」なるタイトルの記事紹介があった。

 以下に一部を引用しつつ、我が身を振り返ろう。


 〇 空気は読まない、他人の目は気にしない
   自由になれない不幸な思考を捨てる

 私の場合 職場の上司を務めた経験があるが、その立場にして「空気を読んだり、他人の目を気にする」心がけは常に心得ておくべきだった。
 それでも重要な意思決定時には、そればかりに気を配っていては時間を取るばかりであり。 ある時は独裁力を発揮してでも事案を前に進めねばならないと判断するべき機会も多かった。
 これで部下には嫌われたなあ…
 「貴方が嫌いです!」と直言してきた部下もいたが、まあ何とか乗り越え、上司なりの実績は上げて来れたと自負している。

 これが一旦プライベートとなると、それこそ自分の自由でよいに決まっている!
 空気を読まねばならない場面も確かにあるが、自身の言動が社会性を逸脱していない限り他人の目など気にする必要は何らないだろう。


 〇 「嫌な人」との関係を断ち切る方法

 このテーマは、上記の「自由になれない不幸な思考を捨てる」と重複する部分が多いと考察する。 
 まあ、集団生活を強要されている立場では、確かに困難なテーマではあろうが。
 今回の場合は70歳過ぎてからの話につき、それこそ個々人の自由意思・発想で好きな相手と付き合えば済む話ではなかろうか?


 〇 「新しいこと」は逆にストレス
    無意味な趣味は百害あって一利なし

 これに関しては、私も痛い経験がある。
 今から5年前程のことだが、昔の趣味だった「フルート演奏」を再開せんとプロ奏者に個人レッスンの依頼をした。
 ところが、このプロ奏者である若き女性講師がレッスン中「駄目出し」を繰り返してばかりで、一度足りとてワンコーラスすら吹かせてもらえなかった。 私としては決してプロになりたい訳では無かったため、半年ほど我慢した後にレッスンを退会し、その後は自分で音楽スタジオを予約し自主個人レッスンに切り替えた。 それもコロナ禍後はスタジオ通いを中断したままだ。


 〇 実は一人暮らしは健康にいい 
   孤独が寿命を縮めるという大ウソ

 私の場合、未だ一人暮らしになる年齢ではなく、亭主と2人暮らしの身だが。
 我が娘が今年5月初頭に我が家から独り立ちして約半年が経過した。
 何よりも娘が一人暮らしを真面目に頑張り、健康面で何らの不具合も無い事実に本気で安堵させてもらっている。
 これが一番の理由だが、“家族が減る”という事態はまんざら捨てたものでは無いとの現在の本音の感想だ。
 実際問題、娘の世話業が皆無になり我が自由時間が嬉しくも増えている。 元々晩婚で一人暮らし期間が長かった私であるが故に、これは実にありがたいとの印象だ。
 今後、亭主と私とどちらが長生きするかとの課題はあるが。

 表題に戻すと、私の場合は「70歳から好き勝手に生きる!」との課題は十分にこなせそうだ。


 そんな70歳に迫るべく私に大きな影響を与えて下さっている一人が。

 明日訪問させていただく、我が過去の医学関係企業での上司であったAさん(前回のエッセイをご参照下さい)に間違いない! 

 20数年ぶりにお会いする現在一人暮らしのAさんとの面会を、心より楽しみにしております!
 

某知人との20数年ぶりの電話通話

2022年10月23日 | 人間関係
 この某知人をAさんと呼ばせていただこう。


 Aさん(女性)は私にとって「知人」と言うよりももっとずっと重い存在であり、過去の「直属上司」あるいは「恩人」と呼ばせていただくべき存在の方である。

 このAさんとの出会いは、私が医学部卒業後上京し新卒にて入社した企業にてだった。
 当初私は別の部署への配属だったのだが、そこの社員の一人と折り合いが悪く。 と言うよりも医学専門分野に関して早くも“衝突”してしまったのだが。
 こんな場合、新卒入社したての私が当然ながら折れるべきなのだろうが、相手もまったく譲らず個人攻撃逆襲をされてしまい…
 失望の下に短気を起こし、私は職場を3日間無断欠勤するとのストライキを決行した。
 
 実はその間、私は果敢にも都内にて次なる就職先を見つける行動をとり、別社に採用されかかった。
 そして欠勤3日目の朝に新卒入社した企業に電話を入れて、「退職させていただきたい」と申し出たところ。 課長が電話口に出て「そういう訳にはいかない、事情を聴きたいので今夜外部の食事処で面談しよう。」との話になり。
 その課長の人柄の良さにほだされて、新卒入社の企業に残ることになった。 ただし、残るにあたって私側から条件を提示した。 その条件とは、「別の部署にての勤務にして欲しい」との内容だったのだが。

 次の日に出社したところ、その我が条件をすぐに聴き入れてくれていて。
 課長曰く、「〇さんは、本日からこちらの上司の下で業務に励むことになります」とのことで。
 それが、我がAさんとの初対面だった。

 所属したのは、「研究室」。 ただし、その人員はAさんと私のみだった。
 そして当時Aさんは妊娠中で、「今後しばらく〇さんには、一人で▲▲大学医学部「免疫学研究室」(当時の免疫学国内権威の著名先生が室長を務めておられた)へ出向して、そこで新たな免疫学関連の実験に励んでもらうことになります。」
 いきなり重いノルマを課せられたのだが、私としてはくだらない先輩といがみ合いつつ日々を過ごすよりも、その新天地でまさに免疫学実験に励みたい!と、その幸運を喜んだものだ。

 そして「免疫学研究室」にて学んできた新たな実験成果を、社内でルーチン検査化するべくしばらくの期間頑張った。
 そうこうしているうちに、Aさんも無事出産を終えられて研究室に戻って来られた。
 その後、私が29歳時に社内異動するまで、Aさんとの職場・個人関係両者の親しい関係が続行した。


 時が経過して、私が30歳時点で2度目の大学通いをしていた頃も未だAさんのご家族と仲よくさせていただいていた。

 その後我が晩婚結婚式時にも、主賓に匹敵する立場でAさんに参列頂き、祝辞を述べて頂いたりもした。
          
 この写真はその当時のもの。(美人のAさん、無断掲載をお許し下さいませ。)


 私が40歳時に皮膚癌を患い闘病した際にも真っ先に駆けつけて下さったのは、このAさんだった。

 その後も幾度か私の自宅にお越し頂いたりしつつ。
 我が記憶によれば現在の住居に転居後はAさんとお会いしていない。


 そんな折、昨年のAさんよりの年賀状が遅れて到着して、その内容を読んだ私側が久々にAさんに手紙にて連絡を取らせていただいたのがっきっかけで。

 その後、メール交換が続行し。

 そして本日昼過ぎにAさんから電話を頂戴し、来週の再会と相成った!

 本日の電話にて久々にAさんのお声を聴くことが叶ったのだが。
 さすがに高齢域に達して多少声質が変わったかと感じつつ。(お前もそうだろ!と言われそうだが)😖 
 Aさんの、あの明るく理知的な語り口には何らの変化も無い事実に安堵しつつ。


 来週 Aさんと久々の再会を果たせることを、心待ちにさせて頂きます!!
 

私は既に「永代供養墓」を予約している

2022年10月22日 | 自己実現
 話題が突如と「死後」に移行するが。


 ただこれ、年齢が離れた一人娘のみを持つ身としては切実な課題だったものだ。

 親の死後、ほぼ40年の年月を一人でこの世を渡って行かねばならない娘に、親の死後のことなど依存できるはずもない。 

 
 10数年程前の事だったか、原家のお墓に関して今は亡き(63歳の若さで膵臓癌にて壮絶死した)義理姉から話題が持ち出され、「原家のお墓改革をしたい」との意向が告げられた。

 私など、素晴らしい提案と同意して義理姉の話に耳を傾けたものだ。

 と言うのも元々原家は伊東市に起源があり、その地のお寺を菩提寺としてそこにお墓を持っていた。
 義母に関しては自身と先に亡くなった義父は当然その墓に入るものと考えていた様子で、毎年一度は我が家の3人を伴ってその菩提寺へあいさつに連れて行ってくれたものだ。
 後で聞いて驚いた話だが、その都度義母は菩提寺にお布施として100万円単位の金銭を手渡していたようだ。

 そんな(正直言って大いなる無駄でしかない)金銭出費の現状を打ち破る判断をした義理姉の大改革案に、私は内心大いに賛同した。
 ところが、義母は全く違った。
 義母曰く、「私が死んだ後のお布施代金は私がきちんと残しておくから、貴方たちの代までは菩提寺にお布施を続けて欲しい」
 それを、特に嫁の立場の私に再三再四告げたものだ。 実際問題、その返答に困惑した私が。
 義理姉の実行力により原家の伊東の墓はその後まもなく寺へ返納となり。 その後都内の大規模墓地(谷中墓地だが)に5名(義母の先代と義母と義父、そして義理姉)は永代供養の措置を採った。


 さてそうなると、我々夫婦以降は原家とは一切関係なく自由に墓を選択可能な身となった!

 これは実にラッキーないきさつであり、私と亭主に関してはその後すぐに自分たちの「永代供養墓」を見つけることとした。
 これまた幸運にも、我が家に程近い場所に“国家公務員がらみの社会福祉法人が運営する葬儀場があり、そこで比較的安価にて「永代供養墓」を予約可能となり早速予約をした。

 毎年2度当該葬儀場よりパンフレットが送付されてくるため、確かにその予約は有効のようだ。

 ただ私はやはり一度、如何なる「永代供養墓」であるのかを確認しておきたく平日昼間に現地へ見学に訪れてみた。

 その感想を一言でまとめると。

 「ははあ、そういう事か。」であるのが現実だが。


 端折って説明すると、葬儀場の敷地内に「永代供養墓」専門の建物がある。
 そこの内部に入ると “ロッカー式”の墓が所狭しと並んでいて、そのロッカーに「お骨」が保存されているようだ。

 人の骨は時間が経つと“臭く”なることを実感させられつつ、内部を見学した後に受付辺りに掲示されている「説明書き」を読むと。
 この「ロッカー墓」に入れてもらえるのは、数年であるらしい。
 その後は都内辺鄙の場に骨は移されて、そこで皆一緒に大地に帰るとのシステムのようだ。

 この説明書きを読んだ直後は、「だから“永代供養”は安価なんだなあ」なる身勝手な感想を抱いたものだが。


 その後年月が経過した今、思うに。

 私の場合、元より親族に依存して生きるなどとの思想が一切無い人間である。
 だからこそ早くも家族を捨てて単身上京し、都会暮らしをエンジョイして来ている身だ。

 今思えばそんな立場にして、親族の墓に入れられるなどとの窮屈な事態こそ勘弁して欲しいものだ。



 「永代供養」もいろんなバージョンがあるのだろうが。

 私など、最終的に見知らぬ人々との骨にまみえられる「永代供養」に未来性すら感じる。
 死後の世界でも決して親族のみに囚われることなく、自分が好きな骨と相まみえつつ。(その選択は無理だろうが、少なくとも親族の枠からは飛び出せそうだ。)

 永久に土として植物などに栄養を与えつつ素晴らしく次の世に変身したいものだ!


私も絶対的に「鉛筆」派!!  ー vol.2 ー

2022年10月21日 | 自己実現
 (冒頭写真は、2018.08.08に公開した同名の我がエッセイより再掲載したもの。)


 我が愛読ブログである 医師「福田先生の雑記帖」をいつものように拝見すると。

 偶然にも福田先生も、鉛筆ファンであることが判明した!

 これに気をよくして、本日は再び「鉛筆」をテーマにエッセイを展開することとした。


 それでは、「原左都子エッセイ集」2018.08.08付バックナンバー「私も絶対的に『鉛筆』派!!」と題するエッセイの一部を、以下に再掲載しよう。


 ずっと前のNHKBSテレビ番組「美の壺」のテーマが“鉛筆”だったのだが、それを視聴した時からこのエッセイテーマを温存していた。
 
 表題には「私も絶対的に鉛筆派!」と銘打ったが。

 より正確に言えば、普段の筆記は絶対的に「パソコンキーボード派」だ。
 20代後半頃より仕事上、業務用ワープロ(富士通oasisの立派な業務用ワープロだったが)に馴染み、それ以降しばらくワープロ派だった。

 28歳時に英文タイピング技能検定2級を取得した。
 これに関しては、本エッセイ集バックナンバーにても複数回既述しているが。 
 当時医学関係の仕事に携わっていた私だが、時代の波に先駆けて業務のシステム化が施され、そのワークシート出力のプログラミング担当を私が率先して申し出た。
 FORTRANはキーボード入力字数が少なめのため、さほどの苦痛はないのだが。 これがCOBOLとなると、物凄い字数のプログラムを入力せねばならない。 これにほとほと嫌気がさした私は、すぐさま英文タイプにてブラインドタッチをマスターする事を目指したのだ。 そしてしばらくして英文タイプ2級を取得したとのいきさつだ。

 この技能は、後々までも私に恩恵を与え続けてくれている。
 高校教諭時代、商業科の授業の中に「ワープロ」があった(当時は未だワープロ時代だったのだが)。 我が専攻は経営法学であり「商業法規」や「商業経済」が主たる受持ち科目だったが。 
 英文タイプ2級を取得している関係で「ワープロ」の授業も「私にやらせて下さい!」と自主的に申し出た。
 これがワープロ初心者の生徒に受けること、この上ない!  教員である私がブラインドタッチでキーボードを高速打ちするパフォーマンスを披露すると、皆がまるで“曲芸”でも見たかのように「私(ボク)も早くそうなりたい!!」と授業への意欲を示してくれるのだ!
 その後すぐに「パソコン時代」へと移ろいだ。 おそらくワープロ検定に合格した生徒達もそのブライドタッチ技能を活かし、社会で活躍していることだろう。

 この我が“キーボード高速打ち能力”が、その後私自身の直筆力に暗いシワ寄せを招いてもいる。
 20代後半期より既に30数年の年月、キーボードにて筆記を依存してしまっている私の手が、「直筆」に馴染まなくなってしまっているようなのだ。
 どうやらキーボード高速打ち速度に対応して、直筆の場合も我が手が高速に動こうとする感覚があるのだ。
 
 そんな「直筆」苦手の我が一番の応援者が、鉛筆だ!
 鉛筆こそは、私を裏切らない。
 我が高速直筆に対応してくれるキャパが鉛筆にこそあることに感激の日々だ。 
 要するに高速直筆をしようとしても、それ程に書面上をスムーズに移動しないのが鉛筆の特徴ではなかろうか?  特にB以上の柔らかい材質の鉛筆がそれを、私に日々叶えてくれている。
 片やボールペンなど悲惨だ。 紙面を滑り過ぎて、ミミズが這った字しか書けない…… 

 元々“左利き”との事情もあるだろうか?? 一旦右手が「直筆」から遠ざかった後のブランクが30数年と長いため、今更ながら右手での直筆が苦手なのかもしれない… 
 あるいは4年前(現時点で言うと8年前)に右手首を骨折した後遺症かもしれない、と少し考えたりもする。?? 
 それ程に我が右手での「直筆」は悲惨であり、深刻でもある。 (中略)

 と言う訳で原左都子自身は、絶対的に「パソコンキーボード派」を一生賭けて貫きたい…。 
 今尚重要案件で相手がボールペンを私に手渡し、これでここにサインして下さい、と言われると!
 実際ミミズしか書けない身にして、本気で困惑するのが実情なのだが…… 

 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を再掲載したもの。)



 本日朝撮影した写真を公開しておこう。

           
 このがらくた、一体なんだ!?!! とお思いだろうが。
 これらが現在私が使用中の鉛筆等筆記具類の写真だ。 一つ一つを「一筆箋」や「メモ用紙」等々と共に家中の一部屋ごとに置いて。 いつ何時も、筆記態勢に入れる手はずを整えている。
 参考だが、後列中央は我が娘が自室に置いていったもの。


           
 こちらは、我が愛用の鉛筆削り器。
 この鉛筆削り器は私が小学生になった頃より使用して、既に60年以上の年月が流れて未だ健在の我が愛用品。
 当時、「足の裏シール」が流行っていたことを思い起すなあ。 その他のシールはすでに痛んで剝がした。


 福田先生と“鉛筆愛好”との趣向が同じだったことが、ちょっと嬉しい原左都子で~~~す。😜