原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「民法総則・法律行為」

2021年01月31日 | 自己実現
 (冒頭写真は、我が2度目の大学時代の講義ノートより「民法総則・法律行為」のページを撮影したもの。



 話題は「商法」から「民法」へ飛ぶが。

 特段何らかのポリシーがあってこの項目を選択した訳ではなく。
 「民法・総則」とは一般人にも分かり易いかと考え、このページを選んだだけの話だ。


 その前に、我が学生時代に使用していた「六法」内「民法・総則」の一部ページを披露しよう。


          

          

          

          

          

 数々の線引きと書き込みに驚かれることだろう。

 民法総則とは「私法」(「公法」に対する用語であり市民相互の関係を規律する法律のこと)の原点でもあり、真面目に勉学に励んだ証拠でもあるが。

 民法に限らず、法律の学習には「六法」が欠かせない。
 その「六法」のみは定期試験時にも持ち込み可であるため、これに出来る限り重点項目を書き込んだ、という訳さ。😝 
 ただ、その書き込み作業自体が大いに学力増強にもなったものだ。



 それでは、「民法総則・法律行為」講義ノートの一部を以下に引用しよう。

          


          


          


          

 上記「法律行為の効力」内容を、要約引用しよう。

 法はある一定の効力を法律行為に認めているが、すべての法律行為に認めている訳ではない。 法律行為とは「可能を目的とするものでなければならず」
① 不能を目的とするものは効力を生じず  ② 不適法(強行法規違反)に関しては、行政法規(食品衛生法、医師法、等)違反の場合は行政罰が科せられる。 
 (余談だが、つい最近コロナ禍に於ける医療現場でのコロナ患者受け入れ拒否病院に対し懲役等の行政罰を課す、と菅首相が発表し、議論が巻き起こったばかりだ。 結果としては野党等よりの反発によりこの事案は取消となった。)

 「公序良俗違反」に関しては、一般的にもよく知られていることであろう。
 これには、〇人倫に反するもの、 〇正義の観念に反するもの、 〇他人の窮迫、無思慮に乗じて不当な利益を上げようとする場合、がある。

 (以上、簡単で申し訳ないが「民法総則・法律行為」に関する我が講義ノートから要約引用させていただいた。)



 ところで、私は2度目の大学生時代の4年間は自力・自費にて生活費も学費もまかなっていたため、当然ながら大学へ通う時間以外は日々休む間もなく仕事に励んでいた。 (参考だが、大学院進学後は公立定時制高校教員としての採用が決定していたため、収入がずっと安定していた。)

 大学時代の平日の夜は、東京旧丸ビル上階ラウンジにてコンパニオンに励み。(この仕事により得た収入はもちろん、この業務により得た数々の人脈は後々大いに役立ったものだ。)  
 大学長期休暇中には、医学関連業務の派遣社員として医学分野にも貢献した。 
 更には、(自身の外見的長所を活かして)単発でパーコンやワープロデモンストレーターにもトライしたり。
 家庭教師の依頼(所属大学英語教授より、私が優秀学生だからとご自身の知合いの子どもさんの家庭教師を依頼され)それに応じたりもした。

 そんな合間を縫って学業に励んだ訳だが。
 当時30代前半期より後半期に至る時期だったが。 おそらく、そんなこんなの我がチャレンジ精神こそが大いなる後ろ盾となり。(日々が楽しくて仕方ないとの感覚だろうか。)
 そのパワーが大学・大学院での学問にも大いなるプラスの影響力と化し、私は私なりに納得可能な“成功”を掴めたものと振り返る。
 だからこそ、あの頃を我が人生に於ける最大の “華の時代” と私自身がいつまでも振り返ることが可能だ。

 そうであったからこそ超多忙な身にして、それでも尚十分に学問に勤しむ時間を確保することが叶ったとも振り返ることが出来よう。

 まあ、独り身だから故の“身軽さ”だったということでもあろう。
 それにしても、私にはその時代を振り返る幸せを一生に渡りつなげる思い出光景が存在することこそが、今後の老後に向け更なる幸せであるのかもしれない。

「法人格否認の法理」

2021年01月30日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、原左都子2度目の大学にて受講した「商法Ⅱ」の講義ノートより転載したもの。)


 エッセイテーマが、突如として我が2度目の大学時代の講義ノートに移るが。


 そのきっかけとなったのは、本日昼NHK法律関係の番組内で、「信頼関係破壊の法理」が取り上げられた事だ。

 「信頼関係破壊の法理」に関して、ウィキペディアより引用しよう。
 
 信頼関係破壊の法理(しんらいかんけいはかいのほうり)とは、「高度な信頼関係を基礎とする継続的契約において、一方の当事者の投下資本の回収の利益を保護するため、他方の当事者からの一方的な契約の解約を『当事者間の信頼関係が破壊された』場合にのみ認める」、という判例の考え方である。
   概説
 本来、一方の当事者が法律で規定された契約解除権(法定解除権:民法第541条、第542条、第543条、第617条、第626条、第627条、第628条など他多数)を持っていれば、その当事者は相手方の意に関係なく契約を解除(解約)できるはずである。しかし、大家の一方的な都合や意地悪などで契約の解約を告知されれば、賃借人は引っ越さなければならない。引越しの費用がかかり、生活に大きな支障をきたす可能性がある。このような不合理をなくすために、判例は「両当事者間の信頼関係が破壊されたと認められない特段の事情がある場合」には解除を認めない、とされている。
この法理は、主に賃貸借契約の解約、使用貸借契約の解約に関する裁判で適用される。同様の理論に、雇用契約の解約の裁判で適用される「解雇権濫用の法理」がある。
 (以上、ウィキペディアより引用したもの。)



 この「信頼関係破綻の法理」の話題が番組内に出たとき、我が脳裏に咄嗟に蘇ったのが今回のテーマである「法人格否認の法理」だ。

 「商法Ⅱ」を担当して頂いたのは、我が卒論及び修士論文指導を担当下さった 文化勲章・秋の叙勲授章者であられる吉井先生なのだが。
 
 昭和62年当時、「法人格否認の法理」は商法(会社法)に於けるトピックス的存在であったため、特に授業の時間を割いて懇切丁寧に解説して下さった記憶がある。
 
 先程書棚より我が「講義ノート」を取り出して調べたところ、当該「法人格否認の法理」の我が手書きノートが7ページに渡っていた。
 (大学の授業とは我が2度の経験に基づくと、決して担当教官が板書などしない。 すべて教官が口頭で述べる内容を、自分のノートに手書きにて筆記するのが通常である。)
 1講義テーマに関して3講時を要し、手書きノートが7ページにも及ぶのは大変珍しいことだ。
 それ程に当時このテーマこそが「会社法」を語るに際し最重要であったことを、吉井先生が伝えて下さったものと理解している。



 以下に、その7ページの写真をすべて掲載させていただこう。

         


         


         

         
         


         


         

         
         


 それでは以下に、この「法人格否認の法理」講義内容を要約しよう。

 当該「法人格否認の法理」は近年の司法学会のテーマに3度選ばれている程に、会社の法人性に関し非常に重要な問題である。 内容としては、米国判例法で形成されたセオリーをそのまま持ってきたもの。 会社をめぐる法律関係の処理において、形式を無視して実態に即し責任の帰属を求めるものである。
 これにより法解釈に弾力性が生まれるが、 悪く言えば曖昧模糊としてしまう欠点もあるともいえよう。
 当該法理を定義づけると、「会社の存在を全面的に否定するのでは無く、特定の事判の解決につき、会社という法衣を剥奪してその背後に存在する実態を捉え、その実態に即した責任の帰属を認める法理」となろう。

 例えば法律行為が会社名義か個人名義かが曖昧な時に、個人の行為につき会社の責任を追及したり、会社の行為につき個人の責任を追及可能となる。

 米国は「不文法主義(慣習法のみ)」、日本は「成文法主義」であり、本来ならば米国判例法を我が国にそのまま持ち込むことは不能。 その根拠付けの必要がある。
 法人格否認の法理の我が国への導入においては、民法1条3項 権利の乱用禁止規定により「否定の法理」を認め、商法54条に根拠付け、その解釈論として導入が可能となろうか?
 ただこの手法を使用すると、極めて法的に不安定となってしまう。 本来、個々の規定で解決可能であるならばそれを使用し、無いときには最後に一般条項が出てこよう。 しかしその場合には解釈に差がでてしまい、どの辺から「否認の法理」を使うのかにおいて問題があろう。

 (以下略すが)、以上我が講義ノートより「法人格否認の法理」につき一部を引用したもの。  
 ついでに当時の吉井先生の学生への推薦参考文献として、「商法の争点」ジュリスト。(これは私もよく購入して読んだものだ。)



 本日のNHK昼間の総合テレビ法律番組のお陰で、久しぶりに「法学」の復習が叶った。

 いやいや、まだまだ我が頭はちゃんと働いているぞ!

 30年以上前に記した自身の「講義ノート」を今読み返しても、当時の授業が昨日のように思い起こされる我が“法学脳”に、自分で感激することが叶った。

 今後も時間を見つけては、我が「講義ノート」を閲覧しようじゃないか!!
 老後の楽しみが、また一つ増えたぞ! 😁 
  

再掲載 「結果よりも過程の公開を」

2021年01月29日 | 教育・学校
 公開時間が遅くなったが。

 今夜は2008.12.26付公開の、冒頭表題エッセイを再掲載させて頂こう。


 朝日新聞2008.12.25夕刊によると。

 結果の公開のあり方が議論されている全国学力調査で、秋田県は25日、市町村別の結果を市町村名すべてを明らかにした上で全国で初めて公表したとのことである。
 秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん、一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。
 この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
 この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。

 早速私論に入ることにしよう。
 大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
 このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのであるが、一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。

 そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。

 本ブログの上記バックナンバー「学ぶ意欲は育つのか?」に私のブログの読者でいらっしゃる秋田県に所縁のある方からコメントを頂いたのだが、秋田県の義務教育過程において大変興味深い宿題指導が取り入れられているそうだ。それは“自由課題”とでも名付けてよいのか、子ども一人ひとりが自由課題を設定してそれに取り組む宿題を学校が課すということだ。そして重要な点は、生徒が提出した宿題の内容が何であれすべてが教員に受け入れられ評価されるというシステムであるらしい。
 この方法は素晴らしいと私も感じる。教員にとって手数がさほどかからず、子ども一人ひとりの可能性を潰すことなく個性を認めることが可能な、優れた学習方法であると評価申し上げたいものである。

 ついでに私事で恐縮なのだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
 一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
 我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているのであるが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。

 話を元に戻そう。
 私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ必要ともしていない。
 そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
 だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。

   

Comments (14)

 (田舎人)2008-12-26 17:12:50
この問題に触れていただき、有り難く思います。
秋田県の市長町村の教育委員会、及び学校サイドは知事の抜き打ち的な公表に怒りを表しております。
小さな町村では、学校が1校しかない所も有り、知事の云うところの、校名を伏せてに矛盾する結果を生んでおります。国民は知る権利があるという意見で公表した秋田県知事の短絡的行動に、あきれ返っております。せめて、公表することで教育振興にどうプラスになるのか、知事は説明する責任が有ると思います。

田舎人さん、こちらこそ恐縮申し上げます。 (原左都子)2008-12-26 17:28:09
実はこの記事は、田舎人さんを相当意識させていただいきつつ綴りました。
田舎人さんのコメントを記事内で許可なく取り上げさせて頂きましたこともありまして、反論やお叱りを頂けることも覚悟の上での今回の記事の公開でした。
早速のコメントに感謝申し上げます。
そうなのですね。秋田県民にとっては当事者であり、今回の知事の決断は今後大きな波紋を呼びそうですね。
田舎人さん、今後の成り行きをまた是非お伝え下さいますように。

残念ながら (don-tracy)2008-12-26 19:46:23
子供の教育に本当に関心を払っている親はごく一握りではないかと感じます。
「ゲームばっかりしてないで、ちゃんと勉強しろ!」と年中口を酸っぱくして叱咤する。
いざ、散々な通知表を持ってくると「だから言ってるだろう!やる気あんのか?お前は!」と一喝します。
だが、それで終わり。
子供がどんな事を習ってきているのかは全く知りません。
多くの親がそんなパターンかと思います。
友人の家庭などを見ていてもそうだし、私の親もそうでした。
学力の「地域間格差」は、実は住民層=その地域に子供の学習に関心を払っている人が多いか少ないか、の格差であるように思います。
私の中学時代も、公務員住宅や大企業の社宅の多い地域の中学は平均点が高く、語弊はありますが、商業地域や公営住宅の多い地域の中学(私もそんな学校へ行っていました)は平均点が低い傾向はありました。
ですから、地域間格差は仕方のない物だと思います。
それに現時点の学力がすべての物指しでもありません。
スポーツや文化活動の盛んな学校で充実した学校生活を送ることができれば、それは子供にとって大きな財産になります。
重要なのはまさに「将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続」なのでしょう。
そもそも教員にすら結果の公表されない学力テストは誰のために始められたんでしょう?
「官僚や文教族議員と繋がりの深い業者のためのテストではないか」と思うのは、私の僻み根性のせいであって欲しいとは思うのですが…

偏差値教育ド真中 (ドカドン)2008-12-26 20:10:55
統計手法に基づく「偏差値」は、違う試験、違う教科に於いても、常に同様の数値をはじき出します。
常にゆらぎの少ない、教育レベルの判断が出来る、優れた統計手法です。
私は、この優れた判断方法を、否定はされたくないのです。
統一試験は、結果を明確に示せ、と思います。
試験に至るまでに、努力を重ねてきた子もサボった子も、結果を知らされないと、次にどうしたらいいか判断できません。
教育に行く先の標がないと、迷うのはテストを受けた学生だ!

教える側の姿勢 (orangeboy)2008-12-27 01:00:13 
太平洋戦争で打ちのめされた日本が、戦後驚異の復興を成し遂げました。それは、ひとえに日本人の真面目さがそうさせたと思っています。ですが、その根源には教育があります。日本の教育はもちろん江戸時代の寺子屋から始まります(起源は、中世からです)が。その当時は、庶民が学びたいという熱意がありました。それゆえ、現在の子供さんの勉強への取り組みは、自然に勉強が楽しいと思わなければなりません。その楽しさを引き出すのは、子供さんの能力の差はありますが、教える側の姿勢がやはり一番大事だとも思っています。如何に教えるのか、事務的ではなく熱意をもって教えていただきたいと考えています。当然、その姿勢で取り組んでいる先生方も多いことは言うまでもありませんが

全く同意です。 (issei)2008-12-27 04:09:08お早うございます。
以前の投稿で原さんの言いたいことは創造が付きましたが。30歳を過ぎたわが子に与えた教育を考えたとき、結びで言っておられる「優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”」と言うくだりがインパクトを感じました。現在の公立高校は先生のレベルが学校によって大きく差があると思います。差がないとしても学校によって教育の過程に雲泥の差があります。レベルの低い学校では、最初から先生が教育を諦めているようなふしが感じられます。私が卒業した高校では1年生のときから進路指導を行っていましたが、神奈川県の有名県立進学校以外は最初から進路指導などはなく、進学は「卒業後自分で予備校へ通って受験せよ」とも取れる教育課程でした。あまりのひどさに驚いたものです。あの時しっかりした教育の過程を辿っていたなら別の道もあった筈です。2年に進級した頃から、おかしいと気付き「進路問題はどうなっているのか先生に聞いてみて」と指示したが、前述のごとく、その高校では「卒業後に自力で予備校に通い大学に行く生徒がほとんど」と聞き唖然としました。先生のする事と言ったら、受験の書類を作る手助けをする事だけだったのです。
 良い学校もレベルが低いと言われる学校も、先生の能力に差がないのでしょうが、教育過程に対しての考え方が劣悪(お粗末)なために、優秀な先生が駄目な先生になっているのではないでしょうか。

対談 (カズ)2008-12-27 20:20:43
秋田県知事と大阪府知事がこの問題で、テレビ番組で対談したらいいなと思いますね。

don tracyさん、おっしゃる通りです。 (原左都子)2008-12-28 11:26:31
まさに、don tracyさんのおっしゃる通りで、口先ばかりは子どもに対し命令口調で、子どもが普段どのような学習をしているのかさえ知ろうともせず、テストの点数と通信簿の評価だけを見て子どもを叱り飛ばす。これは親として最悪のパターンなのですが、ほとんどの親の実態とはこれに近いのでしょう。
そして、まさに子どもの学力、能力とは現時点の点数ではありません。子どもの未来への可能性こそが育てられるべきです。
そして官僚と業者の癒着は当然考えられますね。この全国学力調査で一番ほくほくしているのは業者でしょうね。
点数を公開するか否かのくだらない議論で熱くなっていないで、教育の「過程」を熟慮しろ、と再び主張したい私です。

ドカドンさん、子ども本人と親が結果を知ってもよいでしょう。 (原左都子)2008-12-28 11:40:16
教育関係者や、子ども本人、そしてその保護者が学力調査結果を知る事に関しては差し支えないと考えます。
その結果により子どもの足を引っ張るのではなく、子どもの成長のために有意義に活かして欲しいものです。
今回の議論は、他者の結果まで知る必要があるのか、という点に重点があります。
偏差値と言うのは、まさに他者と比較した場合に自分がどの位置にいるかを示したデータですが、私はこれは不要だと考えます。
成績を点数で捉えたい場合も子ども本人の絶対評価で十分かと思います。
そしてもっと肝心なのは、どうしても点数にこだわりたい場合は、点数が表す内容までもを把握するべきと言うことです。
まとまりが悪い返答コメントですが、点数のみで子どものすべてを評価し子どもの可能性を潰してしまうような過ちを犯して欲しくない気持ちが強い私です。

orangeboyさん、まさに学びたい熱意ですね。 (原左都子)2008-12-28 11:48:03orangeboyさんが書かれている「寺小屋」時代の庶民が学びたい熱意は一体どこに行ってしまったのでしょう。
おそらく、教育の変遷に大きな責任があるのでしょうね。今の教育は学びたいという人間が本来有しているはずの欲求を潰してばかりいるように感じます。
今の教育制度は変革を繰り返す度に空回りを繰り返し、子どもから学ぶ喜びを奪ってばかりいます。
学力調査の開示がどうのこうのとくだらない議論ばかりしていないで、根本に立ち返って学ぶ喜びを子供達から引き出すべく、教育の「過程」のあり方を問い直して欲しいものです。

isseiさん、教員の能力差は激しいでしょうね。 (原左都子)2008-12-28 13:11:27能力差と言うよりも熱意や適性の差と申し上げた方が正しいかもしれませんが、同じ公立でも確かに教員やそして学校の教育に対する取り組みの差はあるかもしれません。
大学進学校でもなく、また問題児を多く抱えた底辺校でもない高校は、生徒のみならず、ややもすると教員の目的意識が定めにくいのかもしれません。isseiさんが書かれているような「勉強したいのなら予備校へ行ってくれ、受験用の書類だけは作るから」といった事態は起こり得ることでしょう。ただただ、生徒を預かるだけの学校ですね。
ただ、たとえそういう環境であれその環境で安穏とせずに教員になった以上は主体的に生徒にかかわって、底辺からも学校や教育制度を変えていく位のエネルギーを教員には持って欲しいものです。

カズさん、それ面白そうですね! (原左都子)2008-12-28 13:16:39
秋田県知事は私は影像では見たことがないのですか、どうもポリシーがふらついている人物のようですね。
あの大阪の橋下坊やは、公の場での言葉遣いや口のきき方を教わってから表に出ろ!と私は言いたいのですが、この二人の対談は面白そうですね。

Unknown (どら猫)2008-12-28 13:24:21
義務教育内での子供達が覚えるべき(覚えなければならない?)事柄をどの程度覚えているか(記憶)しているかに関して試験をしたことこで余りにも騒ぎすきのような気がしてなりません。
何月何日までに覚えなければならない理由は何処にあるのでしょうか?
開示に関しても東国原氏が大阪の橋元氏の「文部省の**」等の発言に関して庇った心算なのでしょうが、「彼の所は下の方の順位....云々」(差別、冷かしとも取れるかも?)
何月何日までに全国学力テストの「為」の準備をするか、高校、大学受験というもう一つの期日を切られた試験に準備をするかで大きく結果は違ってくるはずです。(現実に秋田県内から旧帝国大学(笑)への入学者は非常に少ないことも知られています。
人間、一生勉強をしなければならない事を痛切の感じている自分にとっては所詮「成績の良い県の長は、開示をしたい」だろうし、教育委員会とトラぶっている(思い通りにならない)ところの長は開示をしろと言うだろうし、本当に子供のことを考えているか否は、はなはだ疑問に感じます。
もっとも順位が知れ渡っていることは一部開示をしているともとれるのですが(笑
寺田氏と知事選を争った佐藤正一郎氏のブログでも開示の問題にふれていますが50歩100歩で(笑

http://shouichiro.exblog.jp/9970629/
本当に必要なのは子供達が「どのように思っているか」でしょうけど。

ドラ猫さん、同感です。 (原左都子)2008-12-28 14:00:45
ドラ猫さんが書かれたこととほぼ同じ思いを私もいつも抱いています。
何月何日までにこれとこれを憶えなくてはならない、と子どもに期限を与えてノルマを課すのが今の学校の教育制度で、その結果をみるためにテストを子どもに強制し、その結果を公表するかしないかといい大人どもが騒いでいる現状ですね。
今回開示を決めた秋田県に関しては、現在の子どものテスト結果よりもその後の子供達の行く末に興味があります。

 (以上、当時のコメント欄に押し寄せたコメントを再掲載させていただいたもの。)


   朝日新聞2008年12月25日(木)夕刊によると、結果の公開のあり方が議論されている全国学力調査で、秋田県は25日市町村別の結果を市町村名すべてを明らかにした上で全国で初めて公表したとのことである。
 秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。
 この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
 この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。

 早速私論に入ることにしよう。
 大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
 このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのだがだ。一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。

 そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。

 ついでに私事で恐縮のだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
 一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
 我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。


 話を元に戻そう。
 私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民、そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ、必要ともしていない。
 そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
 だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。



 本日の「原左都子エッセイ集」Popular entries top 10内で上位に位置していたのが、当該「教育・学校カテゴリー」の当該バックナンバーだった。

 現在、“コロナ禍”で世の中が大揺れ最中に「結果よりも過程の公開を」などと言っている場合でも無いのかもしれないが。

 我が教育に関するポリシーは今尚揺るぎないものがある。

 敢えてそのような思いも込めて、当該エッセイを再掲載させていただいた。

 (私論の重複部分が多い事実を、お詫び申し上げます。)


薄ら寒い曇天は、午後3時に大雪へと代わり…

2021年01月28日 | 雑記
 (冒頭写真は、つい先程我が家のバルコニーより撮影した大雪風景。)


 東京で見る雪は、これが今年最初かな。

           


           
           


           


           


                        
           


           

 あっという間に、家々の屋根が真っ白です。



 ところで、左都子さんは午前中からずっとバルコニーで空をみていたの?、ですって???


 いえいえ、あの後きちんと義母の「不動産貸付業・青色申告」書類の最終チェックを実施しましたよ!

 後は来週、青色申告会会場にて税理士氏に確認をしていただくのみだ。
 きっと私が作成した申告書は、“ほぼ”完璧なことでしょう!


 一仕事終えた後の何とも清々しいこと!

 今夜は、ゆっくりと“雪見酒”が堪能出来るぞ!!! 😁 


 で、現在の外の様子はというと…

           
 
 ここまで積雪しました。
 (これ区民農園ですが、一応都心より程近い場所からの撮影です。)


この薄ら寒い曇天、心が落ち着くなあ…

2021年01月28日 | 雑記
 (冒頭写真は、つい先程我が家のバルコニーから撮影した南の空の風景。)


 日々の天候の移り変わりとは人の心をも動かすものと。
 現在の家に引っ越してきて南の大空を展望する都度、実感させられる。


 本日はこの曇天のせいか、特別の“静寂感”に包まれている感がある。


         
 アンテナの上に、2羽の鳥が停まっているぞ。


         
 と思っていたら、すぐさま鳥の種類が入れ替わった。


 
 いや、そうじゃなくて、左都子さん。
 貴方が今日やるべき事は、何だったんだっけ?
 

 義母の「不動産貸付業・青色申告」提出日を来週に控え、その最終チェック段階に入るんじゃなかったの??
 
 何を逃避行動に走っているんだ?!?

 今日は娘も出勤日で、こんなに落ち着いた静かな日和の今こそ机に向かって、その総まとめに精進したらどうなのよ。

 外の風景を見て、心を落ち着かせている場合じゃないでしょ!


 いやいや、年に一度の税務申告時期とは毎年こんな心境に陥るなあ。

 特に今年の義母の青色申告は、不動産物件内の移動が激しかったり、大規模リフォームを実施したりで、その計算が大変なのよ。

 課題が厳しいほど、逃避行動に走るものなのさ。

 もうしばらく空を眺めたら必ず申告計算に入るから、もう少し空を展望させて…