つい先だって、集合住宅の上階部にある我が家のお隣一家が引っ越して転居した。
お隣一家に関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて“マイナー”なニュアンスで一度だけ紹介したことがある。
(まさかお隣が「原左都子エッセイ集」など露知らず、読む暇もないであろう事と想定してこっそり今回の記事を綴るため、皆さんもどうか内密にお願いしたい。)
とにかく、よく言えば“賑やか”、悪く言えば“粗雑”な一家であった。
3年半程前に引っ越して来た時には、3歳位の女の子が1人いる若い世代の親子3人の家族構成だったのだが、どうやら近くにどちらかの実家や親戚が多数あるのか、大都会のマンションにしては例外的にいつも人の出入りが激しく入居当初より“ドタバタ”状態だった。
直ぐに次の男の子が生まれたのだが、この子が不安定な気質の持ち主なのか大きな泣き声や部屋中を暴れる騒音が日夜我が家に響いて来た。 片や玄関前の通路に目をやるとそこは隣家の“物置き場”と化していて、各種粗大ゴミやママチャリ、三輪車やベビーカーが通路の真ん中にも置かれている有様だ。 その通路を通行してエレベーターや階段を利用せねばならない位置にある我が家は、日々難儀させられたものだ。 時々堪忍袋の緒が切れる私がそれを隅に片付るとの“実力行使”に出るのだが、隣家からは何らの反応もなく、誰かが片付けてくれてよかったとでも思っているような有様だった。
そして何と驚いた事に、昨年隣家にもう1人赤ちゃんが誕生したのだ! 実に失礼な表現だが、日々迷惑を被っている我々一家としては 「え~~~、今までに増して騒音が発生するし、通路の粗大ゴミが増えるってこと!?!」でしかなかった…… もちろん、その現実にも日々耐えた。 若き世代が子どもを産み育てる事を応援するのが古き世代の役割であるとの、悲壮的なまでの責任感を我が原動力として…。
ただ、実際問題として日夜隣家の喧騒に耐えねばならない、“静かに暮らしている隣家の住人”の切実な現状も少しはご理解願いたいと思う。(一言の挨拶でもあれば我が家も凌げたのに、こちらから挨拶しても“なしのつぶて”との記事をバックナンバーで公開したものだ。 何分、個人情報に深入りしない人間関係をわきまえねばならない現社会でもあり、対応が困難だった…)
それに耐える日々の中、隣家が引越しをするのか!?との様相を私はキャッチした。 隣家にとって“物置き場”である通路に、引越し会社の段ボールの束や布団袋が幾重にも無造作に置き去りにされているのだ。
そして、ついに先だっての土曜日に隣家の奥方が我が家に転出の挨拶に見えたとのいきさつである。
この若き奥方と会話をするのは、私にとっては隣家の転入挨拶以来3年半ぶりのことである。 何分、上記のごとく今の若い世代の人達は自分が住んでいる集合住宅内においても“挨拶”すら敬遠している故である。
それでも、私は隣家の奥方が転居の挨拶に来てくれた事を心よりうれしく感じた。 (個人情報上踏み込んだ会話は避けるべきと心得つつも)「子どもさんが3人に増えましたね!」などと話しかける私に、奥方は「はい。家が手狭になりましたので近くの実家に戻ることにしました」と応えて下さる。 「皆さん、お元気でお過ごし下さい」と私が返したところ若き奥方は笑顔で応じて下さり、その後一家は引っ越して行った…
今回のエッセイは、女性の“望まない妊娠”について考察することにある。
決して、上記に紹介した我が隣家の奥方が3人の子どもを設けた事実が“望まない妊娠”だったと結論付ける訳ではない。 何分私はその奥方とはたったの2度しか会話していないため、詳細は知らない。
それでも、3年半の隣家の生活に日々接して少し感じることがあるのは事実だ。 隣家が転居した近くの実家とは世帯主である“夫”の実家であるのに加えて、隣家は夫側が主導権を握る家庭だったように私は理解している。
夫婦2人の関係が続行している背景には、もちろん夫婦間の同意もあることだろう。
ただ、“夫”主導の下で3人の子どもを産み、挙句の果てに夫の実家に戻り、3代に渡る大家族と同居を強いられる3人の母親である若き奥方の立場は今後どうなることであろうか??
などと、夫の実家という今までよりさらに自由が制限されそうな環境下で、3人もの子どもを育てねばならない元隣家の奥方の今後の未来を慮る私である。(あの通路の粗大ゴミの数々は、奥方のせめてもの開放感の証だったのかもしれない。 義父母のいる実家でそんな粗雑さが許されるはずはないであろう…)
7月27日付朝日新聞記事によると、児童虐待件数が21年連続で過去最多を更新しているとのことである。 その中でも虐待により亡くなった子どもの4割強が0歳児とのことだ。 「望まない妊娠」をした母親が出産後直ぐに虐待死させるケースが繰り返されている現実を踏まえ、それら母親の支援が各地で広まっているとの報道である。
「原左都子エッセイ集」2010年8月バックナンバーに於いて、私は 「『産まない』という選択肢もあるのに」 と題する子ども虐待に関する記事を綴った。 そのエッセイに於いて私は「“産まない”という選択肢もあるのに、何故にあえて子どもを産んで虐待して殺すのだろうか… 子どもを産む性である女性の「子どもを産まない」との選択こそが、児童虐待阻止の第一歩にして最高に確実な手段であると原左都子は考察する。」との結論を導いた。
それから2年程経過した現在、そんな原左都子の思いが叶いそうな動きがやっと社会に発生しているようだ。
近年増発する子ども虐待事件を受け、地方自治体や日本産婦人学会等の医療現場も交えて「望まない妊娠」から母子を救うべく動き始めたとの報道である。
この朝日新聞記事内には、医療現場からの「命の大切さ」を教育するため“高校生段階”からの性教育が不可欠とする案も存在するようだ。
ここで一言、これに関して高校教員経験がある原左都子から指摘をしよう。 「命の大切さ」なんたらかんたらの“性教育”は既に過去より教育現場に於いて日常的に実施されている事実である。 もしも医療現場がその種の“陳腐な性教育”を性懲りも無く目指しているのならば、残念ながら現実打破は不能であろう。
それにしても、「女性が望まない妊娠」から母子を救おうとの公的機関や医療現場の発想自体は画期的と言えよう。
なんせ、民主党政権など“子ども手当て”等カネのバラ撒き政策により歴史的政権奪取を図ったようなものだ。 子どもを産む事を最高の美徳とする文化が、この世界規模での経済難の時代に於いていつまでも大手を振った政策としてまかり通る訳もない。
多様化した人間の生き様や社会の激変事態を見据えつつ、その現状において“カネ配りではない”方策として如何に子孫繁栄を願うべきかを熟慮し直す事こそが、政府や自治体の真の人間尊重であると原左都子は信じている。
お隣一家に関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて“マイナー”なニュアンスで一度だけ紹介したことがある。
(まさかお隣が「原左都子エッセイ集」など露知らず、読む暇もないであろう事と想定してこっそり今回の記事を綴るため、皆さんもどうか内密にお願いしたい。)
とにかく、よく言えば“賑やか”、悪く言えば“粗雑”な一家であった。
3年半程前に引っ越して来た時には、3歳位の女の子が1人いる若い世代の親子3人の家族構成だったのだが、どうやら近くにどちらかの実家や親戚が多数あるのか、大都会のマンションにしては例外的にいつも人の出入りが激しく入居当初より“ドタバタ”状態だった。
直ぐに次の男の子が生まれたのだが、この子が不安定な気質の持ち主なのか大きな泣き声や部屋中を暴れる騒音が日夜我が家に響いて来た。 片や玄関前の通路に目をやるとそこは隣家の“物置き場”と化していて、各種粗大ゴミやママチャリ、三輪車やベビーカーが通路の真ん中にも置かれている有様だ。 その通路を通行してエレベーターや階段を利用せねばならない位置にある我が家は、日々難儀させられたものだ。 時々堪忍袋の緒が切れる私がそれを隅に片付るとの“実力行使”に出るのだが、隣家からは何らの反応もなく、誰かが片付けてくれてよかったとでも思っているような有様だった。
そして何と驚いた事に、昨年隣家にもう1人赤ちゃんが誕生したのだ! 実に失礼な表現だが、日々迷惑を被っている我々一家としては 「え~~~、今までに増して騒音が発生するし、通路の粗大ゴミが増えるってこと!?!」でしかなかった…… もちろん、その現実にも日々耐えた。 若き世代が子どもを産み育てる事を応援するのが古き世代の役割であるとの、悲壮的なまでの責任感を我が原動力として…。
ただ、実際問題として日夜隣家の喧騒に耐えねばならない、“静かに暮らしている隣家の住人”の切実な現状も少しはご理解願いたいと思う。(一言の挨拶でもあれば我が家も凌げたのに、こちらから挨拶しても“なしのつぶて”との記事をバックナンバーで公開したものだ。 何分、個人情報に深入りしない人間関係をわきまえねばならない現社会でもあり、対応が困難だった…)
それに耐える日々の中、隣家が引越しをするのか!?との様相を私はキャッチした。 隣家にとって“物置き場”である通路に、引越し会社の段ボールの束や布団袋が幾重にも無造作に置き去りにされているのだ。
そして、ついに先だっての土曜日に隣家の奥方が我が家に転出の挨拶に見えたとのいきさつである。
この若き奥方と会話をするのは、私にとっては隣家の転入挨拶以来3年半ぶりのことである。 何分、上記のごとく今の若い世代の人達は自分が住んでいる集合住宅内においても“挨拶”すら敬遠している故である。
それでも、私は隣家の奥方が転居の挨拶に来てくれた事を心よりうれしく感じた。 (個人情報上踏み込んだ会話は避けるべきと心得つつも)「子どもさんが3人に増えましたね!」などと話しかける私に、奥方は「はい。家が手狭になりましたので近くの実家に戻ることにしました」と応えて下さる。 「皆さん、お元気でお過ごし下さい」と私が返したところ若き奥方は笑顔で応じて下さり、その後一家は引っ越して行った…
今回のエッセイは、女性の“望まない妊娠”について考察することにある。
決して、上記に紹介した我が隣家の奥方が3人の子どもを設けた事実が“望まない妊娠”だったと結論付ける訳ではない。 何分私はその奥方とはたったの2度しか会話していないため、詳細は知らない。
それでも、3年半の隣家の生活に日々接して少し感じることがあるのは事実だ。 隣家が転居した近くの実家とは世帯主である“夫”の実家であるのに加えて、隣家は夫側が主導権を握る家庭だったように私は理解している。
夫婦2人の関係が続行している背景には、もちろん夫婦間の同意もあることだろう。
ただ、“夫”主導の下で3人の子どもを産み、挙句の果てに夫の実家に戻り、3代に渡る大家族と同居を強いられる3人の母親である若き奥方の立場は今後どうなることであろうか??
などと、夫の実家という今までよりさらに自由が制限されそうな環境下で、3人もの子どもを育てねばならない元隣家の奥方の今後の未来を慮る私である。(あの通路の粗大ゴミの数々は、奥方のせめてもの開放感の証だったのかもしれない。 義父母のいる実家でそんな粗雑さが許されるはずはないであろう…)
7月27日付朝日新聞記事によると、児童虐待件数が21年連続で過去最多を更新しているとのことである。 その中でも虐待により亡くなった子どもの4割強が0歳児とのことだ。 「望まない妊娠」をした母親が出産後直ぐに虐待死させるケースが繰り返されている現実を踏まえ、それら母親の支援が各地で広まっているとの報道である。
「原左都子エッセイ集」2010年8月バックナンバーに於いて、私は 「『産まない』という選択肢もあるのに」 と題する子ども虐待に関する記事を綴った。 そのエッセイに於いて私は「“産まない”という選択肢もあるのに、何故にあえて子どもを産んで虐待して殺すのだろうか… 子どもを産む性である女性の「子どもを産まない」との選択こそが、児童虐待阻止の第一歩にして最高に確実な手段であると原左都子は考察する。」との結論を導いた。
それから2年程経過した現在、そんな原左都子の思いが叶いそうな動きがやっと社会に発生しているようだ。
近年増発する子ども虐待事件を受け、地方自治体や日本産婦人学会等の医療現場も交えて「望まない妊娠」から母子を救うべく動き始めたとの報道である。
この朝日新聞記事内には、医療現場からの「命の大切さ」を教育するため“高校生段階”からの性教育が不可欠とする案も存在するようだ。
ここで一言、これに関して高校教員経験がある原左都子から指摘をしよう。 「命の大切さ」なんたらかんたらの“性教育”は既に過去より教育現場に於いて日常的に実施されている事実である。 もしも医療現場がその種の“陳腐な性教育”を性懲りも無く目指しているのならば、残念ながら現実打破は不能であろう。
それにしても、「女性が望まない妊娠」から母子を救おうとの公的機関や医療現場の発想自体は画期的と言えよう。
なんせ、民主党政権など“子ども手当て”等カネのバラ撒き政策により歴史的政権奪取を図ったようなものだ。 子どもを産む事を最高の美徳とする文化が、この世界規模での経済難の時代に於いていつまでも大手を振った政策としてまかり通る訳もない。
多様化した人間の生き様や社会の激変事態を見据えつつ、その現状において“カネ配りではない”方策として如何に子孫繁栄を願うべきかを熟慮し直す事こそが、政府や自治体の真の人間尊重であると原左都子は信じている。