原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

女性が“望まない妊娠”から解放される日

2012年07月30日 | 時事論評
 つい先だって、集合住宅の上階部にある我が家のお隣一家が引っ越して転居した。

 お隣一家に関しては、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて“マイナー”なニュアンスで一度だけ紹介したことがある。
 (まさかお隣が「原左都子エッセイ集」など露知らず、読む暇もないであろう事と想定してこっそり今回の記事を綴るため、皆さんもどうか内密にお願いしたい。


 とにかく、よく言えば“賑やか”、悪く言えば“粗雑”な一家であった。
 3年半程前に引っ越して来た時には、3歳位の女の子が1人いる若い世代の親子3人の家族構成だったのだが、どうやら近くにどちらかの実家や親戚が多数あるのか、大都会のマンションにしては例外的にいつも人の出入りが激しく入居当初より“ドタバタ”状態だった。
 直ぐに次の男の子が生まれたのだが、この子が不安定な気質の持ち主なのか大きな泣き声や部屋中を暴れる騒音が日夜我が家に響いて来た。 片や玄関前の通路に目をやるとそこは隣家の“物置き場”と化していて、各種粗大ゴミやママチャリ、三輪車やベビーカーが通路の真ん中にも置かれている有様だ。 その通路を通行してエレベーターや階段を利用せねばならない位置にある我が家は、日々難儀させられたものだ。 時々堪忍袋の緒が切れる私がそれを隅に片付るとの“実力行使”に出るのだが、隣家からは何らの反応もなく、誰かが片付けてくれてよかったとでも思っているような有様だった。
 そして何と驚いた事に、昨年隣家にもう1人赤ちゃんが誕生したのだ! 実に失礼な表現だが、日々迷惑を被っている我々一家としては 「え~~~、今までに増して騒音が発生するし、通路の粗大ゴミが増えるってこと!?!」でしかなかった……  もちろん、その現実にも日々耐えた。  若き世代が子どもを産み育てる事を応援するのが古き世代の役割であるとの、悲壮的なまでの責任感を我が原動力として…。
 ただ、実際問題として日夜隣家の喧騒に耐えねばならない、“静かに暮らしている隣家の住人”の切実な現状も少しはご理解願いたいと思う。(一言の挨拶でもあれば我が家も凌げたのに、こちらから挨拶しても“なしのつぶて”との記事をバックナンバーで公開したものだ。 何分、個人情報に深入りしない人間関係をわきまえねばならない現社会でもあり、対応が困難だった…)

 それに耐える日々の中、隣家が引越しをするのか!?との様相を私はキャッチした。 隣家にとって“物置き場”である通路に、引越し会社の段ボールの束や布団袋が幾重にも無造作に置き去りにされているのだ。
 そして、ついに先だっての土曜日に隣家の奥方が我が家に転出の挨拶に見えたとのいきさつである。

 この若き奥方と会話をするのは、私にとっては隣家の転入挨拶以来3年半ぶりのことである。 何分、上記のごとく今の若い世代の人達は自分が住んでいる集合住宅内においても“挨拶”すら敬遠している故である。
 それでも、私は隣家の奥方が転居の挨拶に来てくれた事を心よりうれしく感じた。 (個人情報上踏み込んだ会話は避けるべきと心得つつも)「子どもさんが3人に増えましたね!」などと話しかける私に、奥方は「はい。家が手狭になりましたので近くの実家に戻ることにしました」と応えて下さる。 「皆さん、お元気でお過ごし下さい」と私が返したところ若き奥方は笑顔で応じて下さり、その後一家は引っ越して行った…


 今回のエッセイは、女性の“望まない妊娠”について考察することにある。

 決して、上記に紹介した我が隣家の奥方が3人の子どもを設けた事実が“望まない妊娠”だったと結論付ける訳ではない。 何分私はその奥方とはたったの2度しか会話していないため、詳細は知らない。
 それでも、3年半の隣家の生活に日々接して少し感じることがあるのは事実だ。 隣家が転居した近くの実家とは世帯主である“夫”の実家であるのに加えて、隣家は夫側が主導権を握る家庭だったように私は理解している。
 夫婦2人の関係が続行している背景には、もちろん夫婦間の同意もあることだろう。
 ただ、“夫”主導の下で3人の子どもを産み、挙句の果てに夫の実家に戻り、3代に渡る大家族と同居を強いられる3人の母親である若き奥方の立場は今後どうなることであろうか??
 などと、夫の実家という今までよりさらに自由が制限されそうな環境下で、3人もの子どもを育てねばならない元隣家の奥方の今後の未来を慮る私である。(あの通路の粗大ゴミの数々は、奥方のせめてもの開放感の証だったのかもしれない。 義父母のいる実家でそんな粗雑さが許されるはずはないであろう…)


 7月27日付朝日新聞記事によると、児童虐待件数が21年連続で過去最多を更新しているとのことである。 その中でも虐待により亡くなった子どもの4割強が0歳児とのことだ。 「望まない妊娠」をした母親が出産後直ぐに虐待死させるケースが繰り返されている現実を踏まえ、それら母親の支援が各地で広まっているとの報道である。

 「原左都子エッセイ集」2010年8月バックナンバーに於いて、私は 「『産まない』という選択肢もあるのに」 と題する子ども虐待に関する記事を綴った。 そのエッセイに於いて私は「“産まない”という選択肢もあるのに、何故にあえて子どもを産んで虐待して殺すのだろうか…  子どもを産む性である女性の「子どもを産まない」との選択こそが、児童虐待阻止の第一歩にして最高に確実な手段であると原左都子は考察する。」との結論を導いた。

 それから2年程経過した現在、そんな原左都子の思いが叶いそうな動きがやっと社会に発生しているようだ。
 近年増発する子ども虐待事件を受け、地方自治体や日本産婦人学会等の医療現場も交えて「望まない妊娠」から母子を救うべく動き始めたとの報道である。
 この朝日新聞記事内には、医療現場からの「命の大切さ」を教育するため“高校生段階”からの性教育が不可欠とする案も存在するようだ。 
 ここで一言、これに関して高校教員経験がある原左都子から指摘をしよう。 「命の大切さ」なんたらかんたらの“性教育”は既に過去より教育現場に於いて日常的に実施されている事実である。 もしも医療現場がその種の“陳腐な性教育”を性懲りも無く目指しているのならば、残念ながら現実打破は不能であろう。


 それにしても、「女性が望まない妊娠」から母子を救おうとの公的機関や医療現場の発想自体は画期的と言えよう。
 なんせ、民主党政権など“子ども手当て”等カネのバラ撒き政策により歴史的政権奪取を図ったようなものだ。  子どもを産む事を最高の美徳とする文化が、この世界規模での経済難の時代に於いていつまでも大手を振った政策としてまかり通る訳もない。
 
 多様化した人間の生き様や社会の激変事態を見据えつつ、その現状において“カネ配りではない”方策として如何に子孫繁栄を願うべきかを熟慮し直す事こそが、政府や自治体の真の人間尊重であると原左都子は信じている。

さあ五輪選手達よ、大声を出して勝ち進もう!

2012年07月28日 | 時事論評
 本日(7月28日)、いよいよロンドンオリンピックが開幕した。

 ところが、私は今日開会式が実施されることをすっかり忘れていた。
 連日の猛暑・熱帯夜と娘の大学の前期試験が重なり、ここ数日よく眠れない日が続きバテ気味の私である。 
 だるい土曜の午前中を過ごし昼前にテレビを付けると、ちょうどポール・マッカートニーがロンドンの開会式会場で「ヘイ・ジュード」を熱唱しているではないか! 「あっ、今日開会式だったんだ!」と遅ればせながら気付いた始末である。


 ロンドンへは24歳の時に旅行したこともあって、原左都子にとっては思い入れのある地の一つだ。 当時ロンドン・パリ・ローマとヨーロッパ3大都市を巡るツアーに参加したのだが、何と言っても英語が通じるロンドンが一番印象深い。 王朝風アンティーク内装のディスコへ行ってアイルランド出身の男の子と仲良しになったり、大晦日の夜にトラファルガー広場で大勢の若者達に紛れて騒いだり、ハイドパークで知り合った男性にロンドンを案内してもらったりした。 音楽好きの私はカーナビーストリートへ出向き、イギリス出身のロックバンド「The Who」のキャラクターグッズを買い求めたりして、ロンドンでの楽しいフリータイムを過ごしたものだ。

 本日夕方頃から開会式のハイライト放送、そしてその後続々と各種競技が始まるようだ。 8月12日の閉会式まで、世界トップアスリート達の奇跡とも言える技やパワーの集大成である4年に一度の“オリンピック劇場”を堪能させていただく事としよう。


 さて今回の我がエッセイでは、世界で闘うアスリート達が咄嗟に発する 「絶叫」 について考察することを趣旨として綴っていく。

 と言うのも、7月16日付朝日新聞でそれに関する興味深い記事を発見したのだ。
 早速、「大声が生む突破力」と題する朝日新聞記事を以下に要約して紹介しよう。
 テニスのシャラポア選手、ハンマー投げの室伏広治選手、卓球の福原愛選手に共通するのは、プレーの時の「大声」だ。 一流アスリートななぜ叫ぶのか。
 (対戦型種目の)シャラポア選手や福原選手は相手選手からクレームが出る程の「大声」であるが、「いわゆる火事場の馬鹿力です」と説明するのは某大学運動生理学講師氏。 めいっぱい力を出そうとしても、実は無意識のうちに抑制がかかっている。 声を出す事で興奮を高め、この抑制が解かれると生理的に限界に近い力が出る「リミッターカット」と呼ばれる効果が存在するとの実験成果も既に発表され、その後も様々な運動生理学研究者による実験研究によりそれは立証されつつある。
 スポーツ脳科学分野においても大声を出した時の脳をMRIで調べたところ、脳幹の青斑核部分の活動が高まる事が確かめられている。 青斑核とは神経伝達物質ノルアドレナリンを出す神経細胞の塊であるが、これが出ることにより心拍数や血圧が上がり覚醒や集中を促すことを裏付けた研究だ。 
 ただし、これもやり過ぎると逆効果を生む。 左右非対称の複雑な動きをする時に重要な脳の運動前野は興奮するとうまく機能しなくなる。ノルアドレナリンも出過ぎると不安や恐怖を感じるため、興奮にはデメリットもある。 最上のパフォーマンスには適度な刺激や覚醒状態が必要だ。 声を出す事によりエネルギーを消費するのも事実。それぞれにとって最適な状態を知ることが大切であり、「絶叫」はここ一番の場面に限定した方がいい、とアドバイスする専門家もいる。
 (以上、朝日新聞記事「大声が生む突破力」より要約引用) 


 元医学関係者の原左都子の私事に入るが、私など特段「絶叫」せずとも常に神経伝達物質ノルアドレナリンが大量に脳より放出しているタイプの人間かと、若かりし頃より考察している。
 なんせ、起きている時間帯は常に「心拍数や血圧が高い覚醒状態」にある。 これは一昨年、心臓の“24時間ホルター検査”を受けた時点で証明された。 寝ている時間帯と覚醒時との心拍数の変動が特異的に大きいのだ。 我が主治医が言うには「これ程覚醒時に高心拍数が長時間持続する人は稀だ。 これだけ心臓に負荷をかけ過ぎると長生きできない事もあり得る…」  「いえいえ先生、私は善玉コレステロールも特異的に多いですし、私の場合“のんびりしなさい”などとアドバイスされると余計焦ってしまう気質ですから、今まで通り日々“興奮気味”で暮らした方が自分にとって最善と心得ます」云々と応えたところ、さすが私が主治医として選択した先生曰く、「今まで通りに生活するのが一番でしょうね。また心臓がバクバクしたらお越し下さい」 何とも物分りがよい。

 それにしても、卓球の福原愛選手のファンである私は、あの「サー!!」の絶叫が何とも心地よくてあれを聞いたらスキッとする。 「愛ちゃん、もっと叫べ!!」などといつもテレビの前で応援している程の勝負好きの有様だ。 
 片や、相手の選手が愛ちゃんの真似をして「絶叫」などすると「うるさい、黙れ!!」と叫びたくなるから我ながら身勝手なものでもある…

 「絶叫」の効果に話を戻すと、カラオケ好きな私が何故それを好むのかを分析するならば、単に音楽好きに留まらないとの答えは既に出ている。 
 結局、あの狭いカラオケ室の空間で「絶叫」したいのである。
 常に心臓バクバクの私がカラオケ室で「絶叫」などしたら、上記の朝日新聞記事によるともっとノルアドレナリンが放出され興奮状態となりそうだが、人によりそうではない場合もあると私は考察している。 むしろ「絶叫」等ストレス発散とも言える行為により、心拍数を下げ心身を落ち着かせる作用の神経伝達物質が脳から放出される場合もあるのではないかと私は考えるのだ。 これぞ、朝日新聞記事内最後に記されている「それぞれにとって最適な状況を知ることが大切」との結論が導かれる所以であろう。


 おそらく、世界的に類稀な実力を持って今回ロンドンオリンピックに挑んでいるアスリートの皆さんは、それぞれバックに専門医療チームを抱えておられる事でもあろう。
 それにも増してオリンピックへの厳しい道程を耐えて来られた過程で、選手の皆さんは自分なりの体質や気質を、(失礼ながら“なまじっか”の)専門家氏よりもご自身が一番理解しておられる事と原左都子は推測する。
 専門家のアドバイスも時として役に立つものだが、ここは洗練されたご自身の力と思想を信じて、どうか最後まで全力で闘い抜かれますように。

 アスリートの皆さんの爽快な 「絶叫」 が楽しみな私だ! 頑張れ!!   

いじめられている君、今はとにかく逃げよう。

2012年07月26日 | 教育・学校
 「いじめ」に関する記事は、「原左都子エッセイ集」教育・学校カテゴリーバックナンバーにおいて再三再四綴り公開してきている。


 私自身に関しては、子どもの頃から現在に至るまで、明瞭な“いじめられ”経験はないと言えそうだ。  
 もしかしたら、これは「いじめ」なのだろうか? あるいは、あの子(人)のあの言動は私を“いじめたい”とのメッセージだったのだろうか? 等々と思い起こすことはある。
 それでも、私には“いじめられ”経験はないと言い切れるのは、それらが後々トラウマになったり、それがために我が人生を歪められるほどのインパクトがない、取るに足りない出来事の位置付けであるからだ。


 片や、我が子が小さい頃の“いじめられ”ようには難儀した。
 何分、多少の事情を持って生まれて来ている。 集団内における“いじめ”ターゲット”としては持って来いであろうことは原左都子としては重々想定内だったものだ。

 案の定、私立幼稚園に入園直後3歳の頃より“いじめ”に遭った。 級友に「飼い犬」のごとく扱われたり、自分よりずっと体が小さい女の子(問題児だったようだが)より殴る蹴るのストレス感情はけ口対象にされたりと……
 それが入園前より想定内だった私は、我が子を幼稚園バスで集団登園をさせず日々送り迎えすることにより、園へ直接出向き状況観察をした。 何分、元々観察力や推測力に長けている私である。 周囲の子ども達のちょっとしたしぐさや言動を見聞きすれば、我が子の交友状況や置かれている立場がある程度理解可能だ。 発語が遅れ気味だった娘に言葉による説明責任を迫ったところで埒が明くはずもない。 母親自らが積極的に子どもを守るべく行動に出たということだ。
 2年間その状態で子どもの安全を見守ったものの、結局幼稚園との話し合いを通しても園内での“いじめ”は解決されないと結論付けた私は、「逃げる」 という結論を下した。
 要するに退園手続きをとったのである。 その後、転園先の私立幼稚園でも娘の居心地は芳しくなかったのは事実だが、これもある程度は想定していた私だ…

 その後、我が子が公立小学校に入学後は幼稚園の頃のようには送り迎えは出来ない。 それでも私は帰宅後の娘の状況観察を欠かさなかった。 いつもと異なる内外心身的素因を発見した場合はすぐに対応した。 何分まだ言葉少ない娘である。私の方から(もちろん優しく遊び感覚で)いろいろな問いかけをして状況把握をする日々だった。

 そんなある日、体育の授業もないのに帰宅直後の娘の着衣が乱れていた。 
 「今日は学校で何かお洋服を脱ぐことがあったのかな?」等と語りかける私に対して、当時6歳の娘の表情がとっさに硬直したのを私は見逃さなかった。(実は私は学校の日々のスケジュールもすべて把握していて、今現在娘が何の授業を受けているのかも手に取るように分かっていた。) 「今日学校でお洋服を脱いだの??」と問い詰める程に娘はますます口を閉ざす。 これは何かあった!と直感した私だ。
 早速、小学校の担任先生に問い合わせの電話をかけた。(参考のため、この担任先生とは娘の事情に関して入学直後より意思の疎通があり、先生側からも協力体制をとってくれていた。) 担任先生が即刻調査してくれたことによると、学校の放課後「学童保育」(当時私が医学関係の仕事に携わっていた関係で娘をそこに預けていた)のトイレ内で複数の学童保育児から洋服を脱がされるとの“いじめ”に遭ったとのことだ。 直ぐに学童保育現場の責任者からも謝罪が来た。 早期に原因究明が出来てよかったと言うことだが、私はその後即刻医学関係の仕事を短縮して、娘を「学童保育」施設より退所させた。(要するに「逃げた」) 
 学童保育現場の対応が素早かった事には今尚感謝している。 ただ一言「子供に可愛い格好をさせると、周囲からこの種の“いじめ”が発生してもやむを得ないのではないかとも思う…」との当時の女性学童長の“控え目な一言”が今でも印象深い…。 (いじめる方こそが真の弱者であるが、常に弱者保護観点の立場にある私もそうであろうことは認める。 それでも人の趣味・嗜好とは一生曲げられないものでもあるとも思い)“いじめ”現場である学童保育から即刻「逃げる」決断を私は下したのだ。

 その後娘は公立小学校内で進級するが、どうしても我が子に対する周囲児童からの各種「いじめ」行為は後を絶たない。 担任も若い世代の女性に代わり、娘にとってますます居心地が悪くなった事情等も踏まえ、我々一家はまたまた転居という手段で“いじめ”現場から「逃げる」との決断をした。
 転校先の公立小学校に於いても、まだまだ我が子は(物が無くなる、手提げ鞄を切られる等)“いじめ”らしき被害に遭うものの、少しずつ成長を遂げていた我が娘に私は「実害なければよし、としよう。」と言いつつ、娘もそれに耐えて無事に小学校を卒業してくれた。

 中高は私立に入学した後も娘が言うには“上履きの中に画鋲を入れられる”等のいじめに遭ったようだ。
 それでも無事に私立中高を卒業し、今では第一志望大学へ進学して学問に“苦しむ”事が可能な日々が訪れている。 


 滋賀県大津市の市立中学2年の男子生徒がいじめを受け、2011年10月に自殺した問題に関連して、現在種々の報道がなされている。
 この事件に関しては、当初男子生徒への“いじめ”の実態を否定した学校や教育委員会の対応の過ちが指摘された事により、遅ればせながら今頃になってその真相究明がなされていると私は解釈する。
 是非共その真相究明が公平に成されると共に、加害者責任を厳重に問い正すべきと原左都子も心得る。

 
 この事件に関連してか、現在朝日新聞紙面で「いじめ」に関する“見識者”達によるメッセージを朝刊で連載中のようだ。
 
 その中には原左都子に言わせてもらうと、いじめられている人物の“切羽詰った”状態を本気で理解できているのか?!? との拍子抜けのメッセージが数多く存在するのだ。
 上記朝日新聞記事より少し紹介しよう。

 「一度抵抗してみたら」と言うのは経済アナリストの森永卓郎氏。 氏の論評内容を読むと、抵抗できる程度の関係というのは単なる子ども同士の“喧嘩”の範疇であり、「いじめ」とは言えないのではあるまいか?

 モデルの押切もえ氏は「主役は自分 夢を持って」と言う。 ご自身も過去に於いて「なにちゃらちゃらした服着てんの」との「いじめ」を受けたとの事だが、その文言自体が現在モデルをやっている自己PRのようにも受け取れるのだけど。 そもそもいじめにより自殺を志している子どもに向かって「夢を持て」とは物凄く酷な表現だよ…

 次に、教育学者の斉藤孝氏。 「一人になって読書しよう」と氏は言うが、そんなことが可能になるのは自殺願望から一命を取りとめたずっと後のことであろう。 ただし、斉藤氏が「一人でもいきていくんだ」という独立心は小中学生にとって大切な事だと訴えているところには私も賛同する。

 そんな中、「友達作り苦手でいい」との表題で“いじめられている君へ”ご自身の見解を示した 社会学者 土井隆義氏の見解と原左都子の私論が一致する。

 
 我がエッセイの最後に上記土井氏のコラムを要約して紹介する事により、現在「いじめ」に遭って苦しんでいる君への原左都子からのメッセージとしよう。
 竜巻もいじめも、被害を避ける合理的な方法はまず逃げることだ。 私(土井氏)は大学でなぜ若い人が今の世の中で生きづらいのかを研究しているが、そこで思うのは「絆」や「つながり」が重視されすぎることだ。 親も先生も「人間関係」を大事にしろと言うが、私はそれを「つながり過剰症候群」と呼んでいる。 過去に創造的な仕事をした人の多くは、孤独を抱えていた。人と違うから創造的な仕事ができるのだ。 人間関係は偶然の産物。学校の学級なんて貴方の意思とは無関係に作られている。 級友との関係にこだわる必要はない。 今学校での友達づくりが苦手でも、まったく気にする必要はない。

 社会学者の土井隆義先生、素晴らしいアドバイスをありがとうございます!
 原左都子の我が子に対する“いじめ”の対策も結局は「逃げる」(すなわち娘を取り巻く環境をガラリと変えてやる)事だったが、それが功を奏して今現在娘なりに立派な大学生として成長を遂げている。
 
 今現在“いじめ”に遭っている若年層の方々。 ここはその場から何が何でも今すぐ「逃げ切る」ことを一番にお勧めしたいものだ。  

大学「秋入学」、今さら“及び腰”の腰砕け

2012年07月23日 | 時事論評
 最初にお断りしておくが、原左都子は今年1月に東大が提案した我が国の大学「秋入学」移行への動向に関して“反対”の立場である。

 本エッセイ集2012年1月バックナンバー 「『秋入学』が本当にグローバルなのか??」 に於いて、既に我が反対意向の論評を展開している。


 今回のエッセイを綴るに先立ち、冒頭より上記「原左都子エッセイ集」バックナンバーを要約して振り返らせていただくことにしよう。

 本年1月に東大が突如として言い出した学校の「秋入学(9月新年度制)」への移行に関しては、何もこんな時に東大が言い出さずとても教育界にずっと以前より存在していた議論である。 その趣旨とは、欧米諸国の学校と足並みを揃えようとの意図であったと原左都子は認識している。
 早ければ5年後にすべての学部を「秋入学」制へ移行したい東大の趣旨とは、海外からの東大への留学生、及び東大生の海外への留学に対応するのが第一義との報道である。 ただし、東大だけが5年後に「秋入学」制へ移行したところで社会全体の整合性が成り立つ訳がない事はさすがに東大も認識している様子で、政界や産業界、他大学をも含めて社会全体を巻き込んだ議論に発展させるべく魂胆で現在東大は動いているようだ。 
 ところが世を見渡すと世界規模で政治経済危機状態、そして昨年国内に勃発した大震災も今尚その復興がままならない状況下にある。  このように世界も国内も大混乱状態の時期に、何故東大は 「秋入学」 などという(原左都子に言わせてもらうと)“二の次”にするべき議論を持ち出して世間を騒がせたかったのだろうか??
 東大の言い分とは、日本の大学生の海外への留学は近年減る傾向にあるが、海外留学を希望する学生は数多いのに対して実際に留学した学生は1割未満。 その理由は就活や留年の心配が大きい事にあるため、「秋入学」によりこれを解消して留学を増やし国際感覚を育みたい、との事のようだ。 片や、海外からの留学生も減少の一途であるが、これは中韓などの主要大学に遅れを取るものらしい。 世界大学ランキングで東大の格付けも高くなく、東大が世界に選ばれる大学になりたいとの狙いもある、との事だ。
 私論であるが、そんなくだらない見栄、体裁の理由で日本の“一大学に過ぎない東大”が突然提唱した「9月新年度制」を、倒壊寸前の民主党政権も賛同しているからと言って、大幅な社会システムの移行をこの世界的政治経済危機の時期に強制され更に国民が混乱させられる事態など避けたいものである。
 原左都子に言わせてもらうと、現在東京大学の世界ランキングが低いのは東大自らの“自己責任範疇の問題”に過ぎないはずだ。 「秋入学」に依存する前に、大学として自助努力に全力を挙げることから東大はスタートし直すべきではないのか?? 
 東大から諸外国へ留学したい意思ある学生(あるいは海外からの留学生)の中には、もちろん本気で世界最高レベルの科学や学問を志し、今後世界の最先端を目指そうとする学生も存在することであろう。 それら学生の意向に応えるためには、「秋入学」という小手先の“制度いじり”に依存するのではなく、送り出す側も迎える側も是非共“学問力”を持って答えて欲しいものだ。 
 「秋入学」が実行可能な国内情勢に程遠い現在に於いて、今回の東大の「秋入学」制度導入意向は明らかにその時期を誤っている。 
 そもそも学校の新年度など、いつ始まろうが原左都子にとってさほどの困惑はないのも事実だ。
 今回のエッセイの最後に紹介すると、諸外国の企業はいつ何時でも有能な職員を採用しているようで、日本のような「4月新卒者一斉採用」という“一種特異的慣習”など無いという話でもある。 この本来の“実力主義”が日本社会全体で模倣できてこそ、東大も含めた日本の学校もやっと「9月新年度制」に真に移行できるということではないのか?
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバー「『秋入学』が本当にグローバルなのか??」より要約引用)

 バックナンバー引用が長引いてしまったが、今回学校「秋入学」に関する続報記事を綴るに当たり、我が見解を再度ご確認頂く意味で長々と紹介させていただいた。


 さてさて、いよいよ本日の記事の本題に入るが、朝日新聞7月17日報道によるとこの「秋入学」に関して国内の多くの大学が戸惑い“及び腰”の現状とのことだ。
 まさか、言いだしっぺの東大は「秋入学」に向かって猛進しているのかと思いきや…
 その東大内ですら学内にも異論があり意見をまとめ切れていないらしい。
 東大の全面「秋入学移行案」提案及び主導者である総長の浜田純一氏は、旧帝大や慶応等全国11大学に協議を呼びかけ、全面移行への課題を検討する協議会を5月に設置したとの事だ。 ところがその会議は発足後1回しか開催されておらず、議論はまったく進んでいないらしい…  東大からお声が掛かった11大学のスタンスもまちまちで、「移行を前提に検討中」と答えたのは北海道大学のみとのこと、京都大学は「検討していない」としているとの報道だ。(以上、朝日新聞記事より引用)

 ここで一旦私論を述べよう。

 これがもしも民間企業のプロジェクト事業であったならば、事業提案・主導者の浜田氏は即「左遷」、最悪の場合「首」となること間違いない。 
 「一大プロジェクト」の発足発表により世間を大いに巻き込み騒がせておきながら、現在までプロジェクト会議をたったの1度しか開催していない現状…  しかも、その提案に対し真摯に検討している大学も存在する中、主導者である東大総長は現在一体何を考えているのかも理解できない現状の様子だ。
 事業提案・主導者こそが強い意思と綿密な計画性をもって本気で動かない限り、一大プロジェクトの成就など見込めないのが世の現実であろう。

 片や一般社会に目をやると、今回の東大よりの「秋入学」提案により一番の迷惑を被っているのは、その全面移行の過渡期となる5年程先に大学を受験する生徒達であろう。 特に東大等(いわゆる)難関大学を目指している生徒達とは、もう既にその受験準備を進めているはずだ。 そんな生徒(及び保護者)にとって「秋入学」が5年後に決行されるとなると、その実態が全面的に我が身に降りかかる運命となろう。 受験準備でさえ大変なのに、「秋入学」移行準備まで背負って立たされる受験生及び保護者の苦悩・負担を考慮し、そのご苦労の程を偲んでいた原左都子でもある。 


 最後に原左都子の結論を述べるならば、本年1月に東大総長であられる浜田氏が提案・主導した5年後「秋入学」制度導入案は“計画倒れ”と表現するしかない。
 ここは東大を目指す受験生の存在等を勘案して早期に一旦その失態を認め、浜田氏は世間を“お騒がせ”した事態に対して国民の前で頭を下げ釈明する事をお勧めしたい。

 そして、今後東大総長氏がやはりどうしても「秋入学」制移行を目指したいご意向であるならば、その制度樹立のためには政界、経済界、教育界等日本国中のシステムすべてを巻き込まねばならないことを再度重々視野に入れつつ、綿密な計画性と事前調査・準備の下に制度導入を図り直すべきである。

自分の“負け”を認める美学

2012年07月21日 | 時事論評
 元タレント、弁護士であり前大阪府知事、そして現職は大阪市長である橋下徹氏。
 「大阪維新の会」代表でもあるこの人物を知らない日本人は存在しないであろう。

 民主党政権が消費税増税問題をきっかけに分裂状態に陥り政権続行に陰りが見えている現在、1969年生まれ43歳の未だ“青年”とも表現できそうな橋下氏との連結を目指し、“ラブコール”を送る著名政治家は各方面より数多い。 
 例えば東京都知事の石原慎太郎氏も然りであるが、先だって民主党を離党した小沢一郎氏までが橋下氏に対し、政治方針に共通項が多いナンタラカンタラ…と“上目遣い”の有様なのには驚いた。(こいつと結託すると票が取れると目論んだら、ベテラン政治家としてのプライドもへったくれもぶっ飛んでしまうもんなんだねえ~~)


 橋下氏は地方自治体の首長の経験しかないこともあり、原左都子としてはこの人物の政治家としての全貌が未だ摑み切れず、国民が騒ぐ程にはその真価の程が評価できないでいる。

 一方、橋下氏が自己PR力に長けていることはよく理解できる。 大阪府知事選挙及び大阪市長選に於いて市民より大量得票を得て当選をゲットできたのも、普段よりの自己PRの派手さによるものと理解している。

 橋下氏のその辺の“自己PRの派手さ”に関して、少し古くなるが朝日新聞6月7日付記事において、同社社会社説担当の前田史朗氏が絶妙な表現をされているため、以下にその一部を紹介しよう。
 「敵をつくって注目を集める『橋下劇場』」 「押すところは押す、引くところは引く。変わり身の早さは彼らしい戦術」  (それらの戦術を使い分けつつ)橋下氏はこれまで既成観念にとらわれない施策を次々と打ち出してきた。 教育委員会改革や公務員の政治活動規制、労働組合の事務所撤回…。 局面局面での軋轢を生みながらも、多くの市民の支持を得てきた。
 (以上、朝日新聞記事より引用)

 まさに朝日新聞 前田氏のご指摘通りだ。 
 さすが元タレントの橋下氏。 “「橋下劇場」戦術”による自己PR力には凄まじいものがある。

 ところがこの橋下氏にして(自らが座長の)「橋下劇場」の舞台から降り、初めて政治家としての 「負け」 を認めたのが“大飯原発再稼働”をめぐる「民主党政権打倒宣言撤退」事件だったのではあるまいか。
 関西電力大飯原発再稼働に強く反対してきたはずの橋下氏が、一転して容認へと立場を変えた事態には、原発再稼働反対派の原左都子も愕然として大いに失望させられたものだ。
 この“態度の豹変”に関し橋下氏は、「報道陣に大飯原発再稼働を事実上容認した事について、『正直、負けたと言われてもしかたない。』 反対し続けられなかったことは反省する」との表明をしているようだ。
 この報道に接した私は、強気一直線だった橋下氏が政治家になって初めて「自分の“負け”を認めた」と解釈し、少し人間味を感じたものである。


 さてさて、その橋下徹氏が“ろくでもない事象”でメディアに捕まってしまったらしい。

 何でも大阪府知事選前の“不倫騒動”が今頃になってメディア上に浮上している事態のようだ。
 ネット上で見つけたそれに関する文書を以下に要約して紹介しよう。
 クリントン元米大統領が、ホワイトハウスのインターン女性との関係を公に認めるまでには数カ月かかった。 この出来事は一大スキャンダルに発展しクリントン氏は大統領の職を危うく失いかけた。 
 一方、橋下徹・大阪市長は世論調査で日本の次期首相に「最もふさわしい人物」とされている人物であるが、氏はすぐさま問題に真正面から向き合った。 橋下氏と大阪のクラブホステスの不倫を報じたスクープが掲載されるとのうわさがかけめぐると、すかさず橋本氏は7月18日に記者会見を開き2人の関係について率直に語り、政治の世界に入る前は「聖人君子」のような生き方はしていなかったと説明した。 氏はまずは妻と話す必要があるとし、「公人だから説明しなければならないが、知事になる前の話であり、今どこまでそれを言わなくてはならないのか考えたい」と述べた。 大阪市役所で会見を行った橋下氏は、妻は既に記事を読んだとし、「妻は本当に普通の主婦だから。正直ほんとに大変な状況だ」「ものすごいペナルティーが家で待っている」と7人の子を持つ父親でもある橋下氏は、暑さに汗をかきながら語った。 現時点では、このスキャンダルが橋下氏の人気や政治的野心に影響するかどうかは不明だ。 同氏は道徳的問題に対する強硬姿勢で知られており、最近も入れ墨のある市職員の取り締まりを命じている。また今年初めには学校行事での国歌斉唱時に教職員の起立斉唱を義務付ける条例を市議会に提案し、可決させている。
 (以上、橋下氏の“不倫騒動”に関するネット情報の一部を引用)


 いやはや、“天下”の橋下氏もひょんなことで大変な目に遭っていそうだなあ。

 何分、冒頭に記した通り橋下氏とはその人気の高まりに目をつけられ、政界リーダーらは将来的な支援獲得に向けその人気を利用しようと躍起になっている事態だ。 産経新聞が最近行った世論調査では、近く衆院選が行われた場合、橋下氏率いる「大阪維新の会」が国政で影響力を持つような議席を獲得することに期待すると答えた人は60,5%に上った、との上記ネット報道でもある。

 原左都子として一つだけ救われるのは、橋下氏が今回の「不倫報道」に於いても自らの「負け」を認めた事と思いたい。
 米国のクリントン元大統領のごとく、奥方であるクリントン夫人が実質的実力者だったような場合、たとえ不倫騒動が勃発しようがその政治生命は奥方が引き継ぐ事も可能であろう。
 ところが橋下氏の場合、今まで奥方に関する噂を聞いた事もない。 如何なる人物かは心得ないが、橋下氏過去の“不倫騒動”が公になったことによる奥方の打撃は計り知れないものがありそうだ。 しかも、子どもが7人??? これも驚きである。

 不倫ねえ…。
 そういう事態が発生するのは世の常かとほんの少しだけ考察する私でもあるが、政治家等人民の上に立つ事を志す人間とは、自分の生き様において慎重の上にも慎重を重ねる人生を歩むべきであろう。

 現在一世を風靡しているとも捉えられる橋下氏にとって、過去の“不倫”の発覚とは人生最大の失策だったのではあるまいか?
 さて人間の基盤である身内の信頼を失った橋下氏は、今後如何なる再出発を企てるのだろう?

 美学が美学として通用するためには、人間関係上の最低限の礼儀が必須であることを、(原左都子の視点からは)未だ“青年”の橋下氏は遅ればせながらも認識するべきである。