原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

セックスレスで枯れ果てる前に…

2009年12月30日 | 恋愛・男女関係
 本年最後を締めくくる記事として到底相応しいとは思えない意表を突くテーマであるのだが、先だって新聞で見た表題のごとくの読者の相談内容がどうも脳裏から離れない私である。


 それでは早速、朝日新聞12月26日別刷「be」“悩みのるつぼ”に掲載された35歳主婦による「セックスレスで枯れそうです」と題する相談を以下に要約して紹介しよう。
 結婚11年、二人の子どものいる主婦であるが、45歳の夫に「(セックスレスのまま)現状維持で父母でいよう」と言われた。 そもそも20代で娘を産んだ後からセックスレスだった。夫は子どもは一人でいいと言い、何も知らない義母には「兄弟が欲しい」と言われ私に原因があるように思われ悩んだ。そこを何とか夫を説得して息子を産んだ。 以前、ある作家が男女関係で大事なものとして「トキメキ」「性欲」「親睦」のうち二つあれば良好である、と書いていた。私には皆無であり、相手との将来展望も考えられない。 一方で、夫は離婚してもいいと言うが、生活面が比較的安定しているし子どもや家庭も大事だし、趣味も堪能できるのでその環境は大事にしていきたい。 心では「私は母」と思っても心は乱れる。わびしさを捨てることは出来ない。人はこうして枯れていくのだろうか?


 早速私論に入ろう。

 この相談、今まで読んできた“悩みのるつぼ”の相談の中で一番「重く」て「辛い」のではないかと私は心を痛めるのだ。
 なぜならばこの主婦は未だ35歳の若さ! しかも、子どもを産んだ後の20代から既にセックスレスとは…  驚くばかりであるが、今の時代はそういうものなのであろうか??  これが例えば50代、60代以降の主婦の相談であるのならば、また意味合いも大きく違ってくるのであろうが…
 しかもその若さであるのならば、妻に対する性的欲求を既に失い離婚してもいいと豪語している亭主などとっとと切り捨てて、子どもを連れてでも離婚して女としての新たな幸せを求めてもよさそうなものである。 それなのに、内面から湧き出る性的欲求を抑えつつ、現状に妥協しようとして健気にも自己の心理操作を試みているところがこれまた辛い。
 相談の主婦曰く、生活面が安定している、子どもや家庭が大事、趣味も堪能できる、…… 。
 それらを天秤にかけた場合、セックスレスの現状の方が重いからこそ、この主婦はこのような相談を新聞に寄せているのであろう。

 ここで私事を述べても何の参考にもならないのは承知の上であるが、私は40歳近くまで我が信条に従って独身を貫いてきている。 その信条とは、仕事や自分自身の生きがいの充実等々多々あるのだが、正直に言うと「恋愛」の充実というのもその大きな理由の一つであった。 
 「恋愛」とは生命体における究極で最高の人間同士のつながりなのではないかと私は実感してきている。 その究極の快楽をできるだけ長く享受し続けたいがために、法的にそれが許される「独身」というスタンスを貫きたいとの心理があったのも、我が長き独身を全うしてきた包み隠さぬ理由でもある。

 この主婦が相談内に引用している、ある作家による男女関係で大事なものの三種の神器、「トキメキ」「性欲」「親睦」の中の二つあれば関係が良好である、との記述とは、双方の恋愛関係が育まれてきた後にある程度年数が経過したカップルに通用する神器なのではなかろうか?
 極端な場合、長年連れ添っている多くの夫婦の場合、「トキメキ」「性欲」は既に消え失せ、たとえ「親睦」のみが残っていたとしても、それが一つの神器として十分に夫婦関係が持続できるのかもしれないと私は考察するのだ。
 ところが、わずか30代の主婦がこの三種の神器を持ち出してまで、セックスレス妻である現状を正当化しようとしていることが何ともやるせない。 この相談者の場合は夫婦関係が既に崩壊していると結論付けざるを得ないと私論は捉える。


 それでは、この主婦は今後如何なる選択をすればよいのか?
 その答えは、社会学者の上野千鶴子氏がこの相談において述べておられる回答の一部を以下に紹介しよう。
 結婚の契約からセックスをはずしてもらうよう夫に交渉しよう。 夫婦関係にはセックスに応じる義務が含まれているため(この相談者の関係は)既に“ルール違反”である。  だが、普通こういう相談とは「トキメキ」の相手が現れて初めて現実的になるものであり、おそらくこの主婦は「トキメキ」や「性欲」の経験にのめり込んだ経験がないのであろう。
 「トキメキ」や「性欲」とは確かに人生の醍醐味であるが、そのコストは高く付く。 その覚悟がこの主婦にあるのなら、今から人生を味わい尽くそうと思っても決して遅くない。

 「トキメキ」や「性欲」を堪能し続けたいのであれば、一生独身を通し続けられる程の強靭な精神力や経済力を培ってからにした方が良さそうだと、長い独身時代を謳歌してきた私も結論付けるのである。
 その一方で、「親睦」とは一生持続したい人間関係の基本であることも実感である。   
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いい年でしたか?

2009年12月28日 | 自己実現
 朝日新聞12月26日(土)別刷 「be」 “between” の本年最後のテーマは 「今年はいい年だった?」 であった。

 以外や以外、その回答において 「はい」が54% 「いいえ」が46%と、いい年だったと回答した読者が過半数を占めている。
 お~~、そうか。

 政権交代して100余日が経過した今尚、世界的大不況の経済情勢は世の人々の暮らしを直撃したまま、デフレ不況の回復に明るい兆しはまったく見えない。
 そんな“お先まっくら”かと思われた今年、「いい年だった」と答える人々が過半数を占めたことに、国民感情として予想外である方々も多いのではなかろうか。
 そこでとりあえずは、「いい年だった」「そうではなかった」それぞれの回答の背後事情を少し探ってみることにしよう。

 今回の朝日新聞の調査での「いい年だった」との回答の理由のトップには「趣味、交友、娯楽など生活面」での満足感が挙げられている。 次点には「子どもの誕生など家族関係」、そして「病気回復、メタボ解消など健康面」と続く。 どうやら、個人生活の充実ぶりが人々に“いい年感”をもたらしているようだ。

 片や「そうではなかった」との回答の理由のトップには「政治、経済など世相全般」とあり、次点が「失職、降格、減給など仕事」、続いて「病気、ダイエット失敗など健康面」とある。 いい年でなかった人々にとっては、やはり経済不況の直撃が前面に出ているようである。 病気も辛いしね…。(ダイエット失敗に関しては、それ以前の問題としてご自身の健康管理に日頃より留意してね、と個人的には申し上げたいのだが…)

 ついでに、この朝日新聞記事における 「来年は今年よりよくなる?」 との設問には、62%が「なる」との回答である。 
 ほーー!   皆さんこの不況下において意外と楽観的でいらっしゃるようだ。
 何が良くなるのかの圧倒的1位が「自分や家族」との回答であるところを推察するに、やはり個人生活の充実がその楽観感の根源であるようだ。
 片や「今年よりよくならない」回答の理由の圧倒的1位は「経済情勢」とのことである。


 私論に入ろう。

 今回の朝日新聞読者アンケート結果を考察する限り、世の人々が心の拠り所を何に求めているのかと言えば、それはやはり“個人生活の充実”に尽きるのであろう。 自分の生活に手短かな現象においてそれがたとえ些細な出来事であれ満足感がもたらされたならば、人々に「幸せ感」が生じるのであろうと推測する。

 一方で「今年はいい年ではなかった」とする回答者が、その因果を「政治、経済など世相全般」に理由付ける人が圧倒的多数であることも、マイナスの意味で興味深い心理状態である。
 厳しい考察をすると、“自分がいい年ではなかったことは、政治や経済など自分を取り巻く周辺環境が悪いのであり、これさえ改善されれば自分だって幸せに生きられるのに…” との“他力本願”的背後思想が読み取れてしまい、ちょっと辛い気分にもさせられる。

 結局は、いい年だった人もそうではなかった人も皆、“我が身息災”的思想を抜け出せていないところに人間の性(さが)の貧弱な本髄を見る思いであり、興味深くもある。


 そういうお前はどうなのか? と責められそうであるが、まさにこの原左都子とて“我が身息災”なこと、この上ない。
 私事を述べると、私の場合(情緒不安定たった思春期を別にしたら)基本的に毎年「いい年」の連続の人生であると豪語させていただこう。 
 その理由の第一は、様々な社会現象に問題意識を持ち続けられる感性を長年失わない人生を歩めていること、そんな自己への周囲からの反応に対しても繊細な感受性を維持しつつ臨機応変に対応していきたい意欲を持続できていること…  すなわち、社会的存在の一員としての観点を失うことなく生き延びたいエネルギーを、今尚我が心身に内在していると言い切れる自負があるためである。
 (この「原左都子エッセイ集」も、そんな私の生き様の一部を物語りつつ、それを表出する一つの手段であります。)


 (出来ましたら本年中に後もう一記事を綴りたいと考えておりますが、それが叶わぬ場合に備えて、ここで皆様に御礼を述べさせていただきたく存じます。) 
 本年も「原左都子エッセイ集」にご訪問下さった皆様、そしてコメント欄等で我が拙いブログを力強く支えて下さった皆様に心より感謝致します。
           
 皆様にとりまして今年がよき年であられ、来たるべく来年がさらにすばらしい年となられますことを祈願申し上げます!!                      
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クラシカルな夕べ

2009年12月26日 | 芸術
 前回の記事 「『踊り子』考」 の続編版になるが、12月20日に東京国際フォーラムにて観賞したレニングラード国立バレエの「くるみ割人形」の印象は、一言で表現すると「シンプル」だった。


 主役のマーシャ(「くるみ…」バレエ公演においては“クララ”の名の方が一般的であるが、原作によるとクララとは主人公が両親からプレゼントされる人形の名であり、主役の正式名称は“マーシャ”であるようだ。)には、サビーナ・ヤパーロワ氏、そして王子にはアンドレイ・ヤフニューク氏、という配役での舞台だった。 両人とも2007、8年のレニングラード国立バレエ冬公演から登場している新鋭である。

 マーシャ役のヤパーロワ氏は今時珍しいとも言える小柄なソリストであるが、その小柄な体型を活かした可憐でリズミカルな動きが魅力的な女性ダンサーである。 第2幕におけるグラン・パ・ド・ドゥで王子と演じたリフト(男性ダンサーが女性ダンサーを高く持ち上げての演技)でのダイナミックさは小柄ならではの技術力であろう。

 王子役のヤフニューク氏は王子にふさわしく長身でナイスバディである。 ただ、今回の演出では”風変わりなウィッグ”をつけての王子だったのが私には不自然に感じられた。 もちろんバレエ公演においても“ウィッグ”での演出も多用されるのだが、若きヤフニューク氏の爽やかで甘いマスクを活かすには、地毛での王子の方が自然体で魅力的だったのではないか… と思われ少し残念である。

 今回のレニングラード公演の真の主役は、実はくるみ割人形役のデニス・トルマチョフ氏であったのかもしれない。
 私が今まで観賞した限り、国内バレエ団の「くるみ割人形」公演において、“くるみ割人形”はすべて「人形」を使用している。 ところが、今回のレニングラード版は生身の男性ダンサーであるトルマチョフ氏が“くるみ割人形”を演じ切ったのである。 (このトルマチョフ氏に関しては、第一幕の見せ場とも言える「黒んぼ人形の踊り」もこなし、第二幕でも大活躍している。)
 この流れは、同じロシアのボリショイバレエに源があるのかもしれない。 我が家が所有している1989年版のイワーノフ氏振付けによるボリショイバレエ公演DVDにおいても、くるみ割人形は男性ダンサーが演じ抜いている。(今回の公演後、娘にその旨指摘されて気付いたのだが)  やはり“くるみ割人形”も生身の男性ダンサーが演じた方が主人公マーシャとの機微な心の触れ合いや情感が描けること間違いない。 そのためには「人形」役がこなせるべく低身長で芸達者な男性ダンサーをバレエ団が抱えている必要もあろう。


 海外のバレエ団の特徴は、何と言っても男性ダンサーの層の厚さにあろう。
 日本国内のバレエ団の場合、圧倒的に女性ダンサーが多く男性ダンサーが心もとないところが残念でもある。 そこでやむを得ず男性役を女性ダンサーが肩代わりしている公演が多い。
 国内バレエ団がそのような事情を抱えているとは言え、何年来に渡って「くるみ割人形」を観賞してきた私が一番推奨するのは、実は国内の“松山バレエ団”による舞台である。
 日本国内のバレエ団においては、上記のごとく残念ながらクラシックバレエ男性ダンサーが希薄であるため、男性役を女性が演じることが多いのが実情である。 “松山バレエ団”においてもその例外ではなく、男性役を女性が演じる場面も少なくはない。 如何に演出力でカバーして尚且つ男性らしい衣裳を調えようとも、しなやかな女性の身体が男性を表現し得るすべはないのは観ていて苦しい思いが拭えないのが事実だ。
 バレエとは人間の身体を表現手段とする芸術表現であるが故に、やはり男性の役は男性の身体を駆使した踊りを堪能したいものである。


 その上で、かの有名なKカンパニーの熊川哲也氏も述べておられるが、バレエとはまさに氏がおっしゃる通り「総合芸術」の世界である。 
 そういう意味では、日本国内のバレエ団が展開する舞台はもしかしたら先端技術力で世界でも飛び抜けているのではなかろうか。 我が国が誇る先端科学や芸術力の成せる技と推測するのだが、とにかく「踊り」「音楽」「脚本」「衣裳」「舞台装置」、それらすべてのコラボレーション力による“総合芸術”のすばらしい舞台が国内バレエ団公演において展開されるのである。 (それと対比して、今回のレニングラードバレエは“シンプル”な舞台との印象を持つのだ。)

 それに加えるが、私が“松山バレエ団”を一押しするのにはもう一つ理由がある。
 実は私が「くるみ割人形」において一番のお気に入りの場面は、第一幕最後の「雪の精の踊り」である。 あの研ぎ澄まされた女性コールドバレエの神髄の場面で、松山バレエ団の女性コールドは身長、手足の細さ長さがすべて揃った上での一糸乱れぬ完璧なまでの技術力、表現力なのである。しかも総勢32名! (今回のレニングラードの「雪の精」女性コールドは24名、加えて世界的バレエ団にしてコールド女性ダンサーの体型が何故に揃っていなかったのかが私にはどうも気にかかるのだ…)
 女性コールドバレエダンサーを完璧に揃えられるバレエ団が国内に存在するだけでも、高度な芸術力を保てる力量がこの国内に存在する証明であることに私は感動するのである。


 いや~~。芸術とは実に厳しい世界であるよねえ。
 せめて体型だけでもバレリーナのごとく芸術的でありたいと思い続け、その維持への私なりの努力を今尚続けているのだけどね…
                 
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「踊り子」考

2009年12月23日 | 音楽
 この年末は、私の趣味の一つである「バレエ観賞」を2本、立て続けに楽しめることとなった。

 そのうちの1本は、我が娘が幼少の頃よりの我が家における年末恒例行事である「くるみ割人形」観賞なのだが、今年はレニングラード国立バレエ「ミハイロフスキー劇場」版を選んで、東京国際フォーラム公演の座席を予約した。(20日に既に観賞済)
 そして、もう1本は地元の小バレエ団による「コッペリア」である。 「コッペリア」はバレエを習っていた我が娘の古典全幕ものの舞台デビュー作品であるのだが、近くの劇場で公演があるのを発見したため、今週末に娘と共に出かけることにしている。


 ここで突然話を歌謡曲に移すが、私の知る限り「踊り子」と題する歌謡曲が2曲存在する。
 その一曲はフォーリーブスが踊って歌った「踊り子」であり、もう一曲は今は亡きシンガーソングライターの村下孝蔵氏による「踊り子」である。
 両者共に、なかなかの秀作と私は評している。

 それら「踊り子」の歌詞の一部をかいつまんで、以下に紹介してみよう。
 
 まずは、フォーリーブスが歌って踊った阿久悠作詞の「踊り子」から。
  ♪私は踊り子よ ふるまいのお酒にも気軽く酔うような 浮き草の踊り子
   愛してくれるのはうれしいと思うけど あなたはうぶなのよ 何一つ知らない
   このまま別れていきましょう 短い恋と割り切って
   港の酒場ではらんちきの大騒ぎ あなたもあの中で酔いどれておいでよ
   私は踊り子よ うらぶれた灯の下で踊っていることが大好きな踊り子
   ほんとは少しだけまごころに打たれたわ けれどもあなたとは暮らしてはゆけない…

 続いて、村下孝蔵作詞の「踊り子」。
  ♪答を出さずにいつまでも暮らせない
   つま先で立ったまま 君を愛してきた
   踊り出すくるくると 軽いめまいの後 写真をバラまいたように心が乱れる
   拍子のとれている愛だから 隠し合い ボロボロの台詞だけ語り合う君が続き
   坂道をかける子ども達のようだった 倒れそうなまま二人走っていたね
   つま先で立ったまま 僕を愛してきた
   狭い舞台の上で ふらつく踊り子
   愛してる 愛せない 言葉を変えながら
   かけひきだけの愛は 見えなくなってゆく…
   つま先で立ったまま 二人愛してきた
   狭い舞台の上で ふらつく踊り子
   若過ぎた それだけがすべての答だと
   涙をこらえたまま つま先立ちの恋…


 同じ題名の「踊り子」でも、前者は旅芸人の「踊り子」との恋を描いたものである。 川端康成の「伊豆の踊り子」における出逢いを彷彿とさせ、また一方で酒場の“舞妓、芸奴”や“ストリッパー”等にも思いが及びそうな、はかなき“浮き草”の恋物語である。

 片や、後者はクラシックバレエのトーシューズで踊る女性ダンサーの「踊り子」をイメージしつつ悲恋を語った歌であろう。 トーシューズを履いて踊るバレエの「踊り子」と若かりし恋との“不安定感”を交錯させつつ、切ない恋物語が崩れそうに綴られている。 


 「踊り子」にはその踊りのジャンルを問わず、共通項が存在するように私は捉える。
 あらゆる芸術の中でも、自らの「身体」を表現手段としてその芸なり技なり美を訴える芸術は「踊り」しかないのではあるまいか。 (「声楽」もその一種であろうが。)
 
 私事になるが、我が家の娘は幼少時よりクラシックバレエを習ってきている。 小学校高学年にさしかかった頃に、初めて“トーシューズ”を履かせてもらえた時には、一家でお祝いをして喜んだものである。 (「つま先立ち」などという不自然な体型を強要することが、我が子の身体的成長に悪影響を及ぼさないのか??) などという親ならではの懸念も頭の片隅に無きにしもあらずだったのだが、それよりも (これで我が子も子どもから娘として成長できる) がごとくの一種の通過儀式のような感覚が、親の私にも初めて手にしたトーシューズに感じ取れたものだ。

 一方で、私が今現在スポーツジムで楽しんでいるヒップホップやエアロビクスというのは、クラシックバレエとはまったく異なるジャンルの「踊り」である。 “コンテンポラリーバレエ”と名の付く、クラシックバレエから発展したそれに近いバレエが存在するが、その後庶民の間で発生したと思われる上記のヒップホップ等までも含めて、それらの共通点は“トーシューズ”を履かないことにあろう。

 特に私が今現在勤しんでいる「ヒップホップ」など、例えば“猫背”状態で踊ったり、“つま先”よりも“かかと”が中心の踊りと言えそうだ。 (それ以前の問題として、バックの音楽が踊りのジャンルによってすべて異なるのは皆さんもご承知の通りであろうが)
 これはこれで十分に整合性があると捉えて、現在「ヒップホップ」を大いに楽しむ私である。 生活に密着している、と表現すればよいのだろうか? むしろ、歳を重ねた人間にとっては、“猫背”のままで踊っていいと言ってもらえた方が開放感があって自然体で踊れそうなのである。
 要するに“現代舞踊”とは、観賞する「踊り」から自分が楽しむ「踊り」へと変遷の道程を歩んでいるようにも捉えられる。 皆が自分自身で「踊り子」を演じてこその快感享受の時代なのであろう。

 話を戻して「クラシックバレエ」観賞の魅力とは、やはり女性の「踊り子」が“つま先立ち”のトーシューズで踊る研ぎ澄まされた“繊細さ”が醍醐味であるように私は思う。 あの“つま先立ち”の緊張感こそが何百年に及ぶバレエの伝統であり、クラシック音楽とマッチして後世に伝えられるべく正統な芸術なのではなかろうか。


 それにしても「恋」とは、いつの世も、老若を問わず、繊細で不安定ではかなくて“つま先立ち”の存在であるように思えるよね……
                 
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宮内庁長官に「辞任しろ」とは言語道断!

2009年12月16日 | 時事論評
 12月14日に来日した中国国家副主席と天皇陛下との会見が、鳩山首相の強い要望により慣例に反して決定され、昨日(12月15日)実施された。


 この会見の問題点は、天皇陛下の外国の要人との会見は1ヶ月前までに打診する、という慣例の“1ヶ月ルール”を新政権が破ったことにある。

 羽毛田宮内庁長官は新政権のルール違反に対し、「相手国の大小や政治的重要性によって例外を認めることは、天皇の中立・公平性に疑問を招き、天皇の政治利用につながりかねない」との懸念を表明している。

 この宮内庁長官の発言に対し、民主党の小沢一郎幹事長は「天皇陛下の行為は内閣の助言と承認で行われるのが日本国憲法の理念だ」と反論し、「内閣の一部局の一役人が内閣の方針についてどうだこうだ言うのは、憲法の理念、民主主義を理解していない。反対ならば辞表を提出した後に言うべきだ。」と批判した。

 上記小沢氏の批判を受け、宮内庁長官は「憲法のひとつの精神として、陛下は政治的に中立でなくてはならない。そのことに心を砕くのも私の役回りだ」として“1ヶ月ルール”での対応の重要性を指摘した上で、「辞めるつもりはない」と辞任を否定している。
 
 今回の「天皇特例会見」に対しては、鳩山首相や小沢氏が「まったく問題ない」と強気を貫き「天皇の政治利用」を一貫して否定しているのに対して、野党はもちろんのこと政権内からも反発や異論、批判が相次いでいる。
 自民党からは、「首相が国益ではなく、自分たちの利益のためにルールを破った。天皇陛下を政治利用したと断じざるを得ない。」 「憲法の運用の中でも天皇と政治の関係は極めてデリケートなものだ。天皇の国事行為は極めて限定されている。日本の政治のデリケートな部分に対して権力を如何に行使するかという方向感が新政権はめちゃくちゃだ」 「皇室のルールを簡単に変えてはならない」等々の反発が渦巻いている。
 これら批判に対して鳩山首相は「“1ヶ月ルール”を杓子定規に考えるより、本当に大事な方であればお会いになっていただく。判断は間違っていない」と述べ、会見には何ら問題がないとの認識を貫いている。

 政権内からも今回の会見を疑問視する意見が上がっている。「今回だけは例外という対応にした方がいい」「今からでも会見をやめられるのであれば、やめた方がいい。天皇陛下にこういう形で要請したことは、党内でもかなり遺憾の思いがある」…
 一方鳩山首相は、「宮内庁長官が官房長官とのやりとりを記者に発表する事自体が異常だ。役人がすべてを取り仕切ると言う悪しき慣習が残っているのは残念だ」と矛先を宮内庁に向けている。 片や小沢氏は「天皇も今回の会見を望むはずだ」と天皇の意思を与党幹部が代弁し、内閣の行為を正当化するに至っている。

 (以上、ここ数日の朝日新聞記事より抜粋引用)


 それでは、私論に入ろう。

 今回、中国国家副主席と天皇陛下との会見が実施されたこと自体に関しては至って有意義なことと私論は捉えている。 中国国家副主席の習氏は現中国主席の最有力後継者と目されている程の大物であられるらしい。 中国側からも天皇との会見を熱望していたとの報道でもある。 隣国である中国との日中関係を将来展望するにあたって、せっかくの副主席の来日に際して天皇陛下との会見が実現した事は、日中双方にとって大いに意味のあることであろう。

 その一方で、日本国憲法は天皇を“国民の象徴”と定めている。 ポツダム宣言により「人民の意思により決定せられ」た政治形態を規定し、国民主権主義、基本的人権等を理念としている我が国の憲法である限り、天皇は「国政に対する権能を有しない」のである。 
 たとえ政権交代したとは言え、今尚現憲法が国家の最高規範である以上、たとえ新政権であろうと「天皇の権能」に関しての憲法の規定を遵守するべきなのだ。
 (元々“理系”で“お飾り首相”でしかない鳩山氏は、ここでは隅に置かせていただくとしても)小沢氏がおっしゃるところの「天皇も会見を望むはずだ」の”軽はずみ発言”には、法学を多少心得る一国民として呆れるばかりである。 そのような発言をしたいのであれば、我が国が法治国家である以上、新政権で憲法を十分に吟味して憲法改定を行った後にした方が無難なのではなかろうか?? この小沢氏の現職国会議員にしての現憲法を無視した無防備な発言こそが、「天皇の政治利用」に直結していると私も捉える。

 それでは、新政権は今回の会見実現のために如何なる対処をするべきだったのか?
 その答えは“1ヶ月ルール”を守ればよかっただけの話である。
 それが何故に守られなかったのかの報道が一切ないため、私はその辺の真相に関して未だに情報収集できないでいる。
 政権発足後3ヶ月もの期間が経過した今尚、政権幹部が実体の乏しい「国民の皆さんの期待」にばかりすがり続けている割には、未だに政権内部の実行力が伴わないのは何故なのか? 
(普天間問題にしても来年の5月まで先延ばしにしてまで、新政権は参院選対策を優先したいことが見え見えである。  私など対米関係に関して、弱国でしかない日本が米国をそんなに甘く見ていて済むのかとの危機感を、既に抱き始めているのだが…)

 それにしても、今回の宮内庁長官の発言に対する「辞任しろ!」との小沢氏の突拍子もない感情的な反論は、役人を執拗に叩き排除することにより、未だに何の力も持ち得ない新政権を無意味に正当化するがごとく“墓穴を掘った”だけなのではあるまいか? 
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